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Fri 2013.08/30

「主人公の特徴だけで作品を特徴付けたつもりになれる言葉」の過ちと罠

| 「主人公の特徴だけで作品を特徴付けたつもりになれる言葉」の過ちと罠を含むブックマーク

 先日、TwitterでこうしたポストがRTされてきたので、それについての話を少し。


 このインタビューというのが別に漫画評論の話ということはなさそうだし、引用しながら「ジャンプ読んでないからよくわからない」と書いていますから、この発言主に思うことは特にありません。


 問題は、これが800人以上の人にRTされるほど反響があり、肯定と批判のいずれかにせよ、「根本的な疑問」までは出ていないように思えたことでした。


ジャンプ漫画キーワードと「負の神格化

 まずジャンプ編集方針という意味なら、元編集長西村繁男さんは「最低どれかの要素を入れること」を伝えています。


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 それがいつの間にか忘れられて「全部揃っているのが当たり前」と歪んで伝わり、負の神格化がされているのが問題を作っている原因のひとつ。今の連載作品も、どれか一個は入っていることでしょう。


 つまり一作品のなかでキーワードを網羅する必要はなくて、『週刊少年ジャンプ』という「雑誌の誌面」のなかでキーワードが網羅されることが望まれているわけ。


 ちなみに、このキーワード起源ジャンプではないんですね。

 ジャンプ初代編集長である長野規さんが『少年ブック』の編集長だった際の編集方針(この当時も「漫画づくり」ではなく「雑誌づくり」の方針だったことに注意)であり、ジャンプはそれを強力に継承した、とされています。


 一番心あたたまることは‥‥友情

 一番大切に思うことは‥‥努力

 一番嬉しいことは‥‥勝利

 この三つの言葉が突出して現れたのである。

 長野は、この三つの言葉を『少年ブック』の編集方針にすえた。

西村繁男『さらば わが青春の『少年ジャンプ』』第一章 苦難の月刊誌時代


 また西村さんは「この三つの言葉意味する要素を必ず入れる、三つ全部入らなくても、一要素はなんとしても入れる」と編集方針を要約しており、キーワードをそのまま込めよとは教えていないことも窺えます。

 キーワード連想させる「要素」、最終的にキーワードに繋がる要素を表現すればいいのであって……。また、その幅広さがなければキーワードは「束縛」に変わり、呪われた「負の編集方針」へと陥るのは想像に難くないことです。


 だから原理的に考えてみても、「友情・努力・勝利のキーワード編集方針とする」というスローガンは、はじめから「そのキーワードに繋がる要素をいかに幅広く表現するか」という戦いだったとも言えるでしょう。


才能は「ある/ない」で語れない

 どんな人間だろうと「才能を探す」「才能が見つかりやすい場所を探す」ことで日々を乗り切れるものだと自分は思います。

 してみれば「あらゆる才能のない少年」というのは、よほどの恵まれない子どもだと言っていい。少なくとも「平凡な少年」「どこにでもいる普通少年」といった穏やかな概念でくくれるような存在ではないでしょう。


 そして、才能ある主人公への反動なのでしょうが「才能がない主人公」を求めようとする心理もまた異常です。

(先のポストへの反響としては、そうした「才能のない主人公だって描くべきだろう」という不満の声が多く含まれていた気がしました。)


 さて、偏差値で測れるような才能の「低さ」を「才能がない」と呼ぶのなら、偏差値が高くなるように「世界を狭くしてもいい」のが漫画です。

 例えば「今・ここ」で自分にしかできないことがあれば、どれだけショボくてもそれは「その時・その場所でかぎり最強と呼んで差し支えのない」主人公資質となりますし、逆に「その程度の才能」を大袈裟世界最強っぽく誇張するのも少年漫画です。


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 少年漫画ではなく児童文学ですが、アーシュラ・K・ル=グウィンの『影との戦い』はだから、「最も偉大な魔法の力を持つ」とされるティーンエイジ少年を主役に据えつつも、そこで展開するのは


自分の才能の使い所を誤ることで、恐るべき影を作り出してしまい、長く暗いトンネルをくぐり抜けなければならない」


……という、誰であれ「自分にも起こるかもしれない話」として読むことのできるだろう、普遍的テーマお話です。

 つまり『影との戦い』の主人公ゲドは、「世界最強に近いキャラクター」であると同時に、「今・ここという狭い世界では自分にしかできないことを与えられた私たち」の映し鏡として機能し、またそう読まれるように期待して書かれているのです。


「作品の主題」→「主人公の勝ち方」という錯誤

 だから少年漫画主人公に比べれば格段に弱いけど、今・そこでは、その少年にしかできない小さな戦いがある」という脇役の活躍が描かれると、みんな燃えるでしょう。

 あれは、そういうことなんです。

 「世界で一番強いキャラ活躍」と「今・そこでだけ一番強いキャラ活躍」は少年漫画では同質のものなんです。


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  • 具体例は言わず語りですが

 脇役の少年キャラが、悪役の前で「お前は、お前がちっぽけな存在だと思って眼中にも入れてなかった僕なんかによって負けるんだ……」みたいなセリフを吐きながら勝機を掴み取ると、うおー少年漫画だーってテンション上がりますよね。

 そして、そんな少年キャラが「作品の主人公」である必要はありませんし、それでいて読者は「名場面のひとつだ」と思ってシッカリ記憶する。


 このように「脇役の活躍」が少年漫画クライマックスを担うことを思えば、「運・血筋・才能」という言葉が実は主人公の強さや勝ち方だけをキーワードピックアップしている」という誤りにも気付けると思います。


 何が悪いかをひとことで言えば、「友情・努力・勝利」と「主人公の強さ/勝ち方」はどこにも条件としての互換がない! ということです。


 先のポストの内容が、騙そうとしているのはそこです。


 友情・努力・勝利は、筆頭の「友情」からして「複数のキャラクターに跨るストーリー要素」ですし、努力はどのキャラクターが行ったとしても作品のテーマに繋がり、勝利はみんなで勝ち取り、喜びを分かち合えるものです。


 つまり先のポストは、「作品の主題」を方向付けようとするジャンプ編集方針を、しれっとした顔で「主人公の特徴」レベルにすり替え詐術を行っているんです。

 これに騙されてしまうと、話になりません。


 元ジャンプ編集長西村さんは先述の自著で「すべての漫画の主題は、この三つの言葉意味する要素を必ず入れる」と記しています。


 「運・血筋・才能」などの言葉を並べて印象付けようとしているのが主人公の勝つ理由」だということは透けて見えるでしょう。

 そういうことなら、運も血筋も才能も「勝利」に繋がる要素を細分化しただけであって、「漫画の主題」に関わるようなことは何ひとつ挙げていない、ということも解るはずです。

(そもそも、勝ち負けや優劣にこだわった言葉ばかり列挙している時点で、「勝利」の要素を強烈に意識していることを語るに落ちているようなものですが。)


 友情・努力・勝利は「作品の主題を意味するキーワードであって、「主人公の特徴」とは全然別のものです。

 「ジャンプ編集方針の変化」を語る(騙る)のであれば、互換する条件のキーワードを挙げるべきでしょう。ジャンプ漫画を論じたいのならば最低限の話としてです。


 主人公の特徴を並べただけで「編集方針」とするのなら、「ジャンプ編集方針は男・子供人間シフトしている」とでも言うのも同然のことであり、運も血筋も才能も伝統的に散見可能な特徴でしかなく、何も言っていないに等しいとさえ言えます。


 そこに疑問を覚えず、騙されて受け入れてしまうこと。それが「言葉の罠」なんです。


主人公の特徴を挙げるだけで作品を語ったつもりになれる言葉

 冒頭のポストにかぎらず、「あたかも物語とは主人公活躍しか描かないものだと思っている」ような批評感想は、以前から多く見掛けてきました。

 それは「キャラクターが一人ではお話なんか作れない」というお話の基本を激しく軽んじた考え方のようで、残念な論じられ方です。


 例えばジャンプ作品の前例では、『キャプテン翼』は主人公である翼が無敵の神童として描かれるほどに、「天才の翼に挑もうとするライバルたちの物語」へとシフトしていきます。


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 「スポ根少年漫画意図的パロディ」として描かれた『YAWARA!』にしても、「絶対的天才が大きな壁として立ちはだかることで励まされる凡人」を描くことで読者に身近さを与えていた漫画です。

 才能に恵まれない花園くんや、柔道初心者富士子さん、負け癖のついている本阿弥さやかが苦心奮闘する姿の方にこそ、主人公の柔よりもむしろ共感できた」というのはとても平均的な読者の感想であるはずです。


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 よく活躍してくれる脇役は、読者が勝手に「真の主人公」「裏の主人公」などと呼んで愛するようになります。

 実のところ、作者が公式に「ダブル主人公」や「裏主人公」「準主人公」という設定にして描くこともあるのですから。


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 いわゆる「ストーリーの作り方」の本などを見ても、敵やライバルヒロイン親友や後援者といった、主人公ではないサブキャラクターがいなければ「お話などできない」ことは痛いほどよくわかるはずです。

 いわんや、サブキャラクターの数が大量に増えがちなジャンプ漫画ならば……ですよ。


 7日につき1話のペースで続く連載のなかでは、「サブキャラの主役回」が高い頻度で現れるのが「週刊少年漫画」のストーリーというものです。


 主人公だけで作品を特徴付けられると考えられる人は、いったい漫画小説をなんだと思っているのでしょう。

 社長を見ただけで企業の強さを理解したり、大統領を見ただけで国家の力を理解したりする思考回路なんでしょうか。


 そういうタイプの人ほど率先して作品の話題をし(単純に理解しているから単純に語りやすいのでしょう)、「その作品を知らない人」に貧しいイメージだけを与えようとするから困ったものです。

 少年ジャンプを読んでいない人に対して、意味もなく「主人公の特徴」だけで今のジャンプを説明するように、です。


解説と解決を担わされたキャラクター

 小説……小説に次いで漫画は、文章比重を高くできる分、「物語解説装置」としての主人公役を「世界に深く関わる重要人物」に背負わせる傾向があると思います。

 その作品世界のことをよく知っているか、あるいは「よく知らなくても重要場所にどんどん踏み込める」人物の視点で描いた方が、お話の「解説」も「解決」もスムーズに行いやすいからでしょう。


 つまり、創作的には「語り部に適している知識や能力のあるキャラ」がなんとなく主役に選ばれやすいだけで、漫画家ネームを練り直すときや、短編から長編リメイクしようとしたときは、「解説に向いてるキャラ」と「活躍させたいキャラ」が乖離してることに気付いて主人公を逆にした方がいいな」と脇役と入れ替えさせた作品だって多々あります。


 だから主人公が誰なのかという選択は、かなり偶然性の高いものですし、その上で「どんな話にしたいのか」は「誰が偶然に主人公役になったのか」と決定的にズレることがあります。


 「たまたま主人公になったキャラクター」と「その作品に描かれる面白さ」は間接的にしか繋がっていない場合だってある。

 主人公面白さの中心だという保証はなく、読者と同一化する決まりもない。


 そうした心構えも用意していた方が、「作品の見方を狭くする」こともないだろうと思います。


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 例えば『SLAM DUNK』というジャンプ漫画は、主人公の選び方がよかった、という評価も聞いた作品でした。

 今風ならば主人公になりそうなのは凄腕バスケ選手流川楓ですが、しかし、いかにも脇役の不良で天才でもない桜木花道主人公、というところに独自性がありました。


 でも考えてみてください。仮に『SLAM DUNK』の主人公流川であったとしても、読者が気持ちを重ねやすいキャラクターは、おそらく「桜木花道などの脇役たち」に収束していたと思います。

 そして主人公流川は「物語解説装置」であることが枷となり、サブキャラに徹していた場合ほど人気が爆発しなかったかもしれません。


 改めて言えば『YAWARA!』もそうで、「物語の解決装置」としてあらゆる試合に勝ち続ける柔には、同情こそすれ共感はしにくい、というのが一般的見方だったでしょう。

 気持ちを重ねやすいのは、柔道選手ですらないスポーツ記者松田さんです。


 実際、「物語の解決装置」として予定調和を担わされがちな主人公を、苦手だ、嫌いだと言いながら執筆している作者は多くいるようです。

 彼らは「むしろ主人公ライバルや脇役の方が好きだ」と告白しながら話を描いている。


 すべての主人公がそうではありませんが、作者を気難しくさせている主人公は、読者からの人気も得られないことがあります。

 読者人気投票を行った結果、「不人気」とあだ名される主人公もいる。

 読者の立場からでも、「物語の解決装置」という役割に縛られたキャラクターには、自分を重ねたり、愛着を感じたりするには向かないことが感じ取れるのでしょう。


主人公といえば当然キャラクター人気投票で一番…と思いきや、実際はそうでもない。

特に少年マンガ主人公クールライバルキャラに負けることが多く、作品によっては主人公が一度も1位を取れないまま終わるということも珍しくありません。

人気投票で主人公を抜いて1位になったキャラ 裏次元の一日

 もちろん、「主人公自分を重ねない、共感しない」という見方によって、かえって好感度が上がることだってあります。

 例えば、大抵のラブコメ漫画は「読者が主人公になって恋愛した気分を楽しむ」という側面があるでしょう。

(これは「側面」というより、「表向きの面」というところかもしれませんが。)


 その反面、「この主人公は男として好感が持てる!」という風に、同性の主人公を「自分とは別人のキャラクター」として支持する読者がたいてい現れてくるものです。


作者も読者も主人公に集約させるという信念

 嫌われるにしても、好まれるにしても、主人公というものは、多くの人が思う以上に「他者」として認識されやすいものです。

 他者だから好きになることや、憧れることもできる。


 しかし不思議なことに、「主人公の特徴を挙げることで作品を語れる気になっている」タイプの作品論は、あたかも、作者の欲望や読者の願望、作品に込められた思想や何もかもが主人公という存在と一致している」かのように語ることが多いですね。


 あたかも「客観」的に批評しているようで、おそらくどんな読者よりも「主観」的に、主人公と同一化した体験によって作品を理解しようとするのがそういう論者たちだというのは、気のせいでしょうか。


 だから主人公の設定だけで作品を語れた気になってしまえる言葉は、物語とは作者が主人公自己投影して描くものだ、という思い込みや、物語とは読者が主人公感情移入することのみで読むものだ、という思い込みとセットで出現しやすいものです。

 これらは複合的な信念体系の抱える問題で、言ってもなかなか直せない人もいるでしょう。


 少女漫画少女小説だと、「私かわいそう、っていうヒロインの話ばっかり」というフレーズが便利な批判として使われることがよくありました。

 「そう言っておけば理解した気になれる」……、というのは似た例として「女性向けケータイ小説ステロタイプ」が偏見で罵られる際にも行われてきたことです。


 ですが、現実女性読者に読まれて「(ヒロインである)私かわいそう」と解釈されるだけのお話かどうかは、内容次第であり、そして読者次第だとしか言えないはずです。

 何より、「私かわいそう」と言っているのは、その読者の内心であり、そのヒロイン自身ではないでしょうから。


 つまり、「そう言っている人自身がどうしようもなく主人公自己投影することでしか作品を楽しむすべを知らない」場合に、視野の狭い言葉が出てくるのだろうと考えることもできます。


 では、みなさんは何によって作品を特徴付けようとしますか?

 自己投影感情移入の対象がひとつあるだけではなく、もっと多くのものに作品の魅力は支えられているのだと考えてみてください。


関連エントリ

 また、「ある特定の言葉をむりやり使うことで対象の意味を歪めてしまう」という、言葉の罠について説明していたのがこちらの記事でした。本記事と合わせて読んでみるのもよいと思います。

おむれっとおむれっと 2013/09/07 20:49 よく聞く「ジャンプの三本柱」ですが
このような経緯で生まれたのですね
恥ずかしながらはじめて知りました

後半の「運、血筋、才能」への考察ですが
元の施光恒さんのインタビューを知らないので
あまり偉そうなことはいえないのですが
この言葉の意味するところは
「最近のジャンプには友情も努力も勝利もないんじゃないの?」
という問題提起であると思います
「運、血筋、才能」という言葉は
極端な話「とん、ちん、かん」とかでもいいわけで
そこにこだわることはむしろご自身で言うような
「ある特定の言葉をむりやり使うことで対象の意味を歪めてしまう」
ことにつながってしまうと思います

もっとシンプルに最近のジャンプでグッときた友情の場面や
努力、勝利の場面を例に出すほうが
反論としてスマートなのではないでしょうか

izuminoizumino 2013/09/07 21:16 こんばんは。
その反論は「悪魔の証明」に近いんですよね。
「元々、要素的なキーワードであって、そもそも厳密に存在しなければならないと思い込む時点で間違い」ということをここでは言っていますが、それで「最近はないんじゃないの?」というクエスチョンに応えるには充分だと思います。
負の神格化というのは、理念だけあれば具体的に存在しなくてもよいものに対して「じゃあ存在を証明してみろ」と言わせやすくなる、ということですから。

TT 2013/09/08 20:44 こんばんは。いつも興味深くブログを読ませていただいております。
本記事を読んでちょっと違和感がある部分があったので質問させていただきます。

いずみのさんがおっしゃるように、作品における主人公の存在感以上に作品を主人公から語る人は多いように思いますが、
そういう人も「物語とは主人公の活躍しか描かないものだと思っている」訳ではないのではないでしょうか。
作品の感想などを述べるとき、作品の全ての内容について語ることは不可能です。
よっぽど文章量を多くしない限り作品の限られた面について語るしかなく、すると結果的に主人公について語ることが多くなるなるだけだのではないかと思います。
もちろんそうだとしても、批評空間・感想空間全体が主人公寄りに傾いていることに変わりはありませんから、脇役であったり舞台設定であったりから作品を語る意義に変わりはないとは思います。
ですが、主人公から作品を語る観客を見て主人公からしか作品を見ていないとするのは、それこそ貧しいイメージを押し付ける行為なのではないでしょうか。
このような違和感は、例えばいずみのさんがツイッターで「ネタアニメとしてアニメ作品を楽しんでいることを表明している人」を非難しているのを見た時にも私は感じました。
ネタアニメとしてある作品を観ている人も、必ずしもその作品をネタアニメとしてだけ楽しんでいる訳ではないのではないかと思います。

『かぐや姫の物語』に関する「(略)客観的に描いても伝わらないんだと落胆するところまで見える高畑映画」といういずみのさんのツイートを読んでも思ったのですが、
いずみのさんの観客論は、観客は愚かであって欲しいという期待が邪魔になっているような気がします。

まあぶっちゃけ、私自身が「主人公から作品を語りたがる人」であるから反発しているという面はありますが、
「主人公だけで作品を特徴付けられると考えられる人は、いったい漫画や小説をなんだと思っているのでしょう」とおっしゃっているのに対しては、
そういう人も内面は決して一様ではないのではないかと思いました。

izuminoizumino 2013/09/08 21:07 こんばんは。
そうですね。でもTさんが仰っていることは「順序が逆」だと思ってみてください。
「◯◯だけで語れると思っている人が、◯◯だけを語る場合」を対象にして「何だと思っているのか」と言っているのであって、それ以外にも語るポイントがちゃんと内面にある人というのは、全くの別の種類の人であるはずです。

もちろん、発言の一部分だけを切り取ることで、視野の狭い人のように映る(例えばぼくがそのようにみなす)こともあると思います。
むしろそう他者からみなされないように、「作品を特徴付ける言葉の罠」には、その言葉を用いる本人も気をつけてほしい、という考えです。
「言葉の罠」に無自覚で無軌道に使ってしまうようでは、やはりTさんの言う「愚かさ」に引きずり込まれる危険性がとても高いのではないか、と思っています。

TT 2013/09/08 22:29 お返事ありがとうございます。
なるほど、よくわかりました。

ここからは私が改めて本記事を読んでの個人的な印象の話になりますが、
「◯◯だけで語れると思っている人が、◯◯だけを語る場合」というのは範囲が相当狭く、それをわざわざ批判するのは世の中におけるそういう人々の存在を過大評価しているように感じられてしまうのです。

また全体的に、主人公"だけ"で作品を語ることを否定するために、勢い余って主人公で作品を語ること"自体"を否定しているような印象を受けました。

まあこれは本当に私の受けた個人的な印象なので、「それは違いますよ」と反論されればそれで終わりな話ではあります。
ですが個人の身勝手な印象も何かを映し出す鏡ではないかと思いますゆえ、あえて再び返信させていただきました。
僭越ながら、ブログのしがない一読者の感想としてお読みいただければ幸いに思います。

izuminoizumino 2013/09/09 14:22 こんにちは。
「○○だけで語れると思う」というのは「そのことに対する反省がない」という意味で見ることですから、言いっ放しで済ませしたり、レッテル語をレッテル語だと指摘されるまで気付かないような「自省のなさ」は、範囲が狭いどころか「よくある」と思いますよ。というか「ある」し、「行われている」でしょう。
むしろ「そういう人は珍しい、おかしい人たちである」と例外化してしまう方が、余計にことの問題を大きくしているようです。

TT 2014/09/16 02:03 1年ぶりに書き込みさせていただきます。

いずみのさんはツイッターで、
「「自分の願望の仮託」というスキーマがオタク発祥と近い時期から定着していて、この、キャラクターに仮託するというモデルが作品鑑賞にも批評にも使えなくなってる時代の変化に気付いてない人がわんさといる」
「この仮託モデルがまさに「成長がないと文句言うオタク」に繋がってるし、もう古い世代になってると考えてる」と発言されています。

これはつまり「成長病」もしくは「主人公病」に毒された観客は、オタクの中でも特定世代に偏在している、
もしくは仮託モデルというスキーマを意識的・無意識的に援用するようなメタ的な観客論好きのオタクに限られるということではないでしょうか。
実際、最近のヒット作の人気キャラランキングなどを見ても「主人公」が一位ではないことは珍しくありませんし、
主人公を感情移入の対象やストーリーの中心核として見るというよりは、
他のキャラのために用意された舞台装置であると見る観客の方が大多数なのではないかと思います。

一つ上のコメントでいずみのさんがおっしゃったように「例外化」は問題だとしても、
その特定性が処理されていない分析は、やはり対象を過大評価しているように感じられてしまいます。


それと話は少しずれますが、キャラクターの成長描写の有無を問題視する「成長病」と「そのキャラはそのキャラでいるだけで尊い」モデルは、矛盾しない存在だと思います。
「成長をちゃんと描いているキャラクターには、実在するキャラクターとしての尊さがある」という命題は真だと言ってよいと思うのですが、
するとその対偶である「尊さがないキャラクターがいたら、必ずそれは成長が描かれていないキャラクターである」という命題も真になります。
成長病における「このキャラクターは成長が描けてないからダメだ」という批判の在り方は、決して成長という尺度を絶対視している訳ではなく、
そのキャラクターの英雄性なり聖性なりが弱いことの必要条件を指摘しているに過ぎないのだと思います。

もちろん必要十分条件ではない以上は批判の在り方としては不十分ではあると思いますが、
少なくとも、成長病な言説に見えるような意見でも安易に「成長病」として排斥するべきではないのではないでしょうか。



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