全体主義としての教育の論理

拙著『いじめと現代社会』(双風舎、2007年)pp.114-119  (初出 『図書新聞』2006年5月20日

全体主義としての教育の論理

1991年7月28日、瀬戸内海の小佐木島にある「風の子学園」で、坂井幸夫園長が、少年と少女を手錠でつないでコンテナに監禁し、熱中症で死亡させた。「風の子学園」は坂井が「スパルタ教育」で不登校や情緒障害児を直すと称して設立した教育施設だった。
 2006年4月18日、ひきこもり更正施設のNPO法人アイ・メンタルスクールで、入寮者の男性が外傷性ショックにより死亡し、杉浦昌子代表理事とグループ数人が逮捕監禁致死容疑で逮捕され、書類送検された。報道によればアイ・メンタルスクールは母親の要請により、何も知らされずに寝ていた男性を強制的にワゴン車に乗せ、社内で手足に手錠をかけて施設に監禁した。殺された男性は10人の大部屋で共同生活をすることを強いられ、おむつを着けられたまま鎖につながれていた。
 杉浦代表理事が同じく代表を務める同名の有限会社(アイ・メンタルスクール)が運営する寮の寮費とカウンセリング代は月13万円程度。「働かざる者は食うべからず」と指導し、「深夜までアルバイトをさせられる」といった苦情も、入寮経験者や親から出ていた。杉浦代表理事は、市民団体の会合で「鉄工所で働いたり、チラシ配りをしたりして、社会復帰をした人もいる。引きこもりは甘え、怠けの結果。しごいてやらないと治らない」などと話していたという。杉浦代表理事は、手錠などを使って引きこもりの若者らを施設に強制的に連れてくることを「拉致する」と呼んでいた。死亡した男性以外に、すくなくとも数人が鎖につながれていたことも判明した。入寮者の年齢構成は、10代から40代までであった(新聞各紙より)。
 このたぐいの最悪の情熱と行動様式は、これまでは学校で猛威をふるったが、いつのまにかNPOや社会運動へと転移していく。
 通常ならば適度な距離感覚に隔てられることによって起こるはずもない、侵入と暴力と強制的ないじくりまわしが、望ましい社会的な生き方へと他人を「人間解放」するという理想のもとで暴走する。よい社会的な生き方の理想は、それが人間存在の根底に到達するほどの深度を持てば持つほど、それが他者に強制されるときの厄災も大きい。
 このようなNPOや社会運動に血道を上げる者には、社会のなかで人が関係を生き生かされる本来的に望ましい生について、一家言をぶちあげるのが好きで好きでたまらない人たちが多い。そしてしばしば、それを最弱者とでもいうべき他人に強制する。最弱の他者たちは、その内から自己の理想を具現(具体的に実現)する肉塊となる。つまり蜂が芋虫に卵を産んで、その生の内側から自己を再生産するように、欲情した教育の怪物たちは「社会的不適」の印を押された者たちに侵入し、その他者の生の内側から、自分がそうでありたかった誇大な自己(パワーに満ちたNPO教育実践家)になり続ける。
 全体主義とは、単なる個に対する全体の圧倒的優位にとどまらず、網の目の細かい、人間存在の深部のところからの無理強いの教育によって社会が覆いつくされた情態である。バーリンはその『自由論』(みすず書房)で、ボルシェビキの指導者ブハーリンによる次のような言葉を引用する。
 「たとえいかに逆説的に聞こえようと、プロレタリア的強制はーー死刑執行から強制労働にいたるそのあらゆる形態においてーー資本主義期の人間という材料から共産主義的な人間[性]をつくりだす方法なのだ」。
 こういった網の目の細かい強制=教育によって人間存在の深部から他人をつくりかえずにはおられない全体主義の原型を、みごとに描いたのは若きマルクスであった。つまり、人間が人間として成立する生成の現場において、疎外=よそよそしく距離に隔てられてあることを許さない社会構想である。若いマルクスジョン・レノンのように歌う。

 「…人間は、まさに対象的世界の加工において、はじめて現実的に一つの類的存在として確認されることになる。この生産が人間の制作活動的な類生活なのである。この生産を通じて自然は、人間の制作物および人間の現実性として現れる。それゆえ労働の対象は、人間の類生活の対象化である。というのは、人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直感するからである。それゆれ、疎外された労働は、人間から彼の生産の対象を奪いとることによって、人間から彼の類生活を、彼の現実的な類的対象を奪いとる。」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫

 マルクスによれば、人間は不断に自然を加工しながら生産活動を生きるが、その活動は?共同的活動であると同時に、?当の共同性自体の生産であり、かつ?共同的活動における関係の結節点としての自己や他者(人間)の生産である。さらにそれは、?生産活動によって人間的に刻印づけられた人間的自然(そして自然的人間)の生産であり、?そのような生産の連鎖のループにおいて人間的と非人間的を分ける(いわば膜としての)人間本質=類的存在の生産でもある。この「膜=類的存在」が次の時点の生産の連鎖を誘導し、この生産の連鎖がさらに「膜=類的存在」の生産となるであろう(この生産の自己産出的ループはオートポイエーシスに近い)。
 これは、いわれてみれば、あたりまえのことである。どんな人間も、例外なく、このようなループを生きている。それは「よい・わるい」の次元ではない。人間に限らず、チンパンジーもこの程度の基本構造を生きているだろう。濃密に響きあっているときも、よそよそしく抽象的な擬制を生きているときも、よい人の上にも、悪い人の上にも、労働や生産の概念を拡大解釈して描いた人間のオートポイエーシス的な基本構造は降ってくる。
 しかし、このような人間存在のもっとも深部にある生成のループの地点に、若きマルクスは「こうあらねばならぬ」本来的な社会と人間の姿を導入する。
 つまり、抽象的な擬制による、よそよそしい距離を許さないのである。このような距離が上記ループの構成要素となるやいなや、マルクスは、それを類的存在の毀損と考える。つまり、人間的自然=自然的人間への働きかけ(労働)は、対象化された後にかならず「我がもの」として自己自身を直感できるように帰結しなければならない。人間としての人間は、このような人間でなければならず、社会はこのように革命されなければならない。
 この地点から、さきほどあげたブハーリンの発言や、さきの教育の怪物の地点までは、一直線である。
 人間は類的な諸関係の結節点なのであるから、その類的な存在に特定の価値が導入されるなら、その本来性に反した個に対しては、(本来の姿に引きもどすための更正としてならば)何をしてもよいことになる。
 また教育の怪物たちは、制作活動において自己を二重化し、教育的な働きかけによって生産された他者=「更正しつつあるひきこもり者」の内側から、自分がそうでありたかった、人間を根本から変えるパワーに満ちたNPO教育実践家を直感する。
 もし他者が望ましい類的存在でないとしたら、それは人間の疎外態であって、本来の人間ではない。そういう疎外態は、「消極的な自由」にとどまらない「積極的な自由」(注…消極的自由と積極的自由に関しては前掲『自由論』を参照)のためにも、「しごいてやらないと治らない」。これが疎外を許さない、全体主義としての教育の論理である。
 もちろん、他者とは、自己の働きかけに対して本来かくあるべきと直感する(直感したい)「類的」な自己像を与えてくれるとは限らない存在である。他者はおとなしく自己を二重化する鏡像におさまってくれるとは限らない。ときに、NPO教育実践家の手前勝手な創作活動によって創造された、疎外なきはずの世界のなかで自己自身を直感する刹那をすりぬけて、いわば自己未生の地点から自己を攪乱しているかもしれない存在(=他者)である。
 さて、アイ・メンタルスクールの場合は都市のなかでの賃労働を強いる集団生活であったが、エーエムルクスが描いたような「本来の人間的本質」を他人に強いてでも回復させようとする全体主義的情熱は、なぜか不払いの農本主義的な集団労働に向かうことが多い。
 「これはあなたにとってよいことなのですよ。あなたは隔てなくみんなであり、みんなは隔てなくあなたであり、みんなもあなたも美しい人間的自然のなかで汗を流す自然的人間なのですよ」、との美しい理想に酔う教育の獣たちは、不払いで強いられる労働が奴隷労働であることをきれいに忘れる。いや、むしろ「貨幣は人間の労働と存在が人間から疎外されたものであって、この疎外されたものが人間を支配し、人間はこれを崇拝する」(マルクスユダヤ人問題によせて」、『マルクスエンゲルス全集』第一巻、大月書店)であるから、不払い労働のなかにこそ、貨幣に汚されない(疎外されない)純粋性を見いだすだろう。
 と同時に、教育奴隷労働によって、ちゃっかりと人件費を浮かせたり、収益を得たりできるかもしれない。こういった団体がしばしば外部との通信を制限するのは、「人間的本質」を外部の汚れから守るためでもあり、かつ、「人間牧場」のあこぎな商売を守るためでもあろう。こういうところでも(こういうところだからこそ)、あくどい仕方で「利害が決定し理念が転轍(てんてつ)する」(ウェーバー『宗教社会学論選』みすず書房)のが人の世である。
 教育の獣たちは、「これは強制ではない」というかもしれない。一見強制のように見えても、真の人間的本質に向かう運動は、単なる「消極的自由」を超えた「積極的自由」の発露であるというわけだ。バーリンはこの「積極的自由」の危うさを訴えた(前掲『自由論』)。
 生の深いところで響きあって生きる領域は、けっしてルールとして強制してはならない。ルールとして強制してよいのは、共存のためのルールに関わる表層的な外形部分だけである。
 その意味で、共存のためのルールは乾いてスカスカなものである方がよい。つまり抽象的なものに対するフェテシズムとしての共存の枠組への適当(スカスカ)なコミットが必要になる。それは、一人ひとりにとって「本当に生々しくたいせつなもの」たちが共存できるための、それ自体「本当にたいせつ」ではないスカスカなものが各人の「本当にたいせつ」なものたちの上位に位置するーーこのような「転倒した」抽象的な擬制への、ほどほどのコミットである。強制してよいのは、そのようなスカスカのルールだけであるからこそ、多種多様な切実な生たちの平和共存が保たれ、最低限の強制は耐えやすいものになる。
 愛国心や「日本的な生き方」が国家によってルールにされようとしているいま、イエスのように叫ぶ必要がある。シーザーのものはシーザーに、神のものは神に、と。

                     (2006年5月20日

これは、私の反共主義宣言でもある。
右翼も共産主義に含まれる。

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

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経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

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