平成の書見台<Takao Kurataの読書日記>

2013-04-26

叙述ミステリを読む−「模倣の殺意」「殺戮にいたる病」「ロートレック荘」

23:00

f:id:inochinooto:20130423204558j:image:left本屋で平積みされていた中町信の「模倣の殺意」を手にとって、何となく購入し、帰宅して早速読み始め、一気に読了した。
 解説で濱中利信は、この作品の発行年である1972年という日付に着目し、「本書はこのパターンの叙述トリックを用いた初の国内ミステリ」と述べているが、1980年以降、 いわゆる叙述ミステリが全盛となっていく、いわばこうした流れの嚆矢となった作品なのだろう。現在、日本で本格物(と言っても、綾辻行人や法月倫太郎や我孫子武丸などの新本格ミステリが主流を占める)と言えば“叙述トリック”が全盛となってしまっている。叙述トリックは私見では一種の邪道だが、現在の日本のミステリー界は邪道によって主流が形成されているように見える。

 叙述ミステリと言えば、無論アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」が代表格であり、高校時代に初めてこの作品を読んだ時の衝撃は忘れられない。高校時代といえば昭和30年代前半で随分古い話であるが、3年半ほど前に1ケ月ほど入院した時思いついて再読してみた。しかし結果が分ってしまっていては、もうその当時の感動は得られなかった。
 あまりにもアクロバチックな叙述ミステリは再読で興味は半減する。アラン・ポーやコナン・ドイルはこれとは違う、何度読んでも、結果が分かっていても面白さは減じない。現在の日本のミステリは、その開祖が築いた道から遥かに遠い脇道へそれてしまっているようだ。

(以下の記述は完全なネタバレを含んでいます。これらの作品を未読の方は読まないで下さい。) 

 中町の作品を読んで、叙述トリック、すなわち文章上の仕掛けで読者を欺くという手法は、漠然と、フェアじゃないなという印象をもった。
 しかしこの作品の展開はとてもスムースでサクサク読める。著名な作家(故人)の娘で出版社に勤務する中田秋子とルポライターの津久井伸助という二人が、全く別々にある新進作家の死の真相の調査を進めるというきっちりとした構成になっている。二人が直接クロスすることはないが、読者は章ごとに交互に進められていく二人の調査の情報を手にし、真相について推理しながら読み進めることになる。
 そして、最後に全く予想もしない結末に遭遇し、少なからず唖然とすることになった。トリックはいかにも不自然だが、それでも作品全体の仕上がりはまずまずで、殺人事件を扱っているにも関わらず、読後感は比較的爽やかである。解説者が指摘するように、本作品がこのパターン(後述)の叙述トリックを用いた日本で最初の作品とすれば、トリックのアンフェアさも、まあ許容の範囲と言えよう。

f:id:inochinooto:20130423204638j:image:left 続いて読んだのは、叙述ミステリの代表作との評価の高い我孫子武丸の「殺戮にいたる病」(1992年刊)である。この作品のタイトルは、題名から分るように、キルケゴールの「死に至る病」のもじりで、これは作品冒頭にキルケゴールの言葉を引用していることからも分る。
 まあ嗜好もあるだろうが、犯人の行う猟奇的な殺人や異常性欲の描写は、私にとっては苦痛以外の何ものでもなかった。作品全体が品性下劣という印象がぬぐえない。いわゆるエログロというようなものは、古くは横溝正史などにもみられるが、栗本薫の言うように、「そこには一種春風駘蕩とした風情」があった。(「日本探偵小説全集9、横溝正史集」の解説)そんな趣はこの作品では望むべくもない。
 この作品の叙述トリックは、中町の作品に比べても不自然で、無理を重ねて、読者を驚かすために最後の大仕掛けに一点勝負を賭けた愚作という感じがする。
 先ず“エピローグ”が冒頭に置かれるという変わった趣向で始まる。しかも、そこに描かれる「無惨な死体」が一体誰の死体か明らかでない。この死体がこの作品のトリックのポイントだろうとはすぐ察しがつく。
 ネタバレにかまわず言えば、蒲生信一(犯人の蒲生稔の長男)の隠し方がフェアでない。また、青山のホテルに突然登場する背景が不明なままである。野球で言えば“隠し玉”(ひっかけ)である。
 解説で笠井潔は「現在までのところ、我孫子武丸の最高傑作である。」と絶賛しているが、その褒め言葉は私にはなにやら寒々しく感じられる。

 映画作品を見ると、精神異常者が犯人であるというストーリーは、古くはヒッチコック監督の<サイコ>(’60年)があり、これには実在のエド・ゲインという犯罪者がモデルで、ロバート・ブロックの原作に基づいている。以降は、ゾディアック事件の犯人をモデルにしたドン・シーゲル監督の<ダーティー・ハリー>(’71年)、ネクタイ絞殺魔を登場させるヒッチコックの<フレンジー>(’72年)、やはりエド・ゲインをモデルにしたトマス・ハリスの小説によるジョナサン・デミ監督の<羊たちの沈黙>(’91年)でピークを迎える。
 異常者を犯人とする作品はある意味では苦労が少ない。犯人の異常さを際立たせることに専念すればよく、くだくだしく動機を説明する面倒はないからだ。

f:id:inochinooto:20130423211811j:image:left 続いて、筒井康隆の「ロートレック荘」(1990年刊)を読む。さすがに巨匠の作品、人物描写は達者で、登場人物が生き生きとして、キャラクターもそれぞれ個性的に描き分けられている。トリックは前二作品に比べかなりフェアで、随所にヒントが散りばめられていて、中町作品のように突然に鏡像を見るような第二の主人公が現れるということはない。トリックにもあまり無理は感じない。脊椎の怪我で矮躯となったはずの主人公が、ロートレック荘で美女たちにこよなく愛されるというくだりは、読んでいてこれは変だと思ったものだ。美女でも男の評価を姿かたちで判断しない知性の持ち主もいるものかと感心したが、同時に漠然とした違和感は否めなかった。結果、見事に背負い投げを喰らってしまった。
 ただし、人物に関する叙述トリックは、なにがしか中町作品にヒントを得たような感じがする。(事実がどうかは分らないが。)
 
 これまで読んだ作品は、同じ名前の全くの別人同士、親子同士、従兄弟同士と異なってはいるが、作中にはすべて主要人物の代替的存在が潜んでいて、こうした存在そのものがトリックとなっている。私はこれを<鏡像トリック>とでも名づけよう。鏡像を見るような人物を最後まで隠しておいて、最後の種明かしの時にこの鏡像的人物を突然登場させ、読者を大いに驚かせるという手法だ。中町作品の解説者が述べた”このパターン”とはこうした<鏡像トリック>のことを指しているのではないだろうか。
 この三作はほぼ同じパターンであり、コンテクストを操作してトリックが見破れれないような工夫があるが、無論巧拙はある。筒井作品のように比較的フェアな作りのほうが読後感は爽やかである。

 余談だが、本の帯などに「身も凍るラストシーン」「ミステリ史上最大級の、驚愕の結末」「誰も予期しえない衝撃の結末」「驚天動地の結末」「驚愕と感動の最終章」(これらはみな私の手元にある本からの引用である)などのキャッチコピーを麗々しく掲げて読者の関心を煽り立てようとするのは、ほとんどがこの手のトリックを用いた新本格ミステリだ。

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