三人称の不思議
三軒茶屋のアイヨシさんからトラバを頂きました。先日書いた、「神の視点」に関するメモに対する話です。
三人称視点の語り手は誰? - 三軒茶屋 別館
個人的にとても気になるテーマだったのでちょっと考えてみることにしました。とは言っても、小説限定で、しかもミステリ読み的な観点からですけどね。
最近漫画ばかり読んでいて漫画脳なので、本読みサイドの方からの意見をもらえるのは嬉しいです。
というわけで折角なので、この「神の視点=三人称」の問題についてもう少し持論を展開させてみようと思います。
間違い指摘などありましたらどうぞ宜しくです。
一人称体と三人称体、そして……?
小説の「文体」には、一人称体と三人称体の二種類があると言われています。これは、視点の置き方によって、もっと細かく分類したり派生させたりすることができると思います。
小説の作法として、これといって決まった名称が付けられているわけではないみたいですが、小説書き/小説読みの人なら自然に違いを理解しているであろう文体のスタイルが……、
- 一人称複数体
- 一人称寄り三人称体
- 一人称複数寄り三人称体
……このみっつですね。
「一人称複数体」は、章ごとや小見出しごとに一人称が変わるタイプですね。「私は〜」から「僕は〜」に移ったりする。
つまり、語り手が複数存在することになるわけです(ただし、複数の語り手が一斉に語ったりはしない)。
佐藤友哉の『水没ピアノ』なんかがそういう構成でした。
「一人称寄り三人称体」は、記述自体は客観的な神の視点なんだけど、その地の文章が明らかに特定のキャラクター(主人公ないし傍観者)の視点に寄っているタイプ。
「私は〜」ではなくあくまで「彼は/彼女は/○○は」という三人称で記述する代わりに、そのキャラクターが認識している範囲を中心にして描写し、心情描写もそのキャラクター本人のものだけに留めるようなスタイルです。
一人称体とあまり変わらないとも言えますが、基本的には三人称体なので「そのキャラクターの知らないことや気付いていないこと」も記述できるという利点があります。
実は『マリア様がみてる』の文体もこれです。
「一人称複数寄り三人称体」は、客観視点な上に、寄るべきキャラクターが複数存在するタイプ。
視点変更が頻繁にあると読者が混乱するので、よっぽどの意図が無ければやらない方がいい、と小説家に釘を刺しておくことが多いスタイルだと思います。
ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』がそうなんですが、本当に混乱するので読むのが大変です(参考として読み始めたはいいけどなかなか進まない)。
漫画や映画における「視点」の存在
以上は小説の作法の問題ですが、次にそれを映像作品にあてはめて考えてみます。
ぼくが目下、意識して答えを出そうとしている問題はこちらの方だったりします。
えー、「神の視点」「○○視点」というのは、漫画や映画でも日常的に用いられる言葉です。映像作品にも、「視点」はあるということです。ではそれはどう分類できるのか?
ただ、歴史的に言って「完全に一人称的な映画」を撮ることは不可能だと言われていて、それは漫画でもおそらく同様でしょう。多分、完全に一人称的と呼べる漫画は、漫画家自身の「エッセイ漫画」や「絵日記漫画」に限られると思います。*1
なので自然と、漫画や映画の視点は「三人称体」から派生することになると思います。
すなわち、完全三人称体、一人称寄り三人称体、一人称複数寄り三人称体、のみっつが想定できるわけですね。
完全三人称体、というのは写実的な青年漫画に多いと思います。どのキャラクターも俯瞰的に描いて、特に感情的に入れ込まないスタイル。
一人称寄り三人称体は、少女漫画の短編などに多いスタイルで、一人のキャラクターの視点から物語を綴ったものですね。主人公(ヒロイン)のモノローグが中心で、それ以外のキャラクターは客体化されて描かれます。
そして興味深いのは、漫画において最もポピュラーだと思われるスタイルが、(小説では珍しい筈の)「一人称複数寄り三人称体」である、というその実態です。
同じコマの中で、内語を表す「あぶくフキダシ」が複数浮かんでいるシーンなどは、漫画では珍しくないでしょう?
また、同じページの中で(章や話数ごとにではなく)突然視点が切り替わることも珍しくはありませんし、その視点切り替えによって読者が混乱するということも起こりにくい*2ですから、漫画という形式が「一人称複数寄り三人称体」の表現に向いているのは間違いないと思われます。今は、殆どの漫画が当たり前のようにそういうスタイルで描かれている筈です。
漫画という形式が「一人称複数寄り三人称体」の表現に向いている……というのは非常に奥の深い問題を内に隠しているのではないか、と色々考えを深めている所だったりします。*3
酒見賢一『語り手の事情』
三人称視点の語り手は誰? - 三軒茶屋 別館
少々脇道にそれますが、物語の語り手という問題について考えるときに頭を離れないのが、酒見賢一『語り手の事情』です。
というわけでこちらも参考用に読んでみたのですが、面白いですね。
ぼくの解釈だと、この「語り手」は「一人称化した三人称」? わざとややこしく言えば「一人称複数寄り三人称寄り一人称体」といった所なのですが、逆に柔らかく言うなら「擬人化された三人称体」だと思います。
三人称体の語り手が持つ筈の能力(他人の視点に潜り込む、その時代に存在しない知識を説明できるなど)は一通り与えられているのに、それが何故か肉体を持つキャラクターとして登場する、という世界観におかしみがあるわけですね。
「ハノーヴァー様、固定するのはその場所ではありません。もう少し上にずらして。そこでは膀胱に重なってしまいます」
「そうか、では上げよう。しかし貴女には見えているのかね。私が私の中に想像している子宮が?」
「見えているのではありません。語っているのです」
「不思議な言い方をする。このあたりでいいかな?」
ハノーヴァー氏は想像上の女性内性器を恥骨と仙骨の中間、やや上のあたりに定めました。
と言いました。次の瞬間には語り手の視点は急速に移動してチッタの中に入っておりました。チッタの目からは私自身が部屋の隅にじっと立っているのが見えますし、また、ルーである自分の存在感も同時にあるのです。むろんルーと私は別に存在しているのですが。
- 他のキャラクターの内面に「視点を移動させて潜り込む」語り手の様子が描写された異様なシーン
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- あと付け加えるなら、エロ小説というかクーデレ萌え小説としても一級品であることは指摘せずにはいられない作品でしょう