2010-04-04
『堕落・散華』」(高橋和巳著:河出書房出版社)
- 作者: 高橋和巳
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1975
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さいきん幻聴というか、コラムに対する「王党派のワシの批評も読んだことのない馬鹿者が!!」とわれわれを嘲笑する高笑いが杉木立の上の空中から聴こえてくるんだけれど。
そうだね。野暮なことしているね。子供のパン喰い競争に大人が出てきてぶらさがってるパンを全部喰らっちまうようなひじょうに大人げないことをしているね。
この歳になると夜眠れない時、むかしの他人からの質問とか言われたこと、気軽に話したことを何度も反芻(はんすう)するようになるんだ。「何で、水上勉や三浦綾子を読まないんですか」とか。で、私のすすめた高橋和巳氏の「堕落・散華」はどうだったかい?ペシミスト宣言を5年くらい前に聴いたような気もするんだけど。
高橋和巳氏の「堕落・散華」を手に入れると、読みかけの大江氏の「われらの時代」や吉村昭氏の「亭主の家出」が出てきた(笑) まあ、小説は高橋和巳氏の作家としての熟練期に書かれたようで、インテリらしいさまざまな含蓄の深い言葉を模型のようにつなぎ合わせながら破綻なく構成されていて、スキがありそうでスキがないように接合されている。司馬遼氏の「割って、城を」の世界です(笑)
高橋和巳氏というと、柴田翔氏の「されどわれらが日々」や大江健三郎氏といった作家と並んで、苦悩する全共闘世代(1965年〜)を代表する作家といったイメージがあるんだけど。
そうだね。主人公は福祉施設の運営責任者でありながら、いろいろな世界情勢を揣摩憶測しています。主人公はさまざまな戦争を味わったことのない世代が、海千山千の戦中派、進駐軍と反共の政治的思惑が交錯する泥濘のなかでこの福祉施設をやってゆけるものか、と冷ややかな眼でながめて自ら疾風怒涛の活躍する。その姿をみて、意外にも後の世代が期待通りに役割をはたしてくれて事業も安定し軌道にのってくる。そこでまた、自分のような敗残兵が成功者づらをしたという気恥ずかしさから羞恥と険悪が生じ、悪いのは女性だとばかりに当たろうとして自分の横暴ぶりに気が付き贖罪感がでてくる。
しかし、この作品の不思議なのは、社会の暗部が具体的に描いている訳ではないんだね。作者は苦悩の源である施設運営や養子にした混血児が両親の米軍兵士に連れ去られていく様子を克明に描写していない。それなのに暗く重苦しい感じがするのは何故なのだろう?
多分に君の「高橋和巳」という作家に対するイメージがあるんじゃないかなあ?主人公は満州国帰りで自尊心が高くアカと疑われて運営に多分の支障をきたしたとあるよね。
まあ、それは一つの背景でしょう。僕は途中で鼻白んでしまったけれど(笑)インテリで孤高の主人公が緊迫したまま流れてゆく過程に読者が否応なしにひきこまれてゆくことにあると思う。常人じゃそこまで考えないよね、というくらい主人公は考える。
話に戻ると、職員はさらに福祉事業の手を広げようとする。そうすると、自分の純粋な造作物が変質しまうように感じられて、死んだ戦友に対する慙愧の念にうたれている自分が時代の骨董品のように感じられて、業務の倦怠感からの破滅願望に陥る。最終的には破滅した方が楽だ、と呵々大笑する。こうなってくると主人公がペシミストなのかオプティミストなのかも判別できなくなくなってくる。舞台設定と作者の原体験と環境認識が暗いだけで、外の環境は実に健全に走っていたということを読者が作者と一緒に体感でき、最後に読者は安堵します。そんな世界ですね。
そう。結局は作者の環境認識と表現力なんだ。最終的に文学は「人間的な死」そのものだけが究極の離別の表現ではなく「人生における突然死(サドン・デス)」ももう一つの離別と哀愁を醸し出すんだろうね。いい本を推薦してくれてありがとう(笑)
(今回でこのブログは終了させていただきます)
2010-03-12
『狂人日記』 (色川武大著:講談社文芸文庫)
- 作者: 色川武大,佐伯一麦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/09/11
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どうでしよう。前回、開高健氏の『裸の王様・パニック』をとりあげて、起承転結が明らかに読者に分かる小説を読んだのだけれども、こういつた療養所に入れられて疎外されている人間の生き方や心理を素描したのが、僕は純粋な文学だと思うんだ。
うん。当時、開高健氏と芥川賞を争つた大江健三郎の『死者の奢り・飼育』も、あまりにも作為的な技巧で構成されていて銓衡委員が顔をしかめたんだけど、井上靖氏も「大江健三郎氏の「死者の奢り」と開高健氏の「裸の王様」甲乙付け難し」と銓衡はもめたらしいんだ。けれど開高氏の「裸の王様」に軍配があがる。おそらく川のなかの鮒の魅力的な描写と、そういつた自然から隔絶されて幼少期をおくつている少年がいる、というところに文明の陥穽を感じたんだと思うんだけれどもね。色川氏のナルコプラシー(眠り病)つてこんな感じなの。
僕は解説を読まないんだけれど(笑) 良い作品の解説つてワザと読者に自由に解釈してもらうために作品成立の概観を曖昧に書いてあるじやない。今回はこの体験が、色川武大すなわち阿佐田哲也氏の体験かと思つて「あとがき」を読んでみたら、この作品は、色川氏が有馬忠士氏という四十二歳で夭折した、ノイローゼで病院生活を余儀なくされたた画家の絵から彼の孤独の深さにひかれて、彼をモチーフにしたらしい。また、佐伯一麦氏の解説もよかつたね。彼は労働について『労働と人生についての省察』から「ここでは、むしろ、考えないために給料が支払われているのです」と。
「海燕」に連載された時は有馬氏の絵も掲載されたのかね。僕は主人公が発作で幻視する情景が五つか六つあるんだけど、どうもその主人公が幻視した情景の明確なイメージがわかなくて、そこがこの作品の不満なんだ。色川氏はどうやつてこの作品を書いたの。
モノローグ作業らしい。作為的な技巧なしに読者をとりこむのが小説の真髄かもしれないね。こちらもいつかはこういつた病院にお世話になるわけだし、不意にこういつた狂気を宿すかもしれない。まあ、老人が多く物事が保守的に動く時代に人間はどうしても内向的、制度に従順にならざるを得なくなり、周囲の雰囲気から自由が制限される。こういった時代には、なんらかの適応障害を起こして半病人の人が多くなる。そういつた異常性と健常者の狭間つてなにか、という問いかけから、この作品を選んだんだけれども。
まあ、言つてみれば沈殿した汚泥のように、ゆつくりゆつくりと物事がすすむわけだ。若いエネルギーのある奴が無理に時計の針をすすめようとすると、かえって異常だつていうレツテルを貼られて、家族や組織の安寧のために放り出される。いわば、これまでは異常でなかったことが異常にされてしまう危険性がある。あなた大丈夫ですか(笑)
ある程度、歳をとれば沈殿してそのまま漂つているのもいいんだけど。
皆な憶病になつて必要以上のことは何もしないし、大抵のことは皆飽きちゃっているだろうから、せめて人の噂の功餌にならないよう気を付けてねー(笑)
2010-03-03
『裸の王様』 (開高健著:文藝春秋社)
- 作者: 開高健
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1960/06
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安岡章太郎氏の随筆を読んでましたらね、戦後派で期待される新人として、肉体派の開高健氏と中性的な大江健三郎氏がとりあげられていまして。まあ、開高健氏と山口瞳氏の二人はサントリーの宣伝広告で気楽に食べている趣味人だというので私は避けているんですが。
「パニック」「巨人と玩具」「なまけもの」処女作品すべて読んでみると、登場人物は人をどんどん堕落させていく。まず、幼児期の原初的記憶を純粋絵画に反映させるという試み。これはオモロイ思いましたね。環境が人間に適応するように強要される時代の人間の本能いうんですか、人間の原始的な生存能力が不自然な力によつて歪められてゆくことに対する警鐘の作品でしよう。その後の作品はアカンは。自分の出世と落ちぶれ方をそのまま書いているだけや。予算の確保を目論む官庁の論理、寡頭競争が産み出す弊害、農村の論理を知れとでもいうのでしょうか、社長までもどんどん疎外されていって、地方からも業界からもそして社長までもが皆な追い出させる。正直言ってこの類(たぐい)の物語はもう結構です。
精神分析医の「日本人は家庭を顧みず性的関係を極度に避ける」という記述に対する考えは如何ですか。
ある先輩のページに書いてあった、ある輪ゴムの話の結論と同じやね。何度も何度も確実な形状をもとめては伸縮するゴム。酷使されればされるほどしなびていつて、ついにはその用途が果たせなってしまうゴム。私はそういう文書を発表するの会社員氏の覚悟をそこに見たのですが。しかし、団塊ジュニアはそのページを見て「私らの世代はすぐに切れますわー」とアザ笑つたことがありましてね。結局、妻と母親と子供のような関係に陥るのを避けているんやろうね。時季の良いときの夫の顔を見せていたい、また仕事で摩耗し充電している自分の姿を家庭でさらしたくないといつた欲望が働くんやろね。こういつた小皇帝の「誇大妄想的会社主義」出現の時代にあなたはどう対処されましたか。
夢を与えてやることやね。情報伝達機器の一般開放だけで十二年もちました。それから「仕事か家庭か」の二者択一にする。ゴムが擦り切れんくらい使うことですね。どちらかで、摩耗して会社に戻れんようになる。すると「アカン。このままでは死ぬ」と思うようになります。また仕事というもの自体が意義をなくして家庭に比重をかけさせるそんな時代に来たんちやいますか。
新入の弱者の生贄になってやろう、という年長者を別会社への出向というかたちで対象者に恐怖を与えるように処遇すべきやね。その献身的な姿を見て部下は、そういった間違いを二度としないように心掛けると思いますね。そして理不尽な人事をおこなって、弱い者に箔をつけて完全に会社外に追い出します。弱い者ならば強者に取り巻かれてあつという間に食い物にされてしまいます。そして家に戻ってもらつて昔の会社に対する郷愁を呼び起こさせる。
いや、私ならばまず絶対権力者を社外に追放しますね。よくみかけました。「あんなに楽しそうに仕事をしていた人が、何故」という光景。そしていっけん怪しい商売をさせます。そして部下が本当にその人物に心服しているのか否かを判断させ時期を待つんです。しかし、潮時といってももう会社の外にいるかいないか自宅待機の状態になってますでしょう。
人のこころの豊かさは、ほどよい労働とほどよい報酬でしか得るとができないと。
2010-02-24
『風媒花』(武田泰淳著:新潮文庫)
- 作者: 武田泰淳
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1989/03
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やあ。人生の最終刑務所へようこそ。
昨年の秋でしたか、三ノ宮の○○○○書店で埴谷雄高氏の『雁と胡椒』(未来社)という本が出ておりまして、薄つぺらいし何となく私にも読めそうに思つたので買つて来たんです。すると、武田泰淳ベタ褒めの文章に出くわしたんですね。何となく古い本棚から『風媒花』と『森と湖のまつり』をとつてきて読まなきやならんと。
埴谷氏といえば『死霊』なんていう常人には意味不明の小説を書いたりして、鬱蒼たる文学の森の鎮守様みたいな人ですね。戦中、戦後派の文人なんか全てあの人の薫陶を受けてきた観があつて、それこそ畏れ多い感じのする人です。でも、意外と気さくな人らしいですよ。五木寛之氏なんて世代のちがう若手にも気さくに会つたりして、五木さんなんか埴谷氏の話があんまりにも面白いんでメモにとらせて欲しいなんて言うくらいで(笑)
埴谷さんによると泰淳さんは「そのはしが見通しもきかぬ不気味な暗さに覆われているほど途方もなく大きい」そうだけども、『風媒花』は松本清張の推理小説の毒の部分をぬいて、登場人物の建前の心理は淡々と描いているのだけれどもその核心部分を見事に読者に悟らせないようにしている。そして、最後までそれぞれの登場人物の本心や物語の手の内を隠しおうせられたからこそ、最後のクライマックスでの感動を読者に喚起できる訳で、僕はその技法が見事だと思つてやられてしまつた。
まあ、この物語で皮肉なのは、最終的に鎌原がしたためた遺言書が峯の手に渡るか否かで「中国研究会」全体が滅びる(逮捕拘留)か否かがかかつているんだけれども、その鍵は完全な日本人ではなく最も自らの国籍の帰属意識(アイデンテイテイ)で苦悩している青年の三田村が握つているところにあるような気がします。所詮、思想(アイデオロギー)で結合している集団は、危なくなつたら蜘蛛の子をちらすように思想から逃げちやうんだから。日本人にとつて思想(アイデオロギー)なんてものは五月人形の兜と似たようなものです。(兜をかぶつたままであれば人間として死におもむき、兜をとられたままに生きなければならなければ甘んじてその生を受け入れる)
全く(笑)。卑猥な言葉でいえば、主人公の峯三郎と混血の三田村、弟の守は同じ女性の体液を通じてつながつているわけで、最終局面に「虫の予感」のようなものが働くんだろうけど、その行動がてんでばらばらなんですね。そこに僕はこの話の信憑性を感じるんだ(笑)。峯は桃江と安宿へ。蜜枝は百貨店のピケを破つて売春宿へ。軍地は三田村をけしかけて中華民国に突撃しろつてね。もうどうしようもないんです。
これは他の本で埴谷さんが言つてたんだけれども、泰淳さんは「対立するさまざまなかたちの思索者」を見事に描ききつた日本では珍しい人らしいね。でもこの小説を読んで僕らが羨ましいなあと思つたのは、彼らにとつては当時は明日おも見えない有限な人生を生きているわけだから、惰性で生きていないんだよね。あの峯のPD工場での演説、本当にすごいと思うね。
ああ、昔TVであつたね。社会党の上田哲委員長がカツラをづらせて「あの頃はよかたうたね」つてしみじみと当時を回想して言う場面。そうなんだ、戦後の人は日本人は思想(イデオローグ)がない浮草のようなものだつて判じられたから、それこそ真剣に思想(イデオローグ)を学んだし真剣にぶつかりあつた。そりやその当座は「ここまで思想は人を狂暴にするのか」と思つたかもしれないけれど、思想(アイデオロギー)の対立とある種の終末観が、結構いい潤滑油になつていたと思うんだね。どうもああいつた時代の緊迫感がなくなると、人間獅子になることはなくて、せいぜい駱駝か呆けてみせるしかなくなつて(笑)
まあ今はせいぜい半開きのドアの個室でカーツと熱くなるくらいにとどめといて(笑)
