雨の合間に

『雨の合間に』



 小さな水滴が杏子(きょうこ)の鼻にぽつんとあたった。
 低く雲のたれこめた空を見て、共用ガレージから出してきたばかりの自転車をしまい、傘を差して歩いていこうかとちらと思う。
 ままよ、とペダルを踏んだのは今朝の天気予報が午後からは晴れると言っていたからだ。
 近所の郵便局まで行って振込みが一つ。それから夫の切らしていたタバコをワンカートン。
 ときおり体に当たる雨粒が上着を通過して、肌を湿らせていく様に感じる。こんな小雨のときは自転車のスピードを上げるのと下げるのとどっちが雨に当たらずにすむのだろうとぼんやり考えた。
 下町情緒に富むと言えば聞こえはいいが、やたらと川と橋の多いこの土地に杏子はまだ馴染めないでいた。
 結婚して四年、引越しを提案してきたのは夫の克也だ。今の住居は夫の生家にも近く、賃貸マンションも知人の口利きで良い物件に入ることができた。
 しかし、同じ都内とはいえ新宿まで快速電車で一時間近くかかるようなニュータウンで生まれ育った杏子にとって、時に潮の香りが海からさかのぼるこの土地の違和感は三ヶ月たっても拭えない。どことなくよそ者扱いされているような気がした。
 気のせいだと克也は言うが、この町の雰囲気にどうしても踏み込んでいけない自分を杏子は感じる。
 いつも職員が四名しかいない小さな郵便局で用を済ませ、折り返し帰り道の半ばにあるタバコ屋に寄る。コンビニではなくて「タバコ屋」という商売がまだ続いていることも杏子には驚きだった。
「タバコ屋は本当に通りの角にあるのね」と、夫とはじめてこの道を通ったときに話したのを思い出す。角のタバコ屋まで、なんて二むかし前のドラマの台詞のようだといつもくっくっ笑ってしまう。
 自販機の横に自転車を停めて、すいませんとカウンターに声をかける。商売の大半は自動販売機で済んでしまうので、この店を経営する老夫婦がカウンターに座っていることは少ない。
 返事が無いので大きな声を出そうと息を吸った瞬間、店先に張り出したビニール製のひさしにボツボツと重いものが当たる音がした。
 途端に耳鳴りのようなザーッという音。周囲の物音がホワイトノイズによって掻き消され、つかの間の無音状態に投げ込まれる。
 呆然と背後を振り返るとまさに滝のような雨だ。地面に当たって跳ね返る雨のしぶきで一面霞がかって見える。
「はぁ」とわれ知らず気の抜けるため息がついて出た。雨宿りのできる店先にいたのは不幸中の幸いだった。
 取り残された気分で頭を振った拍子に、視界の隅に鮮やかな黄色が飛び込んだ。黄色い雨ガッパ姿の子供が自販機の前に立っていた。まるで突然現れたかのようだった。
 杏子が顔を向けるとその子も振り向いた。口元は機嫌良さそうに微笑んでいるが、どこか無表情なあどけない目。幼稚園に入ったばかりくらいだろうか。男の子のわりに整った顔立ちで、吸い込まれそうな黒い瞳をしている。
 杏子はなにか声をかけようと口を開いたが、なにも言葉が浮かばなかった。男の子に向かってぎこちなく微笑むこともできず、互いに見つめあっていたのは数秒だったろうか。
 不意に男の子が小さな口でなにか声に出した。ニッとほほえむとためらうことなく土砂降りの中男の子は駆け出し、すぐに通りの角に消えた。
「またね」と男の子は言ったように杏子には聞こえた。
「またね」と杏子も声に出してみた。言葉と一緒にこれまで肺の奥底にわだかまっていた息詰まりがポンと取れたような気がした。
 通り雨だったらしく、雨足は急速に弱まり始めていた。
 タバコを買うついでに、帰りの傘を借りるお願いをしてみようかと考えている自分に杏子自身驚いた。
 もう少し呼吸を楽にして、この町とつきあっていけそうな気がした。