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百合花亭

2012-01-12 惜しい「傑作」

[]ケイト・モートン『忘れられた花園(上下)』(1〜2冊目) 00:13

少しずつ読書ブログを再開。去年は仕事をしながら学生時代並みの80冊近く本を読めた。

今年はフィクション以外の読書を増やして、90冊を目標に。

忘れられた花園 上

忘れられた花園 上

忘れられた花園 下

忘れられた花園 下

今年最初の読書。

要所要所に挿入される童話はどれもすばらしい出来。一番最初の「老婆の目玉」はあまりにも美しい話で、紅白聞きながら思わず涙してしまった。たぶんこれはすばらしい傑作だろうと上巻を読み終わった時点では確信していたのだが。

物語の肝となるネルの出自の描かれ方が納得いかず、一気に興をそがれてしまった。

アデリーンのスキャンダルを嫌う性格、ローズのナサニエルへの愛情、厳格なヴィクトリア朝の雰囲気を徹底的に描いていきながら、それはないだろうという展開で。

レントゲンの伏線もよくできているし、小説の構成としては美しい。ただ、この部分だけがどうしても感情で納得いかなくて、それが一つだけの、しかし決定的に大きな瑕瑾になってしまった。

秘密の花園、お屋敷、貴種流離譚と細部は完璧なのだけど……。

本当、一個感情で納得できないことがあるだけで、こんなにすべてが色あせて感じるのかと不思議に思えるほど。

考えれば考えるほど、ネルの出自以外はどこを思い返してみてもすべてが調和してるし美しい構成の物語なので、本当に私にとって「惜しい!」作品になってしまった。

大森望北上次郎の対談で出てくる「これは傑作と言うしかない作品だけど、自分好みじゃない」という小説が本当にあるんだなあと思った。

2010-02-19

[][]伊藤計劃虐殺器官』(18冊目) 00:43

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

2010.2.15読了。

専門家の評判が非常に高い本作。『グラン・ヴァカンス』などを抑えてゼロ年代ベストSFの第一位に選ばれたらしい(後書きより)。9.11後の世界を真っ正面から扱った世界最先端SFとも評価されていて、前評判がとにかく高いので読んでみたのだが。冲方丁シュピーゲルシリーズ』、堤未果貧困大国アメリカ』、ジェフリー・ディヴァー『ソウルコレクター』を読んだ後だと、はっきり言ってものたりない作品となってしまっている。2007年発表作品だから、わずか3年しか経っていないのに。SFに時は残酷である。

「9.11後の世界」とか現代社会とか、広い世界をテーマにしたにしてはどうかなあと思った点がいくつか。オタク的ギャグ(『頭文字D』とか)が入っているのはご愛敬として許せるのだが。

当初、主人公は世界各地で内戦・虐殺を撒き散らすジョン・ポールという男を暗殺するために動いている。しかし、ジョン・ポールがそうした行動を取るのには理由があった。その目的は「愛する者を守こと」。彼は、愛する人を二度と亡くさないために、アメリカに悪意を抱きそうな国を見つけ、その国に内戦の原因となり虐殺を招く「虐殺器官」を使用していたのである。後進国の見えない犠牲のうえに成り立っている、アメリカ先進国)の自由と平和を守るために。

その一方、主人公は、自問する。アメリカ軍の暗殺部隊として薬物によって感情を調整され、人殺しの実感もないままに様々な国の「アメリカに害を為す」「平和の敵」を殺していた自分の罪は何なのか?また、植物状態になった母親の延命措置を中止した自分の罪はどこにあるのかと。

こうしたことなかで、ジョン・ポールの真の意図を知り、彼から「虐殺器官」を受け継いだ主人公は、「自分を罰することに決めて」それを、自分の国=アメリカに向けて使用する。結果としてアメリカは内戦状態に陥るが、今までアメリカのために犠牲になっていた全ての国々が、アメリカが戦争状態になったおかげで、代わりに救われることに満足感を抱いて話しは集結する。

この結末では、主人公は自分を罰することに決めてアメリカを罰している。自分=社会=国=アメリカという単純な構造がそこにはあって、つまり、9.11後の現在世界を射程にするといいつつも、そのオチは、え?「セカイ系」?という結論になってしまっているのである。

自分と社会と国がシームレスにつながる感覚というのは、日本では、まあ、ある程度の共有感覚としてあるのかもしれないが、移民大国のアメリカやその他の国では、国民が国に抱くナショナリズムというものはこんなに単純なものではないと思うのだ。もっと、プラグマティックなものかもしれないし、もっと宗教的なものかもしれない。それを、現在の日本の小説によくあるようなナイーブなメンタリティという狭い世界の感覚で語ってしまっていいのだろうか。少し興ざめでもある。

さらに、世界で起きている虐殺の原因を「虐殺器官」という装置と、ジョン・ポールという一人の人間の「意志」で説明可能なものにしてしまったところも、現状を考えれば「希望的」でさえある展開と思える。

9.11後の世界の絶望的なところは、誰もが虐殺を起こすという意図などなくとも、資本主義システム、もしくは堤未果の言う「コーポラティズム」に巻き込まれてしまうことによって、誰もが、意図せざるところで、誰かを虐殺しているところにある。そえも、比喩ではなくなってきてもいる。ナショナリズムとか国家との一体感とか考えず、大学の学費のために借金をした→利子がかさんで返せなくなる→しょうがないから、イラクに行く、とかいう、ナイーブさとはほど遠くて、実利で動くしかない、身もフタもない状況が現実にはあるのだ。おそらく著者自身は、そういう世界の有り様を描きたかったのかとも思えるのだが、そうした「意図せざる」悪意を、一人の犯人によって象徴する、もしくは肩代わりさせてしまうというのは、あまりにも安易だ。

こういう、専門家の評判が良い本が、自分の感覚とずれていると、むしろ自分が何か決定的な読み間違いをしているのではないかという不安に駆られる。誰か、この本の正しい読みというか、良い点を教えてくれるのであれば、教えて欲しいとも思ってしまうなあ。

ルポ 貧困大国アメリカ II (岩波新書)

ルポ 貧困大国アメリカ II (岩波新書)

ソウル・コレクター

ソウル・コレクター

2010-02-13

[][]『ラギッド・ガール』と『グアルディア』 02:17

『ラギッド・ガール』表題作のみ読了。これは…申し訳ないが、私にとっては仁木稔『グアルディア』の方が上!!

ラギッド・ガール 廃園の天使 2 (ハヤカワ文庫 JA ト 5-3) (ハヤカワ文庫JA)

ラギッド・ガール 廃園の天使 2 (ハヤカワ文庫 JA ト 5-3) (ハヤカワ文庫JA)

飛浩隆といえば、五感インパクト作家である。圧倒的リーダビリティのある文章で読者の五感を刺激しまくり、読み手の嗅覚、味覚、触覚、痛覚、全てを支配して生々しい感覚を呼び覚ます。ただ、『ラギッド・ガール』で呼び起こされる感覚は…(私の中では同じものを描いているように感じたのだが)『グアルディア』で仁木が描いた描写の方が勝っていたなあと思う。というか、『ラギッド・ガール』を読み終わったとき、あれ、なんか衝撃が薄いな…、というかこれよりもっと上をいく感覚をどこかで体験したような…と申し訳ないが思ってしまった。それで思い出したのが『グアルディア』だった。『ラギッド・ガール』のインパクトは、『グアルディア』によって「喰われて」しまったのである。

グアルディア (SFシリーズ・Jコレクション)

グアルディア (SFシリーズ・Jコレクション)

両作品に共通する(と私が感じる)感覚というのは、他者と自分の境界がドロドロになって、どこまでが「私」という個人なのか、その境目がよくわからないというようなものだ。さらにいえば、愛するものとのあいだの「境界」が解け合っていくことの甘美さがある。その一方で、自分が拡散していく不安感と「個」の輪郭が歪んで溶け出すというグロテスクさもある。飛の『ラギッド・ガール』では、「全身これ犀のケツ」とさえいわれる凄まじい醜女と、美の理想のような美女、という二人の女性の同性愛関係のなかで、この「境界」が耽美に解け合う。さらにお互いがお互いを傷つけ合う関係もはらむのだが、「境界」が解け合っている彼女たちにおいては、それはまた,自傷行為につながるという複雑な構成をとる。

で、女性の同性愛が評価されてその年のセンスオブジェンダー賞を受賞してもいる。

いや、しかし仁木の『グアルディア』は同性愛の上をいく。仁木の描く関係は父娘、母子であって、親子関係のなかで、ドロドロに溶けていく個人の境界を描くのである。近親相姦的関係と…さらには、実際に「父親」が愛する恋人を「娘」として「出産」するという、圧倒的な身体感覚をも伴った異様な個の境界の崩壊と、しかしまた愛する者と一つになるという甘美な一体感を描いている。


『グアルディア』では二組の男女――「親子」が核となる。

親、子という血縁的な時間軸のなかで、どこまでが自分なのかという問いをも発する一つ目のカップル。それが「アンヘル」と「グアルディア」である。

主人公の一人、アンヘルという名の少女は(ちなみに男装している)、アンドロイドというか人為的に遺伝子的な改変がほどこされた人間である。彼女は、死期が迫ると自分のクローンを「妊娠」する。そしてクローンを出産すると死ぬ。子であるクローンには、歴代の母親(アンヘル)の記憶がそっくり受け継がれている。その一方で、「自分」という個体認識の意識もある。歴代の「アンヘル」は、長寿を持つ「グアルディア」と呼ばれる一人の男によって、保護され、娘として育てられる。「グアルディア」は、初代のアンヘルを愛し、彼女もまた「グアルディア」を愛していた。そして歴代の「アンヘル」は、初代アンヘルの記憶をうけ継ぐがゆえに、必然的に「グアルディア」を愛する。しかしこの愛は初代「アンヘル」の記憶と感情なのか?私は初代アンヘルと同一人物なのか?好きで好きでたまらない「グアルディア」が愛してくれているのは、「私」ではなく、実は初代「アンヘル」なのではないか?どこまでが自分で、どこからが他人なのか。どうしようもない問いを抱え続けるのである。

しかもアンヘルは生体機械でもあって、その機能は、はるか上空に浮かぶ巨大コンピュータデータベースインターフェース(生体端末)である。歴代アンヘルの「記憶」は、そのコンピュータに保存され、ダウンロードされ、アンヘルもまたそのコンピュータアクセスして同期化し、一定の制限で操ることができる。しかし、インターフェースたる自分と、コンピュータとの境界はどこなのか?ここでは、「自分」という存在は、機械にまで拡大し、その曖昧さは拡散していく。

二組目のカップルは「カルラ」と「JD」である。というか本当は彼らが主人公なのだが。JDは、生体甲冑を纏った人間で、その力で、圧倒的な攻撃能力と「丈夫さ」を有している。ただこの生体甲冑というのがくせ者で、使用と一体となり、しかもその肉体を自由に変容させることができるのある。ここでもどこまでが機械でどこからが自分なのかという問いが繰り返される。後にあきらかにされるのだが、カルラは実は一度死亡しており、その遺伝情報と記憶情報を生態甲冑が取り込んで再生し、JDが「妊娠」して「出産」することで生まれた子供であった。じゃあ、カルラはJDの(それとも生体甲冑の)一部なのか?それとも、死亡前の「カルラ」の記憶を持っている以上、カルラはカルラなのか。父と娘なのか恋人なのか。渾然一体となって、徹底的に「境界」はゆらぎ、うすくなり、その度に、グロテスクだが、何故か甘美な一体感が描き出されるのである。

特に、死に瀕した元の「カルラ」をJDが生態甲冑の能力で自身の身のうちに取り込んでいくという描写はすさまじい。放射能で汚染された砂漠を歩んでいくなかで、もともと金髪碧眼の美少女だったカルラの身体は破壊され、血と体液で衣服は体に張り付いて脱がせない状態にまでなっている。そこで「カルラ」が言う、「私を食べて」。JDは泣きながらカルラを『自分』の中に取り込む。痛くて痛くて、本当に残酷な描写なのだが、でも泣きたくなるくらい綺麗な光景として心に浮かぶのである。


なんというか、一度読んだだけでは、その良さが分からずに、他の同じような小説を読んで、比較することでやっとその作品の特異な価値を三点観測できるという小説がある。『グアルディア』はまさにそれである。桜庭一樹『私の男』と比較しては、親子関係の歪な愛の描写のすさまじさが明かとなった。で、今回、飛浩隆の『ラギッド・ガール』と比べては、その個人の境界のゆらぎの描写のすさまじさが明かとなった。重ね重ねすごいSFだと思うのだが、特になんの賞もとっていないのは、バランスが悪くて洗練されていないからだろうか?いやでも、冲方丁の『ばいばい、アース』もそうだけど、こういうバランスが悪くて「未熟」だと言われる小説の、荒々しさが私は本当に好きだ。確かに読みにくいのだけど、凄まじい作者の思いを読んでしまったと思って、とにかく何年も記憶に残る作品となる。

2010-02-06

[][]横山秀夫クライマーズハイ』(13冊目) 15:44

2010年2月6日読了。

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

1985年の日航機墜落事件と、それを追う地方新聞社の社員たちの戦いを描いた作品。男の嫉妬、政治家との関係、社内権力争いが絡み、報道と新聞作りは、ジャーナリズムという美しい言葉では語れないような状況へと陥っていく。

その中でも、父親として、記者として、広告担当として、営業として、一人一人の社員たちは生き、それぞれに行動する。

で出てくる人間、全員がどこかしらダメ男。しかしこのダメ男っぷりが驚くほどリアルで、しかし悲哀があって共感できるのである。なんて器がちっちゃいんだと思いつつも、その「器のちっちゃさ」に感情移入できる書き方をしてくれているから、誰も心底嫌いになれない。

エピソードも秀逸である。社長をねらうある野心家幹部は、自分の犬が産んだ子犬たちを一匹ずつ、七人の部下に分け与える。

彼らを子飼いの部下とするためである。七人の部下達は野心家幹部に怒りを覚えることもある。しかし、家に帰るとそいつがくれた可愛い犬がいるので、どうしても幹部を嫌いになれなくて、結局離反せず、犬をもらった七人は「犬奉行」と社内で言われるとか。これってフィクションではなかなか思いつけないエピソードだと思うのだけれど、実話なのだろうか。


全編半端無い緊張感と人間味が溢れていて素晴らしい作品なのだが、ちょっとどうかなと思うのが最後の部分。主人公の悠木は、日航機事故全権デスク、そしてまた記者としての最後のプライドをかけて、読者投稿欄「こころ」に彩子という二十歳の大学生の手記を載せる決断をする。彩子の父は、交通事故で死んだ。しかし、その事故の記事は「ベタ記事」扱い止まり。しかも父は事故後三日目に息をひきとったがために、その死亡は一言も新聞には載らなかった。その一方、日航機の事故の死者については連日の報道である。そうしたことを断罪して彼女は書く。

報道を見ていると人の死には大小があるようだ。

でもわたしは日航機事故の死者のために泣かない。私の父親の死を悼んでくれなかった人々のために流す涙などないと。

この彩子の断罪は悠木の心に響く。悠木はこの、「遺族感情を逆撫でする」ともとれる記事を掲載し、そして読者から大きな非難を浴びることとなる。結果、それからの人生をひたすら閑職で過ごすことになるのである。それでも悠木にとってこの決断は、失敗と挫折の連続だった日航機デスクとしての日々のなかで、もっとも「自分らしい」決断として捉えられ、その後の人生を支えることともなる。


しかし、物語の「オチ」ともいうべき、この彩子の投稿というのがどうも現実感の無いものである。自分の親の交通事故死が新聞に載らなかったことを恨みに思って、ジャーナリズムのあり方に疑問を持ち、さらには他の悲惨な事故の死者たちが大きく報道されていることに「嫉妬」してその死を悼まないというようなことが、果たしてあるだろうか?

私も彩子と同じような経験があるが、その事故が新聞でどう扱われているかについてはほとんど意識しなかった。事故についての新聞記事自体は読んだ。小さい扱いだったと記憶しているが、それについてどうとも思わなかった。むしろ、悲しむことで手一杯であり、自分にとって唯一の人の「死」を他の人の「死」と比べるという発想さえ起きなかった。(ひき逃げなどの事件性があれば話はべつだろうが、彩子の事故についても特にそうした記述はない)


推測するにこの、「新聞の扱い方の大小」が引き起こす「人の死の大小」という問題は、遺族の心情ではなく、多分に記者であった横山秀夫の問題意識から来ているように思う。


ただ、そこには同時に、記者の、ジャーナリズムの傲慢さということも見え隠れしている。


つまり報道で大きく扱われること=良いこととして捉えられいるのである。それ故、父の死は記事にされなかったと彩子は悠木を責める。裏返せば新聞記事に書かれることは幸せなこと、名誉なことだろう?という意識がすけて見えるのだ。これは書く方の一方的な心理であって、書かれる方の心理ではない。

9.11の報道では、その航空機突入の映像、現場の映像を流さないでくれ、見たくないと言う遺族が大勢いたという。遺族の心理というのは、そういうものであり、その悲しみは報道の大きさという計量的なもので慰められるものではなく、むしろ報道されることによって傷つけられることも時には、ある。そうした想像力がここには無い。


最近、いろいろなことに触れて分かってきたのだけれど、記者って本当に傲慢な生きものだ。悪い意味でも、そして「矜持」があるっていう良い意味でも。こうした傲慢さと「矜持」が、私は嫌いではない。それ故に、真実が明らかになったことも多くあるから。

ただこの「傲慢さ」はおそらく、新聞やテレビが絶対的メディアとして君臨していた時代だったからこそ、現れ得たものであって、ネットによって誰もが情報発信者となれるようになり、新聞やテレビが限りなく「ワン・オブ・ゼム」になりつつあるこの時代にあっては、また違う記者精神が必要とされるのだろう。傲慢さと背中合わせにあった真実性と重大な仕事をしているという「矜持」だけは、無くなってもらっても困るものだと心底思うものでもあるが。

2010-02-03

[][]ウンベルト・エーコ薔薇の名前』(8・12冊目) 14:29

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前〈下〉

二月二日読了。

負けた。完敗。

中世ヨーロッパキリスト教についての基礎知識が足りなさすぎて、何となく意味があるんだろうなというところが全部よく分からずに終わってしまった…。

多分欧米人が、京極夏彦とか読んだらこういう気分になるのでは〜という本。

いま気がついたのだが、『鉄鼠の檻』ってこれのオマージュだったのか。


中世修道院で、起こる連続殺人事件。解決を依頼されたのは、シャーロックホームズ張りの推理力を見せつけながら登場した、飄々としたイギリス人修道士修道院の中にある迷宮じみた文書館と隠された本。そして黙示録に即して起こる見たて殺人と、ミステリーの要素は完璧である。

けれど、決してミステリーとエンタテイメントがこの本の主題というわけではないようだ。

ミステリーに必須の華々しい謎解きもほとんどない。

颯爽と登場した探偵役の修道士も、その後の活躍はパッとしないし、全てが後手に回ってしまうし、謎解きも「偶然」にご都合主義的に「分かって」しまうことが多々ある。

特に調査せずとも修道士たちは勝手に必要な情報をしゃべってくれる。

というわけで、かっこいいミステリとして考えるならば、あまり面白い本ではない。

解説によると、作者がエンタテイメント性以上に語りたかったと思われる、中世の異端審問と1980年代のテロとの関係、キリストの「笑い」に対する問題提起ということも、2000年代の日本人である私にとっては、自身の問題として思考を深めるほど共感を持てる問題でもない。何より、それら、エーコが問題にしようとした「問題」を、私は知らない。

それゆえに「完敗」である。

この話を本気で楽しむには、圧倒的に読み手である私の知識量が足りなさすぎるというのがひしひしと身にしみてくるのである。


ただ、そうした条件で、上下巻に及ぶ長さを読了できたのは、訳のすばらしさのおかげ。

終始、ワトソン役の見習い修道士アドソの語りであるが、その語りのスピード感がすばらしい。

聞いたこともないキリスト教異端派の数々や、よくわからない神学上の問題さえも、ほとんど読み詰まることもなく、何故か着々と読めていってしまうのである。

う〜ん、もう少し中世ヨーロッパの知識と、西洋哲学の問題を勉強してから読み直します。

その前に、『鉄鼠の檻』を読み返して、京極流のアレンジがどう働いているのかを比較した方がおもしろいかもしれない。

アドソの初恋の相手、農民の少女が、『鉄鼠』では、あの少女に替えられてるのようだけれど、その変換の仕方がすごく日本的な嗜好が働いてて面白いんじゃないかと思う。