ゾンビ映画

私は映画マニアというよりも、低予算映画好きだ。
潤沢な資金と余裕のある製作期間を与えられた超大作などは、余り興味が湧かない。

中でもゾンビ映画とは、30年近い付き合いになる。
代表格として、ジョージ・A・ロメロ監督を上げるが、元は決してゾンビ専門の監督では無いのだが、彼の製作スタイルと感性がゾンビ向きなのか、初めてヒットした『ゾンビ』のせいなのか、ゾンビ映画界のキングと称されている。
処女作である『The Night of Living Dead』も『ゾンビ』も、何種類ものバージョン違いを生み、リメイクやオマージュを繰り返されてきた。
私自身も、俗に『ゾンビ』のドイツ版と呼ばれるバージョン以外は、全てに目を通してきたし、現在でもシリーズ全ての作品を鑑賞し、別監督の亜流作も含めて所有している。
ロメロ翁も72歳ながら、老いて益々ゾンビといった感じで、最早ライフワークとなっているシリーズでも、常に新しい視点とテーマを盛り込んでいる。
最近作の『サバイバル・オブ・ザ・デッド(2009)』で示した方向性を完成させて欲しいものだが、年齢的にも後1〜2本が限界ならば、次回作ぐらいでゾンビ・ライフに一つの答えを出して欲しい、と期待している。
たかがゾンビ、されどゾンビなのは、私も同じなので…。


ゾンビ映画がインディーズや低予算映画の定番とされるのは、特殊メイキャップを施す費用が、顔と手だけで済むという理由もある。
服で見えない部分にまで凝る必要は無いし、全裸のゾンビを出す必然性もないからだ。
後は、適当に限定された集団が、ウロチョロしながら10〜15分に一人ぐらいの割合で喰われていれば成立する。終盤でお馴染みの胴体引き千切りの刑に遭う悪人を用意すれば、それなりにゴア度もUPするし、途中がしょぼくても観ている方も事足りる。
最近なら、安いCGで数を水増しすれば、簡単に絶望的な状況も作れるし、ゾンビ化の理由を含めた脚本は適当で構わない。
どうせテーマを盛り込む余裕も技術も俳優も無いのだから、1シーンでも「おっ!」と思わせる絵が撮れていればOKだ。
安く買える豚の内臓と偽血をぶちまけて、同じゾンビが何回もふらふらと歩いて来ても、低予算なら私は許す。

最近はウイルス感染系が流行りのようで、手っ取り早く視聴者を納得させて、走ったり飛んだりするのも病気のせいだから仕方ない、という作品ばかりになった。
確かに一噛みで詰むゾンビ世界で、狂人のような機動力で迫ってこられるのは困るが、これならゾンビじゃなくてもいいんじゃないか、と思ってしまう。

あのふ〜らふらしてるゾンビが、気がついたら物凄い数で取り囲んでいる、という圧倒的な絶望感がゾンビ映画の真骨頂であり、自分が死んだらあの中の一人になってしまう、という恐怖が更なる深みへと誘ってくれる。
もう、安楽な死は存在せず、ゾンビになりたくなければ脳を破壊して自殺するしかない。
理屈はどうであれ、ゾンビ映画では自然死は許されず、ゾンビになれば夢遊病のようにさ迷い人肉を齧る怪物になる、という自己喪失の絶望が正しい恐怖だと思う。
怖いのはゾンビではなく、自分自身の先行きなのだ。


まぁ、そうは言っても、最先端の映像と有名俳優を起用した走るゾンビ作品として、『ゾンビ』のリメイク作品『Dawn of the Dead(2004)』のようなゴア度MAXな良作も存在するので、時代と共にゾンビ映画も変化を求められているのだろう。
28シリーズは、個人的にゾンビ映画の範疇に入れたくない。


悪夢にゾンビを見る人は、対人恐怖症や人間不信の気がある、と心理学や夢占いでは言われているそうだが、そのまんまで分析でも占いでもないと思う。。
ロメロ翁のゾンビ世界なら、それは安らかな死を奪われた人間の苦悩と日々増え続けるゾンビに絶望する世界であり、人間不信どころか人類終末の悪夢である。

私は、理屈で物事にフィルターを掛ける性質だが、心は自分自身でさえ理解できない真にやっかいなものだと知っている。
しばし、映画という作り物の世界に遊ぶとき、自分の心が何を感じ取るのかを理屈抜きで楽しむことが出来る。
未完成の作品ほど、そういう意外な発見がある、と信じて今日も聞いたことの無い監督の映画を観続ける・・・、99%の失望と1%の新しさを求めて。