叙述ミステリを読む(2)−「十角館の殺人」

綾辻行人の「十角館の殺人」。アマゾンのカスタマー・レビューで多くの人々が絶賛していることもあって、あまり辛口の批評めいたことを言うのは野暮なのかも知れない。人々に何がしか楽しみを提供することはエンターテインメントの大切な役目で、それはそれで十分に価値のあることなのだ。

 これで終わっては仕方ないので、少し感想を述べてみよう。この<新装改訂版>の帯には、週刊文春臨時増刊『東西ミステリーベスト100』日本編<第8位>」と大々的な宣伝文句が掲げてあり、また「”新本格”の原点。永遠に語り継がれる一作」と重ねて持ち上げていて、この世界ではそれなりにオーソライズされた作品らしいので、一言二言述べることは許されるだろう。

 まず、作品全体に妙に薄いという感が否めず、現実感覚に欠けるというのが最初に受けた印象だ。物語の核心部分には、その作家が身につけた人間と社会に対する固有の洞察力が反映されものだが、その洞察力にさして見るべきものがないことをこの作品は証明している。
 また、ミステリも小説である以上は、文章もそれなりのレベルが求められるだろうに、お定まりの慣用句が頻出して読みながら随所で躓き、そして辟易する。例えば、「黴の生えた議論」「おあつらえ向きの快晴」「漁師が野太い声を張り上げた」「すらりと鼻筋の通った」「しなやかな指の先」「つつがなく暮れていった」「濃い眉を八の字に寄せた」「白眼をぎろりと剥きながら」など。こんな表現は今時の高校生でも使用しないだろう。要は著者の思考回路がそのまま文章として表に出ているのだ、すなわち”凡庸”という思考回路が。

 購入に際して読者が参考にするであろう裏表紙の解説文では「ミステリ史上最大級の、驚愕の結末が読者を待ち受ける!」などと煽り立てているが、ことわざを用いて言えば”羊頭を掲げて狗肉を売る”(「無門関」第六則)のたぐいだろう。
 ではついでに、同じ「無門関」から、第二十五則を引用してみよう。この作品の本質を言い当てているように思えるからだ。
「白日青天 夢中説夢 捏怪捏怪 誑謼一衆」(カンカン照りの昼下がり、夢を見ながら夢語る。そんな話は奇怪千万、大衆騙しもいいところ。:西村恵信訳)

(以下の文章にはネタバレが含まれます。)

 ここで言う「驚愕の結末」とは、第10章の最後の一行、守須恭一の発した言葉のことを指すのだろう。つまり本土に残っている彼が警察官にK**大学ミステリ研究会で用いる自らのニックネームを告げることで、角島での連続殺人の全体像が一挙に明らかになるからだ。そして以降の章で、テレビの2時間ドラマの常套手段である犯人の犯行動機や犯行手法の回想(告白)が行われる。まあ、動機と言っても、このような大量殺戮を敢行する動機としては、いかにも根拠薄弱で不自然だが。

 また叙述ミステリは概ね一人称で書き進めるのが常道だが、この作品は犯人の犯行告白以外は三人称で書かれている。これは極めて異色と言えるだろう。三人称という客観的視点(神の視点)で叙述することになれば、起こった事実は必要な限りすべて記述しなければならない。しかるに本作品のように、犯人が本土での某と角島での某という同一人二役を担う行動(トリック)について、トリックを仄めかす肝心な部分を隠すとすれば、客観的叙述という要請と完全に矛盾することになる。無論一人称であれば、ましてや犯人の告白であれば、犯人に都合の悪い事実をある程度伏せることは許されるであろう。

 ちなみに、クリスティーアクロイド殺しも、一人称で書かれている。それでも、ヴァン・ダインの二十則(1928年)には違背してしまう。ミステリの基本指針としてのこの二十則は必ずしも絶対的なものではないが、推理小説のフェアプレイを担保する法則としてはそれなりに注意を払う必要はあるだろう。ヴァン・ダインは叙述ミステリとしてのアクロイド殺しを下記2、の法則に違背しているとして非難したが、私見ではアクロイド殺しは、そうした指摘にもかかわらず、一人称を用いることで辛うじてフェアーさを保っていると思う。

 この指針の第1番目が「1、事件の謎を解く手掛かりは、すべて明白に記述されていなくてはならない。」ということである。記述が第三人称を用いた客観的なものであれば、当然この法則が生きてくるのだ。
 そしてヴァン・ダインが叙述ミステリを批判する根拠としたのが「2、作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンに欠けるような記述をしてはいけない。」である。また、ロナルド・ノックスは同じ1928年に探偵小説十戒を発表しているが、その中で「8、探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない。」と述べている。
 
 本書のように、客観描写(すなわち神の眼の視点での叙述)という外見にも拘わらず、ひそかに作者の意を体して都合の悪い事実を隠して叙述するという方法は、すでに論理的には破綻している。神の眼からは全てを明らかにしなければならない筈だからだ。その矛盾が、本作品の叙述ミステリとしての論理空間の致命的な欠陥となっている。

 最後にもう一つだけ言えば、プロローグとエピローグで出てくる「透明な薄緑色の、小さなガラス壜」という小道具が作者が思うほど活きていないことだ。小壜に手紙を入れて海に投じるなどという話は、うんざりするほど聞き飽きたストーリーではないのか。その手紙とは、この作品では”実行を予定している計画の内容を告白した手紙”である。多くの読者はこの物語の結末の状況では、硝子の小壜に何の感懐も抱かないであろう。
 本来は、このエピローグで、読者はもう一段の”どんでん返し”を期待した筈である。しかし、それはなく、何か意味ありげに硝子の小壜を拾った犯人が「審判、か」と呟いてそれを子供の手を介して登場人物の一人に渡そうとする。ここでの犯人の心の動きは不可解である。作者の企みは分らないでもないが、所詮硝子の小壜という小道具を活かすために話を詰まらなくしているとしか思えない。