記事:ダレス訪日に身構える吉田

ダレス訪日に身構える吉田 講和発効まで(43)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員伊奈久喜
2013/11/16 7:00 日経新聞電子版

ダレスはトルーマンの後のアイゼンハワー政権で国務長官になる人物である。大物特使の訪日に日本の朝野は身構えた。1951年11月29日付日経朝刊は一面トップに「ダレス顧問訪日の目的 外務・大蔵両省の見解」を掲載した。

■隠された中国問題

1951年
12月24日 吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)
1952年
1月18日 韓国、李承晩ラインを設定
2月15日 第1次日韓正式会談始まる
2月28日 日米行政協定に署名
4月28日 対日講和条約日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効)
1953年
1月20日 アイゼンハワー米大統領に就任。ダレスが国務長官
10月2日 池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談
12月24日 奄美群島返還の日米協定署名(25日発効)

 見出しを拾ってみよう。

 全体をカバーする見出しは「防衛問題を討議」「行政協定の土台確立」であり、「外務省筋の見解」には「自衛力は漸増へ」とあり、「大蔵省筋の見解」には「防衛力充実の線が問題」とある。

 これらの見出しを眺めれば、ダレス訪日の目的として日本政府が想定したのが、再軍備への圧力であり、財政当局がそれに伴う負担増大を心配していたのがわかる。見出しのうち「防衛力充実の線が問題」はこれだけでは意味がわからないが、要するにダレスが求めるであろう「防衛力充実」が具体的にどのくらいの負担を伴うものなのかが問題といった意味である。

 大蔵省の見解には裏も表もないが、その後の展開を知った目で眺めれば、外務省の見解は、嘘は言っていないが、本当のことも言っていないようにみえる。取材した記者は、いまひとつの突っ込みが足りなかった。

 西村熊雄条約局長が書き残した文書によれば、ダレス訪日の目的は「主として経済上の理由からくる日本の中共接近に対する危惧」とワシントンでは語られていた。この物語でもとりあげた日経社説「中共貿易の将来」も触れているように、日本の経済界には中国に対する期待があった。

 しかしワシントンの心配は日本の経済界の空気に対するものだけではなかった。吉田茂首相の何度かの国会答弁にも問題ありとワシントンでは受け取られていた。

 例えば吉田は1951年10月29日の参院条約特別委員会で、台北の国民政府を「地方政権」扱いし、台北政府と北京政府のいずれをとるかは「現実外交の上から自主的に決定する」とし、「中国を通商の面から考慮しており、上海に在外事務所を開設したい」と語ったことがある。その場にいた西村をびっくりさせた。

 一方で日本政府は講和条約と安保条約が国会を通過する前日の11月17日には台北に在外事務所を設置している。外交史家の井上正也氏も指摘しているように、西村がかかわった文書には、当時の外務省条約局が北京政府との講和条約を結ぶという選択肢を除外していたのである。

■吉田は煙幕、ダレスは心配

 吉田発言は多分に煙幕だったのだろう。ダレス訪日は米国が国府との講和条約を選ぶよう圧力をかけた場とする説が多々あるが、実は吉田の煙幕にダレスが踊らされたのかもしれない。

 そのプロセスは、これからも触れていくが、ワシントンを出発する前のダレスは、この点を心配していた。

だからダレスは11月29日、国務省で在米日本人記者団と会見し、次の2点を述べた。

 1、今回の訪日の政治的目的は講和条約日米安保条約を米議会両院に上程するに際し、必要な情報を集めることである。

 2、日米安保条約に基づく行政協定について日本政府と交渉する任務はアリソン公使が帯びている。私はこれに関し、責任はない。

後に自民党副総裁などを歴任した大野伴睦。典型的な党人派だった。
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後に自民党副総裁などを歴任した大野伴睦。典型的な党人派だった。

 中国問題は巧妙に隠された。しいて言えば、条約を議会に上程する際の「必要な情報」に入るのだろう。吉田・ダレスの駆け引きはこれからも折に触れ書いていくが、ここで触れておかねばならないのは、国内政局である。

■臆測しきり吉田・大野の白金会談

 講和条約、安保条約の批准を終え、吉田内閣は大きな仕事を終えた。

 病気で倒れたが、順調に回復しつつあった鳩山一郎はポスト吉田に向け、意欲をたぎらせていた。そんななかで吉田は28日、自由党顧問の大野伴睦氏と1時間半会談した。

 大野が吉田を午後8時という早くない時間に、白金の外相官邸に訪ねたのである。会談のしつらえからして大きな政治的事件を思わせる。

 当然ながら中身は、はっきりはわからない。日経は「この日の両氏の会談では鳩山氏のその後の状況などが語られ、さらに国会特に衆議院の情勢、党情、講和後の諸問題などにも話が進んだ模様である」と推測した。

 面白いのは次の解説的部分である。

 「大野氏はさる9月23日、箱根小涌谷で首相と会談するまでは広川総務会長とのあつれきなども絡んで党務から遠ざかり、首相ともうまくいかなかったが、26日の会談以来、両者の関係は旧に戻り、党顧問会議の開催など積極的に党務に参画するようになっていた。特に最近鳩山一郎氏の病気回復も順調で講和発効後の解散、吉田、鳩山間の政権授受などの諸問題がボツボツ話題にのぼっている際でもあり、吉田、大野両氏の接近は特に注目されていたところである」

 典型的な党人派の大野と官僚派の吉田との関係がよかったとは思いにくい。しかし利害が一致すれば、手を結ぶのが政治の世界である。

 猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」は大野の言葉とされる。政治駅と騒がれた東海道新幹線岐阜羽島駅には大野夫妻の銅像が建つ。

 外交を進めるには泥臭い権力ゲームに勝つのが前提である。どこの国でも大差ない。