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2013-09-06

司法制度改革 合格者3000人頓挫の舞台裏 公務員制度改革の失敗と一体(週刊エコノミスト)

| 10:20

毎日新聞出身の先輩ジャーナリストから紹介され、最近、週刊エコノミストにも書く機会をいただいています。3月に会計士特集でIFRSや監査の話を書きましたが、8月の弁護士特集でも原稿を書かせてもらいました。編集部のご厚意で、以下に再掲させていただきます。エコノミストが弁護士特集を組んだのは初めてだそうです。今後定期化するのかどうか。

エコノミスト 2013年 8/6号 [雑誌]

エコノミスト 2013年 8/6号 [雑誌]


 法制度改革と公務員制度改革は表裏一体のものだったという“事の発端”を知っている人は、めっきり少なくなった。法科大学院弁護士の増員といった「方法論」への批判が高まり、何のために司法制度改革をするのか、といった理念が消え失せてしまったように見える。そんな司法制度改革の行き詰まりは、ここへ来て鮮明になってきた公務員制度改革の行き詰まりと軌を一にしている。

橋本行革が発端

 司法制度改革が始まったきっかけは、橋本龍太郎内閣時代の1997年にさかのぼる。当時、総理府(現内閣府)に置かれていた「行政改革会議」の最終報告で司法制度改革の必要性が指摘されたのが事の始まりだった。

事前規制型社会から事後監視型社会へ──。いわゆる「橋本行革」として知られる改革は、霞が関のあり方を根本から見直そうというものだった。法律や政省令行政指導による霞が関の事前規制から民間を解き放ち、問題が起きれば事後に監視・処罰、救済する社会へと大転換させようと考えたのだ。

 役所による事前規制は「箸の上げ下ろしまで」と皮肉られるほどに細部に及んでいた。しかも、法律ではなく行政指導の形をとるものが多かった。そんな役所の規制にがんじがらめになった閉塞を打ち破ろうというのが橋本行革だった。背景にはバブル崩壊で沈滞した日本経済を復活させようという狙いがあった。行政改革会議は橋本首相自らが議長に就任。首相補佐官だった水野清・衆院議員が事務局長を兼ねて加わったが、その他の委員12人はすべて民間人だった。豊田章一郎・トヨタ自動車会長、諸井虔・秩父小野田相談役、飯田庸太郎・三菱重工業相談役ら財界の大物が顔をそろえていた。豊田氏は経済審議会会長、諸井氏は地方分権推進委員会委員長、飯田氏は行政改革委員会委員長と、それぞれの会議体のトップを兼ね、橋本首相のリーダーシップで一気に改革を進められる体制を作った。

 腹心の水野氏以外、政治家を入れず、ましてや官僚もメンバーに加えなかったのは、役所の抵抗を封じ込めるためだった。その委員の一人として加わった佐藤幸治・京都大学教授が委員長になって99年に始まったのが、司法制度改革の具体案を議論する司法制度改革審議会だったのである。

法曹拡大に至る議論

 「官」の役割を小さくするには、肥大化した官僚組織をスリム化しなければならない。だが、そうなると、これまで事前規制によって行われていた民間同士の利害調整に齟齬をきたす。それを防ぐには、事後的に紛争を解決するインフラが必要になる。

ところが当時の日本の司法は、それを引き受けることができるだけのキャパシティーを持ち合わせていなかった。量的にも質的にも不十分なのは明らかだったのだ。

 97年段階で日本の法曹人口(弁護士検事裁判官)は2万730人で、法曹1人当たりの人口は約6300人だった。当時の米国の法曹は94万1000人で、1人当たりの人口は290人だった。1人当たり人口は英国で710人、ドイツで740人、フランスで1640人だったから、日本の法曹の少なさは突出していた。司法制度改革審議会が、法曹人口の拡充を真っ先に打ち出したのはある意味当然とも言えた。

2001年6月にまとめた審議会の報告には、法科大学院など新たな法曹養成制度を整備し、10年頃には新司法試験の合格者数を年間3000人にすべきとした。99年当時の合格者は年間1000人程度だったから、まさに大量合格である。そうした取り組みを進めることで、18年頃までには実働法曹人口を5万人規模にするとしたのである。

 当時は弁護士会も、そうした法曹拡大の方針に理解を示していた。90年から2年間、日本弁護士連合会会長を務めた中坊公平氏も審議会委員に加わり、「法曹6万人が必要だ」と発言していた。

司法制度改革のもう一つの大きな柱が、09年の裁判員制度の導入につながる国民の司法参加だった。これも公務員制度改革と理念を共有している。

 99年に行政改革推進本部の規制改革委員会委員長に就任した宮内義彦オリックス会長は当時、こんなことを言っていた。「最高裁の15人の裁判官の構成がすべてを物語っている。過半数は裁判官検事など行政機関である法務省と一体の人たち。弁護士など民間出身者の意見は通らない」。つまり、霞が関中心の国家体制司法も従属させている、と見ていたのだ。事実、それまでの日本では行政訴訟は上級審では国の勝訴と決まっていたようなものだった。

 当初は最高裁などは、こうした改革の動きに反対しているようにも見えた。だが、裁判官の中にも国民の司法参加を実現し、行政と対置する裁判所を目指すべきだと考えた人たちがいた。憲法が規定する三権分立を文字通り実現すべきだ、という裁判官本来の発想とも言える。08年に最高裁長官になった竹崎博允氏は、88年に矢口洪一長官が陪審制や参審制の研究のため海外に派遣した裁判官の一人だった。

小泉内閣で一気に進展

 「改革なくして、成長なし」。そんなスローガンと共に構造改革を進めた小泉純一郎内閣が、司法制度改革に前のめりになったのは半ば必然だった。小泉内閣司法制度改革は一気に進むことになる。01年末、内閣司法制度改革推進本部が設置され、翌年3月には司法制度改革推進計画を閣議決定。これに従って04年には法科大学院が開校した。06年には新司法試験が実施され、07年以降、合格者は年間2000人を超えるようになった。

 こうした流れは、リーマン・ショックを境に一気に逆流し始める。小泉改革の後を継いだ第1次安倍晋三内閣参院選での大敗や消えた年金問題、閣僚の事務所費問題などで火だるまとなってわずか1年で退陣。

その後の福田康夫内閣も1年しかもたなかった。そして09年の政権交代へと突き進んでいく。

それまで小泉改革によって景気は持ち直し、02年1月に底を打った景気は08年2月まで回復が続いた。73カ月の景気回復は戦後最長で、高度経済成長期の「いざなぎ景気」を超えたことから「いざなみ景気」と名付けられた。規制緩和と経済のグローバル化はビジネス弁護士の仕事を急増させていた。M&A(企業の合併・買収)の企業評価など新しい仕事が増える一方、銀行の不良債権処理が進んだ結果、企業再生の案件なども増えた。役所の仕事の仕方が、事前規制型から事後監視型に変わったことも、弁護士の仕事を増やした。いわゆるリーガルオピニオンに対する企業などのニーズが高まったのだ。かつては法律上、問題があるかないか微妙な場合、所管官庁に通って役所の方針を探る。かつての金融業界ならそのためにエリート社員を役所担当として張り付けた。大蔵省の英文の頭文字を取って「MOF担」、つまり大蔵省担当が銀行や証券会社の花形ポストだった。

 ところが、90年代後半に社会問題化した大蔵省過剰接待事件や、官官接待問題などによって、行政指導を使った裁量行政は事実上封印されていった。そうなると金融機関や企業は「行政リスク」を負うことになる。つまり、法的に問題ないと思って実行したことが、役所によって事後的に問題だと指摘されるリスクが出てきたのだ。それを防ぐために事前に弁護士や法律学者の意見書を取り、役所にも提出しておく、そんな欧米で一般的な手法が日本でも広がったのである。もちろん、そうなれば弁護士の役割は一段と重要になる。

弁護士の職域拡大

 こうした流れもあり、弁護士行政における役割は急速に高まった。役人と違い実務に通じていることもあり、新たな法整備や規制実務で役所からも重宝される存在になったのだ。

会社法のベテラン弁護士でコーポレートガバナンス(企業統治)に詳しい久保利英明弁護士が、金融庁総務企画局参事という立場で法令等遵守調査室の顧問になったのも、端的な例だ。また、01年当時の会社法改正には西村あさひ法律事務所の太田洋弁護士法務省民事局付として出向、法整備の実務に当たった。今では弁護士が役所に出向するのは一つの重要なキャリアパスになっている。

 霞が関も定員の枠の拡大が難しい中で、弁護士事務所からの出向を歓迎している。米国では全弁護士の8〜9%は州や連邦政府に所属しているとされる。そういう意味ではようやく日本も行政の「専門家」「高度化」が進んだのだが、これも司法制度改革があったればこそ、だったとも言える。

出向まで至らなくとも、政府関係の仕事をするケースは増えている。役所の審議会の委員といえば、かつては学者の指定席だったが、今や現役の弁護士が有力メンバーになっている。例えば12年に金融庁が設けた「投資信託投資法人法制の見直しに関するワーキング・グループ」には、森・濱田松本法律事務所の石黒徹弁護士東京駿河台法律事務所の上柳敏郎弁護士らが加わっていた。投資信託のような専門性の高い分野でも

それを専門にカバーする弁護士が生まれていたのだ。

 11年12月、東京電力福島第1原子力発電所事故を検証する委員会が国会に設置された。いわゆる国会事故調である。原発事故対応は政府も当事者であるとして、独立した立場からの検証を求めた国会が独自に法律を通して設置したものだった。独立性を保持するために政治家を入れず、すべて民間専門家とするという方針は憲政史上初の試みだったが、これも弁護士なくしては成り立たなかった。というのも、事務局に多くの弁護士が馳せ参じたからだ。

 この国会事故調は1年間の時限組織だったため、解散後の雇用を考えれば民間人には辛い仕事であった。そんな“季節労働”を引き受けたのは弁護士だったのである。

一気にしぼんだ期待

 さて、司法制度改革による弁護士の職域拡大への期待だが、リーマン・ショックで一気にしぼむことになった。M&Aなど民間の仕事が一気に減少したからだ。景気が減速する一方で、改革で決めた2000人の新規合格者が弁護士業界に毎年加わることになった。そこで起きたのが、弁護士業界からの司法制度改革批判である。「大量合格で弁護士の質が落ちた」という批判は、パイが縮小する中で新規参入が増えれば仕事が奪われるのではないか、という危機感が背景にあったのは間違いない。10年には司法試験合格者3000人体制を真正面から批判する宇都宮健児弁護士が、地方の弁護士会などの支持を得て日弁連会長になる。この頃から一気に司法制度改革は方向転換することになった。

 政府は7月16日、関係閣僚会議を開き、司法試験合格者年間3000人を目指したこれまでの計画を撤回するとした検討会議の提言を了承した。法科大学院についても、自主的な定員削減や統廃合を求めることとした。司法制度改革の看板ともいえた3000人の目標撤回は象徴的な出来事である。

 そのわずか1週間前。7月10日に霞が関から一つの組織が消えた。国家公務員制度改革推進本部。08年に公務員制度改革の工程表を決めた国家公務員制度改革基本法が制定された際に設置されたものだが、その法定期限の5年が満了して解散したのである。もちろん、公務員制度改革が工程表通りに進んだわけではない。政治的な駆け引きの中で、関連法案は何度も廃案になった。霞が関からすれば、「時間切れ」で逆転勝利に持ち込んだ格好である。

 司法制度改革と公務員制度改革が、時を同じくして頓挫したわけである。結果、日本はどんな国になっていくのか。官僚主導の事前規制型の国へと舞い戻っていくのか。そうだとすると「規制改革は安倍内閣の一丁目一番地だ」と大見えを切ったアベノミクスは失敗するということになる。

                                  週刊エコノミスト 2013年8月6日号

http://www.weekly-economist.com/2013/08/06/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%88-2013%E5%B9%B48%E6%9C%886%E6%97%A5%E7%89%B9%E5%A4%A7%E5%8F%B7/