公的論理と私的な心理

 ▼一つ目のコメント

>管理人が判断すべきことです。どうして
 あなたが判断できるか理解に苦しみます。

6/24とさほどかわらないのですが、おかしい点を指摘しておくと、
1)議論は「判断」の積み重ねである
 (最終的な正否と混同しているようです)
2)管理人に異議申し立てをするならば、異議が
  出せるかどうかの前提条件の確認が必要
3)相手の基準もしくは判断に異議があるなら
  根拠を添えるの三点をあげておきます。

場の設定については平行線ですね。

泉さんの公式の許可がない限り、ここでは議論を
続けませんと言ったはずですので繰り返しません。
BigBang氏の回答コメント

 上の方が通りすがり氏のコメントで下の方がBigBang氏のコメントだが、これでは
「平行線」にはならないだろう。泉氏のブログですべきだとさしあたり考えられる根拠
に対してBigBang氏からの有効な反論はなかった。あるとしてもそれは「最終的な」
判断は管理人がすべきだと言う原則論でしかなく、現状黙認されているという状況を
踏まえてもなお有効には見えない。単に「ここは嫌」というのは勿論反論じゃあない。


 ちなみに

泉氏の評判を下げる時に泉氏のブログを利用
したなら逆の時にもそうすべきだろう、と。
通りすがり氏の質疑応答まとめ - 売文日誌

 この部分が勘違いされているが、ここの主語は「泉氏のブログにコメントする人」に
なる。別にBigBang氏に限定されてはいない。泉氏の評判が下がるような場合にも
「黙認=許可」と言う解釈で議論がなされたのだからその逆の場合にも同じ解釈で
泉氏のブログを使って何が問題になるのだろうか。この部分に反論はまだ何もない。


 なお
 通りすがり氏の論理はもっと密に展開されてはいるが、現状BigBang氏は読めて
おらず争点となっているのはこうした段階である。続く通りすがり氏の論理を一言で
言えば「泉氏に許可を貰わなければならない理由があるとまでは言えない」という
事。これは当然「以前どういう使われ方がされたか」という事を振り返らずには反論
出来ないものだ。そしてBigBang氏が「関係ないエントリだからこの場ではしない」と
いうのは過去の使用例から考えれば理由にならない。反論としては機能していない。


 つまり
 場の設定に関しては平行線どころではない事になるだろう。これは瑣末な事だが。

 
 ▼二つ目のコメント

そして、念のために言っておくと、質問に対して答えないことを批判するならば、
BigBangさんに対しても同じ批判を加えるべきだということです。安易に「擁護」
だとか言う人は特にその点は間違えないように。そして、BigBangさんは現時点で
回答率はほぼ0であるという現状を十分認識するべきです。

 要点はこれだろう。この点がどうにかならなければ、そもそもこの問題自体の意味が
霧消せしめられてしまうからだ。その辺BigBang氏の周りの人の方が平和的に忠告
すべきだと思うんだが、こうやって別の立場の人から言われるまでその必要性に思い
至らない辺り、さて問題は実際にあったのかどうか、という事にもなってしまうのだろう。
あるいは別の立場の人から言われてもなお、周囲の人に動く気配はどうも見られない。
早々に「騒動」に狙いを絞るとした雨蛙氏はともかく、他の人はどういうつもりだろうか。


 勿論

相手への要求に対してはご丁寧に念押しするが、自分に
対する要求は一切通さず無視するそのスタンスは変えて
いただかないと困ります。あまりもフェアではない。ただし、
その過程で、明らかになったこともあるとは思いますが。

 要点はこっちだと言ってもいいが、どっちにしろ有効な反論が何かありうるのだろうか。

茫漠たる印象で「逃げる」だの「破綻している」だの「「利用した」だの「信用
できない」だの「俺より馬鹿」だの書かれても、あっそうですか。としか言えません。
BigBang氏の回答コメント

 これは勿論反論ではない。何か十分な回答がなされたかというと、そうではないからだ。


 ▼三つ目のコメント

しかし、BigBangさんは、疑念を出すが、その解消に手を貸さない、と
いうように「仕切り手」の責務を放棄しているわけです。そのように
持ち得る権力を適切に扱えない人が主催する場は、議論の場としては
不適切だと言うことです。さらに「対等」の件も含めて、何をしでかすか
わからないわけですから、私が慎重になるのは当然と言えます。

 要点はこれであろう。この点が結局のところ「場の設定」の問題を生み出しているからだ。
具体的に言えば「単に抽象的な」あるいはもっと言うなら「空想的な」条件分岐をそのまま
にしながら疑念を提出してしまっている「ume氏非存在説」という失礼なものが典型的だ。
これではいたずらに疑念を吹聴しているだけであり、その疑念に合理性があるのかどうか
問題にされなければならなくなる。というのは、疑うべき程度が段違いであるものをまるで
区別せずに言ってしまっているからだ。そこには合理性に裏打ちされた疑問の確実さへの
視点が見られない。ほんの些細な可能性も針小棒大にいえない事もない、と言う事の悪用
めいてしまっているのだ。単に抽象的には等価の選択肢も、現実的にはすでに解っている
事から「ちょっとしか怪しくない」のと「普通に怪しい」「スゲー怪しい」のとの違いが出てきて
当然であり、この「非存在説」はその疑問の効果をごっちゃにしなければ成り立たないのだ。
 

 そして
 そういった「質問者としての信用」を台無しにしてしまったなら、こういうオチも付くだろう。

ただ多分BigBangさんの力では辻褄をつけるには無理があるし、つける
にしてもあまりにも矛盾が多い。ならば、残された手段は一つでしょう。
そしてそのためなら私も一定の譲歩はするということです。

 

 ▼BigBang氏の回答コメント
 「五つの選択肢」「却下」など、本題と関係ない瑣末な点から相手の気質を非難しているが
これは単に「論理的な要請」と「心理的な命令」を混同しただけの話で、問題にはなりえない。


 そして

お聞きしますが人は何かの「行動」を行う場合、あるいはその
行動を他の人が理解しようとする場合、「義務」と「実行」の
関係が最も重要なことのですか?また、義務とは何の義務ですか?

 またぞろこうした空疎な一般論が出てくる訳だが、公益があると言う話なら義務と実行とが
問われて当然だと考えられないのだろうか。そしてここでの「義務」の指示対象は「報道機関
関係者として早い段階で名乗り出て説明する義務」であろう。勿論、それについて尋ねられて
いるのだから「義務があると立証せよ」とか言うと余りにとぼけきった回答だと見られるだろう。


 で、

あなたは、私が間違っていなければ、「ことのは問題」における、
私の初期の行動を問題にされているのだと思いますが、冒頭で

>ある時点において、Aという行為をするべきだったのでは
>ないか?という問いに対する答えのパターンとしては、

などと抽象化してしまっているので、何を聞いているのか
全くわからなくなってしまっているのですよ。具体的には、
その「ある時点」とはいつですか?「Aという行為」とは
何を指すのですか?それを開示しないでどのパターンだ?
と迫るのは論外であると思われませんか?

 これも随分な言い分で、そもそも義務の内容は明示されていたのに「場の設定」であれこれ
言い合った挙句本題を見忘れてしまっている。「開示しないで」というのは単なる事実誤認だ。


 さらに

おや、それが原因なのですか。あなたは、あなたの設定した「定型の
パターン」に嵌らないと納得がいかない、不自由な体質なのですか?
私はあなたと全く違う人間なのですよ。あなたが期待したパターンの
いずれかで回答してくるとは限らないのです。おわかりになりませんか?

 論理的な形式に関する発言を「体質」とか「個人差」にしてしまう辺り、議論のマナーとして
どうしようもなくなってくる。「全く違う人間」だからこそ「共通の回答を得る」ための議論上では
論理的形式をルールとして用い、個人差は極力「見せない」「理由にしない」事が重要になる。
特に公益に関する話であるのに個人差を理由にしてしまえば単に議論の放棄にしかならない。


 最後に

実のところ、ここまで場の設定にこだわりながら、売文さんの
ところにはなぜかコメントを残すあなたの行動を見ていると、
私はあなたが本気で私と議論をしたいとは思えないのですが。

 これはすでに上で指摘したが、単に「BigBang氏への不信」が問題になると通りすがり氏は
すでに書いている訳で、単に読み落としているのだろう。ていうかここで書かれている議論を
通りすがり氏は援用している訳で、その利用価値から見てここにコメントするのは割りと当然。