卒業式における君が代・日の丸についての考え

私は国旗と国歌を、憲法の表徴としての国民国家と同様に考えている。つまりそれは公共(憲法秩序)のシンボルのひとつであり、公共が強調される場所で、それらが掲揚され、唱歌されることにとりたてて矛盾を感じていない。
ただし憲法秩序を内心の自由において受容するかしないか、あるいは部分的に受容するかしないかは個人の自由であり、それもまた憲法秩序の一部分なのだから、基本的には、国旗国歌に対してどのような姿勢を示そうが各人の自由であるし、処罰の対象とされるべきではないと考える。
従って、公立学校において、生徒たちに「敬意」が強要されることは、少なくとも原理的には許容できない。私立学校においてはそれぞれの学校経営の理念が尊重されることもあり得るので、判断は個別にしてゆくしかない。
これは私が私立学校を不可侵のサンクチュアリと見なしているのではなく、ひとつの結社的自由の表れと捉えるしかないと考えているからである。私立学校の持つ偏りを、未成年者が独立した個人として自由意志において選択したとみなせるかどうかについては私は懐疑的である。
私が私立学校の存続を認めるのは、歴史的な経緯、矛盾をある程度受容するしかない人間社会の現実を踏まえた上での「あきらめ」であり、原理上は否定的である。
しかしながら、国旗国歌の問題がとりざたされているのはおおむね公立学校なのだから、ここではこれ以上、私立学校の問題については踏み入れない。
おおむね問題になっているのは、国旗国歌に対して儀典において特別な意思表示をなした教職員に対する処分であって、彼らが個人であるのみならず、公共性を帯びた公務員であることが問題を複雑にしている。
公共の内部において公共を支える役目からすれば、彼らの国旗国歌への不服従はそれが出現した時には処罰されざるを得ないと私は考える。ただし儀典における国旗国歌の必要性が不可欠かというと、必ずしもそうではなく、公務員個々人の内心の自由が尊重されるべきだとすれば、特に非常に多数において内心の自由への負荷が訴えられている状況においては、政府は特に配慮するべき責務を負うているとも考える。
かなりぎりぎりの微妙なラインであるには違いなく、私は国旗国歌への不服従の姿勢を示す公務員への処罰には賛成だが、そのような問題が生じることを回避しない政府にも批判的である。
国歌斉唱 起立1人 卒業生170人 教員が指導か 門真の第三中
↑の事件では、教員が生徒に国歌斉唱拒否の指導をしたのかどうかがポイントである。
憲法秩序の表徴としての国歌を拒絶することを、憲法秩序を支えるべき公務員が公共の学校に通う生徒に憲法秩序の範囲を越えて、指導、説得、誘導したのであれば、本来、価値判断において憲法秩序に沿いつつ可能な限り中立的なものであるべき公教育からの逸脱としか評することが出来ない。
通常は卒業式においては生徒は起立して国歌斉唱を行うことを考えれば、確かに何らかの教職員による誘導が疑われるケースではある。
当然、そのようなことがあったかどうかは調査されるべきだろうし、あったとすれば一般的な事例から外れて、一人を除いてほぼすべての生徒の行動が同じであったことから、洗脳と評するべき行為で、それは生徒の内心の自由を確かに侵害している。
この記事のブックマークを見ていたら、id:hokusyu氏のコメントがあった。

え、国旗・国歌って、「内心の自由」の問題でいいの!?>事前に不起立を指導していたのであれば、生徒の内心の自由を侵す行為で

微苦笑した。
何らかの同調圧力による内心の自由の侵害が疑われる状況で、まずはそれを見ずに、国旗国歌をめぐるこれまでのごたごたの流れに乗って、何かしらを揶揄することを優先するのであれば、たぶんこの人はごたごたの流れの中におけるパワーゲームが大事なのであって、内心の自由などはどうでもいいのだろう。
何かしら聞こえの良い、主張に流されて一貫性を見なければ、結局のところ、右派左派の同調圧力にのみこまれて、この場合は内心の自由が危うくなるだけだ。
私は公教育において右派の「愛国心教育」を受けるのも、左派の「偏向教育」を受けるのもごめんこうむりたい。