仏の顔も三度まで

 新しい年が始まりました。本年もよろしくお願いいたします。
 

 武者小路実篤の戯曲『わしも知らない』は、お釈迦さまの説話を元に描かれています。執筆は武者小路二十八歳の大正三年、翌四年に文藝座により帝劇で初演されています。お釈迦さまが出られた釈迦族は、コーサラ国とマガダ国という二つの強大な国に挟まれた小さな、しかし誇り高い民族でした。ある事をきっかけに、コーサラ国のビルリ王が何としても釈迦族を壊滅させようと企て、物語はお釈迦さまのお弟子である目連尊者が、目の前で遊ぶ子ども達のいのちを助けてもらうよう、お釈迦さまに頼むところから始まります。お釈迦さまは「わしだって助けたい。しかし助けることができない。それがこの世の運命なのだ」と言い、次のように目連尊者を諭します。「すべてのことは過ぎてゆく。過ぎてゆく嵐だ。過ぎてゆく洪水だ。過ぎてゆく戦いだ。死屍はいくら山を築こうとも、血はよし川の如く流れようとも、断末魔の叫びは天地に響こうとも必ず過ぎてゆく。そうしてゆく先は海だ。涅槃だ」。そして、言いようのない沈黙が二人に流れた後、場面が変わりビルリ王による、この世のものと思えない殺戮が繰り広げられます。釈迦族の大人はいわずもがな、釈迦族の五百人の男児は轢き殺され、五百人の女児は池に埋められ、釈迦族はお釈迦さまお一人を残して絶えてしまうのです。なぜそこまでしてビルリ王は釈迦族を憎んだのか。


 これは前段となる説話ですが、従属する釈迦族からコーサラ国が妃を迎えようとしたところ、釈迦族では「わたしたちの民族は先祖以来誇り高い。なぜ卑しい民族に娘を嫁がせねばならないのか」とする意見があり、一計を案じた大臣が自らと下女との間に生まれた娘を「釈迦族の王族の娘」と偽って嫁入りさせ、そして生まれたのがビルリ王でした。ビルリ王八歳のとき、弓術の修練を積もうと母の実家である釈迦族の城へ行き、王族しか座ることの許されない玉座にビルリ王子が登ったところ、釈迦族の人々は驚き、玉座から少年を引きずりおろし、鞭で打ちました。「お前は下女の産んだ子だ。玉座に坐るなどもっての外だ」と口々に言うのが聞こえ、出自の真実を知ったビルリ王子は少年ながら釈迦族への復讐を胸に刻みました。
 成人したビルリ王子は父王の留守を狙って王位を奪い、王となりました。そしてさっそく釈迦族への復讐のため、軍を進め、それを知ったお釈迦さまは一本の枯れ木の下に坐って、ビルリ王を待ちました。ビルリ王がお釈迦さまを見て、「世尊よ、ほかに青々と茂った木があるのに、なぜ枯れ木の下にお坐りになっているのですか」と尋ねると、お釈迦さまは静かにこう答えました。「王よ、親族の陰は涼しいものである」。その答えを聞いた途端、これ以上の進軍をあきらめ、ビルリ王はコーサラ国へと戻っていきました。やがて時が経ち、憎しみ冷めぬビルリ王は二度目の進軍を決め、軍隊を進めましたが、またしても枯れ木の下に坐るお釈迦さまに諭され、時が今でないことを悟り、再び引き返しました。さらに時が過ぎてビルリ王は三度目の進軍を謀りますが、またしてもお釈迦さまに行く手を阻まれ、あえなく撤退しました。そして四度目。お釈迦さまは宿縁の深さと事態の止め難きを知り、枯れ木の下で待つことをそれ以上なさいませんでした。ビルリ王は釈迦族のカピラ城を攻め落とし、残虐の限りを尽くして釈迦族を壊滅させました。日本のことわざに「仏の顔も三度まで」とあるのは、この故事に依ります。


 もう一度、武者小路の作品に戻ります。五百人の女児を埋めた池に築かれた城で、戦に完勝し積年の恨みを晴らしたビルリ王は連日宴を催していましたが、その城は建って七日目で焼け、城にいる者全員が焼け死ぬという風評がありました。期せずして七日目、風評のなかで働き、ついに気が触れた女が城に火をつけます。城の最上階にいたビルリ王は下層がすべて炎に包まれているのを見て自らの最後を悟り、籠姫を殺し、臣下と胸をつらぬき合って死にました。場面が変わって翌朝、うららかな朝日が差し込み、小鳥がさえずっています。昨夜までのことは、恐ろしい夢のようでもあります。お釈迦さまが目連に語ります。「すべてのものは何事もないような顔をしている。そうして道ゆく人に逢えば多くの人は何事も知らないような顔をしていよう。カピラ城の滅亡もビルリ王の宮殿の焼けたことも彼らはただ笑い話にすますであろう。わしは彼らのためにそれを喜ぶものだ。だがわしはわが教に従ってすべての人が調和して生きてゆくことを望んでいる。そうしてそういう時の来るのを夢想している」


目連「そういう時が参りましょうか」
釈尊「くる」
目連「いつそういう時が参りましょう」
釈尊「それはわしも知らない」(終幕)


 仏の顔も三度まで。それは仏様がわたしに、その人生を賭して呼びかけてくださるご縁が、その人の生涯に三度はあるのだという意味にも取れます。わたしはこれまでに何度の仏縁に遇ったでしょう。残された人生で、あと何度の仏縁に遇うでしょう。そしてその仏縁を、わたしはありがたくいただいて生きているでしょうか。(住職)

お寺が消える

 日本人の多くは正月の初詣や七五三で神社へお参りし、お盆やお彼岸はお墓へお参りし、結婚式はキリスト教でおこなって、お葬式は仏教という形が定着していて、これらは一見無節操にみえますが、日本人は宗教を軽んじているかといえば、そうでもないと思います。世論調査で「あなたは何らかの宗教団体へ加入していますか」と尋ねると「はい」と答える方は一割前後に過ぎないそうで、しかし初詣やお墓参りに九割もの人が参加するということは、特定の宗教宗派を信じたり属する人は少ないものの、何らかの宗教性を日々重んじている、これは世界的にみて特異な国民と言えるでしょう。

その、日本人の生活に溶け込んできた神社やお寺が、消える時代になりました。人の生き死にのあらゆる場面に関わってきたお寺、そしてお祭りや七五三、結婚式といったお祝いごとと密接にかかわってきた神社は、少子高齢化や人口の一極集中、地方の過疎化や地縁血縁が薄らいだことなど、理由はさまざまあるでしょう。日本創生会議の座長を務める増田寛也総務大臣が中心となってまとめ、話題になった「消滅可能性都市」という言葉をご存じでしょうか。全国で896もの自治体が2040年までに消える可能性があると、その会議では指摘しました。実際に市町村が消えるわけではなく、人が住まなくなって行政サービスの維持が困難になるということですけれど、それはつまり、その市町村にある神社やお寺も維持が困難になり、存続が難しくなる可能性があるということでもあります。具体的な宗派を挙げると、高野山真言宗曹洞宗神社本庁黒住教などでは25年後までに40パーセントものお寺や神社が消えると言う専門家もいます。
 
 このたび、淨泉寺の本堂の改修工事が終わり、ご本尊である阿弥陀如来像が富山県内の浄土真宗本願寺派のお寺の本堂から正式にお遷りになられました。このお寺は平成17年に解散されています。私が生まれ育ったお寺の隣りにあり、幼少時遊んだ記憶もあります。このお寺はかつて、香華につつまれた本堂を熱心な門信徒が埋め、お経とお念仏で本堂は打ち震えていました。ご本尊様にはたくさんの方が手を合わせ、そしてたくさんの方がこのご本尊様に見送られてお浄土へ還っていかれました。お浄土でまた会おうねと、おっしゃっているかのお顔をなさっています。お寺は安心して死ねる場であり、だからこそ安心して生きる場でした。しかしご住職がご病気になり、後継住職がいないなかで活動の継続は難しく、ご本尊様は本堂にしばらくの間、ひっそりとたたずんでおられました。誰からも手を合わされることなく、ひっそりと。ご縁あって私が埼玉にお寺を建立する発願をして、忘れもしない平成23年6月20日、このご本尊様をお迎えに参りました。新たにお寺を建立するなら、ご本尊様も新たにお造りするのもひとつの考えですが、お寺が解散になった後に宝物類をお預かりしていた富山浄泉寺の住職の、さらに病床にあったご住職皆さまのご意見で、こちらのご本尊様とお仏具を使いたい(不遜な表現ですが)と思っておりました。以来4年に渡り借家で活動した時代、そして当地を購入して移転してからは仮本堂として、窮屈な場所で、思うように参拝者も集まらず、ご本尊様にはご不便をおかけし通しでした。だからこそ先日6月12日早朝、ご本尊様をご安置し、初めてのおつとめをしていて、胸にこみあげるものがございました。そのときの想いを、私は終生忘れないでしょう。

 富山県でお寺が消え、埼玉県でお寺が新たにできました。淨泉寺のように新たに開かれたお寺も、維持が困難になる時代が必ずや来ます。人の世はすべて、浮き沈みでできています。浮かぶときがあれば必ず沈むときがあり、形あるものは消えゆく。ゆえに、安住せずに精進を続けなさいと、お釈迦さまはご遺言なさいました。これからも精一杯精進させていただきます。皆様どうぞよろしくお願いいたします。(住職)

お墓と仏壇の関係

「お墓が遠方にあってお参りになかなか行けず、お墓の将来が不安」というお悩みをお持ちの方は多いでしょう。大家族が核家族へと変わり、若い人は地方を離れて都会へ移り、少子高齢化が進んでいることもあって、すでに地方のお墓を継承した人やこれから継承しなければならない人にとって、ご先祖さまのお墓を今後どう考えていくか、頭の痛い問題です。墓地の永代使用権は子々孫々まで継承されますので、お墓の永代使用権を持つ代表者の方が亡くなれば、それを継承する人は契約を結び直さなければなりませんが、その手続きを怠ったり新たな継承者がいない場合、いても名乗り出ず連絡もつかない場合は、永代使用権が無効となり墓地が更地に戻されるという最悪のケースも起こり得ます。また女性の継承者のなかには、自身のご実家のお墓とご主人のご実家のお墓の両方を見ているという方も少なくありません。ご夫婦で計7か所ものお墓に毎年お参りしているというお話も聞いたことがあります。しかしお墓をお移ししたり永代供養墓への改葬には、お墓の規模にもよりますが墓石の撤去、移転先の墓地の使用料、墓地の工事などを含め百万〜三百万円程度の経費が必要で、経済的な理由から遠方のお墓をそのままにしておられる方、新たなお墓をなかなか買い求められない方が少なくないと思います。また、愛着ある土地からご先祖さまをお移しすることに抵抗もあるでしょう。

 もし、お墓をお移しするか、お仏壇をお移しするか、どちらを先にするべきか迷われたら、お仏壇を優先してください。理由はお墓とお仏壇、それぞれの性格の違いにあります。まずはお墓との距離、お仏壇との距離の違いです。お墓に出かけるのはご両親のご命日、春秋のお彼岸、そしてお盆ぐらいですが、お仏壇は家の中にあって朝な夕なに拝むもので、生活の身近にあります。また故人の墓前にお参りしたいという人を、お墓まで案内することは難しくても、お仏壇にお線香をあげていただくことは容易です。そして何と言いましても、お仏壇は仏教を信仰するという一家のシンボル、そしてご先祖さまに手を合わせ頭をたれる心を親から子へ、子から孫へ伝える大切な場です。総合的に見て、お仏壇は一家の中心になれますが、お墓は一家の中心になれないとわたしは思います。ご実家のお仏壇が大きすぎて譲り受けることが難しければ、新たにお求めください。大きさにはこだわらなくて大丈夫です。そしてお仏壇はいつ、どんな動機で買っても構いません。「家族に死者が出なければ買ってはならない」「お仏壇を買うと新仏が出る」という俗信を耳にしますが、これは葬儀後に仏壇を買うケースが多いところから生まれた迷信で、まったく根拠はありません。購入の動機は「永年の念願がかなった」「自分や家族が大病にかかったが、苦労の甲斐あって全快した」「低迷していた会社の業績が上昇した」「待ちに待った子宝に恵まれた」「息子や娘家族が家を新築した」など様々です。自分の念願がかなって生かされているのも、ご先祖さまのおかげという感謝の気持ちが何より大切です。もちろん葬儀や法事といった必要に迫られて購入なさっても良いですが、そういうときほど物入りが重なって資金に苦しく、慌ただしく不安な気持ちでゆっくりお仏壇を選べない状況が考えられます。経済と時間に余裕のある時、またお元気な時にご用意いただくと、心にゆとりも生まれます。そのことで安心して手を合わせる満足感と安心感を生み、ご先祖さまに見守られて家族が静かに暮らせていると実感できる、お仏壇本来の役目が果たせます。買い替えで不要になったお仏壇は、菩提寺を通じて他人に寄贈することもできます。つまり、経済的な理由からお仏壇を買えないご家庭との橋渡しを、菩提寺にお願いするというもので、新しいご家庭に使っていただけばお仏壇もご先祖さまもさぞ喜ばれることでしょう。

 「南無阿弥陀仏」と書いた掛軸を家庭に掛けていたのが、お仏壇の起源と言われます。つまり、浄土真宗が最初なのです。(住職)

12月31日除夜会と1月1日元旦会について

12月31日に除夜会(じょやえ)と1月1日に元旦会(がんたんえ)を修行します。来年1月17日は阪神大震災発生から20年、また8月15日は戦後70年の節目に当たります。震災と戦災の災禍に思いをはせながら、平穏な日々が一日も早く実現するよ う静かに念じ、新たな年を迎えたいと思います。いずれも淨泉寺仮本堂が会場です。年納めと初詣に、是非お参りください。
■除夜会 12月31日 16時〜 
■元旦会 1月1日 8時〜

映画「崖の上のポニョ」に仏さまの世界を感じます

宮崎駿監督のアニメーション映画「崖の上のポニョ」を見ました。これは海に棲むさかなの子ポニョが、5歳の男児、宗介と一緒に生きたいと、わがままをつらぬき通す物語です。

さ かなの子ポニョには稚魚のいもうとが沢山いて、そのいもうと達の助けを借りて、父の魔法を盗んで5歳の女の子に姿を変え、狭い水球のなかでの生活を抜け出 すところから、海面を覆う多くの魚の背を走るようにして岸へ向かい、お目当ての宗介が住む崖の上の一軒家へたどり着くところまでが、ひとつの山場として描 かれています。

観る者を引きずり込む圧倒的な迫力の映像が本当に素晴らしく、しかしもうひとつ特筆すべきことを挙げるとすれば、描 かれている世界観が仏教の世界観に似ている点です。宮崎駿監督は宗教色を払拭して、子ども達の愛と冒険を描かれており、「仏教からモチーフを得ているので は?」というのはわたしの邪推に過ぎません。つまり、「仏教にも同じような世界が描かれている」という程度と思ってください。

いも うと達はポニョを助けたい、思いを叶えてあげたい。応援するたくさんのいもうと達が、ポニョを先頭に海のなかを進んでいる姿は、仏説無量寿経や仏説観無量 寿経、仏説阿弥陀経に説かれた「諸菩薩が阿弥陀如来をほめ讃え、来迎する図」にとてもよく似ているなと、わたしは思いました。おすくいくださる阿弥陀如来 が、たったひとりでは寂しい。できれば、数々の菩薩がみんなで阿弥陀如来を支え、ともに行動したうえでわたしを救ってくださるほうが良いなあと、誰しも思 うはずです。阿弥陀如来を中心としたお浄土と世界観は、そのような経緯をたどってお釈迦様没後に作り出されたものですから、お経が発達する以前から人類の 願望にあった、わたしたちひとりひとりを、みんなで応援し、支え、ともに行動してくれる共同体を望む声が大きく、お経に反映されたのではないかとわたしは 思います。

大きな宇宙にはいろんな名前の仏さまと菩薩さまがおいでになる。 いろいろあるんだけれども、阿弥陀如来が一番強く、一番お優しいというのが、三つのお経の根底に流れています。そのメッセージはお坊さんの世界だけで発達 したのではなく、宗教も言語も肌の色も違うすべての人類共通の願いとして、それがお経に反映されたに過ぎません。ポニョに描かれた世界がわたしたちの胸を 打つのと同じように、これらのお経を読んだご先祖さまの胸にも「あなたをひとりにしない。みんなで応援しているよ」というメッセージがきっと届いたことで しょう。

地獄は一定すみか

 親鸞聖人のお言葉が『歎異抄』の第二章にあります。 

 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々] 

 歎異抄第二章は文中の「とても地獄は一定すみかぞかし」の言葉で知られます。「わたし親鸞には、どうしても地獄以外に住み家はない」という告白の背景に、80歳を超えてから長男善鸞を義絶したことなどの影響も考えられますが、日々親鸞聖人が地獄の苦しみの只中を生きる一人の人間として、こころからの思いを語る場面です。それにしてもわたしたち現代人は、あまりにも地獄を語らなすぎて、反面で浄土(天国)のことばかり語っていませんか?

 本章は770字、原稿用紙一枚に満たない短い文章ですが、そのなかに浄土(あるいは極楽)という語は2回、地獄は4回、念仏は6回も使われ、念仏と浄土・地獄との関係を明らかにする章になっています。しかし親鸞聖人は、念仏が浄土へうまれる因(たね)にはならない(だろう)し、また地獄へおちる業(因)にもならない(だろう)けれど、そもそもわたしにはまったくわからないと話し、関東から京都までわざわざ訪ねてきた人に対して冷淡ともとれる応対をしています。
阿弥陀如来西方浄土への往生を説く浄土教は、平安時代から鎌倉時代にかけて大いに広まり、貴族から庶民にいたるまで、激動の世を生きる人々がこぞって死後の安楽を願いました。その背景として、地獄の様子を細かく描いて地獄へ落ちる恐怖を植え付けた源信和尚の『往生要集』などの書物や地獄絵図の絵解きを通して、子どもから老人に至るまで広く民衆のなかに迷いの世界(とくに地獄)を離れ、理想の世界(浄土)へうまれたいとする対比があったことが大きく影響しています。

 経典には浄土の様子が説かれます。『仏説阿弥陀経』には阿弥陀如来西方浄土が、「極楽国土には七重の欄楯(らんじゅん)・七重の羅網(らもう)・七重の行樹(ごうじゅ)あり。みなこれ四宝周匝(しゅうそう)し囲繞(いにょう)せり。(中略)極楽国土には七宝(しっぽう)の池あり。八功徳水(はっくどくすい)そのなかに充満せり。池の底にはもっぱら金の沙(すな)をもつて地に布(し)けり」と、金銀財宝によって彩られた極彩色の世界として描かれています。

 これに対して平安時代源信和尚は、なまなましい言葉で地獄を描きます。「十八の獄卒(ごくそつ)あり。頭は羅刹(らせつ)のごとく、口は夜叉(やしゃ)のごとし。六十四の眼ありて、鉄丸を迸(ほとばし)り散らし、鉤(まが)れる牙は上に出でたること高さ四由旬、牙の頭より火流れて阿鼻城に満つ。頭の上に八の牛頭(ごず)あり。一々の牛頭に十八の角ありて、一々の角の頭よりみな猛火を出す」。
 
 現代人には浄土、地獄のどちらも空想的な描写で、作り話にしか映りません。しかし源信和尚は地獄の恐ろしい様子を描き、さらに餓鬼、畜生、阿修羅、人、天を、理想の世界である浄土と対比して描くことで、六道はわたしたちから離れたところの話ではなく、わたしたち自身なのだと説きました。わたしたちは日々地獄のなかに生きている、一日のうちに何度となく六道を輪廻している、それは厭うべきことで、故にそこからの離脱が必要だと説いたのです。

 浄土教の根本聖典である『仏説無量寿経』には、阿弥陀如来の第十八願によって一切衆生阿弥陀如来の浄土へすくいとられるものの、ただし「五逆罪(ごぎゃくざい)を犯したものと正法(しょうぼう)を誹謗(ひほう)したものを除く」とする制限(抑止文(おくしもん))があります。五逆罪とは(1)父を殺し、(2)母を殺し、(3)阿羅漢を殺し、(4)仏を傷つけ、(5)教団の和合を破ることで、また仏の説く法(正しい法)を誹謗するならば、阿弥陀如来であってもすくわないというのです。この経典はインドの宗教家によって作製されましたが中国に伝わって翻訳され、善導大師によって「大悪人であっても、回心したならば西方浄土へ往生できると」と解釈が大幅に変えられました。さらに日本へ伝わり、法然聖人のよってさらに「地獄へ落ちて当然の悪人こそが、阿弥陀如来のすくいの目当てである正客だ」とする悪人正機説になりました。これはインドの宗教家によって作製された経典からは、まるっきり正反対の立場です。しかし法然聖人が阿弥陀如来の第十八願をこのように受け止めたからこそ、親鸞聖人はお念仏の教えに出遇うことができたのです。地獄のまっただ中を歩いていた親鸞聖人は、同じように地獄のまっただ中を歩いていた法然聖人に出遇い、阿弥陀如来の第十八願をやっと聞くことができたのです。地獄しか住み家のないわたしという言葉は、親鸞聖人の本心だったと思います。

 親鸞聖人はじめ多くの門弟に向かって法然聖人は、「この世のいのちが終われば、わたしと同じ所へ参りたいと思ってお念仏なさい」と語っていたといいます。法然聖人を通して阿弥陀如来の第十八願を聞かせていただいたからには、地獄だろうが浄土だろうがもはや問題にならない生き方に転じられました。このお念仏の味わいと同じであれば、この世のいのちを終えるとき、そこが地獄だろうが浄土だろうがそこにわたし親鸞もいるし、ほぼ間違いなく法然聖人もいらっしゃって、善導大師も釈尊もいらっしゃるだろう。一味(いちみ)の念仏という言葉は、この味わいから出てくるのでしょう。

浄土真宗本願寺派の仏教讃歌

浄土真宗本願寺派の仏教讃歌は明治時代から作詞作曲されるようになり、これまでに270曲あまりが作られ、国内にとどまらず海外に渡った日系人の間でも歌われてきました。教会音楽に比べ歴史も数も及びませんが、一曲一曲こころの琴線に触れるものがあります。

念仏
   作詞 山本有希子
   作曲 森  琢磨
   (2003年発表)

1.南無阿弥陀仏 となえれば
憂いの心 波にきえ
南無阿弥陀仏 となえれば
無量の光 際もなし

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

2.南無阿弥陀仏 となえれば
 無明の闇に 光満ち
 南無阿弥陀仏 となえれば
 永久に尽きせぬ 歓喜のいのち

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

「念仏」は念仏が湧き出てくるようにとの願いから生まれた曲です。阿弥陀如来の名を口にするとき、はかり知れない光といのち(無量光と無量壽)が苦悩を抱えたままのわたしを照らします。

やさしさにであったら
   作詞 久井ひろ子
   作曲 湯山  昭
   (1982年発表)

1.やさしさに であったら
 よろこびを 分けてあげよう
 しあわせと おもったら
 ほほえみを かわしていこう
 海をふく 風のように
 さわやかな おもいそえて

2.さびしさを かんじたら
  だれかに 声をかけよう
  ふれあいを たいせつに
  語りあう 友をつくろう
  花の輪を つなぐように
  とりどりの おもいつないで

3.くるしみに であったら
 ひたすらに たえていこう
 合わす掌の ぬくもりに
 ほのぼのと やすらぐこころ
 かぎりない ひかりのなかに
 生かされて 生きてゆく日々

 また、「やさしさにであったら」は仏教婦人会設立150年記念の公募作品から選ばれた詩です。詞を書いた久井さんは当時57歳、浄土真宗が盛んな広島県にお住まいの一般女性です。戦争のなかで青春時代を過ごされたから、「くるしみにであったら ひたすらにたえていこう」という強い詩になったのでしょうか。それでもなお、わが人生を振り返って「生かされて 生きてゆく日々」と言える穏やかな人は、本当に素敵だと思います。