ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

だから....

しばらくお休みしていました。
この場に及んで、あえて一言で理由を言うならば、2011年3月11日の午後、那覇(正確には新原ビーチ)で聞いた「本土」(私達の用語では「本州」)発生の巨大地震ニュースとそのショック。
もっとも、今年の1月半ばに、あるルートを通して、「怖くてここでは公表できない」という注意付で警告を知らされていた(でも、地域は伏されていた)ために、自分としては最大限、警戒していました。そもそも、小学3年生の頃から「東海大地震が起こる危険性」を言い聞かされていただけあって、長年、日々をそれほど楽観的に過ごしていたわけではありません。なすべきことは、とにかく毎日を大切に、一瞬一瞬をゆるがせにせず、人様との出会いも、できる限り真摯で誠実でありたいと願い、すべきことはなるべく即座にし、身の回りを整理して、防災用荷造りもして、いつ何時、何が起こっても、後悔をしないような人生に努めたい....。
でも、これらはあくまで個人ベースの心掛け。東北のリアス式海岸沿いを中心とした被災地の方々、そして、福島の原発の措置に命がけで取り組んでいる方達のことを思えば、今回のことは、言葉になりません。
当初、最も衝撃を受けたのが、昨年9月に学会発表のために利用した仙台空港の封鎖とその状況(参照:2010年9月12日付「ユーリの部屋」)。いつでも、初めて訪れる場所は、写真を撮って記念に残す癖がついているので、もちろん、仙台空港も撮ってありますが、それにしても驚愕。「え!何これ!」としか言いようがありませんでした。
そして、あの恐ろしいばかりの津波。あれほど訓練を積み重ね、シミュレーションもしていたにもかかわらず、思い出も暮らしの基盤も何もかも、瞬時にとんでもない勢いで流し去り、壊してしまった....。
仙台でタクシーを利用した際、運転手さんがとても温かくて、親切だったので、(ご無事だろうか)と思うだけでも、胸が詰まりそうでした。
仙台へは、これまで学会のために二度訪問しただけですが、私のようなチャキチャキの名古屋っ子とは違い、東北の人々は、万事控えめで、思ったこともあまり口にせず、忍耐強く気持ちを内に秘めているので、私にとっては魅力で惹かれるところさえありました。それだけに、普段はめったに見ないテレビの映像の数々から、なんとも言えない、重苦しく申し訳ない気分で、ここ10日以上を静かに過ごしておりました。
もっとも、フランス巡礼旅行でご一緒した神戸在住の方々からは(参照:2011年2月24日付「ユーリの部屋」)、お写真を同封したお便りがあり、阪神淡路大震災のご経験と照らし合わせて、本件について綴る方もあれば、あえて触れずに、楽しかった思い出のみに集中することで、この国難を乗り切ろうとする方もあり、さまざまに思いを深くしました。
そして、海外からもたくさん、安否確認のお見舞いメールや祈りの支援メールが寄せられたことを、是非ともここで申し添えなければなりません。以下は、その一部です。
名古屋大学で留学生寮の住み込みチューターをしていた時に知り合い(参照:2007年11月2日・2008年8月5日・2009年10月25日付「ユーリの部屋」)、20年以上も音信不通だったオーストラリアの友人からは、シンガポールのDを通して(参照:2008年8月9日付「ユーリの部屋」)、メールで篤い祈祷と温かい共感が何回も届きました。特に印象的だったのが、宮城教育大学と姉妹校である、クィーンズランド大学副学長からの心のこもった日本への励ましメッセージ。ブリズベンの洪水の時、宮城教育大学が真っ先に支援の手を差し伸べてくれたので、今度は私達が助ける番だ、とも。
それに連関して、ニュージーランドのロックスボロフ先生から、「クライスト・チャーチの地震の際にはニュージーランドのために祈ってもらったから、今は、あなたと日本のために祈るよ」とも(参照:2011年2月23日付「ユーリの部屋」)。
かれこれ15年以上も友人として付き合っている、福建系華人の国会議員のエドさんからは、「クアラルンプールとプタリン・ジャヤで日本のために祈っている人々のリスト」まで添付して、励ましメールが繰り返し届きました。
10年ほど前、「センシティヴ」な私のリサーチに協力するため、内部資料をこっそり手渡して協力してくれた、今は香港在住の麗華から、「友人と涙ながらに、今回の日本の惨事と日本人のために祈ったのよ」と。
サバ神学院には2006年秋に一度訪問しただけなのに、上海出身の牧師兼スタッフの女性からも、いの一番、真っ先に「今、どこにいるの?無事なの?連絡求む」とフェイスブックでメッセージが入りました。
インド系の友人とその息子さんからも「大丈夫、いつでもあなたと共にいるから」「アンティ、大丈夫だってば。僕達いつでも一緒だよ」。
なんて温かい人々なんでしょう。私が受けとった海外からの連帯支援の気持ちを、被災地の方々と救援、復旧作業に従事されているすべての方々にお送りします。

そして、所属学会からは、関東地域での状況に鑑み、予定されていた研究会や催しがキャンセルという連絡が続々。他の学会ルートで、日本在住の外国人達に、言語上、金銭上、シェルター提供などの支援要請も入っています。そして、若手中心に、被災地居住の研究者の先生方の安否を問うメーリングリストとその応答。
ささやかながら私も、なじみの専門ルート複数を通して、義援金の送金を何度か。「赤ちゃんのミルクのために、ユニセフへお金をすぐに送ってください」「日赤へすぐに送金してください」と、ゆうちょ銀行でも申しました。これから少なくとも数ヶ月は、このような作業の連続となろうかと思います。

「先輩」(参照:2011年3月1日付「ユーリの部屋」)からは、昨日、お手紙が届きました。4月から外務省勤務に戻られるとのこと。この度の震災により、霞ヶ関でも、イスラエルで鍛えられた激務の再現なのかもしれませんが、自筆のお便りは、あくまで冷静、沈着そのもの。極めて身勝手かつ厚かましくも、何だか「お父さんと娘」のような感じの貴重なスナップショットを胸に、いつかまた、会合などでお目にかかれる日を楽しみにしつつ、私は私の課題に取り組もうと気持ちを新たにしました。
希望がなければ、前進できないのですから....。

人間には災難のふりかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか。」

(『コヘレトの言葉8章6−7節新共同訳による))