Hatena::ブログ(Diary)

Ewig-Kindliche RSSフィード

2016-01-14

[]エンデ共同体 00:26 エンデと共同体を含むブックマーク

まず最初に以前の記事でもときおり触れていた、エンデのLebensgebärdeという言葉について、少し考えて見たいと思います。ぼくがこの言葉に興味をもったのは、ヨーゼフ・ボイスとの対談『芸術と政治をめぐる対話』の次のエンデの発言を読んだことがきっかけです。

芸術から、シェイクスピアのような人の創造的な仕事から、文化の全体が生じるわけです。つまり、多くの人をまとめることのできる共通の大きなライフスタイルが、生じるのです。(エンデ全集16『芸術と政治をめぐる対話』P.43)

ここで「ライフスタイル」と言われていることが、ずっと引っかかっていました。文脈を考えるとライフスタイルというのは、わかるようでわからない言葉です。文脈から判断をすれば、ここでライフスタイルと言われている言葉は、文化の根底に存在する何かであるように思われます。では、原文ではどうなっているでしょうか。

Aus der Kunst, aus den schöpferischen Leistungen solcher Leute wie Shakespeare entsteht die Gesamtheit der Kultur, das heißt, es entsteht daraus die Gemeinsamkeit einer großen Lebensgebärde, in der viele Menschen sich zusammenfinden können.(Kunst und Politik ein Gespräch S.31)

「芸術から、シェイクスピアのような人の創造的な仕事から、文化の全体が生まれるのです。つまり、そこから多くの人間が共同できる大きなLebensgebärdeの共通性が生まれるのです。」(拙訳)

Lebensgebärdeにどのような訳語を当てるのが妥当か、未だに判断できないのでさしあたり原語のままにしておきました。余談ながら、Twitterエンデボットには「生の身振り」と訳しましたが、ちょっと大仰すぎるという気がしています。他の対談等では生活態度なんて訳語をも使われていますが、文化(Kultur)との密接な関わりの下に使われているこの言葉の訳語としては、日常的なライフスタイルや生活態度という言葉の使われ方からすると、少し物足りないなという印象を否めません。Lebensgebärdeという言葉は、Leben(生活、生命)とGebärde(身振り、手振り)を合わせたものです。辞書的には、生活態度のような言葉は確かに妥当なような気がしますが、エンデがこの言葉に付与している意味を考えると、やはり少し納得しがたいものがあります。ぼく自身がボットで生の身振りというわかるようなわからないような言葉を選んだのは、哲学用語で言う生という抽象的ながら人間の根底にあるものが、自然な形で、あるいは無意識のうちに表出するというイメージだったのですが、これもそれほど妥当という気はしません。なので、ここではさしあたりLebensgebärdeと原語のままで書いていこうと思います。

すでに書きましたように、Lebensgebärdeというのは文化という概念と密接に結びついています。『オリーブの森で語り合う』の中では、エンデは次のように述べています。

ぼくは文化という言葉について、むしろ生活形式の、価値連関の、―こう言ってよければ―、Lebensgebärdeの共通性のことだと理解している。この共通性はそれを再認識し、それ自体を表現する社会や時代が所有するものだ。(Phatasie/Kultur/Politik S.30)

ここでも文化ということが問題になっていることがわかります。個々人のLebensgebärdeの共通性が、文化を、ひいては文化的共同体を形成し、その営みのなかでこの共通性が再認識され、表現されるというように理解してよいでしょう。エンデはあるインタビューのなかで、文化というのは内的な世界の外的な投影だ、ということを言っています。そして、現代においてそれは失われてしまったのだと。これはエンデ文学のなかでもたびたび取り扱われているテーマでもあります(例えば、モモのように)。更にこの共通性について、『ものがたりの余白』の中では次のように語っています。

(…)特に、わたしたちは今日、国別の文化が、すでに支える力を失った時点に達しました。(…)わたしたちは、この(地球という)惑星でみんな一緒に生きてゆくことを学ばなければならず、それに、わたしたち自身を理解することを学ばなければなりません。ということは、つまり、神話を見つけなければならないということです。そして、この神話は次の二つのことを含んでいるのですが、この二つは今まで一緒にならないとされており、どのようにして一つにすればよいのか、わたしたちはまだ知らないのです。一つは、絶対的価値として、人間の個人の有効性であり、他方は、人類全体です。(…)これ(二つを一緒にすることが)が、今、特に詩人や作家、そして画家にとっての課題だと思うのです。(ものがたりの余白 PP64-65)

ここでは神話という言葉が使われています。神話というのはここでは例えばある民族のなかで共通にもつことのできる何かあるものとして考えられています。しかし、こういった民族の神話はすでに不可能だ、とエンデは続けます。そういった民族の神話にかわる神話を、あるいは先ほどの話に戻るとLebensgebärdeの共通性を作り出すことが、芸術家の使命だというわけです。エンデ自身は、個人の神話が必要になるというふうに話を続けます。その理想から98%を引いたものが『はてしない物語』だというのです。『はてしない物語』の終幕部で主人公バスチアンと気難しい古本屋のコレアンダー氏はファンタージエンを旅したということによって、精神的な結びつきを得ます。二人のファンタージエンは全く別物であることが作中でも触れられていますが、まさにファンタージエンを旅した、個人の神話を持ったことによって二人は結びつくわけです。エンデの言う個人の神話というのは、このようなものであると語られているわけです。

『ものがたりの余白』のインタビューを読んでいると、一つの事に気づきます。エンデが特に強い関心を示す事柄、貨幣・遊び・言語/神話はどれも人と人とを結びつける機能をもっています。エンデ貨幣の白魔術ということについてもあるインタビューの中で語っていますが、エンデ批判するような黒魔術的な貨幣ではなく、白魔術的な、ポジティブな貨幣とはどういうものなのか、このイメージを得ることが大事だというのです。「単なる自然科学は決して本当の文化へと導くことはありません。そうすると、ポジティブな、貨幣の白魔術が存在しなければならなのです。」(Zeit-Zauber S.21)エンデは語っています。こう考えていくと、エンデの思想を理解する上で、貨幣も単に経済の問題というだけでなく、トータルな社会、トータルな文化を構成する一つのファクターとして捉えることもできると言えます。文化を、Lebensgebärdeの共通性を、どのようにエンデが理解し、またそれを新たに作り出していくべきだと考えていたか、この点を問題化することで、以前の記事でも触れたような社会批判エンデと芸術家エンデという分裂しているようにみえる2つの顔を架橋することもできるように思います。

以上のことを踏まえると、エンデは新しい共同体の可能性を模索していたという視点が可能なように思います。それは、先祖返り的な、民族とか血縁とかを基盤にした共同体ではなく、ある共通の価値(の体系)を、共通のLebensgebärdeをもつということを基盤にした共同体だという風に考えられるように思います。『オリーブの森で語り合う』でエンデはエプラーの構造保守と価値保守という概念対に対して、構造革新と価値革新という概念対が可能なのではないかということを語っています。ぼくの理解では、構造革新とは―ここではおそらく当時の共産主義国家が念頭に置かれていたのだと思いますが―構造を革新すれば全てうまく行く、社会的ユートピアが訪れるというような態度であるように思います。価値革新というのは、価値保守が既存の価値を守っていく―例えそれによって既存の構造を解体したとしても―という立場であるのに対して、新しい価値を作っていくという立場です。そして、エンデは様々なところで繰り返し、この価値の更新こそ芸術家の課題であると言っているわけです。少し脱線しますが、エンデには政治的アンガージュマンとか社会改革に対する行動がないじゃないか、というような批判を時折見かけます。ですが、エンデのこのような考えを踏まえれば、エンデが自身の作品でやって来たことそのものが、エンデの答えなのだというふうに思えます。エンデが繰り返し語ることの一つですが、エンデゴッホひまわりによって、当時の意識は全く違うものになったのだというようなことを言っています。芸術というのはそういう力があるんだ、と。いずれにせよ、価値やLebensgebärdeの共通性を新たに作り出し、新たな文化を構築していくこと、それによって新しい文化的・精神的共同体を作り出していくこと、このことが現代社会との関係性でみたとき、エンデの重要な関心事の一つだったのではないか、そのように思います。

最後に、『ミヒャエル・エンデの読んだ本』に収録されているノヴァーリスの「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」について少し触れておきたいと思います。エンデはこの『読本』のなかで、自身の人生において決定的な影響を与えたテクストを選んで収録しています。エンデは自身をドイツ・ロマン派の後継と自認しており、なかでもノヴァーリスを精神的な父とまで呼んでいます。ノヴァーリスの代表的な作品というと『青い花』や『夜の讃歌』が思い浮かびます。思想的なテクストであれば、断章集『花粉』やいわゆる百科全書学のための『一般草稿』が有名なところでしょう。あの有名な白百合と赤薔薇のメールヒェンやクリングゾール・メールヒェンなどではなく、なぜ「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」という小論が選択されたのか、この点はここまで書いてきたことと関係があると考えています。そもそもこの小論自体、イェーナサークルで発表したときにシェリングによって激しく批判され、最後にはゲーテにお伺いを立てて公刊が見送られたという経緯を持ついわくつきのものです。その内容はあたかも中世ヨーロッパを賛美するような内容として捉えられたのです。ここでこの小論の細かい内容に立ち入ることはできないのですが、ぼくの理解ではノヴァーリスは、現代というのは非常に唯物論化している、中世ヨーロッパにおけるようなキリスト教的精神に基づいた精神の共同体を構築する必要があるのだ、と説いていると考えています。しかし、ここで中世と呼ばれているのはもちろんそのまま歴史的な過去としての中世ではなく、理想化された来るべき黄金時代としての中世であり、いわば自乗された中世なのです。『ノヴァーリス作品集3』の解題で訳者の今泉文子先生はこの論考について次のように述べています。

死者たち、虐げられたもの、軽蔑されたもの、災いなどを、活気づけbeleben、格上げしerheben、止揚しaufheben、ジンテーゼにもちきたす―これが「天才」であり、「ロマン化」であると、ノヴァーリスは言いつづけている。この論考も、イエズス会を称揚するなど、一見いかに反動的に見えようとも、その意味で、「俗人のいわゆる宗教は、阿片とおなじ作用をもつだけである」と書いたかれの思考とけっして矛盾するものではなく、その真意において一貫しているものである。

精神なき危機の時代に、未来の、来るべき精神の共同体を説いたノヴァーリスのこの論考をエンデが選んだことは、上で素描してきたエンデの現代に対する視座を踏まえると、理解できるものであるように思えてきます。エンデノヴァーリスと同様に、精神=文化なき時代にあって、来るべき新たな共同体を夢み、そして芸術の力を通じて世界を「ロマン化」(あるいは「詩化」)することを課題としたのではないでしょうか。

saruminosarumino 2016/01/15 19:26 数年前にコメントをしましたsaruminoです。

今回の話もとても興味深いです。
Lebensgebärde を訳すぴったりの言葉、確かに難しいです。田村隆一のエッセイに「私の生活作法」というものがあったのを連想しました。

ノヴァーリス以下、ロマン派の文脈でのお話となりましょうが、ロマン派自体がそのような射程を持った文化運動であり、自分はそれを引き継いでいる、という強い意識がエンデにはありそうですね。

これをある種のエートス論として読むことも可能でしょうかね。習慣ー徳性ー生活形式ー文化を横断する概念というか。

iwriiwri 2016/01/15 22:54 お久しぶりです。ほとんど更新しないこんなところを読んで頂いて本当に光栄です!

訳語自体はテクニカルな問題かもしれませんが、この言葉はぼくが読む限りで、
エンデはわりとよく使っていて、しかも日本語訳で読むとそれがわからないのは、
とりわけ社会問題に関するエンデの考えを追うことを難しくしているように思います。
もしかしたら、問題はLebenというドイツ語と生活という日本語の違いが大きいかもしれません。
『モモを読む』で子安先生が「時間とは生活なのです」と訳されている、
Zeit ist Lebenを「時間とはいのちなのです」と訳したらどうかと提案されてますが、
これと同じような問題がこの訳語の問題にはあるのかもしれません。

エートス論とのご指摘、全く同感です。
ボイスとの対談でエンデは次のようなことも言っています。
「多くの人に「あっ、これが自分だ」と気づかせ、「そうだ、そういうことを思ってるんだ、ぼくらのことだ!」と言わせるようなイメージを描きあげること。しかもそれは、抽象や哲学や概念などではなく、まったく具体的で感覚的なイメージによって、はっきりするのです。すると突然、そのようなライフスタイル(Lebensgebärde)が、みんなのハビトゥスとなり、受け継がれることが可能であり、みんなが「そんなふうでありたい」と思うから、そんなふうに振る舞うことができる。」
ここではハビトゥスという概念とも結び付けられています。
ぼくは不勉強でブルデューを読んだことがないので、詳しく論じることができないのですが、
ハビトゥスと結び付けられているという点で、やはりエートス的なものとの関連を指摘できる気がします。

ロマン派についてのご指摘も、全くその通りだと思います。
『メモ箱』の「まったくドイツらしい」というメモなんかで、エンデははっきりとご指摘のことを言っています。
管見の限りでは、エンデとロマン派というのはよく比較対照されるのですが、
作品の比較にとどまっているものが多いという印象があります。
ですが、saruminoさんが文化運動とおっしゃったように、もっと根本的な精神潮流を引き継いでるのだと思います。
もっと大きく言えば、グスタフ・ルネ・ホッケの言うマニエリスムの系譜ということにもなるかと思いますが。

susuharaisusuharai 2016/01/16 01:24 ご返信ありがとうございます。覚えてくださってたのが嬉しいです!

はい、私も子安さんのその指摘を思い出していました。
ドイツ語のLebenという言葉の響きは、日本語の「生活」でも「生命」でも、「いのち」とも捉えきれない部分があるのかも知れませんね。生活という言葉ほど経済的ではなく、「生命」ほど生物学的でもなく、より人間として主体的で、非教条的な響きがあるのではと。あるいはエンデがこの言葉にそのような響きを与えようとしているのかも知れませんが。ドイツ語が不安定で創造の余地のある言語だってエンデも言ってましたね。
似たようなことを、シュタイナーの「エーテル体」の議論の時に感じます。エーテル体に関わるのが習慣や宗教だということを考えると、日本とドイツそれぞれのエーテル的なものへの関わりがそこから伺えるのかも知れません。

ハビトゥス!私はもともとのブルデューの議論は存じ上げないのですが、山内志朗『天使の記号学』の中で、トマスアクィナスの最重要概念としてハビトゥスが挙げられていました。「身体図式」「身体イメージ」と接合する形で取り上げられていたように思います。

おっしゃる通り、ロマン派はエンデにとってホッケが描いたような巨大な精神潮流の一部なのでしょうね。ヨーロッパの隠れた流れ……。

共同体というものを構想するときに、それがある種の地域性、(言葉が正しいか不安ですが)ある種の民族性を引きずったものになるのか、それともより越境的なものをイメージされていたのか、エンデに聞いてみたい気がします。

iwriiwri 2016/01/16 13:48 確かに仰るとおりかと思います。
子安先生の本でも、時間がいのちならば時間の花はいのちの花だという議論があったと記憶していますが、
『はてしない物語』でも生命の水(Die Wasser des Lebens)で、Lebenという言葉が使われているのを思い出させます。
単に、ドイツ語というだけでなく、Lebenという言葉にエンデ特有の意味も込められているのかもしれません。
記事を書いたあとに思い出したのですが、ぼくが好きなエンデの言葉でこういうのがあります。
「結局のところ、ぼくたちはポエジーをLebenのなかに織り込もうとし、Lebenそのもののなかにポエジーを見出そうと試みているんだ。」
これは若かりし頃のエンデが友人のボカリウス宛に送った書簡のなかの一節なのですが、
これは生涯変わらなかったのではないか、そのように思えます。

身体というのは、確かに興味深い観点のように思えます。
記事でも少し触れたのですが、この問題系には、ある種の無意識とその表出ということが、
一貫して流れているようにも思います。ある意味では、ご指摘頂きましたエーテルということも、
そこに含められるようにも思います。

エンデ自身の発言からすると、むしろそのようなナショナリティは実際には失効しているという立場なのではないかなぁと推測しています。
今、そういった文化的・民族的アイデンティティを求めようとするのは、結局先祖帰りになるのだと。
これはエンデがナチスドイツで多感な時代を送ったことも思い起こさせることですが…。
もちろん、こういった立場はシュタイナーの立場とも一致するわけで、それだけではないと思いますけれども。
もう一つは、エンデは―これは主に貨幣の問題についてですがーどのようなオルタナティブが可能なのか、
自分にはまだわからないと言い続けていますが、これは社会についても同じなのかなぁという印象を持ってはいます。
これは個人的な感想ですけれども、例えば『モモ』のラストで失われた共同体の回復がなされますが、
これは単に以前の物が元に戻った以上の何かなのではないか。そこには何か未来における可能性が暗示されているのではないか、
というようなことは考えてしまいますね。

iwriiwri 2016/01/16 13:52 あ、すいません、言葉足らずでしたので補足します。
シュタイナーと一致すると書きましたけれど、例えば見霊能力について、それは先祖返り的な能力ではなく、
自我の明晰さに基づいた新たな能力を獲得しなければならないというような立場についてのものです。
もっと大きな枠組みで言えば、悟性魂の時代から意識魂の時代へという人間進化論的枠組み自体が、
記事でも引用した民族の神話から個人の神話へという考えと、一致しているのではないかと思っています。

susuharaisusuharai 2016/01/16 19:27 「結局のところ、ぼくたちはポエジーをLebenのなかに織り込もうとし、Lebenそのもののなかにポエジーを見出そうと試みているんだ。」

これとても良い言葉ですね。Twitterのエンデbotで流れていた記憶があります。(iwriさんが管理されてるのですね?知らなかった。)このハンドルネームではないですがRTしたようにも。

たとえば芭蕉の「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。」みたいな言葉を並べたくなります。

はい、シュタイナーが民族主義的なものから離れていく流れを指摘し、エンデも先祖帰り的な共同体希求を否定してることはわかります。ただし、エンデがドイツ語とイタリア語の違いを解説したように、たとえば言語という相違や、地域性などもあるわけですよね。構想されている共同体が地域性を「越えて」普遍的なものを目指すのか、あるいは地域性や多様性を「包含」したものになるのか……。なんとかイメージしたいと思うのですが。

見霊的なものに対して明晰、自覚的に関わるというシュタイナーの言葉は重要ですね。芭蕉とエンデの言葉を比べると、Lebenに織り込む、というあたりに自我の明晰性や意識魂が込められているようにも思います。

iwriiwri 2016/01/17 00:59 あ、そうです、あれは一応ぼくがやってます…とはいえ、最近は基本的には放置してますけれど…(苦笑

地域性についておっしゃっていることはわかります。
確かに、場所性といいましょうか、実際に構成される社会/共同体は、
そういった要素を引きずるということはあろうかと思います。
ただ、一つ言えそうなことですが、言語を例にとって言いますと、
エンデにとって現代の言語というのは、かつての精神性を備えた言語といいますか、魔術的な力を持った言語が、
どんどん現代的な知的なものにされていったという風に捉えていて、
その観点からすると、言語や地域の共通性のようなもの自体が、
そもそも形骸化された古い遺産なんだということになるかもしれないですね。
あと一点、この議論は「なにを基盤とするか」という点を明確にしたほうが良いように思います。
言語の相違や地域性の相違等々が付随するにせよ、それらを超える普遍性に基づくということは、
十分考えられるように思いますし、その意味では「包含」されているといえそうですが、
とはいえ、その基礎にある何かはそのような差異を「超えて」いるということは、
十分両立可能であるように思われますが、いかがでしょうか。

更に言えば、エンデ自身はおそらくそこまでの具体的イメージはもっていなかったのではないかなぁとは思います。
その意味では、エンデを超えた議論になりましょうし、逆にだからこそ、それは「我々の課題」になってくるのかなぁという風にも思えます。

saruminosarumino 2016/01/17 02:28 問題点を整理していただいてありがとうございます。
はい、まさしくそこが疑問の中核でありました。
エンデはドイツ語が知的な言語になってしまったという語りの後に、(田村さんか子安さんの対談だったと思うのですが).日本語はまだその様な魔術性を失っていないとも語っていて、必ずしもそのことを否定的に捉えてはいないように読めたのです。
つまり地域性や文化の多様性は単に形骸化するのではなく、より自覚的で意識的な関わりによって、新しい光の元で豊かにされると思っていたのではないかと。

超えるということと包含するということが両立しうる、ということは仰る通りと思います。

例えば私はiwriさんとは違いエンデを日本語でしか読めないのですが、それでもエンデの作品を読んでエンデの作り出した価値に触れたと感じるわけです。それはある意味でエンデが普遍的な価値に到達しているからではと思います。これはある意味で地域性を越えてもいるし、包含もしていますものね。

ただ、その時に基盤になるのが普遍性の側であるのか、地域性の側であるのか、ということに興味があります。エンデは自覚的にドイツ・ロマン派に根を下ろしていて、その意味ではヨーロッパの精神的系譜・つまり地域性に根ざしているとも言えそうなので。つまり地域性に根ざしているからこそ普遍性に到達するという逆説が、芸術の分野では起こるのではとも。

なぜこのようなことをiwriさんとお話しさせていただこうと思ったかというと、特にシュタイナーの文化運動 オイリュトミーや空間ダイナミクスや言語造形に触れると、なるべくそれをドイツで習った通り行おうとするあり方もあれば、オイリュトミーで言えば笠井叡さんのように一回日本の精神的伝統と接合した形で行おうとするあり方があるように思えるからです。それを過去の形骸化していく文化への逆行だと批判する方もいらっしゃるんだろうなと。
エンデはシュタイナーの運動がそのまま他の文化へ輸入されるべきだと思ってはいないのではないかな、という自問自答がありまして、この辺をiwriさんが書いてくださった、生活形式と共同体に絡めて考えると興味深いと思ってお尋ねしてみました。

仰せのとおり、エンデは新しいLebensgebärdeを、後世に託していると思います。試行錯誤しながら、その辺を抽象的な領域から生きたイメージとして具現化していけたらいいなあと感じました。

iwriiwri 2016/01/17 11:52 なるほど、ご興味の中心は理解できたように思います。

まず、日本語についてですが、確かにご指摘の子安先生との対談のなかでは肯定的に語っているのですが、同時に
「東洋には、この力をもった言語形式が、まだまだたくさん残っています。それらが今、新たにいのちをふきこまれ、新しくめざめる意識によって生き返らされることになれば、ほんとうに、精神的な言語というものが出現するでしょう。」
ということも言っているので、単に古いものを保存するという意味で肯定しているのではないのではないかという印象も持ちます。
ですので、
>つまり地域性や文化の多様性は単に形骸化するのではなく、より自覚的で意識的な関わりによって、新しい光の元で豊かにされると思っていたのではないかと。
とおっしゃっていますのは、本当にそのとおりだと思います。

方言についてエンデは井上ひさしさんとの対談で今議論している問題のヒントになりそうなことを述べていますので、少し長いですが幾つか引用させて頂きます。
「いま、ドイツで多くの作家たち、特に若い劇作家たちが方言を使います。その理由は、いわゆる標準ドイツ語というのが、頭でこしらえた、厚みの薄い、感情の貧しい言語になっていると彼らが感じるからですね。(中略)ただその場合に彼らは重要なことを忘れている。それは方言が出てきた発生時の人間意識はとても古い時代の意識だった、という点です。」
「方言を使う試みは、要するに昔の遺産を利用して、そこから略奪することでしかありません。私たちが本当に一番頭を砕いて考えるべき問題は、未来の芸術はどうあらねばならないか、の問です。つまり未来像を持つことです。」
「私は世界がうんと多彩な色を持つことを願っています。とはいえ、その多彩さを古い世界の、血縁的、遺伝的な関連性から取り出してこられるとは思わないのです。方言の源泉だった狭い民族や種族の結びつきのなかから新しい文化のもとはとってこられません。古代文化はすべて本能からの直接性によってうまれてきたもので、思考によって創りだされる文化ではないのです。それらはもう過ぎ去らねばなりません。」

これに関連して、形骸化ということについて補足させて頂きたいのですが、
例えば言語についても、エンデは言語はもうひとつの別の世界からやってくると言っていますが、
こういう根源的な精神(霊)的なものとのつながりがもはや絶たれてしまったということで、
ぼくは形骸化という言葉を使いました。その意味でも、新しい光のもとで豊かにされるとおっしゃられているのは、まったく同感です。

普遍性か地域性かという点についてですが、やはりエンデは普遍性の側に立つのではないかと思います。
確かに、ロマン派についてエンデはまったくドイツ的なものとして、ロマン派に自覚的にコミットしてはいるのですが、
一方で、ドイツ・ロマン派の文化ナショナリズム的側面は、エンデのなかには見いだせないように思います。
演劇のこともそうなのですが、ここでは表現形式ということが問題になってきそうな感触があります。
笠井さんのことを取り上げてくださったので、そこと絡めてお話させて頂きます。
エンデが笠井さんのことを知っていたかわからないのですが、多分エンデは笠井さんの試みにとても興味をもったのではないかなと想像します。
というのも、エンデはよくまったく新しい表現が生まれたとして、それはシェイクスピアにそっくりかもしれない。
でもそれはまったく別物なんだというようなことを言っています。
つまり、過去の何かに形式上まったく似たようなものであるにもかかわらず、
そこで表現されるものはまったく新しいものなのだというわけです。
この点を考慮にいれると、形式上は過去の伝統的な何かではあっても、それは新しく作り出されたものであり、
そこで表現されるものは何かまったく新しい、普遍的・人間的な価値であるということがありえ、
そして、そこで基盤になっているのはやはりその普遍的な何かということなのではないか、
ぼくはそのように考えられるのではないかと思います。

シュタイナーについてですが、エンデがシュタイナーの芸術観やアントロポゾフィー芸術に批判的であった点を脇に置くとしても、
他文化以前にドイツのアントロポゾーフたちに対してさえ、エンデはシュタイナーのいうことを従順に守るような態度に対して、
たびたび批判的な意見を述べていますので、当然それが日本のような別の国に輸入された場合、
よりそこにあった形で取り入れられるべきだと考えていたのではないかと思います(これについて、エンデ自身子安先生との対談でも触れていたように記憶しています)。
もし普遍性を基盤にするということが、表現形式においてまで画一化されることまでも含まれるのだとしたら、
それは灰色の男の世界とあまり変わらないのではないかなぁという気がします。
エンデはNHKのインタビュー(アインシュタインロマン)の中で、正義や善や真理と言った理念は精神的な宇宙にも存在すると言ったあとで、
「精神的なものはすべて人間が作り出さなければ、創造的に作り出さなければ存在しません。」と言っています。
つまり、真理や善のような普遍的な理念も、常に新たに創造される必要があるのだと言っているわけです。
エンデにとって、そのような価値像の創造もまた芸術の課題ということにもなるのだと考えられます。
そのときの表現形式には当然地域性のようなものを伴うのでしょうが、やはりそれも基盤としてあるのは、
むしろそこで表現される普遍的な価値なのだ、そのように考えられるのではないかと思います。

saruminosarumino 2016/01/17 16:03 なるほど。私の知りたかったことは引用してくださったエンデの発言に凝縮された形で表現されていますね。『三つの鏡』に収められた対談でしょうか。

エンデが普遍の側に立つ、ということも、彼が新しく創造することを重視し、普遍的な価値を志向する、と自分なりに置き換えるとわかってくるように思います。ナショナリズムがエンデに無いこと、というご指摘はきわめて重要に思います。つまり彼の作品は全く別の地域性を持つ日本人にも当然のように開かれているのですね。

ただしそこで目指されている普遍は、画一的な生活様式の押し付けではなく(つまりアーリマン的ではなく)、今までの地域性にたいして新しい関わりや多様な豊かさをもたらすものであると。


表現形式、という言葉を使っていただいたことで、さらに進めるように思うのは、笠井さんがオイリュトミーという形式や、ダンス(振付?)という形式を意識的に用いられているように、エンデもまた新しい作品にフィットする形式に自覚的に臨んでということでしょうか。詩やリート、戯曲、小説や短編の連作、さらに作品の個々の語り口、というものを含めて。そこでは過去の地域的な芸術が参照されていますが、それでもその形式はエンデが産み出したものなのかもしれません。
そのようにして作品が理念の単なる伝達ではなく、価値の体験となるように願っていたのではないか、と思えます。

iwriiwri 2016/01/17 23:17 あ、そうですね出典を明確にしていませんでした。ご指摘の通り、『三つの鏡』の中の対談です。

エンデは、特に演劇に関してそうだと思うのですが、形式≒様式ということについては非常に考えていただろうと思います。
私の理解では、エンデの能・歌舞伎への興味もその点が大きいのだろうと(『メモ箱』にも能の様式に関するメモがあります)。
リートを挙げていただいていますが、『夢のボロ市』が詩ではなくリートだというのも、
これは古いドイツ的な伝統に根ざしたものですし、あるいは、先に引用した対談ではそのことが話題のきっかけなのですが、
『ゴッゴローリ伝説』はバイエルン方言で書かれています。
『三つの鏡』の安野さんとの対談のなかでも話題に挙がっているのですが、
それ自体は伝統的なものを、しかし選択可能なものとして自覚的に(意識的に)引用していく、使っていく、
そういうことが現代の芸術では必要なのだ、とそう考えていたようでもあります。
そしてそのときには、やはりそれは創造的なものなのでしょうね。

>そのようにして作品が理念の単なる伝達ではなく、価値の体験となるように願っていたのではないか、と思えます。

と、ご指摘の点、まったく同感であります。

saruminosarumino 2016/01/18 07:22 なるほど、演劇の喩えで、能や歌舞伎、ガルミッシュ方言を取り上げていただいて、エンデの地域性への関わり方、態度がよくわかったように思います。
単なる引用というよりも、作品の創造のなかの必然的な要請として、形式≒様式が使われるのですね。

エンデが自分を故郷喪失者と呼んでいたのは、その辺りのことも含まれているのかもしれませんね。地域的な伝統から自分が切れているというか。しかし、だからこそ意識的に関わる、創造を行うことができる。

今回議論させていただいたことで、エンデにとって、人智学的な認識と、アクチュアリティ、そして芸術への態度というものが、本当に有機的につながっているのだなと実感できました。

お付き合いいただきありがとうございました!

iwriiwri 2016/01/18 22:03 エンデは特に、現代においてはどんな様式も選択可能であるということを言っていますね。
ポスト・モダン的ななんでもありな状況の中で、あえて様式を選択していくということに、
現代の芸術のあり方を見ていたのではないかと思わせるような発言は散見されます。

地域性ということで言うと、イタリアでの生活が大きかったということは言っていますね。
外国から見ることで本当にドイツを理解できた、と。作家は一度外国に住んだほうがいいというようなことを、
どこかで言っていたような記憶があります(笑)

いえいえ、こちらこそ、ぼく自身が視野に入っていなかった点を指摘していただき、
とても有益な議論ができたと思います。ありがとうございました。

2015-01-17

[]『エンデの遺言』について考える 14:44 『エンデの遺言』について考えるを含むブックマーク

最近、『エンデの遺言』(以下『遺言』)について考えています。とはいえ、経済の問題(これ自体はとても重要な問題だと思いますが)についてではなく、日本のエンデ受容との関連で考えているわけです。ぼくは『遺言』には功罪あると考えていて、功の一番はやはりエンデ経済貨幣に対する視点を紹介し、地域通貨のような取り組みへのきっかけとなった点でしょう。また、「ファンタジー児童文学作家ミヒャエル・エンデ」という顔に「現代社会の批判ミヒャエル・エンデ」という側面を紹介したことも、功と言えるかわかりませんが、エンデ受容という意味では大きいことかもしれません。もっとも、後述しますが、この『遺言』的な言説によって、エンデの芸術家としての顔と社会の批判者としての顔が分裂してしまい、未だに架橋されていないという問題もあるにはありますが…*1

さて、この記事で取り上げたいのは、エンデ受容という観点から見た場合のこの本の問題点についてです*2。以前、モモの時間を貨幣として解釈する仕方に違和感があるといった記事を書きましたが、ぼく自身はかなり以前からこの『遺言』的な眼差しにある程度批判的でした。このかなり最近まで取っていたぼくの理解について、まずは書いて見たいと思います。

まず『遺言』の構成を見てみますと、エンデのインタビューに基づいた問題提起、エンデに影響を与えたり、エンデと共通の問題意識を持っている、オンケン、マルグリット・ケネディシュタイナーの思想などの紹介、そしてゲゼルの紹介と続き、地域通貨制度の取り組みの実例についての報告となっています。ここで注目されるのがエンデに多大な影響を与えたシュタイナーが一節を割り当てられているのに対して、ゲゼルを一章分を割いて大きく取り上げている点です。これはシュタイナーの扱いが小さいのけしからん!というような話ではもちろんなくて、エンデの現代社会に対する問題意識のうちどこに焦点を当てるか?という問題と関係する問題だ、ということが注目すべきポイントです。シュタイナーの三分節論は経済を含む社会全体に対するトータルな提案です。一方、経済学者のゲゼルの理論は社会の中の経済という領域にだけ焦点を当てています。そのため、ゲゼルを大きく取り上げてエンデ貨幣観・経済観という論じ方をすると、どうしてもそれ以外の部分が捨象されてしまうわけです。さて、エンデはヨーゼフ・ボイスとの対談で次のようなことを言っています。経済生活を経済的熟慮だけで救うことはできません。そうではなく、経済生活を救うために、経済生活に由来しない何かがやってこなければなりません。」(芸術と政治をめぐる対話)。このような発言を考慮にいれるとすれば、まさにエンデ経済に対する問題意識について論じるためには、それ以外の社会領域―ここではエンデは三分節論的区分に基づいて発言していますので、精神生活や法生活ということになりますが―に対するエンデの考え方をも参照する必要があるように思えます。では、エンデの社会に対する考えはどのようなものなのでしょうか。先のボイスとの対談では特にエンデは新しい価値観、そしてそれに基づいた新しい社会像を作り出すということを強調しています。美的な領域でこのような価値観のイメージを作り出すことが芸術家の課題である、とまで言っているわけです*3

オリーブの森で語り合う』という対談の中で、ユートピアという言葉によって議論されてきた問題も、このぼくたちはどのような価値観にしたがって、どのような社会を目指したいか、そのイメージを作り出そうということでした。このユートピアという言葉のために誤解されるかもしれませんが、これは社会的ないわば楽園を目指すということではありません。このことはエンデ自身が『オリーブの森』の中ではっきりと一切の問題がなくなる社会的ユートピアを望むことはできない、どんな社会でも問題が発生するとはっきり語っています。そうではなくて、『オリーブの森』の中で言われているユートピアとは、前提抜きに、つまり○○だからこうせざるをえないとか、○○だから仕方がないと言ったような、因果論的な論理の鎖に縛られない態度の下で、一体どんな社会が目指すべき目標として望ましいか、そんな社会像のことを指しているわけです。

さて、上記のような議論は三分節論的には精神生活に属するものと言えると思いますが、先に引用したボイスとの対談でのエンデの発言に即して言えば、こういった新しい価値を作り出し(あるいは名付け)、目指すべき新しい社会像を作るということから初めて新しい経済経済も当然そのような社会像の一分肢なわけですが―の形も見えてくると言えるように思います。つまり、エンデの見方に従えば、経済問題の根幹に貨幣問題があるわけですが、そこで貨幣問題だけを取り上げて、何がしかのシステム上の変革を行えば良い、ということではなく、トータルな望ましい社会像にもとづいて、トータルな社会の一つの分肢として貨幣問題への処方箋が与えられる、ということになります。

エンデは遺稿集に収録された「精確なファンタジー」というメモの中で、ゲーテの精確なファンタジーという概念を引いて、現代の問題を解決するために未来から解決案を先取りしてくるようなある種預言者的な能力を精確なファンタジーと呼んでいますし、『メモ箱』に収録された「創造力」というメモでは、非因果論的に原因なしにあるものを作り出す能力として創造力を語っています。価値を作り出すとか、名付けとか、因果論の鎖に縛られないといった形でいくつかのキーワードを述べてきましたが、実は今まで述べて来たような観点から見ていくと、エンデが芸術や人間の精神やファンタジーと言ったことについて語っていることが、社会を語る上でも重要なファクターとなっていることがわかります。既に、ファンタジー児童文学作家としてのエンデと現代社会の批判者としてのエンデが分裂しているということを述べましたが、実は分裂しているように見えるのは―特に『遺言』的なパースペクティブでは―経済などの特定の領域に焦点を絞るせいであって、エンデの発言を一つ一つたどって行くと、実際は根底に同じ思想が見えてくることがわかるのではないでしょうか。

ところで、今までの議論とも関連するのですが、この問題と絡めて最近ふと思いついたことが一つあります。それは端的に言えば、「エンデは実際エイジング・マネーや交換リングと言った発想にそれほど強くコミットしていたのだろうか?」という疑問です。これはまだ全く検証できていない問題なのですが、一つの問題提起として書いてみたいと思います。ぼく自身がそう思っていた(思い込んでいた)ように、『遺言』以降、エンデ=地域通貨という等式が成り立つくらい、エンデ貨幣問題への言及は地域通貨制度とセットで語られていた、という印象があります。『遺言』に影響を受けて地域通貨制度の実践を行っておられ、『パン屋のお金とカジノのお金はどう違う』をお書きになられている廣田裕之氏などが好例ではないかと思いますし、あるいは松岡正剛氏の『遺言』の千夜千冊などを読んでもそういう印象を受けますし、何よりぼく自身もそのように考えていたということもあって、これは必ずしもぼくの勝手な思い込みではないのではないかと思います。しかし、まだ手持ちからさえ全ての資料をチェックしたわけではないのですが、『遺言』のインタビュー部やその他の対談などでのエンデのゲゼルやヴェルグルへの言及を思い返して見ると、実はエンデは必ずしも今の貨幣に代るものとしてエイジング・マネーや交換リングを提唱しているわけではないのではないかと思うのです。例えば、『遺言』のインタビュー部ではヴェルグルでの例を引いたあと「この話はシルビオ・ゲゼル信奉者からよく例に引かれ、いまあるお金のシステムのなかで、二次的に導入できる証拠としてよく論じられています。」(強調は引用者による)(P33)と語っています。この語り方自体が少し距離をとったような印象を受けますが、それ以外にも「二次的に導入できる証拠」という言い方は、現在の貨幣システムの代替としてではないという含意を感じます。

また、ボイスとの対談の中で、エンデは自分は貨幣とは一体何なのかわからないといった発言をしています。つまり、貨幣は法生活に属するものなのか、経済生活に属するものなのかわからないというわけです。ここで重要なポイントは、エンデ自身、貨幣とはなにかという根本的な問いに対して、自分なりの答えを持ちあわせていないということです。なぜかというと、これは『遺言』のインタビュー部でも語っていますが、もし貨幣が法生活に属するならばそれはただの法的な権利証であり、売買してはならない。一方、もし貨幣経済生活に属するならば、ゲゼルが言うように貨幣は汚い競争相手であって、減価していかなくてはいけない、とエンデは言うわけです。つまり、貨幣とは何か?という問いに答える以前に、エンデ的な立場からあれこれの貨幣制度がオルタナティブとして提唱できるというようなことは言えないのではないか、という問題なのです。

上記のような理由から、エンデの基本的な問題意識は、『ハーメルンと死の舞踏』のモチーフにもなっていますが、金が金を生む錬金術的なシステムをどう手当するかであり、それに対する処方箋の一つの例として交換リングのような貨幣制度をあげているのではないか、というのがぼくの現在の(仮説的な)理解です。もし、こういった考えが正しかったとすれば、エンデ貨幣の問題について、一度切り離した上で再接続する作業が必要になってくるのではないかなぁという気がしています。また最初に書いた狭いテーマの中でという条件付きで、『遺言』自体を再検討する必要もあるのかなぁという気もします。また、これはずっとぼくが抱いている考えですが、善かれ悪しかれ『遺言』以後、エンデ社会問題への眼差しのうち経済にばかり焦点があたって来ましたが、政治や文化を含めたトータルな社会に対する眼差しがもっと論じられて欲しいと思います。そのときにこそ、エンデの2つの顔の架橋作業が進むでしょうし、それが必要かどうかはともかくとしてエンデ作品を別の光の下で見ると言ったことにもつながるかもしれないと思います。

*1:とはいえ、例えばElena Wagnerの論文でもこのような問題意識は語られているので、これが日本独自の状況というよりは、本国ドイツでもこの架橋作業がまだきちんとなされていないのだと思いますし、寡聞ながらぼく自身そのような本や論文を読んだことがありません。その意味では必ずしも『遺言』だけが問題なわけではありませんが。

*2:念のため、誤解のないように申し上げておくと、『遺言』が本質的に取り扱っているテーマ(貨幣の問題、地域通貨の取り組み)については特に批判するつもりはありません。あくまでエンデ受容という限定的なテーマ設定のもとでの話です。

*3:私見では、このあたりの議論はLenbensgebärdeという概念と密接に関係があると思います。生活様式とかライフスタイルと訳されているこの語は、とりわけ社会と芸術に関するエンデ議論の中核的な概念であるように思いますし、ぼく自身適当な訳語が思いつかないのですが、既存の訳語ではまるで表現できていないような深遠な概念であると考えています。ぼくは数年前からこの概念をどう理解するかという問題と関わっているのですが、まだまとまったことが言えませんので、ここでは示唆するに留めさせてもらいます。

2013-12-17

[]エンデを楽しむための副読文献リスト的な何か 23:55 エンデを楽しむための副読文献リスト的な何かを含むブックマーク

以前、エンデの思想を知るのに役立つと思う参考文献をまとめたことがありますが、だいぶ以前に書いた記事なのでかなり不足なところがあり、あれを拡張したいなぁと思っていたので、基本的に前回記事と被らないものを並べて見ました。相変わらず、チョイスはぼくの主観なのでご参考程度で。

  • 『Michael Ende und seine phantastische Welt. Die Suche nach dem Zauberwort』Roman Hocke,Thomas Kraft

エンデの編集者であり友人でもあるロマン・ホッケによるエンデ本です。トーマス・クラフトのテクストとの二部構成になっていて、前半ではクラフトエンデの思想世界を簡潔にまとめています。分量等を考えると過不足なく、と言えるように思います。一方、ホッケによる後半はエンデの伝記となっていて、前半生についてはボカリウスのものをかなり参照していることもあってボカリウスのものを読めば十分とも思いますが、ボカリウスが触れていない後半生については非常に面白い話が色々と出てきます。エンデの未公開の原稿や書簡などからの引用が豊富になされているところも魅力ですね。

  • 『Michael Ende - Magische Welten』Roman Hocke,Uwe Neumahr

こちらはまるまる一冊エンデの伝記です。ですが、劇作家としてのミヒャエル・エンデという視点をメインに据えていて、上で触れた本とはまた違った味わいがあります(もちろん重複している記述もありますが)。日本人には事情がわかりにくいエンデの戯曲の上演の話ももちろんですが、人形劇場での様々な上演の話や作曲家ヴィンフリート・ヒラーとのエピソードも興味深いです。エンデとブレヒトとの対比も行われていて、あまり光の当たらない部分を見事に描いていると思います。

エンデの友人でもあったという人類学者ハンス・ペーター・デュルの著作。ぼく自身は文化人類学とか全くわからないので細かいところはわからないですが、ものすごく大雑把な括りで言えばカスタネダ系だと思っていいような気がします。ただし、デュルは(少なくともこの著作では)フィールドワークではなく文献から起こしているようですが。山口昌男さんとの対談などでも、エンデはデュルに触れています。デュルはこの本で言っているのは、いわば未開の魔術的世界での魔女が空を飛ぶような経験は、それ自体経験として現実なのである(エンデがWirklichkeit(現実)=wirken(作用する)と言った意味で)、といえるように思います。それ以外にも、「人類学者が島に入ると霊が飛び去る」というエピソードに端的に現れている観察の問題などエンデと通底するところが非常に多いと思います。次の引用のところでは、ぼくが頻繁に言及している『鏡の中の鏡』などで表現されている「中心なき中心」について触れられているように思います。

「「夢の話」は、どこにもあって、どこにもない。「夢の時」も同じく、いつでも生じ、一度も生じない。「夢の場」という言葉は、いかなる特定の場とも関係がない。われわれはどこにも到達しないことによって、そこに到達するのだ、といってよいのかもしれない。」(237P)。

  • 『Quellen der Nacht』Werner Zerfluh

本書は、明晰夢(体外離脱)について、著者ツアフルーの経験を基に彼の明晰夢(体外離脱状態)についての考えを書いたものです。エンデはトーライの明晰夢についての本の中に、このツアフル―の著作への示唆を見てこの本を読み始めたといいます。先述のデュルとこの本について語ったあと、デュルからツアフル―の住所を聞き、彼に手紙を送っています。その中でエンデは「ここ十年で、あなたの本のように、一つの本が私を感動させ、あれほど決定的な旅立ちの気分で私を満たしてくれたことはほとんどありませんでした。」と自分がいかにこの本に感銘を受けたかを著者に伝えています。エンデは「あなたの書き方とあなたの経験の説明において、私を特別信頼させたものは、あなたがどの瞬間も”上から下へ”話すことがないという事実です。つまり、聴衆を良かれ悪しかれ―共感の脅しによって―征服するグル的な要求が全くないのです。」と言う仕方で本書を賞賛しています。ツルフルーはもともとは生物学を大学で研究していたのですが、幼少時から持っていた体外離脱体験のことが気になり、ユングインスティテュートで心理学を勉強します。しかし、ユング心理学にも満足できず、自分自身の経験から本書で語られる体験を理論化していこうとします。こういう経歴からでしょうか、ツルフルーには類書の著者には見られないような中立的で平静な判断があります。彼は科学にもスピリチュアルにも偏ることがなく、どちらも彼自身の立場から一定の肯定と批判をしています。ユングのアクティブ・イマジネーションを彼が不十分なものとみなしている点も注目に値します。彼の一貫した立場は、夢(体外離脱状態を含めて)の中で自我意識を保つということです。これは非常にシュタイナーに近い立場だと言えると思います。また、彼は先ほど述べたデュルの立場から一歩進んで、夢の世界とはもうひとつの別の現実、ことによればより現実的な現実なのだという立場をとります。これはエンデの立場とほぼ一致すると言っていいのではないかと思います。個人的には、エンデへの書簡の中で彼がラディカル構成主義に集中的に取り組んでいる(その中にはマトゥラーナ・ヴァレラの名前も挙げられていました)と言っているのが興味深かったです。本書の中でも自己組織化のことが少し述べられています*1

  • 『KABBALA im Traumleben des Menschen』Friedrich Weinreb

カバリストであるヴァインレープのチューリッヒでのセミナーに手を入れたものです。ヴァインレープはより明確に夢の世界は昼の世界と同じくらい、むしろより以上にリアルな高次の現実である、との立場を取ります。そして、トーラー(モーセ五書)を元にこの夢の世界について語っていきます。エンデとの関連で興味深い点のひとつは、ヴァインレープが言語は夢の世界からやってくると言っている点でしょう(もっともこの主張は神秘学的言語論では特別珍しいものでもありませんが)。彼がヘブライ伝承ヘブライ語に依るのも、そういう高次の世界からやってきた(古代のいわば原)言語は真実を語っているという立場をとるからです。また、昼の世界と夢の世界に因果的Kausal/非因果的Akausalという対立項を対応させている点もエンデとの共通性を見いだせます。本書で面白いところのもう一つは、例えば『ミスライムカタコンベ』のイヴリィiwriについて、旧約の(夢の解釈者)ヨセフに使われた言葉であり、彼方の人を指す言葉であることや、ミツライムMizrajim=ミスライムがエジプトを指す言葉であったことなどエンデ作品に現れるモチーフや、輪廻転生を表すGirgul(ギルグル)やイツァクの原理など、エンデが対談で語っていることが色々出てくることですね。ヴァインレープの解釈も含めて、かなり面白い部分です。ボカリウスの報告によれば、エンデはかなりヴァインレープを研究していたようで、実際にこの本は本当に色々な示唆を与えてくれるのですが、象徴的なところを引用してみます。「すべてが最後まで分析し尽くされれば―我々は今日”コンピューター化する”と言うかもしれない―、もう規範に従って振る舞うことの死ぬほどの退屈しか存在しなくなる。人間は排除される。」このあたりは、本当に『モモ』の「死ぬほど退屈病」を思い出させます。かなり確実に『モモ』を書いた時点ではエンデはヴァインレープのことを知らなかったと推測できる分、余計エンデ自身の考え方との根本的な共通性を感じざるをえないところです。

  • 『金と魔術』ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー

エンデの遺言』でも触れられている著作なのでご存知の方も多いかと思います。ゲーテの『ファウスト』を経済という観点から解釈しようというものです(科学・芸術にも触れられていますが)。錬金術の卑金属から貴金属(金)を作るという課題が、錬金術後に貨幣経済によって継続されているというのが一貫したテーマといえると思います。本書では、肯定、という言葉は強すぎるかもしれませんが、中立的な言い方がなされていますが、このような「貨幣の黒魔術」をエンデは批判していたわけで、そういう意味では少しエンデ自身の発言と対照した上での読み込みが必要かもしれません。個人的な感想ですが、本書で錬金術が扱われているのは、錬金術の基本的な原理と上で述べた金の錬成、それと賢者の石の生成だけで、正直錬金術そのものはちょっとしたスパイスくらいの印象でした。本書でも若干触れられてはいますが、エンデ自身は例えば錬金術師は金の錬成プロセスを内的に体験することで内的に発展することが目的だ、ということを言っていたりするので、錬金術というキーワードエンデと本書の記述を結びつけるのは難しいのではないかなと思います(ぼく自身、中世錬金術の思想体系に明るくないので詳しいことが言えないのですが)。むしろ、ぼく自身の感想としては、エンデ貨幣観のより根幹的なエンデの世界観全体に根ざす問題系*2を本書を通じて探ることができる事のほうが重要だと思います。

禅師重松宗育さんとの対談の中で、エンデは禅に関して特に影響を受けた書物としてヘリゲルの『弓術と禅』と本書を挙げています。とはいえ、禅について解説した本というより、著者の形而上学的思考を巡る旅行記風エッセイと言ったもので、ヘリゲルのものほど禅を強調しているという感じではありません。エンデは禅について鈴木大拙なども読んでいるが、自分にとっては何よりも芸術との関係が重要なのだといったことを言っています。エンデはそこで「ぴったりなときにぴったりなことをすること」を「名人(芸)の原理」ということを言っているのですけれど、この「名人芸の原理」が特にオートバイ修理技術ということと関連して、本書では頻繁に言及されます。本書の形而上学的な思想も面白いです*3が、エンデとの関係ということで言えば、この視点から読むのも面白いのではないでしょうか。

  • 『演劇のための小思考原理』ベルトルト・ブレヒト

ブレヒトの有名な演劇論。エンデがブレヒトで「苦労」していたことは、エンデファンなら周知のことだと思います。ブレヒトとの対比は上述のロマン・ホッケの本でもやられていますが、ブレヒト自身の言っていることを見るのも参考になるのではないかと思います。ホッケも指摘しているように、エンデとブレヒトは好対照をなしているわけで、そういう反省的な観点から見れば逆にエンデの考え方がはっきりとしてくるのではないでしょうか。

エンデのシュルレアリスムに対する立場は複雑なものだと思います。しかし、エンデ自身がシュルレアリスムを広い意味で解釈するなら自分はシュルレアリストだと言っていることからもわかるように、どちらかと言うと無意識への考え方の問題と言うのが重要なポイントだと思います。シュタイナー(=ツルフルー)=エンデ父子的な立場で言えば、例えば薬物を利用したり自動筆記を行う際のような意識状態はある種の(オカルト的な)キッチュであるわけです。エンデが父の仕事を説明する際に強調するように、瞑想的な意識状態で自我意識を保つことが重要なポイントです*4。ブレヒトの『小思考原理』もそうですが、こういう点を考慮して読めばむしろエンデの立ち位置をはっきりさせるのに役立つのではないでしょうか。

  • 『方法への挑戦』ポール・K・ファイヤアーベント

エンデはインタビューの中で新しい思考の流れとしてデュルなんかと並べてファイヤアーベントを挙げています。ロマン・ホッケもエンデにとって重要な著作として本書を挙げていたりします。ファイヤアーベントといえば「anything goes(なんでもアリ)」で有名ですが、占星術を擁護したりしたこともあって、ぼくの知る限り科学哲学的にはイロモノ扱いされているという印象です。エンデの自然科学理解はむしろシュタイナーに近いもので、ファイヤアーベントの思想がそのままエンデと親密な関係があるといえるほどではないようにぼくには思えますし、彼のあまりにラディカルな議論は必ずしも科学哲学の議論の主流とはいえない部分もありますが、そういうところを踏まえて読めば、エンデ的な視座から科学について考えるヒントになるんじゃないかなと思います。

  • 文学におけるマニエリスム』グスタフ・ルネ・ホッケ

『迷宮としての世界』は美術を論じていますが、こちらはタイトルどおり文学について論じているので、よりエンデとの関係性を考えやすいんじゃないかなぁと思います。とりわけ重要なのはミメーシス/ファンタスティコンの対立項が精神史に一貫して流れているというホッケの見方だと思います。ファンタスティコン=イデア芸術の立場は、エンデにとって完全に自分の文学立場を正当化してくれるものだったのだと思います*5。ルネサンス期におけるクリスティアンカバラやネオ・プラトニズムの影響がアルス・コンビナトリアという思想の中にはあるわけで、この流れは初期ドイツ・ロマン派(特にノヴァーリス)にもつながっています。そういう意味で、精神史的な意味でもエンデの棹さす潮流を見ることができるのではないでしょうか。

  • 『Finite and infinite game』James P.Carse

これは前回も取り上げましたがもう一度。この著作の重要な概念はタイトル通り無限のゲーム/有限のゲームという概念対にあります。有限のゲームとは勝つこと=終わることを目的としており、プレイヤーは勝利条件に合意すると言われます。それに対して、無限のゲームはゲームの継続=終わらないことを目的としており、プレイヤーはゲームを継続させることに合意し、そのためならゲームの規則を変えることもすると言われます。言い換えると、無限のゲームにおいてはプロセス/過程/動きが、そしてその継続が重要なわけです。エンデは父エトガーとの関連で父の好きだったブルックナー交響曲を評して「動きが決定的」なのだと言っています。シシュポスが結果より動くことが重要であることを理解すれば彼は既に呪われていないのだ、と*6。実際、「動くこと」はエンデの思想の中でも決定的に重要なファクターだと思います。本書ではこの基本的な概念対から出発して、社会のゲームや芸術のゲームなどを様々に論じています。そのため、本書は単に遊戯論だけにとどまらず、エンデの世界観全体の問題とも関係する…というよりは、むしろ(無限の)遊戯という概念がエンデ思想の中でどれほどの広がりを持って理解できるかを示してくれていると思います。

エンデは明確にホイジンガの名前を出したことはありませんので、確実に読んでいるとは言えませんけれど、かなり高い確率でこれを読んでいたのではないかなぁと思います。『闇の考古学』ではホモ・ルーデンスという言葉を使っていたと思いますが、まあ、この言葉は既によく使われる言葉の一つですので…。「永遠に幼きものについて」なんかを読みますと、エンデの遊戯論の重要な基礎としては、特に美との関連においてやはりシラーの『美的書簡』があるように思えるのですが、一方で、エンデの遊戯についての発言をたどるとシラーに枠には収まりきらないと思わざるをえません。シラーの遊戯は非常に抽象的・観念的な意味で用いられていますので…。本書はやはり近現代遊戯論の古典ということで、他の遊戯論にも多く見られる遊戯の基本的性質がかなり述べられているように思います。また、ホイジンガが人類の文化の発端に遊戯を置いていることもエンデとの関係では注目できる点かもしれません。文化人類学的視点からの遊戯論なので、上記のCarseの議論なんかに比べるとエンデとの関連性という意味では少し弱い部分はありますけれど、遊戯ということについて考えるならやはり読んでおきたい本だと思います。

以上で、簡単ですがエンデが読んでいたと思われる本で、個人的に重要だと思える本のご紹介を終わりにしたいと思います。ちなみに、Roman Hockeはエンデが影響を受けた文献ということでヘルマン・ブロッホの『ユートピアの精神』(と『希望の原理』)を挙げていて、『オリーブの森で語り合う』でも参考文献に上がってはいて、読んではいるのですけどぼくには理解できなかったので(それなりにエンデとの共通性を感じる部分もあるにはあったのですが)載せていません。エンデが読んでいなかったと思われる本にも面白く、また参考になる本もあるにはあるのですがそれだと取り留めがつかなくなるので、(『ホモ・ルーデンス』はちょっと微妙ですが)対談等でエンデが言及してたりして、ある程度確証の取れるものを挙げてみました。ちなみに、シュタイナーは彼自身の著作だけでも膨大な上に、エンデとの関係ではシングルイシューで追ってもあまり意味がなく、ぼく自身もせいぜい4分の1から3分の1程度しか読めていないのこともあるので特に言及しませんでした。あまり数は挙げられませんでしたが、個々の著作自体もとても面白いものですし、ぼく自身とても参考になった文献ですので、何らかのご参考になれば幸いです。

*1:もっとも、本書中で彼が参照しているエリッヒ・ヤンツは全体としては若干ニューエイジ色があり、個人的な感想としては自己組織化の哲学的解釈としては多少偏りがあるように思います。ツルフルーが述べていることも、ぼくの語学力のせいかもしれませんが少し違和感がありました。

*2:大雑把に言えば、価値(見えないもの)を貨幣(見えるもの/数えられるもの)に転換することで起こる黒魔術的作用のこと。非常に抽象化するとエンデの現代批判に通底する形式がこの見えないものを見えるもの(数えられ、測れ、計れるもの)に還元することだと言えます。

*3:もちろん、全体は関連がありますから、この形而上学的な思想も「名人芸の原理」と関係しています。それはエンデについても言えることだと思います。

*4:この点についてはとりわけシュタイナーが強調する点でもあります。また、ツルフルーは体外離脱状態で自己意識を保つことにより、それは新しい自己経験になるという立場を取っています。

*5:グスタフ・ルネ・ホッケとの出会いについて書いたエンデの寄稿文の中では、自分の芸術的な立場だけでなく、自分のアイデンティティに関わる立場すら見出したというようなことも言っています。

*6余談ですが、シュタイナーは『自由の哲学』の中でエドゥアルト・フォン・ハルトマンの幸福の総量と不幸の総量を比較すれば不幸の総量が上回るので、人類は最終的に滅亡するしかないというペシミスティックで功利主義的な立場を批判して、結果としての幸福と不幸の総量を比較すれば不幸が上回るかもしれないが、努力することそのもののなかに幸福があるのでその議論は成り立たないという反論を行っています。この立場は、エンデが言う「動きが決定的」という考えと、完全に一致しているように思います。少し考えが変わって、この議論が支持できないように思えてきたので削除します。しかし、『自由の哲学』の原細胞「自然と我々の理想」でシュタイナーが我々の創造物が日々無残に破壊されても、常に創造する悦びがあるのだという観点は、「動きが決定的」という観点と全く一致するように思うという点には変わりありません。

eimetueimetu 2014/01/10 02:49 こんにちは、iwriさん。最近、エンデの著作やiwriさんが管理していらっしゃるbotを見て印象的だったキーワードやそれが創造するエンデの価値観を考察したのですがまだまだ周辺書籍の100分の1も漁りきれてないというところから不安なので意見を聞きたいと思い書きました。私の中での考察ではエンデのいう「魔法・魔術」とは自らが創造した、あるいは実際にあるのだという認識にある現実ではない第二世界と現実に存在する我々の知識と知恵、集中力を結合させるものだと思うのですがiwriさんの中ではどのようにお考えなのでしょうか?よろしければ意見の方お聞かせ願いたいです。

iwriiwri 2014/01/10 23:42 こんにちは。コメントありがとうございます><

ぼくがエンデの魔法(Zauber)概念をどう理解しているか、というご質問でよろしいでしょうか。
エンデの言う魔法とは端的に言えば、人間の創造力と言えると思います。
魔法そのものについて対談等での直接的な言及は、記憶の限りではなかったと思いますが、
魔術師について、エンデは魔術師とは創造的な人間なのだ、と言っています。(ものがたりの余白)
これはエンデの解釈上では、タロットのパガート(Pagad)の図柄に暗示されています。
エンデの自己紹介的テクスト(初出ではそのまま自己紹介というタイトルですが)である、
『鏡の中の鏡』の「黒い空の下…」というテクストにもパガートが出てきますが、
彼はパガートって何?と問われて、魔術師(Magier)と道化師(Gaukler)の両方だと、いいます。
エンデによれば、魔術師も道化師(=芸が出来る人)も創造的な人間だというわけです。
(実際には、この議論は遊戯との関連がありますが、冗長になるのでここでは触れません。)

さて、
>自らが創造した、あるいは実際にあるのだという認識にある現実ではない第二世界
とおっしゃられているので、魔法と「もう一つの別の現実」との関連ということにも触れた方がいいのかなと思いますので、
そちらと絡めたお話もさせて頂きます。
「現実ではない第二世界」という言葉で、虚構的な、非実在的な世界ということをおっしゃっているのだと理解するのですが、
(それ自体をどうご判断されるかはわかりませんが)エンデの世界観の内部で言わせていただくと、エンデ自身が各所ではっきりと述べているように、
エンデにとってもう一つの別の現実とは、知覚世界と同様にリアルな実在する世界を指しています。
また、此岸/彼岸とかもう一つの別の現実という言葉を使うと、何か超越的な別世界のような印象を受けますが、
エンデにとってそれはあくまで内在的なものです。なので、エンデはあるインタビューで、
「此岸の、自然科学によって支配された世界の中で、時折何かが開示される彼岸、つまりイスラームの意味で言うアッラーの世界、を表象することが私にとって信じられるということではなく、私たちが生きる世界が既に、開示とみなせることが私には重要なのです。」
というわけです。

創造力と関連づけますと、エンデにとって創造力とは人間のもっとも本質的な力だと言えます。
エンデはそれは神の似姿ですらある、とさえ言っています。また、その最高の形式は愛なのだと言うのですが、
それはカバラで言う王冠のセフィラ(ケテル)だというのです。
あまり詳しいわけではありませんが、私の知る限りでは、ケテルとはいわゆる高次の自我を指します。
ではその創造力の座はどこにあるのかというと、重松禅師との対談などでエンデは、
(精神分析などで)自分の中を探っても何もない、そこには無があるだけだというんですね。
しかし、自分の中のその無の中にこそ創造的な力があるのだといっています。
ヘリゲルの『弓術と禅』の中で、あなたの中の仏と言われているものを指していると解釈して良いと思うのですが、
これもやはりいわゆる高次の自我なわけです。
(余談ですが、クリシュナムルティが言うように高次の自我として指示できる"何か"、
あるいは"本当の私"のようなものがあるというわけではありません。
既に書きましたように、そこには無があるからです。)
詳しい議論をするとキリがないのですが、端的に言えばこの創造力自体が、
そもそももう一つの別の現実に根ざした力だということができるように思います。
とはいえ、先ほどの引用にもあるように、エンデはこの世界自体がもう一つの別の現実の開示である、
と考えていますので、特別「魔法」概念と結びつける必要はないと思いますが。
このへんは、以前書きました「エンデとシュタイナー」という記事で「隠れたものの実在」というテクストを扱っているので、
もしよろしければ、そちらをお読み頂ければ、多少補完になるかもしれません。

最後に、それ自体をどう判断するかは別として、エンデの世界観という意味で言えば、
エンデの言うもう一つの別の現実を非実在の世界と考えるならば、
エンデの世界観それ自体を換骨奪胎することになると思います。その確信がエンデの世界観の要石の一つだからです。
(ちなみに、エンデは現実(Wirklichkeit)という言葉を哲学用語で言う実在(Realität)と似た意味で使っていることがあります。)
作品の話になってしまいますが、ファンタージエンとはまさにファンタージエンが存在しないという考えによって滅びるわけです。
『サーカス物語』では印象的な仕方でそのことが語られていますので、最後に引用させて頂きます。
「お前は自分が認識しないものは価値がないというのか?
そして、ファンタジーなど現実ではないというのか?
だがしかし、未来の世界はファンタジーからしか生まれ育たない。
ぼくたちは、自ら創造するものの中でこそ自由なのだ!」

eimetueimetu 2014/01/11 17:49 こんにちは、iwriさん。 早速の返答ありがとうございます!

なるほど、エンデの魔法概念は私が思う「実際にあるのだという認識にある現実ではない第二世界」との繋がりではなく
現実に存在する別の世界との繋がりから来ているのですね?

iwriiwri 2014/01/11 20:59 こんにちはです。

厳密に言えば、魔法という概念が創造力と結びついており、
創造力が「もう一つの別の現実」と結びついているという方がいいような気もします。
前提をひっくり返すような言い方になってしまいますが、
そもそもエンデ自身が「魔法」という概念をほとんど使っていないからです(作品中にはたまに出てきますが)。
その意味では、創造力のような概念の方が本質的であるように思います。
(脱魔術化(Entzauberung)と言うことはありますが、エンデがそこからとっているか確証はありませんが、
これはおそらくマックス・ウェーバーの概念ですので。)

つながりということで補足させて頂きますと、
こういう言い方が良いのかちょっと自信がないのですけど、
人体の中に外界に働く(物理的/自然法則的)力が働いているのと似たような意味で、
「つながっている」というふうに考えた方が良いのではないかなと思います。
これはシュタイナーの議論からになるので、かなりの程度ぼくの解釈ですが…。

2013-11-26

[][]モラーリッシェ・ファンタジー―なぜ道徳規則は先取できないか 22:56 モラーリッシェ・ファンタジー―なぜ道徳規則は先取できないかを含むブックマーク

だいぶ前の記事ですが、『ファンタジー神話と現代』について書いた記事で、シュタイナー哲学主著『自由の哲学』の中で展開されるモラーリッシェ・ファンタジー(道徳的想像力)について、道徳的の部分にアクセントを置くことの問題について軽く言及しましたが、これについてもう少し詳しく書いてみようと思います。なお、本論ではシュタイナーの主張の妥当性については検討しませんのであしからず。ミヒャエル・エンデはモラーリッシェ・"ファンタジー"というように、ファンタジーにアクセントが置かれるべきであり、(アントロポゾーフにも誤解している人がいるが)モラーリッシェ(道徳的)にアクセントを置くのは間違いだ、モラーリッシェ・ファンタジーの反対はモラーリッシェ・シュテリテート(道徳的不毛)なのだ、と語っています(Cf.エンデと語る)。これはシュタイナーが自由に行為する人とは前例や模範や範例に従って行為するのではなく、創造的に行為する人のことだと言っていることに対応しています。

では、なぜ"道徳的"が強調されるべきではないのかについてもう少し詳しく検討してみたいと思います。シュタイナー認識論を大雑把に言えば、認識以前に所与(与えられた世界)と概念(思考が作りだすもの)があり、それが合一したものが認識だというものです。ここで所与とか概念とか言うのは、いわば説明概念にすぎないとシュタイナーは言います。つまり、この所与(純粋知覚)と概念は認識に先立っており、通常の意味で所与とか表象とか概念というのは、認識行為の後に行われる判断の結果にすぎず、それ故、これらの概念によって認識行為が基礎づけられるのではなく、認識行為を後から振り返ってみたときに生じている事柄を説明するための概念だというわけです。さて、これが外界の認識に関するシュタイナーの議論のかなり大雑把な図式になります(詳しくは、『真理と科学』と『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』を参照)。この議論を内界認識(思考についての思考)に適用して自由を論じているのが『自由の哲学』の1部に当たると言ってほぼ間違いはないと思います。第二部ではシュタイナーは実践哲学=倫理的な問題へと移行します。ここで登場するのがモラーリッシェ・ファンタジーです。シュタイナーは、道徳的行為とは理念界からモラーリッシェ・ファンタジーを用いて行為の動機となる表象を作り出し、それに従って行為することだといいます。先の図式に当てはめれば、外界認識に際して思考が概念を創りだすように、行為においては動機となる表象を作り出し、行為するという流れだと言えると思います。ここで問題になってくるのは、先の議論と同様に、つまり認識に先立って所与や概念といった概念が存在するわけではなく、認識行為の後に判断を下すことでそのような概念を取り出すことができるのと同様に、行為に先立って認識できる道徳法則が存在するのではなく、行為を通して初めて道徳法則が認識できる、という点です。というのも、もし行為に先立って、つまり経験に先立って認識できるような道徳法則が存在し*1、それにしたがって行為するとすれば(汝なすべし)シュタイナーの議論に従えば、それは不自由な行為であるということになるからです。

かなり大雑把ですが、以上がシュタイナーの議論になります。さて、ではなぜ道徳的が強調されるのは間違いか、という点に入って行きたいと思います。まず、モラーリッシェ・ファンタジーが無条件に「道徳的(モラーリッシェ)」であるとすれば、行為の以前に行為が道徳的であるか/非道徳的であるかが判断できなければいけないように見えます。道徳的想像力/非道徳的想像力という対を想定することは、モラーリッシェ・ファンタジーは道徳的でなければならないという主張を含意すると考えざるをえません。そうすると行為以前に道徳的/非道徳的の判断がなされなければならないことになりますが、一体この判断の基準をどこからとってくればいいのでしょうか。もしなにがしかの道徳法則を経験以前に導出可能だとすると、法則は経験以前には手に入れることができないというシュタイナーの議論に抵触します。法則として取り出されるものが認識行為の以前にアプリオリには導出できないというのが、シュタイナーが認識の限界は存在しないと論じるときのポイントの一つになっているため、これは重大な問題だと言えると思います。また、仮にその議論が成り立ったとしても、後から振り返ったときにどのように見えようとも、行為以前に何らかの道徳法則が存在し、それに従って行為することはシュタイナーの議論において不自由を意味します。そうすると、人間が自由な存在になれるという『自由の哲学』のメインテーマに抵触するわけです。唯一ありえそうな議論は、モラーリッシェ・ファンタジーを行使してなされた行為は"必然的に"道徳的である、というものかもしれません。ですが、この場合、道徳的/非道徳的を"いつ"判断するかが問題になってきます。シュタイナーの議論に従えば、これは行為がなされたあとに振り返って見たときに限り、それは道徳法則と呼べるものである、ということになります。となると、モラーリッシェ・ファンタジーが仮に必然的に道徳的であったとしても、それは先に見た所与や概念と同様に説明的な概念としてモラーリッシェなのであって、それが行為に先立って行為の道徳的/非道徳的を判断することはできないように思います。そうすると、ファンタジーを用いて自発的で模範や規則と独立に(つまり自由に)行為の動機となる表象を作り出す、そのようなファンタジーを全てモラーリッシェ・ファンタジーと言わねばならないと言えます。あるファンタジーを道徳的/非道徳的という基準に基づいてモラーリッシェ・ファンタジーとそれ以外と言った区別を行うことはできないわけです。となると、エンデの言うようにモラーリッシェ・ファンタジーの反対はモラーリッシェ・シュテリテート(道徳的不毛)、つまり外的な模範や規則に従わないと行為を成せないことという方が、シュタイナーの議論により適合しているように思います。

と、まあ、かなり大雑把ですが以前軽く触れたことを少し詳しく書いてみました。細かい議論については、『自由の哲学』『ゲーテ的世界観の認識論要綱』『真理と科学』(未邦訳)。また解説・入門として今井重孝『自由の哲学入門』高橋巌『シュタイナー 生命の教育』などをご参照ください。

*1:私見では、道徳法則そのものが存在すること自体は問題ないように思います。(というか、そちらのほうが後年のシュタイナーの議論と整合性が取れます)というのも、仮にそのような法則が存在するとしても、自ら表象を作り出しそれにしたがって行為するという点にシュタイナーの自由論のポイントになるからです。ちなみに、これは前半の議論で議論されている点です。ここでの議論のポイントは、そのような法則が存在するにせよしないにせよ、それを行為の前に認識してそれにしたがって行為するとしたら、それは不自由であるという点であると考えられます。これと同じことが、認識論における概念にも当てはまるように思います。概念―ここでは純粋知覚=所与を関連づけるもの―を作り出し、認識行為が成立したあとで振り返ってみたときはじめて、例えば因果法則のような法則が見いだせる、というのがシュタイナーの議論です。

saruminosarumino 2013/11/27 10:20 度々失礼します。

大切な議論で、うまく理解できているか心許ないのですが、シュタイナーにおいて道徳的行為は道徳的認識に先立っており、行為がなされた時点ではその行為が道徳的であるかは判断出来ない、ということでしょうか。
エンデのシュタイナー理解は「学問的でない」とか「緻密じゃない」と評されることが多いように感じるのですが、あらためて両者を読んでみるとシュタイナーの言いたい急所がよくおさえられているように感じます。理解していなかったのは自分だったと。

シュタイナーの後半生はまさにこの哲学が実践され生きられたもののように感じます。シュタイナーの悪についての議論(アーリマンとルシファー)とこの哲学の関係にも興味を覚えます。

iwriiwri 2013/11/28 00:11 コメントありがとうございます。
はい、ぼくの理解は概ね仰るとおりです。
ただ、道徳的認識というより道徳法則とか規則といったほうが正確かもしれません。
『自由の哲学』では
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。しかしそうなった後では、もはや生活を規定しない。すでにそれを規定している。」(ちくま学芸文庫,高橋巌訳、217P)
と言われています。道徳法則が行為の以前に行為を規定していれば、それは自由ではない、ということですね。
僕自身が、『実践理性批判』をだいぶ昔に読んだのと、カント自体をあまりきちんと理解していないので言及していませんが、
シュタイナーのカント批判の妥当性を置いておけば、このあたりの議論は「認識の限界」批判の延長にあると思います。

エンデのシュタイナー理解がある程度我流というか、本流の?シュタイナー理解とズレているというのはあるかもしれません。
とはいえ、ぼくはそのようなシュタイナー理解がどのようなものかよくわかりませんが…。
ぼく自身がエンデの影響が強いですし、基本的にはシュタイナー理解も我流なので…。
ただシュタイナー自身が自分の思想を「学問的に」捉えることを戒めていますし、
「緻密な表現」はしていないにせよ、エンデの発言を読んでいると「血肉化」しているという印象を持ちますので、
そのあたりの批判はあまりよくエンデを読んでおられないか、先入見をもっていらっしゃるのではないかなぁと思います。
少なくとも、ぼくはシュタイナーを読む上で非常にエンデの考え方がヒントになっていますね。
シュタイナーの人生が自分の哲学の実践であるというのは、まさにそのとおりだと思います
エンデも、シュタイナーのそういう生き方に非常に感銘を受けていたようです。

シュタイナーの後の悪論との関係ですが、ぼくは密接に関係していると考えています。
上の記事は一応後のアントロポゾフィーの議論も念頭に置いて書いているのですが、
ルシファーによる自我の早産からキリスト衝動による自我の発展という経過は、
シュタイナーの哲学的主張と密接に関係していると思います。
(ちなみに個人的には『自由の哲学』と『神智学』は平行的に読めると思っています。)
シュタイナーの自由の理想の形が、おそらくルシファーの影響を完全に克服して、
アストラル体が霊我に変容した状態であろうと推測しています。
規則や模範に従うのは悟性魂=心情魂の働き(ギリシア=ラテン文化期)ですが、
ポストアトランティス第五文化期(現代)においては個的な意識=意識魂が発達する、
というのが、シュタイナーの人間進化論なので意識魂的な振る舞いが強調されていると見ることもできると思います。
ルシファーの影響は(多義的ではありますけれど)第一義的にはエゴイズムですが、
エゴイズムからなされた行為は自由ではない、というのがシュタイナーの自由の哲学の主張に含まれているというのが、
今のぼくの理解です。というのも、そのような行為は欲求によって規定されているとみなせるのではないかと思うからです。
余談ですが、『はてしない物語』の未公開原稿にこの問題系を考える上で、とても興味深いところがあるので、ちょっと長いですが引用させていただきます。
「魔法を使おうとする人は、自分自身の本当の意志(望み)を発見し実行しなければならない。すでに最初の部分、発見、について、一般的な意見の中に大きな誤謬が存在する。多くの人は、自分は当然、本当に何を望み、意志しているかを十分に知っていると信じている。彼らはすぐさま、多くのお金をとか、多くの自由をとか、緑の中の別荘をとか、権力と名声をとか、あるいはこの種の何か別のものを望んでいると答える。またあるものは、自分はあらゆる人がうまくいくこととか、誰もが幸福になることとか、誰もが誰もを愛することとか、真理が世界を支配することとか、善が勝利し、平和が訪れることを望んでいると信じている。しかし、どちらの人にとっても―どっちみち大抵はどちらかである―それは彼ら自身の本当の望みではない。彼らはそれを意志し、望んでいると信じている。しかし、実際はそれは他人の意志であり、自分自身の本質の深みからやってきたものではない意志、あれやこれやの理由で、より成功した、より重要な、より善良な人間であるために、彼らが持たねばならないと仮定する意志なのだ。」

saruminosarumino 2013/11/28 03:40 丁寧なお返事をありがとうございます。
本当の意志……エンデのイマジネーションには度々驚かされます。どんな緻密な分析よりも深く物事をみていると感じられます。

ご指摘の点いろいろと興味深く、自由の哲学を読み返す鍵にさせていただこうと思うのです。
自由の哲学における意志の問題は、確かに神智学において意識魂ー霊我として記述されているものと響き合うように思います。
悪論におけるキリスト衝動の問題ールシファーとアーリマンの克服という問題がこれに絡んでくるということも。
そうなると自由の哲学が論じている意志の問題は、既に通常理解されている意志を超えたものが想定されているようにも思えます。

「行おうとすることすべてを全く自覚された悟性、情況をすべて見通そうとする知性にもとづいて行わねばならないとすれば、人間は人生において大した進歩をとげることができないということです。」
「人間が何度も何度も地上の生をくりかえして発展していくことの意味は、人間存在全体を幼児期に働くあの諸力の似姿にすることにあるのです。」『個人と人類を導く霊の働き』

シュタイナーが言う意志の働きは、内的な欲望や願望にとどまらず、多くの人が運命の打撃として感じるような、受け入れがたい外界からの一方的な働きかけとしか思えないものをすら含んでいる、ということなのでしょうか。

iwriiwri 2013/11/28 21:58 ちょっとぼくの書き方と引用の仕方が悪かったようで、少し先に行きすぎてしまった気がします
(複雑な問題なので、ちょっと簡単に書きすぎたかもしれません、すいません)。
もう少し切り分けてぼくの考えを書かせて頂きます。

まず、ぼく自身はシュタイナーの立場は神智学的転回以前と以後で連続的だと考えています。
そこで『自由の哲学』の射程は、後の立場のどこまで伸びているか?というのが問題です。
そこで、『いか超』に代表される修行論と比較すると、イマギナツィオン認識(霊視)と呼ばれる段階の、
手前のあたりをシュタイナーの道徳的想像力は想定しているのではないか、というのが今のぼくの解釈です。
(このあたりは少し微妙なところではありますが、いずれにしてもイマギナツィオンにまでは到達しないだろうと思います)
先に書きました、「理想的な自由の状態」というのは、そういう意味では『自由の哲学』の範囲を超えたところにある、
という風に言わないといけないように思います。(なので理想的と書かせて頂きました、わかりにくくて申し訳ないです…)
引用させて頂きましたエンデの文章は、ある種イニシエーションや秘儀参入的な要素も含んでいますので、
その意味では、『自由の哲学』を超えた部分も示唆しているという風に言えるのではないかと思います。
もっとも、エンデ自身はそういうことを「教える」ために書いているわけではないので、
いずれにせよ厳密な対照がなされているわけではないとは思いますけれども…。

そこで『自由の哲学』"においては"意志というより思考に「通常理解されている」思考を「超えたもの」が想定されている、
と考えた方がよいと思います。saruminoさんが引用なされている前半の
「行おうとすることすべてを全く自覚された悟性、情況をすべて見通そうとする知性」
のことを、シュタイナーは抽象的な、死んだ、影の思考というような言い方をします。
それに対して、生き生きした、体験される思考というのが存在するのだ、というのが重要になります。
そしてそれは、霊的な思考、宇宙の思考、平たくいえば霊界と照応しているというわけです。
つまり、思考の中に霊的な力が働いている、ということになりますけど、
こういう思考を活発化することが『自由の哲学』では目論まれているとぼくは理解しています。
エンデが「人間の意識の中に現れる世界像の外側に、世界「それ自体(そのもの)」をイメージするためには、少なくとも一人の人間が、つまり、その世界そのものをイメージする人間が必要ではありませんか?」
といっていますけれど、こういういわば反省的/超越論的思考ではなく、
常に新たに創造するような思考があるし、それを活性化することが重要だ、ということですね。

意志についてですが、シュタイナーの思想全体でいえば、まさに仰るとおりだと思います。
ただ、既に書きましたように『自由の哲学』ではそこまでは語られていないように思います。
もっとも、そういう意志とか自己認識への端緒がが与えられている、という風には言えるのではないかと思いますが。
意志については、ぼくは非常に重要だと思っていて、カルマ論や身体論、知覚論にもかかってくると考えています。
ご指摘のカルマ論との関連ですが、ぼく自身はそのように解釈しています。
というのは、シュタイナーの死後生に関する記述を読みますと、
死後、エーテル体が浄化されたあとに残り、来世にまでもっていくと言われる、
エーテル体のエッセンスをカルマと考えるのがかなり妥当だと思うからです。
シュタイナーは、意識=思考・夢意識=感情・意志=無意識という風な対応を考えていますが、
この場合の意志というのは、通常より(誤解を恐れず言えば)深いところにあるのだといえると思います。
意志は四肢や肉体とも結びつけて考えられていますが、肉体を物質体+エーテル体と考えれば、
この部分にご指摘されている、「運命の一撃」のようにやってくる意志が働いている、
という風に考えられるのではないかなとぼくは考えています。
このあたりについては、「魔法使いの弟子に警告!を読む」という記事でも書いているので、
宜しければご参照頂ければ、少しはご参考になるかもしれません。
(実はmixiでの自由の哲学関係の議論の延長で書いているので、少し文脈がわかりづらいかもしれませんが(汗))

それぞれがかなり複雑な議論ですし、ぼく自身の力不足もありますので、
言葉足らずな部分や不透明な部分が多々あるかもしれませんが、ご容赦頂ければ幸いです。

saruminosarumino 2013/12/05 01:21 コメントありがとうございます。d
ご示唆をいただいて、『自由の哲学』の後半を改めてさらってみました。

ご指摘のように、シュタイナーが「意志」と呼んでいるものは、通常哲学で使われている意味を超えないものであるようです。

あくまでも後期の著作を知っているものが、その予感を感じとれるくらいでしょうか。
むしろ当時の哲学のフィールド内に留まり、純粋な思考のみによってこの世界観、人間観に至れるよう書かれたということの方が重要かもしれませんね。

『自由の哲学』の到達点が、いか超などの参入段階と同一平面上で語れるのか、あるいは同じところへ至るための別の道として設定されているのかはわかりませんが、ある種の連続性があることは確かのように思われます。

『鏡のなかの鏡』で描写された「自由はいつも未来にある。そして未来は暗い」という道化のモノローグが思い出されます。

iwriiwri 2013/12/05 21:21 そうですね、ご意見には全く同意です。

初期と後期の連続性については批判的な方もいるようですが
(ぼく自身はそういう議論を読んだことがないので詳細はよくわからないのですが…)、
シュタイナー自身は後の講演の中でもしばしば『自由の哲学』や『真理と科学』に触れていて、
特に『自由の哲学』はアントロポゾフィーの最良の入門書だというようなことを言っていたと思うので、
完全に連続性を認めていると思います。今、たまたま読んでいるのですが、
『魂の謎について』の中でこんなことを言っています。ご参考までに。
「[…]『自由の哲学』は私が主張するアントロポゾフィー的に方向付けられた精神科学のための
認識論的基礎である。私は『哲学の謎』の特別な一章(注:『哲学の謎』の最後の章)の中で、
このことを説明している。私は『真理と科学』と『自由の哲学』から『アントロポゾフィー』へ、
いかに真っ直ぐな道が通じているかをこの章の中で示した。」(GA21,S.62)

自由はエンデの作品の中でもすごく重要なテーマですよね。(「サーカスは燃えている…」もすごく印象深い話です)
『鏡の中の鏡』だと、ぼくは(ただの好みですが)2番目にある息子の課題は他者に服従しないことだったとか、
「落ちることを学べ!」というのを思い出します。

saruminosarumino 2013/12/06 01:52 次は積ん読していた『哲学の謎』を引っ張り出すことになりそうです 笑

『鏡の中の鏡』はおりにふれて思い返すのですが、時折自分の身の上におこった出来事が物語と虚実として重なって見えて、自分も物語に迷い込んだ感じがいたします。「落ちることを学べ!」の話はいいですね。『ミスライムのカタコンベ』のラストとも相通じるようにも。

大変刺激されました。ありがとうございました。

iwriiwri 2013/12/07 23:39 『哲学の謎』は分厚いのでとっつきにくいですけど(笑)、
哲学とアントロポゾフィーの関係を考えるのにはいい本だと思います。
特に、シュタイナーの時代のドイツの哲学(新カント派、E・v・ハルトマン)や、
ヘルマン・フィヒテ、トロクスラー、プロイスなんかへの言及があるのも面白いです。

エンデ作品全般がそうかもしれませんが、特に『鏡の中の鏡』はそういう作品ですよね。
ぼくもすごく色々なイメージになって残っています。

いえ、こちらこそ、議論に付き合って頂きありがとうございました!

2013-08-10

[]『鏡の中の鏡』について 18:35 『鏡の中の鏡』についてを含むブックマーク

ここ2、3年『鏡の中の鏡』が非常に気になっていたのですが、まだ完全とは言えませんけど、エンデの『鏡の中の鏡』について素描的にですが簡単に書いて見たいと思います。まず、この作品の特色としてミヒャエル・エンデの諸作品の中でも最もオリジナリティの高い作品だと言えると思います。これはエンデ自身も言っていたと思います。この作品は30の短編から成り立っているのですが、連作短編や短篇集とは違い、この30作で一つの作品となっているのが特徴です。読者は30番目に収められた物語で、最初の物語に登場するホルの名前を見つけ、それぞれに連関があることに気づきます。各話の関連は、例えば、2番目の話では「das himmelblaue Zimmer(空色の部屋)」が出てきますが、3番目の話の書き出しは「Die Mansardenkammer ist himmelblau(屋根裏部屋は空色だ)」となっています。このイメージは各話から見ても些細なもので、ライトモチーフでもなんでもありません。しかし、このいわば"夢のような"イメージの連鎖が『鏡の中の鏡』の主要な構造であると言ってよいでしょう。このイメージの連鎖は線形的に現れるわけではなく、ずっと前に現れたイメージが、突如として現れることもあります。その意味では、イメージのネットワークと言っても良いかもしれません。エンデが影響を受けたカバリストであるFriedrich Weinrebは「夢の国でだけ、我々は因果論の強制、あれか-これか、から自由なのです。」(Kabbala im Traumleben des Menschen)といっていますが、『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』にも見られるように、この夢の論理とでも言うべきものを書くことはエンデが好んで取り上げたテーマの一つでもあります。また、この本は表紙を含めエンデの父エトガー・エンデの絵が挿入されており、父エトガーに捧げられています。例えばElena Wagnerが指摘していますけれど、エトガーはエンデに最も影響を与えた人物と言っていいでしょう。エトガーの創作法についてエンデはしばしば言及していますが(Cf.『闇の考古学』)、Weinrebの言う夢の領域やZurfluhの言う夜の生活と同じ領域から独自の瞑想法でモチーフを探り出してきたと言われています。その意味でも、『鏡の中の鏡』と夢は強い関連があるといえると思います。余談ですが、大江健三郎との対談の中で(『芸術家、その内なる声』)、エンデは『はてしない物語』のファンタージエンについて、眠るとき意識を保っていればファンタージエンに行ける、という話をしています。

さて、エンデはWerner Zurfluhの『Quellen der Nacht(夜の源泉)』に非常に感銘を受けてZurfluhに書簡を送っています―この本は夢の経験について論じた本で、明晰夢を通じて意識を保った状態で夢を経験すること、新しい経験の次元を語っている本です。―書簡の中でエンデは『鏡の中の鏡』に触れています。

「”鏡の中の鏡”というタイトルは多くのことに関連しています。勿論、まず有名な”鏡に映った鏡は何を映すか?”という有名ない禅の公案と関連しています。それは既に”はてしない物語”おいても引用されています。他方で、本の設計に関係しています。それぞれの物語はいわば先行する物語の要素を映しており、それを変えます。登場人物とイメージは変化の絶え間ない流れの中にいます。前方と後方は時折取り違えられます。つまり、一本足がすでにはじめに登場するのですが、しかし、本の真ん中ではじめて彼の足を失う等々。人は本を前から後ろへ読むことも、後ろから前へ読むことも出来ます。つまり、最後の物語から始められるのです。というのも、それは円環的に作られており、最後は再び最初と関係しているのです。鏡の反映もまた本全体を横切り、多くの後のあるいは前の物語の中に現れるモチーフを取り上げます。大抵の物語は、想像上の舞台の上のシーンです。奇妙なプロセスが注釈無しに叙述されます。最初と最後はその都度開かれます。プロセスが終わりに至ると、イメージは―あるいはイメージの一部は―新しいイメージに変容します。その新しいイメージの中で再び何かが生じます。全体はいわば上も下もない無重力空間の中で、自己を回避する何かの周りで輪を描くオルビットの中で起こります。

全く首尾一貫して、それは多くの読者に読書に際して、文字通りめまいを起こさせました。彼らは、「落下の感覚を振り払うために、椅子にしがみつ」かねばなりませんでした。私は―既に白状したように―このどこか落ち着かなくさせる構成形式を勿論偶然に選択したのではなく、読者を特別な経験に誘うためにしたのです。(私にとっては常に、読者に教え込むことではなく、読書に際して、何かを経験させることが重要です。)」

また『だれでもない庭』の中では

「読者の注意力をこの謎めいたプロセス(引用者注:合わせ鏡の反射のプロセス)へむけるため、わたしは、読者を読者自身へさしもどす物語を書こうとした。

読者が安心してつかまることができない物語である(その物語を"理解した"ということで。それはただ、すでに慣れ親しんだことをまた見出しただけだ)。どの方向へ向かっても開かれた物語、読者を自然落下の無重力状態に置く物語、同時に、オルビットに似て、(神、人間の自我、現存在の意義のように)存在し、しかも存在しないとしか言いあらわせない中心を巡る周回軌道へ投げ出す物語。語られたどのプロセスも、はっきりと、あるいはひそかに、次の新しいプロセスへのキックオフを秘めていて、それはまた新しいプロセスへというふうに続き、ついに新しい旋回がはじまるまで……。」

と『鏡の中の鏡』の構想を語っています。エンデが頻繁に語っていることですが、エンデは「解釈」を通じて「物語のメッセージ(一義的な意味)」を取り出そうとすることに反対してきました。この点で、ヴォルフガング・イーザーの作用美学(受容美学)との近親性を指摘する人もいます(あるいはエーコの開かれた作品とも通じるかもしれません)。『鏡の中の鏡』は「解釈不可能」な物語を描くエンデ作品中もっともラディカルな構造をもった作品だと言っていいと思います。ところで、この「中心なき中心」というモチーフはエンデ作品の中でしばしば見られるものです。例えば、『はてしない物語』のエルフェンバイン塔は境界のない無限のファンタージエンの中心にあります。つまり、どこにでもありどこにもない中心です。また、『遺産相続ゲーム』では下僕のアントンを除いて―そしてアントンの記憶も物語の進行に連れてどんどん曖昧になっていくのですが―誰もあったことのない主人フィラデルフィアの遺言をめぐる物語です。また晩年のインタビューでは次回作の構想としてナンセンスを巡る物語を書きたいとも言っています。おそらく、その構想の一部は『エンデのメモ箱』に収められた「ニーゼルプリムとナーゼルキュス」なのだと思います。エンデにとってはナンセンスも「中心なき中心」を巡るものであったのだと思います。ルイス・キャロルの『スナーク狩り』をジングシュピールに翻案した戯曲のまえがきでエンデは「キャロルのテキストの闇は、だれもが―もちろん精神分析家も含めて―自分自身を映し出す鏡なのである。」と言っています。

さて、Zurfluhへの書簡の中でエンデは「鏡の中の鏡には何が映るのか?」という問は禅の公案からとってきている、と言っています。『モモも禅を語る』の著者重松創育禅師との対談の中でエンデはこう語ります。

「さすらい山の古老は幼心の君に問いかけます。「鏡の中に映った鏡は何を映すか?」。今純粋に論理的に考えるならば、「無」と答えることができるでしょう。しかし、私の見解によれば、まさにこの「無」の中に人間と世界の本来の力があるのです。我々が自分自身の自我を知覚しようとしても、何も知覚しません。空所を知覚するだけです。そこから今日の心理学者はそこにはなにも無いのだろうと推論します。ですが、本当はそこに人間の本来の創造的な力があるのです。」(MOMO erzählt Zen)

反射するイメージの変容のプロセスの中で初めて現れる力、人間の本来的な力―エンデはそれを別のところではファンタジーだと言っていますが―この中心なき中心であるところのものを巡る物語が、というより、読者をそのプロセスの中に巻き込み、プロセスを立ち上げる、そういうプロセスこそが『鏡の中の鏡』の最も重要なポイントだと言えます。エンデは「比喩」という文章の中で本を次のように例えています。「書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体。歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。」この高次の自我こそ、中心なき中心と言っていいでしょう。エンデはよくボルヘスの「Everything or Nothing」を引き合いに出していますが、ボルヘスが言うようにどの登場人物の中にもいて、どこにもいないシェイクスピアのように、エンデは、というよりこの「中心なき中心」は物語のどこにでもいてどこにもいないわけです。「比喩」はシュタイナーのアントロポゾフィー的人間観に沿った形で述べられていますが、この「比喩」に即してアナロジカルに語るならば、30の個々の作品はそれぞれが輪廻転生した物語だと言ってもいいかもしれません。カルマとしてのイメージが各々の物語の前後の中で、その固有の文脈で現れるわけです。

一方で、この『鏡の中の鏡』の構造は優れて初期ロマン派的な構想を反映しているとも言えます。フリードリヒ・シュレーゲルの有名なロマン派文学の定義「普遍的発展文学」とは、「いかなる実在的関心にも観念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する者との中間に漂い、この反省を次々に相乗して合わせ鏡の中にならぶ無限の像のにように重ねてゆくことができる。それは最も高度にして最も多様な形成を可能ならしめる。しかも単に内部から外へ向かってのみならず、外部から内へむかってもである。すなわちその作品はそれぞれにまったき全体でなければならないのであるが、その一つ一つのあらゆる部分は、同じように組織される。」既に見てきたように、『鏡の中の鏡』は無限のイメージの反射=反省(Reflexion)を通じて、全方向に開かれた作品です。シュレーゲルやノヴァーリスがそうしたような反省(メタ言及)の構造とは異なるやり方で、ロマン派文学を構想したのだ、と言ってもいいように思います。エンデ自身が認めるように、エンデはドイツ・ロマン派の伝統の下にいる作家です。『鏡の中の鏡』はエンデロマン派的な、そしてグスタフ・ルネ・ホッケの意味でマニエリスム的な部分を最も強力に表現している作品とも言えると思います。ノヴァーリスやシュレーゲルがフラグメントや対話を重視したのも、確定的な閉じた体系ではなく、それぞれの断片のネットワークからなる生成するシステムを描写するためだとも言われます。ノヴァーリスの『花粉』はまさにそのような受粉し、生成するプロセスを表現するタイトルです(これについてはデリダの「散種」概念と対比する人もいます。)。エンデロマン派の対比というとノヴァーリスホフマンの1節を簡単になぞるだけのものが多いですが、もっと根本的な理念的な部分での共通性をここに見ることができるのではないでしょうか。余談ながら、『鏡の中の鏡』には「迷宮」というサブタイトルがついています。そして、最初の物語ではあのミノタウロスが閉じ込められているミノス王の迷宮が、2番目の物語ではイカロスをモチーフにした話が語られています。この2つに共通する迷宮の作り手ダイダロスをG・R・ホッケは代表的なマニエリスム的人間だと言っていますし、迷宮はマニエリストが好んだモチーフの一つでもあります。その意味でも、この作品を―シュールレアルなとはよく言われるのですが―マニエリスム的な作品と呼んで良いと思います。

さて、エンデの芸術理解の中で最も重要な概念であり、ロマン派においても重要な概念の一つに「遊び(Spiel)」があります。もちろん、これはシラーの『人間の美的教育に関する書簡』の「遊戯衝動」に端を発するものです。シラーは感性の領域にも道徳の領域にもそれぞれ強制的な法則が存在するといいます。カントの言う我が内なる道徳法則と、我が上なる天空の法則です。その中間にある美の領域にこそ人間の自由があるというのがシラーの大筋の議論になっています。そして、人間は美とだけ遊ぶのだと。最初にWeinrebを引用しましたが、夢の領域、夢の論理とはまさに強制的な因果論的連鎖から逃れて自由に遊ぶことの出来る領域です。となると、『鏡の中の鏡』はエンデの「遊び」の理念をも表現している、ということもできそうです。Tohmas Kraftによれば、エンデはJames・P・Carseの『Finite and Infinite game』に非常に感銘を受けて、色々な人にこの本を贈ったそうですが、Carseはこの本の中でタイトルにあるように有限のゲームと無限のゲームという2つの「遊び」の概念を提出しています。有限のゲームとは勝利条件=ゲームの終了の条件が定まっており、ゲームの参加者その規則に合意することでゲームが成り立つゲームです。一方で、無限のゲームとはゲームの継続そのものが規則であるようなゲームであり、ときに規則それ自体をゲームの継続のために変化させてもゲームを継続させるような、そしてその継続性に参加者が合意するようなゲームのことです。『鏡の中の鏡』の構造はいわば無限のゲームとして構想されているともいえるわけです。

以上、スケッチというかアイデアの断片ていどですが書いてみました。「中心なき中心」や「遊び」を巡る議論については拙論「ミヒャエル・エンデの世界観について」でもう少し詳細な議論を書いているので、ご興味のある方はそちらをご参照頂ければと思います。

saruminosarumino 2013/08/12 23:55 はじめまして。
『鏡の中の鏡』で気になるのは「魚の目をした男」です。「遠い旅路の目的地」の主人公も同様の描写がされて居ました。エンデの物語世界の中で重要な位置を占めているように感じます。

『はてしない物語」の主人公は書かれた中盤までいじめられっ子ではなく、愛情を失ったシニカルな子供だったとどこかで読みました。どうしても彼では帰ってこれない、と書き直したとも。

ここからは全くの妄想ですが、「魚の目をした男」やシリルは、ファンタージェンに行って帰ってこなかった彼の残響なのではないでしょうか。『鏡の中の鏡』でも、「英雄ではないもの」と言うモチーフ、「探求するものに変身してしまう探求者」というモチーフが繰り返し現れますよね。

iwriiwri 2013/08/13 00:37 はじめまして。コメントありがとうございます。
どれだったか忘れてしまったのですが、エンデは『鏡の中の鏡』は「手に手をとって二人は道を…」で語られている、99人の失敗者・敗北者の物語なのだと言っていました。その意味で言えば、確かに「ファンタージエンに行って帰って来られない」元帝王たちと共通するものがあると言えそうです。
『自由の牢獄』所収の作品では、シリルにせよイヴリィにせよヒエロニムスにせよ、別の世界において彼らがどうなったのかは描かれていませんね。ただ、それが元帝王たちと同じなのかについては、ぼく自身はなんとも言えないです。確かに、バスチアンやモモに比べて、彼らがある種病的であることも確かですけれども…。個人的には、彼らに関しては、エンデの言う「もう一つの別の世界」への憧憬の方に重点が置かれているようにも思います。
いわば「元帝王たち」が重要なモチーフの一つなのは、ぼくもそう思います。エンデもファンタージエンに行って帰ってくることの重要性を色々なところで強調していますけれど、逆に言えば、行くだけではダメなわけですね。エンデの編集者だったロマン・ホッケは『はてしない物語』はエンデ作品に対する現実逃避文学批判への返答であると言っていますけれど、芸術体験を通して「頭と心と感覚の統一体を再建した」あとで、その力を携えて現実の世界に帰ってくるというのは、エンデの芸術観の中でも重要な部分だと思います。

saruminosarumino 2013/08/13 00:59 お返事ありがとうございます。
ええ、ただちに同一であるとは私も考えません。もちろん別の作品なわけですから。
物語上の「元帝王たち」とちがって、途中まで書いた、つまり旅を共にしたる彼のことを、エンデは作品が終わった後も考えていたのではないかな、という気がするんですね。それが後の作品になにかの残滓となって残ってないかなと。テキスト批判から言うとトンデモですけれど。

憧憬についてのお考えは全く同意します。「故郷喪失者」というモチーフは、作品にもエンデ自身にも関わる重大なテーマですよね。

エンデは「帰還」を強調しますが、本来的な性質として彼岸への憧れが強いように思えます。なにか渇きに似たものすら感じて、そこに惹かれるのすが。

iwriiwri 2013/08/13 01:25 なるほど。そういうことですね。うーん、まあ、それについてはなんとも言えないですね。遺稿として残っている物語の構想なんかを見ると、他の作品でボツにした構想を別の作品で再生しているときもあるので、そういうモチーフを別の物語の中で取り上げたというのはありそうです。
はい、エンデ自身への彼岸への憧れの強さは全く同意です。それ故に色々なところで霊的なキッチュや危険な方法について批判し、帰還を強調したとも言えるように思います。もちろん、エトガーとシュタイナーの影響も強いのでしょうけれども。実は、上の拙論で取り上げています、Zurfluhへの書簡の中で、エンデは明晰夢のテクニックを教授してくれるように頼んでいるんですね。まあ、その中ではどちらかと言うと芸術家としての問題として語られていますけれど。ですが、子安美智子さんが病床のエンデが「現実の向こうの世界へと行くという体験を、冷静に味わいしつくそうと思っている、というようなことを、もらしたことも」あったと述懐していますけど、エンデの言い方で言うと「もう一つの別の世界」への確信と憧憬は、エンデの世界観の非常に重要な部分ですね。

SaruminoSarumino 2013/08/13 23:15 なんともいえないこと、確かにその通りですね。与太話にお付き合いをくださりありがとうございました。

Zurfluhへの書簡の話、大変興味深く読みました。
エンデがシュタイナーを非常に重視しながら、古今の神秘学や宗教を渉猟していたことから、明晰夢についても当然知識があるものと思っていましたが、これはと言う人を見つけていたのですね。
未邦訳資料にのっているものでしょうか、ぜひ読んでみたいものです。

iwriiwri 2013/08/14 01:27 いえいえ、ぼくは考えたこともなかったので、興味深かったです。

明晰夢については河合隼雄との対談で、トーライとツルフルー(Zurfluh)の名前をあげてますね。
あと、友人でもあったらしい人類学者のハンス・ペーター・デュルの『夢の時』なんかも参照してると思います。
往復書簡は
http://www.oobe.ch/endebr.htm
で公開されてますー。書簡のせいか、すごい読みにくいですが…。

saruminosarumino 2013/08/14 01:40 貴重な知識をありがとうございました!
『三つの鏡』に載っていた対談かな…。
調べたらツルフルーもユンギアンなんですね。

取り敢えずご紹介のサイトに当たってみます。

popopopo 2014/03/05 00:58 初めまして。

詳しい解説をありがとうございます、大変興味深い内容でした。
この本に出会って、心臓の真ん中を掴まれたようで、今でもどきどきしながら何度も読み返しています。この本の存在自体が衝撃なんですが…
なかなか身近に共感して頂ける方がいないので、つい書き込んでしまった次第です。
一方的なコメント失礼いたしました。

iwriiwri 2014/03/10 00:28 はじめまして、コメントありがとうございます。

ありがとうございます。大雑把な書き方しかできず、申し訳ないです…。
『はてしない物語』や『モモ』に比べると、『鏡の中の鏡』はあまり話題になりませんよね。
出版された当時も、エンデのそれまでの作品のイメージとあまりに違ったために失望した人もいるようです。
『鏡の中の鏡』は本当に他のどんな文学作品とも比較できない独特な作品で、
内容も文章が喚起するイメージも圧倒的なものがあると感じます。
「本の存在自体が衝撃」というのは、とてもわかるように思います。

popopopo 2014/03/10 23:56 お返事ありがとうございます。
この作品は、人の心へのアプローチ、真理へのアプローチが思いもよらないですよね。
何もかもひっくるめ飲み込んだ美しさと醍醐味をみせてくれる、素晴らしい本だと思います。世間的にはマイナーなのが少し寂しいです。
この本について興味を持って、詳しく書いてくださる方がいることが大変嬉しいです。エンデの背景にはそれほど詳しくないので、iwriさんのページを少しずつ読んでいこうと思います。

iwriiwri 2014/03/11 23:06 確かに、エンデの長編の中ではマイナーですね…。
エンデ自身も言っているように、読者がつかまることのできるものがない、
ということも、原因の一つかもしれません。

そう言っていただけると嬉しいです。多少とも、エンデの思想を紹介できていれば幸いです。