ジレンマ

『ジレンマ』



「……ぅえっくしゅん」
 中途半端にくしゃみを我慢していたら妙な感じの音になった。
 隣の席の小川恵が心配そうな顔でぼくをのぞきこむ。
 むずむずする鼻を左手で押さえ、空いた手で大丈夫と手を振った。
 世界史の北岡はこの小さな騒動には気がつかなかったようだ。黒板に向かって黙々とペルシア帝国の版図の変遷を板書している。もっとも北岡は黒板と教科書に向かってしか話をしないから、教室内はしたい放題でまともに授業を聞いている奴などいない。
 どうも風邪をひいたらしい。原因はわかっている。まだ春もはじめだというのに川につかって格闘を演じたからだ。
 昨夜のタガメ怪人は強敵だった。外骨格は硬く、鋭い前肢の刃と口吻にボディスーツもところどころ切り裂かれた。
 体を覆う攻性フィールドを右足の一点に集中した捨て身の打撃でなんとか辛勝したのだ。おかげで真空にも炎にも耐えられるはずのスーツも一時的に機能を停止し、ほとんど裸同然で川から上がってくるはめになった。
「熱があるなら保健室にいったら?」
 小声で恵が声をかけてくる。昨夜の戦いを思い起こして頭を抱えているぼくの姿を、熱があるのだと思ったらしい。
 ひたいに手を当ててみると熱があるのも確かだ。ぼくは恵の提案にのることにした。
「先生! 菱くんが熱があるようなので保健室に連れて行きます」
 こちらを見てうっそりとうなづく北岡を確認もせずに、恵はぼくの手をひいて立ち上がった。そのまま教室の後ろの扉から廊下に出る。
 恵がぼくに気があるのはわかっている。クラスメートにももはや公認のカップルだと思われているフシがある。しかしぼくは恵の気持ちに応えることはできない。
 この地での作戦行動が終了したら、ぼくはまた新しい土地に赴任しなければならない。その際にはぼくに深く関わった人間の記憶は消去処理されることになる。
 はじめから記憶に残らないことになっている思い出などむなしいだけだ。数度の作戦行動を経験してぼくはそのことを深く学んだ。
 早口でぼくを元気づけるために語りかける恵の目を見ながら、ぼくはつないだ右手の力を加減した。すべすべとして華奢なこの手をしっかりつかむことができたら、どんなに幸せだろうかと考えながら。