モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

無神論と有神論

 

ご紹介するのは、市井の思想家である吉田忠雄氏の『無神論者は損をする? 知っておきたいあなたと宇宙の関係』という著作です。人間という存在についての深い思索が綴られています。



 「人間」─ この底知れぬ神秘なる存在

 「生命」の神秘

 私たちは、普段、この自分という一個の肉体を、自分の「意志」で完全に統一し、支配しているように思いがちであるが、しかし、よく考えてみると、実は、それはとんでもない「思い上がり」であることに気が付かれるはずである。
 まず、あなたは、自分の「意志」で、自分の手足の爪や頬の髭、あるいは頭髪を自由に伸ばしたり縮めたりすることができるだろうか?
自分の身長を自分の意のままに調節することができるだろうか? それぱかりではない。私たちは、自分の肉体の活動力、生命力の根源ともいうべき、自分の心臓の働きの調節すら、自分の「意志」ではままならぬのである。
 つまり、私たちは、自分自身の肉体の「生命そのものの営み」に関しては、この「意志」は、まったくの無力なのである。私たちが、普段、自分のすべてだと思いがちなこの現在意識は、実に、その現在意識を外部に表現する能力、つまり、単に肉体を心の「道具」として使用する能力しかないのである。「生命そのものの営み」を司るものは、この薄っぺらな「私」という現在意識ではないのである。
 つまり、私たちは、「自分の意志」というもので「生きている」のではなくて、眼に見えぬ何ものかの力によって「生かされている」という厳然たる事実に気が付かれることと思う。その、眼に見えぬ「生かす力」、つまり、私たちが睡眠中にあっても、心臓、肺臓等々の内臓諸器官を活動せしめ、私たちの「生命」を、黙々と維持してくれている有難い力、これこそ「潜在意識」という偉大なる力の営みなのである。



 「潜在意識」─ この神秘なるもの

 さて、一口に「潜在意識」とはいっても、実は、1人の人間の潜在意識の奥行きというものは、到底、私たちの人間知では測り知ることのできない、深さと広さとを持っている。何故かと言うと、個人の潜在意識というものは、その奥では、「人類意識」とでも言うべき、全人類共通の大意識に繋がっていると言われており、さらに、またそのずうっと奥の最も深いところでは、在りとし在らゆるものを存在せしめている「宇宙大意識」(すなわち「神」)という“超意識"に繋がっているからである。
 すなわち、私たち人間1人1人の心の奥の奥は、大宇宙の森羅万象在りとし在らゆるものと、本来1つに溶け合っているのである。これを、分かりやすく言うなら、私たち個人個人の現在意識を、海面の「波頭」の1つ1つに喩えれば、潜在意識の世界というのは、その個々の波頭の下に脈打つ「大海」のようなものであると言えよう。大小様々の無数の波を、私たち人間を含むこの大宇宙の万物万象とすると、それらはすべて、その底では、大海という底知れぬ大きさで1つに繋がっているのと、ちょうど同じことである。
 私たちが、現在意識を離れて、深い催眠状態に入った時(つまり、潜在意識の深い世界へ没入した時)とか、あるいは、特殊な能力を持った人が、トランス状態(一種の“無我状態")に入った時などに、「透視」「千里眼」「テレパシー」等の、五感を超越した、いわゆる「超能力」を発揮することがある事実は、潜在意識という「大海」においては、人類同士は元より、万物が1つに融け合っているという、この“宇宙の真相”をよく証明している。
 すなわち、人間も物質も、潜在意識という世界では本来1つであればこそ、時間空間を超越して、密閉された箱の中の品物を言い当てたり、あるいは遠方にいる人に自分の想念を伝達せしめたりする(いわゆる「虫の知らせ」など)ことが可能なのである。話はちょっと脇道にそれそうになったが、実はこの潜在意識という世界では、万物万象が一如であるという真相を知ることが、「人間の真実の姿」を理解する上で、極めて大切なことなのである。




 大宇宙と一体の「あなた」

 さて、今までは、人間というものを「肉体および現在意識」→「潜在意識」→「宇宙大意識」(神)という順序で見て来たわけであるが、これは、人間のこの地上への出現過程というものを、ちょうど逆に遡ったわけである。つまり、人間というものは、その発生過程から見ると、大きく分けて、「宇宙大意識」→「潜在意識」→「現在意識および肉体」という順序でこの地上に誕生したのであり、そしてそれらが一如に合体して、現在のあなたが存在するわけなのである。
 これを、もっと分かりやすく述べてみよう。まず、私たちの周囲を見渡してみて判ることは、ある物事が発生するには、必ずその「原因」がなければならないということである。つまり、ある1つの現象(「結果」)を表わすには、必ずその背後に、その「原因」となる力が働かなければならない。すなわち、自然科学的にいわゆる「原因結果の法則」、または、哲学的にいわゆる「因果律」というものは、大宇宙の森羅万象を貫く“鉄則”であるということである。
 そして、私たち人間自身の「存在」もまた、この厳然たる“鉄則"の外に決してあるものではないのである。つまり、私たち人間の「存在」にも、それを存在せしめている「原因」となる力が厳然としてなければならず、そして、その「原因」は、この大宇宙を創成し、存在せしめている「原因」と決して別のものではないのである。
 すなわち、私たち人間を存在せしめ、その生命を司り、この肉体を動かしている「力」は、この大宇宙を整然たる秩序のもとに動かしている途轍もなく雄大たる「力」と、その根源においてまったく一つのものであるということである。


 
 
 この大宇宙を創成した者は何か?
 
 さて、私たちが現在住むこの大宇宙を創成し、さらにそれを一分一秒の狂いもない大調和のもとに動かしている遠大なる「力」と、私たち人間自身を存在せしめている「力」とが、まったく同じものであるとすると、次に、この偉大なる「力」とは如何なるものかということについて考えてみなければならない。この「力」こそ、私たちが日頃漠然と「神」と呼ぶものであり、在りとし在らゆるものの存在の根源となっている不可視の「無限力」である。

 それは、すべての存在の窮極の「存在」であり、その「存在」を存在せしめたそれ以前のものを持たない、とにかく「無限の初め」からただ「在る」、唯一絶対の「存在」、いわば「存在そのもの」である。つまり、それ自身の「存在」の「原因」を他に負わない「絶対存在」である。それは、宇宙創成以前からとにかく「存在」し、やがて自らの手で大宇宙を創成して、その中に万物万象を存在せしめている窮極の原因者、いわば「第一原因者」である。それを私たちは「神」と言っている。
 
 「神」は、当然のことながら、私たちの如何なる言語形容をも絶した存在であるが、とにかくそれは「自己意識」を持ち、無限の叡智を包蔵した、無限の生命力(生きるエネルギー)である。その無限たる叡智を備えた無限なるエネルギーは、自らがただ「生き生きと生きる」ということを最大限に楽しむことを欲する存在である。その他の目的を持った存在ではないのである。そこで、その「第一原困者」(神)は、まず、自らが「生き生きと生きる」ことを静かに「自己瞑想」(自己発想)したのである。
 「神」は、自らの存在を他に負う相対的存在ではなくて「絶対存在」であり、その他の存在は一切ないのであるから、「神」(宇宙大意識)の「自己瞑想」は、そのまま絶対の「実在」である。「神」が「かく在れ」と想えば、直ちに「かく在る」のである。ここで、「神」の「かく在れ」という「自己発想」は「絶対理念」である。
 「絶対理念」は、「絶対原因」でもある。すなわち、「神」の「自己発想」は、「絶対理念」として、また「絶対原因」として、絶対の権威をもって、直ちに「実在」(結果)に至らしむるのである。
 すなわち、旧約聖書の創世記第一章の、「元始に神天地を創造たまへり。‥‥神、光あれと言たまひければ光ありき」である。
 その「実在」こそ、私たち人間を含む、この大宇宙の万物万象にほかならない。すなわち、この大宇宙の万物万象、在りとし在らゆるものは、ことごとく、「神」の「理念」の「具象」である。
それ以外のものはないのである。
それ以外のものは、何ものも存在に入ることはできないのである。
 いわば、森羅万象、在りとし在らゆるものは、ことごとく、「神」自らが「生き生きと生きることを喜ぶ」ための「自己発現」以外のなにものでもないのである。




 
 ダーウィンの「進化論」の背後にあるもの

 「神」(宇宙大意識、宇宙大生命)は「無限」の存在である。「無限」とはまた「無形」ということでもある。無限(無形)なる存在(理念)は、有限(有形)なる実在(具象)を必要とするのである。すなわち「神」(無限の存在)は、自らが「生き生きと生きることを喜ぶ」ために、有限(物質−肉体)として具象化することを欲し、それによってはじめて満足を得るわけである。言い換えれば、この大宇宙の万物万象は、悉く「神」自らが「生き生きと生きることを喜ぶ」ために必要不可欠のものとして存在しているのであり、「神」そのものの「自己発現」以外の何物でもないのである。
 「神」は、まず初めに大宇宙空間を「自己発現」し、次いでその中に諸々の「天体」として自らを発現し、さらに、それら諸天体の上に、例えばこの地球でいえば、単細胞→植物→動物と、次第に高次な自己発現を続けて、そして最後に、自らの本来の理念に最も近い私たち「人間」として、「生き生きと生きる喜び」を最高度に享受する最高次の自己発現を遂げたのである。
 すなわち、私たち人間は、「神」のこの地上における最高の自己顕現であるのである。私たちのの生命は、「神」そのものの生命であり、私たちの肉体は「神」の理念の具象であるのである。私たち「人間」とは、こんなに素晴しい存在なのである。
 人間というものは、単に無目的にこの地上にウジ虫のごとくわき出たものではないのである。「進化論」(ダーウィニズム)以後の自然科学は、ただこの「神」の理念が低次より高次へと発現されて来た、その「現象過程」のみを見て、生物(あるいは生命)というものを論じているのであり、その「現象過程」の底を脈々と流れる遠大なる有意図な力を見ることを忘れてはいはしないだろうか。つまり、現象(結果)のみを見て、その現象を現象せしめている肝心の背後の力(原因)を見ることを忘れてはならないのである。





 この世でただ1つのあなたという「個性」
 
 ここまで述べて来れば、先に述べた、人間を含む万物はその潜在意識という大海においては一つに融け合っている、ということも当然のことと肯かれると思う。すなわち、この大宇宙に在りとし在らゆるものは、ことごとく、「神」という無限内容を包蔵した「ただ一つの心」の自己発現(自己展開)であるから、当然、その根源においては万物一体であることは言うまでもないことである。

「神」は無限内容であるから、森羅万象として文字通り無限の様々な発現形態を有し、さらに、同じ人間としても無限の様々な「個性」として発現するのである。つまり、私たち人間は、同じ指紋を持った人がこの世に2人と存在しないのと同じように、まったく同じ個性を持った人も存在しない。つまり、すべての人間は、ことごとく、「神」という「唯一つの心」の自己発現でありながら、それぞれまったく異なった「個性」(性格をも含めて)を持っている。
 それはなぜかと言うと、「神」は、自らのその贅沢極まる無限内容を、「人間」という有限なる存在を通して、時間的空間的連続の上にその全相を絢爛と発現展開しようとするものであるから、当然、まったく同一の発現を繰り返すというような、そんなみみっちい、“非合理的”なことは、絶対にする訳がないからである。それは、「神」自らが定めた大自然の創造原理に背くことである。
 この意味で、人間は、「個性」はまったく異なるものではあるけれども、それだけに、一個の個性は、それ自体が「神」の自己発現の一相(1つの表れ、姿)として、他の類型のない絶対の価値を持っているということである。
 つまり、例えあなたが信じようと信じまいと、そんなことには一切関わりなく、あなたという一個の個性は、それ自体、他の何ものにも換えることの出来ないものとして、「神」にとって絶対の存在価値であるということである。それが、「あなた」の、また「人間」の本来の姿である。





 「存在」イコール「生命」
 
 さて、私たち人間を含むこの大宇宙のすべての存在は、宇宙大生命(神)自らが「生き生きと生きることを喜ぶ」ための自己発現及び自己展開に他ならないのであるから、当然、その地上における最高次の発現である私たち人間の人生にあって、少なくとも「マイナス」と働くようなものは、本来どこにもあり得ないという“真理”を納得して頂けると思う。
「存在」ということが「生き生きと生きることを喜ぶ」ことに他ならないのである。
私たち人間は、その喜びを最高度に享受する中心存在以外の何ものでもあり得ないのである。その他の目的で存在するものは、何ものも“ない”のである。それ以外の目的のものは、一切「存在」に入り得ないのである。
 
 「全存在」イコール「生き生きと生きることを喜ぶ」ことであって、この「自然の法則」の等式を破るものは、いかに存在するように見えても、それは、私たち人間の一時的な「幻覚」に過ぎない。「妄想」に過ぎない。「迷い」に他ならない。だから、私たち人間の存在目的、人生の目的は何かと言えば、それはただ一つ、「生き生きと生きることを喜ぶ」こと以外にはあり得ないのである。
 たとえそれは「重い荷を背負って長い坂道を行くが如きものであったとしても、その坂道を自分の足で一歩一歩征服して行くことに喜びを見出せない人は、どこかに「迷い」があるのである。「坂道」は、自分の脚を鍛え、自分がそれを征服して行くためにあるのだと思える人は、「真理」を知っている人で、それは健全だといえるのである。逆に、「坂道」は自分を苦しめるためにのみあるのだと思っている人は、自分の口は愚痴や不平を言うためにのみあるのだと心得ているような人で、そういう人は永遠に「本当の幸せ」をつかむことはできない。

 よく「ものは考えようだ」たどというが、私たちの人生の途上に表われて来た「坂道」を、それは自分の脚を鍛え、自分が征服するためにあるのだと思える人と、それは自分を苦しめるためにのみあるのだとしか考えられない人との違いは、単たる「見解の相違」なんかではあり得ない。
もはや、「人間」が根本的に違う。“真理”を知っている賢者と、“法則”に支配されている愚者との違いである。幽霊の正体を枯尾花と知っている「大人」と、闇夜の物干し台に取り残された1枚の洗濯物を見て泣き出す「子供」との違いである。子供の恐怖心は、取り残された1枚の洗濯物に幽霊の幻覚を見る。
それと同じく、「全存在」イコール「宇宙大生命が生き生きと生きることを喜ぶための自己発現」という永遠の真理を知らぬ人は、その「真理」を侵す如くに見える何物かの幻覚を見て怯え苦しむ。





 あなたが幸福であるのは「宇宙の法則」である。

 ここで、人生の目的は「生き生きと生きることを喜ぶ」こと以外にはないという言い方は、あるいは、誤解を招く恐れがあるかも知れない。しかし、賢明なあなたには、私の言いわんとすることは、正しく理解して頂けると思う。あなたが、弛(たゆ)みない創造に「生き生きと生きる喜び」を見つけるか、あるいは、豚のように、ただ与えられたものを享受することにのみそれを見出すかは、それはもう「あなた自身の問題」という以外にない。
 
 いずれにせよ、私たち人間は、この大宇宙の全存在の中心存在として、他のいかなる存在よりも最高度にその「生き生きと生きる喜び」を享受する存在であるということ、私たちは決してそれ以外の何らの目的でも存在しているのではないという、実に狂おしいばかりに有難く尊い“真理”に目覚めて頂きたいのである。私たち人間は、本来、みな幸福な人生を営むようにしか定められていない。もし、人類に「宿命」というものがあるとするならば、それ以外にはあり得ない。あなたの現在のいかなる「不幸」も、それは、あなた自身の「迷い」の心が生んだ一時的な「幻覚」に他ならないのである。





 「人間は皆同じ」ではない

 あなたの価値の二面性

 やや固苦しい言い方になるが、まず、普通言いわれる「人間の価値」というものには二面性があると思うのである。すなわち、「消極的な面」と「積極的な面」とである。言うまでもなく、私たち人間は、時間空間の上で有限で相対的な存在である。ただ「神」のみが無限で絶対的な存在である。私たち人間は、その「神」の無限価値を、時間的空間的連続の上に展開発現して行く意識的中心存在である。つまり、肉体としての人間は、「神」の発現形式と言うことができるであろう。
 有限は無限の発現形式である。あるいは相対性は絶対性の発現形式であると言うこともできよう。すなわち、∞(無限大)はどこまでもただ∞であって、そのままではその内容価値を発現することができない。「7」と表われ「8」と限ることによって、∞はその内容価値を発現する。この場合、7という数値も、また8という観念も、ともにooの内容価値発現のためには不可欠の「形式」であって、両者間には純粋にその存在価値という点で、なんら優劣はあり得ない。
 つまり、「7」も「8」も、「百」も「千」も、ともにみな∞の内容価値発現形式として、その存在価値はあくまでも平等である。
早い話が、1円玉も1万円札も、通貨としての存在意義に、両者間にはなんら優劣はあり得ない。1円玉も1万円札も、「お金であることに変わりはない」ということである。私たち人間も、すべての個人がそれぞれ「神」の無限価値の発現のためには絶対不可欠の存在であって、いかなる個人と個人の問にも、本質的にその存在の絶対性という点で、なんら優劣はあり得ない。つまり、いかなる個人といえども、その存在価値はあくまで絶対である。「個人の尊厳」が叫ばれるのは、この理由による。これが、人間の価値の絶対性という一面である。






 大統領もギャングも「同じ人間」か?

 しかし、「7」という数値は、ooの一発現形式として絶対の存在価値を持っているとはいえ、7が7だけで孤立していても何の意味もない。8もただ8という絶対観念に留まっている限りは、何ものも生み出さない。
「個人の尊厳」が不可侵であるのは、いかなる個人といえども、絶対性(神)の発現形式としてその存在は絶対であるという理由によるのであるが、しかし、単なる価値の発現形式たることと、「価値を発現する」ということとは、自ずから、まったく別のことである。
ルンペンも大会社の社長も、ギャングも大統領も「皆同じ人間だ」というのは、人間の価値というものを、単に一面から見ているに過ぎない。これは、人間の価値の消極的な一面である。
7という絶対数値は、7の持つ価値の消極的な一面である。8もただ8として孤立して存在する間は、その存在の絶対性という点で、7との間に何ら優劣はあり得ない。
 私たち個人も、「自己の存在の絶対性」という消極的な価値面にのみ留まって甘えている限りは、生まれて間もない乳呑み児も、20代、30代の血気盛んな青年も、すぺて同等の価値だということである。極端な話が、小学生の息子が自分の父親に向かって、「俺もお前も同じ人間じゃねえかよ」と、開き直ることである。この小学生は、間違ったことは言っていないかも知れない。しかし、幼ない彼は、不幸にして、人間の価値というものの一面だけを強調しがちな、この頃の甘ったれた風潮に他愛なくなびかされてしまっているということである。

 いかなる個人といえども、確かに、その存在という消極的な面では絶対性を持っている。しかし、絶対性たることと、絶対性を発現するということとは、自ずから、まったく別のことである。言い換えれば、「存在する」ということと、「生きる」ということとは違うということである。例え、同じ空間に存在していても、茶碗と、それを使う人間との存在性は、まったく別だということである。「犬も動物、人間も動物」という人は「2=9」という数式に何の違和感も覚えない人なので、もう一度、幼稚園から数字の勉強をやり直す必要があるのである。


 
 「2=9」この奇妙なる等式?
 
 絶対性(個人の存在価値)は、相対性(社会性)を持つことにより、初めて発現される。これが、いわば先ほど仮に述べた人間の価値の積極的な面ということになる。ここにおいて、初めて、父親と小学生の息子は「同じ人間」ではなくなる。「2=9」が“真理”でないことにも気が付く。そして、「2=9」は間違いであるが、「「2:9」あるいは「「2<9」とという数式があることを、小学生の彼はやがて学ぶ。そして、「2=9」は間違いであるが、「2=9」は「11」という新たなる高い価値を生み得ても、「「2:9」あるいは「「2<9」という数式は、何物も生み出さないという新しい“真理”も知る。つまり、単なる「相対性」ということと、「相対性を持つ」ということとは、自から、まったく別のことだとも、彼は知るのである。
 「2+9=11」という数式において、これらの数字の相互間には、その存在価値という点で何ら優劣はあり得ない。2あるいは9という、どちらの絶対数値が欠けても、11という新しい価値を生み出すことはできない。
私たち人間の価値の積極的な面とは、この「2+9=11」という数式に自らが組み入ることをいう。ただ、数字と私たち人間との違いは、数字は人間に使われるもの、人間は数字を使うものという違いである。
 言い換えれば、死物である「2+9=11」という数式に私たち自身(生命)が、自ら組み入ることにより、11をひたすら∞に近づける喜び、それが、数学という高等概念を駆使することができる、「理性」の中心的存在たる人間という生き物の面目である。






 1人で走って一着になるのは当り前
 
 要は、私たち個人個人が、お互いに自らの、2なら2、9なら9という絶対価値をフルに発現し合うところに本当の「価値」があるのであって、自分が9よりもいくつ少ない、あるいは俺は2よりもいくつ偉いという相対性そのものは、あくまでも無価値である。マラソン競技で1番になりえたのは、2番以下のランナーがいたからで、1人で走って颯爽とテープを切っても、それは無意味である。まして、自分がもし、死力を尽くして走り抜いたのであったならば、その結果が例え2着に終ったとしても、それは決して恥ではない。
 恥は、1着の栄光に酔って、自らの∞へのひたすらな挑戦を怠ることと、2着という結果を「敗北」として、クヨクヨと明日への挑戦を怠ることで、いずれもスポーツマン精神に反する男らしくないあり方である。
私たちは、9の力を7しか出さない人よりも、持てる4の力をフルに出し切る人に、当然軍配を上げる。そして、その結果たる「7:4」という数式そのものは、私たちにとって問題ではない。
問題は、私たち人間は、その「7:4」、あるいは「7>4」という数式に支配される存在ではなく、その数式を動かして行くのが、生命を持つものの本来の面目であるということである。
「7:4」というのは、あくまでも「結果」である。

 「生きる」ということは、常に自らが新たなる「原因」であるということである。常に新たなる「原因」であるということは、言い換えれば、常に新たなる「結果」を生み出して行くということである。
つまり、「7:4」という、死物たる今日の「結果」は、私たち生命を持つものには何ら問題ではなく、問題は、明日の「結果」のためには、自らが今日、いかなる「原因」であるべきかということである。「7:4」という数式は、あくまでも「死物」である。しかし、今日その「7:4」という1つの「結果」を生んだ2人の人間は、自らは、「7>4」という数式の意味を理解できる高等な生き物である。そして、「7>4」の意味が理解できるということは、自らが、ひたすら∞を指向する「可変価値」」的存在たることを自覚しているということに他ならない。






「価値」を知る者みが「価値」を生む

 先ほど私は、単なる「存在」ということと、「生きる」ということとは違うと述ぺ、単なる存在を「消極的価値」、生きるということを「積極的価値」という風に述べて来たのであるが、しかし、厳密に言えば、当然のことながら、私たち生命を持つ人間に、決して「単なる存在」などという言い方が成り立つわけがない。
いかなる個人といえども、生まれた瞬間から(ロビンソン・クルーソーや、仙人でもない限り)、必ず何らかの形で杜会的(相対的)存在に入るわけであるから、その意味で、人間の価値というものを、このように2つの面に分けて捉えるということは、本当はとてもおかしなことであって、人間に、元々「消極的な価値」などというものがあり得るはずはない。
 ただ私は、先ほどの、小学生の息子が自分の父親に向かって、「俺もお前も同じ人間じゃねえか」と、開き直るという、極端な例に象徴される、この頃のふざけた風潮は、私たち人間の本当の存在目的、本当の価値というものを知らないところに原因を発しているような気がしていたものであるから、敢えて、このような極端な表現の仕方をさせて頂いただけのことである。
 
 ルンペンも大統領も「皆同じ人間だ」という言葉は、常に、ルンペン側の口から吐かれる。
しかし、「犬も人間も同じ動物じゃねえか」と、犬側は言わない。
それは、犬には元々、「7>4」という数式の意味すらも理解できないからだ、とも言えよう。その意味では、もし、前述のような意味の発言を平気でするような人間がいたとしたら、彼は、「7>4」の意味すらも分からぬ、犬と同等、あるいはそれ以下の生き物だと言われても仕方がないのである。
7も4も、同じ数字じゃねえか」と言う人間に、「7>4」の答を出せる道理がないのである。ただ「価値」を知るもののみが「価値」を産み出し得るのである。

 私のこんな文章よりも、太宰治が『斜陽』の中で、今私が言いたいことを、スカッと次のように語ってくれている。

 「人間は、みな、同じものだ。何という卑屈な言葉であろう。人を卑しめると同時に、自らをも卑しめ、何のプライドもなく、あらゆる努力を放棄せしめるようた言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主主義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「ヘヘ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねぇえか。」
なぜ、同じだというのか。優れている、と言えないか。奴隷根性の復讐。


 人間は所詮この社会の「風景」に過ぎないのだろうか?「人間は皆同じものだ」、太宰はこれを「あらゆる努力を放棄せしめる言葉」と言っているが、私は結局、「生きる」ということを放棄させる言葉と言い換えてもよいと思う。

あるいは、同じ太宰の作品名を借りるたら、『人間失格』の自己宣言であるといってもよいと思う。「7も4も同じ数字だ」と言う時、私たちは、ooの内容価値発現形式として、両者間には優劣はないという意味でそう言う。つまり、早く言えば、7も4も、価値発現の「手段」として、「記号」としてのみ見るならば、その存在価値は平等だということである。

 それとまったく同じことで、「ルンペンも大統領も皆同じ人間だ」というのは、人間を、「神」(無限価値)の内容発現形式としてのみ捉える時に成り立つ発言であって、肝心の価値発現主体という生命本来の働きには、眼をつぶってしまっているのである。
人間は、所詮「神」の発現形式に過ぎないではないか、つまりは、「神」に動かされる単なる「数字」であり、「記号」ではないか、というのである。
人間は自ら生きる生き物ではないというのである。「神」の発現形式として、山や草や木と同じだというのである。
これを私は、「人間風景観」と言っている。
「てめぇのような半端な人間がいるから、世の中はバラエティーに富んでいて、神様の眼には面白いのだ。」というのである。
「俺のような貧乏人がいるから、お金持ちは優越感を味わえるのだ。」というのである。
まさしく、、奴隷根性の復瞥でなくて何であろう。
せいぜいよく言って、自ら「社会劇場」の背景画たることに甘んじる犠牲的精神とでもいうところだろうか。
それで私は幸せだ、という人には、私は今更何も言う資格はない。
しかし、本当にそう「達観」できた人が、何で今更、「人間は皆同じものだ」などという、陰気なつぶやきをしなければならないのだろう。
事改めて「人間は皆同じものだ」などと言われなければならないということは、彼自身、心のどこかで、人間は「数字」ではない、「記号」ではない、「風景」ではない、ということを、はっきりと知っているからに他ならない。



人間は「神」のロボットではない
人間は「数字」ではない。
「記号」ではない。
「風景」ではない。
「数字」を使うもの、「記号」を駆使する存在、「風景」を嘆賞する自然の主体、それが人間である。
私たちは、「神」のロポット、または、操り人形ではないのである。
私たち自身の中で、「神」自らが生きているのである。
無限なる「神」が、自らの「発現手段」として、有限(肉体人間)の存在形式をとっているのである。
私たちは、価値発現形式であると同時に、いや、それ以前に、何よりも「価値発現主体」なのである。
私たちは人間は、相対性を通して絶対性を発現して行く、意識的中心存在である。
半端なやくざがいるから世の中は面白い、というのは、世の中の半端しか知らぬ人の台詞である。
貧乏な人間がいるから、一方で、裕福な人間がいるなどという、あまりにも単細胞的で、古臭くて、捻くれたものの考え方が、「思想」めいた仮面を付けているから、世の中の人々はますます戸惑うのだ。
それらは、あくまでも「形式」(現象−いわば「結果」)に過ぎない。
現象(結果)のみを見て、それに囚われている心は、必然、我が身を不自然に息苦しくするだけである。
一度吐いた息(結果)はそこで棄て、次には新鮮な酸素(原因)を吸うのが「自然の法則」である。
よい「原因」さえ持てば、「結果」は否が応でもよくあらざるを得ないのである。

 現在表われている価値発現形式(政治経済体制)がもし悪いとすれば、それは、価値発現主体たる私たち個人個人が間違っているということである。
だから、社会を「革命」したかったならば、まず私たち1人1人、自らの内面を「革命」することが先決なのだ。
「国家は個人の集合体だ」と主張する者が、まず国家体制をどうにかしなければ、個人の自由や幸福がない、とは一体どういうことだ。
そして、本当の「革命」とは、「現在の破壌」や「過去の否定」ではないはずだと思う。
「現在」または「過去」は、あくまでも、既に「結果」である。「結果」に囚われる女々しい姿勢が、決して明日によい「原因」を持てるはずがないのである。
ラソンで2着に敗れたのは、「結果」である。その、今日の「結果」が不本意であったならば、明日によい「原因」を持てばよいのである。実に、それしかないのである。
自己の持てる4の力を全部出し尽して、7の力に敗れたという、その「7:4」という相対性そのものは、ただ「死せる現象」であって、「動く生命」とは無縁である。その「死せる現象」にのみ囚われる時、「7も4も、同じ数字じゃねえか」ということになるのである。
「7:4」という結果を生んだそれぞれ2人の人間は、決して「7」という、また、「4」という数字そのものではあり得ない。まして、その数字に支配される存在でもあり得ない。その数字を、ただひたすら∞に向かって動かすのが「人間」である。




 「価値あるあなた」をここに発見する!
 
 人間を、ただ「肉体的存在」だと見るから、人間は所詮「記号」だ、「風景」だという悲しい見方しかできないのだ。肉体はあくまでも、価値発現の形式(手段、道具)に過ぎない。
「人間」とは、その価値発現形式(肉体)を自由に操作する「価値発現主体」そのものだということである。
私たちは、単なる「形式」として存在するところに何ら価値はない。「価値」を発現するところにのみ、本当の「価値」がある。
そして、自らが、無限価値(神)の一発現主体たることを自覚した人は、当然、その瞬間から、既に、無限価値(神)と一体の存在である。
すなわち、彼は、自らの中に「神」が生きていることをはっきりと自覚する。その時の彼には、今、自分の力が客観的に4しかないということ、あるいは、「7>4」という「現象」そのものは、何ら問題ではない。なぜなら、自らの内に「神」の生き給うことを自覚できた彼は、自らが、ただひたすら∞を指向する「可変価値」たることをはっきりと知っているからである。
言い換えれば、人間とは「神」、すなわち「無限の可能性」そのものだということ、それ以外の何ものでもないということを、彼は知っているということである。
そして、自らの中に「神」(普遍価値)を生かす人は、そのまま「普遍価値」である。これを、本当の「価値ある人」という。
人間は「神」の被造物として、「作品」として平等だという人、つまり、「神」(造物主)と「人間」との相対性を超克できない人、言い換えれば、「神」(普遍価値)を、自己(特殊価値)の中に生かさない人は、当然、その存在は、狭い特殊な価値しか持たない。
だから、これを本当に、客観的に「価値ある人」ということを、私たちはできないのである。
「自分のようた貧乏人がいるから、金持ちがいるのだ」という人は、自分はただ、「金持ち」にとってのみ存在価値があるのだ、というのであるから、当然、何ら社会的に普遍価値たるを得ない。

 また、「俺は、どうしてもあいつをやっつけなければ気が済まない」という人は、ただ、「あいつ」のために自分は存在するのだ、というのであるから、これはさらにちっぽけな男という以外にはない。(そして、こういう人たちには、本当の意味での「自分自身の人生」すらもない。) 要するに私たち人間は、「神」の御心を生きるところに本当の「価値」があり、そして、それ以外に、私たちの「本当の幸せ」は絶対にあり得ない、ということである。「神」の御心とは何か? それは、各自の心の奥に向かって真剣に問うしかない。
万人の心の奥に横たわる「神」の御心(普遍価値)、それを素直に生き切れる人を、私たちは、本当の「価値ある人」と呼びたいと思う。