ユーリの部屋

2018年11月06日 上海のユダヤ人

ツィッターからの転載を。

https://twitter.com/yohananko/status/1058191719953395712


児玉直純‏ @yohananko Nov 2


Chinaは前から「上海でユダヤ人を救ったのは日本でなく我々だ」と主張している。 昨年ヘブライ大学の図書館で調べ物をしていた時、アジア史の棚に1995年にチャイナが出版した「THE JEWS IN SHANGHAI」という書籍を見つけ ショックを受けた。歴史戦で日本は完全に遅れをとっている。


11:59 AM - 2 Nov 2018


https://twitter.com/ituna4011/status/1058211549809061888


Lily2‏ @ituna4011 Nov 2

Lily2 Retweeted 児玉直純

真偽の程は不明だが、確かにユダヤ系の中にも中国筋の情報を、日本よりも信憑性が高いとして、引用している人がいた。ちなみに、リベラル左派ではない。


1:17 PM - 2 Nov 2018

(転載終)

上海については、過去ブログを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%BE%E5%B3%A4)。

中国人は論理的に大胆に語るので、信憑性を別としても、説得力は抜群だ。対する日本人は、賢明な戦略戦術を練りたい。もっと証拠を集めて資料にまとめ、学術的正確さで説得力を増すべきだ。

itunalilyitunalily 2018/11/06 10:14 メーリングリストより。

『日本史の闇を支配した「忍者」の正体』


・滝川一益が甲賀忍者の出だと言われているように、信長の領国が近江まで伸びていったときに、近江の情報網を有効活用している。


・甲賀は出入り自由の気風があった。第二次天正伊賀の乱のとき、信長の名代である織田信雄が織田勢にくだってきた田屋某から献上された壺を滝川一益に下賜したことから、少なくとも一益が甲賀調略ならびに、伊賀攻略に特別な論功があったとみるべきだ。


・歴史は勝者のもので、敗者はどうしても分が悪くなる。典型が、今川義元。桶狭間ではちょっとした油断で負けてしまったのは事実だが、彼と今川家が情報戦において秀でていたことは疑いない。一つの例は、富士山の村山修験との関係性。かれら修験者を義元が保護し、その代わりに情報の提供を求めた。


・有名な甲相駿三国同盟も今川家(太源雪斎)の功績。義元の先進性と雪斎の補佐は、情報戦においてももっと評価されていい。


・豊臣秀吉が信長軍の武将として頭角を現すきっかけとなったのが、美濃攻略戦における墨俣一夜城の構築だ。秀吉のあだ名は「猿」だが、猿は忍者の暗喩としてよく用いられる。


・絶対的な信頼関係こそ、忍者の最大の武器である。


・毛利元就や毛利家は、琵琶法師を情報源としていた。この琵琶法師というのが実は重要。やはり、忍者的なモノのルーツは修験山伏、修験者


・実は忍者が鉄砲に目を付けたのは、忍者の特質と深くリンクしている。また忍者のルーツである修験道は冶金術とも深く結びついている。修験者は鉱物開発を生業とするものが多かったし、冶金の技術も持っていた。


・忍者の三大秘伝書というのが、『萬川集海』『忍秘伝』『正忍記』である。

(部分転載終)

itunalilyitunalily 2018/11/06 10:15 山本七平『帝王学:「貞観政要」の読み方』


・「貞観の治」。これは中国では、理想的な統治が行われた時代の一つとして、後代の模範とされた時代である。


・「兼聴」情報を吸い上げる。


・思い切った権限の委譲をせよ。広い天下にはあらゆる問題があり、それが千変万化するのだから、それに応じてこちらも変化して対応すべきなのだ。そこで権限を委譲して多くの部下に討論・協議をさせ、宰相に対策を立てさせ、その結果が穏便であってはじめて奏上させて決裁し、実行に移すべきである。


・「全能感」にとらわれるな。権力者はしばしば奇妙な全能感にとらわれるものである。この全能感をもたなかった権力者といえば源頼朝と初期の北条氏、そして徳川家康であろう。ともに『貞観政要』から強い影響を受けたと思われる人々である。


・在野の賢者をスカウトせよ。


・「実需」虚栄心を捨てる。人間には、必ず虚栄心がある。そして、虚栄心の充足だけは限度がない。


・「自制」縁故・情実人事を排する。


・妻に口出しさせるな。人事に介在しやすいのが、実は家族すなわち母とか妻とか子などの意向である。太宗は、これが介入することを絶対に許さなかった。その点、彼の妻の文徳皇后は賢夫人であり、夫としての太宗に言うべきことは言ったが、決して政治や人事に口出すことはなかった。


・「栄貴」より「徳行」こそ肝要。その人の死後、人々は何でその人を量るのか。それは権力でもなく、社会的な地位でもなく、いわば「人格的な力」ともいうべきものであることを、太宗は知っていた。

(部分転載終)

itunalilyitunalily 2018/11/06 10:15 徳川宗英(田安徳川家第11代当主)『最後の幕閣、徳川家に伝わる47人の真実』


・暗殺された井伊直弼が彦根35万石の藩主になれたのは、偶然のことからだった。兄弟が次々病死し、家督を継ぐ予定のない末弟の直弼にお鉢が回ってきた。


・直弼は豪胆な性格の持ち主に思われがちだが、学識、教養が高く、知性に優れていた。とくに国学の研究と茶道に打ち込んだ。茶道は石州流の奥義を極めた。城外で庶民の間にあって暮らしていたので、直弼は世間知らずの殿様とは違っていた。


・越前松平家32万石は、徳川家康の次男、結城秀康にはじまる徳川宗家の分家で、御家門筆頭の家柄だ。幕末に家督を継いだ松平慶永(春嶽)は、若い頃から秀才の誉れが高く、すべての人が誠実、率直、真摯、几帳面と評価している。


・慶永が正室の勇姫と婚約したのは13歳のときだった。勇姫は、熊本藩の細川家の三女として、生まれ、当時7歳だった。しかし、その後まもなく疱瘡を患い、一命はどうにかとりとめたが、顔にあばたが残ってしまった。細川家では慶永や松平家へ気兼ねして婚約の解消を申し入れた。


・これに対して慶永は、「いったん約束したことである。心が美しければ、いささかも気にとめることはない」と輿入れを望んだという。勇姫は16歳で慶永のもとへ嫁ぎ、奥を支えて、生涯、内助の功を尽くしたのである。


・15代将軍、徳川慶喜は2歳のときに、父、斉昭の命令で、母から離されて水戸で育てられることとなった。水戸藩は質実剛健、文武両道がモットーであった。慶喜はこれを徹底的に叩き込まれた。後年、英明をうたわれた慶喜だが、少年時代は、読書が嫌いで武術が好きだった。のちの学識、教養の深さは20歳を過ぎてからの猛烈な勉強によって培われたといわれる。


・佐賀藩藩主、鍋島直正は、外国事情に明るい名君として賢侯の一人とされ、幕末の西南雄藩、35万石の大名として出色の殿様であった。財政の立て直しに多くの藩が質素倹約のみに終始する中で、直正は同時に、国産方を設けて石炭、白蝋、陶器などの専売によって巨利を得、藩財政の安定に成功して「経済大名」と呼ばれている。


・幕府から黒田藩と一年交代で長崎警固を命じられていた直正にとって、長崎の警備強化は至上課題であった。彼は、「独自に防衛力を発揮しよう」と考え、殖産で蓄えた金によって様式軍事工業を導入し、溶鉱炉設置、大砲製造、軍艦建造などに力を注いだ。


・佐賀藩はもとから教育に熱心な藩であるが、直正は、西洋の知識の摂取を奨励し、藩士たちに蘭学、英学を学ばせた。


・直正がある日、藩校の弘道館で塾生達に、「源頼朝と平清盛とでは、どちらが優れているか」と問うた。「頼朝」と答える塾生達に直正は、「清盛は、貿易をひらいて世の中を富まそうとしたのに対して、頼朝は何をしたか」と清盛こそ英雄だと答えた。


・直正は、百の空論が一丁の洋式銃に及ばないことを知っていた。国を守り、富ますということの本質を、一番よく理解し実行した殿様なのだ。


・幕末の勘定奉行、小栗上野介忠順は、将軍慶喜に対し、新政府軍への徹底抗戦を主張した。そのころ、小栗は、「一言で国を滅ぼす言葉がある。それは『どうにかなる』の一言だ」とつぶやいたといわれる。


・小栗上野介は、幕臣にあった間に、70回以上の昇進と罷免を繰り返している。筋の通らないことや、曲がったことが大嫌いで、己の主張を決して曲げずに上役とよく喧嘩になった。類い稀な潔癖な人物であり、それでも登用され続けたのは、彼の官僚としての力量が飛びぬけていたからだ。

(部分転載終)

itunalilyitunalily 2018/11/06 10:21 (http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/5422284.html#comments)

・IDFが、大量のロケット発射がダマスの、シリア政府とコドス部隊の指令と支援で行われたとしていることは、今後ガザに対する攻撃のみならず、ダマスやその他シリア全土(IDFは地理的限定はしないとしている)を攻撃し、戦火が広がり、下手するとロシアをmきこむ(ママ)可能性も出てくるという問題提起です。

・パレスチナ側に多くの正統性があることは私も全く同意見ですが、その様な主張に固執することが、1948年以降如何にパレスチナ人の立場を損ない、次から次へと後退を重ねさせられたことはその間のパレスチナ地図の変化を見れば、明らかですし、今日も書いたオマーンの立場に鑑みても、アラブ諸国の立場も変わってきています。

(引用終)

← 「パレスチナ側に多くの正統性がある」

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