芸術は所有の対象にならない事

 http://d.hatena.ne.jp/ululun/20060429/misc0604295
 アカデミズムの限界 - あんとに庵◆備忘録
 
 どちらも芸術の階級主義に違和感を感じているエントリ。いわゆるオタク
とかサブカルとかがそんなのに混ざるとつまらなくなるからという事らしい。
だが変だ。そこでそんなのに混ざるのはどうよみたいに言ってはいるけれど、
その実口ぶりはとても知的で、とても階級主義的な言い方になってしまって
いる。それで悪いとここで言うのではないが、少なくとも言っている内容と
言っている言い方が食い違っているのは心的な健康のためにもよくないかと。


 で。


 ニーチェ主義者的に言えば芸術に優劣があるのは自明であって、そこへの
反論や違和感と言うのは何をしたいのか解らない。あるいは、より説明的に
言うなら感性の動きについてよりよく動かすものとよりよく動けるものとが
あるというところは事実なので否定してもどうしようもないと言う気がする。
勿論これは半分くらいは嘘であり、実際にはそうしようと思うのなら感性の
動きを制限するように仕組んでゆく事も出来るだろうが、ここでは割愛する。


 そして


 そもそも芸術にある優劣自体が問題なのかどうかというところが問われて
いないのではないか。つまり「単に大衆であるか」さもなくば「上流なのか」
と言う二者択一でしか考えられていないのではないか。そしてそれはすでに
当の「上流」なるものを重心としてそれを「どちら側」から見るのかという
点でしか違いがないのではないか。それは果たしてその対象から自由になる
事なのか。むしろ「大衆的」というそれ自体知的な題目に魅せられている事
にしかならないのではないか。勿論本当にそれでいいのなら問題にならない
けれど、果たしてどうなのだろうか。ともあれ、ニーチェ主義者はいわゆる
知的に確立された芸術の位階序列を「別の形に」組み立て直す。そうする事
によってこそ「正当な意味での」芸術が獲得出来ると考えているからである。
ここでは芸術に関する位階序列そのものは残されるが、別に今のそれが前提
的に聖化されて不問にされると言う事はない。いわゆる「大衆」的な文化と
言う事で必要とされているのはこの可塑性の事なのではないか。サブカル
どうのというアレコレは、実質的には単に商業的な枠組みに過ぎないように
思える。そのカテゴリーに属するからと言って、その事が直ちに優れた作品
である事や劣った作品である事を意味する訳ではないはずだ。そうであれば、
そうしたものを梃子とした問題にどれほどの価値があるのかがよく解らない。