「キャラクターが立った」という瞬間には二通りのケースがある
『テヅカ・イズ・デッド』の「キャラ/キャラクター」概念の自己流解釈を少しずつ深めている最中なのですが、その過程でちょっと思い立ったのは、受け手側が「キャラクターが立った!」と感じる瞬間には二種類あるのではないか、ということです。
以下、些細な話なのであんまり面白くない説明ですが。
そのひとつというのは、
「(脳内で)キャラクターが立った!」
であり、もうひとつは
「(作品世界の中で)キャラクターが立った!」
このふたつです。これらはそれぞれ異なる快感や興奮を受け手側にもたらすものであって、ちょっと分けて考えてみるのも良さそうなんですね。
具体的にどう違うかというと、
脳内
- キャラクターの名前、外見、性格、能力、背景、口調などの設定を知ることによって、明確なイメージが脳裏に浮かぶ状態
- キャラクター紹介の説明文を読むだけで「立つ」こともあれば、作品に触れながら「立っていく」こともある(普通は後者の方が多い)
- 例えばキャラクター紹介に「盲目で、両腕と両脚が義肢になっている。でもめっちゃ強い。とか大仰なことが書かれていれば、誰だって頭の中にモワモワーンとしたものが思い浮かぶだろうが、そんな状態も含む
- 受け手側はこの「脳内キャラクター」を手探りすることで、キャラクターの行動心理やストーリーに対する「先読み」を行い、作品を楽しもうとする
- 極端に激しい場合は「そのキャラクターが頭の中に焼き付いて離れない」「脳内で勝手に動いてしまう」という報告が見受けられる
- 作者側の脳内にも、当然この「脳内キャラクター」が息づいている
- 二次創作の源泉にもなる
- というか脳内恋愛はこの状態でやる
- 二次創作の元になるという意味では「キャラ」なのかもしれないが、「“頭の中”という別メディアの中に描かれた“キャラクター”」という見方でもいいかもしれない
- つまり、受け手側にインプットされた「キャラ」が「キャラクター」として別世界にアウトプットされる寸前の、インスピレーションが煮立った状態を指すのかもしれない
作品世界
- そのキャラクターが作品の舞台と調和した瞬間
- その他の登場人物や組織、時系列などの中において、明確な立ち位置を与えられた瞬間
- 「人間関係がぐっと広まった」「人物像の奥行きが増した」「この話でやることが決まった」「もうキャラ設定の路線変更はきかないぞ」などと言われる状態
- 全体の整合性や、各要素との「有機的な繋がりの妙」が重視される
- そうやって「舞台に立った」キャラクターのイメージや印象は、当然「頭の中のキャラクター」にも影響を与える
こんな感じに分けていいと思います。
確かに我々は、どちらの状態の時でも「キャラクターが立った!」と感じていたんじゃないかと思うんですが、実感としてはどんなもんでしょうか。
小池一夫作品で喩えたら、「乳母車を押して旅するめっちゃ強い復讐の剣客(『子連れ狼』)」なんてのは、キャラクター紹介と絵面だけでも脳内にイメージが焼き付くケースでしょう。
逆に、「なんやかんや因縁が色々あってチャイニーズマフィアのボスとして愛する人と共に頑張っていく覚悟を決めた日本人暗殺者(『クライングフリーマン』)」とかだと、作品世界の舞台に立った、というケースでしょう。
こう並べてみると、「キャラ/キャラクター」の境目が曖昧になって、その中間点のようなものが見えてくるような気もします。
付け加えれば、キャラクター単体では「脳内に焼き付」きにくくても、カップリング(キャラクターのセット)としてなら焼き付きやすい、というケースも珍しくなくて、細かく見比べていくと興味深いものです。
例えば『NANA』なんかは「キャラは弱い*1が、キャラクターは立っている*2」タイプの作品の例として良く持ち出されます。でも確かにナナとハチというキャラクター単体では「弱い」としても、いわんやカップリングとしては断然「強い」ような気もするわけです。
そういえば『子連れ狼』にしたって「拝一刀と大五郎のカップリング」であって、一刀単体だとイメージを浮かばせにくいですしね。
参考:はてなダイアリー - キャラ/キャラクターとは
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