ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

他山の石?

私の留守中、職場の宴会に出た主人が、帰宅後、こんな話をしてくれました。「もうすぐうちのグループから、一人ロンドンに長期派遣される人がいるんだ。その送別会だったんだけど、出発前の研修で外部講師から変なこと聞いたんだって。‘ロンドン駐在ではなくて、マレーシアの派遣だったとしても、自分がエリートコースから外されたと思わなくてもいいですよ’ってその講師が言ったそうだ。別にこっちは、誰もそんなこと思ってないのにさ、あえてそう言われると、その講師、何考えてるんだって思うよね、という話なんだ。それを聞いて、ブログ日記を始める前、ユーリがマレーシアのことで、大学の先生とか院生の中に、変なこと言う人がいるから発表したくないって、いつもブチブチ文句言ってたのは、こういう講師みたいな人達のことを指していたんだなって思ったよ」。

まぁ、お酒の席の話ですから、割引いてとらえる必要があるとは思いますし、企業組織内の話ですから、周囲に気配りするのが当然の人間関係だという前提は、忘れてはならないだろうと思います。

若い頃ならともかく、年を重ねるにつれて、人の前で話をすることの怖さを常々痛感させられます。結局のところ、何か表現するということは、相手や他者を見ているようで、実は自分自身を見ていることなのですから…。人類学者のK先生が、90年代前半の京大東南アジア研究センターでの夏期セミナーで、こんな話をされたことを思い出します。「異文化理解やフィールドワークは、結局のところ、自分の写し鏡である」と。表面的には異なる文化や地域について語っているように見えても、本当は自己を語っているのだとのことです。

上記の話で言うならば、送別会の主客は、少なくとも企業内の建前では「自分がロンドンに駐在することになって出世した」とは必ずしも思っていない(現に、奥様は、ロンドン行きに対してあまり乗り気ではない)のに、講師の方は「ロンドン派遣だから出世株ですね。マレーシアじゃなくてよかったですね」という根拠なき失礼な憶測を前提として、そういう発言をしたという齟齬があります。

かくいう私も、正直なところ、マレーシアに対しては好きな部分と嫌な部分があります。マレーシアと関わったために、自分の中で崩れてしまった部分も持っています。日本の通常社会では想像できないほどの複雑な経路と時間を辿って、ここまで何とか勉強を続けてきました。ですので、ついうっかり口をすべらしてしまったのであろうその講師の本音は、同情できなくもありません。しかし、立場上、言っていいことといけないことがあります。また、その講師自身が、マレーシアに対する偏見と無知を表明している以上に、企業の経営倫理と対人関係に対して鈍感であるということの方が、この文脈では問題視されるべきなのでしょう。

主人と一緒に暮らすようになってから、私自身がいかに狭い世界で生きてきたかを痛感させられ、結婚のよさを再認識するようになりました。例えば、主人の職場は理系の企業研究所ですが、毎月、会社全体の各分野を紹介したり、アジア各国の子ども達の絵を紹介したり、おもしろい小話を掲載したり、といった冊子を発行しています。その他の発行物と共に持ち帰ってくるので、必ず目を通すようにしていますが、学校しか知らなかった私にとっては、企業に対する‘偏見’を是正させられるよい機会です。

例えば、大学で「日本企業は環境問題に対する取り組みが遅れている」という話を聞いたとします。ところが冊子には、何年も前から先手を打って工夫を重ねているという部署の事例が掲載されていることがあります。また、「人間は経済論理という欲望に従って生きている」と大学関係の研究会(もちろん、経済や経営の研究会ではない)などで発言する人がいます。一方、現実には、利益追求のはずの会社は人権などの法を実践することにうるさく、むしろ「進歩的」であるはずの大学の方が、雇用条件や機会均等などの実現で、遅れをとっているという場合もあります。大学では、「共同研究」と名のっていてはいても、文系の場合、基本的に、一匹狼的というのか一人プレーが多いように思われます。企業の場合は、社員の家族も含めた組織全体の人事を配慮した構成になっています。ですから、家族や退職者に対しても、年に一度の健康診断が受けられるような通知が来ますし、夏祭りなど家族ぐるみの行事も幾つかあります。大学の専任教員の方は、ご家族も一緒に健康診断を受けられますか。そういう大学もあるかもしれませんが、これまで聞いたことがないので、あればお教えください。また、難病患者が発生した際でも、直ちにリストラというのは、その会社のイメージを壊すことになるので、法を厳守することに心を砕き、グループ内で助け合うような配慮が働きます。これは、私共が現に経験していることです。

もっとも、世の中はこのような恵まれた会社ばかりでないことは、もちろん承知しています。しかし、本当に生き残って発展する会社は、どの職種であれ、また、その出発点や規模がどうであれ、人を大切にし、社会と世界に真の意味で貢献しようという目的を持って経営がなされているという共通項があるだろうと思います。

上述のエピソードに戻るならば、主人の会社では、もうずっと前から東南アジア諸国の技術者を研修生として招き、交流もしています。世界各国に拠点を置き、そこに派遣された駐在員は、理系であれ文系であれ、土地の人々とうまくやっていくことに心を砕き、その土地の益になるよう仕事を進めていきます。それが翻って会社にも利益をもたらすという考え方です。ですから、ロンドン派遣であれ、マレーシア派遣であれ、どこであっても、受入れ先で摩擦を起こすような人や適応性のない人は、まず外されるか帰国命令が出ます。どの国の派遣が出世コースかというのは、当事者にとってはせいぜい二の次で、とりあえずは、部署と職務内容が問題になるそうです…。

その外部講師は、自分の価値観の範囲内でしか話せなかったのでしょうか。それとも、ずいぶん古い固定観念でしか物が考えられないのでしょうか。恐らく「異文化コミュニケーション」か何かの資格か学位を取得して、さまざまな企業で講演や研修をするのが仕事なのでしょうが、何だかこの裏話、聞かせてあげたくなりますね。だって、気づかないままこの調子だったら、次回からはお呼びがかからなくなるかもしれませんよ。

ともかく、何事も現場で経験している人が最も強いのだろうと思います。そして、人は誰も一人では生きていけない。相互依存なのです。可視的であれ非可視的であれ…。なので、あらゆる存在に対して敬意を払うようにという古来からの教えは、今でも生き生かされていなければならないだろうと思います。

ところで、今日の午後は、大阪いずみホールで、コードリベット・コールによる「ヨハネ受難曲」の演奏会があります。2ヶ月半前に大阪東梅田教会で合唱の一部を聴き、感動したので、すぐにチケットを申し込みました。楽しみ!先日のご連絡によれば、ライプツィヒ・聖トーマス教会所属の指揮者が事故のため来日がキャンセルとなり、事務局も大慌てだったようですが、こういうことは、クラシック演奏会にはつきもの。むしろ、こんなに忙しい世の中になったので、企画が無事に遂行できるだけでも、感謝したいと思います。

それから、昨日は、近所の図書館で予約してあった『ショスタコーヴィチの証言』を借りてきました。同時に予約した池田裕先生と横山匡氏の『聖書の国の日常生活』の魚とワインとパンのシリーズ三冊も手元にあります。隔月発行の『みるとす』も届きました。またもや私の投書が掲載されていて、うれしいです。いずれも早く読みたくてうずうずしていますが、とりあえず、これから演奏会に出かけますので、この続きはまた明日....。