ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

オランダでの思い出その他(1)

昨日ふと、1980年代から90年代初頭にかけて、数年間文通を続けていたオランダ人のペンフレンドのことを思い出しました。彼女の名前はディアナ。ほぼ同い年でした。

学部3年の春休みに、彼女の家に二泊させてもらったことがあります。ロッテルダム近郊の小さくて静かな町でした。東洋人が珍しかったのか、道ですれ違った少年達が、立ち止まって集団でじろじろとこちらを見つめてきたことを、よく覚えています。(そういえば、その前に二週間ホームスティしたイギリスのボーンマスでも、同様でした。)また、ご両親は英語が話せなかったので、彼女がオランダ語を英語に通訳してくれました。弟さんとゲームで遊んでいたら、突然、日本企業の名前を並べ始めたのでびっくりしましたが、それをご両親が厳しくたしなめたのも新鮮でした。友達だというインドネシア系の青年と三人で、一緒にディスコへも行きましたが、おしゃべりの途中で、彼はご両親の出身地であるインドネシアを「汚いところだから行きたくないし戻りたくもない」と言って、私を驚かせました。
小国で低地にあるオランダは、他国との交流が非常に大事だからと、外国語教育に熱心でした。彼女も英語、フランス語、ドイツ語を当たり前のように履修していましたが、ドイツ語だけは、両親から受け継いだ戦時中の悪感情から抜け出せず、「わかるけどドイツ語は使いたくない」と、嫌そうにしていました。私の方はドイツ語が大好きだったので、いささか妙な雰囲気になってしまったことも懐かしく思い出します。
一番うらやましかったのは、その学習方法です。数か月間で文法の本を一通り終えると、習った単語の範囲で書かれた本が20冊ほど並んだリーディングリストを先生から渡されるので、その中から自分の好きなものを選び、一か月以内に自力で読み上げてレポートにまとめ、感想や意見も書くのだそうです。どの外国語でも、その種の宿題が次々に出されると聞きました。(いいなあ、私もそのように、英語やドイツ語やスペイン語を勉強したかった)と、彼女の宿題を見ながら思いました。受動的な和文英訳や英文和訳や短い読解練習や単純な会話練習には、いささか飽き飽きしていたからです。
その前に三週間滞在したイギリスでも、その程度ではあまり使い物になりませんでした!今なら変わっているでしょうが、当時は少なくとも、そういう能動的な外国語学習法は、外国語大学に進学するか、かなりお金を払ってコースをとる以外に、なかなか私の周囲では見つかりませんでしたので。

最も残念だったのは、「オランダ滞在中にどこに行きたい?」と聞かれた時に、ともかく会えた安心感と到着後のぼんやりから「別にどこでも…」と返事してしまい、帰国後に(あ!アンネ・フランクの家に行くのを忘れていた!)と気づいたことです。手紙にそのことを書くと、彼女の方も残念がり、「もっと早くに言ってくれたら、絶対に家族で連れて行ってあげたのに。あそこは、是非とも見るべきよ」と返事がきました。

ひとつ印象的だったのは、夕食後の家族でのおしゃべりでした。オランダといえば改革派が連想されたので、日曜日に教会に行くかどうか私が尋ねたところ、ディアナはきっぱりと「行かない」。「あのね、私はプロテスタント系の学校に通っていたの。だから、キリスト教については、知らないわけじゃないのよ。だけど、ヨーロッパの歴史を知れば知るほど、キリスト教がもとでの教派争いや戦争が絶えなかったじゃない?私は神さまを信じてはいるのよ。平和や皆が幸せに暮らせるように祈ったりもする。でも、それは教会に行ってすることじゃないの。自分一人で祈るのよ。それが私の宗教」と、お父さんやお母さんも交えて話してくれました。(へえ、日本で読み聞きしていた話と全然違うんだなあ、今のヨーロッパの若い世代って、そうなのか…)と新発見した思いでした。

ところで、彼女の方も、マレーシアで仕事をしていた私の家に泊まりにきたことがあります。ほぼ一週間ほどでしたが、南アに住んでいた叔父叔母さんの家にも単独旅行した話を手紙に書いてきただけあって、自立心旺盛で、私の勤務中にも、首都見学ツアーやマラッカ旅行をさっさと申し込んで、一人で出かけて行ったので、こちらも楽でした。マレーシア滞在中に、お姉さんに赤ちゃんが生まれるはずだと楽しみにしていましたが、「確かに生まれた」と本当にオランダから電話がかかってきて、とてもうれしそうでした。もちろん、帰国後は赤ちゃんの写真が何枚も送られてきました。(オランダ人って生まれる時は意外と小さいんだね)と根拠なく感じた記憶があります。

上記はしばらく忘れていた思い出ですが、以前書いたドイツのBirgitなど(参照:2007年12月22日,12月23日,12月29日付「ユーリの部屋」)、ヨーロッパの同世代の若い人達と、学生時代に文通を通して交流できたのは、今から考えても、非常に得難い経験でした。今の比較的単調な生活とは大違いです。エネルギーが有り余っていたんでしょうか。それとも好奇心旺盛だったのでしょうか。しばしば繰り返すように、どうも、どこかで人生行路が違ってきてしまったような気もするのですが。

彼女のことを思い出したきっかけはと言えば、主人と話していて、「人の価値観に合わせて生きるな。自分の価値観で生きていけ」などと言われ、(どうして私は、そんなに人に自分を譲ってしまう傾向があるのだろうか)などと思った途端、彼女のくれた手紙が思いがけず浮上してきたのです。
オランダ旅行後の私に、彼女が書いてきたことがあります。「そうよ。今回の私達のオランダでの出会いは、既に思い出となってしまった。でもこの経験は、誰も奪うことのできないあなただけのものなのよ。そこが大事なのよ」と。(そうか、私の経験は私だけのもの。時が過ぎ去っても、誰も私から経験や思い出そのものを奪うことはできない、か…。いいこと言うなあ、オランダ人って…)なあんて、またまた単純な私は感動してしまったのでした。当時だけでなく、ずいぶん時間が経った今でも、こうして支えてくれるのですから、人に贈る言葉は、本当によく考えて大切にしなければならないですね。

さて、話を思い出から現実に戻しますと、昨日も、種々の発行物がマレーシアから送られてきました。
まずは『ヘラルド』とマレーシア協会協議会の月報“CCM Newslink” の最新号です。発行許可の件で心配していた頃や、無事に届かなかった時期もあったことを思うと、郵便受けにきちんと入っている封筒を取り出す瞬間は、何物にも代えがたい感慨です。私にとっては、いくらネット時代とはいえ、ホームページに出ていないニュースが書かれている紙媒体は、やはり貴重な情報源だからです。予測を裏切らず、両者共に、新情報や興味深い記事が掲載されていました。まあ、何もなくてつまらないぐらいが、マレーシア社会は平穏無事なのですけれども。

また、電子版新聞のMalaysiakini系列のKiniBooksから、特急便で本が一冊送られてきました。
Religion Under Siege? Lina Joy, the Islamic State and Freedom of Faith” (eds.) Nathaniel Tan&John Lee, Kinibooks, 2008, Malayisia.
送料が高かった割には、内容にいささかがっかりという気もしないではありませんが、このように投稿記事や関連情報を集めた本が出版されるようになったこと自体、90年代と比べたらかなりの前進です。
そしてまた、うれしいことに、あしながおじさまから、故前田護郎先生の選集第二巻が送られてきました。出版後一週間以内の送付ですから、誠にありがたい限りです。早速少し読んでみると、格調高く充実した内容の聖書学論考が展開されていました。以前、知りたいと願いつつ知り得なかったことについても、諸説が丁寧かつ過不足なく書かれています。かえすがえすも、もっと早くから触れていたならば、進路も悩みの中身もずいぶん異なっただろうに、と思われます。それはともかく、あしながおじさまのご配慮とご卓見には、感謝してもし尽くせません。これからは、日課に組み込んで少しずつ読んでいければと思っています。
それから、「わだつみ会」からの会報最新号も、郵便受けに入っていました。今回は、学徒兵のみならず、少年兵や農民兵にも焦点を当てたページに目が留まりました。これは重要な視点だろうと素人ながらに思いました。学徒兵の多くは、戦争に批判的でありながらも将校として戦地に赴いたのに対して、後者は、充分な批判的思考や教育も受けられないままに、プロパガンダを鵜呑みにして、前線で命を投げ出して戦うのが当然だと信じ込まされていたのだそうです。では、現代の我々は、いざとなったらどちらに属させられるのか。我が身に置き換えて考えてみるならば、深刻な問題です。社会階層や学歴によって、戦時中の身の処遇のみならず、戦後の扱われ方がこれほどまでに異なるならば、いったい、人の命は法の前に平等だとか神の御前に同じ価値を持つなどという理念が、どのように証明されるのだろうかと、考え込んでしまいます。本来は、そういう人々の労苦のおかげで成り立っていた暮らしでもあったはずなのに、です。

その他には、税務関連で忙しくしていた一日でした。
夜には、波多野精一時と永遠岩波書店昭和18年/昭和42年第8刷)を少し読みました。確かに、イスラエル旅行で知り合った80代の牧師先生直々のご推薦だけあって、含蓄深く非常におもしろいです。

では、今日はこの辺で失礼いたします。そういえば、今年はうるう年だったんですね。