ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

防人の歌・五箇条の御誓文

JOG Wing 『国際派日本人の情報ファイル』(http://www.mag2.com/m/0000013290.htm
No.2771   H30.04.04   7,946部



「若き防人たちの旅立ち」
ちよまる



(伊勢雅臣)自衛隊員たちの実際の姿と、その家族の思いのよく窺われる文章です。こういう隊員やその家族達によって、日本国民の安全と平和が保たれています。



・平成25年、大学を卒業した長男は、陸上自衛隊一般曹候補生として横須賀での教育訓練を終へ、朝霞駐屯地に配属された。そこでの勤務の傍ら幹部候補生学校への準備を重ね、翌年4月、念願の入校を果した。福岡県久留米市にある幹部候補生学校では、卒業までの10ヶ月間、週末を除いた毎日、早朝6時起床から消灯23時まで、厳しい教育訓練が続く。座学を始め高良山登山走、完全武装による不眠不休の百キロ徒歩行進とそれに加へての戦闘訓練など、試練の連続であった。


・入校して間もない5月、長男は銃を用ひた訓練で転倒し、目の上を10数針縫ふ怪我をした。幸ひ脳や視力に影響はなく、間もなく訓練に復帰することができた。また、不眠不休の百キロ行進中、激しい疲労に襲はれ意識を失った。この時も幸ひ数分後に意識を取り戻し、早足で行進に加はることができた。かうした事態を想定してのことだらう、予め上官から父兄宛に、本人には内緒で励ましの言葉を送るやうにとの御手紙を頂いてゐた。帰省の度に「十分に休養するように」と届くお葉書も含めて、息子たちは厳しさの中にも、温かな眼差しに包まれてゐたことを有難く思ったことである。


「晋さん(長男の名は晋太朗)、いつも厳しい訓練本当にお疲れさまです。また、今、百キロ徒歩行進の2日目、疲労がピークとなっていることでしょう。晋さんが1歳半の頃の写真を一葉同封します。」「ペルシャ湾では日中50度にもなる灼熱の中、飲み水も隊員1日にたったコップ2杯のみ支給、と言う過酷な環境下で、立派に任務を果たされてのご帰還でした。」


・駐屯地は、訓練に必要なもの以外、無駄なものが一切ない


・校風の象徴である「質実剛健にして清廉高潔」の「剛健」と刻まれた碑と、青空を背にはためく国旗が美しい


自衛官は九州出身者が多いとのこと。九州は防人の地であり、名高い戦国武将も多く、その誇りを受け継いでのことなのだらう。



・起立して休めの状態でも、数分間少しも身動きすることがない。家族控室の和いだ雰囲気と一変し、張り詰めた空気が式場を包む。ここで最も感動したのは、青年たちが肝の底から声高らかに歌ふ、気迫にあふれた国歌斉唱であった。


・ほとんどが平成生れで、公立の学校で「ゆとり教育」を受けた世代である。けれども心の底では、ささやかでも防衛の一端を担はうと、それが為に自らの甘えを断ち切り、厳しい本物の教育を求めて、この学校にたどり着いたのだらう。ここでの厳しくも目まぐるしい経験を糧に、若きリーダーたちは、すぐさま各地の任務地へと跳んで行った。


・若干20歳代半ばで、各々20人から30人前後の部下を持つ。変転極まりなく動く複雑な世界情勢の中で、重い決断を迫られる事態にも遭遇するだらう。粛々と務めを担はうとする防人たちのためにも、この国のあるべき姿を求めて私も日々努力を重ねて行きたい。

(部分抜粋引用終)

日本政策研究センターhttp://www.seisaku-center.net/node/1035
所長 岡田邦宏
〈『明日への選択』平成30年1月号〉


昭和天皇が掲げられた五箇条御誓文」
2018/01/01


・元日と言えば新年を寿ぐのが通例であり、この日に何か特別な政治的メッセージが発せられる例はあまりないが、かつて元日に国民に向けて天皇陛下詔書が発せられたことがある。昭和二十一年の元日、まだ終戦から四カ月余りしか経っていない、東京にはまだ焼け野が原が広がっていたときのことである。


・一月一日に発せられたことも異例だが、この詔書が占領下にあってGHQが主導し、当初「天皇の神格否定を目的として」企画されたことはさらに異例だった。そのために、今でも教科書などでは「人間宣言」などと呼ばれているが、詔書には人間という言葉も宣言という言葉も登場しない。公的には「新日本建設に関する詔書」と呼ばれている。


・冒頭に明治元年の「五箇条御誓文」が掲げられていたこともまた異例と言えよう。詔書はこういう言葉で始まっている。
 「茲に新年を迎ふ。顧みれば、明治天皇、明治の初め、国是として五箇条の御誓文を下したまへり」と。こう述べられた後、「一、広く会議を興し、万機、公論に決すべし」からはじまる五箇条が掲げられ、そのうえで「叡旨、公明正大。又、何をか加へん。朕は、茲に誓いを新たにして、国運を開かんと欲す」と、詔書の冒頭部分には記されている(詔書の片仮名表記は平仮名に書き改めた)。


・この冒頭の五箇条御誓文の部分は詔書の原案にはなかった。それを加えられたのは昭和天皇のご意向であった。昭和天皇はのちにその理由をこう述べておられる(昭和五十二年八月二十三日、那須御用邸)。
「それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。(中略)民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要があったと思います」(引用は高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』)


・なぜ、民主主義が輸入のものではないことを示す必要があったのか。昭和天皇は続けてこう述べられている。
 「日本の誇りを日本国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを示すために、あれを発表することを私は希望したのです」


・敗戦から四カ月余り、GHQが打ち出す占領政策のなかで早くも米国流の民主主義を持て囃す風潮が強まり、また、戦前の日本はすべて悪いものであったとの宣伝も浸透し始めていた。そうしたなか、「日本の国民が日本の誇りを忘れないように」と願われ、「民主主義というものは決して輸入のものではない」ことを示すために五箇条御誓文を詔書の冒頭に掲げられた、というのである。


詔書のなかで昭和天皇は「叡旨」つまり明治天皇の思し召しは「公明正大」であり、「又、何をか加へん」、何も付け加えることはないと述べておられる。こんな立派な御誓文から近代の日本が始まったのだ、それこそが日本の誇りなのだとの確信がおありになったのであろう。


昭和天皇がこの詔書を発せられてから七十三年。今、昭和天皇が願われた「日本の誇り」を持っている日本人はどれほどいるのだろうかと考えれば、忸怩たる思いがする。五箇条御誓文が発せられてから百五十年の今年、この御誓文が誇りを持って各地で語られる年になれば、明治維新百五十年を意義ある年とすることができる

(部分抜粋引用終)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34297


「この国はいったいどうなってしまうのか未婚率と離婚率が急上昇
2030年みーんな一人暮らし日本から家族が消えてなくなる」
週刊現代』(講談社
2012年12月13日


パナソニック 通期で7650億円の赤字見通し リストラ拡大で年度中に1万人規模の人員削減〉
〈シャープ 過去最悪の赤字決算見通し 62年ぶりの人員削減5000人〉
NEC 2000人の早期退職募集〉


・大手電機メーカーを中心に、経営不振に苦しむ各社でリストラの暴風雨が吹き荒れている。各企業が自衛のため、正社員から非正規へと雇用を切り替えている。その余波で起きていること---それが「家族の崩壊」だ。


中央大学山田昌弘教授は日本経済新聞(11月7日付朝刊)に『「標準家族」の維持は困難』と題して寄稿し、バブルが崩壊した'90年以降に「家族崩壊」が始まったと指摘した。生涯未婚率や離婚の急増によって、'70年以降生まれの世代は配偶者と子供を持ち、経済的に安定した「標準家庭」を維持できない人が増大するという。


・生活はなんとかなると思っていたが、妻は「耐えられない」「将来が不安だ」と言い出し、離婚を迫ってきた話し合いを重ねても、妻の気持ちは変わらず、結局離婚が成立。マンションから追い出され、資産も根こそぎ持っていかれた。


会社員時代の知人はクモの子を散らすように離れていったから、心を許して話せる相手もいない。まさか自分が50歳を超えて、こんな生活に陥るとは。狭い部屋で一人、昔の家族写真を見返すと、涙が止まらない---。


・実はかつて年間10万件にも満たなかった離婚件数はいまでは25万件ほどにまで増えており、日本はすでに3組に1組が離婚する「離婚大国」になっている。
「しかも、これから再び急カーブを描いて離婚件数が増加する恐れがある

(部分抜粋引用終)