『吉本隆明という「共同幻想」』呉智英著(筑摩書房、'12.12.10)― アンチテーゼと虚仮威しの詩人、吉本隆明

呉智英は、この書の序章で、鹿島茂の著書から次のような引用を行っている。
吉本隆明の偉さというのは、ある一つの世代、具体的にいうと1960年から1970年までに青春を送った世代でないと実感できないということだよ。」
 この期間は、私自身にとって大学2年からの10年間である。呉自身は、もう少し範囲を広げて、「1960年頃から1980年代中頃までのおよそ四半世紀の間に青春期を送った人たちの間で」吉本は読まれていたと述べている。

 いずれにしても、1960年が吉本隆明と言う思想家の存在が時代の風景(大袈裟に言えば、時代精神)となった端緒であることは間違いない。吉本のことは措くとしても、この期間に青春を送った私のような人間は、この時代の日本の文化的・経済的・政治的、つまり日本というものの文明総体をひっくるめた視点から見て、日本の近代史上もっとも幸せな時代を生きた存在であったと言えよう。
 かくして私は、鹿島や呉の言っていることが実感として痛いほどよく分かる時代の人間の一人なのだ。

 ただし、吉本が初期の重要な詩を書いたのは、1952年以降であった。書肆ユリイカ版『吉本隆明詩集』が出版されたのも1958年である。私が詩を書くようになったのは、まさにこの頃(1958年)からであった。鹿島、呉が言う1960年とは、吉本が36歳でブントを支持して安保闘争の英雄となり、国会構内の演説などで機動隊に排除され、最後は逮捕されたりした時期で、文筆活動では、前年の『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』に続いて、『異端と正系』を刊行し、華々しい活躍で論壇の寵児となった時期でもあった。鹿島、呉の言うように、吉本が一気に論壇で認知されたのがこの時期であり、従って彼らが上述のように1960年から世代を区切るのも故なしとしない。

 少し脱線するが、この10年間は奇しくもジャズの最も豊饒な成果が次々と生まれた時代でもあった。ジョン・コルトレーンソニー・ロリンズマイルス・デイヴィスチャーリー・ミンガスマル・ウォルドロンエリック・ドルフィーセシル・テイラーetc.
 これらのプレイヤーを私たちはリアル・タイムで聴いてきたのだ。<スイングジャーナル誌>などで彼らが新しいアルバムを出したと知るや、押っ取り刀でジャズ喫茶へ駆けつけ、先を争ってリクエストをしたものだ。
 あるいは、これらのプレーヤーは続々と来日し、私たちも心躍らせて会場に足を運んだものである。来日時に私が聴いたのは、コルトレーン、ミンガス、ロリンズ、コールマン、ウォルドロンなどである。

 私はその頃詩を書いていたので、吉本隆明はまず詩人として私たちの前に巨人のごとく、神様のごとく聳え立ったのである。同時期に聳え立っていた詩人と言えば、鮎川信夫田村隆一黒田三郎清岡卓行谷川雁北川冬彦高野喜久雄北村太郎谷川俊太郎などなどだが、お分かりのように「荒地」に属していた詩人が多い。

 私の中では、吉本隆明は常に鮎川信夫と対となる存在であり続けた。下記は私の蔵書の中の「荒地」グループの編纂になる(1)『詩と詩論No.1』と(2)『詩と詩論No.2』及び(3)『荒地詩集1955』である。(1)は1953年(2)は1954年の出版であり、(2)に吉本は「ぼくが罪を忘れないうちに」という作品を掲載している。なお、(1)には鮎川信夫の「病院船日誌」の作品集(「遥かなるブイ」を含む6篇)、(2)には田村隆一の「四千の日と夜」というそれぞれの詩人にとって重要な作品が掲載された。
 (3)には、吉本の「少年期」と「きみの影を救うために」が載せられている。

 今、これらの目次を眺めていて、私が過去お目にかかった詩人、木原孝一氏、高野喜久雄氏のお名前を見つけて本当に懐かい。どちらもご自宅へお伺いし、木原氏とはワインを酌み交わし、また高野氏とはたまたま同郷のゆかりで、長時間熱のこもった興味深いお話を伺うことができた。木原氏の場合、確か、まだ大学生の頃、私たちが企画していたあるイベントに協力をお願いするため思潮社を訪れたさい、前社長小田久郎氏からご紹介いただいたと記憶している。鮎川信夫氏とはお目にかかったことはないが、私が出版したばかりの詩集を贈呈した際、礼状をいただいたことがあった。(その昔思潮社を初めて訪れたときは、神田の古い建物の2階で、詩学社などと同居していたのを思い出す。このときには既に飯田橋へ引越していた。)

 私が詩を書いて高校や大学の文芸誌や同人誌などに発表し始めたのは前述のように1958年頃からで、本格的には60年安保の自然成立後の虚脱状態を経た後に詩作に集中し始めたのであった。こうした期間は、大学を卒業し、最初の勤務先であった銀行を退職した直後、1969年ころまでのほぼ10年間であり、あとは気が向いた時、散発的に書くだけであった。従って、私は最初に鹿島茂が述べた、吉本の偉さを実感できるまさしくその世代の人間なのである。

 まず、私にとっての吉本隆明は徹頭徹尾詩人であった。詩以外の彼の作品で真剣に読み込んだのは『源実朝』(筑摩書房、日本詩人選12)くらいで、呉が本書のテーマとしている思想的な書を身を入れて読んだという記憶はない。確かに書棚の片隅には、『マチウ書試論』『異端と正系』『擬制の終焉』『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『カール・マルクス』『読書の方法』などが並んではいるが、散発的に読み散らしただけで、きちんと読み通したこともなく、思想的な面で何か影響を受けたということもなかった。例えば、河出書房版の『共同幻想論』を今開いてみると、重要な箇所にあちこち黄色いマーカーが引かれているが、それも3分の1ほどで終わっている。多分私の頭では理解が出来なくなって放り出したに違いない。

 なお、この『共同幻想論』の<序>で吉本は、自らの批評文を書いてきた方法として、社会主義リアリズム批判というような形で批判を展開してきたが、「結局、理論の発展途上の問題からいいますと、社会主義リアリズム論に対して、社会主義リアリズム論批判というようなアンチテーゼの形でやるということは、もうすでに不毛であるという自覚というか、意識があったわけです。」と述べている。しかし、後年の吉本の批評活動の蹉跌は、彼がむしろ世間のマジョリティとなっているさまざまな趨勢に対して強いアンチテーゼを措定するという(吉本の言う)不毛な方法論的な砦から出撃していったためではなかったのか(オウム真理教に関する発言など)。人は、口では地動説を唱えていても、日々の実生活は天体の運行をもとにした暦法のもとで暮らしているものである。
 これら一連の書籍は、要するに若き疑似インテリゲンツィアがポーズとして身にまとうための小道具、即ち自己満足のためのお仕着せの衣裳であり、今ではこの良き時代を象徴する遺跡的風物であるに過ぎない。
 
 下記は、私の所有する『吉本隆明詩集』(思潮社、'65.2.10)と、『鮎川信夫詩集』(荒地出版社、'55.11.30)、それと吉本の著書『源実朝』(筑摩書房、'73.3.15)である。

 吉本の詩集は、元々<書肆ユリイカ>で刊行されたものの復刻版で、一般書店で購入したもの、鮎川の詩集は20代の頃、渋谷の中村書店という古書店で買い求めたものだ。

 さて、呉智英のこの書も、前後して買い求めた小浜逸郎の『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)も、いずれも私の感覚からすれば、吉本隆明の買い被りそのものではあるが、それでも吉本にまつわる迷妄をひらくという効用はある。
 吉本隆明は、私にとっては思想家ではない、文学者である。それも詩人という特異な文学者である。呉も小浜も思想家としては虚像である吉本対して真摯な批判を加える。(これは揶揄的に言っているのだが)まるで、マルクスヘーゲルにでも対するかのように、まあそれはよしとしよう。そもそも詩人(文学者)には思考回路の異なる体系的な思想を厳密に組み立てることが極めて難しいので、いろいろとつけ込む隙は多いのだ。吉本隆明もまた勘違いをしていたのかも知れない。
 ただ、吉本ウィルスは厄介な感染症であり、若い頃にこの病気に罹るとなかなか完治することが困難である。吉本感染症に罹患した患者たちの病状については、小浜逸郎の『現代思想の困った人たち』(王国社、'98.2.25)を読むとよく分かる。現実に何の影響も与えることのない不毛な議論を延々と繰り広げている有様はただ空しさを覚えるだけだ。

 私は寡聞にして、偉大な詩人で偉大な思想書哲学書)を書いたという例をほとんど知らない。もしかして王陽明は珍しい例外かもしれない。また辛うじてハインリッヒ・ハイネが『ドイツ古典哲学の本質』を書いてこれに該当するようだが、それは違う。この本は実は文学の範疇に含まれるものなのである。岩波文庫では、この本を<哲学・教育>ではなく<ドイツ文学>に分類しているのは当然であり正しい。
 ただ、岩波文庫の翻訳者の伊東勉は、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』とこの書が姉妹関係にあるなどと述べて、社会主義革命へと繋がる意義を説いているが、ドイツ社会主義の専門家でもある伊東のこじつけ的な面があり、これも買い被りであろう。この本はあくまでも文学である。例えば次のような文章に接すれば納得できるであろう。このような表現はこの本に溢れていて、面白く読みとおすことができる。
シェリングの執権であったヘーゲルシェリングの頭から王冠をうばって、その頭を剃ってしまった。」岩波文庫、p.235)

 思うに、芸術的感性と学問的感性はそもそも素養を全く異にするのである。呉が批判している吉本隆明独特のレトリック(修辞)や用語・語彙は、学問の観点からみれば厳密さにおいて大いに問題があるが、詩と考えれば別にどうということもない。例えば<大衆の原像>や<関係の絶対性>などの吉本用語は詩作品の中に置かれていれば、別に違和感などはない。
 鶴見俊輔が指摘しているように、「詩においては、言葉と『もの』が区別されないことによって、詩独自の世界が成り立つ。」つまり、詩人にとっては言語表現と現実世界は同じようなもので、「詩は未開人の呪術とおなじように、力を発揮する」のだ。そして、「吉本が、詩人として、詩における言葉の魔力を、理論的散文の世界に、言語の約束上不当なしかたで持ち込んでいる・・」と述べる。
 その『もの』とは、理屈に支配されることのないイメージという『もの』と言ってもいいだろう。だが、私たちは言葉に整合性のある解釈を求めることが強迫観念となっているので、ちょっと解釈困難な言葉にぶつかると、どうしても居心地の悪さを感じてしまうのだ。
(上述の鶴見の見解は、小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社)のなかで教わった。引用した鶴見の文章は『鶴見俊輔著作集』第2巻による。なお、小熊の著作については、次回にもうすこし述べる。)

 どんな支離滅裂に見える言葉でも、詩のなかでは一つの確固とした『もの』であり、体系的に思想を開陳する書物の中の言葉のように首尾一貫を求める論理のくびきのもとに置かれることなく、無理に社会における約束事としての意味で解釈する必要もない。要は、イメージとして直接つかみ取ればすればいいだけである。
 例えば谷川雁の「大地の商人」なども同様だ。詩としてのコンテキストの中でイメージとして把握しなければ理解は出来ないだろう。
 このような現代詩が一人前の文学として日本の言の葉の世界から認知され、これからも生き続けていけるかどうかは別の問題である。

 日本の現代詩について極言れば、これほどあらゆる表現が無批判に許容される文学の分野はない。謂わばいい加減さの無涯の曠野である。それは、一にも二にも、現代詩を読む者がほとんどいないことに由来する。すなわち、詩を発表する主要な舞台の詩集も同人誌も大部分自費出版で、300〜500部しか発行されず、従って多くの読者の批判にさらされることもない。独りよがりの表現でも仲間うちの誰かが、手品のように何かもっともらしい解釈をひねり出してくれる。訳のわからない表現ほど、迂闊にも何か途轍もなく深遠な内容を含んでいるように想われ、大きな勘違いが起こる。たまには詩人で世に知られる人物も出てくることもあるが、それは詩そのものとは別の理由、大体はその人物の特異なキャラクターや経歴などに由来するのだ。

 そして、現代詩はその変幻自在にして際限のない自由を謳歌したあげく放縦を極め、その結果ますます読書人が敬遠するという悪循環に陥っていく。
 古来の日本の詩の形態である俳句も短歌も、文字数や季語・切れ字・歌枕といった確固とした約束事があり、何よりも伝統と、現代詩と異なり裾野の広い多数の書き手=読者がおり、普通の人々にも理解可能な詩形になっている。

 この度久しぶりに吉本の『固有時との対話』や『転位のための十篇』を初め、初期の代表的な詩篇を読み直してみた。『固有時』はもしかしてヘーゲルの『精神現象学』が頭にあったのかもしれない。いわば、吉本隆明精神現象学序論と言った趣がある。まあ、やや生硬であるとは言え、観念的な言葉のサーカスにもみずみずしさが感じられ、それなりに美しい。ただ、詩のみならず吉本の著作全般のレトリックや用語はヘーゲルマルクスの(翻訳本の)語法を見習ったものが多いように思えるが・・・。佐藤優は『読書の技法』(東洋経済、'12.8.9)の中で、ヘーゲルの『精神現象学』を評してドイツ観念論の病的な言語で書かれている」と言っているが、吉本の著作全般の難解な修辞・言語もこのひそみに倣(なら)ったのかも知れない。

 思潮社版『吉本隆明詩集』には、鮎川信夫の解説が載っているが、実に力が漲っっていて、吉本の詩集の解説としては無二のものである。『固有時』や『転位』の分析としては、この鮎川の解説の右に出るものはないであろう。これほど見事に晦渋・不可解な詩を立派な詩に見せてくれる友人をもったことを吉本はいくら感謝しても感謝しきれないはずだ。
 鮎川の解説は、懇切を極めていると同時に、肝心の急所はきちんと押さえている。あたかも鮎川の企図に沿って吉本が詩を書いているかのようだ。比喩的に言えば、鮎川が旋律を奏で、吉本がそれに詞をつけているといった逆立ちした図柄が浮かんでくる。(無論これは錯覚だが)
 ただ、鮎川の解説にも、吉本を語るときに必ず言及される「弁証法」という言葉が頻出するのはどんなものか。例えば「今日の詩人たちの中で、吉本くらい弁証法というものを体得している詩人はいない、と私は思う。」などと。

 吉本を語る場合、なぜか弁証法と結びつける傾向が見られる。一つには、鮎川がこの解説を書いた1957年の2年前の1955年に三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』(講談社ミリオンブックス)が出版され、大いに売れたという事情と無関係ではないだろう。多分鮎川も読んでいたに違いない。
 吉本=弁証法体得詩人という公式は、この鮎川の解説を嚆矢とするのではないだろうか。
 吉本は個人的にも三浦とは親しく、三浦の『日本語はどういう言語か』の1976年改訂新版(講談社学術文庫)の解説を引き受けたり、『言語美』を書き上げるにさいしてもこの本を大いに参考にしたものと思われる。
 ただし、三浦の『弁証法は・・』でいう弁証法は、マルクス主義弁証法そのものだが、本書は啓蒙的な解説書としては今でもいささかもその価値を減じていない、再読してあらためてそう感じた。感嘆するしかない。また、吉本と比べて三浦つとむの文章は明晰で、頻出する例え話も的確で理解しやすく、吉本の晦渋さとは一線を画しているのが、三浦と吉本との関係を考えると、不思議といえば不思議だ。

 鮎川がこの解説を書いた1957年(11月)は、吉本は詩のほかに『高村光太郎』を7月に上梓しているだけで、彼の主要な思想書はまだ書かれていない時期だ。ここまでに吉本が書いた文章は、「詩学」や「現代詩」などの詩誌に文学者の戦争責任に関するものを散発的に発表していただけで、鮎川は吉本の詩と文学者の戦争責任に関する僅かな文章だけを読んで弁証法を体得云々・・」と断定しているのである。鮎川はどのような意味で弁証法に言及しているのだろうか、もうひとつはっきり読みとれない。

 少し弁証法のおさらいをしてみたい。(正直に言うと、弁証法と言うものはまるで生きている”うなぎ”のようで、捕まえたと思った瞬間するりと手の間をすりぬけてしまい、いまだにちゃんと理解しているという気がしない。)
 ヘーゲル弁証法を語っているいる重要な書物の一つである『エンチクロペディー』の第1部の「論理学」は、岩波文庫では『小論理学』(松村一人訳)として刊行されているが、その(八一)で、個人的な倫理の領域における、という前提条件付きだが、弁証法の意識を「傲る者久しからず」とか「過ぎたるは及ばざるがごとし」という分かりやすい諺を持ち出して説明している。
 この節の冒頭で、ヘーゲル弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。」と定義している。これはつまり「有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対の物へ移っていくのである。」ということであり、この分かりやすい例として、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があるように見えるが、本当はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っている、ということを挙げている。
 つまり、生という状態が極限に達すると、もともと生が契機として抱えていた死という反対物に質的に転化するということを言っているのだ。

 ヘーゲル『大論理学』の訳者序言で武市健人は、弁証法を論ずるためには、何といってもヘーゲル論理学をしっかり研究しなければならない。それも『小論理学』にとどまらず、やはりこの『大論理学』を中心にして徹底的に勉強する必要がある。『小論理学』は一体にカテゴリーを簡潔に並べてあるきらいがあり、一応ヘーゲル論理学を知るには便利であっても、弁証法論理の精神をつかむためには、どうしても『大論理学』を学ばねばならないからである。」と述べていることを念頭に置こう。
 この『大論理学』はヘーゲル弁証法に関する中心の著作だが、(私はこの本をほとんどまともに読んではいないのでおこがましいが)印象的な言葉を例示してみよう。
「概念そのものが進展するための契機となるものは、概念が自分自身の中にもつところの、先に挙げた否定的なもの(das Negative)であって、これこそ真に弁証法的なもの(das wahrhaft Daialektische)にほかならない。」

 ”弁証法の古代の淵源”(ガダマー)をたどってみると、プラトンが『クラテュロス』でソクラテスの発言として挙げているヘラクレイトス「すべては去りつつあり、何ものも止まらない」という考え方がそもそもの元祖であるらしい。(『クラテュロス』402、また『テアイトス』160Dにおいてもホメロスヘラクレイトスなどの一族が「あたかも流れるもののごとく万物は動いているのだ」と唱えているという記述がある。)
 ただ、ヘーゲルが『精神現象学序論』において、「・・おそらく古代の弁証法の最大傑作たるプラトンの『パルメニデス』・・」と述べているのも気にかかる。
 また『大論理学』でも何個所かでパルメニデス弁証法に絡めて論じている。例えば、[プラトンパルメニデス篇における弁証法]という節を設けているほどだ。
 ただ、ここで古代ギリシャ弁証法の比較検証を行う余裕もないし、勉強も全く不十分なので、この辺で止めることにする。

 ところで、鮎川は、弁証法という言葉を持ち出す前に、ダイアレクティクという表現を使っているが、勿論これは同じ意味だ。鮎川は、『固有時』から『転位』への歩みを「それが深い内省によって自己形成された彼の思想の、社会的、道徳的コミットメントへの第一歩であったのは当然である。」として、「変化を前提としての内部的一貫性とでも言ったらよいであろうか。」と言い、これを時とともに、その特色を変更してゆくが、元の構造上の同一性は維持されるという、ダイアレクティクな発展と意味づけている。そして、吉本が『転位』における方法により、自己中心的状態から他者への愛憎の世界へ移行する変化を表現したものだと言う。つまりこれが、吉本の弁証法と言いたいのだろうが、この程度で弁証法体得詩人などと規定する必要はないだろう。世間にざらにある、というよりも誰にでもあることで、方法論として自覚しているかどうかは別にして、全ての人はそれぞれ脱皮を重ねながら弁証法的に生きており、鮎川ほどの知力と筆力をもってすれば、彼らをみな弁証法を体得した人間として売り出すことは十分可能であろう。
 こうしたことさらに「弁証法」などという有難い護符を奉って吉本を持ち上げるやり方が、彼を神がかり的な高みへと押し上げる一つの要因となっているのだ。

 (ところで、こんな風に考えてみたのだが・・・。)先に述べた<吉本=詩人>と言う公式を忘れて、あくまでも吉本は思想家であるという仮定で考えた場合、彼の羊腸を巡るような晦渋・難解な修辞法そのものが吉本哲学の核心であるとしか理解しようがない。呉がこの本で行ったように分かりやすくパラフレーズしてしまうと、吉本の余人の理解を拒絶する修辞法に封じられた呪法が氷のごとく解けてしまう。簡単に言えば、吉本流修辞法というお化けの正体は、何とただの<虚仮威し>だったのではないか。

 1960年代から積み上がった吉本隆明の膨大な知的所産は、少なくとも現在では全く読む必要のないものであり、逐一綿密な考証を行う必要のないものである。これまでの間、吉本について書かれた書籍はまさに汗牛充棟夥しいものがあるが、これも今では読む必要はないだろう。吉本の考えてきたこと、及び彼をめぐる多くの論考が日本という国の知的構造部分(そんなものがあるとすればの話だが)に何か積極的な寄与をしてきたというという形跡はなく、むしろ知識人(を僭称する人たち)の頭の中を無用に掻きまわしてきた分だけ罪が深い。あえて効用を言えば、無為徒食の知的ジレッタントたちの自尊心をくすぐる格好の遊び道具になったことと、彼らにいくばくかの飯の種を提供したくらいだ。

 人の一生は短い。無駄な本を読んで無為に日々を過ごすのは、時間と言う天からの贈り物をどぶに捨てるのと同じ行為だ。
 かくいうこのブログも全く無駄なものだが、まあ棺には覆いが必要であるし、せめて覆い布の一切れにでもなればと思った次第。何卒ご寛恕を。