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2010-09-14
■[interview]MYLOHASさんの記念イベント、あまやゆかさんにインタビュー。
12日、マイロハスさんの新ブログ「Happy Study Blog」の起ち上げ記念イベントに招かれて
あまやゆかさんとトークライブをしてきた。
ちょうどこの直前に、マイロハスさんは登録会員が10万人を突破したところで(おめでとうございます!)
2重に「記念」のイベントだなあと思った。
・あまやさんブログ、本記事へのコメント
http://ameblo.jp/amaya-kimono/day-20100914.html
・MYLOHASスタッフさんより、当日の模様レポ(写真いくつかあります)
http://www.mylohas.net/study_blog/2010/09/post0914.php
事前に
あまやさんと何を話そうか
と考えて
「そうだ!例の『インタビュー』をやってみよう!」
と思いついた。
星占いの現場で非常にしばしばでてくるテーマに
天職、適性、仕事
というのがある。
星占いでも一応、「仕事」という考え方はあるのだが
「私ってどんな仕事が向いているんでしょう」
と聞かれたとき、
仕事とは何か
天職とは何か
ということがまず、問題になってくる。
彼女の話を通じて、そんなことを考えられるんじゃないだろうか
と思った。
その話はきっと、私だけじゃなくて
来てくださった皆さんにも面白いだろう、と考えた。
その話は、MYLOHASさんというサイトが目指していることにも
合う気がした。
当日、
彼女はごく淡いピンク色の、リボンの柄の着物に、紫がかったあざやかなピンク。
私は藍色の着物に、白地に赤い縞の入った帯。
二人とも木綿の着物でならんで座った。
私は壇上でふつうにメモを取らせてもらい(私はレコーダーを使わないのでこれをしないとあとで記事に出来ない)、
彼女のお話を一時間弱、
参加者の皆様と一緒に、たっぷりと聞かせてもらった。
以下、インタビュー。
----
あまやさんは、J-WAVE等に出演している、
フリーのアナウンサーだ。
でも同時に、
「キモノコミュニケーター」の肩書きで
オーガニックコットンの着物を販売・紹介する仕事もしている。
最初に、彼女が私にメールをくれたのは
「石井さんの占いを朗読したい」
という、打診だった。
これに応えて、彼女に初めて会ったとき、
彼女は
「私は今アナウンサーをやっていますが、
昔は女優になりたかったんです」
と言った。
そして、アナウンサーという仕事について、
「アナウンサーというのは、いわば『額縁』のような仕事なんです」
と説明してくれた。
アナウンサーは、原稿を読む。
あるいは、人にインタビューしたり、情報を伝えたりする。
額縁と絵画の関係のように、
「伝えること」が「伝える行為」の真ん中にあるわけだ。
だから、「額縁」。
絵が見えなくなってもいけないし、
絵より注目されてもいけない。
絵よりも額縁が目立つようなら、その額縁は「絵にあっていない」ので、
マチガイということになる。
それでも、額縁は美しくなければならない。
絵を守り引き立てるものでなければならない。
額縁がきれいで立派だと、絵もその迫力やインパクトを増す。
なにより、受け止める側がそれを受け止めやすくなる。
たぶん、意識がその額に納められたものに、自然に集中する。
なるほど、と思った。
彼女はほんの小さい頃から、女優さんになりたかった。
「将来の夢は女優さん」
が、子供の頃から決まっていた。
いつか東京に出て女優さんになるんだ、という少女らしい夢を持ちつづけ、
本当にそれを叶えるべく、大学進学に合わせて上京した。
そして、女優を目指して、しばらく演劇をやった。
でも、やっているうちに、あることに気づいた。
「私は、お芝居はそこそこうまくできたんです。
でも、いわゆる『大物』と言われるような女優さんとは
何か違う、と気づいたんですね。
そういう女優さんは、たとえば舞台に立つと、
あるときなにかが「ぷちん!」と切れてしまったように、
思いがけない表現ができたりするんです。
我を忘れるというのか、
その役の中に入りきってしまうというか、
そういう瞬間があるんです。
でも私は、いつも、それがないんです。
いつもどこか、冷静な自分がいるんです。
我を忘れられない、というのか、
なんとなく自分や周囲を、
クールに、客観的に見てしまっているところがあるんですね。
女優として食べていく、ということを、
卒業近くなって、真剣に考えたとき、
これはどうも、向いていないかもしれない、と思ったんです」
この話をきいて、私は以前、劇作家の阿藤智恵さんにきいた話を思い出した。
阿藤さんも女優志望だったのだ。
でも、彼女も、あるとき気がついた。
「俳優になれる人種というのがあるんです。
彼らは、舞台の上で光合成するんです」
と言っていた。
彼女はそれに気づいて、女優から劇作家に転向した。
その感じと、これはなにか、似ているのかもしれない。
あまやさんもまた、そこで
「職業選択」をした。
答えは「アナウンサー」だった。
「アナウンサーは女優とは逆に、
そういう冷静さが求められるんです。
特にアナウンサー学校に通ったり、という準備もなく、
アナウンサーの試験を受けて、地元で就職しました」
そこで五年ほど福井放送のアナウンサーをやったあと、
彼女は再度「上京」した。
「私はなぜか、1つのことを三年やると
『で?』
ってなるんですね。
石の上にも三年、じゃないですけど、
三年やるといろんなことがわかって、力もついてくるじゃないですか。
そうすると、この先五年、十年、と考えたとき
『この先これをずっとやっていくのか?
いまここで得た力を、このことだけのためにずっと使っていくのか?』
って思えて来ちゃうんです」
彼女は、特に伝手があるわけでも何でもなく、
一年生活できるほどの貯金だけを頼りに上京した。
そしていくつかオーディションを受けて、いくつかの仕事を経て、
東京でフリーのアナウンサーとしての仕事を軌道に乗せた。
彼女はさらりとその経緯を説明してくれたが
たぶん、いろんな障壁や困難もあったはずなのだ。
何かに守られていたわけではない。
徒手空拳でチャレンジしてきたのだ。
彼女の物腰や表情からは
そういうアグレッシブな雰囲気は全く感じられない。
ふわっとしてかわいらしく、
リラックスして、
でもよく見ると、堂々としている。
この「堂々としている」感じは
虚勢を張っているとか、偉そうにしているとか
そういうのとは全く違うのだ。
牡丹の花が可憐でありながら堂々としているように
向日葵が健気さを感じさせながら堂々としているように
そんなふうに、堂々としているのだ。
たぶん、ガツガツ汗をかいてこの世界に立ち向かってきたわけでは
彼女は、ないんだろう、と思った。
いろんな苦労もしたけど、でも、
花のように堂々としていたのだろう、と思った。
風に吹かれれば揺れるし、雨が降ればうなだれるけれども
でも、花として咲くことをやめなかったのだろう、
という感じがした。
花は花として咲く権利があるのだ。
どうして余人にそれを傷つけることができるだろう。
彼女はいつも同じ強さで、やわらかく笑っている。
私の声はものに怯えて
強くなったり弱くなったりする。
東京でもまた、三年ほど経つと、
『で?』
という思いが湧き出してきた。
彼女はステージではなるほど、どこか冷静なのだが
それでもやはり、「自分の力や輝きで勝負したい」という気持ちの強い人なのだった。
「だれでもいいような仕事ではなくて、
あまやゆか、で勝負できるような仕事がしたいんですね、たぶん。
五年十年経った後で、あまやゆかさんのハナシだから聞きたい、って言われるように、
そんなふうになりたい、と思うんです」
そんなとき、
仕事でたまたま知り合った、NPOの関係者が
あるとき、着物を着て現れた。
素敵だな、と思って話を聴いたら
「着物は着ちゃえばいいのよ、毎日着ちゃえば楽よ、
いつも着物着ていれば、周りも『あの人は着物の人だ』って思ってくれるし」
と言われた。
なるほど、と思った。
それがきっかけで、まず、着物を着るようになった。
「アナウンサーの仕事は、とても好きで、
それも、ずっと続けていきたいと思ってるんです。
でも、その一方で、
自分自身が注目されたい、というか
自分でなければ、という仕事をしたい気持ちもあったんですね」
最初、女優さんになりたかったんですもんね、
アナウンサーが額縁なら、女優さんは「絵」のほうじゃないですか、
その転向には、ギャップがあったんだろうなと思うんですけど。
と私が問いかけると、彼女は
「そうそう、だからその鬱憤が、
この、着物のほうにいったのかも」
と、笑った。
私は、あまやさんに会って彼女の仕事を知るようになってからずっと
不思議に思っていたことがあった。
それは、
元々アナウンサーなんだから、着物に興味を持ったんだったら
着物ライターとか、取材者になって情報発信する、というほうが
ずっと自然なのに、ということだった。
なぜ、敢えて、会社を立ち上げて着物を販売することにしたのだろう?
在庫を抱えて、売る、ということを始めたんだろう?
それを聞くと、彼女はこう応えた。
「最初は、取材して回っていたんです。
いろんな工場とか、製造者の所を回ったりしていました。
そしたらあるとき、京都で絹織物を扱っている方に言われたんです。
綿なんて、作るのにどれだけコストがかかるのか知ってるのか、
農薬を使いまくって、土壌汚染もひどくて、日本では自給率はゼロなんだ、
木綿の着物がいいとか言ってるけど、
そういう現実を知らないから言えるんだ、と。
だから絹の方がいい、という話で、
私の『木綿の着物がいい』という考えはいわば、全否定されたようなわけです」
「それで、私は
『じゃあ、オーガニックでやればいいじゃん!』
と思ったんです。
木綿がいい、というのはどうしてもそう思えたから、
最初は、オーガニックの糸を扱ってる会社さんと、
取材で知り合った木綿織物の業者さんを引き合わせて
オーガニックコットンで着物の反物を作りませんか?と、
話を持ちかけました。
できたら、プロデュースとかデザインとかやらせて下さい!
というくらいのノリだったんです。
でも、木綿の着物なんか、ただでさえ着る人は少ないし、
取り扱う小売店も少ないし、で、なかなか話が前に進まなかったんですね。
そこで、もういい!となって、
『私がその糸を買って、商品作って自分で売ります!』となりました。
自分で会社を作って、小千谷の工場に話をして、織りをお願いして、
ばーっと一気にやってしまったんです」
否定されて、そこでぺしょんとなるのではなくて
「じゃあ、こうしてやろう」
というふうに、彼女は次の手を思いつく。
でも「次の手」はきまって、
安全な手ではない。
オーガニックコットンは、勿論、普通に流通していうコットンより高い。
そして、「自分で糸を買って製品を作って売る」のは
リスクを負って事業を立ち上げる、ということを意味する。
在庫を抱えて、自分で売ろうとしていく、ということを意味する。
「作る立場の人というのはみんな真剣なんです。
だから、私も『ただあいだを繋ぎます』という感じでいるより、
そうやってリスクを負って話にいくほうがずっと、いい話が出来るし、
いわば、ものづくりをする、という同じ目線で付き合ってもらえるんです」
たしかにそうだ。
そして彼女はそのことを、
まさに身をもって覚えていったのだった。
リスクを負う、ということは
それが「リスク」である以上。
大失敗する可能性を当然、孕んでいる。
リスクを負えば、ソンをすることもある。
ソンする覚悟をし、ソンしてもだいじょうぶな策をある程度講じ、
その上で、選択をする
というのが「リスクを負う」ことだ。
リスクを負って、そのリスクの側に転んでしまったときは
だれのせいにもできない。
これはとても、むずかしいことだ。
だれもがそういう選択を迫られることがあるんだろうと思う。
時には
リスクを負えば選べる選択肢があることに気づかずに
何も選ばずに終わってしまうこともある。
逆に、リスクを負っているつもりで
実は、無計算のまま乱暴な結論を出していることもある。
それは「負って」はいないのだろう。
彼女の「着物」は、
「和風が良い」
「和の文化を守りましょう」
というようなアプローチのものではない。
普段使わなければ、生活に結びつかなければ、意味がない。
生活に結びつく、というのはしかし、どういうことだろう。
「たしかに、守らなければなくなってしまう素晴らしい技術、というのはあります。
でも、そう言う技術があるというのはみんな解っていることですし、
そういうものを『守りましょう』といっても、
それは、そのままでは、生活から遠すぎます。
私がやりたいのは、『和を!』というような押しつけがましいものじゃなくて、
もっとちがったものなんです。
これかわいいでしょ、とか、これすてきでしょう、とか、
そういうノリでやりたいとおもうんです」
彼女は私に、着物を勧めたことはない。
私が勝手に、
「あまやさんと話すなら、無論あまやさんは着物を着てくるだろうから
私がその隣に洋服で立つのはクヤシイ」
と思って、ムリして着ているだけなのだ。
彼女に「これってどうするの?」と聞くと
彼女は教えてくれる。
木綿の着物はキモチイイし、洗えるし、むずかしいこと要らないし、
気軽に着られますよ、と話してくれる。
でも、それは雑談レベルで
まるで「あそこのお店のケーキ美味しいですよ」
という感覚の域を出ない。
それ以上でもそれ以下でもない。
彼女はただ、黙って自分の好きなように着物を着ているだけだ。
少なくとも、そういうふうに見える。
でも、私にはあるリアリティがあった。
その「これいいでしょ」という話の、奥行きである。
私はこの日、彼女の着物ショップで売られている半襦袢と裾よけを着ていたのだ。
もちろん、コットンである。
この日はめちゃめちゃ暑かったのだが
このコットンはキレイに汗を吸って、さらりと乾いてしまう。
着ていて、いかにも気持ちが良いのだ。
着物も紺の木綿だった。
この木綿の肌触りの「よさ」「すずしさ」というのを、
私は話している間ずっと、感じ続けていたのだ。
私は彼女に勧められたからじゃなくて
自分でそれを着ていた。
着物は、私にとっては
最近いきなり出てきた下腹や二の腕を気にしなくていい、
すこぶる安心な衣装だ。
その上、美しい色や文様が、洋服を着るのとは違った気分を
私の中から引き出してくれる気がする。
「智恵子抄」で知られる、
高村光太郎の妻・智恵子は、
その人生の後半の数年、精神を患った。
元々油彩画家であった智恵子は、そうした病中にも
切り絵という手段で表現を続けた。
最初は、その辺にあるお菓子の包み紙などを使って
果物や花を切り絵にしたのだが
やがて色紙を欲しがるようになったという。
私は以前、そんな作品をいくつか目にしたのだが
そのとき、非常に驚かされた。
この話から行くと初期の作品だと思うが、
ありものの包装紙や紙袋などを使って
いかにもリアルな「柿」がそこに、表現されているのを目にしたのだ。
その柿をよく見ると、包装紙らしく、屋号やロゴが入っている。
でも、この絵をぱっと見ると、
みずみずしく丸い、つやつやの柿の実が描かれているようにしか、見えない。
彼女の切り絵作品は有名で、本にもまとめられているが、
私は、その包装紙が「柿の色に見えた」というのがショックだったのだ。
なぜそんなふうに見えるのだろう?
と
長い間疑問に思っていた。
でも、自分で今回のイベントのために
ネットで木綿の着物を探していったとき
その疑問が溶解する気がした。
着物は、形がある程度以上に決まってしまっている。
だから、選ぶときは
純粋に色と柄だけを見つめていくことになる。
色と柄のみを見て、選んでゆく
というこの面白さだ。
服を選ぶときの感覚とは全く違う。
紺、縞、白っぽいの、黄色っぽいの、茶色、
それらに何種類もの色調があって、さらにそこに、柄がくわわる。
たとえばお店でふつうに洋服を買うときは
「三色展開です、白と黒、あとカーキ」みたいなことで
「このなかなら、白かな」という選び方をしたりする。
でも、和服はそうじゃない。
一つ一つの色と柄、そして布地だけを見てゆく。
その色と柄が眼の中に、気持ちの中に入り込んでくる。
そしてそれを買うと
自分全体がその色と柄に覆われる。
たぶん、和服を日常着としていた人々にとっては
色と柄をじっくりと見る、吟味する、感じ取る
という「眼」が備わっていたのだろうと思ったのだ。
古い色の名前の多様さは
そうした「眼」によって作られたのだろう。
サイズやカタチのデザインはとりあえず置いておいて、
柄だけ、色だけ。
このあいだ、私の祖母が死んだ。
そのとき、伯父と伯母は、棺の中の、白い布をかけられた祖母のなきがらの上に
縞の着物を着せかけてやっていた。
あとで伯母にそのことを聞いたら
「お義母さん、あの着物が好きだったのよね、
写真にも何度か写ってたのを見たことがあるのよ、
縞はね、粋な人じゃないと似合わないのよね
こう、ちょっとガッチリした人じゃないとね」
と、言った。
この話をすると、あまやさんは
「縞は、関東のほうが好まれて、よく着られる柄です。
京都なんかだと、もう少しはなやかな、
かあいらしい柄のほうが好まれる気がします。
着物を着るんやったら、はんなりと女らしく着な、意味ないやろ、
みたいな感じだと思います」
と応えた。
東京の「粋」という言葉の意味が、
少し解った気がした。
祖母は、江戸弁の残る早口の、
勝ち気で強い、でも、とても愛情の深い人だった。
黒い、太めの縞の柄の「粋」が
そういう祖母の人柄とよく合っている気がした。
死に際の、95歳の寝たきりの祖母から
若かった頃の生き生きとした祖母までちゃんとつらぬかれている
一本の純粋な個性と生命力を、
そのひとつの柄の中に
ありありと見たような気がしたのだ。
あまやさんは、ハンカチから半襟を作る、と言う。
木綿の着物に合う木綿の半襟などは
そのものとしてはなかなか売っていないのだが
ハンカチを半分に切って縫い合わせると
とてもカワイイ半襟がいくらでもできるのだ、と言う。
半襟の色、帯の色、帯揚げの色、帯締めの色、鼻緒の色。
ちょっとずつ色を組み合わせていって
全体の印象ができあがる。
大きな制限があるところに、不思議な自由が生まれている。
洋服のコーディネートとはこれは
かなり違っているように思える。
サイズを気にすることも、形を気にすることもない。
色を重ね合わせて、魔法のように、全く違った印象ができあがる。
私も今回、半襟というものをつけてみた。
あまやさんのネットショップで買った半襦袢に
同じく、べつのネットショップで買った半襟を縫い付けたのだ。
縫い付け方もネットで調べた。
着物もネットで買い、
着付けもネットでしらべ、
私の和装は頭の天辺からつま先まで
ネット漬けでできあがっている。
デジタルで仕上がったアナログだ。
「ざくざく縫っていきましょう」
と書かれているのを本気にしてざくざく縫ったら
ななめについてしまって、やりなおした。
裁縫箱がそもそもなかったので、
トラベル用の、ボタン付け向きのソーイングセットを使ったため
まち針がなかったのである。
でもできあがってみたら
なんだかそれは「自分のもの」になった。
そしてそこに、重みが生まれた、
私とその衣類に、人間関係のような結びつきが生まれた気がした。
あまやさんが今まで経験してきた「リスクを負う」ことと、
ものを作る人の真剣さ、本気さ、ということと
私の手の中で起こったほんのささやかな作業とが
私の中ではなんとなく
繋がっている気がする。
これらのことは本質的には、同じことなんじゃないだろうか。
自分の体型に合わせて巻いたり端折ったりし、
紐で縛り、作り上げていく「衣装」。
手間と時間をかけて自分で自分を作っていく。
彼女はインタビューの最後の方でもう一度、
その手触りを確かめるみたいに、
「やっぱり、私は、あまやゆかだからできる、っていうことをしたい、
という気持ちがあります」
と言った。
その「私だからできる」という表現には、
唯一無二の!とか、目立ちたい!というような
綺羅綺羅しい降って湧いたようなシンデレラストーリーのイメージではなく、
たとえばこの「半襟を選んでつける」ということに私が感じたリアリティと重なる感触があった。
濃やかで力強い、よく肥えた土のような創意工夫と、
花が自ら花として咲く、その自然に華やかな輝きとが
彼女のこの言葉を作っている感じがした。
話を終えて、トークイベントの前半が終わり、休憩時間に入ったので
私たちは用意して頂いた控え室に落ち着いた。
するとすぐに控え室の扉が開いて
スタッフの方が顔を出した。
「あまやさん、すみません、みなさん着物にすごく興味持たれて見ていらっしゃるので
会場にいらしてくださいませんか」
あまやさんは、みんなが着物を見ている会場に戻っていった。
残された私は、控え室にあった大きな鏡を見て
あちこち気になるところをチェックしたりなおしたりしつつ
デジタルとアナログの違い
ということを
何となく思った。
ごく、大雑把なイメージなんだと思うが
アナログは「波」で表現される。
デジタルは0/1の世界で、
なだらかな波をカクカクしたデコボコに変換していく。
着物の手間暇は、洋服の世界ではそぎ落とされた
「波」なのではないか、という気がしてしょうがなかった。
洋服であれば裁ち落としてしまうであろう余分な布地を
折ってたたんで縛って、しまいこんでしまう。
同じ人が同じように着ても、その日の気分や体調によって
たぶんいつも、
ほんのわずかに、ほんのかすかに違う容(かたち)がそこに現出する。
人の姿にぴったり合うように作られた洋服は
それがぴったり作られれば作られるほど、その人にしかまとえないサイズになる。
もちろん、偶然同じようなスタイルであれば、着られるかもしれないけど
人から人へと受け継ぐことをあらかじめ予期して洋服を仕立てるということは
あまりないだろう。
でも、着物は、親から子へ、孫へと、受け継がれていったりする。
かつてはそれがほぼ前提だった時代もあった。
たとえば
アナログレコードの音とCDの音の違いやフィルムとデジカメの画像の違いなどは
私にはほとんどわからない。
でも、玄人や愛好家は、そこには歴とした差がある、と主張する。
その「歴とした差」の、そぎ落とされてしまった差分が
この作業の中にこもっているのではないだろうか。
着物ってふしぎなものだ。
私にはまだ、
これがなんなのかイマイチ、よくわかっていないところがある。
そもそも「ものを持つ」ということが私は、どうにも苦手なのだが
この「着物を買って着る」ということは
「ものを持つ」の最たるものだという気がする。
私にとって、ものを持つということは
ある種の「恐さ」をともなうのだ。
ものは人を縛る。ものは人に責任を負わせる。
私に言わせれば、ものを持つということは、
ある種のリスクを伴う行為なのだ。
いったいこれは何なんだろう
まだぜんぜんわからない。
しかし、なにかわかるまで
もう少し着てみようかな
と思ったりした。
----
あまやさんの着物、ネットショップ
「るるん」
http://www.kimono-organiccotton.com/
当日、彼女はこの「フォトギャラリ−」の中の
一枚目の着物を着ていた(たしか)。
2008-08-13
■[interview]14th-AZさん chap.2
インタビューシリーズ、14人目のAZさん、第二章。
----
AZさんの子供時代には、
あまり幸福な思い出はなかった。
父親はいわゆる「飲む・打つ・買う」、
いえ、買う、はどうかわからないですけど、
お酒とギャンブルが好きな人で、私にはとても厳しかったんです。
私は反発して、折り合いが悪く、
家の中はいつも暗い感じでした。
中学3年生の時、誕生日の前日で明日は15歳、という日に、
父とケンカしたんです。
そのときに、父の口から何かの拍子に、出てきたんです。
私は、父の実の子じゃなかったというのです。
それを言われた時の感じというのは
場景がコマ送りになると言うか、
ストップウォッチで刻まれるというか、
そんな感じでした。
ちょうどそのとき母が帰ってきて、
父は母に、本当のことをしゃべった、と言ったんです。
そうしたら母は
「何でこんな大事な時に!」
と、父に言いました。
高校受験を控えた大事なときなのに、なぜ今それを言うのか、
ということだったわけです。
それで、私は
あ、本当なんだ
と解りました。
心のどこかではまだ、父に言われただけでは
そんなはずはない、と思っていたんですね。
それが、母のその反応で、
ああ、本当だ、とわかってしまったわけです。
それでも、私はやっぱり
心のどこかで違うんじゃないかと思っていて
しばらくして、母に、
血液型は何型?
と聞きました。
すると母は、
ごめん、いままでウソをついてたの、
今までBだと言っていたけど、ほんとはOだった、
と答えました。
父は、O型でした。
これが最後通告、みたいな感じでした。
私はB型なので、O同士の両親からは生まれないですから。
それから、AZさんはいわば
「O型コンプレックス」
になってしまった。
O型の人に対して拒否感を感じたり、
信用できないと思うようになってしまったのだ。
夫はAO型で、私がBOだから、
娘がOで生まれる可能性もあったわけです。
でも、検査をしたら、B型でした。
娘は喜びました。
検査結果を聞いた後、女の子同士だから同じB型だねーって、
スキップしていました。
私は、実の父には会ったことがありません。
実の父の存在を知ったときには、父は既に他界した後でした。
身内は母しかいないんです。
親戚と言えば父の親族だけで、
その親族も私が継子だと解っていたんでしょうね、
仲間はずれにされた記憶があります。
母にO型だったと言われた瞬間、
それまで「何かあったら、私が血をわけてあげるね」と言っていた母が、
突然、自分からとても遠くなったような感じがしました。
ああ、これから私が怪我や病気になって血が足りなくなった時、
誰か他の人に助けてもらわないといけないんだ、と。(※)
大げさだけど、
自分の命は母だけじゃつなげていけないと悟ったというか、
覚悟したというか。
これからは他人との関わりの中で、生きて行くしかないんだなと思いました。
高校を卒業してから、
AZさんは新聞奨学生として上京して専門学校に進んだ。
高校での成績は良かったけれど、大学には行かなかった。
血も繋がっていない親の世話にはなれない、という理由で、
高校3年生のときは就職しようと思っていた。
でも、やっぱりどうしても諦めきれなくて進学した。
この選択をした時、
自分を生きる、ということを始めたような気がします、
とAZさんは言った。
貧乏で、とても苦労したけれど、必死で生きました。
倒れたこともあるし、それによって収入がなくなって、
役所の、福祉の貸し付けを受けたこともあります。
そういうとき、
誰も守ってくれないんだ、
自分は全く守られていないんだ、と
身にしみて思いました。
お母さんはいたけれど、あまり娘に関わろうとはしなかった。
働きすぎて体をこわして倒れた時も、
医者が何度も「きてください」と要請したのに、
なかなか来てくれなかった。
AZさんは、「ひとりぼっち」だった。
だから、結婚して生まれた私の娘は、
私の前に初めて現れた、
「血の繋がった身内」だったんです。
B型だ、と解った時、それを強く感じました。
私が娘に、同じでよかった、と言ったら、
何がいいの? と聞かれて、
「血を分けてあげられるんだよ」
とこたえました。
私と同じ血液型だと知って
喜んでスキップしていく娘の後ろ姿を見ていたとき、
突然、耳元で
「私は、ひとりぼっちの母ちゃんのためにきたんだよ」
という娘の声がハッキリ聞こえた気がしました。
いえ、きこえたんです、本当に。
こう話した時、AZさんの声が潤んだ。
私も、ずきんと胸が痛む気がした。
それまでのAZさんの「ひとりぼっち」の空虚さが
その空虚さの痛みが、伝わってくるような気がした。
そのあとしばらくして、
夫がちょっとした病気で、小さな手術をすることになったんです。
で、病気の検査をして、帰ってくると
「すごくショックなことがあって・・・O型だったんだよね」
と言うんです。
AZさんは、これを聞いて凍りついた。
母親にずっとAだと言われていたから、
完全にAと思ってた、と夫は言いました。
貴方がO型とわかってたら、結婚してなかった、とは
さすがに言えませんでした。
でもそうだったと思います。
このとき、私にとってO型というのは、
すごいコンプレックスなのだ、と改めて自覚しました。
でも思ったんです、
これは、神様から与えられたプレゼントなのかもしれない、と。
だってO型だと解ったからって離婚もできないし、
きっと、O型だとかB型だとかで傷ついていた自分を
そろそろ乗り越えなきゃ、っていうことかな、と思いました。
この話を、少しあとになって、
思い切って、夫にしました。
夫は、普通に、そうだったんだ、と聞いてくれました。
夫はお母さんの愛を存分に受け取って育っている人です。
夫の母親とは、接する機会がたくさんあるんですが、
血の話をすごくする人なんです。
親戚のあの人は○○さんに似てる、とか、
あの子供もよく似ている、とか。
そういう話をされると、
自分はそれを、父方にたどっていけないんだ
という気が強くします。
なんだか、自分がとても
ふわふわしているような気がするんです。
そのことは、時々、寂しいなと思います。
AZさんはこの話を、淡々と、よどみなく話した。
それを聞いているうちに、
「ルーツ」という言葉が、思い浮かんだ。
AZさんは、それをたどれないのが
ふわふわして、悲しい、と言う。
私は両親はともに実の親で、生きていて、
その上の階層も子供の頃、健在だったから
それがあるのが当たり前で育った。
だから、それがなくて悲しい、という思いに
初めて遭遇して、動揺した。
自分の生みの親が誰だか解らない、
というのは、一体どんな感じなんだろう、と
思いを巡らしてみた。
そういえば、大学時代の友人がそうだった。
彼も父親を知らない人だった。
お母さんが再婚しなかったので、父親が不在のまま育った。
誰も彼の父親のことを話さなかったので、
いまだに、彼は自分の父親を知らない。
彼がどんなふうにそのことを受け止めていたのか、
本当のところは、わからなかった。
私にとって、その友人の印象は、とてもハッキリしている。
彼はとても気が強く、良くも悪くもワガママで、
凝り性で個人主義的で、おだやかだけど、鋭い人だった。
私から見て、その友人のアウトラインは、
ふわふわしているどころではなく、とてもクッキリしている。
いわゆる「キャラが立っている」というやつだ。
でも。
人は、自分を外から見ることはできない。
自分を他人を見るように見ることができない。
だから、自分がどんな人間か、
ハッキリとは、意識することができない。
そういうとき、自分の「ルーツ」は
大きな意味を持つのかもしれない。
誰かに似ている、と言われて
そこに、自分の中にある何かを見いだす。
「自分」というもののイメージは
けっこうそんな「かけら」を合成してできているのかもしれない。
西欧で、精子バンクからの人工授精で生まれた人たちが、
自分の父親を知る権利を主張している
というニュースをちらりと見た。
彼らは、
「精子を提供した男性と、親子の関係を結びたい」
と思っているのではないだろうと思うのだ。
自分がどこから来たのか。
自分は何でできているのか。
それを知りたい、確かめたい、という思いは
とりもなおさず
「自分を知りたい」というところから来ているのではないか。
絶対に見ることのできない自分の姿を
親という鏡に映して見てみたいのだ。
そこにはかならず鏡像のかけらがある。
遺伝子のかけらが、自分のなかにあるものの表現形がそこにあるのだ。
見えない場合は、見ることを渇望する。
では、見てしまった場合は。
これは、ケースによる、と言うしかない。
親を、尊敬する人物の筆頭にあげる人もいれば、
親が自分を産んだことを呪う人もいる。
親の中にある自分のかけらを無意識に憎む場合もあれば
親を愛することが自尊心の土台になる場合もあるだろう。
どんな社会にも、「世界創造」の神話がある。
どうやってこの世界ができて、
どうやって我々が生み出されたのか、
そのオオモトを語るストーリーが存在する。
それが存在するということは、
それを人々の心が求めた、ということだ。
自分がどこから来たのか、それを知りたい
というプリミティブな欲求がある。
この欲求はいったい、どういうことなのだろう。
ルーツの曖昧さへの空虚感を
心に悲しみとして抱きながらも、
AZさんは自分の娘に、
過去ではなく未来につながる「ルーツ」を見つけた。
これは妙な言い方だけれども、
たしかにそうだった。
「ひとりぼっちの母ちゃんのために、私が来た」
というこのことは、
AZさんとこの世界を
「血」という何よりも説得力に富むつながりでつなげる、
足がかりのようなものだった。
だけど同時に
彼女のパートナーはO型だった。
彼女は、それを受け入れよう、と考えることができた。
実はこの話を聞いているあいだ、
私はずっと迷っていた。
私は、O型なのだ。
それを言おうかどうしようか、迷い続けて
結局その場では、言わなかった。
ルーツというのはつながりだから、
過去から連綿と、一つの流れとしてとぎれずにある。
でも、からだは、
突然この世にあらわれて、
何十年かすると、
ほろびて、きえていく。
からだは、今、目の前にある。
どんなに古い家柄の人も、両親ともにわからない孤児も、
体は今、たしかに、見える形でここにある。
この儚い、だけれども厳然たる「実体」に、AZさんは掌で触れる。
今、目の前のこの人に、さわる。
どこからこようが、どこにいこうが、
その体は今ここに、目の前に、この瞬間に、
確かに「その人」として存在する。
誰もが普段は、
自分が親であることや主婦であることや会社員であることや、
その他諸々のことに追われて生きていると思うんです。
でも、私がトリートメントしている間は、
そういうものから守ってあげたい。
時間を止めたい。
私が触れている間だけは、
○○ちゃんのママとか、○○さんの奥さんとか、
そういうのをとっぱらって、
あなただけ、になる、
その人だけ、になる時間を提供したいと思うんです。
そう、AZさんは言った。
だれも頼れない、と思った日から、
彼女は自分の足だけで立つべく、
ラットホイールを走り続けるハムスターのように
止まらずに生きてきた。
働いて働いて、働くことを続けずにはいられなかった。
そんな「止まれない」思いを、
多くの人が感じているのだろう。
AZさんは、そのラットホイールからつかの間でも
人を、自分のてのひらで解放し、解放された状態を守りたい、
と思っているのだろう。
ごく最近、私は生まれて初めて
マッサージというものを受けてみた。
腰が痛むようになったので、試しに、と思ったのだ。
「台湾式」というもので、服の上から揉んだりほぐしたりする。
文字通り、頭の天辺からつま先までやってくれる。
私は相当凝っていたのか、肩も腰も、
台湾人と見られる体格の良い男性にエライ力でもみほぐされた。
張ってますねー、と半笑いで言われた。
指先がびりびりし、何かが流れ出したような気がして、熱を帯びた。
人が人に、こういうふうに触っていく、ということを
いったい誰が考え出したのだろう。
他人に自分の体を「お任せ」してしまうのだ。
誰かが自分の五体のあちこちを、
流れの滞ったところや凝り固まったところを探しながら
ほぐしていく。
自分がそのとき「からだ」そのものになってしまった、と思った。
自分が「からだ」で出来ていることを意識せざるを得ないのだ。
このからだが自分なんだ、と思った。
当たり前のことなのに、普段はこの体のことをすっかり忘れている。
忘れている、というか、
太った、痩せた、とかは思うのだが
そんなこと以外、たいして意識していないのだ。
でも、こうしてみると
自分はやっぱりいきもので、「からだ」でできていた。
腕や背中や首やアタマやこめかみやふくらはぎや、
そんなものでできている「からだ」が自分だった。
その「からだ」である自分に、
こうして関心を持って関わってもらうのは、気持ちが良かった。
誰かが温かい手で、悪意でも欲求でもなく
みしみしと自信たっぷりに触ってくる。
さわる、というより、支える、とか、掴む、とか
そういう、もっと強い感覚だった。
おそるおそるではなく確信を持って、
私の気持ちや関係性への配慮の一切ないところで、
からだとしての私にコミットする。
私は安心してそこで「からだの自分」になっている。
AZさんの言っていた「守る」ってこういう感じなのかなあ、とか、
施術されながら、ぼんやり思った。
AZさんの生い立ちや、社会に出てからの生き方には
壮絶、という言葉がオオゲサでないと思えるほど
すさまじい出来事が重なった。
この稿に書いたのは、その中のほんの一部でしかない。
苦境の中では、死にたい、と思うこともしばしばあった。
話を聞いていて、
なぜこの人は壊れてしまわなかったのだろう、
すねたりひがんだりして、たごまってしまわなかったのだろう、と
不思議になるくらい、それは険しい道のりだった。
だけれども、彼女は、最終的に、絶望しなかった。
それはなぜか、という問いに、
彼女は
「くやしいから生きてやる」と思った、
と言った。
彼女は、辛い時ほど
こんな思いばかりで終わってしまうのはくやしい、
と思ったのだ。
体をこわしたし、経済的にも破綻しかけたし、
裏切られ、絶望し、ギリギリのところまでいって、
でもどうにか踏ん張って、
今の自分がある。
我ながら、諦めないでよく頑張ってきたと思います、
と、AZさんは微笑んだ。
その微笑みは、
静かだけれど、明るくさわやかだった。
多分、AZさんのてのひらに守られている人はその時間、
すべての「ルーツ」からも守られているのかもしれない、と、
ふと、考えた。
人は人とのつながりで生きている。
「ルーツ」もその一種だ。
関係で生きている。
役割を果たすことで繋がれている絆がほとんどだ。
でも。
それ以外にある、自分固有の、確かにそこにあるものとは
いったいなんだろう。
それは見つめても見えないけれど、
目をそらすと見えてくる。
AZさんは、自分の道のりについて
「あきらめないでよく頑張ってきたと思います」
と言った。
その声には、静かな自信がこもっていた。
彼女は、折れ曲がりそうな圧力を
いろんな方向から受け続けてきたにもかかわらず
曲がりきってしまうことはなかったのだ、と思った。
金属がその展性と粘性で、
どんな形に変形させられてもその本質を変えないように、
彼女は悲しみや痛みに苛まれながらも
最終的には自らのなかにあるものまで
腐食させられることはなかったのだ。
それは一体、どうしてなんだろう、と思った。
それは一体、なんでなんだろう。
この、魔法で守られたようなできごとの不思議さを
あらためてこの稿を書きつつ、考えたとき、
やっぱり、何の答えも思いつかなかった。
彼女は徹底的に守られずに育った。
なのに、なにごとかが彼女を徹底的に守ったから、
いまこうして彼女が無事に、ここにいるのだ、と思えた。
私にはどうしてもそう思えた。
私の中でぼこっと空いたままになっている穴が、
彼女の中では埋まりつつあるように見える。
少なくとも、彼女は自分の手と他人の手を借りながら
それをまっすぐに埋めようとしているように見える。
それを埋めることは、彼女のためだけではなく
誰か彼女以外の人のため、というベクトルを持っている。
この「肯定する力」は、どこからくるのだろう。
誰も何もしてくれないのだ、とわかったとき、
AZさんが感じたのは、寂しさと心細さだった。
守って欲しいという気持ちだった。
おなじことに直面したとき、
私が感じたのは、怒りと遮断だった。
否、おそらく私もAZさんも
その思いを抱かされた瞬間は、
その思いを抱いたことに気づかなかったのだと思う。
密閉して、ひたすら生きるしかなかった。
子供はみんなそうじゃないかと思う。
少なくとも私はそうだった。
何年も後になってから、
自分の中に、その思いを「発見」した。
彼女は、自分に手の届かないものを肯定し続けられた。
だから「さびしい」と言えた。
私はそうじゃなかった。「そんなものいらない」だった。
この歴然たる差に、私は呆然とした。
彼女には、ある冷静さがある。
それは、関係を考える力、だ。
自分の思いに飲み込まれずに、
関係を考察する力が常に話の中に、感じられる。
歌手の八代亜紀さんが、
あるインタビューの中でこんなことを言っていた。
私の歌はみんな、捨てられた悲しい女の歌なんです。
だけどそこには、愛があるんです。
捨てられて悲しいんだけど、でも、
捨てた貴方も辛かったのよね、というのが愛です。
愛がなかったら、悲しい歌は歌えないんです。
たしかそんなふうに話していた。
AZさんの話を聞いていて
このエピソードをふと、おもいだした。
この項を書き終えて、
ライラックの、あの静けさとゆたかさを二つながら備えた姿が
AZさんの印象といよいよ重なって思えた。
それは花ではなくて、
涼しくて安心できる初夏のちいさな空間で、
いつもいい匂いがしている。
そういうイメージなのだった。
-------------
※
一般に、O型から他の血液型への輸血は可能と言われていますが、
これに関して、以下をご参考まで。
2008-08-12
■[interview]14th-AZさん chap.1
インタビュー企画、14人目は、
AZさんという30代の女性にお願いした。
この稿も長くなりすぎてしまったので、2章に分ける。
まず、第1章。
吉祥寺の、喫茶店で待ち合わせた。
私よりもAZさんのほうが先に到着していて
隣り合わせの席に座って、携帯メールで初めて
あっ!と「ご対面」になった。
で、あわてて、
彼女の座っている席の向かいに腰を下ろした。
インタビュー記事を書く時はいつも、
その方の印象を思い浮かべる。
AZさんの姿や声を思い起こしたとき、
まぶたに浮かんだのは、ある花のイメージだった。
それは、ライラックだ。
ライラックの側にいくと、
花の姿が見えなくても、すぐわかる。
それほど、香りが強い花なのだ。
私が幼稚園生のころ、
初夏に東北の祖父母の家に遊びに行くと
庭に、淡いラベンダー色の、房状の花が咲いていた。
ゆびさして祖母に尋ねると、ライラック、と教えられた。
東北の初夏は遅く、梅雨とは無縁のため、湿気がない。
晴れの日はからりと天空まで空気がつきとおり、
陽光はまだいくらか冷たさの残る大気中をまっすぐに降りてくる。
とろりとした甘い香りと、透きとおる淡い色調と、さんさんとゆたかな花房。
ライラックは私にとって、単なる「花」という物体ではなく、
もっと三次元的な、さらに四次元的な存在だった。
ライラックはその香りによって、浴びる陽光によって、落とす木陰によって、
ひとつの時空を作り出すことができる花なのだ。
AZさんの、ある深い静けさと同居している、
北国の初夏の空気のようなすがすがしい明るさが
子供の頃親しんだ、ライラックのイメージを喚起した。
しかし、多分それだけではない。
AZさんについてのこの印象は、
AZさんのお仕事についての情報と連動している。
AZさんのお仕事は、「アロマテラピー」なのだ。
私は、「アロマテラピー」という名前を聞いたことはあったのだけれども、
具体的にどんなことをするのか、知らなかった。
そこで、どんなことをするのでしょう、と聞いてみた。
すると
オイルマッサージをするのです
という答えが返ってきた。
クライアントの、今の状態にあったアロマを探し出し、調合して、
それをオイルに混ぜて、体をマッサージする、のだという。
足だけとか、顔だけとか、部分のマッサージもあるらしい。
でも、AZさんは「全身」のみをやる。
アロマ、つまり、匂い。
精油、いわゆるエッセンシャルオイル、というものがある。
それは植物の香りを濃縮したエッセンスで、
たくさんの種類がある。
ひとつひとつの香りにそれぞれ、作用があって、
それらを漢方薬のように調合するのだ。
で、これをオイルに混ぜてマッサージする。
すると、気分が良くなったり、
体調が良くなったり、すこしサイズダウンしたり、と
いろんな効果があらわれる、らしい。
嗅覚というのは、他の感覚よりも、脳とのつながりが近いんです
と、AZさんは教えてくれた。
嗅覚は、構造的に、ほとんど直接に脳に刺激がいく、らしい。
そのことは、感覚的にものすごく納得がいった。
何かの匂いを嗅いだ時、
ぶわあーっと「気持ち」がわき上がることが、よくある。
で、そこから、
この匂いと気持ちは何だっけ・・・と記憶をたぐると
あ!中学時代の音楽室の楽器置場のカビくさい匂いだ!
とか、思い出せるわけである。
で、あのころの、
合唱のパート練習でピアニカを持ってその倉庫みたいな部屋に入り、
ちょっとリラックスしてはしゃいだ気分(先生は他のパートを見たりしているので監督の手がゆるむ)などが
ありありと脳裏によみがえったりする。
あの、匂いによる記憶の喚起力というのは
情報を引き出す、というよりも、
そのころの感情や感触が直接よみがえる、という感じで
実に不思議だ。
まるで、時間と空間がそのまま引っ張り出されてくる気がする。
あのころの自分の心を一瞬取り戻したような気がする。
視覚や聴覚、つまり何かを見たり聞いたりしても
匂いほどの生々しさで記憶が引っ張り出されることはない。
見聞きすることで出てくるのは、「思い出」程度だ。
匂いは、頭と心の時間を一瞬、引きずり戻してしまうのだ。
なるほど、あんな直接的な作用をする感覚なら、
確かに、なにか体にも効くのかもしれない。
アロマテラピーにおいて、
各種のエッセンシャルオイルにはそれぞれ、
化学組成などから分析された「作用」が、わかっている。
しかし、AZさんは、私は感覚でやるんです、と言った。
体調を聞いて、それによさそうな精油を選ぶ、
というのが一般的な方法なんですが、
私は、実際に香りを嗅いでもらうんです。
だいたいいくつか当たりをつけて、
ひとつひとつ、香りを嗅いでいってもらうと、
あるところで表情が、ぱっ!と、変わることがあるんです、
それだ!という感じですね。
これは時間がかかるのですが、
いちばんぴったりセレクトできる気がするんです。
表情を見るとわかるんです、
ぱあっと突然、明らかに表情が変わります、
それで、これですね、となる。
そういうとき、人の嗅覚ってすごいなと思うんです。
いくつか当たりをつけるときでも、
自分の感覚で選ぼうとしています。
何でこれを選ぼうとしているのかわからない、
ということもあります。
成分的なことをさしおいて選んでいることが多いです。
でも、肌にさわっていったとき、
そうして選んだ精油が「当たり」だったことがわかったりします。
湿疹ができている人がいて、
彼女はそれを「いつものことなので」と言って気にしていないんですが
その湿疹って、免疫が落ちた時に出ることが多いんですね。
で、彼女が香りで「これ」と選んだものが、
免疫力に効果があるものだった、ということもありました。
AZさんはとても楽しそうに、
いわば「身を入れて」話してくださった。
彼女が自分の仕事に充実感や楽しさを感じているのが
びしびし伝わってきた。
その「充実感」の「感」がまさに、
「感覚」であって、彼女の体全体を満たしているのだ
という気がした。
私は、彼女がとても羨ましかった。
自分の仕事について納得し充足している人を見ると
とても羨ましい。
私は現在、占いを仕事にしているが
この占いというものに、
座りにくい椅子に座っているみたいな感じを
どうしても捨てられないでいるからだ。
「占い」には、何の科学的裏付けも根拠もない。
私の腕が悪いのだろうが、外れることも多々、ある。
当たり外れ以前に、
「こんな占いを読んでショックでした」と言われることもある。
会ったこともない、遠くにいる誰かに対し、
なんの正当な根拠もない「星占い」に基づいて
「あなたの未来はこうです」なんて書く、
その無責任への罪悪感を感じないときはない。
もちろん、喜んでもらえたときの喜びは、たしかに、ある。
星占い自体の、原型としてのおもしろさというのも、ある。
古来、人々は占いを必要としてきた、
そんな根源的ニーズが確かにある。
それは人間の心の中の、何か本質的なものにつながっているのだろう。
そう思うから、私はこの「仕事」をまだ、辞めてしまわずにいられる。
だけど、私の「仕事」には、やっぱり、うしろめたさがつきまとう。
AZさんは元々、音楽関係の業界新聞で、ライターをしていた。
子供の頃から本を読むのが好きで、物書きになるのが夢だった。
しばらくその仕事をしていたが、
ある時、外部の人が彼女の記事を褒めてくれた、という話を
知人から又聞きした。
とても嬉しかったが、同時に
「やりきったな」という気がしたという。
そのころはもう、ある程度書いたし、
書いているものに自分の本心とのギャップを感じることも増えていて
そこで、その仕事を辞めた。
書くことには、今はもう、こだわりがない。
やりきった、という気持ちそのままに、満足した。
その後は、接客に興味があったので、接客業をいくつか経験し、
そうしている間に結婚して、子供ができた。
2人目の子供を授かった時、
妊婦検診でアロママッサージを受けた。
何度も通った。
普通のマッサージは、服の上からやる。
でも、オイルマッサージは、素手で素肌に触れられていく。
この違いは、「衝撃的」だった。
そしてこれが、
AZさんの「ターニングポイント」になった。
すなわち、施術を受けながら
「こんな気持ちいいことをできる人になりたい」
という願いが心に兆したのだ。
しかし。
AZさんにはある一つのハードルがあった。
このハードルが、同時に、
この「ターニングポイント」の動力にもなっていた。
不思議なことだが、そうなのだ。
つまり。
AZさんは、人の体に触れるということに、
ある種の恐怖心を持っていたのである。
人に触れられることも、あまり得意ではなかった。
AZさんが子供の頃、ご両親は共働きで、
彼女は一人静かに本を読んでいることが多かった。
お母さんはあまり愛情を表現するタイプの方ではなかったらしい。
お父さんとの関係は、もっと深刻だった。
AZさんのお父さんは、彼女に暴力を加えた。
しかしそれは、殴る蹴るの暴力ではなかった。
父の暴力は、どう見積もっても、到底許されない暴力、
静かな、それも深すぎるダメージを与える暴力でした。
母の目を盗んで、夜中眠りこけている私の部屋に忍び込む、
というやつです。
そんな現実はまだほんの子供だった私にとって到底、
受け入れがたいものでした。
なので、物語の世界に逃げたんですね、きっと。
母に打ち明けたのも、何年か経ってからです。
小5くらいのときかな。意を決して。
母もそのことで被害者となり、悲しい思いをする、
ということが、わかっていたからです。
だけど、意を決して打ち明けた割には
母は子どもを本当の意味で守る力を持ち合わせていませんでした。
これは悲しいけど、確かな事実です。
「守られている」という感覚がないんです。
この、お父様についてのお話は、実は、
インタビューの中ででてきたものではなかった。
私がこの原稿を書き上げて、それをAZさんにチェックしていただく、
その何度かのやりとりの中で、
不意に、打ち明けていただいたことだった。
稿にこれを入れるかどうか、迷った。
でも、AZさんは、
この原稿を読むうち、事実と違うことが文字になることに違和感を感じた
と言った。
AZさんは、アロマの学校に通い始めた。
2人の幼い子供がいて、
学費のために仕事もするようになった。
学校は自宅からかなり遠い場所にあり、
電車で片道1時間以上かかるのだった。
その大変さは容易に想像できる。
AZさんは電車の中で何度も
「何でこんな大変な思いまでして通ってるんだろう」
と自問した。
そんなある日、ふと、
この通学電車の中で、AZさんは気がついた。
つまり。
「私は、本当は、人にさわりたいんだ」
という、このことである。
素手で素肌に触れられることへの強い恐怖心には
子供の頃のあの体験が、大きく影響しています。
悪意、というか、まったく自分本位な欲求で触れられていたあのとき、
私は、その悪意を、体全体で受け止め続けていたのかもしれません。
だからこそ、助産院でオイルマッサージを受けたとき、
施術する人の善意の思いが、
手を通して自分の体に深く伝わってきたのを感じ取って、
衝撃を受けたんだと思います。
マッサージを受けた助産院で初めて、
「守られている」という感覚を味わったんです。
人に触られ続けることで恐怖心を乗り越えたんだと思います。
マッサージには何度も通いました、
ほんとに、何度も何度も、です。
自分から通っているのに、
触られたくないなー、と思いながら、ベッドにあがる、
という日もありました。
学校から帰る電車の中で、
私は本当は、母親にさわってほしかったんだ、
さわる、というか、くるんでほしかったんだ、と突然、気がついて
電車の中で本当に、はっとしました。
子供は、体験するほとんどあらゆることを
「そういうものだ」と受け入れ、耐えることができる。
子供は考えられないほどたくさんのことをあきらめることができる。
他の子供が当然のように期待して叶えられるささやかなことを
その子は、禅僧のように潔くあきらめて受け入れてしまうことができる。
でも、そんなとき、その子の心の中を
慢性的にいっぱいに満たしているあの「心細さ」は、
切ないほどにいたいけで、華奢だ。
大人に守ってもらえない状態に置かれたとき、
子供が味わう「心細さ」は、
大人の想像を遙かに超える。
AZさんの「守られない」という心細さが
「くるんでほしかったんだ」という言葉の中に
深刻に浮き上がって見えた。
AZさんのような深刻な体験があったわけではないが、
かくいう私も、人に触れたり触れられたりすることは、
どこか、怖い。
不快だというのではなく、緊張するのだ。
たとえば、私は、
自分でも自分の足の裏に容易に触れないほど、くすぐったがりやだ。
寝る時、タオルケットのへりが首のところへくる、
それがくすぐったくて笑って眠れなくなることがある。
この、くすぐったい、という感覚も、
触れられることへの繋がっているような気がする。
たとえば、美容院でシャンプーしてもらうときなど
人によってはくすぐったいと感じる。
さわり方とか、心理的な状態とか、何らかの「人」に対する緊張感と
「くすぐったさ」がつながっているのだろう。
私の、そんな、接触するときの緊張感は、おそらく、
嫌悪されたり拒否されたりした経験に基づいているような気がする。
だから多分、私の緊張感と、AZさんの恐怖感は、同じものではない。
でも、人に触れることへのある種の抵抗感は
なんとなく想像できた。
学校では、実際に学生同士がマッサージをうける時間もあった。
そこで、AZさんは人に体を預ける練習をした。
これは重大な体験だった。
だが、助産院でのマッサージや、この学校での練習の体験などを経て、
AZさんは、自分がマッサージしてもらうこと、
すなわち、触ってもらうことが、好きになった。
乗り越えて、その先へ向かったのだ。
大変な環境の中、課程を終え、
AZさんはみごと、資格を取得し、開業した。
しかし、開業はしたものの、
「全身トリートメントしかできない」自分に自信が持てず、
自宅にお客さんを呼ぶのを止めていた時期があった。
迷っていたAZさんに、友人があるセラピーサロンを紹介してくれた。
その人はエステの経験がある人でした、
その人のさわり方は、なんというか、パンパンさわっていくんですね。
それは違和感があったんです。
そのとき、
私は人にやさしく触れたい、
守りたい、というか、くるみたい、
その時間だけはその人を守りたい、と思いました。
その人を取り囲むいろんなことから、その時間だけは
理由もなく保護したい、と思ったんです。
物質的にその人の身体をどうこうしたい、のではなく
もっと本質的な部分でその人を見据えたい、関わりたい、
そう思っていることに気づいた、大きな経験でした。
仕事の中で、私は、
自分が子供の頃からそうありたかったことを再現していると思います。
それだからか、やっている時の方が気持ちが良いんです。
でも最初の頃は、
自分がやって欲しかったことを人にしてあげよう、なんて
単なるエゴじゃないかと思ったりもしました。
そんなとき、ある方が
私のマッサージの感想をおっしゃったんです。
それは
こんなに大事にされたことがない、
こんなに大切にさわってもらったことはないです、
という言葉でした。
それで、
エゴだけじゃない、
ちゃんと自分の手で渡せているものがあるんだ、
という自信が持てるようになりました。
守る。くるむ。
この言葉はAZさんのお話の中で
なんどもなんども繰り返された。
守られず、傷つけられた。
どうにかして、守られたかった。
でもやっぱり、守られなかった。
このことからくる、接触への恐怖感は、
彼女自身の手でくるりと裏返されて、
接触することを仕事に選ぶことになった。
守られたい、守られない、だから拒否する、
という構造だったのが、一転して
守られたかった、だから守ってあげようと思った、となった。
真正面からぶつかって、自分のものにしてしまった。
こんな不思議なことができるのか。
たとえば、歯医者の治療が怖くて、歯痛をガマンしてしまうことがある。
麻酔なしで外科手術を受けることなど、想像もしたくない。
傷によってはそんなふうに
自分でさえそこに手を触れえない、という場合も多々ある。
無意識にひたすらそこをかばってしまって、
触れられないままにずっとそのまま痛み続ける、ということもある。
AZさんのように強く傷害された場合、
そこに触れることもできない傷、というふうになっても
おかしくない、と私には思えた。
でも彼女はそうならなかった。
客観的にどのくらいひどい目にあったか、ということと
その人の内面にどれだけの痛みが生じ、変動が起こったか、ということは
全く別のことだ。
同じ言葉を投げつけられても、
まったく平気な人もいれば、立ち直れないくらい深く害される人もいる。
同じような傷を負っても
それが原因で死ぬ人もいれば生き残る人もいる。
体質や生まれ持った体力みたいなものには個人差がある。
だけど、それだけなんだろうか。
体の傷なら、だれだって治したいと思う。
でも、胸の中に刻まれた傷は
それを手放したくない、と思えることがある。
傷を負っていて、それが痛むにもかかわらず、
その傷を失うのがいやだ、と思えることがあるのだ。
それは、
その傷が入れ墨のような機能を果たしているからかもしれないし
ある場合には、傷が勲章や正当な弁解となるからかもしれない。
あるいは、
その傷が、理不尽にそれを負わされたことへの怒りと一体になっていて
この怒りが、傷が消えることを禁止しているから、かもしれない。
いずれにせよ、彼女は、
この、傷の二次災害のようなものも、負わなかった。
薬の副作用も、体質によって出る人と出ない人がいる。
持って生まれた強さ、と言ってしまえばそれまでだ。
だけど、それだけなんだろうか。
どうも、それだけじゃない、という気がした。
傷は、理不尽に負わされる。
そして、その傷を自ら引き受けてそれに取り組むことは、
大きな危険を伴う。
傷はその人の人生に様々な問題を生み出すし
その人を取り巻く人を苦しめてしまうこともあるけれど
でも、その傷を引き受けたり取り組んだりしないことは、悪ではない。
それに取り組んだことで
もっと大きな悲劇を生み出してしまうこともあるのだ。
傷を負ったことはその人の責任ではないし
その傷にとりくめないことを、誰も責めたりできない。
傷に取り組むことが「善」ということにはならない。
傷の中に住まわされてしまうこともあるし
傷で縛られてしまうこともある。
その傷を失ったとき、立てなくなることもある。
だが、その一方で
彼女のように、その危険地帯を通り抜けて
その先に自ら、進んで行く人もいる。
私は自分が傷ついているとはあまり思わない。
でも、かつて、ある人に、
君は傷ついてるね、と言われたことがある。
別に泣き叫んだりしてそう言われたわけではなく
全く普通に雑談していてそう言われたので、びっくりした。
この「インタビュー」シリーズにおいて何度も、
私はそのことを思い出した。
それは、痛いところをつかれたとか、何か言われて傷ついたとかではなく
肯定的なものや美しいもの、強いものがお話の中にあらわれたとき
私は、驚いたのだ。
驚きとは、
それが自分の中のどこを探しても見つからない、ということを意味する。
どうしてそれを信じることが出来るのだろう、とか
どうしてそれを肯定することが出来るのだろう、とか、
そういうふうに、何度も立ち止まった。
そして、ふてくされたみたいに、そこから動きたくなかった。
もし私が、知人たちの言葉通り、
なんらかの傷を負っているのだとしたら
私は多分、傷の中に住んでいたいのかもしれない、と思った。
それは、たまらなく幼稚なことのように思われた。
でも、それをやめよう、という発想は、
私の中からどうしても、でてこなかった。
あいかわらずわだかまって、そこでうごきたくないままだった。
AZさんへのインタビューの中でも
何度もその、どうしてだろう、という驚きを感じた。
私にはない、
この人の、この無垢なる強さは、一体、どこからくるのだろう、と。
--------
以下、第二章に続く。↓
