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『わたしの友』

とりなし

教会であるご婦人が「とりなし」について証しをしてくれました。


このご婦人はかつてタバコがなかなかやめられないという悩みを抱えていました。
教会にタバコを吸っている人はおらず、周囲からも止めた方がいいと勧められ、自分でも止めようと何度も禁煙に挑戦するのですが、毎回失敗。



なぜ止められないのかと落ち込み、次第に禁煙にチャレンジする気も失せたといいます。



ところがある日、心の中にふと「もう一回だけ禁煙にチャレンジしてみよう」という思いがわいてきたので、最後の一回のつもりでチャレンジしたところ、この時はアッサリ禁煙できてしまい、それ以降タバコは一切吸っていないそうです。


スパっとタバコが止められたことが嬉しかったので、このご婦人は今まで禁煙を薦めてきた親友に電話で自慢したそうです。


「私はあっさり禁煙できたのよ。私の信仰も大したものでしょう。」


と誇らしげに語ったそうですが、電話口の親友の答えに愕然としたと言っていました。

「私はちょうどその頃、あながたタバコをやめられるように、断食して祈っていましたよ。」
と言われたそうです。


自分で成し遂げたと思って電話をしたのですが、実はそうではなかったと気付いたといいます。


ご婦人が語り掛けていた言葉が印象的でした。


人のために祈る「とりなしの祈り」は本当にチカラがあります。
だから私たちは教会の中で、もっと互いにとりなしあっていきましょう。



二つの戒め

しかしこれは聖書から見れば自然なことなのかもしれません。
聖書の中で、神は人間に二つの戒めを与えています。


一つ目は「神を愛すること」
二つ目は「隣人を愛すること」


祈るとい行為は、神の力が自分よりも優位と認め慕うこと。
一つ目の戒めを満たしています。


そしてとりなすことは、自分のワガママのためではなく、人のために祈ること。
これは二つ目の戒めを満たしています。



そしてこんな風にも書かれています。


ヨハネ福音書 15章 14節
わたしがあなたがたに命じることをあなた方が行うなら、
あなたがたはわたしの友です。


とりなしの祈りは、この二つの戒めを同時に満たしているので、神の目に留まりやすいのでしょうか。
神の友となる行為だから「とりなしの祈りはきかれる」と言われるのかもしれません。