曹継武と戴龍邦

Twitter上でかつての同門の方が戴氏心意拳の歴史について質問していたので、当時の担当者に質問してみた。

 

質問:弧虚旺相

そういえば以前中国武術雑誌『武術』でやっていた心意ロード特集では、最終的(雑誌が終わる頃)には武官曹曰瑋(字継武)と戴龍邦との関係についてどう捉えてたのだろう?(曹の没年から数年後に戴が生まれてる点)。伝承は伝承として実際語り継がれたという事実としての価値はあるのは間違いないのですが…

 

回答:

こんにちは!ご質問の件ですが、 心意ロード取材班としましては正直なところ曹継武と戴龍邦との関係については従来の説を採用し特に問題にしておりませんでした。

 従来の説とは戴龍邦の生没年を1712~1801または1713 ~1802とします。 また曹継武につきましては様々な説があります。 中国武術大辞典によれば1662~1722とあります。 この説ですと確かに戴龍邦が10歳の時には亡くなっていますので 師事するのは不可能です。また一説には1706年没とも言われま す。弧虚旺相さまはこの説を採用されたのだと思いますが、 この説では当然戴龍邦が生まれたときには曹継武は亡くなっていま すから曹から学ぶことはできません。 しかしどの説においても共通しますのは曹が乾隆年間に科挙に首席 で合格したという点です。乾隆年間とは1736~1795ですか ら、仮に曹継武の生没年を1662~1740と設定すれば戴が曹 に師事することは充分可能だという事になります。

 心意ロードの連載時、 その当時はまだ曹継武の存在すら疑問視するむきもありました。 あまりにも不明な点が多かったからです。しかし記憶では今から1 0年ほど前に曹継武の墓が見つかったとの記事を見た記憶がありま す。 詳しくは覚えていませんが高級官僚らしく多くの埋葬品も見つかっ た、との記述があったと記憶しています。

  心意ロードの連載から約 20年近く経ち、 いまだに興味を持ってくださる読者がいるとは光栄の限りです。 いま私は自身の修行でいっぱいいっぱいで歴史考証についてはどう でもよくなってしまいました。 どなたか心意ロードの続きをやっていただける方の登場を待ちたい と思います。

村上正洋

スタンレーさんの追悼記事を書きました

もう12月号が出てしまったが、月刊「秘伝」11月号に記事を書いた。合気ニュースの社長兼編集長だった、スタンレー・プラニン氏の思い出である。

スタンレーさんは、合気道の貴重な写真や映像を発掘して整理し、だれでも見ることができるように版権等の処理をした上で流通ルートに乗せて販売してきた。彼がいなかったら埋もれてしまったであろう資料や映像も、数多くあった。

また、派閥や流派を超えて多くの名人に取材してインタビューを行い、写真を撮影した。さらには派閥の垣根を超えて友好演武会を開催、その模様はさらに映像化されて記録として残されたのである。

「合気ニュース」に掲載されたインタビューは単行本にまとめられ、発売された。私が感心したのは、発行部数の少ないこうした書籍を採算ベースに載せるべく、多くの工夫をされていたことだ。

単行本の場合、高性能のコピー機を導入し、ホチキスで製本するという方法を採用していた。数十〜数百部でも安価に製作できるので、採算の取りにくい武道関係の書籍でも出版が可能になるのである。

合気ニュースも、日英両言語で記事が掲載され、発行部数の問題を解決していた。さらに、版下を香港に送り、現地で印刷・製本を行っていた。それには私も感心した。日本の出版社で、そうした方法を採用しているケースは、その後も聞いたことがない。

その後はパソコンやネットも駆使して、世界中を相手に合気道のニュースを発信していたそうだ。人格もすばらしい上に功績が大きかっただけに、早すぎる逝去が本当に惜しまれる。

月刊 秘伝 2017年 11月号

月刊 秘伝 2017年 11月号

福昌堂、倒産


月刊「空手道」や月刊「フルコンタクトKARATE」そしてかつては季刊「武術(うーしゅう)」を出していた、 株式会社福昌堂が倒産した。


私は大学を卒業した1983年の春から1995年の秋までこの会社に在職し、「空手道」や「武術」を編集してきた。


いろいろな経験をさせてもらい、ずいぶんいろいろな思い出もある会社なのだが、ついに倒産してしまった。


社長を始め社員たちはどうなるのか、社屋や貴重な写真、資料はどうなるのか心配だ。


松田隆智氏を始め、私が取材した多くの武術家たちも次々とこの世を去り、時の流れを感じざるを得ない。


福昌堂を離れてからすでに20年余りがたつのだが、ついこの間のような気がするし、必死で働いていた日々は大変だったが、すごく充実していたことも事実だ。


斜陽の出版界にあって、ここに至るまでの苦労はあまりあるものがあったと思う。
中村社長や社員の皆さん、関係者の方々には、心からご苦労様でしたと言いたい。

「中国武術史」 林伯原

林伯原先生は、幼少の頃より馬賢達師範をはじめとする馬一族に通備拳を学び、長じては西安体育学院、北京体育学院大学院で学んだ後に日本に留学、国際武道大学の教授になった方。


私の師・遠藤靖彦先生は北京に武術留学されていた頃からの縁で、太我会発足当時から外部講師として林伯原先生を招聘し、われわれも通備拳を学んできた。林先生は非常に真面目な性格で、60歳を越えられても毎日練習をかかさず、剣術や武器の登路の復習のほか、数キロものランニングも行うという、努力家である。


劈掛拳の弓歩は信じられないほど歩幅が広く、姿勢が低い。高速で套路を行いながら一瞬で低い弓歩になったかと思うと、すぐに次の技に移る。その足腰の強さ、柔軟性は想像を絶している。


筋肉質の体は80kg近くあると思うのだが、旋風脚は私の顔の高さくらいをお尻が通過してゆく。


あの年齢であの体力を維持している武術家は、中国広しといえども数えるほどしかいないのではないだろうか。


バリバリの伝統武術の世界で育ったにも関わらず、体育学院で学んでいるので指導法も実に分かりやすかった。


そんな林先生だが、頭脳の方も極めて優秀で、中国武術史の研究でもすばらしい専門書を発行された。


この度上梓された「中国武術史」は、700ページにも及ぶ大著で、副題にある通り「先史時代から十九世紀中期まで」の中国の武術史が詳述されているのだ。


図版も豊富で、古代の武器の写真や絵など、見ていて飽きない。


内容が濃すぎてまだ詳しく読めていないのだが、知らなかったことのオンパレードで、どこから読めばいいのか迷うほどだ。


太我会でともに学んだ佐藤秀明君は林先生の生徒となり、この本の編集を手伝われていた。


自分の時間も犠牲にしてこの大著の編集に取り組んでいる姿には、頭が下がる思いだった。


ようやく完成したこの大著、林先生を始め、関係者の苦労はなみなみならぬものだったと思う。出版界の片隅にいた者として、その苦労は想像がつくのだ。


専門的な本だけに、機会を逃すと入手困難と思われます。興味をお持ちの方は、早めにゲットしてください。


中国武術史 ― 先史時代から十九世紀中期まで ―

中国武術史 ― 先史時代から十九世紀中期まで ―

デトロイト・スタイル


しばらくお寺で武術を教えていたのだが、転勤などで少しずつ生徒が減り、昨春、一人だけ残っていた生徒も転勤で来れなくなって、私の教室も休眠していた。


しかし、六月半ばに30代なかばの男性が、ブログを見て訪ねてきて、教えてほしいという。


ここ五年ほどはほとんど更新していないこのブログだが、まだ見てくれる人がいるんですね。


彼の場合は、大東流をやっていることから四股の踏み方を知りたくて検索し、辿り着いたのだそうだ。


小学生の頃に「武術」を読んでいたというから、こちらも年を取ったんですね。


その彼に教えていて、トーマス・ハーンズの話になった。


S君という彼は、はやりまだ力みがとれない。


なので、ふとトーマス・ハーンズのボクシングスタイルを思い出して、その話をしたのだった。


S君は、ヒットマン・ハーンズを知らなかった。そこで、私のiPodtouchで、youtubeの映像を探して見せた。


ハーンズは左手を下げ、フットワークを使いながら、裏拳みたいなジャブを放ち、いきなり強烈な右クロスでKOする。


肩をゆるめて打つことを、ハーンズのパンチを例に教えようと思ったのである。


改めて真似してみて、気づくことがあった。


ハーンズのジャブは、通背拳の摔掌。右クロスは、八卦掌の蓋掌に共通するなあ、と感じたのだ。


拳をほとんど握らず、低い位置から手の甲で打つジャブは、肩が緩んでいるのでスピードがあって、よく伸びる。通背拳の横摔にそっくりである。


右クロスは、普通のストレートと違って右肩あたりから、叩きつけるように打つ。昔、スローで見て研究し、真似したのだが、威力が出しやすいのである。


いわゆるテレフォンパンチで、中心から真っ直ぐ打つきれいなストレートとは違うのだが、ハーンズはジャブやボディで崩しておいて、いきなりこのパンチを放ってKOするのだ。


蓋掌も肩のあたりから打つのだが、相手の死角になるように打って、テレフォンパンチにならないようにする口伝がある。力が入れやすくて、威力がある打法なのである。


探掌や穿掌で崩しておいて、蓋掌できめる。そういう使い方をするのである。


頭を打つと相手の意識を失わせる威力があるので、「迷魂掌」というカッコいい別名もついているのだった。


通備拳の纏額手も、ほとんど同じ技。こちらはものすごく伸びやかに、瓦稜拳で行う点が異なります。


KO伝説 トーマス・ハーンズvsジェームス・シュラー

松田隆智氏の葬儀

 昨日、松田氏の葬儀が西国立で行われた。ご遺体と対面することができたが、氏は非常に穏やかな表情をされていた。

 訃報を聞いた当日とその翌日、ずっと虚脱感に襲われていた。私にとって、氏はそれほど大きな存在だったのだな、と改めて実感した。

 氏の著作「太極拳入門」(サンポウブックス、絶版)を読んだのは中学二年生のとき。1972年である。それから書店で見かけるたびに氏の著作を探し、買い求めた。「中国拳法入門」「陳家太極拳入門」「謎の拳法を求めて」……続々と出版される力作の連続にすっかり魅了され、虜になっていったのであった。

 大学時代は中国武術研究会の活動に明け暮れ、卒業後は武道雑誌専門の出版社に勤務し、入社後二年半にして当時月刊だった「武術(うーしゅう)」の編集長を勤めることになってしまった。

 学生時代から教えを受けてはいたが、「武術」の編集長となってからは松田氏とはかなり密接におつきあいいただいた。週に一度は長電話をして様々な話題に花を咲かせ、仕事の打ち合わせでは駅近くの喫茶店で数時間もお話を聞いた。

 年に一度は松田氏らとともに中国へ行き、様々な武術、数多くの武術家に取材することができた。移動中の列車の中、滞在するホテルなどでは毎晩のように何時間も氏の話に耳を傾けた。一週間連続で毎晩何時間もケンカの実話を聞き続け、一度も同じ話がなかったのには驚嘆した。この人はいったいどれほどケンカをしてきたのか……それほどに氏は「戦って」きた人だったのである。

 松田氏は日本の古代史にも詳しかった。興味深さと、話についていけない悔しさで、私は関連書籍を読み漁ったこともあった。宗教や瞑想にも詳しく、後に私が師事した瞑想指導家の山田孝男氏についても松田氏に教えられた。松田氏はシルバ・メソッドを山田氏から学んでおり、その境地を高く評価しておられたのである。

 八光流柔術大東流合気柔術も、松田氏のことばがきっかけで始めた。八光流は氏も皆伝技まで学んでおり、折に触れそのすばらしさを語っていたのである。また、大東流の佐川先生のことを非常に尊敬しておられ、その名人技については何度も聞かせていただいた。私もぜひ佐川先生の技をこの目で見たい、大東流を少しでも学びたいと思い、佐川道場に入門させていただいたのである。

 思えば、13歳だった中学二年から福昌堂を退職する35歳まで、どっぷりと首まで松田隆智氏の影響を受けて生きていたのである。

 福昌堂を離れてからは氏との付き合いもなくなってしまったが、その後も私にとって大きな存在であり続けた。いかにエネルギッシュな松田氏も、そのうち年を取り、いつかはこの世を去る日が来るのだろう、とは考えていた。しかしそれは何年も先のことだろう、とも思っていたのだった。

 何年も会っていなくとも、私にとっては頑固親父のような存在として、圧倒的な存在感を感じ続けていた。その方が突然いなくなって、意識の奥底から虚脱感を感じたのだった。

 葬儀では、懐かしい方々に再会することができた。松田氏の直接の弟子たちも、初期から最近の方達まで、一堂に会していた。私は僧侶として出かけたので、古い知人たちに挨拶し、最近の自分を知ってもらう機会にもなった。

 私は武術に関しては才能も体力もなく多くを受け継ぐことはできなかったが、こうして振り返ってみると、スピリチュアルな探求の面でも影響を受けてきたことを思わざるを得ない。松田氏は真言宗の僧侶でもあり、後にはチベット仏教を本格的に修行されていた。私は浄土宗と方向性は多少異なるが、真理を求めるという点で、氏から何かを受け取ったと感じている。

 葬儀に参列できたことによって、松田氏の逝去を受け止め、自分なりに氏を送ることができた。それは本当によかったと思う。

 松田隆智氏はいろいろな意味で強烈な人だった。どういう縁でか、私と氏の人生はある時期、重なっていた。何度も中国へ連れて行っていただき、中部工業大学へは二人で寸勁の測定に行った。諸賞流和術の師範との対談のため、車で盛岡まで同行したこともあった。あのときも深夜までホテルで武術の話を聞かせてもらったのだった。

 多くを学び、影響を受け、そしてともに仕事をした。そんな松田氏が、行ってしまった。

 長い間ご苦労様でした。おつかれさまでした。ありがとうございました。

 松田先生、さようなら。