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アドファイブ日記

2016-08-18

最近思ったこと

思索ログ的なエントリ。ポエム色強いですが自分なりに面白く書けた気もするのでよろしければお読みください。

「不可能性」のマネジメントについて

自社製品を開発する上で、最初に要件をカッチリ決めずに取り掛かり、やりながら製品イメージを固めていく方法をとっていて、それはなるべく今までに無い画期的な価値を提供したいという野望からきているのだけど、あまり野心的すぎると実現性に乏しくなっていつまでたっても完成しない。いい感じに画期的な機能を企画にする必要がある。

あまり考えずにいると、僕は感情的になぜか「不可能なほうへ、不可能なほうへ」吸い寄せられて大きな壁の前でトンカチを叩き続けるようなことをしてしまうのだ。もう大学生くらいのときからずっとそういう性分なのだ。知人の一人は「天才はそういう人の中から現れるんですよ」なんて優しいことをいってくれるんだけどもう僕も38歳であり、本当に天才だったら一つや二つ画期的なブレークスルーを世に出してるはずじゃ無いか?、と。

それで、「不可能という壁のパターン」についてよく知ろうと思った。この辺りがまた僕らしいところで、「不可能のカタチ」を体系化しちゃえばギリギリ可能なセンを見極めたり、ブレークスルーのチャンスを効率的に発見できるんじゃないかと思ったわけだ。

それで最近は「不可能なことが、どう不可能であるか、その構造や様態」について意識しながら作業するようにしている。「不可能な領域の形を手探りでつかみ、壁の大きさと広さを考えてそれを回避し、可能な空間から価値のあるものをすくい取る」ように意識している。

そうやっていくと、少し「不可能領域」から適度な距離感を維持しながら開発を進める方法について手応えを感じる。「不可能な壁」の中には、自分の知ってる知識の組み合わせで部分的に切り崩せるような形もあったり、まったく歯が立たないので早々に立ち去るべき壁もあったりする。特に自分が持つ知識の中では、統計的機械学習ディープラーニングの領域では「不可能の壁」がすごく大きい。DeepMind社やプリファードネットワークス社なら取り組むであろう課題は僕にとっては「不可能の壁」であり、早々に立ち去るべきことばかりだ。逆に自分がよく知ってる古典的な人工知能テクニックや様々なプログラミング言語ライブラリを組み合わせることで意外と世の中にまだ無いソフトウェア機能を実現できそうに思える部分も少なく無い。また先端の機械学習やロボティクスのなかでも自分が使いこなせそうなカタい技術というのもあり、その辺りの「壁の見極め」について最近すごく意識している。

あとはこれがすごく大事だと思ったのだけど距離だけではなく「時間差」も意識することが「不可能という壁」と向き合うときに大事なことだ。例えば設計としては機械学習的な仕組みをもつサービスだとしても、最初はデータがないので具体的なモデル構築が困難だというときに、初動の時点で可能な領域とデータが集まった後に可能になる領域は違う。これは単純な例だけど、他にも色々と「時間差」を意識することで「不可能の壁」の様相は大きく変わってくる。

不可能性のマネジメントは、もしかしたらイノベーションマネジメントとも通ずるところがあるように思う。僕はイノベーションを繰り返し起こせる再現性の高い方法論を掴むことこそがそもそもの起業動機の一つであり、自分が感覚としてつかんだことを順次言語化して他人と共有できるようにしていけたら嬉しい。

独創性」と「公共性」が不可分であること

最近SNSで見たネタでリンクを保存し忘れてどのページだか忘れてしまったのだけど、こういう主旨の話があった。

表現するヤツが偉い、という風潮は全然ダメだ。作品を出すからには公共性が必要なんだ。公共性のまったく無い映像表現なんてクソだ。

具体的な内容はちょっと違うかもしれないのだけど、これにはハッとさせられた。映像作品のことを言ってるけど、これは僕のようにソフトウェアプロダクトを作って一山当ててやろうと思ってるタイプにもありがちなことでは無いだろうかと。

僕のようなタイプは得てして承認欲求に飢えていてエゴが強い。起業するような人はそういう人が多いんじゃ無いかと思う。なので売れない前衛芸術のようなことを平気でやってしまいがちなのだ。自分のスキルの高さや思想の特異性を作品を通じて誇示しようとするのはほぼマスターベーションに近い。けれど、ある作品が独創的であるかどうかを決めるのは紛れもない「他者」なのだ。

とはいえ「オリジナリティ溢れる独創的な作品に公共性が必要」とはどういうことなのか? 天才・岡本太郎自我を爆発させろ、他人の目を気にするなといったでは無いか?

それについて僕なりに考えた結論としては、他人の自我を認めているか否か、に掛かっているのだということ。多くのエゴにまみれた駄作に共通するのは、そこに作り手の自我はあるが受け手の自我が無視されていること。その反面、その作品自体が受け入れを乞うていることだ。ちょうど、働かないのに金銭をタダでもらいうけようとする乞食のような悪臭が、エゴにまみれた駄作に漂うのはそういうことだろう。

岡本太郎が爆発させたのは「自分の自我」と「他人の自我」の「ぶつかり」であって、「自分の自我」を虚空に投じたわけではないのだ。それは岡本太郎氏の作品を見ると強く感じる。作品を見たときに、僕自身の自我岡本太郎自我が引き合いぶつかる感じがするからだ。

そしてもちろん、意味のある独創性は「ぶつかり」だけではない。ソフトウェア製品の場合も「便利さ」「快適さ」という道具的な価値だけでなく、もっと感情と直接向き合うような価値もあるはずだ。例えばAppleの製品にはあの洗練されたシンプルさがある。

作品に独創性が認められるかそれとも哀しいマスターベーションで終わるかは、むしろ他者の目を積極的に意識しそれを堂々と乗り越えられるかにかかっている。他者の目から逃げることがオリジナリティにつながることは決して無いのだ。

岡本太郎氏の作品は堂々としたマスターベーションでは決してなく、むしろ臆病に他者の目と戦いそしてそれを積極的に乗り越え他者の目を気にしなくてよいレベルまで高めたエネルギーが表現されているのだ。それにひきかえ堂々としたマスターベーションを卑屈な商業アピールで売ろうとしてる作品の何と多いことか。これは自戒を込めて意識し続けたいことだ。

そしてまたこのことは何も作品だけではなく、人同士の親愛や友愛や恋愛といった関係性にも当てはまることだろうと思う。

それにしても

自分は良くも悪くも身体よりも頭で考える習慣が根強いなぁと。考えるのが好きなんですよね。