モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」 人生の意義 ──あらゆる動物が人間に転生する──

 人生の意義
 
 人間は何のために生まれ、何のために生きているのでありましょうか。私達は大宇宙を創造し統治して居られる神の御心、神の愛に依って此の世に生まれさせられ、神の恵みに依って生かされているのであります。では神は何のために私達を地上に生まれさせられ、また生かして下さって居られるのでありましょうか。それは人間として生活しながら様々な宇宙の真理を学び高級な人間、高級な霊へと進歩向上して行くためであります。人間は自分で勝手に都合のよい両親を選び自分の好きな家庭や社会を選んで自由に生まれて来るという訳ではないのであります。また何の目的もなく意義もなく唯漠然と無意味に生まれて来て無目的な人生を送るという訳でもないのであります。
 
 太古、地球が誕生し、地上に生命が発生して以来数10億年という長い生命の歴史を通じて生物はより高等な生物へと進化を続けて来たのであります。人生もまた悠久の過去から悠久の未来へ向って限りなく続けられている生命進化の一線上にあり更に高級な生命体、即ちもっと高級な人間へと進化して行くための一段階にあるに過ぎないのであります。太古の地球に原始生命が発生し長い間進化を繰り返しながら次第に高等な生物へと進化し更に人類へと進化して来たことは進化論に於いて説かれている通りであります。
 
 しかし現代の生物学や進化論には重大な矛盾や欠点が存在するのであります。それは現代の生物学が霊魂の存在を知らず、単に生物の組織や肉体の進化のみを考えて霊魂の進化ということを全く知らないという点にあると言わねばならないのであります。宇宙は霊魂と物質との世界であります。そうして霊魂と物質とが結合して生命が発生したのであります。故に生命進化の謎も肉体や組織の進化丈でなく霊魂の進化のことも知らなければ正しい意味での生命進化の実相を覚ることはできないのであります。全ての生物は生まれては死に死んでは生まれ変りながら次第に高等な生物へと進化して行くのであります。私達人間も嘗ては人間以外の生物として何度も生まれ変りを繰り返しながら、次第に高次元の宇宙の真理を学びやがて人間に生まれ変って来たのであります。そうして私達は未来に何度も人間に生まれ変って更に高次元の宇宙の真理を学び更に高級な人間へと進化して行くのであります。故に人生は決してたった1度丈のものではないのであります。永遠の過去から永遠の未来に亘って限りなき輪廻と転生を繰り返しながら無限に進歩向上を続けて行くのが真実の人生なのであります。故に現世の私達の一生は永遠の人生の中の一時期一段階であるに過ぎないのであります。

 さて宇宙には宇宙の真理法則、もっと身近で分かり易い言葉で言えば大自然の摂理というものが存在しています。宇宙に存在する全てのものは宇宙の真理法則に従って秩序正しく整然として運行し活動しているのであります。しかし時には宇宙の真理法則に叛く者が出現し宇宙の秩序が乱れ様々な不幸や悲劇が発生することもあるのであります。
 
 神の愛に依って生まれさせられ、神の恵みに依って生かされている私達人間もまた、神の御心、神の定められた宇宙の真理法則に従って初めて健康で幸福な人生を送ることが出来るのであります。然るに人間が神の御心を知らず、神の定められた宇宙の真理法則に叛いて誤った生活を送ることが原因となって病気や悩みや苦しみや悲しみや迷いや、躓きや障りや争いなど無数の不幸や悲劇が起っているのであります。故に私達が神の御心を覚り、神の定められた宇宙の真理法則に従って正しい生活を送る様に心掛けるならば、病気も障りも躓きも苦しみも悩みも悲しみもない健康で幸福な人生を送ることが出来る様になるのであります。
 
 人間は自分で勝手に生まれて来て勝手に自分の好きなことをして一生を送ればよいというものではないのであります。私達は神の愛に依って此の世に生まれさせられているのであります。そうして私達は神の恵みに依って此の世に生かされているのであります。故に私達は神に対して感謝の心を忘れてはならないのであります。また神は宇宙の平和や幸福や繁栄のために宇宙の真理法則を定めて居られるのであります。故に皆が宇宙の真理法則に従いさえすれば、自ずから皆が幸福になれる様に神は仕組んでおられるのであります。故に宇宙の真理法則を知らずに健康で幸福な人生を送りたいと思う人は自分の目的地も知らず、進むべき道も知らずに、兎に角前へ前へと進んで居りさえすれば何時か良い処へ行けるだろうという様な全く無鉄砲で向う見ずの出鱈目な人生を送っている人だと言えるのであります。そんなことでは本当に健康で幸福な人生を送れる訳はないのであります。先ず神の定められた宇宙の真理法則を学び、字宙の真理法則に従った正しい生活を送る様に心懸けるということが、健康で幸福な人生を送るために必要な唯1つの確実な方法なのであります。
 
 人生は修行のために存在するのであります。修行は宇宙の真理法則を学び賢明になり高級になるためであります。そうして賢明になり高級になることが健康で幸福な人生を送るための必要条件なのであります。賢明で高級な人間になるために常に正しい修行の努力を続けて行くことが正しい人生なのであります。然るに神の定められた宇宙の真理法則を覚らず誤りだらけの人生を送って病気になり苦しんだり悩んだりしながら自分は何故こんなに病気で苦しまねばならないのだろうか、自分は何故こんなに運が悪いのだろうかなどと考えて嘆いたり不平不満を言ったりする人々が沢山いますが、その様な考え方は誤っているのであります。また誤った生活を送って不幸になり、自分は何故こんなに不幸に苦しまねばならないのだろうか、何故こんなに運が悪いのだろうか、世の中には神も仏もないのだろうかと考えたりすることも誤っているのであります。宇宙の真理法則に従って正しい生活を送りさえすれぱ、誰もが必ず健康で幸福な人生を送れる様に神が仕組んでおられるのであります。故に病気になったり不幸になったりした人は宇宙の真理法則に叛いた誤った生活を送っているということを自ら世問に発表しまた自らそれを証明しているのと同じなのであります。
 
 宇宙の真理法則を知らずに誤りだらけの生活を送るのは無知であり愚かであるからであります。故に愚かな者が健康で幸福な人生を送りたいと思うことが既に誤っているのであります。人間は修行して賢明になり高級になるために生まれさせられ生かされているのであります。故に修行して宇宙の真理法則を覚り、賢明で高級な人間になり、健康で幸福な人生を送ることが神に対する報恩であり、また正しい人生であると言えるのであります。しかし人生の修行を忘れいい加減で誤りだらけの人生を送るということは、折角人間を生かして下さっておられる神の御心に叛くことであり大きな罪であると言わねばならないのであります。私達は無知であり愚かであるということも神に対する大きな罪であるということを覚らねばならないのであります。また神の定められた字宙の法則を知っていながら敢えてそれに叛く者もいます。宇宙の法則を知らずに誤った低級な人生を送ることも罪でありますが、宇宙の法則を知っていながら、敢えてそれを守らず、或いは積極的に宇宙の法則に叛いて誤った人生を送るということは、無知であり愚かである罪よりも遥かに大きな罪であると言わねばならないのであります。無知であり愚かであるということも罪であり、低級であり愚劣であるということも罪であり、邪悪であるということは一層大きな罪であることを覚らねばならないのであります。正しく清らかな心になり賢明で高級な人間になる様に努力することが本当に健康で幸福な人生を送ることの出来る唯一最高の方法なのであります。






 心の糧と肉体の糧

 私違が心と肉体の健全な発育や健康の維持を図りたいと願うならば健全な糧を摂取することが必要であります。私達にとっては心の糧と肉体の糧との両方が必要であります。人間は霊魂と物質との結合に依って生まれ、霊魂の世界の恵みと物質の世界の恵みとを受けて生活しているのであります。人間の心に必要なのは心の糧であり、肉体に必要なのが肉体の糧であります。私達の心に必要な糧とは神の御教えであり宇宙の真理法則であり愛であり芸術なのであります。肉体の糧とは飲食物や空気なのであります。しかし心の糧は心のためにのみ必要であり、肉体の糧は肉体のみのために必要であると言う訳ではないのであります。心の糧が心の健康と肉体の健康のために必要である如く、肉体の糧もまた心の健康と肉体の健康のために必要なのであります。健全な心の糧は心の健康を増進させるのみでなく肉体の健康をも増進させるのであります。しかし不健全な心の糧は心の健康をも害すると共に肉体の健康迄も害するのであります。また健全な肉体の糧は肉体の健康を守るのみでなく心の健康をも守ってくれるのであり、不健全な肉体の糧は肉体の健康を害するのみでなく心の健康をも害するのであります。故に私達が心の健康と肉体の健康とを維持増進したいと願うならば、常に健全な心の糧即ち正しい神の御教えや宇宙の真理法則や高級な文学や芸術等を求めねばならないのであり、また健全なる肉体の糧即ち大自然の慈味豊かな健全な飲食物や新鮮な空気等を摂取する様に心掛けねばならないのであります。
 
 では次に心の糧について述べてみたいと思います。私達が健康で幸福な人生を送りたいと思うならば、私達を此の地上に生まれさせ、生かして下さっておられる神の御心を覚り神の定められた宇宙の真理法則を覚らねばなりません。正しい心、強い心、清らかな心、明るい心、感謝の心、無の心、愛の心、和の心、信ずる心、無欲の心になる様に心掛けるならば心は神に繋がり神の光と力を頂くことが出来る様になります。そうして正しく健全な心で真理を学ぶ様に努力するならば、記憶力や思考力や判断力や創造力なども増強せられて賢明で高級な人間へと進歩向止して行けるのであります。
 
 次に神の定められた字宙の真理を覚るということも私達にとっては尊い心の糧を得ることなのであります。窮極に於いて、私達が賢明で高級な人間になるためには宇宙の真理法則を覚らねばならないのであります。そうして宇宙の真理法則に従って正しい生活を送ることに依ってのみ限りなく楽しく幸福な人生の歓びを得ることが出来るのであります。宇宙の真理法則を覚って賢明で高級な人間になり、限りなく楽しく生甲斐や歓びに満ちた幸福な人生を送るということが、人生の唯一のそうして最高の目的なのであります。物理学も化学も数学も、生物学も医学も栄養学も、政治学も経済学も、心霊科学も全ては宇宙の真理であり法則であると言えるのであります。それらの宇宙の真理法則を知り賢明で高級な人間になる様に努力するということも尊い人生の修行なのであります。そうしてまた素晴らしい文学や音楽や芸術に親しむということも大きな人生の歓びであり、それらもまた素晴らしい心の糧であると共に、心の健康のみでなく肉体の健康にもまた大きく役立って呉れるものであります。心が歓びや生甲斐や幸福に満ち溢れている時、肉体もまた美しく若々しく健康で、光り輝いていると言えるのであります。即ち良き心の糧は肉体の生命力や活動力の源泉ともなり得るのであります。
 
 しかし不健全な心の糧は心の健康を害するのみでなく肉体の健康をも害し人間を堕落させるばかりでなく不幸にするのであります。不健全な心の糧とは誤れる宗教や哲学や、誤れる学問や理論や、穢れた文学や音楽や芸術などであります。例えば虚無主義という思想があります。人間は何の意義も目的もなく生まれて来て、生まれたから仕方なく死ぬる迄生きて居なければならないのだという様な考え方は非常に大きな誤りであります。人生は無意味であり無目的であるという様な考え方は単に心の健康を害するのみでなく、肉体の生命力や活動力を失なわせて肉体の健康を害することにもなるのであります。
 
 また享楽主義という思想もあります。人生は自分の好きなことをして面白く楽しく過ごしさえすればよいという享楽主義も又人間の心の健康を害するのみでなく肉体の健康をも害するのであります。即ち精神の荒廃はそのまま肉体の荒廃に通ずるものであることをよく覚らねばならないのであります。例えば美味しいものや珍しいものをたらふく食べるのが何よりの楽しみだと言う人々がよくあります。しかし美味しい飲食物や珍しい飲食物丈で健康な生活を送ることは出来ないのであります。しかも必要以上にたらふく飲食することもまた心の荒廃を招くと共に肉体の荒廃をも招くのであります。
 
 また高級で美しく清らかな文学や音楽や芸術は私達に限りない楽しみや慰めを与え生きる歓びや力をも与えてくれますが、低級で愚劣な文学や音楽や芸術などは心を堕落させ低級愚劣にするぱかりでなく退廃的な生き方が肉体の荒廃をも招くことになるのであります。落語や漫才や漫画や退廃的な流行歌などはどれ程人間の心の退廃を招いているか図り知れないのであります。また犯罪や殺人などを扱った小説や劇や映画やテレビなども人間の心を荒廃させるのであります。

 或いは宗教や道徳などの禁欲や過度の節制や苦行などが人間の心の健康や肉体の健康を害する例も多いのであります。例えば美しく清らかな恋愛や性愛は人間に限りない歓びや生甲斐を与えると共に精神的肉体的両面で若々しさや美しさや健康を増進させる原動力ともなるのであります。しかし放縦で穢れた性行為は人間を堕落させ心の荒廃を招くのみでなく肉体の荒廃を招き若々しさや美しさや健康を害するのであります。或いはまた博打や低級愚劣な遊びに浮身をやつすことは心の荒廃を招くのみでなく肉体の荒廃をも招くのであります。しかしその反面に過度の禁欲や節制や難行苦行などの修行は心の荒廃を招かずとも人間の心を片寄ったものにし正しい意味での進歩向上を阻害し更に肉体の健康を害することも多いのであります。故に私達は享楽主義に溺れてはならない如く、禁欲や節制や難行苦行を正しいものと考えてはならないのであります。
 
 私達にとって健全な心の糧が心の健康を増進させるのみでなく肉体の健康をも増進させ、不健全な心の糧が心の健康を害するのみでなく肉体の健康をも害するということは以上述べた如く事実なのであります。また正しい医学や栄養学や生理学や心理学などの知識が心の糧として心の健康や肉体の健康のために大いに役立つ反面、誤れる医学や栄養学や生理学や心理学などが如何に心の健康や肉体の健康を害しているか図り知れないのであります。



 さて次に肉体の糧について述べて見たいと思います。私達の肉体を造り或いは活動のエネルギーを供給するのは言う迄もなく飲食物であります。肉体は非常に多くの物質から出来ています。飲食物は言わば私達の肉体を造るための原材料であり、また肉体という機械を運転させるための燃料でもあります。故に原材料が粗悪であっては良い製品が出来ない様に飲食物が悪いからであるという場合が非常に多いのであります。
 
 人間が動植物を殺して食べるということは一応神から許されていることであります。故に私達が動植物を殺して食べても別に罪にはならないのであります。では人間は万物の霊長であるから全ての動植物を自由に殺して好きな丈食べる権利を持っているのかというと決してそうではないのであります。人間が神から動植物を殺して食べることを許されているということは、人間があらゆる動植物を自由勝手に殺して食べる権利を与えられているということでもなければ、人間があらゆる動植物に対する生殺与奪の権を持っているということでもないのであります。
 
 例えば人間は様々な道具類を生産しそれを自己の意志で自己の利益になる様に使用しますが、それは人間が自己の意志で自己の役に立てるために作ったものであるからこそ使用する権利を有するのであります。しかし動物や植物は本来神がお創りになったものであって、人間が創造したものではないのであります。では神は何のためにあらゆる動物や植物を創造せられたのでありましょうか。神が人間に動物や植物を殺して食べることを認めておられることは確かであります。しかし神は全ての動物や植物を人間の食物にするために創造せられたのではないのであります。その意味では旧約聖書の創世記は大きな嘘を教えて愚かな人間を騙しているのであります。私が既に度々述べている様に全ての生物は霊魂と物質との結合に依って生まれて来るのであり、動物も植物もそれぞれの意志や個性や運命を持って生活しているのであります。神は動物や植物を食べることを人間に許しておられますが、神は動物や植物を人間の食物にする目的で創造せられたのではないのであります。それは生命の発生と進化の歴史を研究してみれば判ることであります。通常植物は動物の食物となることに依って動物と植物とが共存共栄を続けているのであります。故に植物が動物の食料となるということは神がその様に定められた運命であると言えないこともありません。

 しかし動物の場合はもっと状態が違うと言わねばならないのであります。全ての生物は輪廻転生を繰り返しながら進歩向上、即ち生物学的には進化を続けているのであります。全ての生物達は未来に何度も生まれ変りを続けながら更に高等な生物へと生まれ変わり次第に高次元の字宙の真理法則を学びながら進歩向上して更に高級な霊へと進化して行くのであります。故に地上に於いて人間が万物の霊長であるとしても、人間は他の生物とは全く違った特別の存在であるという訳ではないのであります。人間もまた遠い音には虫や魚や鳥や爬虫類や哺乳動物など様々な動物に生まれ変って様々な体験を積み次第に高次元の宇宙の真理を学び遂に人間に生まれ変わることができたのであり、現在の多くの動物達も未来に何度も生まれ変わりを繰り返し次第に高等な動物に生まれ、高次元の宇宙の真理を学びながら何時か人間に生まれ変って来るのであります。故に人間と多くの生物との相違は単に進化の段階の相違であり、生まれた時の遅速の相違であるに過ぎないのであって、人間は永遠に人間であり動物は永遠に動物であるという様な絶対的な、或いは乗り越えることが出来ない様な壁に依って隔てられているという訳ではないのであります。現在の人間も過去には動物だったのであり、現在の動物達も未来には人間となるのであります。故に人間と動物との相違は絶対的なものではなく相対的なものであり、永遠のものではなく一時的なものであるに過ぎないのであります。

 この様に考えて見るならば全ての動物達も修行のために生まれさせられ生かされているのであり、彼等は彼等なりに現世に於いて出来る限りの多くの体験を積み、多くの真理や法則を学んで少しでも進歩向上しなければならないということが判るのであります。故に私達は動物を単に人間の食料であるという様な人間中心の、自分勝手な立場で考えることを止めて、彼等もまた神の愛に依って生まれさせられ、神の恵みに依って生かされ、進歩向上のための修行に励んでいる兄弟姉妹達であるということを覚らねばならないのであります。故に私達は動物を殺して食べるのは万物の霊長である人間の特権であるとか、人間の自由であるとかいう様な思い上った誤った考え方を捨てて、人間の生命を尊ぶ如く、全ての動物達の生命をも尊び、必要以上に無闇矢鱈に動物を殺して食べることは慎しまねばならないのであります。
 
 その点で旧約聖書は嘘を教えているのであり、それは聖書宗教が邪悪で低級な宗教であることを証明しているのであります。ヨーロッパ人達は人間が飼育している動物を殺して食べるのは人間の自由であり権利であるかの様に考えていますがそれも誤っているのであります。動物達も神の愛に依って生まれさせられ、神の恵みに依って生かされているのであり、彼等もまた生きる自由や幸福や権利を持っているのであります。故に動物達が神から与えられている自由や権利を勝手に奪って置きながら飼育している動物を殺して食べるのは人間の自由であり権利であるという様な勝手なことを言うのは肉食人種達の罪であり誤りであります。ヨーロッパ人達は人間が飼育している動物を殺して食べるのは人間の自由であり権利であると主張しますが、それでは彼等は野生の動物達の生命を尊重しているでありましようか。アメリカ大陸に住んでいた野牛を絶滅寸前迄殺し尽したのも、北極海の鯨を殺し尽したのも、鳥島の阿呆鳥を殺し尽したのも、ヨーロッパの旅行鳩を殺し尽したのも全てヨーロッパ人でありました。この様な事実は肉食人種のヨーロッパ人が如何に人間本位で利己主義で自分勝手な民族であるかということをよく証明しているのであります。私達は聖書の如き低級で誤った考えを信じたり肉食人種の誤った思想を受け入れたりしてはならないのであります。
 
 では聖書宗教とは反対に不殺生と肉食の禁止を説く仏教は正しいと言えるでありましょうか。人間が動物を殺して食べることは神が許しておられるのであってそのこと自体が罪悪になるというものではないのであります。また食べる目的で動物を殺すということの他に、人間の生命や健康を害する動物を自衛上殺すということは仕方ないことであって罪悪とは言えないのであります。自然界に於いては生物は全て喰うか喰われるかの生存競争を繰り返しています。また自己の生命を守るために相手を殺すということもしばしばあります。それは別に罪になることではないのであります。人間界に於いても人間を食べようとして襲って来る猛獣を殺すというのは自己防衛のためであってそれは罪悪とは言えないのであります。

 また体内に寄生虫が湧いて健康を害した様な場合、駆虫剤を飲んで寄生虫を殺してもそれは罪悪とは言えないのであります。しかし無用無益な殺生をすることは罪になるのであります。その様な意味で仏教の不殺生戒や肉食の禁止は誤りであり愚かな信者を騙すための嘘の教えであると言えるのであります。では仏教の戒律を破り肉食妻帯を実行した浄土真宗の親鴛の行為は正しかったと言えるでありましようか。断じて正しいとは言えないのであります。親鷲が肉食や妻帯を正しいと認めそれを実践するのであれば先ず釈迦の残した教えが誤りであることを世間に公表し仏教の教義そのものを改革するか、印度の仏教を捨てて全く新しい日本仏教とでも言うべきものを創始すべきであります。その様なことを何もしないで肉食妻帯を実行した以上親鷲は明らかに破戒坊主以外の何者でもないのであります。今日の東本願寺の余りにも醜く浅ましい内輪争いや分裂騒ぎは浄土真宗が如何に穢れた教団であるかということをよく証明しているのであります。
 
 さて生長の家の教祖谷口雅春氏は、植物の種が沢山稔り、それが全部地に落ちて芽を出すと植物が増加して困るから人間がそれを食べてやることに依って植物が助かるのだ、という様なことを教えています。実際に米でも麦でも豆でも或いはまた全ての木の実や草の実が全部地に落ちて芽を出したならば植物が増加し過ぎて困ることになるのは確かであります。しかしそれは植物が種族の保存に必要な数以上に余りにも多くの種を無計画に創り過ぎているということではないのではないのであります。穀物が種族の保存に必要な数の種しか造らないのであれば、種を食べて生活している動物は生存できないのであります。植物が必要以上に沢山の種を稔らせるのは植物自身の為であると言うよりも動物を養う為であると言えるのであり、それは地上に生命を創造せられた神の御心なのであります。植物達の立場を考えないで植物が種子を沢山造り過ぎて困るから人間が食べて種子の数を必要な数丈に減らしてやれば植物は助かるのだという様なことは神の御心を知らず、神の愛や恵みを覚ることの出来ない人間中心で自分勝手な誤った考え方の人であるからだと言えるのであります。神は人間を生かすために植物に必要以上に多くの種を作らせて余った部分を人間の食物として恵み与えて下さっておられるのであります。故に私達は食物を恵み与えて下さった神に感謝の心を持つと共に、人間のために食物を作ってくれている植物に対しても感謝や愛や慈しみの心を持たねばならないのであって、神の愛を知らずに植物が造り過ぎた種子を人間が食べて植物を助けてやるのだという様な思い上った心を持ってはならないのであります。
 
 私達は一生の間には非常に多くの動物や植物を殺して食べなければ生きて行くことは出来ないのであります。動物や植物を殺して食べることは神が認めて下さっておられるのであります。故にそれは罪悪になることではないのであります。しかし神が許して下さっておられるということは、人間は動物や植物を好きな丈自由に殺して食べる権利を与えられているということではないのであります。動物や植物を殺して食べるのは万物の霊長である人間の自由であり権利であると考えたり、動物や植物が子孫を沢山作り過ぎて困るから人間が殺して食べて助けてやるのだという様なことは神の愛や恵みを知らず、生命の尊厳を覚ることの出来ない愚かで思い上った穢れた人間であると言わねばならないのであります。多くの動物や植物を殺して食べねば生活出来ない私達は、その反面に於いて、生命の尊厳を覚り、全ての動物も植物も神の愛と恵みに依って生かされ、尊い修行の機会や生きる歓びを与えられているのだということを覚って、全ての動物や植物達の幸福や繁栄のために尽さねぱならないのであります。それが万物の霊長である人間に与えられた当然の義務や使命なのであります。





 事故災難の起こる理由

 人間は何時病気になったり死亡したり事故災難に遭うか判らないのだ、人生は儚いのだと考えて不安な生活を送っている人々は、人生の意義や目的を知らないのであります。病気になるのはなる丈の理由があるからであり、事故や災難に遭うのもそれ丈の理由があるからであります。病気も事故も災難も理由や原因なくして突然に誰彼の区別なく襲い掛かって来るという訳のものではないのであります。宇宙には神の定められた宇宙の真理法則があります。故に宇宙の真理法則に従って正しい生活を送りさえすれば病気も事故も災難も起らず、皆が何時も健康で楽しく幸福に暮らして行くことが出来るのであります。しかし人間が無知であるために宇宙の真理法則を知らず、いい加減な誤った生活を送るために病気や事故災難に遭わねばならなかったり、人間の心が邪悪で穢れているために宇宙の真理法則を知っていながら、敢えてそれを無視したり違反したりして自分で病気になったり事故災難に遭ったりしている人が多いのであります。
 
 故に病気になったり事故災難に遭ったりするのはその人が宇笛の真理法則を知らない無知で愚かな人であるか、或いは宇宙の真理法則を知っていながら敢えてそれを無視したり、敢えて違反したりしている邪悪で穢れた人であるということを証明しているのであります。食養家の桜沢如一氏は「病人は罪人であり、罪人は病人である」と説いていますがそれは尤もな言葉であると言えるのであります。人間は修行して真理を覚り賢明で高級な人間になるために生まれさせられ生かされているのであります。故に人間にとって一生は修行の期間であり私達は常に宇宙の真理法則を覚るために修行の努力をしなければならないのであります。人間は生まれた時は無知であります。しかし無知であるから一生の間に様々な修行をして賢明になり高級になる様に努力しなければならないのであります。
 
 神から折角尊い修行の機会を与えられているにも拘わらず修行の努力をしないということは大きな誤りであり罪であります。美味しい物を食べたり飲んだりし、芝居やテレビを見ることを楽しみ、碁将棋麻雀等に現を抜かし、賭け事に熱中するような低級愚劣な人生を送りながらそれを生甲斐や幸福であると思い違いをしている人々が沢山居ます。その様な人々は愚かな人々であります。仏教では無知悪という言葉があります。世間にはよく無知であるが故に罪を犯す人がありますが、無知故に犯した罪は罪にならないと考えている人々も沢山居ます。しかしそれは誤っているのであります。無知で愚かであるということは大きな罪であることを知らねばならないのであります。あらゆる病気は衣食住などの生活の誤りから起って来る様に、交通事故も盗難も紛失も不和や対立も全ては人間の心の誤りや生活の誤りから起っているのであります。只多くの人々は無知であるが故に病気や事故や災難の起る本当の原因を知らず、自分は何故こんなに運が悪いのだろうか、何故こんな不幸な目に遭わねばならないのだろうか、世の中には神も仏もないのだろうかなどと考えるのであります。
 
 自分が無知であるが故に宇宙の真理法則を覚らず、宇宙の真理法則に叛いたことばかりしていながら、病気になったり事故災難に遭ったりすれば何故自分はこんなに運が悪いのだろうか、何故こんな不幸な目に遭わねばならないのだろうかなどと考える方が誤っているのであります。賢明でなくては幸福な人生を送ることは出来ないのであります。人間にとって無知であり愚かであるということはそのまま罪であると言えるのであります。無知であり愚かであるが故に病気になったり事故災難に遭ったりするのは、知らず知らずの裡に宇宙の真理法則に叛いているからであります。故に病人に限らず事故災難に遭って不幸な人生を送っている人々は全て神の前には罪人であると言えるのであります。交通事故の如きも自分が幾ら注意していても相手が無謀運転や居眠り運転や飲酒運転などで不意に突っ込んで来れば避けられないと言う人々が沢山います。しかしその様な考え方は正しくないのであります。本当に心の清らかな賢明な人々は無謀運転や居眠り運転や飲酒運転などは決してしないものであります。無知であり愚かであり、心が穢れているからこそ平気で無謀運転や居眠り運転や飲酒運転などをするのであります。故にその様な人々は邪霊に心を支配せられていると言えるのであります。その反対に心の正しく清らかな人には常に神の霊や善霊が付いて守って居て下さるのであります。神や正霊は、邪霊に取り憑かれて邪悪な行為や誤った行為をしようとしている人から人間を守って下さるのであります。故に無謀運転や飲酒運転や居眠り運転の犠牲になる人は神や正霊に守られていない人であると言えるのであります。
 
 世間の人々はよく「あの人は何1つ悪いことをしたこともなく皆に親しまれる良い人であったのに何故こんな不幸に遭わねばならないのだろうか」という様なことを言います。平凡な人間の目から見れぱ善良な人に見えても神の世界から見れば心の正しい清らかな人であるとは限らないのであります。多くの人々には人間の目で見て善良な人と、神の目から見て心の正しい清らかな人との区別がつかないのであります。そのためにあんな善良な人が事故や災難に遭うのだから神の加護など当てにならないと考えたりするのであります。見掛けは善良そうであっても神の加護のない人が沢山いるのであります。
 
 では事故災難は何故起るのか、どの様にすれば防ぐことが出来るのかということに就いて次に述べようと思います。事故災難にも様々な場合がありますが、最も単純な原因としては物理的な原因が挙げられます。例えば先に述べた自動車の無謀運転や居眠り運転や飲酒運転などは人間が賢明でさえあれば容易に避けることの出来るものであります。狭い道や交通量の多い道を高速で飛ばせば事故を起すのが当然であります。それが判り切っているのに敢えてするのは大きな犯罪であります。それ丈の理性や良識のない人間に自動車を販売したり、運転の許可を与えたりすることも誤っているのであります。
 
 自動車の販売業者は1台でも沢山売れれば儲けになりますから代金さえ払ってくれれば誰にでも販売します。運転免許証を与える警察の方は学科と技術の試験さえ合格すれば簡単に免許証を与えます。本来ならば無謀運転や居眠り運転や飲酒運転を起す様な人物に自動車を販売した業者も、その様な人物に免許証を与えた警察も共に犯罪の協カ者として責任を負うべきであります。それをしないで運転者丈を罰するのは誤っているのであります。肉体が非常に疲労している時や睡眠不足の時に自動車を運転することは非常に危険であることは初めから判り切っているのであります。判っていながら敢えてするのは重罪なのであります。飲酒運転にしても同じことなのであります。この様なことは警察官を増員して取締りを強化するとか罰則を強化すればよいという問題ではないのであります。国民の1人1人が自己の生命の尊さを覚り、他人の生命の尊さを覚り、社会や他人に対して迷惑を掛けてはならないという責任感を持ち、理性や良識で判断し行動することが出来なければ根本的には解決できないことなのであります。
 
 自動車に限らず各種の機械や化学薬品などは少しの不注意や取り扱い方の誤り等で大きな事故を起こすことはしばしばあります。故に充分な知識や技術や判断力などのない人に危険な機械や化学薬品を扱わすことは誤りであります。しかし現実にその様な事故や災害が絶えないのは技術以前の問題即ち、人間の心の持ち方の誤りが改められないからであります。
 例えば自動車事故でも自分で自動車を運転中川に転落して死亡したという場合は全くの自損事故であって他人に関係なく自分1人が注意すれば良い問題であると言えます。しかし他人に衝突されたという場合は相手方に責任があると言えます。事故や犯罪には常に加害者と被害者の両方があります。そうして加害者も悪いが被害者も悪いという場合もあれば、被害者には全く何の責任もなく加害者の方が一方的に悪いという場合も多いのであります。例えば交差点で出会い頭に2台の自動車が衝突したような場合、双方の不注意ということもあるでしょう。しかし歩道を歩いていた通行人を、自動車が歩道に乗り上げて轢き殺したという様な場合は通行人には何の罪もなく自動車の運転者が一方的に悪いということになります。少くとも表面上は歩道上を歩いている歩行者を轢き殺すということは非常重い罪であると言えます。しかしカルマなどを通して考えて見るとまた別の結論が出て来るのであります。即ち歩道を歩いていれば先ず100%安全な筈であります。然るに100%安全である筈の歩道上で轢き殺されるのはその人が余程深い罪業を負って生まれて来ているからだということも考えられるのであります。例え車道へ飛び出しても車の運転者が急ブレーキをかけて呉れて何事もなく助かるということもあります。即ちどんな危険な目に遭っても助かることがある反面、絶対に安全である筈の場所で恐ろしい不幸に遭うこともあるのであります。其処に物理的な原因丈では解決出来ない問題があると言わねばならないのであります。
 それは前世以来引き継いでいるカルマであります。現世に於いて自己は他人に怨まれる様な悪事は何1つしてないというのに他人に酷い目に遭わされるという例がしばしばあります。しかし前世に於いては他人に対して恐ろしい罪を犯して居りそのために現世に於いて苦しまねばならないということも多いのであります。
 
 例えば日本では徳川時代には武士階級に斬り捨て御免という様な全く無法な特権が与えられて居り、正当な理由無くして殺された百姓町人も多かったのであります。また新刀を買って斬れ味を試すために辻斬りを働いた武士も多かったのであります。成程徳川幕府という邪悪で穢れ切った政府の下では武士階級はそれで結構満足して暮らしていたかも知れませんが、罪無くして斬り捨てや辻斬りで殺された百姓町人の霊は仏教の生臭坊主の供養などで救われる訳はないのであります。しかしまた徳川幕府の無法な政治の下にあっては百姓町人達は如何に大きな怨みを持っていても、その怨みを晴らすことは不可能であります。故にその怨みは来世生まれ変って晴らす他ないということも多いのであります。現芝に於いては自己が何の罪も犯しては居らず、他人の怨みを買う様なことは何1つした覚えはなくても、前世の罪の故に現世にその報いを受けることも多いのであります。善良な市民が通り魔のために斬り殺されたという様な場合、多くの人々は殺された人に一方的に同情します。しかし通り魔に殺された被害者が前世は徳川時代に生まれて新刀の斬れ味を試すために辻斬りをした武士であり、通り魔の方は前世は徳川時代に生まれて何の罪もないのに辻斬りで殺された町人であったという様な可能性を否定することは出来ないのであります。徳川時代には百姓町人の斬り捨てや辻斬りで武士が罪を問われることはなかったとしても、神の前にはその罪は罪として記録せられているのであり、何時か償いをしなければならない日が来るのであります。そうしてまた武士のために罪無くして殺された人の怨みも消えることはないのであります。故に現世に何の怨みもない人が、怨まれる覚えもない人を殺すという様な事件を起すのも前世の尽きぬ怨みのためであるという場合も多いと言えるのであります。
 
 世間にはよく完全犯罪を考える者がいます。しかし完全犯罪の如きものは絶対に有り得ないのだということをよく覚らねばならないのであります。他人に知られさえしなければどんな悪事を働いても安心だという考え方は神や霊の世界のことを知らず、カルマの存在を知らず、人間の輪廻転生を知らない愚かな人間の考え方なのであります。無知であるが故に罪を犯すのも悪いことでありますが、悪事と知っていながら他人に知られさえしなければよいとか、罰則がないからよいとか、警察に捕まりさえしなければよいと考えて敢えて悪事をする如きは非常に大きな罪となるのであります。人間の作った法律では罪にならなくても神の前には重罪になることは幾らでもあります。警察の追求を逃れることは出来ても神の前で自己の罪を否定することは出来ないのであります。それが判らないから自分は何1つ罪を犯したこともないのに何故事故や災難に遭わねばならないのだろうかと考えたりするのであります。
 
 本当に心の正しい清らかな人が事故災難に遭う筈はないのであります。例え法律の前では何の罪をも犯していないつもりでも神の前には大きな罪を犯している人は多いのであります。只宇宙の真理や法則を知らないから自分の犯している罪を知ることも出来ないのであります。罪を罪と知らないからこそ自分は正しいと思い、自分は正しい行為をしているのに何故事故や災難に遭わねばならないのだろうかと疑ったりするのであります。また例え現世に何の罪も犯してはいないとしても前世にも何の罪も犯したことはないと断言出来る程の人は地球人の中には居ないのであります。現世に於いて知らず知らずの裡に犯している罪が事故や災難や不幸の原因になっていることも多く、前世に犯した罪の故に現世に於いて様々な事故や災難に遭わねばならないことも多いのであります。善良な市民が通り魔に殺されたり、歩道を歩いている人が自動車に轢き殺されたり、何の罪もないのに犯罪の人質にされたり、共犯者にされたり巻き添えを食ったりするのは知らずにに犯している罪や前世に犯した罪が原因であることも多いのであります。
 
 およそどんなことであろうとも罪を犯して得になることはないのであります。例えば粗悪な商品を売りつけてぼろ儲けをしたり、口先でうまく騙して多額の金銭を巻き上げたり、誰にも判らない様に金品を盗んだりしてもその罪は何時か必ず償わねばならない日が来るのであります。盗難や詐欺にかかって金品を失うのも知らずに犯している罪や前世の罪に依る場合も多いのであります。盗まれ騙し取られたりする様な金品は本来その人の所有物とする価値がないものであるとも言えるのであります。本当に真面目に他人のため社会のために尽して得た報酬は神から与えられた財産と同じで持主の財産と呼ぶに相応しいものでありまます。故にその様な財産は滅多に盗まれたり騙し取られたりすることはないのであります。
 
 しかし粗悪な商品を騙して高価に売りつけたり、他人を堕落させたり不幸にさせたりして得た財産などは決してその人の正当な所有物であるとは言えないのであります。盗難に遭ったり詐欺にかかったりして失う財産は本来その人の所有物になるべきものでなかったからであると言えるのであります。故に盗まれたり騙し取られたりするのは財産を持つているからではなく、自分の所有物に相応しくないものを持っているからだと言えるのであります。盗まれる様な物を持っているから盗まれるのだというのはその様な意味で正しいのであります。故に盗むのも悪いが盗まれるのも悪いのであり、騙すのも悪いが騙されるのも悪いと言わねばならないのであります。穢れた財産を持つから盗まれたりするのであります。
 
 故にどんな事故や災難でも自己に全く関係もなく責任もないことが原因となって起ることはないのであります。前世に完全犯罪をやって、どんなもんだ、と威張っていた悪人が現世に完全犯罪の犠牲者になることもあり得るのであります。どんな場合でも理由無くして事故災難に遭うことは考えられないのであり、事故災難に遭うのはその人自身が必ず何か事故災難に遭わねばならない様な原因を作ったからだと言えるのであります。故に絶対に事故災難難に遭わない様にしようと思えば事故災難に遭う様な原因を作らない様に努力すればよいのであります。例えば自分で自動車の無暴運転や居眠り運転や飲酒運転などをして自分自身が事故に遭ったり他人を事故の巻き添えにしたりすることのない様に心掛けることであります。そうして常に宇宙の真理法則に従った正しい人生を送る様に心掛けることであります。少くとも現世に於いて自分自身を不幸にする様なことや他人を不幸にする様なことは絶対にしない様に努めることであります。

 しかし全ての人に前世のカルマがあります。故に現世に事故災難の原因を作らなくても、前世の罪や誤りが原因となって事故災難に遭うことも多いのであります。しかし前世のカルマをそのまま放置すれば、何時かその報いを受けねばならない日が来ます。故に前世のカルマをその儘にして置けば必ず事故や災難などの不幸を呼び起すことになるのであります。故に前世のカルマに依る不幸や悲劇を避けたいと思うならば、前世に自己が犯した罪を償えばよいのであります。しかし多くの人々は自己が前世にどんな人間であったか、どんな罪を犯したか判らないから前世の罪を償うことは出来ないと思うでありましょう。しかし決してそうではないのであります。前世に自己がどんな人間であったか、どんな罪を犯したか判らなくても、常に正しく清らかな心になって世のため人のために尽くす様に努めるならば前世のカルマは自ずから消えて行くのであります。

 例えば前世に他人を酷い目に遭わせたために現世はその報いで復讐せられることあれば、前世他人に酷い目に遭わされたために怒りや憎しみや怨みの念が消えず、無意識の裡に他人に復讐している人もいます。故に自己が前世の罪で復讐されたくないと思うならぱ、自己もまた前世の罪で他人に復讐することも止めるべきであります。一切の怒りや憎しみや怨みや呪いなどの心を捨て去って皆を愛し、皆が幸福に暮らせる社会を建設するために心から奉仕することであります。皆が罪の意識に目覚め、自らの罪を償うように心掛けると共に、皆が他人の罪を許す心になることであります。皆が自己の罪を償い、他人の罪を許すように心掛けるならば皆の罪は消えていくのであり、全てのカルマは消滅して行くのであります。前世の恨みの故に現世に復讐をすれば来世は自己が現世の恨み故に復讐されねばならなくなり罪や恨みや憎しみのカルマは永遠に消えることはなく、人類は永久に自からが作ったカルマに依って悩み苦しみ続けねぱならないのであります。
 
 私達は前世に犯した罪の故に現世に様々な自己や災難や不幸に遭わねばならないことも多いのであります。故にどんな事故や災難に遭っても自分には何の罪も責任もないと考えるべきではないのであります。自己が過去に何か原因を作っているからこそ事故や災難や不幸に遭うのだと言えるのであります。故にどんな事故や災難にも必ずそれに相応しい丈の原因があり、その原因を取り除けば全ての事故や災難を消滅させることも出来るのであります。原因無ければ結果は無く、結果のある処には必ず原因が存在するのであります。幸福になれる原因を作った人に不幸の結果が生ずることはないのであります。事故や災難に遭うのはそれ相応の原因を自分で作ったからだと言えるのであります。




 霊と病気

 病気を治すにはその病気の本当の原因を見極め、正しい治療を行なうべきであります。霊から起った病気は霊で治し、物質から起った病気は物質で治し、精神から起った病気は精神で治し、肉体から起った病気は肉体で治すという様に病気の原因に応じてそれに相応しい治療をしなければならないのであります。然るに現代人は病気の真の原因をよく見極めようとせず、原因に相応しい治療が適切に行なわれているとは言えないのであります。そのために多くの病気が治らなかったり治療するほど悪化したりするのであります。物理的な原因で起こった病気は物理的な方法で治すべきであって霊的精神的方法では治らないのであります。世間には様々な治療法や健康法がありますが、どの治療法や健康法でも一部の人々は治っても他の人々は治らないという場合が多いのであります。病気を治すには先ず病気の起った原因を正しく把握し、病気の起る原因や病気の悪化する原因そのもの取り除かねばならないのであります。病気の原因が無くなれば全ての病気は自ずから治るのであります。病気の原因を無くしないで誤った治療をするから何時迄経っても治らない場合が多いのであります。
 
 結局全ての病気は人間が大自然の摂理や法則に反した誤った生活を送ることが原因となって起っているのであります。例えば邪霊に取り憑かれて病気になるのもその人の心が誤っているからであります。邪霊はどんな人にでも取り憑くことが出来るのではないのであります。心が強く正しく清く明るく無欲で何時も神に繋がっている様な人には邪霊も取り憑くことは出来ないのであります。神を信じようとせず、神の教えを守らず、邪悪で低級愚劣な人や、欲深い人や陰気な人や心の弱い人や、何時も心配や取越し苦労ばかりしている人や、何時もいらいらせかせかしている様な人には邪霊が喜んで憑くのであります。故に邪霊に取り憑かれたくなければ何時も強く正しく清らかな心で生活して居れぱよいのであります。また邪霊に取り憑かれている人も強く正しく明るく清らかな心になる様に努力しさえすれば邪霊は何時迄も取り憑いていたずらを続けることができなくなりやがて逃げだすのであります。故に取り憑いた邪霊を追放するには目己の穢れた心を洗い清める以外に正しい方法はないのであります。
 
 邪霊は言わば病原菌の様なものであります。多くの人々は病原菌が体内に入るから病気になるのだと考えています。実際に病原菌が体内に入ったから病気になったという例は多いのでありますから、そのことが必ずしも嘘だという訳ではありません。しかし病原菌に入られた人は皆、必ず発病するという訳ではありません。幾ら伝染病が流行していても絶対に病気にならない人も沢山います。それは病原菌に対する抵抗力を持っているからだと言えます。身体が本当に健康で抵抗力のある人は病原菌が体内に入っても容易には病気にならないのであります。故に何時も健康で抵抗力のある体を造る様に努力しておりさえすれば、大抵の病気は恐れる心配はないのであります。
 
 霊が原因となって起こる病気に就いても同じことが言えるのであります。邪霊は心の正しく清らかな人には取り憑くことは出来ないのであり、例え一時的に取り憑いたとしてもいたずらをすることは出来いのであります。しかし邪霊は心の穢れた人には喜んで取り憑き様々ないたずらをするのであります。故に邪霊に取り憑かれた人は自己の穢れた心を洗い清めて正しく清らかな心になる様に心懸けさえすれぱ、邪霊はいたずらも出来なくなり自然に逃げ出すのであります。しかし世間の多くの人々は自己の穢れた心を洗い清めようとしないで邪霊を追放しようとします。それは例えば宗教家とか祈祷師と呼ばれる人々にお供えとか祈祷料を沢山払って邪霊を除去して貰うという様な方法であります。成程その様な方法で邪霊が取れて一時的に病状がよくなることはよくあります。しかしその人の心の穢れが全く清められていないのでありますから何時でも邪霊が取り憑き易い状態であることに変りはないのであります。

 例えば汚物があれば蝿やゴキブリなどが喜んで集って来ます。人間が追い払えば蝿やゴキブリは一応逃げ出しますが、一寸油断をしていればすぐに集まって来ます。結局蝿やゴキブリにたかられたくないのなら追い払っていても際限がないのであります。汚物そのものをそこから取り除き清潔にしさえすれば蝿もゴキブリもたからなくなるのであります。邪霊は喩えて言えば蝿やゴキブリの様なものであります。人間の心が穢れているから邪霊が取り憑くのであります。故に教家や祈祷師にお供えや祈祷料を出して邪霊をを取り除いて貰っても、その人の心が穢れている限り、後から幾らでも別の邪霊がたかって来るのであります。故に自己の心を洗い清めて邪霊が取り憑くことの出来ない人間になる以外に根本的な解決法はないのであります。