2007-05-25
■「死刑反対」なのはいいけど目的と手段を間違ってはいけない。

痛いニュース(ノ∀`) : 光市母子殺害事件 弁護側「死姦は蘇生行為」と主張 - ライブドアブログ
光市母子殺害事件の差し戻し控訴審に関して。
死刑廃止の是非に関しては、基本的にbuyobuyoさんのエントリに賛同する。僕は死刑制度には反対する。
また、遺族である本村氏の無念は僕が想像もできないものだと思うが、だからと言って彼の主張をそのまま受け入れることはできない。
例えば、『事件から8年。いち早く裁判を終結し、遺族が新しい人生を取り戻せるようにしてほしい』という訴えは感情論としては理解はできるが、裁判の公平性を考えた場合、いたずらに結審を急かすこともできないだろう。ここ最近、警察のずさんな捜査による冤罪被害の事例が複数報道されているが、そういった被害を未然に防ぐという意味でも、司法における審理は慎重に行うべきだと思う。
また、『もし本気で更生というのなら、弁護士は裁判終了後、まっとうな人間として罪を犯さないよう、被告を見守っていく覚悟があるのか』と訴えているが、『犯罪者の更生に責を負うのは彼を弁護した者ではない』ということは自明のことだと思う。その責を負うのは彼を生み出した社会全体であり、それを構成する我々ひとりひとりが平等に(リスクやコストという形で)背負うものである。どのような犯罪者の弁護をしたとしても、弁護人の主張に嘘偽りがない限りはその結果の責任を問うことはできない。でなければ、一体誰が犯罪者の弁護を引き受けるというのだろうか。
酷な言い方だが、裁判は「被害者」の為だけにあるのではない。そこを見誤ると司法そのものが機能しなくなってしまうだろう。
にしてもだ。
いくらなんでも、今回の弁護側の主張はちょっと酷過ぎると思う。
もちろん、僕は事件の事実関係を全て知り得る立場にはいないから、あくまで現在報道されている情報をベースに判断せざるを得ないのだけれど、このまるで「死刑にならなければなんでもいい」というような主張には正直吐き気を覚える。これは「死刑廃止論」以前の「司法の存在価値」そのものを投げ捨てる行為ではないのか。
僕が何故死刑制度に反対かと言うと、細かい部分を除いて言えば、それが自分にとって、他者にとって、社会にとって「不利益になる」と考えているからだ。これは僕の個人的な良心の部分であると同時に、メリット/デメリットを考えた場合の選択である。もちろん、この部分に関する議論はあって然るべきだと思う。
しかしだ。この弁護団の主張は明らかに正当性を欠いた、詭弁以下のレベルであることは明白だろう。このような主張を聞いた後では、本村氏が会見であのような発言をすることも納得できる。
もちろん、弁護側は被告人の権利を尊重する為に、最大限の努力をするべきだというのは認める。しかしこれはあまりに幼稚すぎるのではないか。もっと他に彼の権利を主張する方法はなかったのだろうか。弁護士はあくまで「プロフェッショナル」であるべきだ。しかしそれは「司法の場において」であり、自身の思想信条を貫く為に「司法制度」そのものを軽視するのでは、彼らの存在価値を認めることはできない。
僕は「試験反対」という立場だからこそ、今回の弁護団の主張には強く反対する。というか、全ての死刑廃止論者はこのような行いを絶対に容認してはならないと思う。
なぜならば、大半の死刑廃止論者が求めているのは、あくまで「死刑」という制度の廃止(及び見直し)であって、司法制度そのものを破棄することでも、犯罪者の罪を軽視することでもないからだ。あくまで、罪を償う行為としての「死刑」の妥当性を問うべきであって、罪そのものと、それによる責任を見逃すことはできない。
個人的な考えで言うと、現在把握できる情報の限りで判断するならば、母親と幼い娘を殺害した彼の行為は十分に「死刑」の適応を検討するに足るものだと思う。彼の罪は決して軽くない。だからこそ、木村氏の言う通り、「真実を明らかにして」司法の場に臨むべきではないのか。
今回のような「死刑廃止弁護団」の活動は、死刑制度を見直すきっかけになるどころか、死刑廃止論者にとっても、司法関係者にとっても、そして被害者や遺族、加害者にとっても害悪しかもたらさないだろう。
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- 352 http://d.hatena.ne.jp/
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- 107 http://reader.livedoor.com/reader/
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- 81 http://d.hatena.ne.jp/hoven/

「事件の事実関係を全て知り得る立場にはいない」にも関わらず、「この弁護団の主張は明らかに正当性を欠いた、詭弁以下のレベルであることは明白だろう」と言えるのはどうしてでしょうか? 母子の死亡にいたる経緯についての弁護士の主張が100%絶対に間違っているということは既に証明されているのでしょうか?
報道および司法におけるやりとりから
自分なりに判断できるはずでは?
社会では誰もがそうしているはず。
たとえば、今までの裁判でまったくしなかったような
まったく新しい珍奇な主張を見れば
それは詭弁であろうと判断できる。
もちろん司法も報道も間違いを起こしうる
100%なんてあるわけない。
だから「取り返しのつかない死刑という量刑には反対」
という立場もありうるでしょう。
しかし、それは司法の判断を軽視することとは別です。
「100%間違っているとはいえないから、詭弁とはいえない」
というのはおかしな主張ではないでしょうか
toledさんが突っ込んでますが、仮に弁護側の主張が正しいとしたら、私なんかは「そんな悲しい人間だったのね、慈悲をもって死なせよう」と思ってしまいます。
普通の人は、心情として社会的合意を得られない理由や主張がまかり通るのは嫌なんですよね。だから今回の弁護側の主張は、真っ先に「死刑逃れのための詭弁かよ」と思われるし、実際、真実だとしても「うわ、コイツ(被告)キモい」となるわけですしね。
>メリット/デメリットを考えた場合の選択である。
事はすごく重要な事だと私も思います。
しかし私の場合結論が死刑廃止はデメリットが大きいとなります。
この結論の相違はきっと私が見落としている部分や要素の評価の仕方の差に
起因すると思います。
大変興味深いのでいつの日かメリット/デメリットをあげてご自身の評価を添えた日記を書いてください。期待しています。
公共物たる社会における「道徳」や「倫理」を明文化したものが司法であるのだと思います。司法制度とは、過ちを犯しやすい人間であるが故に作られた制度にすぎません。
死刑制度にしても、司法が被害者の復讐心の代行をするという側面もあるのです。もし僕が被害者の立場で、加害者が死刑を免れるようなことがあれば、躊躇なく殺しにいくでしょう。本村さんがそうしたいのを、どのような気持ちで堪えているのか?その同情もなしに司法制度など語るべきではない。人間の抜け落ちた司法など、ただの空想であるのだと思います。
罪というのは残酷な概念です。犯したその日から消えることはありません。ましてや被害者が許していないのです。我々の住む日本は、ゴッドに許しを請うて生きる社会ではありません。
人権などとはよく言ったもの。生まれながらに権利があるとすることなど、ただの欺瞞であると僕は思います。ましてや人間の尊厳を、醜い欲望の為に踏みにじった犯人などに、人間の権利などと言う資格があるとは思いません。
僕は本村さんを完全に支持する。彼がこれから生きる人生を、思い出されるその日のことを、想像してしまうその光景を思えば・・・・僕は損得を語ろうなどとは思えません。
エントリの趣旨に、心底同意です。
>nixさんの意見にも同意!
同じ立ち位置です。(`・ω・´)
>toledさん
どうもです。えっとですね、下で「横からすみません」さんが回答していることに特に付け加えることはないんですが、今までこの裁判等の情報を追いかけてきた中で今回の主張の変換は(弁護士が変わったとはいえ)これまでのものと整合性を欠くように思います。
とはいえ、ちょっと表現が過剰でしたね。以後自重します。
>横からすみませんさん
代わりにご回答くださり、有難うございます。
僕は死刑制度には反対ですが尊厳死には賛成なんですけどね。
今回の件は「死刑廃止」云々を除いても、弁護側の対応はどうにも腑に落ちない点ばかりです。
>nixさん
「イデオロギー」の問題として死刑制度を語っても多分合意は得られないし問題がややこしくなるだけだと思います。
メリット/デメリットと言うとものすごく僕自身とても微妙な判断をせざるを得ないのですが、一点挙げるならば『社会の許容性』という部分になるかと思います。
この部分に関してはまたいつか。
司法が『「道徳」や「倫理」を明文化したもの』に過ぎないならば、僕はもっとシンプルに死刑制度に反対しますよ。「他者が設定した道徳や倫理で殺されたくない」とね。
感情や倫理のみで「法」を語っても近代では意味をなさないと思います。他者の「感情」で罪が確定するのって不条理だと思いませんか?僕は嫌ですけど。
刑罰と許しは別物ですよね。また、観念的な意味での「罪」と刑罰もまた別に考える必要があると思います。
>tasoi さん
同意して頂き、有難うございます。
> Miさん
そうですね。その側面は確かに否定できないと思います。
ただ、「プロフェッショナルな」弁護士としてその選択は正しかったのかという検証は必要だと思います。また、その「伝え方
」が正しかったのかどうかも。
そこまでして、死刑制度に反対するのはなぜでしょう?僕がこう聞けば、あなたは必ず価値判断をせねばならず、ある程度の道徳や倫理を示さねばなりませんが?どうお答えになるのでしょう。自分が示すものならば、納得すべきだ!とでも仰るのでしょうか?
殺したいほどの感情を抑え、公共の福祉の為に「法」で「死刑」を訴える本村さんに、どんな条理で「それでも死刑は駄目だ!」と訴える気でしょうか?僕はそれを「野蛮」と呼びます。
僕は感情で罪を決定しろと言っているのではありません。法とは「道徳」や「倫理」を体現したものでなければならない・・・と思っていますが。
なんか勘違いしてませんか?僕は「木村氏は死刑判決を諦めろ」なんて一言も書いてないですよ?「被害者の感情や個人のイデオロギーと、司法制度や個々の判決は切り離して考えるべきだ」と言っているに過ぎません。しかも、『母親と幼い娘を殺害した彼の行為は十分に「死刑」の適応を検討するに足るものだと思う。』と書いてありますよ。ちゃんと読んでくださいね。
もし「道徳」や「倫理」が法という形で体現された社会が良いのなら前近代的な封建社会にでも行けばいいと思います。
僕は「道徳」や「倫理」も含め、すべての人間は違った主義・主張を持っていることを前提とした社会を考えているので、それを効率良く運営する為のインフラとして法を整備し、その公平性や機能性を問う立場ですから。
んでもって、死刑制度に関してはその公平性や機能性の部分から「検討の余地あり」と思っているだけですよ。
僕は貴方の言っていることは「野蛮」だと言っています。それは、「合理」という主義・主張に囚われた考え方だとしか思えないからで、死刑制度を検討する余地がある・・・とは、貴方の価値観にほかなりません。それこそが、感情で裁く人民裁判だと僕は言っています。
人間は不完全ゆえに、縦軸に繋がれた道徳や倫理に頼らなければなりません。人間は不完全ゆえに、絶対性を求めます。それはこれほどまでに多くの人が、宗教を持っていることで証明されています。野蛮にならない為に、繋がれた縦軸をより良くしようと考えるのが賢明だと僕は思っています。
公平とはなんでしょう?「公」を基準にしていると言う意味では、道徳や倫理を基準にしているモノでしょう?貴方がこれが「公平」だと示して見せられるのならば別ですが・・・
貴方は、貴方の価値で喋っているにすぎません。
僕は一人一人の主義・主張が違うのは当然だと考えています。しかしながら、道徳や倫理がなくていい!とは考えません。ならば、そこから外れる自覚が欲しいとも思います。社会というのは、僕のような人と、貴方のような人が、共存できるようなものであるべきです。ですから自分がいう公平が公平だと考えないのが普通なのです。そこはやはり歴史の積み重ねのある道徳や倫理に頼るべきなのだろう・・・と僕は思います。
僕は感情で裁判を裁けとは言っていません。そういう人民裁判にならぬ為に「法」で裁くべきで、そのほうは道徳や倫理に支えられており、背景に感情があると言っています。
なぜならば裁判とは善悪を決めるもので、善悪の判断は道徳や倫理なしに出来るものではないからです。
>僕は貴方の言っていることは「野蛮」だと言っています。それは、「合理」という主義・主張に囚われた考え方だとしか思えないからで、死刑制度を検討する余地がある・・・とは、貴方の価値観にほかなりません。
「倫理」「道徳」に基づいて人を裁くのは「野蛮」ではないんですかね。「倫理」「道徳」のいったい何所に「絶対性」なんてものが存在するのか僕にはさっぱり分かりませんけど。
「法」と「倫理」「道徳」が全く無関係だと言うつもりはないですが、「法」はあくまで「社会」を運営する為にあるのであって「人」を良くする為にあるんじゃないですよ。「法」は人間の行動を縛るものであって内面を縛るものではありません。どんなに醜い感情を抱いていても、それを実際の行動に移さない限り「法」によって縛られることはありません。問題なのは人間の内面じゃない。具体的な行為の可否です。
また、司法は観念的な善悪を定める場所ではありません。司法における「善悪」(というか、司法で決定されるのは「悪」のみですが)とは単に行為の可否とそれによってもたらされるペナルティに過ぎません。観念的な善悪は別の場所(教育など)によって設定されるものでしょう。
「公平さを考えるならば歴史の積み重ねのある道徳や倫理に頼るべき」なんてちょっと笑っちゃいますね。過去どれだけの悲劇が「倫理」や「道徳」の名の基に行われてきたかご存じないわけでもないでしょう。
それから「全ての主張は主観による」なんてことは自明なので、「それはあなたの価値観に過ぎない」と言われても「だから?」で終わりですよ。倫理や道徳も同じです。意味のない相対化に過ぎないですね。
僕は法は人をよくするためにあるべきだとは、一言も言っておらず、むしろ法を崇めるのはおかしいとさえ思っていますよ。
重要なのは具体的な行為の可否だと仰っていますが、その可否はどのように決めるのか?と聞いているのですよ。
倫理や道徳の名の下にたくさんの悲劇があったのは事実ですが、だからと言って貴方の言う「公平」が悲劇を生まないとはどう証明するのでしょうか?
そして本村さんの奥さんや子供を無惨に殺した犯人を、死刑を適応するに値する理由はなんでしょう。
それを道徳や倫理を語らずに、説明することは不可能ですよ。
今になって道徳や倫理が無関係だとは思わない。と書かれてますが、僕の勘違いも多分にあるのだと思いますが、なぜ頑なにそれがあることを嫌うのでしょうか?
最後の「だから?」に関しては、そんなことを言ってしまう貴方が、高尚に「法」を語るなどとは・・・という気持ちです。それならば、万人の目に晒される可能性のあるブログなど書かずにいればいいのに・・・
しかし、これほど議論が噛み合わないのは僕にも勘違いがあるのかもしれませんが・・・それに、僕は絶対性があるなどとは思ってませんよ、それを求めるのは人間の習性だと思っていますが・・・
失礼な書き方になっているかもしれませんが、とりあえず議論が噛み合ってないようです。
一番最初に「公共物たる社会における「道徳」や「倫理」を明文化したものが司法である」という定義をしたのはなぜ?さんですよね。ならば、「司法で裁かれる」とはつまり「倫理・道徳によって裁かれる」ことと同義なのではないですか?僕はそこをベースに語っています。
近代法の制定過程を今更説明しようとも思いませんが、なぜ?さんの最初のコメントは明らかに「司法」を「倫理」「道徳」そしてその背景とされている「感情」の支配下においた語り口でしたよね。それを「前近代的だ」と言ったんですよ。
ちなみに「法」と「道徳」の差異は、『法が動機とは無関係に行為が義務法則に合致すること(合法性)が要求されるのに対し、道徳は、動機そのものが義務法則に従うことが要求されるとする』というカントの定義を参照しています。
だから何回も繰り返しますけれど、木村氏の個人的な感情は理解できるがそれと司法制度を語ることは別。少なくとも、「被害者感情に合わせて」刑罰を設定するような愚行は犯すべきではないと言っているわけです。「法実証主義」とか「純粋法学」ってちょっと調べれば分かりますよ。
また、「公平性」の問題は、「倫理」「道徳」をベースにした社会と、「近代法」をベースとした社会、そのどちらが公平であるかを考えればいいのです。「ベスト」ではなく「ベター」な方がどちらかをね。答えは歴史が指し示している通りです。
あと、「だから?」は単になぜ?さんの「それはあなたの価値観に過ぎない」って指摘が「何も言っていない」のと同じだってことを表しているだけですよ。「道徳」「倫理」だって、「誰かの価値観」に過ぎないわけですからね。
僕は社会における「道徳」や「倫理」を明文化したものが司法である。と確かに書いていますが、すぐ後に過ちを犯しやすい人間ゆえ、「法」があるのだ。とも書いてますよね。これが「近代法」の出発点であるはずです。
何度も言いますが、道徳や倫理、そしてその背景にある感情で裁けとはただの一度も書いていません。多分に感情的な最初の投稿でも、そのようなニュアンスで言っていません。人間の抜け落ちた法とはどのようなものなのか?と問うてるわけです。
道徳や倫理をベースにした社会。近代法をベースにした社会。としていますが、僕は近代法すら、その背景に道徳や倫理、さらにその背景に人間の感情がある。と言っているのですよ。
それに残念ながら、道徳や倫理で教育される人がいても、六法全書で教育をされる人はいません。そういう人が集う社会の根底に流れるものは、道徳や倫理でしょうか?それとも近代法なのでしょうか?
それに僕が加害者として法廷に立つことになれば、「法」によって裁かれますが、それとて道徳や倫理の積み重ねによって裁かれるのだと思いますよ。こういう言い方をすれば、間違いなく誤解を受けるでしょうが僕はそう思います。
貴方の言い方であれば、法に駄目と書いてあるから駄目なんだ。と言うことになってしまいませんか?
被害者感情に合わせて刑を設定しろとは思ってもいませんが、裁判で被害者感情や、加害者の生い立ちが語られるのも事実。死刑制度の前に「情状酌量」に反対してみるのもいいかもしれません。
道徳や倫理を「誰かの価値観」だと言って見せるのは自由ですが、その貴方の言っていることが、「法」を至上の価値とせよ!!と聞こえるのは僕の勘違いでしょうか?僕は僕の価値観で意見を述べていますが、そこに道徳や倫理の縦軸をもっているつもりです。
カントを参照して見せる貴方は、そこに違うものを置いているだけです。
これはもう「自然法学」に足場を置くか「純粋法学」に足場をおくかの違いでしかないですね。要は根本から食い違っているわけですが。
僕は近代社会において司法を語るならば「純粋法学」をベースに語った方が論理的だと思っているのでそれを選択しているだけです。
ちなみに、被害者による復讐を「是」とする「倫理」「道徳」なんて僕は嫌ですけどね。別に復讐したければすればいいけど、それはそれで新たな「罪」に過ぎませんので。
専門的なことは良くわかりませんが、どうやら我々は全く違うようです。僕は何とか共通点とか、共通の感情を探っていたのですが、難しかったようです。
質問に一つも答えてもらってないような気もしますwww
復讐心を「是」とは思ってませんが、その復讐心を理解する人間であろうと思います。今回の本村さんのケースでは・・・ですが・・・
何の情感もなしに、このような公共の場で大上段から社会問題を語るのはよした方がいいのだと思います。
最後に、長々とありがとうございました。
検索で感情論をフィルタリングできればいいのに。