extra innings

2011-12-21

鎌倉慰霊紀行(2)

化粧坂の切通しからは南東方向に向かって、鎌倉の景色が見える。海が見える。頼朝が材木座のあたりにあったと言う、当時の鶴ヶ丘八幡をここから遠く見た時は、海はもっと近かっただろう。

右手に方向を変えて、銭洗弁天に向かって、歩いた。道そのものに無理があるのではないかと思う。化粧坂の切通しもそうだが、銭洗弁天から源氏山に向かう道も舗装されているとはいえ、実に峻急である。時に半直角の角度になっている部分さえあり、そこを自動車が上り下りするのはかなり限界ぎりぎりな感じがする。岩場にへばりつくような家と、余所ではまず許容されないような鈍角な道路は鎌倉のあちらこちらで見られる。余所であれば、土木をしてより傾斜の小さい坂にするか、いっそのこと坂を諦めて階段にするような角度であっても、鎌倉では当たり前のように坂になっている。それも舗装されているのであれば、行政自体が容認していると言うことだ。

こういうことではないかと思うことがある。鎌倉はずっとみやこであったわけではない。奈良古都でありながら、みやこであることを止めてからはむしろ草深い印象があるのと同様かそれ以上に、鎌倉は東勝寺で北条家が族滅してからは、基本的には田舎の地方都市であった、時には都市であることさえ覚束なかった。鎌倉が「復興」したのは明治になってから、東京の文人や財界人が銘々の趣味に応じて流入し、その消費生活を支える人たちも流入してからで、「復興」は基本的に民間主体で、無計画に随時なされていった。

鎌倉には濃厚にスプロール化現象の風合いがある。その場しのぎの、一時的な対応策が積み重なった結果、古都と言いながら、全体的なグランドデザインはむしろ醜い。後になって何かしら統一的な開発計画を導入しようにも、地価が高くてどうにもならないというところではないだろうか。

そのようなことを考えつつ、銭洗弁天の洞窟をくぐった。銭洗弁天に行くには、洞窟をくぐらなければならない。むろん、裏道である佐助稲荷神社の方向から到達することも出来るが、参道にあたるのはこの洞窟であろう。

先の東日本大震災で古い社は高台にあったため津波被害を免れたように、神社というものは基本的に山の上にあるものである。1498年には津波が現在の高徳院にまで達し、大仏殿が流された記録があるように、鎌倉にも過去に何度か大きな津波が押し寄せたはずである。それを考えるならば「土を削って洞窟を作る」という発想がいかに異様であるのかが分かる。

銭洗弁天自体が三方を崖地に囲まれた小さな「盆地」のなかにある。しかしその崖地の肌を見ると、どうにも、それは人工的に削られたように見受けられる。本殿自体はその中でもより高い場所にあるのだが、せっかくの山をどうして敢えて削って低くしているのか、理解しかねる。洞窟の参道なるものが他では滅多に見られないのも、そもそも削ってしまっては山ではないからであり、神社は山にあるべきものだからである。銭洗弁天の地形のコンセプトは、通常の神社のコンセプトからは外れている。

銭洗弁天自体にはさしたる興味はないのだが、佐助稲荷に出るために、道として使わせていただいたのだが、道、と考えてはっとした。そもそも道なのかなんなのかは分からないが、削ること自体に意味があったのではないか。地形が先にあり、弁天は後で持ち込まれたものかも知れない。切通しのようなものだったのではないだろうか。

弁天を出て、佐助稲荷神社へ参った。佐助稲荷は実は自分としては鎌倉で最も好きな寺社である。より大きな寺社で埋め尽くされている鎌倉では、佐助稲荷にまで足を延ばす人はたくさんはいないだろう。千本鳥居とまではいかないにしても、参道は稲荷らしく鳥居で埋め尽くされていて、寄進者の名を見ると、神奈川を中心に関東近県の人が多い。よりローカルな風情があるのが良い。

佐助とは右兵衛佐である頼朝(佐殿)を助ける、という意味である。佐という文字自体、補佐や vice という意味合いがあるので、佐助とは補佐を補佐すると言う二重の vice の意味があり、そこがちょっと面白いと思っている。現在の佐助地区や銭洗弁天のあたりに住まっていた人たちは、弁天の地形を敢えて変形させるほどに、交易などの何か特殊な生業に従事していたのではないか。その人たちが、頼朝挙兵の際、最初期の中核として、頼朝を助けたのだろう。

佐助稲荷神社は、その論功として頼朝によって創建されている。鎌倉では創建が古い神社である。鬱蒼と茂った木々に覆われた山肌は森と言うよりは密林のようである。そもそも日本の山とはこのようなもので、物理的に容易に人が踏み入れられないものであった。人が掻き分けて入ることが出来るのは里山である。隙間なく地肌を埋め尽くした下草ですら人の背丈ほどもあろうかと言う植物の群れは、それ自体が暴力であり、佐助稲荷の周囲の森は、良くも悪くも野生の匂いがする。その木々の中を、今ではタイワンリスが駆け回っている。

佐助稲荷を私が好きなのはそのそっけなさである。鎌倉と言う土地の原初的な息吹を感じさせてくれるからである。

さて、佐助稲荷を出てからは少しばかり長歩きすることになった。できれば極楽寺もまわりたかったのだが、ここから先は主に鎌倉丑寅を回ることになるので反対の辰巳方向に位置する極楽寺を回れば移動ロスが大きくなり過ぎる。星の井から極楽寺の切通しを歩くのは、私の好きな道なのだが、今日のところはやめておくことにした。

極楽寺六波羅探題連署を務めた北条重時創建になることから彼の家流を極楽寺流とも言う。後に八幡宮の赤橋の近くにも居を構えたことから赤橋流とも言い、北条一族の中では得宗家に次ぐ家格であった。最後の執権・北条(赤橋)守時はこの家系の出で、足利尊氏の室は北条守時の妹にあたる。極楽寺界隈は鎌倉の裏鬼門を鎮守すると同時に、西の防衛拠点となっていた。その先の腰越義経がとどめ置かれたように、実質的には鎌倉の西の果てであった。

私が目指すのは、鎌倉駅を通って、段葛を横切り、祇園山のふところにある東勝寺跡である。跡であるから、実際には何もない原っぱである。大きさはわりあい大き目の幼稚園のグラウンドいっぱいというところか。小学校のグラウンドほどの大きさはない。

1333年東勝寺合戦で北条一族はこの地で次々と腹を切り、族滅した。やたら規模の大きい滅びという点では壇ノ浦に匹敵するような史跡である。1000人から1200人の北条一門がこの地で自刃したと伝えられるが、無理だろうと思う。とてもそれだけの人数を収容できる広さはない。例によって山肌を削り、かろうじて平坦な土地をこしらえた人工的な地形をしていて、その周辺に散らばったとしても、1000人を越える人を収容できるものではない。北条一門のほとんどがここで自刃したのは確かであるが、得宗家の嫡男である時行は信濃にのがれて後に中先代の乱を起こす。その後は、南朝と結託するが、結局は足利に捕えられ処刑されている。南北朝に分かれた時、北朝に加担していたならばどうなっていただろうか。尊氏の室が北条一門の出であったように、人脈的にはむしろ足利に加担した方が自然であったようにも思うが、これもまた、鎌倉幕府の滅亡が、鎌倉武士団内部の権力闘争であったと考えれば、時行の行動も理解できるように思う。朝廷はむしろ背景であるに過ぎない。

桜のごとく華々しく散る、というのが日本人の美意識であるならば、確かに日本は他国の例よりもずっと多く、そのような族滅が多く見られる国である。他国ではとにかく生き延びれば道は開けると考える。時行はその例外であったろうが、東勝寺で滅した北条一門も鎌倉を脱すれば、なにがしらの道はあったのかも知れない。そのような族滅を数え上げれば、かなり多くが、平安末期から南北朝にかけて集中している。地理的にも鎌倉と言う小さな市に、族滅跡が集中している。武家のみやこがいかに陰惨なものであったのかが伺えるが、数多くの豪族を族滅させてきた北条家もやはり最期は同じ道を進むしかなかったのかも知れない。

東勝寺跡から少し祇園山に入ったところに高時腹切りやぐらがある。オカルト好きな人たちの間では、有名なパワースポットらしいが、私はむしろ静かな、安らかなものを感じた。北条一門にとっては無念の死であったかもしれないが、日本史の中ではしょせんは多数の中のひとつに過ぎない。そんなものをいちいち気にしていたら、広島平和公園あたりなどとても歩けたものではないだろう。

どのような最期であっても高時本人についてはしょせんは本人が招いた最期である。ただ、そのために散った無名の人々のためには祈るべきであって、約800年前にこの地で起きた大虐殺の光景を思い浮かべながら、フェンスで覆われた東勝寺跡に向けて、小さく念仏をした。

2011-12-20

鎌倉慰霊紀行(1)

ここ何年か、年末には鎌倉の寺社に参詣している。初詣は人混みが嫌で、松の内が終わった頃に、近場の、それも参る者もいないような道祖神やら小さな稲荷やらに参ることにしているのだが、年末の参詣は他の時期は一切寺社仏閣には立ち寄らないため、諸々の寺社仏閣が揃っている鎌倉で一気に済ませることにしている。

特に篤心ある人間ではないのだが、何年も前にたまたま思いついて、鎌倉某寺で先祖供養というか亡父・亡兄の供養をして貰い、郷里の家族や親戚に報告したところ、思いのほか評判が良かったので、年末に時間を作って供養やら参詣をしているのである。私は宗教とは生きている人のためにあると思っている。極楽なり黄泉なりがあるかどうかは分からぬし、理で言うならば神も仏もあるまいよと思ってはいるが、かりそめにもそういうものがあると心のどこかで仮定して、その仮定を敬してみせることで私や周囲の人たちの心が幾らかでも軽くなるならば、決して無意味、無駄なものではないと思う。

自分としては、親鸞聖人のおっしゃった、「本当のところは自分も法然のおっしゃった極楽浄土があるかないかは分からないが、法然が好きなので仮に嘘であっても騙されても良いと思っている」というお考えに近いような気がする。

そういうわけで、鎌倉の寺社仏閣はあらかた参った経験がある私であるが、今年はこういう年でもあったことから、慰霊をテーマに鎌倉を歩いてみることにしてみた。文字どおり「歩く」のである。自動車と電車を使って、点々でしか回ったことがない鎌倉を、地べたを這って回ってみようと言うのである。いくら堅牢な鎌倉とは言え、山岳を歩くわけではないので、それほどのおおごととは思わないが、男の足のみで回るに越したことはない。わずか一日のことなので旅と呼ぶのも大仰だが、言うなれば武家のみやこの一人旅であった。

十二月に入ってからの休日早朝、北鎌倉から旅を始めた。寺社と言うが私の興味は土俗的なものに惹かれる傾向があり、寺よりは社の方が好きである。と言いつつも、起点は北鎌倉であるから、寺になった。相模は日本の武家貴族たちの黎明の地である。横須賀線北鎌倉駅がある界隈は、山之内と呼ばれ、関ヶ原の戦いの後、土佐の国主となった山内一豊の祖はかつてこのあたりの庄を領していたことからその家名が起こったという。毛利にせよ、島津にせよ、苗字の地をこの周辺に持つ名族は多い。

室町時代には関東管領家の山内上杉家の屋形もこの地にあったというが、当時であればどれほどさみしい土地であっただろうか。地形は全体としてはV字谷に近い。もとより人が住める地は狭隘な底部にしかなく、山肌を削るようにして鎌倉五山の面々が伽藍を岩肌に食い込ませている。私が鎌倉を訪れるたびに思うのが、よくもこのような場所に、「みやこ」を築こうとしたものだと言う感想である。北鎌倉は特にその感想が強くなる。

「みやこ」とは広く人や物資に道が開かれ、往来の場所となる処である。鎌倉はどこか土地そのものが人を拒絶しているような、印象を与える。「みやこ」としての適性に著しく欠いている場所である。類似を言うならば、戦国の時に越前朝倉家が居を構えた一乗谷に似ている。鎌倉に府を置こうとする発想は、一所を守る武家の発想であって、天下の仕置き人の発想ではない。狭隘さで言えば、福原に都を置いた平清盛の発想に近いかもしれないが、六甲が近いとはいえ福原はよほど開けているし、何よりも、海を活かそうとする発想がある。まして後世の、織豊や徳川の発想からはよほどかけ離れている。

鎌倉政権が、良くも悪くも地べたから石を積むようにして力を積み上げた、よく言えば堅実な、悪く言えば跳躍のない政府であったことは、鎌倉という土地自体が語っているように思える。

私が旅の起点としたのは東慶寺であった。よほど早朝であったため、寺門は閉じられていたが、どうせ源氏山をまずは目指すのであれば、東慶寺の前だけでも拝しておくのも面白かろうと思ったのである。東慶寺北条時宗の室が開き、長らく縁切り寺として知られた。後醍醐天皇の皇女が主として入ったこともあれば、天秀尼(豊臣秀頼の娘)が余生を送ったこともある。東慶寺の前の道を南にいけば、巨袋坂の切り通しを経て、八幡宮へと至る。

しかし、私はその反対を進み、源氏山を目指す。

頼朝が初めて鎌倉に入った時も、源氏山を通ったようだ。源氏山へ至る山道にも、それぞれに財を成したであろうそれなりの瀟洒な家が並び、ただの鄙びた寒村であった頃の末裔は今もまだその中にいるのだろうかなどと考えて、足を進めた。都市化された田舎、というようなことを考える。里山とはそもそも人工化された自然であって、自然そのものではない。人が生きるのだから、そのようになって当たり前である。金持ちが住む田園などは里山が更に戯作化された狂態であって、多くは雑多な下町などよりも滑稽である。それはまるで、ゴルフの芝のコースを自然と愛でるような、オオカミの子孫をマルチーズにしてしまうような、滑稽さを伴うものである。しかし北鎌倉は、確かにそのような悪意のある田園趣味を持ちながらもなお、飼いならされていない自然がやはり厳としてある。この土地が、そのような文明に飼いならされてしまうのが叶わぬほど猛々しいからである。

関東は大河と氾濫が築いた平野の地であるが、そのような母のごときなだらかさは鎌倉に最も欠けている資質である。この地がかりそめにも「関東」であったこと、あたかも「関東」を代表するかのような顔を長らくしていたことに違和感を感じるゆえんである。鎌倉幕府の歴史は陰謀と粛清の歴史であるが、その陰惨さは、どこか真剣の切っ先に似たこの土地の風土が作り出したような気がしてならない。

源氏山の頂上を目指す狭隘な山道に、せりだすように「舞台」が構築され、そのわずかに築かれた「平地」の上に家が建っている。そういう家が幾つもある。他人事ながら、なぜそうまでしてここに住もうとするのか、住まねばならないのか、理解しかねる建築である。むろん、そのような無理であっても、北鎌倉なれば高値で家屋が売れるという経済的な現実がある。しかし逆に言えばそのような経済的な現実、今日の私たちの文明を突き動かす唯一の情動をもってしても、冗談のような土地をこしらえることでしか対処できない、鎌倉の自然という現実もあるのである。あるいは私たちはそれを野性と呼んでも差し支えないのかも知れない。

そのような道を進みやがて、源氏山の頂上に達する。葛原岡神社である。

鎌倉の切り通しがあった場所はすべてそうであるが、化粧坂の切り通しに近いこの地もかつては刑場であった。境とは土地と土地の境界であると同時に、この世とあの世の境であった。葛原岡神社祭神は「忠臣」日野俊基公である。日野家は藤原北家に属する公卿の中では大納言を極官とする家系で、ただし、室町時代には足利将軍家と特殊な閨閥を築いたことから、実質的な家格の上昇を見た。その閨閥の縁となったのもそもそもを言えば、後醍醐天皇の「忠臣」たる日野俊基であったから、源氏山のこの地で、「反逆者」として鎌倉幕府によって処刑された日野俊基によって、後の日野富子は準備されたことになろう。

私はそもそも後醍醐天皇にはわりあい厳しいまなざしを持っているのだが、葛原岡神社に特に好意的になれないのは、いろいろな意味で、ねじれを感じるからである。葛原岡神社鎌倉宮と同様に、維新後、明治天皇の指示で創建されている。南朝の忠臣を北朝天皇が称賛するというのも欺瞞であろうし、そのねじれの中に皇国史観的な無理を感じるからである。今一つ、幕府の地を一望にできるこの地、ここから頼朝が鶴岡八幡を拝したというこの地に、幕府転覆計画者の神社を置こうという発想そのものが、武家のみやこに対する侮辱ではなかろうかと感じるからである。

もっとも、このことをそれほど敏感に捉える鎌倉市民は今日ではほぼ皆無であろう。鎌倉市民と言っても、畢竟は多くは明治以後に流入した者が大半で、つまりは「西国の流れ」の者たちが過半であろうから。ここから少し離れたところに頼朝公の像を置き、同時に武家のみやこを滅ぼした公卿の墓と神社を置くと言う融通無碍さは、ある意味、平和であり、ある意味鈍感である。平和とはそもそも加害者側の鈍感を言い換えたものに過ぎないのかも知れないが。

さて、いずれが加害者でありいずれが被害者であるのか。

ただの観光客なればこそ、それ以上は考えずに、魔去ル石にかわらけを「プロージット!」と言いながら叩きつけ、何の厄か分からぬがとりあえず厄を払ったことにした。

2011-12-10

仕事が出来ないということ

仕事が遅い人の共通項

精神論ではない仕事を速くこなす技術

どちらもそれなりに頷ける話だが、作業することも、考えることもどちらも必要なわけである。正確に言うならば、何をどこまでいつ、作業に落とし込むかを考える必要がある。プールで目の前で子供がおぼれているならば、まずするべきなのは、どうやって助けるのが最も効率がいいかを考えることではなく、飛び込むことだ。状況次第、内容次第による取捨選択が出来ないから仕事ができない人はいつまでたっても仕事が出来ないのだ。何が最適解を決めるかは状況であって、私たちが「どうしたいか」ではない。「考える」ことを理由として仕事を遅滞させている人は考えることが出来ていないから、仕事が遅滞しているのだ。何事も、頭を使わないで済む仕事というものはない。

ただし、「これまでの職場慣行」というのは多数の人が考えて、各方面のバランスを考慮して、その結果成り立ってきたものである。新人がまずやるべきなのは、「これまでの職場慣行」を尊重し、とりあえずその通りにしてみせることであって、それを改変しようというのはその先の話になる。新人のうちは処理能力自体も未熟であるし、まず情報自体が少ないので、それを経験の中で蓄積してゆくことが重要になるだろう。例えば同じような内容の取引先Aの仕事と取引先Bの仕事が、A→Bの順で入って来たならば普通はその順序通りに処理すべきであるが、A社の担当者が温厚で、B社の担当者がせっかちならば、その順序を入れ替えるというような微妙な調整をしてゆく必要がある。そういうことは新人では分からないから、自分で突っ走っては単純に情報不足なのである。

仕事と言うのはいかに考えずに済むかを考えることだとも言える。工場でロボットを導入するのは、単純作業を飛躍的に向上させ、熟練を必要なくさせるためである。それと同じことが事務処理でも言えるのであって、作業に落とし込む余地を広く持てる人の方が結局はミスも少ないし効率もいい。問題は効率と言うのは自分ではなかなか分かりにくいということだ。

会社では誰でも仕事をしているのだから、自分のやり方に問題があると気づく人の方が少ない。「私はきちんと仕事をしています」で終わることの方が多い。仕事が遅い人は、究極的には考えが足りないのだが、もっと具体的に言うならば、観察が出来ていないのである。他の人はどうやっているのだろうか、そのやり方でやった場合の効率はどうかという視点が足りないのである。

もっとあからさまに言うならば、どのようなやり方でやったとしても、

・速ければよい

・ミスが無ければよい

・問題を引き起こさなければよい

のであって、考えようがどうしようが、結果がダメだったらダメなのである。

ダメだったら、そのやり方に固執し、正当化をしようとするのではなく、やり方を替えなければならない。仕事のやり方とは単純に方法論に過ぎないが、その方法論を全人格的な問題ととらえるから仕事が出来ないのである。

更にいうならば、仕事ができるかどうかを評価決定するのは、上司である。上司の意向に沿うことがまずは仕事ができるということであって、その組織的なしがらみがいやならば自分で起業するしかない。

2011-12-02

紅白に韓流歌手3組出場

売上から言えば「仕方がない」んじゃないだろうか。私は韓国の国策として、文化輸出をすることには批判的であるし、批判もしてきた。しかし実際に、韓国のトップ歌手を見れば、正直言って日本のアイドルなんてお話にならないというか、それはもう太刀打ちできないだろうとは思う。

私は「芸能が実力だけで国境を越えて良い物が売れる」とはまったく考えていないが、韓流歌手に相応の実力があるのは否定できない。ぱっとしない今年の紅白の出場歌手の面々で、私が見たいなと思うのは、松田聖子以外には韓流3組だけだった。少女時代はあんまり好みではないけど。

韓流の問題を私は外交的な問題と見ているから批判もするけれど、純芸能的に言うならば、日本の芸能界のガラパゴス化というか、総じてレベルの低さは、韓流アイドルと比較すれば歴然としている。奮起していただきたいものである。

2011-11-28

中国の人口動態と今後

先日、世界人口が70億人を突破したことで、人口増加問題がまたにわかに語られているが、この10年で世界的に出生率の急速な低下が見られ、世界平均ではほぼ人口置換水準に近い出生率2.47まで低下している。これまでの蓄積があるので、少なくともこの半世紀、おそらく1世紀は人口は増加するだろうが、後は世界的な規模で少子高齢化と急速な人口減少社会に突入することになる。

中国も、例外ではない。

http://tinyurl.com/7la8wek

世銀のこちらの統計では中国の2009年時点での出生率は1.61である。むろん、人口置換水準を大きく下回っている。文革期の人口増大政策の時期(1967年)に中国出生率5.91を記録している。これは当時としても異常な高さで、政策的な圧力の結果であり、文革の鎮静化に伴い出生率は年々漸減し、四人組失脚の頃には出生率3.0程度にまで低下している。一人っ子政策が始まるのは1979年からだが、その年にはすでに出生率が2.74で、人口置換水準に近づいている。このグラフを見ていると、果たして人口抑制政策として、一人っ子政策が必要であったのかどうか、疑問が生じる。政治状況の安定化に伴い、より自然な形で安定化が可能だったのではないか。もちろん、その場合は、全体の規模の拡大は避けられなかっただろうが。

ただ、一人っ子政策を採ったものの、80年代はおおむね2.4程度で推移していて、これが2.0を割るのは1994年のことだから政策の開始年からすれば比較的「最近」のことだ。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Chinapop.svg/400px-Chinapop.svg.png

こちらがwikipediaに載っている2009年の中国ピラミッドだ。これは若干簡略化されていて、実際には50台後半に前後に比較して目立った落ち込みがある。これは毛沢東大躍進政策の影響で、多数の餓死者が出た結果である。いわゆる文革期出生の世代(現在40代)が突出して多く、その子の世代、つまり現在20代がそれとほぼ同じ厚みを持っていることがわかる。現在の20代が生まれた80年代は、ほぼ親の世代の人口置換水準の出生率であったので、一人っ子政策の影響がこの世代にはまだそれほど強く及んでいない。その後、90年代とゼロ年代を通して、出生率の「劇的な」低下が発生したのであって、一人っ子政策の影響が79年からただちに生じたわけではない。

現在の中国は、「豊富な労働世代が過小な非労働世代を支えている」状態であって、その差が人口動態的な強さ、国際競争力となっている。ただしこれが今後、幾つかの段階的な「少子高齢化危機」をもたらすことになるのも、すでに決定している。文革期を第一次ベビーブーム期とすれば、その第一次ベビーブーム世代が高齢化するのは20年後である。しかしこの時点では、その子の世代である第二次ベビーブーム世代が相当な厚みをもって労働人口として存在していて、その負担を吸収することは不可能ではないだろう。だが、既に第二次ベビーブーム世代が親となるべき時期に差し掛かっているのに、出生率は人口置換水準を大きく下回り、さらに低下する様相を見せている。

第二次ベビーブーム世代が高齢化する40年後、つまり2050年頃には、中国社会保障は破綻する見込みが非常に強い。その時点で中国は文字通り老人の国になり、すべての面において競争力の劇的な低下が予想される。

そろそろ、一人っ子政策を緩和するというか、逆に出生率の向上を働きかけるべき時期に中国は来ているが、現在は第二次ベビーブーム世代が圧倒的なボリュームをもって、各公的部門を通過している現状であり、この世代に十分に中国政府は対応しきれていない。グローバリズムIT化は、中国でさえ労働省力化を発生させていて、この世代の失業率の高さや競争の激化はそれ自体が出生率を押し下げる結果を招いている。親世代であるべき第二次ベビーブーム世代が自らの生存とキャリアのために資源投資をせざるを得ないので、結果的に次世代の資源を奪取している形になっている。第三次ベビーブームは発生しないか、するとしてもごく小規模なものにとどまるだろう。

ここから導き出される結論としては、中国の現在のような成長と栄華は長くても半世紀であるということだ。

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