cappuccino-novels

2007-02-13 静かな雨が降ろうとしている

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 静かな雨が降ろうとしている。

 

 いつからだろう、僕はそんな予感の様なものを感じる様になった。

それはたいした雨ではない。時には傘だって必要ないかもしれない。雨粒は空中で更に分解され、砂粒の様になってしまう。または目を凝らさないと見えない雨。しばらくじっと顔を空に向けていなくては分からない程の雨。

「昨日、雨が降ったんだよ」と次の日に誰かに言っても、その誰かは決まって首を傾げるだろう。 「そうだったけ?」

税金の徴収書や新聞の勧誘やら、ローリングストーンズの新譜の様に、そんな静かな雨は決まって訪れるのだ。


 その日の朝も僕はそんな予感を感じた。

「雨が降るなんて天気予報では言ってなかったわよ」とその子はベッドの中でアーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』を読みながら言った。

「いや、きっと降るよ。必ずね」

「ふうん・・・・・・ねえ、このお話に出てくる熊って人間なの? それとも『熊』というメタファー? それとも・・・・・・」

「最後まで読めば分かるよ」と僕は彼女の言葉を遮って答え、イルカがプリントされたカーテンを閉めた。秋の朝の陽光が眩し過ぎるのだ。空は雲ひとつなく、雀達が何匹も窓を外を浮遊していた。

僕は『ホテル・ニューハンプシャー』を取り上げ、枕元にパタンと閉じて置いた。それから薄暗い日曜の朝の部屋で彼女を抱いた。


 昼過ぎにテーブルで僕と彼女はコーヒーを飲み、昨日買っておいたレタスと卵の入ったサンドウィッチを食べた。彼女は会社の役員達の悪口を言い、雑誌の売り上げが落ちたのは最近就任した編集長の責任だとため息をついた。彼女は洋楽音楽雑誌の編集者をしているのだ。

「あの男は無能よ。それと役員連中は音楽を所詮文化的スラムとしか思ってないもの」

「へえ」と僕はスポーツ新聞を読みながら言った。

「聞いている? 編集長なんかこのご時世にフレオ・イグレシアスなんか聞いてるのよ」

僕は笑った。フレオ・イグレシアス・・・・・・確かに無能な歌手だ。

「文化的スラム、ってなんだ?」と僕は気になって訊いてみた。

「役員の一人がいつかそう言ったのよ。うちの会社は昔は不動産やら金融やってて、数年前にいきなり出版部門なんか立ち上げて・・・・・・」

僕は彼女に聞こえない様に小さなため息をついた。その話はもう十三回聞いていたのだ。お堅い商社が税金対策で始めた出版部門。会社も酷いが雑誌も酷かった。ページの半分は広告で埋め尽くされ、大して音楽なんか知らないろくでもない評論家のCDレビューと、化石と化したハードロックの爺さん達のインタビューを金を積んで2頁設けるのが精一杯の雑誌。そもそも君が毎晩徹夜して作っている雑誌だって文化的スラムじゃないか、と思った。それに君は結構楽しんでいる様に見えるぜ。


「そろそろ会社に行くわ。校了だから」と彼女は立ち上がって淡々と言い、着替え、化粧をし、髪をとかした。

僕はその間、窓の外をじっと眺めていた。雲は相変わらず一つもなかった。一つも。

「じゃあね、次は来週以降になりそうね。ここに来るの」と玄関で彼女は曖昧に言った。

「分かったよ」

「ねえ、どうしたの?」

「雨が降るよ」

彼女はしばらく窓の外を目を凝らして眺めていた。「いいお天気じゃない」

「とにかく傘は持って行った方がいい。」と僕は傘を差し出して微笑んだ。

「これ・・・・・・私の傘、この前忘れていったやつね」

「うん」

「っていうか置き傘のしたつもりなの」

「じゃあ、丁度いいじゃないか、雨が降る」

「雨・・・・・・雨ねえ」

首を傾げて彼女は傘と一緒に出て行った。

それから僕はコーヒーにたっぷりブランデーを入れて飲み、『ホテル・ニューハンプシャー』を一時間ばかり読んだ。もう三回目になるだろう。悪くない小説だ。決して文化的スラムではない。決して。


 気づくと窓の外では雨が降り始めていた。霧の様な静かな雨だ。アスファルトはほんのりと黒く染まり、耳を澄ませば微かにパタパタと音が聞こえてきそうだ。雲がどんよりと空を覆い、ひんやりした秋の風が窓の外で音を立てずに舞い踊っていた。


そんな中で僕は目を閉じ、静かな雨について考え、彼女に二度と続きが読まれることのなかった小説の風景を想像し、彼女が気になっていた『熊』を連想し、そして今日の朝、最後となった彼女の白い肌のぬくもりを想い出していた。(了)

まったまった 2010/05/23 15:20 駄文としかいいようがないのが残念。
もう一つのブログも拝見しましたが
グダグダいきまいてるだけみたいで
気持ち悪かったです。

2006-09-23 『あの子に夢中』

f:id:jamming_groovin:20060924011754j:image  

  突然の雨が一瞬にしてやんでしまった後の様な静かな夜の部屋で男と僕はコーヒーを飲んでいる。男はブラックで、僕は人肌に暖めたクリームをたっぷり入れたモカを飲む。


男は上品そうにコーヒーをすすり、部屋を見渡して言う。

「何か音楽はないのかい?」

無意識に僕は立ち上がってプレイヤーにスティーリー・ダンの『Aja』のレコードを乗せる。ソリッドなベースのリフに乾いたスネアの音が交じり合う。

男は少しだけ体を揺らす。「いいね、最高だ」

僕は黙って肯く。


「で、君はその子に夢中なのかい?」と男は想い出したかの様に突然訊く。

僕はもう一度黙ってゆっくりと肯く。

「どんな子なんだい?」と男は興味深そうに僕の顔を見て訊く。

「素敵な子さ」

男がほんの少しだけ笑う。「どんな風に素敵なんだい?」

「とにかく素敵なんだ。僕らが無条件で『Aja』が好きな様に、僕はあの子が好きなんだ。夢中なんだ」

男は激しく頭を振って、カップをカチャリとソーサーに置く。「じゃあ、こういう質問はどうだい? その子のどういうところに惹かれたんだい?」

僕はじっくり考えてみる。男は息を殺してじっと待つ。バーナード・パーディの警戒なドラムソロが僕らを叩く。

「髪が長くて綺麗で素敵だ」

「他には?」

「笑った時に見える八重歯が素敵だ」

「他には?」

「指先が素敵だ」


男はため息をついてから幾分納得いかない表情を浮かべて更に訊く。「幾つなんだい?」

「このアルバムが出た年さ・・・一九七七年生まれ・・・・・・」

男はマルボーロに火をつける。「一九七七年、いい年だ・・・・・・二九歳」

僕もマルボーロに火をつけ、静かに肯く。

「最高だ」男が口元を緩めて言う。

「ああ、最高さ」と僕も微笑む。


今度は僕が男に訊く。「あの子は『Aja』が気に入ると思うかい?」

男は酷くびっくりして僕を凝視している。「どうしてだい?」

一週間前に北青山のカフェで彼女と会っ時、彼女は買い物帰りでCDショップの袋に『Aja』が入っていたのが見えたんだ、と僕は説明した。

男は当然の様に答える。「当たり前じゃないか」

「なぜ分かる?」

「なんとなくさ」と男は煙草をもみ消しながら言う。「『Aja』を好きな女の子に悪い子はいない」

少し間を置いて男は訂正する。「『Aja』を好きになる子はみんな素敵さ」

四曲目の「Peg」のコミカルなサクスフォンが僕らを何故かとても優しい気持ちにさせる。


僕は想像してみる。こんな静かな部屋で一人白く細い指でリズムをとり、ぷっくりした可愛らしい耳たぶにその素敵な髪をかきあげながらじっと耳を澄ますあの子の姿を。


男はコーヒーを飲み干して言う。「僕にできることはないかい?」

「たぶん、ないよ」

「とにかく何か協力できることがあったら言ってくれ」

「ありがとう」

僕がそう言うと、男は片目をつむってニッコリと笑った。


そして男が突然姿を消す。気づくとレコードは止まってしまっている。針がバチバチとレコード盤の端で微かに振動している。窓の外には何もない。風もない。音もない。灯りもない。あの子もいない。


それから僕はゆっくり立ち上がり、レコードを裏返して、三杯目のコーヒーを飲んだ。(了)

2005-10-08 『返却は、あした、になっております。 戞雰搬啀寨用)

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 時折僕はこんな風に考えている。

僕はこれまで退屈というものが好きだった。厳密に言えば、嫌いじゃなかった。東北の故郷の山合いの村に吹く退屈という名の風にはどこか温かみがあり、うっとりと僕を誘惑し、その中心に引きずり込まれてしまっても僕はそんな時間の中ならいつまでも漂う事が出来た。辺り一面から聞こえる見えない虫達の鳴き声に耳を澄まし、山の輪郭に沿って太陽がその赤みを帯びるまでをじっと遠くを眺め、時にはさらさら流れる川の縁に座って空に向かってダイブする魚達に喝采を贈ったものだ。短すぎる夏と、早すぎる到来と深刻で一切を眠らせてしまうとても長い冬、その間にあって必死に自己主張しながらも、まるで敵船を目前にしながら朽ち果てていく戦艦の様なあっけない春と秋。それでもそこには優雅で荘厳で、様々な色と音があり、飽きることのない情景があった。時間は恐ろしくゆっくりと流れながらも同時に僕を包んだ多くの退屈さは、若かったからだろう、人生の過程の上で必要だったのかもしれない。

就職で東京にやって来て一年。二回目の初夏を迎えるまでに僕を襲った幾千もの新たな退屈さは窮屈で棘があり、表情はなく、暴力的なまでに僕自身を溶解させてしまった。のっぺりとし、それでいて鋭角的な佇まいを見せる知らない都会の街並と、その中を盲目的にただ通り過ぎる人達、人工的で鼓膜を針の先でピリピリと刺激する様な騒音、何よりどこまでも形式的過ぎる季節の移り変わり。

それでも一年もすると仕事にも自然と慣れ、会社で同年代の友達も数人出来た。僕らの考えている事は若い男の誰もがそうである様に女の子の事や流行の洋服や音楽だったが、そこに横たわるものはお互いどこか違っていた。それはまるで北極と南極の違いの様だった。見るもの感じるものは全く同じ様であっても、それぞれ立っている場所みたいなものが根源的に違っているのだ。彼らの殆どは都会で生まれ、退屈さには無縁で、仮に些細な退屈さえも彼らなりの魔法でどんなものにも変えていけるんだ、という器用さと活力を持ち合わせていた。

そもそも休日にまで会社の人間と会うなんてまっぴらだ、という僕のささやかな信念と、必要以上の人間との関わりを持つ事が出来ない性格によって、週末になるとそんな新たな退屈さの中で僕は一人部屋で本を読み、いつからだろう、パソコンを使って小説を書き始めた。書くという行為そのものが退屈さを吹き飛ばしてしまう効力があるのかどうか僕には分からない。ただ僕は自分で紡ぎ出す世界の中では退屈さとは無縁だった。仮想の世界の中では僕も会社の友達同様に魔法を使う事が出来たのだ。

その時家の電話が鳴った。モニターの中の仮想の世界で主人公は電話で恋人に別れを告げられる所だった。

「村岡さんのお宅ですか?」と若い女性は淡々と現実的な声で言った。

「はい」

「桜丘図書館です。村岡さんのお借りになっている本一冊が返却期限を過ぎておりますので、お早めにご返却下さい」

思わず言葉を失った。借りている本って一体何なんだ? 僕は記憶の隅に視線を巡らせた。

「すみません。分かりました」

僕はため息をついた。どうしていつも忘れてしまうのだろう。銀行の支払いの期限もクリーニングの引き取りもレンタルビデオの返却も今まで忘れた事がないのだ。しばらく部屋を探してみると本棚から長い年月のせいで色褪せたフォークナー短編集が姿を現した。『エミリーにバラを』以外に特に印象はなかった。僕は着替えて桜丘図書館に向かった。

桜丘図書館は街の外れの公園の隣にあった。公立の図書館ではこの地域では一番古くて大きいのだろう。長年の雨風のせいで建物のはくたびれ、赤茶けた外壁の至る所には補修された跡があった。建物は三階建てで、地下には利用した者など見たことのない食堂と、書庫、一階はカウンターと、月一回古い昔の映画や子供向けのアニメを上映する視聴覚室があった。二階には開架書架、三階には自習室があった。

この数ヶ月、休日になると時折図書館にやって来るのは単に本が好きだったからでない。都会の中でさえもこの空間に満ちた特有の空気感はあの故郷の図書館と同じだった。田舎であっても都会であっても、背後に山が連なろうが高層ビルが立ち並びようが、図書館独特の物寂しさの中に穏やかな何かが対流する空間は僕をとても安心させた。そこにいる誰もが黙って本を読み、ここでは決して誰かを憎まず、声を上げて罵らず、苛立ちもせず、本を相手に無声の会話をしているのだ。書店の本達はどこか、読んでもらわなきゃ困る、といういささか悲壮感みたいなものが漂っている様に思えるが、手垢にまみれた図書館の本達は、私みたいなものでよければ、どうぞ、みたいな謙虚さがあって親しみが持てる。人間の方も、それじゃあ読ませてもらいます。はい。という本に対するある種の慈愛があって、誰もが黙々とページをめくる。その一切が織り成す、外界から隔離された密閉された瓶の中の様な世界に身を置く度に、僕は何事に対しても優しくなれる気がした。


一階カウンターにはよく見かける若い女性職員が座っていた。桜丘図書館では一番若いのだろう。

僕は『フォークナー短編集』をそっと置いて頭下げて言った。「すみません、遅れまして」

彼女は慣れた手つきでパソコンを操作し、僕を見上げた。唇はきっと結ばれていた。

「村岡さん、あんまり遅れないでください。」とその女性は呆れた様に言った。

「すみません」と僕はもう一度頭を下げた。彼女が返却に遅れて何かを言うのは初めてだった。そしてその口調と声のトーンが先程電話を掛けてきた女性だったとその時気づいた。

二階に上がると思ったより多くの利用者がいた。僕の周りを走り回る小さな子供達を母親らしき女性が「シーッ」と唇に人差し指を当てて叱った。高校生のカップルが寄り添いながら座り、一つの本を見ながら笑い合っていた。その傍で浮浪者らしき中年の男性が座ったまま口を天井に向け、微かにいびきをかきながら寝入っていた。それ以外声らしき声はあまりなかった。新聞をめくる音、咳払い、そして六月にしては蒸し暑いからだろう、空調の音が日曜の館内全体を静かに覆っていた。本を一杯大事そうに抱えた職員が数人通り過ぎて行った。

しばらく僕は幾つかの本を読んだ。チェーホフとスタインベックの短編集だった。どれもあまり夢中にはなれなかった。目の前のリファレンスカウンターにはついさっき一階にいたあの女性が座っているのが視界に入っていたのだ。まじまじと見るのは初めてだった。彼女はとても退屈そうだった。ごくたまに二十センチ先位の空中に向かってため息をつき、利用者が来るとふと急に顔を上げ、一拍置いてから返事をしてテキパキと対応した。そしてまた一人になると物静かに俯いたまま固まり、何気なくほんの少し顔を上げ、ぼんやりと遠くの壁の一点を仔細に見つめていた。僕は気付くとページを止めたまま、潮の満ち引きの様に繰り返すそんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。彼女はこの仕事がは酷くつまらなそうであり、酷く楽しそうでもあった。特に美人ではないが、目はくりっと大きく、高い鼻が特徴的だった。顎はすっとシャープな線を描き、わりに気の強そうな感じがした。それでもどこか愛嬌があり、幾分人より遅れたスローな仕草と、ふとした拍子で出る哀しみや寂しさをほんの僅か抱えた様な表情が対照的だった。いつしかそんな彼女の姿を見るのも飽きて僕は再び活字の隙間に潜り込んだ。

スタインベックの短編の一つ『菊』で、主人公の女性がいとおしく育てた菊の鉢植えを通りがかったある旅の修理人の男に分けてやるが、離れた所の道端に新芽だけが捨てられたているのを彼女はしばらくしてから目撃する。そして彼女は隣にいる主人に隠れて黙って涙を流す。それは僕がこの一年でこの街と社会で感じてきた事だったのかもしれない。最も大事な部分、最も大切で理解して欲しい事にこそ他人は素通りしていくものだ。自分にとって有益なものだけを相手から根こそぎ奪い取り、そんな時こそ彼らは無自覚で凶暴な微笑みを浮かべるのだ。

僕は思い立って一つの本を探していた。文庫の『アンナカレーニナ』の中巻だった。僕は先程その中巻が本棚にしっかりあるのを知っていたし、それを借りる予定だったのだ。本棚からたった一時間で姿を消してしまい、一応僕はカウンターの彼女にその事を訊いてみた。

「ないんですか?」と彼女は訊いた。

「ええ、ついさっきまであったんですが」

彼女はパソコンで調べ、それが貸し出し中でない事を告げた。「誰か読んでいるんじゃないですか?」

「分かりました」と僕は力なく答えた。

背が高くほっしりとした彼女が館内でテキパキと仕事をこなす様子をそれからしばし目撃した。ちょっと意外だった。先輩らしき男性職員に、はい、分かりました。ああ、そうですか。すぐ取ってきます。と言ったり、顔を赤くしながら必死に重そうな本を何冊も抱きかかえながら開架に慣れた手つきで本を戻した。ある老人の利用者には、はい、その本はこちらでございます。ああ、ちょっと高い所にありますので、と言って台椅子を持ってきて本を取ってあげ、老人に、どうぞ、と愛くるしい笑みを投げかけていた。動作が俊敏で無駄がなく、僕は関心してそれを眺めていた。

その時彼女が背後から肩をちょこんと叩いた。彼女は僕を見上げ小さな声で言った。

「これですよね?」と彼女は僕に探していた『アンナカレーニナ』の中巻を手渡した。

「ああ、ありがとう」と僕は言った。

「ごめんなさいね、実はさっきカウンターでこれ読んでたの」と乾いた声で申し訳なさそうに言った。

僕は彼女の言っている事がよく分からなかった。

「本当はいけないんだけど……村岡さんだよね? 村岡さんが急に来て、探している、って来たから驚いて嘘ついちゃったの」

彼女は辺りに誰もいない事を確認してから続けた。「仕事中にはあんまり読んではいけないの。当たり前だけど。にしても、まさか『アンナカレーニナ』を読んでて、いくら名作とはいえ偶然にもそれを探しているなんて……」

彼女は肩まで伸びた真っ直ぐな髪をすっと両手でかきあげた。染めてから数ヶ月経っているのだろう。根元から数センチ程には既に黒髪が顔を覗かせていた。

「偶然だね」と僕はとりあえず言った。それ以外何て言ったらいいか分からなかった。

「でね、悪いと思ったけど、さっき村岡さんの今まで借りた本を調べてみたの」と聞こえるか聞こえないか位の小さな声で言った。「結構シブイ趣味しているんだね」

「調べた?」と僕はびっくりして訊いた。声が大きかったので彼女は自分の唇に人差し指をあてて、ぺろっと舌を出した。

「これもあんまりいけない事なんだけどね」と彼女は僕の全身に視線を配らせてから言った。「村岡さんってまだ若いでしょう? 多分、私よりも少し若い位ね。このご時世にドストエフスキーやらトルストイやらフォークナーやらを読んでるこんな若い男の人って凄い珍しいと思う」と本当に物珍しそうに言った。

「駄目かな?」と少しむっとして尋ねた。

彼女は黙ってかぶりを振り、シャツの襟を直しながら答えた。「私も似た様なもの。」

「ふうん」と僕が言うと図書館職員が身につけるデニムのエプロンの胸元のネームプレートが目に入った。『白河里枝』

「あ、仕事、仕事」と思い立った様に言い残し、白河里枝という名の女性はスタスタと歩いて行ってしまった。


               * * * * * * 

  

 

 『アンナカレーニナ』の中巻きを読み終えたのはそれから三週間経った頃だった。白河里枝は数日前に図書館から電話を掛けてきていつも通り催促した。

東京の二回目の七月は恐ろしく暑く、樹々の下を選んで歩いていてもじっとりと汗ばんだ。太陽は手を伸ばせば届きそうな位置にある気がした。アスファルトは視界の中で歪み、いたずらに僕を苛立たせているみたいだった。

桜丘図書館はクーラーが効いているからだろう、沢山の利用者で溢れていた。座る場所がないからか床にかがんだままじっと本を読みふける者があちこちに見られ、学校が試験休みなのか制服を着た学生達の騒がしいしゃべり声が轟いていた。

「やっと返してくれた」と白河里枝がため息まじりに話しかけてきた。エプロンの下にはピンク色のやや小さめのTシャツを着ていた。

「すみません」

「あの時ちょうどいい所だったの」と唇を噛みながら言った。「中巻の最後の方だったけど。ねえ、読みたい本を一ヶ月待つ心境って分かる?」

僕をもう一度謝った。それにしてもなんでそこまで言われなくちゃいけないんだろう、と僕は思った。他の図書館にもあるだろうし、そもそも買えばいいなじゃいか。あなたは図書館の職員で、僕は利用者なんだ。

「ねえ、私が読みたかったから、って言ってるんじゃないんだよ。村岡さんの借りた本を後ろで待っている人がこういう風に思っているかも知れない、ってこと」と腕を組んで諭す様に言った。

僕は再び謝った。「気をつけます」


夕方、一階玄関脇にある喫煙所で僕が煙草を吸っていると彼女が外から缶ジュースを持って入って来た。「暑いわねえ」

「休憩?」

彼女は立ったまま美味そうにジュースを一口飲んで言った。「うん」

Tシャツの胸元にパタパタと風を送り、しばらく通り過ぎる車や下校途中の子供達を眺めてからデニムのエプロンの紐を外し、膝の上にたたんで僕の隣に座った。

「煙草吸うのね」

「うん」

「私もつい三ヶ月前まで吸ってたの。だからいつも休憩はここだったんだけど、もう煙草辞めたし、ここ暑いし。でもなんか癖ね、ここに来ると落ち着く。」

「よく辞めれたね」

「辞めなきゃいけなくなったから」と独り言の様に言った。彼女はもう一度外を眺め、それについて深く言いたがらない様子だった。「図書館って静かでいいんだけど、こう見えても人は結構いるしわりに疲れるの。こういう狭い場所であんまり人のいない所だとふと気が落ち着くの」

「邪魔かな?」

彼女は顔の前で手のひらをヒラヒラと揺った。「全然、気にしないで、あっ、これあげる」とエプロンポケットからレモン味の飴玉を一つ僕に手渡した。「見てよ、こんなに一杯あるの。煙草辞めたら口寂しくなってね」見るとエプロン一杯にどっさりと飴玉が入っていた。

「仕事中飴舐めるは、本読むわ、どうしようもない職員だね」と僕は冗談ぽく言った。

「そうね、どうしようもないね。でも、こう見えてもちゃんとやってるんだから。返却期限を守らない利用者に言われたくない」と微笑んで言った。

「確かに」と僕も微笑んで言った。

  

                    * * * * * * 


 それからというもの僕を図書館で見つけると彼女は「こんにちは」と話しかけてくる事もあった。相変わらず返却が遅れた事に小言を漏らす事もあったが、彼女はそれを言うことが楽しみの一つになっているかの様だった。むしろ返却日前に持って行った時などは、当然よ、ふん、とみたい素っ気ない態度でとりわけ話しかけてこようとはしなかった。逆に、はい、よく出来ましたわねえ、とまるで子供がおつかいが出来たみたいに言って僕をからかったりもした。僕はそんな彼女の一貫しない態度が不思議でたまらなかったが、きっとここでは一番下っ端? の彼女のストレス発散の一翼を担っているのだろうと勝手に解釈する事にした。ある時は背後からすっと近寄り、僕の読んでいる本を、それイマイチ、とか、それ絶対借りるべき、と教えてくれ、ミステリーを読んでいるときは、なあにそれ? と訊いてきて、それ○○が犯人よ!と一言だけ言って一目散に逃げて行った。時には僕は彼女に幾つかの本を薦めて、うん、読んだけど面白かった。と感想を聞かせてくれた。

喫煙場所や本棚の影で僕らはそうして色んな話をするうちに、僕と彼女の文学的嗜好というべきものに幾つか共通点があるのが分かった。僕は若い癖にリアルタイムの小説に、そして国内の小説に恐ろしく興味がなく古い海外文学ばかりだったが、彼女は最近の国内の女性作家を好んで読んだ。彼女の挙げた作家や作品どれも知ってはいたが僕は全く読んだ事がなかった。しかし、彼女がそこまでに至る過程で読んだ古い海外作品の好みは僕のそれと一致した。そして言葉や文体、リズム、その隙間に潜む独特の世界観に共感した。ドストエフスキーとトルストイが僕らにとって神として君臨し、その下に戦前戦後辺りの欧米作家達が続いた。

僕らはそうして次第に親密になり、僕はそんな彼女に好感を持ち始めていた。文学的嗜好だけではない、お互い自身の中で、どんなものに喜び、苛立ち、どんな空気の振動に心が揺れ動かされる、そんな些細な点でも恐ろしく似ていたのだ。それでも僕を混乱させ、時に苛立たせ、ある時は強烈に惹きつけられたのが彼女自身の風貌だった。彼女はこざっぱりとしたモノトーンのシャツや体の線を強調した様なTシャツと、スカートでなくすっと長い足が目立つGパンをスマートに着こなしていた。そんな彼女の服装と化粧気はいつも街で見かける都会の若い女性そのものだった。身のこなし、仕草、佇まいはスタイリッシュで僕の世界の埒外にある様だった。それでも僕と話す時に見せる大きな瞳の奥底の一点に感じるある種の寂しさみたいもの、相手の言葉を飲み込んで数秒してから言葉を探しながら話す細やかな口の動き、カウンターで時折見せる物寂しい表情。そのアンバランスさが、僕が育った故郷の村の女の子達の断片と重なり合った。特に白河さんの都会的な服装の上にまとった図書館職員のエプロン姿は全く似合っている様でもあり、そうでない様にも思えた。仕事中の彼女はどこかこの都会と切り離され、僕が昔感じた様に、彼女の中ではきっと時間がとてもゆっくり流れているんだろうな、と思った。そんな彼女には誰もが共感するであろう暖かさと、ユーモアさと、人の良さが滲みでていた。特に僕は尚一層強く惹きつけられ、気づいた時には彼女に対する好感みたいなものはいつしか好意に変わっていた。


僕の会社は銀座にあり、友人とはごくたまに渋谷や新宿に遊びに行った。何もかもが揃い、合理的に手に入れられる利便性に感心し、同時に驚きさえもした。しかし僕は何故か相変わらず居心地の悪さを感じざるを得なかった。いつも早くこの雑踏から逃れたいと思った。人は肩をぶつけ合いながら歩き、攻撃的で、車が殺人的に走り回る。しかしそんな街にある種の慣れを感じてきたと実感するきっかけになったのは、僕にとって一番身近な白河さんの存在だった。街中で多くの若いカップルを見ていると、仮に僕の傍に彼女がいたらこんな街でさえも美しく見え、数限りない甘美な誘惑の中で心踊り、魅了され、キラキラした眩しい位のネオンの下でとても生き生きとし、僕は新しい世界の真の住人になれる予感がした。いや、そうしたいんだ、とはっきりと思った。

2005-10-07 『返却は、あした、になっております。◆戞雰搬啀寨用)

八月の東京は体の芯まで僕をとことん苦しめた。暑さは暑さを超えて痛さに変質し、降り注ぐ陽光はずっしりと体全体に重くのしかかった。仕事の疲労が追い討ちをかけてダウンし、数日間会社を休んだ。やっと歩ける様になったのは既にお盆を過ぎた辺りで、僕は借りていた本を返しに桜丘図書館に出かけた。


「久しぶり」と彼女は僕が返却を遅れた事なんかどうでもいいみたいに言った。

「ちょっと体調が悪くてね」

「あらそう」とリファレンスカウンターでパソコンを睨みながら言った。「ねえ、も少しで休憩だから地下の食堂で何か飲まない? 喫煙所は暑くてクーラーきいてないでしょう? 食堂は煙草吸えないけど、いい?」

地下の食堂は昔教科書で見た旧ソ連のどこかの施設みたいだった。のっぺりっとした灰色の壁が無機質に広がり、異様に天井が高かった。テーブルには六つの椅子が並べられ、食堂内に不気味なほどに整然と置かれていた。メニューはカレーや、ラーメンや、ナポリタンなどがあり、きっとスキー場や海の家のそれと大して変わらないんだろうな、と思った。客は誰もいなく(当たり前だ)、長い間油が染み込んだ様な黄ばんだコックコートを着た太った男性の調理人と配膳係であろう中年の女性が奥のほうで昨日観たドラマについてあれこれ話しているのが耳に入った。

白河さんは僕にコーラをおごってくれた。

「最近肩こりが酷いのよ」と自分で片方の肩を揉みながら疲れた様な声で言った。「村岡さんはそういえば幾つなの?」

「二十四歳」

「そうなんだあ」と彼女はゆっくりコーヒをかき回しながら言った。「私は二十六歳」

「この仕事どれ位になるの?」

「三年かな」

「面白い?」

「そうねえ」と今度はもう片方の肩を揉みながら言った。「肩は凝るね。確かに」

僕は少しだけ笑った。

「楽しいよ。昔から本が好きだったし、本に囲まれて仕事をしたいと思ったの。小さい頃から図書館っていう場所が好きでね。そうねえ、私は学生時代にウェイトレスとかのアルバイトやったり、普通の企業の就職も考えて就職活動もしたけど、本は何も要求しないんだよね」

「要求?」と僕は尋ねた。

「うまく説明出来ないけど、ここでは全てが本を中心に回っているの」とあらたまった口調で言った。「普通の仕事では、お客さんとか、会社だったら会社そのものだったり、取引先だったり、色んな事を要求してくるでしょう? サービス、成果、実績なんかをね。でもここにやって来る人達は私達職員に直接は何も要求しない。要求というより求めているのはあくまで本の中にあるの」

「分かる気がするな」とコーラをすすりながら僕は言った。

「その人達が、読んだ本が面白くなかったからどうしてくれるんだ! とは決して私達職員に苦情なんか言ったりしないでしょう? 利用者は本と本の中にある何かを求めて、ここ、もしくはお家で黙って本を読む。私達は彼らが求めているものに対して間接的に、それでいて迅速かつ親切にその環境みたいなものを作るお手伝いをしているの」

彼女は俯いてほっそりとした指先を一本一本触りながら続けた。「読書というものがある意味において現実逃避なら、ここは癒しの場所かもしれないね。そこに何かしら協力出来るのが嬉しいの。」

「具体的にどんな仕事をしているの? 大体は分かるけど」

彼女はそれからびっくりする位に楽しそうにしゃべり、自分の仕事を細かく説明した。朝は閉館中に返却ポストに返された本の返却処理からはじまり、本棚に戻し、棚の整理をして、本を見やすく探しやすくする。新聞の整理、地域の記事や図書、図書館に関する記事を新聞から朝・夕刊を毎日チェックしてスクラップにして保存する。また、選書会議に参加して話題の本や図書館に必要な本、利用者から寄せられたリクエストなどに応じて選書、発注をする。それとレファレンス業務や、痛んだ本の修理、催しものの企画などだ。そこには誇りがあり、課せられた職務を遂行する喜びみたいなものが満ちていた。

「結構大変なんだね」と僕は正直驚いて言った。「それにしてはサボっている事が多い様に思えるけど」

彼女はあっさりと言った。「要領よ、要領」

今度は彼女が僕の事を訊いた。東京に来てまだ二年目だという事、普通の会社で営業の仕事をしているという事。とりたてて山場のある話ではなかった。

彼女は首を傾げて訊いた。「趣味とかは?」

僕がしばらく考えていると、彼女は人差し指を立てて見透かした様に言った。「本を読むこと」

「うん、それもある。あとは……」

「あとは?」

「書くこと」

僕は答えて恥ずかしくなった。

「へえ」と彼女は僕の顔を覗き込んだ。「以外ね。どういうの書いているの?」

「普通の話だよ」

「いわゆる純文学?」

「まあね。みたいなものだよ」

「ねえ」と彼女は突然クスクスと笑った。「二十四歳で休日を図書館で過ごして普段は趣味で小説書いている、なんてちょっと変わってるんじゃない?」

「そうかな」

「でも一度読んでみたいな、村岡さんの書く小説。今まで誰かに読んで貰ったことはあるの?」

僕は「ない」と答えた。「人に見せる様なものじゃないから」

「いいのよ、是非読ませて。今度絶対持ってきてよ」とピシャリと言った。「読者第一号になってあげるから」


                  * * * * * *  


 翌週末、図書館で僕は書き溜めていた物語をプリントアウトした原稿を黙って白河さんに渡した。どれも短い話で、どれも東北の故郷の村が舞台だった。木こりの父親が山で行方不明になって探しに行く息子の話。親友と半分凍った川で釣りをしながら会話をするだけの話。憧れだったの女の子が帰郷すると結婚していたというちょっとした失恋物語なんかだ。


彼女は「ありがとう」と言って受け取りにっこり笑った。「二時から二階カウンターだから読ませてもらうね」

僕はその間、何冊か雑誌を読み、新聞をとっていないのでその日の新聞を片っ端から読んで時間を潰した。でもそれは記号の羅列の様にしか思えなかった。カウンターの彼女は俯きながら原稿にじっと視線を落としていた。ごくたまに利用者に応対をし、パソコンのキーをカチャカチャと打つ音が微かに聞こえた。しばらくして彼女が僕の隣に辺りを気にしながらゆっくりと腰を降ろした。

「うん、面白かった。情景が凄く浮かんでくるし。」と爪先をいじりながら言った。「あと、スラスラと読めたよ」

「ありがとう」と僕は言った。

「でもね、思うんだけど」彼女はちらりと僕を見て続けた。「視覚的な描写はいいんだけど、心情描写が幾分多すぎて、言い方が分からないけど、あえて書かないで読者に察してもらう、みたいな部分があってもいいんじゃないかな」

僕は膝の新聞紙を折りたたみながら黙って聞いていた。

「ごめんなさいね。まあ、こういう仕事してて本が好きでこれまで結構読んだからね。気にしないで、私個人の意見だから。もしかしたら他の人は今言った事の逆を言うかもしれないし」

「気にしないよ」と僕は彼女を見て言った。その横顔から見えるすっと伸びた鼻がとても素敵だった。

僕はもう一度言った。「ありがとう」

「ねえ、今日は何を借りるの?」

僕は一冊の本を見せた。『戦後の日本文学と日本経済』

彼女は目を丸くした。「そんなのも読むの? あれ、それって新刊じゃない。ちゃんと返してよ」ときっぱりと言った。「そうそう、まだ書いている小説あるの?」

「あと幾つかあるよ。今度持ってきていい?」と訊いてみた。

「ええ」と彼女は複雑な笑みを浮かべた。「持ってきて。この本と一緒に返却日にね」と更にきっぱりと言った。


いつからだろう、僕は本を借りる為ではなく彼女に会う為に図書館に休日決まって足を運んでいる気がした。借りる本なんて何でもよかった。中には昔一度読んだ本さえあった。それ以外には太平洋戦争の特攻隊員の私記やら、イタリア料理のレシピ本、生態学の本なんてまであった。帰宅すると僕はいつもため息をついた。どれも一行たりとも読まなかった。でも何故かその頃から返却日をきちんと守った。むしろそれよりも前に行くことはなかった。きっかり貸し出し期間の二週間だ。それが僕らにとって、いや、少なくとも僕にとっての暗黙のルールだったのだ。きっかり二週間後の返却日に本と書いた小説を持って僕らは図書館で会う。

彼女はその度に的確な批評をしてくれた。いさかか深読みし過ぎる感は否めなかったが、その殆どに僕は心底納得した。女性はこういう時こんな事言わない、とか、ここは書かなくていいとか、ここはもっと掘り下げて書くべきよ、とか。次第に彼女は僕の小説を読むこと、いや、批評する事に楽しみを見出している様に思えた。同時にふと僕はいつか彼女について書きたいと思った。図書館で働く女性と若い小説家志望の男の仮想の話。背中を押してくれたのは彼女の方だった。

2005-10-06 『返却は、あした、になっております。』(携帯閲覧用)

「村岡さん、凄い変なお願いがあるの」と彼女は恐ろしく真剣な顔で言った。


九月も終わりに近づき、吹く風の後ろの方にはもう秋の穏やかさとその匂いががほんの少し混じり始めていた。

ある日曜、図書館の喫煙場所で煙草を吸っていると彼女がやって来て僕の隣に座り、聞こえるか聞こえないかのため息を漏らした。

「私が登場するお話を書いて欲しいの」

「白河さんが?」と僕はびっくりして訊いた。

彼女はエプロンのポケットからレモン味の飴を一つ取り出して無言で手渡して言った。「なんとなく。今まで色んな本を読んで、こんなに多くの本に囲まれて働いているのにどの本にも自分みたいな人間がいないの」

僕はよく分からなかった。「自分みたいな人間?」

「それに似た登場人物はいたかもね。でもね……」長い間彼女は黙っていた。その間、通り過ぎる上司らしき職員に申し訳なさそうに視線を注いだ。

「なんか素敵じゃない? 自分が登場するお話って」と急に明るく表情を変えて言った。

「シンデレラ願望みたいなもの?」

「かもしれない。シンデレラガンボウ」と彼女も繰り返して言った。

「自分で書こうとは思わないの?」と僕は煙草をもみ消して飴を口にほ放り込んだ。「これ、ありがとう」

彼女はかぶりを振って、消えかかる煙草の煙の行方を目で追いながら答えた。「書こうとはした事はあるけど、大分昔ね。でも本をよく読む事と書くことは全く別だと思う。食べる事と作る事の違いみたいにね。私は食べる専門」

「でも、あの食堂の調理人、太ってるよ」

彼女は「あはは」と口を押さえて笑った。「そう人もいるわ。村岡さんみたいに。でも私は違う」

「でも、僕は白河さんの事をあんまり知らない」

彼女は僕の顔を優しく見ながら訊いた。「知りたい?」

僕は肯いた。「白河さんがどんなものに興味を持っているとか、好きな食べ物とかさ」

「ううん」と彼女は空中に何かを探す様に考えて答えた。「じゃあ、生き物が大好きで、犬二匹、猫四匹を飼ってる」

「そんなに? ムツゴロウみたいだな」

彼女はクスクス笑って続けた。「食べ物は、ハーゲンダッツのアイスクリーム。それとドラクエと温泉が好き、音楽はダニー・ハサウェイ。みたいな感じかな」

僕は驚いた。「なんか滅茶苦茶だな。イメージと全然違う。ドラクエやりながらハーゲンダッツのアイス食べてBGMはソウルミュージック?」

「そう。書きづらい?」と困った様に訊いた。

「分かったよ」と僕はしばらく考えてから言った。「短いのでもいい?」

「ええ、凄く嬉しい」と感じの良い爽やかな笑顔を見せた。いつも見るどこか陰鬱な表情は微塵もなかった。

その日の夜、僕はパソコンのモニターに向かっていた。言葉が溢れる度にむしろ手が何故か止まった。これは小説なんだ、と一人かぶりを振った。フィクションなんだ、そう、存在しない図書館で働く存在しない女性と存在しない若い小説家志望の男の話。その中では僕らは本当の僕らじゃないんだ、と。それでも湧き上がる暖かい想いや、濃密ながらも漠然とした昂ぶる感情の塊みたいなものが僕を酷く混乱させた。生々し過ぎる言葉ががむしろ書かれるべき言葉を吹き飛ばしていった。必死に目を閉じて心の色の様なものに一つ一つ言葉を当てはめ綴っていった。そして僕は最初にこう書いた。

『時折僕はこんな風に考えている。』

 

                 * * * * * * 


 決まって二週間後、僕は新しい小説の最初の部分を持って図書館に出かけた。いつも通りに二階カウンターで白河さんは僕の原稿を仕事の合間にじっと読みふけっていた。僕は探している本の検索をしてもらう為に彼女に尋ねた。

彼女はパソコンのモニターを睨みながら事務的に答えた。「それはA192の欄にあります。」そしてゆっくり顔を上げ、眉をしかめて訊いた。「ねえ、読んだけど、これって実話?」

僕は黙っていた。

「ここに出てくるのは私と村岡さん?」と幾分納得いかない様に頬杖をして訊いた。

「違うよ」と僕は断固として答えた。「確かにシチュエーションはそうかも知れないけど、架空のお話だよ」

「ふうん、それで田舎から出てきたばかりの主人公の彼は借りた本を返しに来て、図書館で『私』みたいな人に会う。ここまでだけどこの後どうなるの?」

「まだ分からない。考えていない」

彼女は急に表情を明るくして言った。「でも、まあ、とにかく続きが面白そう」


 次の二週間後の夕方、僕ら以外誰もいないあの食堂で二人ともどこか黴臭いオレンジジュースを飲んだ。例の調理人が調理場の床をデッキブラシで擦る音が響いていた。

「どうかな?」と新しい原稿を見て訊いてみた。

「なんかあまりに実話過ぎて怖い部分もあるけど」そこまで言って彼女の言葉はピタリと止まった。「主人公はこの女の子に恋しているのね」と曖昧な表情を見せて言った。

「まあね」と僕は肯いた。

彼女はオレンジジュースをすすりながら長い時間静かに僕を凝視していた。「それで主人公は彼女の為に小説を書く」

「そう」

「ねえ」と彼女は突然話題を変えた。「村岡さんの小説には寒い所の話が一杯出てくるよね?」

「僕が山形生まれだからね」

「私は東京生まれだから分からないけど、冬とかもの凄く寒いんでしょう? 雪が何メートルも降って」

「そこで生まれ育って慣れてるからそんなに寒いとは思わないよ。去年の東京のあの底冷えした寒さよろりも増しだよ」

彼女は目を丸くして言った。「本当?」

「うん、こっちの寒さは、なんというかな、肌に突き刺さる感じなんだ。じんわりでなくズキッと体内に入り込んでいく様なね。向こうは確かに気温としては寒いけど、雪があってどこか滑らかな寒さなんだ。」

「ふうん」と彼女はグラスの氷をコリコリと噛みながら訊いた。「北海道って行ったことある?」

「ないよ」と僕は幾分驚いて答えた。「どうして?」

「なんとなく。もっと寒いのかなあ?」と憂いに満ちた顔で訊いた。

「どうだろうね。親戚が北海道のかなり奥の所に住んでいて言ってたけど、確かに寒いけど自然があって結構いいらしいよ。キツネやら鹿が普通に道路を横切るらしいし。もし行ったとしたら白河さんには合うんじゃない? 動物好きだしね。ムツゴロウ王国みたいで」

彼女は薄くなったオレンジジュースを最後まで飲み干して笑った。「そうねえ、ムツゴロウ王国。そういう所ってきっとどこでもバターのCMなんかが撮れちゃうのよね。多分だけど……まあ、北海道も悪くなさそうね。」

彼女は再び原稿に視線を落として訊いた。「これ、次で結末でしょう?」

「うん」

「大体考えてあるの?」

「いや全く。全然思い浮かばない。実のところ。白河さんだったらどうする?」

彼女は腕を組んで、ううん、と唸り、随分長い間考え込んでいた。

「私だったら、そうね、彼は彼女に物語を書く訳よね? で、その返事として彼女の方も頑張って彼に物語を書くの。その彼女の書く物語の結末に答えがあるの」

僕はしばらくそれについて考えていた。「でもそれ大変だなあ。物語の中に二つの物語入れるなんて。で、ハッピーエンドなの?」

「そうね。書く方は大変だもんね。だから言ったじゃない、私は食べる専門だって。ハッピーエンドかそうじゃないかなんて分かんない。今思いつきで言ったもの」

「でも、それ面白いかも」と僕は言った。

「そう?」と嬉しそうに彼女は笑った。「物語の中では<食べる専門>の彼女が彼に対して小説を書くの」

「オマージュみたいな?」

「うん。」と彼女は肯き、「ねえ」と思い立った様に言った。「ここに出てくる彼女が小説を書くんだったらペンネームみたいのがの必要かな?」

「どうかな。図書館で働く彼女が書く小説にペンネームなんか必要?」

「確かにね。でももしよければそうしてくれると嬉しいな。名前は考えて」

僕は全然思い浮かばなかった。「何かヒントみたいのないかな? 白河さんに関連したキーワードで考えるよ」

「そうねえ」と彼女はぼんやりと僕を眺めて答えた。「私、花水木っていう花が好きなの。」

「ハナミズキ?」

「知ってた? あの喫煙所から見えるけど図書館の玄関の脇にあるよ。」

「知らなかったし、どんな花か知らないな」

「東京にはあちこちにあるよ。あんまり山形ではないかもね。匂いも好きだし、白やピンクや赤や色とりどりの花を春ごろに咲かせるの。秋には実をつけてね。ここでこうして働きながらそんな移り変わりを見るのがとっても好きなの」

「じゃあ、水木って言う名前は?」

彼女は親指を立ててにっこりと微笑んだ。「いいね。それ」

彼女は壁時計をちらりと見て席を立った。「休憩時間終わっちゃった。仕事に戻らなきゃ……これ完成したら、どうするの?」

僕は彼女を見上げていた。彼女の表情にはこれまで僕が見た中で最も深刻な静けさみたいなものがべたりと張り付いていた。

「白河さんにあげるよ」

彼女は必死に表情を崩して薄っすらと小さな笑みを浮かべた。

「ありがとう」


結局、僕は二週間近くその小説の結末に一文字も費やす事が出来なかった。仕事がこれまでが嘘だったみたいに波になって襲い、精神的にも肉体的にも言葉を紡ぎだす作業にはいささか疲れすぎていた。しかしその波が収まったのは僕が図書館に行くべき前日だった。

仕事から帰るとその声は家の留守電から聞こえた。白河さんだった。

「村岡さんのお宅でしょうか? 桜丘図書館です。お借りになった本の返却は、あした、となっております。必ずご返却ください」

僕は何度もテープを再生して彼女の声を繰り返して聞いた。あした、ってなんだ? なんで前日に電話にしてくるんだ? 僕の借りたプローディガンの『西瓜糖の日々』なんて誰も待っているはずがないじゃないか。

僕はその夜必死に小説の結末を考えていた。そしてはっきりと何かを感じた。いや、知覚したのだ。今まで僕の中にチラチラと姿を現していた影の様なものの輪郭を捉えたのだ。もしかしたら僕は例の退屈さの中にもういないんじゃじないか。退屈さが自然と作り出す書くという行為。誰にも読まれる当てのない物語。その中に僕はこれまで漂っていたのだ。でも今は違う。読んでくれる相手がいる物語なんだ。その先には現実的で、一年間この慣れない都会で感じてきたあらゆる種の退屈さなんか微塵に吹き飛ばす事の出来る何かがあるんじゃないか。僕は書いた。湧き上がる言葉を生々しいままに書き続けた。

小説が最後が完成したのはそれから四日後だった。仕事を早く切り上げ僕は桜丘図書館に走った。辺りは半分程日が暮れて、普段の日の夕方の図書館を週末よりも暗く沈んだ空気がひっそりとの包み込んでいた。

2005-10-05 『返却は、あした、になっております。ぁ戞雰搬啀寨用)

あの日以来、僕は桜丘図書館には行っていない。小説も書いていない。理由は分からないが好むと好まざるとに関わらずこの都会の退屈さに慣れすぎてしまったのかもしれない。いや、退屈さを感じる事さえいつしかなくなってしまっていたのだ。そして昔の故郷のあの退屈さと同じ様に、あの僕にとっての最後の小説もどこかに失くしてしまった。あの時僕がどんな事を書いたのかさえ必死に思い出そうとしても思い出せない。それはまるで薄い靄のかかった森の奥深くの洞窟の中に閉じ込められてしまったみたいだった。仮にも僕はもうあの退屈さには溶け込めないだろう。それが大人になったというのか、歳を取ったというのか、それとも変わってしまったのか、分からない。僕にはもう妻がいて、三歳の娘がいて、退屈さなんか入りこむ余地がないのだ。現実の足元に横たわる倒れた巨木や転がった巨岩を取り除く事に精一杯なのだ。

結婚して僕は二つ隣の街に引越し、家の近くには桜丘図書館よりも大きな図書館が建っていた。本の量も多く、特に子供向けの児童書が充実していてたので僕は娘を連れてよく利用していた。


ある日曜日に突然家の電話が鳴った。若い女性の声だった。どこか聞き覚えのある様な声でもあり、そうでない様にも思えた。

「桜丘図書館です。予約された本一冊が手違いでこちらの図書館に回ってきてしまっております。すみませんがこちらまで取りに来て頂けますでしょうか?」

僕は驚いて事情を訊いた。娘の為に予約していた童話の絵本がその女性の言うとおり近所の図書館でなく手違いで桜丘図書館に回されてしまったのだ。人気の絵本なのでそちらの図書館に回す時間はなく、次の人も待っているのでこちらまで取りに来て頂けないか? とその女性は本当に申し訳なさそうに何度も何度も自分達の非を詫びた。

「分かりました」と僕は答えた。


何年ぶりだろう。僕はあの図書館の前に立っていた。

桜丘図書館はあの時とどこも変わっていなかった。ただ年月の分だけコンクリート壁の色は褪せ、ひびが至る所に入っていた。利用者が減ったのか、休日にも関わらず館内は驚く程しんとしていた。図書館独特の、しん、ではなかった。読まれるを望んだ無数の本達の無言の涙の様だった。

僕はしばらく気の向くままに幾つかの本を手に取ったが、それはどうしてか僕に読んでいる事を望んでいる様には思えなかった。その時、突然、僕が不意に足を止めたのは新刊のコーナーのある一冊のハードカバーが目に入った時だった。

僕は緊張し、そして遥か昔若い僕を包んだあの退屈さがどこからか吹き荒れ、あの時間の中心へと、その深淵へと導いていった。喉が急に渇き、息を飲んでその場に数分の間木立の様に立ち尽くしていた。体のあちこちの神経が音を立てている気がし、全身は小刻みに震えていた。気持ちを落ちつかせようと僕は窓際の椅子に腰を下ろした。そしてゆっくりと深呼吸をし、その本のページをめくった。窓の外には地面から伸びたハナミズキが僕の目線の所までそびえ立ち、幾つもの鮮やかな色に染まった花達が僕に向かって微笑んでいる様に見えた。その時僕は自らの目に薄っすらと涙が滲んでいるのを感じた。どうして泣いているのかさえ分からなかった。泣くのなんて本当に久しぶりだった。

その瞬間だった。目の前には二四歳の僕がいた。椅子に座って黙って本を読みふけ、その先にはカウンターに座ってじっと同じ様に僕の書いた小説を読む白河さんがいた。時折、彼女は持っているペンを指の上でクルクル回しながら利用者数人に電話をして「……本の返却期日が遅れていますので、返却の方よろしくお願いします」と原稿を読み上げる様に言った。

あの時の僕はふと本から視線を上げ、そんな彼女にばつの悪そうな笑みを浮かべていた。彼女は受話器を持ちながらにっこりとあの時の僕に向って笑い、片目をつむった。


現実のカウンターには若くてショートカットの小柄な女性が座っていた。黒い縁の眼鏡はどこか彼女には不似合いで、眼鏡の方が断固として彼女にしがみついている気がした。

僕は黙って娘の為の本と一緒にその本を差し出すと眼鏡の子は抑揚なく言った。

「こちらの本は新刊となっておりますので、返却日は必ずお守りください」

「分かりました。」と僕は答えた。「大丈夫です。」

彼女は眼鏡の中から感じの良い笑みを浮かべた。

「ねえ」と僕は彼女に言った。「返却日の前日に電話してくれないかな?」

彼女は不思議そうに僕を見上げ、しばらくの間口をあんぐりと開けていた。「前日にですか?」

僕はかぶりを振り、微笑んで言った。

「冗談ですよ」


             あとがきとして

 

 私の姿勢としては基本的に物語に「あとがき」をつけるのはふさわしくないと思っております。これまでもそうでしたし、これからもそうでしょう。しかし、この短編集『雪原の灯り』の「返却は、あした、になっております」に関してだけはそれがどうしても必要かと思われます。いや、私はこのあとがきを書く為にこの物語を書いたのかもしれません。

 今から八年前に実際に東京のある図書館で働いていた時にある男性と出会いました。当時彼は確か二十代前半だったと思います。彼は借りた本を返却日をかなり過ぎても返さない図書館では有名な常習犯だったのです。何故か私がよく返却の催促の電話をしたのを覚えています。返却にやって来ると彼は毎回丁重に詫びをいれ、そこにはどこか憎めない姿がありました。どんなきっかけか覚えてません。それとも彼と私の好きな小説が似ていたからでしょう。私達は些細のない会話から始め、文学の事やら色んな話をしました。彼が趣味で小説を書いていると言ったのはそれからしばらくしてからでした。彼の話や価値観、ちょっとした物事に対する考察などに私は興味を持ったのかもしれません。彼の書いている物語を是非読んでみたいと思ったのです。

彼は書きためていた幾つかの小説の原稿を本の返却と一緒に図書館に持ってきて、私にそっと隠れて渡しました。読んでみると、文章か鋭く、情景描写も巧みで、何より淀みなく読者に読み通させてしまう筆力がありました。しかし私達は図書館以外で会うことはありませんでした。お互いは図書館の職員と利用者、読者と筆者の関係に過ぎませんでした。少なからずその時はそう思っておりました。

彼のある一つの小説の結末を読む筈だった日は、偶然にも私が三年勤めたその図書館を辞める日だったのです。しかし何故か当日彼は現れませんでした。結局、その小説の結末も分からぬまま、二度と彼とは会う事がなかったのです。

人生とは不思議なものです。私の方が本当に小説家になってしまったのですから。よってこの作品はある意味では当時の彼との共著かもしれません。違いますね。彼の作品といっても過言ではありません。彼はきっと許してくれると信じています。何より彼と出会わなかったらきっと私は小説家になっていなかったと思います。そして、この物語は全くの実話であり、同時に全くのフィクションでもあります。

彼は今でも返却に遅れて、どこかの図書館のカウンターにいる誰かに深々と頭を下げて「これから気をつけます」と言っている様な気がします。

最後に、

Mさん、お借りになった本の返却は、あした、までとなっております。

               

                 二〇〇五年九月 水木里枝 釧路にて

2005-10-02 『返却は、あした、になっております。』

jamming_groovin2005-10-02

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 時折僕はこんな風に考えている。

僕はこれまで退屈というものが好きだった。厳密に言えば、嫌いじゃなかった。東北の故郷の山合いの村に吹く退屈という名の風にはどこか温かみがあり、うっとりと僕を誘惑し、その中心に引きずり込まれてしまっても僕はそんな時間の中ならいつまでも漂う事が出来た。辺り一面から聞こえる見えない虫達の鳴き声に耳を澄まし、山の輪郭に沿って太陽がその赤みを帯びるまでをじっと遠くを眺め、時にはさらさら流れる川の縁に座って空に向かってダイブする魚達に喝采を贈ったものだ。短すぎる夏と、早すぎる到来と深刻で一切を眠らせてしまうとても長い冬、その間にあって必死に自己主張しながらも、まるで敵船を目前にしながら朽ち果てていく戦艦の様なあっけない春と秋。それでもそこには優雅で荘厳で、様々な色と音があり、飽きることのない情景があった。時間は恐ろしくゆっくりと流れながらも同時に僕を包んだ多くの退屈さは、若かったからだろう、人生の過程の上で必要だったのかもしれない。

就職で東京にやって来て一年。二回目の初夏を迎えるまでに僕を襲った幾千もの新たな退屈さは窮屈で棘があり、表情はなく、暴力的なまでに僕自身を溶解させてしまった。のっぺりとし、それでいて鋭角的な佇まいを見せる知らない都会の街並と、その中を盲目的にただ通り過ぎる人達、人工的で鼓膜を針の先でピリピリと刺激する様な騒音、何よりどこまでも形式的過ぎる季節の移り変わり。

それでも一年もすると仕事にも自然と慣れ、会社で同年代の友達も数人出来た。僕らの考えている事は若い男の誰もがそうである様に女の子の事や流行の洋服や音楽だったが、そこに横たわるものはお互いどこか違っていた。それはまるで北極と南極の違いの様だった。見るもの感じるものは全く同じ様であっても、それぞれ立っている場所みたいなものが根源的に違っているのだ。彼らの殆どは都会で生まれ、退屈さには無縁で、仮に些細な退屈さえも彼らなりの魔法でどんなものにも変えていけるんだ、という器用さと活力を持ち合わせていた。

そもそも休日にまで会社の人間と会うなんてまっぴらだ、という僕のささやかな信念と、必要以上の人間との関わりを持つ事が出来ない性格によって、週末になるとそんな新たな退屈さの中で僕は一人部屋で本を読み、いつからだろう、パソコンを使って小説を書き始めた。書くという行為そのものが退屈さを吹き飛ばしてしまう効力があるのかどうか僕には分からない。ただ僕は自分で紡ぎ出す世界の中では退屈さとは無縁だった。仮想の世界の中では僕も会社の友達同様に魔法を使う事が出来たのだ。

その時家の電話が鳴った。モニターの中の仮想の世界で主人公は電話で恋人に別れを告げられる所だった。

「村岡さんのお宅ですか?」と若い女性は淡々と現実的な声で言った。

「はい」

「桜丘図書館です。村岡さんのお借りになっている本一冊が返却期限を過ぎておりますので、お早めにご返却下さい」

思わず言葉を失った。借りている本って一体何なんだ? 僕は記憶の隅に視線を巡らせた。

「すみません。分かりました」

僕はため息をついた。どうしていつも忘れてしまうのだろう。銀行の支払いの期限もクリーニングの引き取りもレンタルビデオの返却も今まで忘れた事がないのだ。しばらく部屋を探してみると本棚から長い年月のせいで色褪せたフォークナー短編集が姿を現した。『エミリーにバラを』以外に特に印象はなかった。僕は着替えて桜丘図書館に向かった。

桜丘図書館は街の外れの公園の隣にあった。公立の図書館ではこの地域では一番古くて大きいのだろう。長年の雨風のせいで建物のはくたびれ、赤茶けた外壁の至る所には補修された跡があった。建物は三階建てで、地下には利用した者など見たことのない食堂と、書庫、一階はカウンターと、月一回古い昔の映画や子供向けのアニメを上映する視聴覚室があった。二階には開架書架、三階には自習室があった。

この数ヶ月、休日になると時折図書館にやって来るのは単に本が好きだったからでない。都会の中でさえもこの空間に満ちた特有の空気感はあの故郷の図書館と同じだった。田舎であっても都会であっても、背後に山が連なろうが高層ビルが立ち並びようが、図書館独特の物寂しさの中に穏やかな何かが対流する空間は僕をとても安心させた。そこにいる誰もが黙って本を読み、ここでは決して誰かを憎まず、声を上げて罵らず、苛立ちもせず、本を相手に無声の会話をしているのだ。書店の本達はどこか、読んでもらわなきゃ困る、といういささか悲壮感みたいなものが漂っている様に思えるが、手垢にまみれた図書館の本達は、私みたいなものでよければ、どうぞ、みたいな謙虚さがあって親しみが持てる。人間の方も、それじゃあ読ませてもらいます。はい。という本に対するある種の慈愛があって、誰もが黙々とページをめくる。その一切が織り成す、外界から隔離された密閉された瓶の中の様な世界に身を置く度に、僕は何事に対しても優しくなれる気がした。


一階カウンターにはよく見かける若い女性職員が座っていた。桜丘図書館では一番若いのだろう。

僕は『フォークナー短編集』をそっと置いて頭下げて言った。「すみません、遅れまして」

彼女は慣れた手つきでパソコンを操作し、僕を見上げた。唇はきっと結ばれていた。

「村岡さん、あんまり遅れないでください。」とその女性は呆れた様に言った。

「すみません」と僕はもう一度頭を下げた。彼女が返却に遅れて何かを言うのは初めてだった。そしてその口調と声のトーンが先程電話を掛けてきた女性だったとその時気づいた。

二階に上がると思ったより多くの利用者がいた。僕の周りを走り回る小さな子供達を母親らしき女性が「シーッ」と唇に人差し指を当てて叱った。高校生のカップルが寄り添いながら座り、一つの本を見ながら笑い合っていた。その傍で浮浪者らしき中年の男性が座ったまま口を天井に向け、微かにいびきをかきながら寝入っていた。それ以外声らしき声はあまりなかった。新聞をめくる音、咳払い、そして六月にしては蒸し暑いからだろう、空調の音が日曜の館内全体を静かに覆っていた。本を一杯大事そうに抱えた職員が数人通り過ぎて行った。

しばらく僕は幾つかの本を読んだ。チェーホフとスタインベックの短編集だった。どれもあまり夢中にはなれなかった。目の前のリファレンスカウンターにはついさっき一階にいたあの女性が座っているのが視界に入っていたのだ。まじまじと見るのは初めてだった。彼女はとても退屈そうだった。ごくたまに二十センチ先位の空中に向かってため息をつき、利用者が来るとふと急に顔を上げ、一拍置いてから返事をしてテキパキと対応した。そしてまた一人になると物静かに俯いたまま固まり、何気なくほんの少し顔を上げ、ぼんやりと遠くの壁の一点を仔細に見つめていた。僕は気付くとページを止めたまま、潮の満ち引きの様に繰り返すそんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。彼女はこの仕事がは酷くつまらなそうであり、酷く楽しそうでもあった。特に美人ではないが、目はくりっと大きく、高い鼻が特徴的だった。顎はすっとシャープな線を描き、わりに気の強そうな感じがした。それでもどこか愛嬌があり、幾分人より遅れたスローな仕草と、ふとした拍子で出る哀しみや寂しさをほんの僅か抱えた様な表情が対照的だった。いつしかそんな彼女の姿を見るのも飽きて僕は再び活字の隙間に潜り込んだ。

スタインベックの短編の一つ『菊』で、主人公の女性がいとおしく育てた菊の鉢植えを通りがかったある旅の修理人の男に分けてやるが、離れた所の道端に新芽だけが捨てられたているのを彼女はしばらくしてから目撃する。そして彼女は隣にいる主人に隠れて黙って涙を流す。それは僕がこの一年でこの街と社会で感じてきた事だったのかもしれない。最も大事な部分、最も大切で理解して欲しい事にこそ他人は素通りしていくものだ。自分にとって有益なものだけを相手から根こそぎ奪い取り、そんな時こそ彼らは無自覚で凶暴な微笑みを浮かべるのだ。

僕は思い立って一つの本を探していた。文庫の『アンナカレーニナ』の中巻だった。僕は先程その中巻が本棚にしっかりあるのを知っていたし、それを借りる予定だったのだ。本棚からたった一時間で姿を消してしまい、一応僕はカウンターの彼女にその事を訊いてみた。

「ないんですか?」と彼女は訊いた。

「ええ、ついさっきまであったんですが」

彼女はパソコンで調べ、それが貸し出し中でない事を告げた。「誰か読んでいるんじゃないですか?」

「分かりました」と僕は力なく答えた。

背が高くほっしりとした彼女が館内でテキパキと仕事をこなす様子をそれからしばし目撃した。ちょっと意外だった。先輩らしき男性職員に、はい、分かりました。ああ、そうですか。すぐ取ってきます。と言ったり、顔を赤くしながら必死に重そうな本を何冊も抱きかかえながら開架に慣れた手つきで本を戻した。ある老人の利用者には、はい、その本はこちらでございます。ああ、ちょっと高い所にありますので、と言って台椅子を持ってきて本を取ってあげ、老人に、どうぞ、と愛くるしい笑みを投げかけていた。動作が俊敏で無駄がなく、僕は関心してそれを眺めていた。

その時彼女が背後から肩をちょこんと叩いた。彼女は僕を見上げ小さな声で言った。

「これですよね?」と彼女は僕に探していた『アンナカレーニナ』の中巻を手渡した。

「ああ、ありがとう」と僕は言った。

「ごめんなさいね、実はさっきカウンターでこれ読んでたの」と乾いた声で申し訳なさそうに言った。

僕は彼女の言っている事がよく分からなかった。

「本当はいけないんだけど……村岡さんだよね? 村岡さんが急に来て、探している、って来たから驚いて嘘ついちゃったの」

彼女は辺りに誰もいない事を確認してから続けた。「仕事中にはあんまり読んではいけないの。当たり前だけど。にしても、まさか『アンナカレーニナ』を読んでて、いくら名作とはいえ偶然にもそれを探しているなんて……」

彼女は肩まで伸びた真っ直ぐな髪をすっと両手でかきあげた。染めてから数ヶ月経っているのだろう。根元から数センチ程には既に黒髪が顔を覗かせていた。

「偶然だね」と僕はとりあえず言った。それ以外何て言ったらいいか分からなかった。

「でね、悪いと思ったけど、さっき村岡さんの今まで借りた本を調べてみたの」と聞こえるか聞こえないか位の小さな声で言った。「結構シブイ趣味しているんだね」

「調べた?」と僕はびっくりして訊いた。声が大きかったので彼女は自分の唇に人差し指をあてて、ぺろっと舌を出した。

「これもあんまりいけない事なんだけどね」と彼女は僕の全身に視線を配らせてから言った。「村岡さんってまだ若いでしょう? 多分、私よりも少し若い位ね。このご時世にドストエフスキーやらトルストイやらフォークナーやらを読んでるこんな若い男の人って凄い珍しいと思う」と本当に物珍しそうに言った。

「駄目かな?」と少しむっとして尋ねた。

彼女は黙ってかぶりを振り、シャツの襟を直しながら答えた。「私も似た様なもの。」

「ふうん」と僕が言うと図書館職員が身につけるデニムのエプロンの胸元のネームプレートが目に入った。『白河里枝』

「あ、仕事、仕事」と思い立った様に言い残し、白河里枝という名の女性はスタスタと歩いて行ってしまった。


               * * * * * * 

  

 

 『アンナカレーニナ』の中巻きを読み終えたのはそれから三週間経った頃だった。白河里枝は数日前に図書館から電話を掛けてきていつも通り催促した。

東京の二回目の七月は恐ろしく暑く、樹々の下を選んで歩いていてもじっとりと汗ばんだ。太陽は手を伸ばせば届きそうな位置にある気がした。アスファルトは視界の中で歪み、いたずらに僕を苛立たせているみたいだった。

桜丘図書館はクーラーが効いているからだろう、沢山の利用者で溢れていた。座る場所がないからか床にかがんだままじっと本を読みふける者があちこちに見られ、学校が試験休みなのか制服を着た学生達の騒がしいしゃべり声が轟いていた。

「やっと返してくれた」と白河里枝がため息まじりに話しかけてきた。エプロンの下にはピンク色のやや小さめのTシャツを着ていた。

「すみません」

「あの時ちょうどいい所だったの」と唇を噛みながら言った。「中巻の最後の方だったけど。ねえ、読みたい本を一ヶ月待つ心境って分かる?」

僕をもう一度謝った。それにしてもなんでそこまで言われなくちゃいけないんだろう、と僕は思った。他の図書館にもあるだろうし、そもそも買えばいいなじゃいか。あなたは図書館の職員で、僕は利用者なんだ。

「ねえ、私が読みたかったから、って言ってるんじゃないんだよ。村岡さんの借りた本を後ろで待っている人がこういう風に思っているかも知れない、ってこと」と腕を組んで諭す様に言った。

僕は再び謝った。「気をつけます」


夕方、一階玄関脇にある喫煙所で僕が煙草を吸っていると彼女が外から缶ジュースを持って入って来た。「暑いわねえ」

「休憩?」

彼女は立ったまま美味そうにジュースを一口飲んで言った。「うん」

Tシャツの胸元にパタパタと風を送り、しばらく通り過ぎる車や下校途中の子供達を眺めてからデニムのエプロンの紐を外し、膝の上にたたんで僕の隣に座った。

「煙草吸うのね」

「うん」

「私もつい三ヶ月前まで吸ってたの。だからいつも休憩はここだったんだけど、もう煙草辞めたし、ここ暑いし。でもなんか癖ね、ここに来ると落ち着く。」

「よく辞めれたね」

「辞めなきゃいけなくなったから」と独り言の様に言った。彼女はもう一度外を眺め、それについて深く言いたがらない様子だった。「図書館って静かでいいんだけど、こう見えても人は結構いるしわりに疲れるの。こういう狭い場所であんまり人のいない所だとふと気が落ち着くの」

「邪魔かな?」

彼女は顔の前で手のひらをヒラヒラと揺った。「全然、気にしないで、あっ、これあげる」とエプロンポケットからレモン味の飴玉を一つ僕に手渡した。「見てよ、こんなに一杯あるの。煙草辞めたら口寂しくなってね」見るとエプロン一杯にどっさりと飴玉が入っていた。

「仕事中飴舐めるは、本読むわ、どうしようもない職員だね」と僕は冗談ぽく言った。

「そうね、どうしようもないね。でも、こう見えてもちゃんとやってるんだから。返却期限を守らない利用者に言われたくない」と微笑んで言った。

「確かに」と僕も微笑んで言った。

  

                    * * * * * * 


 それからというもの僕を図書館で見つけると彼女は「こんにちは」と話しかけてくる事もあった。相変わらず返却が遅れた事に小言を漏らす事もあったが、彼女はそれを言うことが楽しみの一つになっているかの様だった。むしろ返却日前に持って行った時などは、当然よ、ふん、とみたい素っ気ない態度でとりわけ話しかけてこようとはしなかった。逆に、はい、よく出来ましたわねえ、とまるで子供がおつかいが出来たみたいに言って僕をからかったりもした。僕はそんな彼女の一貫しない態度が不思議でたまらなかったが、きっとここでは一番下っ端? の彼女のストレス発散の一翼を担っているのだろうと勝手に解釈する事にした。ある時は背後からすっと近寄り、僕の読んでいる本を、それイマイチ、とか、それ絶対借りるべき、と教えてくれ、ミステリーを読んでいるときは、なあにそれ? と訊いてきて、それ○○が犯人よ!と一言だけ言って一目散に逃げて行った。時には僕は彼女に幾つかの本を薦めて、うん、読んだけど面白かった。と感想を聞かせてくれた。

喫煙場所や本棚の影で僕らはそうして色んな話をするうちに、僕と彼女の文学的嗜好というべきものに幾つか共通点があるのが分かった。僕は若い癖にリアルタイムの小説に、そして国内の小説に恐ろしく興味がなく古い海外文学ばかりだったが、彼女は最近の国内の女性作家を好んで読んだ。彼女の挙げた作家や作品どれも知ってはいたが僕は全く読んだ事がなかった。しかし、彼女がそこまでに至る過程で読んだ古い海外作品の好みは僕のそれと一致した。そして言葉や文体、リズム、その隙間に潜む独特の世界観に共感した。ドストエフスキーとトルストイが僕らにとって神として君臨し、その下に戦前戦後辺りの欧米作家達が続いた。

僕らはそうして次第に親密になり、僕はそんな彼女に好感を持ち始めていた。文学的嗜好だけではない、お互い自身の中で、どんなものに喜び、苛立ち、どんな空気の振動に心が揺れ動かされる、そんな些細な点でも恐ろしく似ていたのだ。それでも僕を混乱させ、時に苛立たせ、ある時は強烈に惹きつけられたのが彼女自身の風貌だった。彼女はこざっぱりとしたモノトーンのシャツや体の線を強調した様なTシャツと、スカートでなくすっと長い足が目立つGパンをスマートに着こなしていた。そんな彼女の服装と化粧気はいつも街で見かける都会の若い女性そのものだった。身のこなし、仕草、佇まいはスタイリッシュで僕の世界の埒外にある様だった。それでも僕と話す時に見せる大きな瞳の奥底の一点に感じるある種の寂しさみたいもの、相手の言葉を飲み込んで数秒してから言葉を探しながら話す細やかな口の動き、カウンターで時折見せる物寂しい表情。そのアンバランスさが、僕が育った故郷の村の女の子達の断片と重なり合った。特に白河さんの都会的な服装の上にまとった図書館職員のエプロン姿は全く似合っている様でもあり、そうでない様にも思えた。仕事中の彼女はどこかこの都会と切り離され、僕が昔感じた様に、彼女の中ではきっと時間がとてもゆっくり流れているんだろうな、と思った。そんな彼女には誰もが共感するであろう暖かさと、ユーモアさと、人の良さが滲みでていた。特に僕は尚一層強く惹きつけられ、気づいた時には彼女に対する好感みたいなものはいつしか好意に変わっていた。


僕の会社は銀座にあり、友人とはごくたまに渋谷や新宿に遊びに行った。何もかもが揃い、合理的に手に入れられる利便性に感心し、同時に驚きさえもした。しかし僕は何故か相変わらず居心地の悪さを感じざるを得なかった。いつも早くこの雑踏から逃れたいと思った。人は肩をぶつけ合いながら歩き、攻撃的で、車が殺人的に走り回る。しかしそんな街にある種の慣れを感じてきたと実感するきっかけになったのは、僕にとって一番身近な白河さんの存在だった。街中で多くの若いカップルを見ていると、仮に僕の傍に彼女がいたらこんな街でさえも美しく見え、数限りない甘美な誘惑の中で心踊り、魅了され、キラキラした眩しい位のネオンの下でとても生き生きとし、僕は新しい世界の真の住人になれる予感がした。いや、そうしたいんだ、とはっきりと思った。


                  * * * * * * 


 八月の東京は体の芯まで僕をとことん苦しめた。暑さは暑さを超えて痛さに変質し、降り注ぐ陽光はずっしりと体全体に重くのしかかった。仕事の疲労が追い討ちをかけてダウンし、数日間会社を休んだ。やっと歩ける様になったのは既にお盆を過ぎた辺りで、僕は借りていた本を返しに桜丘図書館に出かけた。


「久しぶり」と彼女は僕が返却を遅れた事なんかどうでもいいみたいに言った。

「ちょっと体調が悪くてね」

「あらそう」とリファレンスカウンターでパソコンを睨みながら言った。「ねえ、も少しで休憩だから地下の食堂で何か飲まない? 喫煙所は暑くてクーラーきいてないでしょう? 食堂は煙草吸えないけど、いい?」

地下の食堂は昔教科書で見た旧ソ連のどこかの施設みたいだった。のっぺりっとした灰色の壁が無機質に広がり、異様に天井が高かった。テーブルには六つの椅子が並べられ、食堂内に不気味なほどに整然と置かれていた。メニューはカレーや、ラーメンや、ナポリタンなどがあり、きっとスキー場や海の家のそれと大して変わらないんだろうな、と思った。客は誰もいなく(当たり前だ)、長い間油が染み込んだ様な黄ばんだコックコートを着た太った男性の調理人と配膳係であろう中年の女性が奥のほうで昨日観たドラマについてあれこれ話しているのが耳に入った。

白河さんは僕にコーラをおごってくれた。

「最近肩こりが酷いのよ」と自分で片方の肩を揉みながら疲れた様な声で言った。「村岡さんはそういえば幾つなの?」

「二十四歳」

「そうなんだあ」と彼女はゆっくりコーヒをかき回しながら言った。「私は二十六歳」

「この仕事どれ位になるの?」

「三年かな」

「面白い?」

「そうねえ」と今度はもう片方の肩を揉みながら言った。「肩は凝るね。確かに」

僕は少しだけ笑った。

「楽しいよ。昔から本が好きだったし、本に囲まれて仕事をしたいと思ったの。小さい頃から図書館っていう場所が好きでね。そうねえ、私は学生時代にウェイトレスとかのアルバイトやったり、普通の企業の就職も考えて就職活動もしたけど、本は何も要求しないんだよね」

「要求?」と僕は尋ねた。

「うまく説明出来ないけど、ここでは全てが本を中心に回っているの」とあらたまった口調で言った。「普通の仕事では、お客さんとか、会社だったら会社そのものだったり、取引先だったり、色んな事を要求してくるでしょう? サービス、成果、実績なんかをね。でもここにやって来る人達は私達職員に直接は何も要求しない。要求というより求めているのはあくまで本の中にあるの」

「分かる気がするな」とコーラをすすりながら僕は言った。

「その人達が、読んだ本が面白くなかったからどうしてくれるんだ! とは決して私達職員に苦情なんか言ったりしないでしょう? 利用者は本と本の中にある何かを求めて、ここ、もしくはお家で黙って本を読む。私達は彼らが求めているものに対して間接的に、それでいて迅速かつ親切にその環境みたいなものを作るお手伝いをしているの」

彼女は俯いてほっそりとした指先を一本一本触りながら続けた。「読書というものがある意味において現実逃避なら、ここは癒しの場所かもしれないね。そこに何かしら協力出来るのが嬉しいの。」

「具体的にどんな仕事をしているの? 大体は分かるけど」

彼女はそれからびっくりする位に楽しそうにしゃべり、自分の仕事を細かく説明した。朝は閉館中に返却ポストに返された本の返却処理からはじまり、本棚に戻し、棚の整理をして、本を見やすく探しやすくする。新聞の整理、地域の記事や図書、図書館に関する記事を新聞から朝・夕刊を毎日チェックしてスクラップにして保存する。また、選書会議に参加して話題の本や図書館に必要な本、利用者から寄せられたリクエストなどに応じて選書、発注をする。それとレファレンス業務や、痛んだ本の修理、催しものの企画などだ。そこには誇りがあり、課せられた職務を遂行する喜びみたいなものが満ちていた。

「結構大変なんだね」と僕は正直驚いて言った。「それにしてはサボっている事が多い様に思えるけど」

彼女はあっさりと言った。「要領よ、要領」

今度は彼女が僕の事を訊いた。東京に来てまだ二年目だという事、普通の会社で営業の仕事をしているという事。とりたてて山場のある話ではなかった。

彼女は首を傾げて訊いた。「趣味とかは?」

僕がしばらく考えていると、彼女は人差し指を立てて見透かした様に言った。「本を読むこと」

「うん、それもある。あとは……」

「あとは?」

「書くこと」

僕は答えて恥ずかしくなった。

「へえ」と彼女は僕の顔を覗き込んだ。「以外ね。どういうの書いているの?」

「普通の話だよ」

「いわゆる純文学?」

「まあね。みたいなものだよ」

「ねえ」と彼女は突然クスクスと笑った。「二十四歳で休日を図書館で過ごして普段は趣味で小説書いている、なんてちょっと変わってるんじゃない?」

「そうかな」

「でも一度読んでみたいな、村岡さんの書く小説。今まで誰かに読んで貰ったことはあるの?」

僕は「ない」と答えた。「人に見せる様なものじゃないから」

「いいのよ、是非読ませて。今度絶対持ってきてよ」とピシャリと言った。「読者第一号になってあげるから」


                  * * * * * *  


 翌週末、図書館で僕は書き溜めていた物語をプリントアウトした原稿を黙って白河さんに渡した。どれも短い話で、どれも東北の故郷の村が舞台だった。木こりの父親が山で行方不明になって探しに行く息子の話。親友と半分凍った川で釣りをしながら会話をするだけの話。憧れだったの女の子が帰郷すると結婚していたというちょっとした失恋物語なんかだ。


彼女は「ありがとう」と言って受け取りにっこり笑った。「二時から二階カウンターだから読ませてもらうね」

僕はその間、何冊か雑誌を読み、新聞をとっていないのでその日の新聞を片っ端から読んで時間を潰した。でもそれは記号の羅列の様にしか思えなかった。カウンターの彼女は俯きながら原稿にじっと視線を落としていた。ごくたまに利用者に応対をし、パソコンのキーをカチャカチャと打つ音が微かに聞こえた。しばらくして彼女が僕の隣に辺りを気にしながらゆっくりと腰を降ろした。

「うん、面白かった。情景が凄く浮かんでくるし。」と爪先をいじりながら言った。「あと、スラスラと読めたよ」

「ありがとう」と僕は言った。

「でもね、思うんだけど」彼女はちらりと僕を見て続けた。「視覚的な描写はいいんだけど、心情描写が幾分多すぎて、言い方が分からないけど、あえて書かないで読者に察してもらう、みたいな部分があってもいいんじゃないかな」

僕は膝の新聞紙を折りたたみながら黙って聞いていた。

「ごめんなさいね。まあ、こういう仕事してて本が好きでこれまで結構読んだからね。気にしないで、私個人の意見だから。もしかしたら他の人は今言った事の逆を言うかもしれないし」

「気にしないよ」と僕は彼女を見て言った。その横顔から見えるすっと伸びた鼻がとても素敵だった。

僕はもう一度言った。「ありがとう」

「ねえ、今日は何を借りるの?」

僕は一冊の本を見せた。『戦後の日本文学と日本経済』

彼女は目を丸くした。「そんなのも読むの? あれ、それって新刊じゃない。ちゃんと返してよ」ときっぱりと言った。「そうそう、まだ書いている小説あるの?」

「あと幾つかあるよ。今度持ってきていい?」と訊いてみた。

「ええ」と彼女は複雑な笑みを浮かべた。「持ってきて。この本と一緒に返却日にね」と更にきっぱりと言った。


いつからだろう、僕は本を借りる為ではなく彼女に会う為に図書館に休日決まって足を運んでいる気がした。借りる本なんて何でもよかった。中には昔一度読んだ本さえあった。それ以外には太平洋戦争の特攻隊員の私記やら、イタリア料理のレシピ本、生態学の本なんてまであった。帰宅すると僕はいつもため息をついた。どれも一行たりとも読まなかった。でも何故かその頃から返却日をきちんと守った。むしろそれよりも前に行くことはなかった。きっかり貸し出し期間の二週間だ。それが僕らにとって、いや、少なくとも僕にとっての暗黙のルールだったのだ。きっかり二週間後の返却日に本と書いた小説を持って僕らは図書館で会う。

彼女はその度に的確な批評をしてくれた。いさかか深読みし過ぎる感は否めなかったが、その殆どに僕は心底納得した。女性はこういう時こんな事言わない、とか、ここは書かなくていいとか、ここはもっと掘り下げて書くべきよ、とか。次第に彼女は僕の小説を読むこと、いや、批評する事に楽しみを見出している様に思えた。同時にふと僕はいつか彼女について書きたいと思った。図書館で働く女性と若い小説家志望の男の仮想の話。背中を押してくれたのは彼女の方だった。


                  * * * * * * 


 「村岡さん、凄い変なお願いがあるの」と彼女は恐ろしく真剣な顔で言った。


九月も終わりに近づき、吹く風の後ろの方にはもう秋の穏やかさとその匂いががほんの少し混じり始めていた。

ある日曜、図書館の喫煙場所で煙草を吸っていると彼女がやって来て僕の隣に座り、聞こえるか聞こえないかのため息を漏らした。

「私が登場するお話を書いて欲しいの」

「白河さんが?」と僕はびっくりして訊いた。

彼女はエプロンのポケットからレモン味の飴を一つ取り出して無言で手渡して言った。「なんとなく。今まで色んな本を読んで、こんなに多くの本に囲まれて働いているのにどの本にも自分みたいな人間がいないの」

僕はよく分からなかった。「自分みたいな人間?」

「それに似た登場人物はいたかもね。でもね……」長い間彼女は黙っていた。その間、通り過ぎる上司らしき職員に申し訳なさそうに視線を注いだ。

「なんか素敵じゃない? 自分が登場するお話って」と急に明るく表情を変えて言った。

「シンデレラ願望みたいなもの?」

「かもしれない。シンデレラガンボウ」と彼女も繰り返して言った。

「自分で書こうとは思わないの?」と僕は煙草をもみ消して飴を口にほ放り込んだ。「これ、ありがとう」

彼女はかぶりを振って、消えかかる煙草の煙の行方を目で追いながら答えた。「書こうとはした事はあるけど、大分昔ね。でも本をよく読む事と書くことは全く別だと思う。食べる事と作る事の違いみたいにね。私は食べる専門」

「でも、あの食堂の調理人、太ってるよ」

彼女は「あはは」と口を押さえて笑った。「そう人もいるわ。村岡さんみたいに。でも私は違う」

「でも、僕は白河さんの事をあんまり知らない」

彼女は僕の顔を優しく見ながら訊いた。「知りたい?」

僕は肯いた。「白河さんがどんなものに興味を持っているとか、好きな食べ物とかさ」

「ううん」と彼女は空中に何かを探す様に考えて答えた。「じゃあ、生き物が大好きで、犬二匹、猫四匹を飼ってる」

「そんなに? ムツゴロウみたいだな」

彼女はクスクス笑って続けた。「食べ物は、ハーゲンダッツのアイスクリーム。それとドラクエと温泉が好き、音楽はダニー・ハサウェイ。みたいな感じかな」

僕は驚いた。「なんか滅茶苦茶だな。イメージと全然違う。ドラクエやりながらハーゲンダッツのアイス食べてBGMはソウルミュージック?」

「そう。書きづらい?」と困った様に訊いた。

「分かったよ」と僕はしばらく考えてから言った。「短いのでもいい?」

「ええ、凄く嬉しい」と感じの良い爽やかな笑顔を見せた。いつも見るどこか陰鬱な表情は微塵もなかった。

その日の夜、僕はパソコンのモニターに向かっていた。言葉が溢れる度にむしろ手が何故か止まった。これは小説なんだ、と一人かぶりを振った。フィクションなんだ、そう、存在しない図書館で働く存在しない女性と存在しない若い小説家志望の男の話。その中では僕らは本当の僕らじゃないんだ、と。それでも湧き上がる暖かい想いや、濃密ながらも漠然とした昂ぶる感情の塊みたいなものが僕を酷く混乱させた。生々し過ぎる言葉ががむしろ書かれるべき言葉を吹き飛ばしていった。必死に目を閉じて心の色の様なものに一つ一つ言葉を当てはめ綴っていった。そして僕は最初にこう書いた。

『時折僕はこんな風に考えている。』

 

                 * * * * * * 


 決まって二週間後、僕は新しい小説の最初の部分を持って図書館に出かけた。いつも通りに二階カウンターで白河さんは僕の原稿を仕事の合間にじっと読みふけっていた。僕は探している本の検索をしてもらう為に彼女に尋ねた。

彼女はパソコンのモニターを睨みながら事務的に答えた。「それはA192の欄にあります。」そしてゆっくり顔を上げ、眉をしかめて訊いた。「ねえ、読んだけど、これって実話?」

僕は黙っていた。

「ここに出てくるのは私と村岡さん?」と幾分納得いかない様に頬杖をして訊いた。

「違うよ」と僕は断固として答えた。「確かにシチュエーションはそうかも知れないけど、架空のお話だよ」

「ふうん、それで田舎から出てきたばかりの主人公の彼は借りた本を返しに来て、図書館で『私』みたいな人に会う。ここまでだけどこの後どうなるの?」

「まだ分からない。考えていない」

彼女は急に表情を明るくして言った。「でも、まあ、とにかく続きが面白そう」


 次の二週間後の夕方、僕ら以外誰もいないあの食堂で二人ともどこか黴臭いオレンジジュースを飲んだ。例の調理人が調理場の床をデッキブラシで擦る音が響いていた。

「どうかな?」と新しい原稿を見て訊いてみた。

「なんかあまりに実話過ぎて怖い部分もあるけど」そこまで言って彼女の言葉はピタリと止まった。「主人公はこの女の子に恋しているのね」と曖昧な表情を見せて言った。

「まあね」と僕は肯いた。

彼女はオレンジジュースをすすりながら長い時間静かに僕を凝視していた。「それで主人公は彼女の為に小説を書く」

「そう」

「ねえ」と彼女は突然話題を変えた。「村岡さんの小説には寒い所の話が一杯出てくるよね?」

「僕が山形生まれだからね」

「私は東京生まれだから分からないけど、冬とかもの凄く寒いんでしょう? 雪が何メートルも降って」

「そこで生まれ育って慣れてるからそんなに寒いとは思わないよ。去年の東京のあの底冷えした寒さよろりも増しだよ」

彼女は目を丸くして言った。「本当?」

「うん、こっちの寒さは、なんというかな、肌に突き刺さる感じなんだ。じんわりでなくズキッと体内に入り込んでいく様なね。向こうは確かに気温としては寒いけど、雪があってどこか滑らかな寒さなんだ。」

「ふうん」と彼女はグラスの氷をコリコリと噛みながら訊いた。「北海道って行ったことある?」

「ないよ」と僕は幾分驚いて答えた。「どうして?」

「なんとなく。もっと寒いのかなあ?」と憂いに満ちた顔で訊いた。

「どうだろうね。親戚が北海道のかなり奥の所に住んでいて言ってたけど、確かに寒いけど自然があって結構いいらしいよ。キツネやら鹿が普通に道路を横切るらしいし。もし行ったとしたら白河さんには合うんじゃない? 動物好きだしね。ムツゴロウ王国みたいで」

彼女は薄くなったオレンジジュースを最後まで飲み干して笑った。「そうねえ、ムツゴロウ王国。そういう所ってきっとどこでもバターのCMなんかが撮れちゃうのよね。多分だけど……まあ、北海道も悪くなさそうね。」

彼女は再び原稿に視線を落として訊いた。「これ、次で結末でしょう?」

「うん」

「大体考えてあるの?」

「いや全く。全然思い浮かばない。実のところ。白河さんだったらどうする?」

彼女は腕を組んで、ううん、と唸り、随分長い間考え込んでいた。

「私だったら、そうね、彼は彼女に物語を書く訳よね? で、その返事として彼女の方も頑張って彼に物語を書くの。その彼女の書く物語の結末に答えがあるの」

僕はしばらくそれについて考えていた。「でもそれ大変だなあ。物語の中に二つの物語入れるなんて。で、ハッピーエンドなの?」

「そうね。書く方は大変だもんね。だから言ったじゃない、私は食べる専門だって。ハッピーエンドかそうじゃないかなんて分かんない。今思いつきで言ったもの」

「でも、それ面白いかも」と僕は言った。

「そう?」と嬉しそうに彼女は笑った。「物語の中では<食べる専門>の彼女が彼に対して小説を書くの」

「オマージュみたいな?」

「うん。」と彼女は肯き、「ねえ」と思い立った様に言った。「ここに出てくる彼女が小説を書くんだったらペンネームみたいのがの必要かな?」

「どうかな。図書館で働く彼女が書く小説にペンネームなんか必要?」

「確かにね。でももしよければそうしてくれると嬉しいな。名前は考えて」

僕は全然思い浮かばなかった。「何かヒントみたいのないかな? 白河さんに関連したキーワードで考えるよ」

「そうねえ」と彼女はぼんやりと僕を眺めて答えた。「私、花水木っていう花が好きなの。」

「ハナミズキ?」

「知ってた? あの喫煙所から見えるけど図書館の玄関の脇にあるよ。」

「知らなかったし、どんな花か知らないな」

「東京にはあちこちにあるよ。あんまり山形ではないかもね。匂いも好きだし、白やピンクや赤や色とりどりの花を春ごろに咲かせるの。秋には実をつけてね。ここでこうして働きながらそんな移り変わりを見るのがとっても好きなの」

「じゃあ、水木って言う名前は?」

彼女は親指を立ててにっこりと微笑んだ。「いいね。それ」

彼女は壁時計をちらりと見て席を立った。「休憩時間終わっちゃった。仕事に戻らなきゃ……これ完成したら、どうするの?」

僕は彼女を見上げていた。彼女の表情にはこれまで僕が見た中で最も深刻な静けさみたいなものがべたりと張り付いていた。

「白河さんにあげるよ」

彼女は必死に表情を崩して薄っすらと小さな笑みを浮かべた。

「ありがとう」


結局、僕は二週間近くその小説の結末に一文字も費やす事が出来なかった。仕事がこれまでが嘘だったみたいに波になって襲い、精神的にも肉体的にも言葉を紡ぎだす作業にはいささか疲れすぎていた。しかしその波が収まったのは僕が図書館に行くべき前日だった。

仕事から帰るとその声は家の留守電から聞こえた。白河さんだった。

「村岡さんのお宅でしょうか? 桜丘図書館です。お借りになった本の返却は、あした、となっております。必ずご返却ください」

僕は何度もテープを再生して彼女の声を繰り返して聞いた。あした、ってなんだ? なんで前日に電話にしてくるんだ? 僕の借りたプローディガンの『西瓜糖の日々』なんて誰も待っているはずがないじゃないか。

僕はその夜必死に小説の結末を考えていた。そしてはっきりと何かを感じた。いや、知覚したのだ。今まで僕の中にチラチラと姿を現していた影の様なものの輪郭を捉えたのだ。もしかしたら僕は例の退屈さの中にもういないんじゃじないか。退屈さが自然と作り出す書くという行為。誰にも読まれる当てのない物語。その中に僕はこれまで漂っていたのだ。でも今は違う。読んでくれる相手がいる物語なんだ。その先には現実的で、一年間この慣れない都会で感じてきたあらゆる種の退屈さなんか微塵に吹き飛ばす事の出来る何かがあるんじゃないか。僕は書いた。湧き上がる言葉を生々しいままに書き続けた。

小説が最後が完成したのはそれから四日後だった。仕事を早く切り上げ僕は桜丘図書館に走った。辺りは半分程日が暮れて、普段の日の夕方の図書館を週末よりも暗く沈んだ空気がひっそりとの包み込んでいた。


                   * * * * * * 

 

 あの日以来、僕は桜丘図書館には行っていない。小説も書いていない。理由は分からないが好むと好まざるとに関わらずこの都会の退屈さに慣れすぎてしまったのかもしれない。いや、退屈さを感じる事さえいつしかなくなってしまっていたのだ。そして昔の故郷のあの退屈さと同じ様に、あの僕にとっての最後の小説もどこかに失くしてしまった。あの時僕がどんな事を書いたのかさえ必死に思い出そうとしても思い出せない。それはまるで薄い靄のかかった森の奥深くの洞窟の中に閉じ込められてしまったみたいだった。仮にも僕はもうあの退屈さには溶け込めないだろう。それが大人になったというのか、歳を取ったというのか、それとも変わってしまったのか、分からない。僕にはもう妻がいて、三歳の娘がいて、退屈さなんか入りこむ余地がないのだ。現実の足元に横たわる倒れた巨木や転がった巨岩を取り除く事に精一杯なのだ。

結婚して僕は二つ隣の街に引越し、家の近くには桜丘図書館よりも大きな図書館が建っていた。本の量も多く、特に子供向けの児童書が充実していてたので僕は娘を連れてよく利用していた。


ある日曜日に突然家の電話が鳴った。若い女性の声だった。どこか聞き覚えのある様な声でもあり、そうでない様にも思えた。

「桜丘図書館です。予約された本一冊が手違いでこちらの図書館に回ってきてしまっております。すみませんがこちらまで取りに来て頂けますでしょうか?」

僕は驚いて事情を訊いた。娘の為に予約していた童話の絵本がその女性の言うとおり近所の図書館でなく手違いで桜丘図書館に回されてしまったのだ。人気の絵本なのでそちらの図書館に回す時間はなく、次の人も待っているのでこちらまで取りに来て頂けないか? とその女性は本当に申し訳なさそうに何度も何度も自分達の非を詫びた。

「分かりました」と僕は答えた。


何年ぶりだろう。僕はあの図書館の前に立っていた。

桜丘図書館はあの時とどこも変わっていなかった。ただ年月の分だけコンクリート壁の色は褪せ、ひびが至る所に入っていた。利用者が減ったのか、休日にも関わらず館内は驚く程しんとしていた。図書館独特の、しん、ではなかった。読まれるを望んだ無数の本達の無言の涙の様だった。

僕はしばらく気の向くままに幾つかの本を手に取ったが、それはどうしてか僕に読んでいる事を望んでいる様には思えなかった。その時、突然、僕が不意に足を止めたのは新刊のコーナーのある一冊のハードカバーが目に入った時だった。

僕は緊張し、そして遥か昔若い僕を包んだあの退屈さがどこからか吹き荒れ、あの時間の中心へと、その深淵へと導いていった。喉が急に渇き、息を飲んでその場に数分の間木立の様に立ち尽くしていた。体のあちこちの神経が音を立てている気がし、全身は小刻みに震えていた。気持ちを落ちつかせようと僕は窓際の椅子に腰を下ろした。そしてゆっくりと深呼吸をし、その本のページをめくった。窓の外には地面から伸びたハナミズキが僕の目線の所までそびえ立ち、幾つもの鮮やかな色に染まった花達が僕に向かって微笑んでいる様に見えた。その時僕は自らの目に薄っすらと涙が滲んでいるのを感じた。どうして泣いているのかさえ分からなかった。泣くのなんて本当に久しぶりだった。

その瞬間だった。目の前には二四歳の僕がいた。椅子に座って黙って本を読みふけ、その先にはカウンターに座ってじっと同じ様に僕の書いた小説を読む白河さんがいた。時折、彼女は持っているペンを指の上でクルクル回しながら利用者数人に電話をして「……本の返却期日が遅れていますので、返却の方よろしくお願いします」と原稿を読み上げる様に言った。

あの時の僕はふと本から視線を上げ、そんな彼女にばつの悪そうな笑みを浮かべていた。彼女は受話器を持ちながらにっこりとあの時の僕に向って笑い、片目をつむった。


現実のカウンターには若くてショートカットの小柄な女性が座っていた。黒い縁の眼鏡はどこか彼女には不似合いで、眼鏡の方が断固として彼女にしがみついている気がした。

僕は黙って娘の為の本と一緒にその本を差し出すと眼鏡の子は抑揚なく言った。

「こちらの本は新刊となっておりますので、返却日は必ずお守りください」

「分かりました。」と僕は答えた。「大丈夫です。」

彼女は眼鏡の中から感じの良い笑みを浮かべた。

「ねえ」と僕は彼女に言った。「返却日の前日に電話してくれないかな?」

彼女は不思議そうに僕を見上げ、しばらくの間口をあんぐりと開けていた。「前日にですか?」

僕はかぶりを振り、微笑んで言った。

「冗談ですよ」


             あとがきとして

 

 私の姿勢としては基本的に物語に「あとがき」をつけるのはふさわしくないと思っております。これまでもそうでしたし、これからもそうでしょう。しかし、この短編集『雪原の灯り』の「返却は、あした、になっております」に関してだけはそれがどうしても必要かと思われます。いや、私はこのあとがきを書く為にこの物語を書いたのかもしれません。

 今から八年前に実際に東京のある図書館で働いていた時にある男性と出会いました。当時彼は確か二十代前半だったと思います。彼は借りた本を返却日をかなり過ぎても返さない図書館では有名な常習犯だったのです。何故か私がよく返却の催促の電話をしたのを覚えています。返却にやって来ると彼は毎回丁重に詫びをいれ、そこにはどこか憎めない姿がありました。どんなきっかけか覚えてません。それとも彼と私の好きな小説が似ていたからでしょう。私達は些細のない会話から始め、文学の事やら色んな話をしました。彼が趣味で小説を書いていると言ったのはそれからしばらくしてからでした。彼の話や価値観、ちょっとした物事に対する考察などに私は興味を持ったのかもしれません。彼の書いている物語を是非読んでみたいと思ったのです。

彼は書きためていた幾つかの小説の原稿を本の返却と一緒に図書館に持ってきて、私にそっと隠れて渡しました。読んでみると、文章か鋭く、情景描写も巧みで、何より淀みなく読者に読み通させてしまう筆力がありました。しかし私達は図書館以外で会うことはありませんでした。お互いは図書館の職員と利用者、読者と筆者の関係に過ぎませんでした。少なからずその時はそう思っておりました。

彼のある一つの小説の結末を読む筈だった日は、偶然にも私が三年勤めたその図書館を辞める日だったのです。しかし何故か当日彼は現れませんでした。結局、その小説の結末も分からぬまま、二度と彼とは会う事がなかったのです。

人生とは不思議なものです。私の方が本当に小説家になってしまったのですから。よってこの作品はある意味では当時の彼との共著かもしれません。違いますね。彼の作品といっても過言ではありません。彼はきっと許してくれると信じています。何より彼と出会わなかったらきっと私は小説家になっていなかったと思います。そして、この物語は全くの実話であり、同時に全くのフィクションでもあります。

彼は今でも返却に遅れて、どこかの図書館のカウンターにいる誰かに深々と頭を下げて「これから気をつけます」と言っている様な気がします。

最後に、

Mさん、お借りになった本の返却は、あした、までとなっております。

               

                 二〇〇五年九月 水木里枝 釧路にて

2005-09-10 『性欲過多な女』

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 誰かが彼女をそう呼んだ。

そしていつからか街の誰もがそう読んだ。彼女の本当の名前なんて誰も知らなかったし、実際にはどうでも良かったのだ。

彼女は住宅街の真ん中の高い塀に囲まれた庭のある豪邸に住んでいた。悪趣味な洋館風の建物の至る所にはつたが張り巡され、塀からはくたびれた太いけやきの木が頭を覗かせていた。この豪邸には彼女と60を越えた父親だけが住んでいた。母親は数年前から全く姿を見かけなかった。誰かは死んだと言った。首を吊ってね。しかし葬式を挙げた形跡もなく、また別な誰かは離婚したと言った。

ともあれその豪邸には2人だけが住んでいた。父親の方は朝決まった時間にベンツが迎えに来て仕事に出かけた。恰幅の良い、日焼けした肌に白髪まじりの髪をオールバックにし、ブランドものスーツをスマートに着こなしていた。彼は会社の社長である事は知っていたが、誰もがどんな会社のどんな仕事の経営社かは知らなかった。普通の化粧品メーカーという噂から、それを扱うねずみ講の様な会社であるとか、ある者は、ありゃヤクザだ、と言った。結局は全くのベールに包まれ、最初は街の誰もが探偵と化したものの、時が経つにつれそんな興味は急速に失せていった

娘、すなわちその女は郊外の小中高大一貫の私立に通い、卒業すると特定の仕事に就かず、昼間から街で見かける様になった。長い腰まである黒髪にほっそりした顔、目鼻だちはくっきりとしていて、何故か年中くるぶしまであるワンピースを着、無口で誰かが声を掛けても軽く会釈するだけだった。買い物をする姿と本屋で固まった様に何時間も立ち読みをする姿しか目撃されなかった。友達はいなかったし、男友達の気配なんて全く無かった。生活は全て親の金で賄われていて、誰もが彼女の素性についてあれこれと面白おかしく推測した。

それでも彼女は街の若い男達の憧れの的になった。令嬢で色白でスラッとして、そして誰もが認める、美人、だった。

事件は彼女が25の時に起きた。血気盛んな街の不良達によって薄暗い公園でレイプされたのだ。彼等は捕まり、それから彼女を一年程全く見かけなくなった。



「そりゃヒドイな」と僕はリカに言った。

彼女は肯いた。「そうね。でもね、それからなのよ。彼女が変わったのは。その頃から彼女はいつも街中を若い、それも二十歳前後の男といつも腕を組んで歩いていたの。皆驚いたわ。あの子が、ってね。それもいつも違う男よ。皆色黒で体格の良い体育会系の男達。それも一人暮らしのね。でもね、奇妙なのは、その男達は、彼女との姿が目撃されなくなると同時にフッと街から姿を消すの。ある者は家賃を滞納したままだったり、ある者は家財道具を一切残してね。街の誰かが彼女と付き合った一人の男と接触出来たの。彼は言ったらしいわ。街で声を掛けられ、家に連れて来られると自ら裸になり、夜通し求めてくるんだと。ある時は彼を縛り、何回もイカされるの。精液が枯れるまでね。変な薬を飲ましていたりもしていたみたい。でね、彼女は毎回多額のお金を渡すんだと」

「凄い女だな」と僕は言った。

「ええ、これは噂だけど精神病院に行ったり、学校を辞めてしまった者もいたらしいの。それからそんなのが一年近く続いて、今度は彼女の姿を全く見なくなったの。ただね、今度は色んな男が彼女の家を訪れる姿を目撃した。驚いたのは、あの時、彼女をレイプした男もその中にいたのよ。しばらくして…分かるでしょ?彼は家族ごと姿を消したという事よ」

彼女はたばこをふかし、煙の行方を見ながら続けた。「しかし、ある日を境にそんな事も全くなくなった。昔の様に買い物するの姿なんかを見かける様になった。数年間が嘘だった様に昔の彼女に戻ってたわ。顔の相も以前の様になってね。それからすぐね、そんな彼女の姿も見かけなくなった。父親の姿もよ。ベンツの迎えもなくなって屋敷の庭は雑草が伸び放題でね、全く人の気配がなくなったの。誰かが心配して訪れても応答なし。それで色々調べたら、父親は確かにうさん臭い会社の社長だったけどね、その直前に別な誰かに会社を譲り渡しているの。当々、ある日警察が動いたわ。屋敷に入ってね…」と彼女はたばこを灰皿にもみ消し、首を振りながら言った。

「ねえ、もうこんな話しやめましょう。」

僕はグラスのコーラを飲み干して言った。「ここまで話してなんだよ。最後まで聞かせろよ」

彼女はうっとりする顔で僕を見上げ、唇に人差し指を当てて「あとでね。」と唇を塞いだ。

手はそっと僕の股間をつかんだ。

「そんな頭のおかしい女の事なんてどうでもいいでしょ」と彼女は僕の股間に頭を埋めた。

彼女の柔らかな舌の動きに僕はすぐに果て、同時に意識を失った。



…ん?……ん?…!!



意識を戻すと僕は縛られてベッドに仰向けになっていた。

「リカ!お、おいっ!」彼女は僕の上で髪を振り乱して腰を激しく脈打たせていた。「や、やめろ!リカ!」

彼女は悶えながら言った。

「そうそう、続きね。警察が入ってね、釘付けになったらしいわ。そこにいた誰もがしばらく口をきけなかった。父親が寝室で毒殺されてたらしいの。それも全裸で。そして彼のペニスには射精した痕跡がね…そしてその横には同じく毒を飲んで死んだ全裸の娘がね、父親に寄り添う様にね……二人の肉体は腐乱が激しくてね、物凄い悪臭が部屋中に充満していたらしいわ」

僕は彼女の顔をじっと見上げていた。

「これが結末よ。お、し、ま、い」

そして彼女は猛烈に腰を動かし、僕は再び射精した。



しばらくして僕らはベッドの中でまどろんでいた。僕の煙草をすっと取って彼女は思い切り肺に吸い込んだ。

「ねえ」と僕の耳元で柔らかに囁いた。「さっきの話だけど、二つだけ嘘があるの」

「嘘?」と僕は彼女の髪を撫でながら聞いた。

彼女は微笑んで言った。

「当ててみて」

(了)

2005-09-09 『森の声』

f:id:jamming_groovin:20050909123040j:image どれだけ長い間歩いたか分からない。

 深い森には風はなく、ふくろう達が遠くで鳴いている。姿の見えない動物のせいで時折樹々がカサカサとすれる。落ち葉を踏みつける音がパリパリと断続的に聞こえる。うっそうとした緑は陽光を遮断し、辺りは幾分薄暗く、気温は僅かに低く、ひんやりと全身を覆う。

腐った倒木に苔が生え、僕はそれを乗り越えながら、道のない道を歩く。少しばかり開けた場所で僕は立ち尽くす。微かに空が見える。雲はなく太陽も見えない。それでも陽光がほんのりと僕を包む。

驚く程しんとしている。空気が振動している。しかし音はない。耳を傾ける。何も聞こえない。でも僕は何かを聞き出そうとする。意識を集中させる。一切の動物達は眠ってしまったのか?風は何処へ行ってしまったんだ?僕は不安になる。一切の孤独の集体の中心にいる。気付くと僕は立ち尽くし、目を閉じて涙を流す。泣き声が聞こえる。それは僕の泣き声であり、誰かの泣き声だ。そして、誰かが誰かの為に泣いている声だ。様々な泣き声は重なり合い、音となり旋律となる。僕は多くの者を飲み込んだ深い森でそんな声に耳を澄ます。

目を開けてゆっくりと腰を降ろす。空には不思議な形をした雲が一つ現れてゆっくり流れていく。手が伸ばせば触れる事が出来そうな位に大きい雲だ。人の顔に見える。

なあ、おまえは笑っているのか?泣いているのか?それとも怒っているのか?答えるんだ!

しかしそこに表情はない。違うんだ、と僕は首を振る。それはただの雲なんだぞ!僕はそこに何を見ようとしてるんだ。

もう諦めろ!もう一度目をつぶるんだ、と深い森で誰かが僕に語りかける。もう二度と目を開けるな!その為にここに来たんじゃないかと。僕は誰かに向かって一人肯く。

 

 僕はノートをちぎってペンを持つ。深呼吸をすると透明な空気が全身に満ち、同時にあらゆる言葉が溢れる。それは僕の言葉であり、ここにいる多くの者達の言葉だ。既に眠っている者達の言葉であり、そこに僕も含まれているのだ。微風が樹々の隙間をぬって頬を撫でる。言葉が運ばれる。さあ、書くんだ!と。もうオマエにはそれしか出来ないんだと。僕はもう一度肯く。分かったよ。ちゃんと書けるか分からないけど書くよ。と僕は誰かに語りかける。そうだ、書くんだ。さあ、さっさと書くんだ。書けばもう君は僕らの友達だよ、と誰かが答える。

 

 「その時あなたはなんて書いたのかしら?」と妻はコーヒーをかき回しながら聞いた。

僕は首を振った。「いや、あの時僕は結局何一つ書けなかったんだ。」

彼女はイヤリングの片方をいじりながら美味しそうにコーヒーを飲んだ。「何も?」

「そう。何もね。一行たりともね。」

「でも書く事はあった。言葉が溢れた」

「そう」と僕は答えた。「不思議なもんさ。でも書けなかったんだ。ただ一つ言える事はね、言葉が克明過ぎる程、それを文字にする事は難しいという事だよ。つまりあまりに鮮明な写真があったとして、それを言葉で等しく表すのが難しい様にね」

「分からないわ」と妻は言った。

「うん、あの当時僕は平たく言えば、絶望やら孤独にまみれていた。周りの誰もがあざ笑う様に通り過ぎていった。同時に全てを失くした。多くの者達を恨み、それ以上に自分を憎んだ。たがら向かうべき所は一つしかなかった。僕が書こうとした事は、その森にいる者達と多分同じ様に、通り過ぎて行った者達と僅かに残った者達への言葉のはずだった。」

「でも書けなかったんでしょ」と妻は柔らかい笑顔を見せた。

「なんていうかな」としばらくしてから言葉を探しながら答えた。「それは言葉以上に重要で深刻な何かをメッセージとして残すのは、行動とその結果による実体でしかないと気付いたんだ。」

「つまりあなたの死そのものの姿で十分だと?」

「そういう事だね。僕があの時聞いたと感じる言葉というのはね、分かるかな?一種の試しなんだ。」

「試し?」

「そう。実は最近知った事だけど、彼等は殆ど言葉を残していないんだ。つまり彼等は言葉を僕に探させた。同時に彼等なりの言葉を贈ったのかもしれない。しかし、仮にあの時僕が何かを書き終えていたら僕は誰かに伝えるべき事がある分、一線を越えてはならないんだ」

「言っている事が矛盾している様に思えるわ」と妻は不思議そうな顔を浮かべた。

「確かに。その森で一線を越えた者達には最後の言葉がなかった。必要なかったんだ。書け、とある種僕に言ったのは、書ける分には決して彼等の居る(こちら側)には来てはいけないんだよ、という意味だったんじゃないかな」

「でもあなたは今こうして私とコーヒーを飲んでいる」と笑った。

「そうだね。書けなかったけど、今僕は(こちら側)にいる。君とこうして話をして、時間の経った濃くてまずいコーヒーを飲んでる。それと煙草を吸って体を汚染している」

妻はクスクスと笑い、僕は煙草を灰皿にもみ消して続けた。「あの時僕は夜を待った。それからその場で寝てしまったんだ。でも目を開けて僕はある種、死より恐ろしいものを見たんだ」

「死より恐ろしいもの?」と妻は僕の顔をじって見て言った。

「それは暗闇だった。完璧な暗闇だよ。濃密で完全なね。目を開けているか開けていないか分からない位のね、暗すぎて目が痛くなる位の闇だったんだ。それでいて風もなく星すらも見えない。動物の気配もない。つまりそこは<何もない>世界だったんだ。そこで感じた恐怖や孤独はね、恐怖や孤独を越えたものなんだ。自分の姿すらも見えない、という恐ろしささ」

妻がすーっと呼吸する音が聞こえた。「あなたが今ここにいる理由がその闇にあるという事?」

僕はゆっくり肯いた。「僕はそれまでの人生で得た物を失って何もなくなった。でもね、その闇は何もないんだ。違うな、そこには<初めから何もないんだよ>。僕は怖くなった。初めから何もない世界に自分が溶け込んでいくのがね。完璧な暗闇に同化していくのがね」

「で、森を抜けて来て、数年経って、私と結婚して、今ここにいるのね」と妻は聞いた。

「そうだね。失う事があるにしろ、何かしら得ようとすれば得れる世界の方がましだと思ったんだ。」

「そうかしら」と妻は幾分納得いかない様に首を傾げた。

「まし、というよりはね、その暗闇には得るものすらないという世界なんだ。絶望とか孤独すらも一切存在しない世界なんだ。その時僕に迫った選択は明らかだった。これは、生きよう、とか、やり直そう、とかそんな意識じゃないんだ。そんな闇の居住者になるのは死より恐ろしいんだ。という事」

「ねえ、じゃあ、新たに違う場所や方法を考え直したとかは?」

「しなかった。」と僕は答えた。「結局それが別な場所であろうとも、僕はその暗闇を通過しないと<あちら側>には行けないんだ」

「通過?」と妻は目を細めて聞いた。

「通過だよ。僕らはその暗闇をどんな事があろうと通過しないとあちら側に行けない。それが実は死よりも恐ろしいんだ。あちら側がどんな世界かは分からないけど、僕らはその暗闇を経験しなきゃいけない。僕らが潜在的に死そのものを恐れるのは、実はその手前の<何もない世界>なんだ」

妻は疲れた様に頬づえをし、残りのコーヒーを飲み干して言った。「ねえ、一つだけ聞いていい?その森で死んでいった人達もその闇を経験したのに何故あちら側に行ったのかしら?」

「分からないな」と僕はしばらくしてから答えた。それについて妻は何も言わず僕らは黙って席を立った。

外は夕闇で星が埃の様に散らばっていた。色んな音が聞こえ、色んな姿が見えた。人々の笑い声や怒鳴り声。明る過ぎるネオンや、車や、何かに向かって黙って歩く人の群。僕は思った。

 

 ここにももしかしたら何もないのかもしれないな。


そして不意に目を閉じてあの暗闇を思い出した。でもあの暗闇は今では遙か遠くに消えてしまったのだ。しかし、耳を澄ますと今でもはっきりと聞こえる。あの森のどこかでで誰かが囁く声と、誰かの泣き声と、誰かが誰かの為に泣く声が。(了)

2005-09-08 『ミドリネコ』

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まな板でなすびをシュコショコと切っている時に勝手口のドアを誰かが叩いた。

 「こんばんは」とドアの隙間からミドリネコがにっこりと顔を出した。

僕は、やあ、と答えた。全くミドリネコの奴は夕食時に最近毎日訪れるのだ。

「今日の夕飯は麻婆なすですか?」と目をキョロキョロさせて聞いた。

「違うよ、茄子とニンニクのパスタだよ。ねえ、今日はミドリネコ君の分はないよ」

そう言うと緑色のネバネバした体液と一緒に緑色の鱗をまき散らしながら部屋にドカドカと上がり込んだ。

「ふうん」と部屋を見回し「残念ですなあ」と水かきで顔をかきながら言った。

「私はパスタとやらが嫌いでね」

ミドリネコは1メートルもある巨体をのそのそと揺らしながら椅子にどかっと座った。

「この羊羹いただいちゃっていいですか?」

こいつは甘いものに目がないのだ。

「どうぞ」と僕はニンニクを切りながら答えた。

「お茶もいただいちゃっていいですか?」彼は自分でほうじ茶を入れてズズズと下品にすすった。ネコの癖に熱いものは全然平気なのだ。

「そうそう奥さんはまだ帰って来られてない様ですね」

「ああ、まだね」

妻は一ヶ月前に家を出たっきり帰って来てないのだ。実家の両親に一度問い合わせたが、知りません!、と言ったきり電話にでなくなったのだ。

時折ニャアニャアと鳴きながら羊羹をムシャムシャと頬ばった。

「んまい、んまい……で、そうそう、町内のミドリネコ達と一丁目のアカネコ達と隣街のアオネコ達に奥さんの写真見せて聞いたんですがねえ、この辺りでは見かけてない様ですわ。もしかしたら今ごろ若い男と遠くの街で暮らし始めてるんですかねえ、ほぉっ、ほ、ほ」

「ミドリネコ君、羊羹食べたら帰ってくれないかなあ」と僕は怒鳴った。

「いやぁ、すんません。冗談ですよ。でもね、あなたが奥さんに逃げられて毎日こうして寂しく夕ご飯を一人食べているのを見ているといてもたってもいられなくてね、ネコはこう見えても人助けが好きでね」

僕は鍋にお湯を張ってテーブルに座った。ミドリネコは羊羹の銀紙までパリパリと食べ、二つ目の羊羹に手を掛けた所だった。

「ミドリネコ君、確かに僕はあの時、なんとなく君に妻を探してくれる様頼んだかもしれないけどね。でもさ、君らなんかに見つけられるのかい?仮に君達が妻と会って、僕がネコを使って探してるなんて聞いたら、妻はなんと言うかな」

その時ミドリネコはヒゲをピンと立たせ、喉を不気味に鳴らして湯呑みをテーブルにドンと置いた。「ったく、だからあなたは奥さんに逃げられるんですよ…第一……」

また始まったのだ。コイツらは何かにつけて人間に説教するのが大好きなのだ。

「あなたのいけない所はそう言う所です」と人差し指をピンと立てて言った。「あなたは人、いやネコを信用していない。ネコの手も借りたい、っていうでしょう?誰かの好意は素直に受けるものです。この数日あなたに食事をごちそうになってるお礼じゃありませんか。それにあなたは自分で奥さんをお探しになりましたか!?」

「ミドリネコ君、僕は……」

「じゃあ、はっきり言いましょう。昨日あなたから頂いたさんまですが、私にしっぽの小さい方をよこしましたね。そういうせこい所が奥さんに逃げられる原因……」

僕はため息をついて、立ち上がって鍋に火をかけた。

「それになんですか、アカネコ達が言ってましたが、あなたは会社でもうだつが上がらないみたいですね。遅刻はするは……それと……」とビデオの方を見て言った。「知ってますよ。エッチなビデオを毎晩借りて、それもSMやら変態みたいな……もう30越したいい大人が……」

僕はミドリネコを無視してパスタをゆで始めた。

「ほらほら、そうやって人、いやネコの話を聞かない。だ、か、ら、奥さんに逃げられるんですよ!」

ミドリネコは更に続けた。「なんですか!その軟弱な体、きっとあっちの方も大した事ないんでしょうね。だから奥さんに……はっはっは……」

「ミドリネコ君、いい加減にしてくれないかな!猫の癖に!」と僕は振り向いて叫んだ。ミドリネコはじっと僕を見つめていた。だいたい体が鱗だらけの訳の分からないネコの化け物なんかになんでこんな事まで言われなくちゃいけないんだ、と僕は思った。

「わかったよ、ミドリネコ君、確かに君の言うとおりかもしれない。こんな男じゃ妻にも逃げられるさ」

ミドリネコは腕を組んでウンウンと肯きながら言った。「そうですよ。あなた自身がもっと変わればきっと奥さんは帰ってきますよ」

「まあ、もう一杯飲んで今日は帰ってくれないかな」と彼の見てない隙に〈猫いらず〉を湯呑みに入れた。

「わかりました。今日は帰ります。明日は鯖の味噌煮なんか食べたいですねえ」とお茶をすすりながら言った。

「悪いねえ。明日は鯖の味噌煮にしとくからさ」

その時だった。突然彼はニャアニャアとうなり声を出して椅子の上で暴れ始めた。全身の鱗が溶けてゼリー状になって床にポタポタと流れ出した。ギャアァーともだえ苦しみ目玉だけがボタッとテーブルに落ち、口からは30センチ程の長い舌をヒラヒラと出して同時に真っ黒い墨の様な液体を吐き出した。

「な、何を飲ませたんですかぁぁ……」

体のあちこちから黄色い液体を放出させ、しっぽがちぎれて床の上で暴れ回った。

ミドリネコの体は緑色の蒸気を噴出させながら段々と溶けだし、つるりとした緑色の球体だけになり、次第に緑色のゼリーみたいな液体だけになって大量に床に残った。彼の水掻きの手足は骨だけになり床に引っかき傷を残した。テーブルの二つの目玉だけがギョロリと僕を見ていたが、ゆっくりとそれは白目だけになり、中から透明な液体を滲み出させた。それは泣いている様に見えた。目玉はテーブルからコロコロと転がって床に落ち、床の液体に混ざって見えなくなった。

僕はしばらく考えていた。参ったなあ。ミドリネコに手をかけてしまった。この辺りの猫同盟の絆の深さと団結力は有名だ。彼らがこの事を知ったら、必ず復讐しに来るだろう。

 

 僕は掃除機を出してきて床の液体を全部吸い込み、手足の骨はごみ袋に入れ、そうじ機そのものと一緒に家の前のポリバケツに入れ、それを2ブロック先のごみ捨て場まで持っていった。ここまですれば猫の奴らには気付かれないだろう。


家に帰り、床を丹念に拭いてからパスタをざるにあけて、なすとニンニクで炒めた。心持ち柔らかいそのパスタを食べながら、僕は漠然と、しかしはっきりとした何かを感じ取った。

家の外では街中の猫達がニャアニャアと騒ぎだし、どこか哀しい鳴き声を響かせていた。

そう、君達の友達も二度と戻って来ないんだよ。(了)

2005-09-07 『誰かにとっての傘』

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  珍しく早い梅雨入りだった。

雨はこもった熱気を愛音の全身にべたりと張り付かせ、そのせいで彼女は幾分苛立っていた。実際に彼女を苛つかせたのは昨日の彼氏との些細な喧嘩だった。

彼は仕事で明日は会えないと言った。「プロジェクトの追い込みでね。」

彼女は電話越しに幾つかの暴言を吐き、彼はそれを黙って聞き、しょうがないだろ、仕事なんだから、と最後に怒鳴って電話を切った。彼女はじっと携帯を見つめ、深いため息をついた。

 

二十五歳の誕生日を迎えた彼女はどんよりとした鉛色の雲間からこぼれ落ちる雨に肩口を濡らしながら急いでいた。看護学生の彼女は近くの病院で実習を受けていのだ。病院に着いて医師の指示で幾つかの雑務をこなし、担当の患者の部屋を訪れた。六人部屋の窓際によく話をする七十歳の男性がいて、彼女は側に腰掛けて雨について話をした。

「よく降りますねえ、今日から梅雨入りだそうですよ」と彼女が言うと彼は黙って窓の外を見ながら肯いた。

彼は心臓に病気を持っており数度のオペも単なる延命処置でしかなかった。表情はしっかりしているが体はカンナで削ったみたいに痩せていたもう半年も入院しており、来るべき結末さえ彼自身にも十分理解していた。

彼はゆっくりと口を開いた。「私は雨が嫌いなんだ。」

彼女は首をかしげ、じっと続きを待った。

「振り返るとね、雨の次の日に私はとても不運に見舞われるんだ。小さい時、戦争に行った父の死の報告を受ける前の日もこんな雨が降っていた。十年前に女房が心臓発作で死んだ時もね、前の日は朝から雨がずっと降っていたんだ」と窓を叩く雨筋を彼はどこか恨む様な鋭い眼差しで眺めていた。

「ごめん、ごめん、変な話で…」と彼は何回か首を振って彼女に視線を移した。「そうそう、今日は君の誕生日だったね」と柔らかい笑顔を突然向けた。

彼女は微かなため息をついて窓の外に目を凝らした。

「この前言ってたボーイフレンドとはデートなのかい?」

そしてしばらくの沈黙が二人を包んだ後「喧嘩だなぁ」と彼が彼女を見据えて言った。彼女が小さく肯く間もなく彼は続けた。

「女房にプロポーズしたのは彼女が二十五歳の誕生日だった」彼は時折咳き込み、言葉を探していた。

「私は当時非常に貧乏だった。大工の駆け出しで給料も安かった。当然指輪なんて買えなかった。だからね、木を削ってヤスリを掛けてね、輪っかにしてね指輪を作ったんだ。最初はドキドキしたけど彼女は喜んで受け取ってくれた。そして私達は結婚したんだ。当然数年後にちゃんとしたダイヤの指輪をプレゼントしたさ。でもその木の指輪はね、それから何十年の間彼女は大事にしてくれたよ。はめてくれる事は途中からなくなったけどね」

そして彼はもう一度窓に目をやった。「あの日は朝からこんな雨が降っていた。起きると彼女はその木の指輪をはめていたんだ。私は驚いて聞いても、彼女は、なんとなく気分よ、と笑ってごまかしたけどね…」とまるで深い森の中で迷子になった子供の様な瞳でゆっくり呼吸をした。「その日は仕事で夜中になって帰ってすぐ寝床についてね、あくる日…起きたら妻は…」

そこで彼の言葉はピタリと止まった。猛烈な沈黙が二人を襲い、看護師達の足音が廊下から聞こえるだけだった。

「すまんね、暗い話で」

愛音は首を黙って振った。

そして彼はゆっくりと諭す様に言った。「私の経験から言えば、恋愛とか人生はね、雨振りの様なものなんだよ。些細な喧嘩も、ちょっとした行き違いも、いや、幸福とか不幸とかはね、雨降りの様に誰にも等しく降るんだ。降るときは降るし、降らない時は降らない。誰にも止められないんだよ。でもね、私達はそこから何か教訓を得なきゃいけない。つまりね…君は今日誕生日を彼氏と迎えられなくて悲しんでる。君の中に冷たい雨が降っている。ただその雨は彼にも等しく降っているという事だよ。どういう理由で会えないか分からないけど…会えない彼も同じ様に悲しいんじゃないかな…」

「…そうそう…」と彼が言い掛けたその時、医師の呼ぶ声がし、彼女は席を立った。振り返ると彼は満面の笑みで痩せた手の平をヒラヒラと降っていた。

 

 翌日、彼の姿がベッドから消え、真っ白な皺一つないシーツが新たな患者を迎えるべく無機質な表情を漂わせていた。雨が窓を激しく叩き、幾千もの筋を作っていた。

氷の中に閉じこめられた様に立ち尽くす彼女の背後から担当の医師がそっと肩を叩き、ある袋を渡した。それは例の患者からのもので、中からは折りたたみ傘が入っていた。黒い傘に枝はニスが塗られたひの木製でそこにはあの患者の名前が小さく刻まれていた。そして一緒に便箋一枚の短い手紙が入っていた。


 『私が病気になる前に大工の経験を生かして趣味で作った傘です。渡しそびれたけど、誕生日おめでとう。君の人生が愛と幸福に包まれます様に。そしてどんな悲しみからも、雨降りからも、愛する人を守れる傘の様な人間になってください』

 

 実習が終わり病院を出ると昨日から降り続いた雨は一層激しさを増し、霧の様な雨粒と新緑の香りが混ざって辺り一面に飽和していた。プレゼントの傘を開くと思ったよりそれは大きく、ずっしりとした感触の木製の枝が彼女の手に沈んだ。

携帯を取り出し、喧嘩してから話していなかった彼の柔らかな声が聞こえるまで、あの患者の言葉が愛音の中でこだまの様に何度も響いていた。


『幸福とか不幸とかはね、雨降りの様に誰にも等しく降るんだ。降るときは降るし、降らない時は降らない。誰にも止められないんだよ』(了)

2004-08-11 雨降りのあと

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私は、私自身にあまりにも馴れ過ぎてしまったの。あなたの為に変わることなんか不可能なのよ。いや、誰の為にもよ。


サオリは何度も心の中でそう呟く。それは音となりこだまの様に響いた。視線をそらせばまるで絹糸の様な雨が街を覆い、カフェの窓を濡している。

目の前に座っている男はそんなサオリの様子をしげしげと眺めていた。サオリの長くて黒々した細い髪、いつも遠くを眺めている様な瞳、淡いピンクに光った小さな唇、鼻筋の通ったすっとした鼻。サオリは時折窓の外を見つめ、テーブルの上のコーヒーの中に何かを見つけ出す様に俯きながら、お互い次の言葉を待ち望んでいた。

パントリーの方からソーサーの割れる音が聞こえ複数の店員が同時に「すみません」と声を上げた。それは出来の悪い歌手のユニゾンみたいだった。湿った空気に、若い客で溢れかえった店内の細かい声が混ざり合い、そして飽和しながら不気味に辺りに沈んでいた。

男とサオリの座った窓際のテーブルだけは見事に切り離された空間だった。憂いと静けさ、戸惑いと冷たさがアクリル製のテーブルの表面に張り付いていた。男はおもむろに胸ポケットから赤い箱のマルボーロを取り出して火をつける。この人が煙草を吸うのを初めて見る。そして見るのはきっとこれが最後なのだろうとサオリは思った。その時、有線からはビートルズの「レット・イット・ビーが流れる。なんでこんな時にこの曲なのよ。男は静かに自分の煙の行方を追っていた。それは窓に沿って這い上がり、天井へと上昇していく。

サオリは目の前の男の部屋で一緒に見たビデオを思い出す。帳の降りたロシアの赤の広場を埋め尽くす何十万人という群集。老夫婦は肩を寄せ合い、手を握り、男の方は涙を目に溜める。小さな子供や若い女の子が肩車をされて微笑みながらピースサインを送る。若い男は女の肩を抱き、女は歓声を上げる。所々にロシアとイギリスの旗が大きく揺らめく。

「あの人はロシアの現在の大統領だよ。名前は何だっけ?となりにいるのは確かゴルバチョフっていう人」と男が画面を指差して言った。ポールマカートニーはステージでピアノを弾きながら「レット・イット・ビー」を唄っていた。その時何故かサオリは小さく泣いた。ビートルズも冷戦の終焉の意味も詳しくは知らない。でも泣いた。そんなサオリを男は優しく無言のまま髪を撫でた。数年前に癌で体をズタズタにされて死んだ祖父はよく幼いサオリにシベリアの話をしてくれたし、眠る様に死んでいった祖母は戦時中の沖縄の話を枕元でよく聞かせてくれた。

なぜ、今、この曲なのよ。でも、泣けなかった。雨は地面を叩いている。雨を見ているだけで十分だった。十分過ぎるほどサオリの心を濡らした。曲が終ってBGMは知らない曲に変わった。

男が口を開く。「サオリの事がよく分らないんだ。むしろ自分の事も。そして僕らが付き合っている事の意味さえも。」そう言って煙草を灰皿に押し付ける様にして消した。サオリが顔を上げて男を見ても、そこには何かがゆっくりと消滅していく時間の痕跡を感じ取った。

男は突然「じゃあ」と言って席を立ち、伝票を持って歩いて行ってしまった。消える様な男の声が聞こえた。「元気でな」


コーヒーのクリームは分離して流氷の様にコーヒーの表面を覆う。サオリはじっと唇を噛みながら、一つの愛の終局の意味を、その中に潜んだあらゆる感情の澱を盲目的に探していた。しかし、それは真夜中の空にカラスを一羽見つける様なものだった。何も見えない。ただ決定的に一人の人間が通り過ぎて行っただけの事なのだ。


サオリは17歳になっていた。高校三年生になり、一ヶ月学校経った所で映画のフイルムがぷつりと切れてしまったかの様にして突然学校に行かなくなった。それからもう一ヶ月になっていた。時折考える。私は何故学校に行かないのか。行きたくないのではない。理由が分れば逆に学校に行っているだろう。それでも幾らかの理由を探しだす事が出来た。

高校二年の時に同じクラスだったサッカー部の田村という男に恋をして、三日三晩考えたラブレターを彼に渡して付き合う事になった。サオリにとっては二人目の男だった。田村は自慢の彼氏だった。背が高く、日焼けした顔はゴツゴツとしていたが、目鼻立ちがすっきりとしていた。髪を短く刈り上げ、何より引き締まった口元が好きだった。スポーツをする男特有の激しい練習と忍耐と溢れ出す汗によって余分な肉が削ぎ落とされた洗練された口元だった。毎日サッカー部の部室の前で一緒に弁当を食べ、練習のない時は制服のままカラオケやゲームセンターに行き、映画も観た。付き合って一ヶ月後に放課後の部室でキスをし、その日のうちに抱かれた。サオリはあらゆる事象に舞い上がっていた。同学年の女生徒の羨望の眼差し、彼のどこかおっとりとした話し方や笑顔、しなやかな指先と引き締まった肉体。そして何より飽きることのないルックス。

しかし、高三へ上がる春休み。突然の電話で呼び出され一方的に別れを告げられた。理由は簡単だった。「君といると僕は消えてしまいそうになる。何故かは分らないけど、君は君の為に恋愛しているみたいなんだ。」


高三に上がると田村とまた同じクラスになった。そしてすぐに彼はクラスメイトのある女の子と付き合いだし、彼らは毎日、部室の前で弁当を食べ、しばらくすると彼らが部室でHをしたという噂が流れた。当然、それはその彼女が自慢混じりに自分で流したものだった。休み時間、田村はその彼女を膝に乗せて座りクスクスと笑い合っていた。そんな光景を毎日見て過ごした。そしてある日の朝、サオリはベッドの中から出る事をやめた。


サオリの家は半年前まで小さなケーキ屋を二十年間営んでいた。バイトも雇わず、父が一人でケーキを作り、母が店番をした。しかし父が脳溢血で倒れ、大事には至らなかったものの、結局、店を閉める事になった。父は落ち込み、朝から酒を飲んでいた。母はそっとそんな父を見ながらパートに出た。

サオリは何度も考えた。父は十五歳から十年間有名ホテルで厳しい修行をし、二五歳で店を持った。若い頃の苦労話をよく聞かされた。ホテルで飴細工をやっていた頃は飴の熱さで手の平の皮がめくれ、何日間も自分の体を洗う事が出来ず、風呂場で母に体を洗ってもらった話。血気盛んな上司に殴られ、どやされた話。念願の独立を果した後は、ケーキを売るために小さく切り分けたケーキを持って母が近所の家を毎日何十件と周り試食してもらう為に訪れた事。しかし、何故だろう。誰よりも努力し、頑張ってきたにも関わらず、突如として父を襲った病気によって何もかもが打ち砕かれてしまった。サオリの中で、何か目的を持って努力しても無意味なんじゃないかと。父と母の今までの努力は何だったのか。自分は何の為に学校へ行って勉強しているのだろう。父の変わり果てた弱々しい姿と虚ろで人生に敗北したかに見える諦めの眼差し。彼女は人生の無情な摂理を悟りきった様にして何もかもがどうでもよくなった。そんなサオリに対して父と母は無力だった。学校へ行かないサオリを叱る両親にその説得力はなかった。むしろサオリのその何倍もの激しい反論と言い訳、父を責めたてる言動に両親は肩を落とし、それ以上何も言わなかった。いや、言えなかった。次第に両親はサオリに対する言葉を失った。


サオリは毎日昼過ぎに起きて、繁華街を彷徨った。勿論体も売り、貪り様に男と寝た。父と同じ歳の男もいた。誰でも良かった。ベッドの中でサオリという肉体の存在とその輪郭をはっきりと感じ、認識してくれる男なら誰でも良かった。自分の居場所をベッドの中に求めた。男が去った後のベッドで、シーツの皺と膨らみを見て、川や山や谷や海を想像した。私の世界はここなのよとその度に言いきかせた。


喫茶店でその男が去った後、サオリは手帳を開いた。ダイアリーの五月十日の所から小さな「×」印がある。学校へ行っていない日だ。五月二十日の所に去っていた男の名前がある。それは付き合い始めた日だった。あの日、渋谷の街角で声を掛けられ、食事をおごってもらい、その日のうちに抱かれた。私立大学に通う大学生で音楽好きだった。男の部屋のベッドの中で何度もビートルズを一緒に聴いた。「レット・イット・ビー」の邦題が「気ままに」と聞いて好きになった。そう、気ままによ、それが一番、サオリはそう実感していた。しかし男は実際的に生きている人間だった。サオリによく「学校にちゃんと行きな」と言ってきかせた。サオリを変えようと努力もした。次第にそれは説教から愚痴になっていた。

「サオリはとても好きだけど、もっといい子に変われるよ。」と、何かのきっかけで喧嘩をした時に男は言った。「サオリが僕と一緒にいたいという理由がたまに分らなくなる。今のサオリはとても好きだよ。でも、もっとちゃんと変わったサオリも見てみたい。そうすればもっと好きになると思う」

サオリはいつか田村から言われた言葉を思い出した。サオリは何も言わななかった。そして今日、その男が去っていった。ダイアリーの五月二十日の男の名前の所を横に線を二本引いて消した。


喫茶店を出ると雨はやんでいた。六月の湿った重苦しい空気が肌を這い、雨の後の嫌な匂いが鼻をついた。あてもなく一時間程歩き、街を抜け、大きな土手にぶつかった。土手を上がると大きな川が見えた。サッカーグランドと野球場が見えた。青々した芝生が辺りを覆い、雨でぬかるんだ柔らかな土が足を僅かに飲み込んで、目に見えない小さな虫の声が聞こえる。川の反対側にはまるで映し鏡の様にこちら側と全く同じ風景が広がっていた。どす黒い雲の群れが早いスピードで東の空へ流れて行った。

遠くで焚き火が見える。近寄ってそばの木製のベンチでぼんやりと炎のゆらめきを眺めていた。錆びたドラム缶の中から突き出た炎が微風に流されながら空を燃やし、煙は空の色と同化しながら消えていく。パチパチと飛び散る火の粉は蛍の様だった。辺りはしんと静かだった。たまにランニングをしている学生風の若い男が息を切らせながら目の前を走り去り、自転車に乗った数人の小学生達が騒ぎながらグルグルと辺りを回っていた。

サオリは鞄の中から携帯とダイアリーを取り出した。携帯の着信の最後は三日前だ。女友達の心配する留守電だった。それを消去した。最後のメールは一時間程前のもので母親から『今日は何時に帰ってくるの?』だった。当然、返事は出さなかった。

紺の背広を着た男がサオリの視界に入り、焚き火の方へ吸い寄せられていく。足取りは重く、焚き火の傍で立ち止まったまま動かなくなった。サオリはベンチに座ったまま、炎が舞い踊り、木立の様に固まった男の姿をぼんやりと視線の奥に眺めていた。男は肩を落とし、背中は憂いに包まれていた。

その光景を見てサオリは古い宗教儀式にさえ思えた。このまま炎の中に男の身が吸い寄せられて灰になってしまうのではないか。川の方へ歩き出してそのまま身を投げるのではないか。とめどめない雲の群れが西の空から際限なく現われ、東へと果てしなく流されて行く。

ダイヤリーの一月から五月までのページの束をバインドから外す。田村にラブレターを渡した日、付き合い始めた日、別れた日、そして学校へ行かなくなった日、そして今日別れた男と出会った日。もう一つ、今日のページも抜いた。その中には体を売って得たお金の金額も克明に書かれている。サオリはすっと立ち上がり、焚き火の方へふらふらと歩き出した。傍のいるサラリーマンの男は五十代で肉付きのよい顔に白髪混じりのうっそうとした髪を綺麗に分けていた。紺のスーツをきちんと着こなし、銀行員の様な分厚い皮の鞄を持っていて、片手には杖の様な茶色い傘がぶらさがっている。サオリの顔をちらっと一瞬だけ見ただけで、そのまま炎を仔細に眺めていた。

サオリは持っていたダイアリーの束を炎の中に放り投げた。同時に炎は大きくなり空に伸びて行く。それはあらゆる方向にはためきながら、白い紙のかけらをゆっくりと黒く染め、消え去ろうとしている。その時、空の隙間から大きな雨粒が顔を濡らした。髪に沈み、肩を湿らせ、頬を流れる。男は無言のまま自分の傘を開き、鞄の中からごそごそと黒い折りたたみ傘を取り出して、サオリに差し出した。サオリは顔を見上げると男の顔には何もなかった。男は小さく頷いて言った。「二つあるから。」サオリも小さく頷き受けとった。二人は炎の前で立ち尽くし、言葉もなく、雨と炎の音を聞いた。炎は次第に弱々しくなっていった。

男の携帯が鳴り何やら話している。「今、取引先でこれからまた一軒行くんだ。それ程遅くはならないよ」そう言って電話を切った。男はもうここに何十分もいる。そしてここから離れそうにもない。きっと会社をリストラされたものの、会社に行っていると嘘を付いているのかもしれない。毎日、こうしてスーツを着てどこを彷徨っているのだろうか。あれ程燃え盛っていた二人の炎は何かの終焉の様に今こうして消えゆこうとしている。男を見て父親に思いを馳せる。彼らの中の炎はこうして消えていったのかと。男はじっと炎を見つめる。そしてゆっくりと消え、ただのどす黒い灰だけとなった。

サオリは思い出す。田村の事、今日去って行った男の事。そして数えきれない程、自分の体を通り過ぎていった男達。しかし、私には私に戻ることを望んだ居場所があるのかもしれない。砂漠の中に机を並べただけの様な学校と、声のない静か過ぎる家。私は帰る事を許され、その自由すらまだ手の平の中にあるんだと。でもサオリは泣けなかった。その代わり隣の男は泣いている様だった。そう見えるだけだ。でも若いサオリには分っていた。男とサオリにとって消えた炎は全く別なものだったのだと。大きな時間に隔てられた二つの炎なのだと。炎の消滅の意味は終わりと始まりなのだと。いつしか雨はやみ、名前の知らない鳥達が羽ばたき出していた。雲の動きは鈍くなり、西の空に突き抜ける様な晴天が顔を出していた。

サオリが傘を男に差し戻すと、男はほんの少し微笑んでそれを受け取り、そして二人はそれぞれ違う方向へ歩き出した。



土手の石の階段のたもとで音が聞こえる。腰の辺りまで伸びた茂みの中から、単なる音ではなく、夏虫の鳴き声と混ざってその声は耳に入った。耳を澄ます。柔らかい靴音を鳴らしながら近づくと、清涼飲料水の名前の書いた小さな正方形のダンボールの中で、雨に湿った毛をぺたりと張りつけた小さな子犬を見つけた。

子犬はじっとサオリを見上げる。今日一日分の雨粒を全て吸い込んだ様な潤んだ瞳だった。全身が茶色で小さな耳はペタンと前に折れ、大きな瞳が少しだけ垂れていた。段ボールのヘリに前足をちょこんとかけ、鼻を鳴らし、親指程の大きさの尻尾を揺らしている。

サオリが抱きかかえると、彼女の小さく膨らんだ胸に顔を押しあてて、Tシャツの文字の「P」の辺りをしきりに噛んでいる。体は震えている。優しく吹いている穏やかな夏風に揺られているのかと思った。しかし、命の最後の抵抗の様に子犬は必死に震えていた。雨を吸い込んだ湿った子犬の毛がサオリの手に沈み込む。


サオリは泣いた。泣くのは久しぶりだった。雲が空を流れる様な静かな涙だった。そして口を開いた。誰かに話掛けるのは何日ぶりなのだろうか。

「ねえ、私は泣いているのよ。ねえ、凄く泣いているのよ。なんであなたは泣かないの?なんで?」

子犬は顔をサオリの顔に近づけて、筋の様な涙の跡をその舌で舐めた。

「あなたはなんで泣かないの?哀しくないの?」

サオリの腕の中でごそごそと動きながら、サオリの哀しみを含んだ匂いを嗅ぎつづけていた。

空を見上げると晴天が手の届きそうな所まで忍び寄っている。どこからか現われた初老の男性が焚き火を片つけてる。辺りはそれ以外誰もいない。虫の鳴き声、茂みがさらさらと揺れる音。それだけだった。

サオリはもう一度子犬に声を掛ける。

「ねえ、あなたはまだあなた自身に馴れ過ぎちゃ駄目なのよ。今のあなた自身に馴れ過ぎるのはまだ早いのよ」

子犬は身震いをしながら、首を傾けてサオリを見つめる。

「あなたのいる場所はここじゃないの」そして声を殺してサオリは更に強く泣いた。「わたしもよ」



子犬を抱いて階段を上り、振り返って眼下の広大な川原を見下ろす。そこには何十万という群集が見えた。誰もが静かに泣いていた。自分と誰かの為に。遠く失われた過去と、通り過ぎ、失っていった全てのものの為に。(了)

2004-08-04 夕張メロン

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 毎日、決まって夜中の二時に電話が来る。かれこれ一ヶ月が過ぎた。

僕はその時間、布団の上でその日最後のお勤めを待ちながらぼんやりと天井を見つめている。音楽はだいたいクラシックジャズで、最近のお気に入りはビル・エヴァンスの『アンダー・カレント』だ。目を瞑ってエヴァンスの指先が鍵盤の上で華麗に踊るのを想像していた。

その時、電話が鳴った。二時三分だった。

「こんばんは」と総理大臣が言った。しばらく僕の部屋の音楽に耳を傾け、電話の向うでピンと人指し指を立てているのだろう。「おっ、それはビル・エヴァンスのドリーム・ジプシーですね。エヴァンスとJ.ホールの確か65年の共演盤で息の合ったピアノとギターのスウィンギーでデリケート、夢幻的なまでに美しい名演!」と唸った。

「さすが! 歳の功。」と僕は鼻をほじりながら言った。共演は65年ではなく62年なのだ。

「いやいや・・・」と総理は多分、頭をポリポリと掻きながら言った。

「さて、総理、いささか昨日のあなたの行動は無駄が多い様ですね」と鼻毛を抜きながら言った。

「そうなんですわ。昨日は赤プリで秘書官と中華食ってたら、外務大臣から電話が入ってこれから同席してもいいかって訊くんで、構わんよって言ったんですけどね、中華食ってるって言ったら、『俺、中華食えん、脂っこいから場所変えてくれ』って言うんですわ。アイツ来週からアジア歴訪でしょう?中国とタイ行くから練習しろって言ったら、『総理、海老チリの海老どこで泳いでるか知ってるか?』って訊くから『知らん』って答えたら『ありゃ、タイのドブ川に泳いでいるんだぞ、知ってるか?』って言うんですわ。結局、オークラのフレンチにしましたわ。で、アイツ、更にフランス嫌いでしてね。食い物好きなわりに『あの国は連合国に助けてもらったわりには戦勝国って言って偉そうだ。いばっている』って言ってね。もう大変ですわ。アホで」

「ふうん」と股間をポリポりかきながら、昨日、新入社員のみゆきちゃんと食べた万世のハンバーグステーキを思い出していた。

「そろそろいきますか」と総理が言った。

「ウイ」とフランス語で答えた。「では・・・」と考えて言った。「なべつね」

「ありゃ、だんな、いきなり人の名前なしですわ。まあ、いいですわ・・・うーん、猫だまし」

「あらら、そりゃ、総理の事じゃないですか・・・」と鼻をかみながら言った。「勝負パンツ」

「なんですかそれ?」と総理が訊いた。「通信簿」

「総理、あなたのはオールゼロでっせ・・・ボジョレヌーボ」

「いや、ゼロですか、厳しいですなあ、参ったなあ。でも、あのワインは本当にカスですな。あら、また『ぼ』ですか・・うーん。貿易摩擦」

「やっと総理らしいお言葉・・・椎間板ヘルニア」

「おお、一昨年なりましたわ。椅子に座りっぱなしでなんでね」多分、腰をコンコンと叩いているのだろう。「あゆ」

「あゆ?それは歌手のあゆ?それとも魚の鮎?」と僕は訊いてみた。

「そりゃ、だんな、歌手のあゆに決まっているでしょう。」と総理は「Seasons」を電話の向うで鼻歌で歌い始めた。

「・・・夕張メロン・・・」

「・・・あれ? だんな!いいんですか?『ん』ですよ。ん・・・」と総理は勝ち誇った様に言った。


数日後、北海道に遊説で行った総理から届いた夕張メロンをみゆきちゃんと心ゆくまで堪能した。

なにせ僕は夕張メロンがとっても大好きなのだ。総理はそれ以上にしりとりが大好きみたいだ。(了)

2004-07-30 地平の舟  ( 

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柔らかくて羽毛のみたいな春の日差しが差し込んだ五月のある日曜の午後だった。

僕は窓を開けて、ベットの上でディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいた。主人公のスクルージが第二の幽霊のいる部屋のドアに手をかけた時だった。どこからか音が聞こえた。

こん、こん、こん。

僕は冷やっとして辺りを見回した。耳を澄ました。しかし、もう音は聞こえなかった。窓の外からは数人の小学生の笑い声しか聞こえなかった。スクルージの戸を叩く音が頭の中で実際に鳴り響く程に、僕はあまりに物語に溶け込んでしまっていたのだろうか。溜息をついてもう一度、本に目を移した。部屋の奥の長椅子に座っていた巨人がスクルージに叫んで言った。「お入り!」

コン、コン、コン。

僕は再び視線を上げ、部屋を見渡した。

現実に鳴り響いている音だった。それは玄関の方から聞こえた。実際に誰かがやって来たのだ。ドアフォンが長い間壊れている事に気付いた。僕は床に脱ぎ捨てていたTシャツを急いで着て玄関へ向かった。僕の部屋を訪れる人間は誰もいない。ここに越してきてまだ一年だし、日曜日の午後に突然遊びに来る様な友達もいない。どうせセールスか何かだろう。

「どちら様ですか?」

何も返事は無かった。それでも人の気配があったので僕はドアの外に向かって叫んだ。

「ねえ、NHKだったら僕は払わないよ。仕事が忙しくてテレビも見る暇すらないんだ」

またしても返事はなかった。もう一度叫んだ。

「ねえ、新聞だったら要らないよ。僕は新聞を読まないんだ。インターネットがあるし・・・」

宅急便か、いや、もしかしたらと思った。僕は思わずドアを開けた。

ドアを開けるとそこには身長160センチくらいの中年の男が立っていた。よれよれの色の褪せたジーパンにクリーム色のシャツを着て、その上からビロードみたいな真っ赤なジャケットを着ていた。袖もジーパンの裾も短かすぎる気がした。目は細いわりに睫は異常に長かった。まばたきをするとバタバタ音を立てそうだった。鼻はつぶれていて、乾いてひび割れた唇の隙間から黄ばんだ歯が見えた。そして驚いたのは頭に真っ赤なベレー帽を被っていたことだった。服装が上から下までまるでちぐはくだった。

「どちら様ですか?」

僕がそう訊くと、男は細い目をとろんと歪めて微笑み、その後ペコリと深々と頭を下げたまま言った。

「こんにちは。」そして顔を上げ、表情を崩さずに言った。声は不気味な位高かった。「かぶらぎさんのお宅ですか?」

「はい。鏑木ですが」

彼は両手の手の平を合わせて腹の辺りでごしごしと擦りながら言った。

「実はかぶらぎさんにお渡しするものがあって伺ったんです。」

「はあ」

彼は赤いジャケットの胸ポケットから茶封筒を取り出して僕に手渡した。

「これはなんですか?」

「どうぞ、これをお受け取りください」

僕がその茶封筒の中を確かめると、そこには千円札が5枚と、五百円玉が1枚入っていた。

「ねえ、これお金じゃないですか。」僕はよく分らないまま驚いて男の顔を見下ろしていた。

「そうです。」男は高い声で言った。「それをお受け取り下さい。」

「はあ」

僕は声を失っていた。一体、日曜日の午後に赤いベレー帽と赤いジャケットを身につけた知らない中年の男が突然やって来て、いきなりお金をくれるとはどういうことなんだ。僕は不安と気味悪さが入り混じったどんよりとした気持ちのまま男の姿を上から下まで眺めていた。

「ちょっと待って下さいよ。いきなり訳のわからないお金なんか受け取れませんよ。それにあなたは誰ですか?そしてこのお金はなんですか?」

彼はベレー帽をとって、若干禿げ上がった頭に手の平をのせて、参ったな、という風にして答えた。

「そうですね。かぶらぎさん。突然、知らない男がやって来てお金を受け取れと言っても驚きますよね。わたくしは決してあやしい者ではありません。ただ名前は申し上げられません。そしてそのお金ですが、それはかぶらぎさんがちょうど一ヶ月前にパチンコでお負けになったお金です。その分をあなた様に今日こうしてお返しに伺っているのです」

僕は全くもって意味が分らなかった。そもそもパチンコはごくたまにするけど、それが今から一ヶ月前だという記憶すらない。だいたいその時期でその位負けたのは覚えているが、何故、金額を知っているんだ?それに一体この世の中でギャンブルに負けたお金を返しにやってくるパチンコ屋なんかあるはずがない。

「とすると、あなたはパチンコ屋の方ですか?」

「ははは、いえいえ、違います。」彼は細い目を更に歪めて笑って答えた。「わたくしはパチンコ屋とは一切関係ございません。とにかくこのお金をお受け取りください」

「いや、そんなこと言っても困るよ。第一、なんであなたが、僕が一ヶ月前にパチンコ屋に行ってこれだけの金額負けたのかを知っているのさ。仮に受け取ったりして、後になって多額の利子をつけて返せなんて言われても困るしね。最近流行ってるんだよ。無理矢理人の口座に金を振り込んで法外な利子をつけて返せ、っていう新手の金貸しがさあ。あなたはその類じゃないの。パチンコ屋はそういう方々と付き合いもあるだろうし、それに・・・」

「かぶらぎさん、ちょっとお待ちください」彼はジーパンからハンカチを取り出して首筋を拭きながら言った。

「かぶらぎさんの仰ることは分ります。しかし、わたくしはその筋の人間ではありません。赤いベレー帽と赤いジャケットを着たその筋の人間なんて聞いたことありませんでしょう?それにこのお金を受け取っても決して後になって返せとは申しません。それは誓って申し上げます。」

僕は思わず天を仰いだ。そして深く溜息をつくと、彼は手を前で組んでどこか哀しい笑顔を見せて言った。

「かぶらぎさん、わたくしは多くを語れません。わたくしがどこから来たか、当然、名前もです。おかしいと思うでしょう。こんな変ちくりんな男がいきなりやって来てお金を差し出しているのだから。ただですね・・・」

彼は急に真剣な眼差しを僕に向けた。彼は一歩僕に近づいて言った。

「実は、かぶらぎさんはこのお金を受け取る資格があるという事です。先に言っておきます。別に何かの懸賞やくじに当たった訳ではありません。あなたは・このお金を・受け取る程のお方だという事です」

一体、この男は何を言ってるんだ。全てが滅茶苦茶じゃないか。僕になんの資格があるというんだ。僕は同じ事を声に出して訊いた。

「その『資格』って一体なんですか?」

彼はもう一度ベレー帽をとって、今度はハンカチで汗ばんだ頭を拭いて、そして改めて被り直すと話し始めた。

「もしかぶらぎさんがその資格というものを知って、納得されてこのお金をお受け取りになっていただけるのならお話します。そうですね、それが筋というものですから」

僕は黙って頷いた。

「今から半年程前、かぶらぎさんは会社帰りに新宿のある公園である女性をお助けになりましたね?」

「ええ」

彼はじっと僕の瞳の奥底を見つめていた。一瞬の時の流れの間に僕は半年前の出来事を思い出していた。彼は茶封筒を握った僕の手を包む様に軽く握り締めて何か言葉を発するまでもなく、それはあなたが受け取るべきものなんだと、真剣な面持ちで語りかけていた。次の瞬間、彼は来た時と同じ様にペコリと頭を深々と下げ、「では、これで」と言って素早く背を向けて歩いて行ってしまった。次に何か言おうとした時には言葉が届かない位にその姿は小さくなっていた。

奇妙な男だったし、起きたことの端から端までが信じられなかった。僕がこの金を受け取る資格とは一体なんなんだ。

僕はその茶封筒をそのまま電話台の下の引き出しに入れてから、キッチンでグラスにオレンジジュースを入れて飲んだ。奇妙な苛立ちと混乱がグラスを持つ手を震わせていた。どろっとした酸味が舌の奥を刺激し、僕は蛾口を捻り、今度は水道水をグラスに入れて一気に飲み込んだ。



                              * * * * * * *


僕は半年ほど前に、仕事が終って駅に向かう為に新宿の外れにある小さな公園の中を横切っていた。埃の様な青白い星が見事に散りばめられた十一月の夜で、月は丸まったまま眠りについていた。公園には蜜柑色の外灯が砂場の表面を照らしていて、茂みの中でゴソゴソと野良猫が騒ぎ出し、何かに追いかけられる様に飛び出していった。夜になると息を呑んだ様に静まり返った公園は誰も人を近づけない尖った殺気に満ち溢れていた。

公園の中程に来ると、奥まった所にある公衆トイレで物音が聞こえた。通り過ぎようとすると小動物の鳴き声の様な低いうめき声が聞こえて来て、その声は次第に甲高く、大きくなった。立ち止まって見ると扉の奥で人の気配がした。気にせず歩き出そうとするとそれは女性の絞りだす様な泣き声で、まるで喉が焼かれて潰されてしまった様な声だった。空気が歪に乱れていて扉の向うでは明らかに何かが起こっていた。いや、とても正常とはいえない何かが起きた後の沈んだ空気の奥底から聞こえた音だった。足を止めたものの、そこを歩き出す事は何故か出来なかった。

扉に手をかけた。向うで誰かが地面の上で動めいていた。唾を飲み、息を吸い、ゆっくりと吐いてから扉の向こうに機械的に声をかけた。「大丈夫ですか?」

反応がない。微かに聞こえた女性の泣き声は下の方から聞こえた。誰かが立っているのではなく、床に伏せ込んでいるのだろう。もう一度訊いた「大丈夫ですか?体の具合でも」

その時、奥から耳を突き抜ける雷鳴の様な悲鳴が聞こえた。生れて初めて聞く人間の声だった。

ドアを開けると、切れかけの蛍光灯が不規則に点滅している中に倒れる様に座り込んでいる若い女性がいた。僕を見上げたその女性の顔からは一切の表情が抜き取られていた。顔の焦点すらなかった。片方の目は赤く腫れ上がり瞼が落ち込んでいた。顔色は白を通り越して紫色をしていて、唇から流れ出た鮮血は最初口紅の乱れとさえ思った。紺のスーツは無造作に前で開かれていて、乳白色のシャツは第二ボタンまでがなくなっていた。皺だらけの紺のスカートの裾から伸び出た膝を折り曲げて、薄汚れたタイルの上に座り込んでいた。結わいていたであろうゴムバンドが外れて、バサッと肩まで落ちた黒髪の途中でかろうじて引っかかっているだけだった。

彼女は僕を見上げて、赤く染まった瞳で僕の額辺りの一点を注意深く見つめていた。口元が微かに動いたが言葉は聞こえてこなかった。僕は次に発する言葉を探した。しかし、そこで見た光景は今まで一度もなかったものだし、これからどんな生き方をしようと見るはずのない光景だった。便と尿が染みだした空間の中に僕とその女性はひっそりと静まり返って二人の間の僅かな空気の震動を感じとっていた。

その震動が彼女の声で再び大きくなりだした。その声に思わず一歩後ずさりをした。

「や、やめて、お願い」

僕を見上げていた彼女の口は固まったままで、頬を動かして声を発しているみたいだった。だらんと垂れた両手が首筋と胸元を覆い隠した。折り曲げられた膝が一瞬動いて、ハイヒールがタイルを引き摺る硬いた音が響いた。

「いや、あの」とにかく何か言わなければならなかった。喉元の水分が急激に蒸発していくのを感じた。

「大丈夫ですか?ここを通りかかったものですから、あなたの悲鳴が聞こえたので」

僕が見た彼女はその時初めて呼吸をした様に見えた。首元が呼吸のせいで僅かに膨らんでいた。

「嫌っ、出て行って」

彼女は擦れた声で叫んだ後、両手の手の平で額を覆い、僕から視線を外して俯いたまま鼻を鳴らして泣き始めた。

僕は、彼女の言葉そのままにトイレのドアを閉めて、すぐそばのベンチに腰掛け、無意識のうちに煙草を取り出して火をつけていた。僕はトイレで起きたこと、彼女の身に起きた事は深く考えるまでもなく把握する事は簡単だったし、彼女の表情も行動も、発した言葉も理解する事が出来た。僕は今ここで何をしているのだろうか。何をすべきなのだろうか。最近この辺りの治安の悪さは有名だったし、実際に、数日前に会社に巡回の警察官がやって来て「この辺りで婦女暴行事件やひったくりが多発しているので、日が暮れてからはあまり近づかない方がいい。特に女性の方は。」と言っていたのを思い出した。

静まり返ったベンチであらゆる事が頭の中に現われては消えていった。警察に通報するべきか、彼女に何かしてあげるべきなのか、それともこのまま黙って立ち去るべきなのか。考えてもそれなりの答えは見つからなかった。つまりレイプされた女性を見つけて、易々と警察に連絡をして「女性が暴行されたのを発見しました。すぐ来て下さい。」と言ってしまうのは、それが彼女に起こった事に対して彼女自身が選ぶ最善の方法なのだろうか。また「ここにいても危ないから、なるべく早く帰りなさい。じゃあ」と言って立ち去ったとしても、いつここに変な連中が再び現われるとも限らない。とにかく彼女をここから出さなければいけないし、彼女が帰るべき所へ行く道筋だけは最低限つけるべきだと思った。

僕は煙草を消してトイレに近づいてドアの外から声を掛けた。

「ねえ、僕はまだここにいるんだけど、とにかくそこを出て、そしてこの公園から出なくちゃいけないよ。ここは暗くて危ない所だから、また誰が来るとも限らないし。」

ドアの向うからは小さくすすり泣く声が聞こえていた。続けて言った。

「僕はたまたまここを通りかかっただけなんだ。僕はこの近くの会社の人間で、駅へ向かう途中にここを通っただけなんだ。怪しいものでも変な奴でもない。君には何もしない。警察もとりあえず呼んでいない。このまま一人でいては危険だよ。もしよければタクシーか何か呼ぶことも出来るし。しばらくそこのベンチにいるよ。とにかく放っておくことは出来ないんだ。」

そう言うと僕は改めてベンチに座り直した。しばらくして公園の入り口にある自動販売機でボトルのミネラルウォーターと缶コーヒーを買い、ミネラルウォーターをドアの隙間から床にそっと置いた。

「もしよければ飲めばいい。とにかくそこから出てきて欲しいんだ。このままここを立ち去る事にはあまり気が乗らないんだ」

ドアの向こうからガサガサと音が聞こえた。泣き声はもう聞こえてこなかった。僕はベンチに座って缶コーヒーを一気に飲み干し、そこに煙草の灰を入れた。

辺りには都会のど真ん中でありながら人影は殆ど見当たらなかった。もともとこの周辺はバブル時代に猛烈な地上げにあい、この辺りの土地は徹底的に買い占められたものの、地価の暴落とバブル崩壊の影響で殆どが更地のままだった。周辺の会社は既に灯かりの消えた時間だったし、空き地だらけの土地故に住んでいる人間もあまりいなかった。その中心にぽっかりとあるこの公園は昼間でさえも物寂しい雰囲気に包まれていた。最近では浮浪者がうろうろしたり、不法滞在の外国人が麻薬などの取引に使っているという噂さえあった。また、取り壊されることなく残った無人の古いアパートは、夜中になると繁華街をうろついている血気盛んな若い男達が町で引っ掛けた女性を連れ込んでいるという噂さえあった。その時、かなり近くで若者の騒ぎ声が聞こえた。男数人が歩きながら大声で卑猥な言葉を連呼していた。

その声を聞いてかどうか、トイレのドアが開き、彼女が俯きながらその場に立ち尽くしていた。紺のスカートは皺だらけで所々に湿った砂の塊の様なものがついていて、片方の裾は十センチ程切れていた。糸がほつれてくるぶし辺りまで垂れ下がっていた。足首には擦り傷が幾つも見えた。紺のスーツも薄汚れていて、しっかりと閉じられていたが、その下の白いブラウスのボタンがないせいで白いブラジャーが見え隠れしていた。襟には小さな血痕もあった。髪は乱れていて所々が無造作にはね上がっていた。彼女はハンカチで唇の傷に当てたまま、鼻を赤く腫らせていたがもう泣いてはいなかった。僕は彼女を見上げて言った。

「ねえ、とにかくここを出て君は帰ったほうがいい。でもその格好では電車に乗れないかな。もしよかったらタクシーを呼ぶよ」

彼女はフラフラと歩き出し僕の隣に座った。持っていたミネラルウォーターを二口程飲むと、額に手をあてたまま前かがみになって動かなくなった。微かな息使いが聞こえハイヒールのつま先で足元の砂に何かを書いていた。

「怪我はないかい?病院に行く?それとも警察に行こうか?」

ふと見上げると公園の柱時計は十時を過ぎていた。公園はより深い静寂と暗闇に包まれていた。風もなく音もなかった。遥か向うの大通りから車の音がごくたまに聞こえるだけだった。しばらくしてから彼女は無言のまま首を横に振った。

「じゃあ、帰ろう。君の家はどこ?タクシーを捕まえるよ」

彼女が小さく頷いたので、すぐ戻るからここに居て、と言ってタクシーの捕まりそうな表通りまで走って行き、たタクシーに乗り込んだまま公園に戻った。

しかし、彼女の姿は既に公園からいなくなっていた。ベンチにはミネラルウォーターのペットボトルが飲みかけのまま置かれていた。僕はとりあえずタクシーに戻って料金を払い、辺りを探した。まず、もう一度トイレの中を見たが彼女はいなかった。茂みや大きな木の影、そして公園の周りを何周してもそれらしき人間はいなかった。むしろ人影すらなかった。誰かを探すにはそれ程手間のかかる場所ではなかった。人影もまばらでT字の多い一帯だったし、空き地に立てば反対側がすぐに見渡せる。しかし、名前すら分らない故に名前を叫ぶことも出来ない。息苦しさと苛立ちの中で十分程走り続けていた。月はいつのまにか現われた雲に隠れて辺りは幾分暗さを増した様だった。

僕は近くの電柱に寄りかかり外灯からこぼれ落ちる光の筋をぼんやり見つめていた。いなくなった彼女はきっと帰ったのだろう。あの様な事が起きて、誰だか知らない僕さえも信じられないのかもしれない。僕の言葉が決して彼女には届かなかったとは思えないが、少なからず彼女に起きた事が不幸な事であっても、知らない僕が何かを出来るはずもないし、僕はただそこを通り過ぎただけなのだ。ましてや僕には決して理解出来るはずもない事が、今まさに彼女に起こってしまった事であるというだけで、それはそれでただそれまでなのである。彼女に対する同情はまるで郵便ポスト宛てに手紙を書いている様だった。僕も家に帰らなければいけない。僕は遠くの光の束へ向かって歩き始めた。公園から遠ざかると町の喧騒が忍び寄り、空がじっとりと明るくなっていた。ビルの屋上のライトアップされた看板がアスファルトを四角く縁取っていた。



二ブロック程歩いた所で突然車のクラクションが鳴り響いた。ネオンが滲んだ空を切り裂く鋭い音と、車のタイヤがアスファルトに深く刻まれる鈍い音が同時に聞こえた。かなり長い時間だった。直感では車はブレーキをかけても尚数十メートル走った様だった。何か嫌なものを感じ酷く混乱して、思わず音の方へ走り出していた。最初の十字路で右に曲がると少し離れた車道の真ん中で黒い人影がうずくまっているのが見え、その向うには白いライトバンが停車していた。車のライトがその人影をしっかりと捉えていた。僕がそこへ駆け寄ると車からは会社の作業着らしきものを着た中年の男が降りてきて、うずくまった人影に怒鳴りながら声を掛けていた。

その人影は先ほどの公園の女性で頭を抱えて車道の上に丸まっていた。車と彼女は接触しておらず、男が「気をつけろよ」と声を掛けても動こうともしなかった。赤いエナメルのハイヒールの片方が離れた場所に横たわっていた。男は、彼女に怪我がないのが分ると、何か捨セリフを吐きながら車に乗り込みそのまま走り出して行ってしまった。歩道で一部始終を見ていた数人の歩行者は何事もなかった事が少しばかり残念だったのか、舌打ちをしながらどこかへ行ってしまった。

「ねえ、大丈夫?」

僕が彼女を見下ろして声を掛けると、一瞬顔を上げて小さく頷いた。僕は彼女の腕を取り、起き上がらせて歩道へと移動させた。足はフラフラで殆ど引きずった状態だった。彼女をガードレールに腰掛けさせると僕は片方のハイヒールを拾い彼女の足元に置いた。彼女は肩を落とし腕をだらんと下げたまま、歩道についた染みの辺りを見続けている様だった。黒い皮のハンドバッグは肩からずれ落ちてなんとかしがみついていた。

「急にいなくなったから心配したんだ。」

それだけ言うと僕は何故か黙り込んだ。何も言う言葉も見つからなかった。時折通り過ぎる車のライトが彼女の服の乱れをありありと浮かびあがらせていた。僕らをカップルと勘違いしたのだろう。数人の酔っ払いのサラリーマン達が冷やかしながら通り過ぎて行った。反対側の電柱の下では若いカップルが抱き合っていた。片目のつぶれた薄汚れた浮浪者がゴミ箱をあさっていて、中から小さな紙袋を見つけるとまるで子犬を抱きかかえる様にして人気のいない空き地の方へ消えて行った。

「一人で帰れるのかい?」

彼女の髪がひらひらと靡いてその横顔を隠した。呼吸の為に小さくめくれ上がった唇が微かに動いた。

「帰れるのなら今ここでタクシーを捕まえよう。君の家はどこなんだい?この近くなの?」

彼女は俯いたまま動かなかった。少し苛立って言った。

「ねえ、ちゃんと帰れるのなら僕は行くよ。もう遅いしタクシーで帰る。それで君はここに残って別なタクシーを見つけて帰るがいい。いいかな?」

何の反応もなかった。僕は一台のタクシー捕まえた。ドアが開くと彼女はごそごそと言った。

「怖いんです」彼女はその一言だけ言うと遠くのビルの隙間に目を凝らしていた。先程と違って幾分顔は赤みが戻っていた。何度か髪を掻き上げると彼女は引っかかっていたゴムバンドを摘んで指からするりと地面に滑り落とした。

「分った。とにかく一緒に乗ろう。君の家まで送るよ。そこで君を降ろしてから僕はそのまま家に帰るよ」

彼女は頷き、僕らはタクシーに乗り込んだ。車内は異様に煙草臭く、彼女が窓を開けるとミラーに映る運転手の顔が強張っているのが分った。

「家はどこなんだい?僕は初台だけど。」

彼女はぼんやり外を見ながら答えた。

「やっぱり初台に先に行って下さい。」

運転手に初台にある僕のアパートの詳しい場所を言った。車が走り出しても運転手はミラーを通して彼女の格好を不思議そうにちらちらと見ていた。

きっと彼女は自分の住まいが知られたくないのだろう。僕が先に降りてから帰るのだろう。それでも全然構わなかった。僕はそっと目を閉じて車のエンジン音に耳を澄ましていた。救急車の音が大きくなり、そして消えていった。どこからかクラクションが聞こえた。信号で止まると人波の足音が聞こえた。目を開けるのがたまらなく嫌だった。意識を集中すればする程、僕は夜の都会の真ん中で酷く孤独であるのだと感じた。

僕のアパート付近に差し掛かると、彼女は消える様な声で言った。

「すみません。帰る所がないんです」

「ない?」僕は驚いて目を開けた。「無いってどういう事?」

車は既にアパートの前で停まっていた。運転手は黙って待っていた。

「ちょっと待ってよ。」僕は溜息をついて声を上げた。「そんな事言われても困るんだ。」

「ごめんなさい」

運転手は何か言いたそうだったので僕は咄嗟に言った。

「とりあえず降りよう。降りて話そう」

タクシーが走り去ると彼女は肩を落としたまま真っ直ぐに立ちすくんでいた。辺りはしんと静まり一切の風も吹いていなかった。

「ねえ、困るんだ。そして帰る家がないって、どういう事なんだい?」

彼女は弱々しい顔を上げて僕を捉えた。まっすぐに彼女の顔をまじまじと見るのはこれが初めてだった。多分二十代半ばなのだろう。化粧は薄かったがアイシャドーや口紅が涙のせいで酷く流れ出していた。鼻はこぶりで頬はふっくらしている。目は二重で大きいが赤く充血していた。顔からは人間らしいあらゆる表情が剥ぎ取られていた。顎のラインがほっそりとしていて普段はわりに気の強そうな感じのする子だった。彼女はまるで氷の塊の中に閉じ込められている様に黙ったままだった。僕は諦めてしばらくの間、空を見上げていた。細かい星の粒は次第に動物か何かにさえ見えてきていた。こんなに長い間、空を、星を見続けたのは久しぶりだった。しかし、それはどこまでも星であり、どこまでも夜の空でしかなかった。

「帰る家がないって、どうしてさ」

僕の口調が若干苛立ちを含んでいたのを感じたのだろう。彼女はゆっくりと息を吐いてから無表情のまま答えた。

「とにかく帰る所がないんです。帰りたくても帰れないんです」

「ねえ、それはさっき君に起きてしまった事と何か関係があるのかい?」

彼女は頷いた。僕は天を仰いでもう一度溜息をついた。「どうするつもりなんだい?」


部屋の鍵を開けながら言った。

「とにかく座ってゆっくり考えればいいよ」

湿った部屋の明かりをつけて、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してグラスに入れてダイニングのテーブルに置いた。彼女は玄関に朽ち果てた工場の煙突の様に立ったまま部屋のあちらこちらに目を配っていた。薄汚れた壁、キッチンの黒ずんだやかんや水切り、去年のままのカレンダー、玄関の脇に無造作に積み重ねられた新聞紙の束、ビールの空き缶が溢れ出したゴミ袋。僕は缶ビールを開けてテーブルに座った。

「ねえ、とりあえず入って座りなよ」

彼女は微かに頭を下げて部屋に上がりテーブルの向う側に座った。

「僕は君に色々聞かなきゃいけないし、君に言わなければいけない事が沢山ある。でも、今君はそれに対して答えたくないだろうし、それはあまりに辛い事だと思う。でも、とにかく聞いて欲しいんだ。」

彼女は一口だけオレンジジュースに口をつけただけでそのまま下を向いたまま黙って僕の話を聞いていた。

「まず、僕は鏑木透というんだ。二八歳でここに一人で住んでいる。僕はあの公園の近くの会社で働いている普通のサラリーマンだ。あの公園は駅との通り道でよく通る場所で、僕はさっき会社の帰り道で公園の中を横切ろうとしたらトイレで物音がして君を見つけた。あの辺りは結構治安が悪くて有名なんだ。僕が君が誰かに乱暴された事はすぐに分った。多分、誰でもそうかと思うけど、そういうのを見つけて放っておけないんだ。とにかく君をあの場所から移動させようと思った。そして君のその姿では電車には乗れないだろうし、君も嫌だろう。だからタクシーを呼んだ。でも君はいなかった。その気持ちは分る。」

壁時計が時を刻む音だけが聞こえていた。

「多分、君は我を忘れて単にフラフラ歩いていたのかもしれない。でも、僕は思ったんだ。君がもしかしたらよからぬ事を考えていたのではないかと。それについてはどちらかは聞かない。もしそうだとしたらそれはあまり良い考えじゃない。僕は男で、そういう一種の暴力の辛さはあまり分らないし、どういう人間が君に乱暴したかは分らないけど、それはとても酷い事だし、悲劇だし、許せる事ではない。でも僕は死を選ぶ事はしない。君の今の気持ちを理解する事は難しいかもしれないけど、理解したいと思う。それでもその辛さを乗り越えるのに死があるとは思わない。」

僕は煙草に火をつけて続けた。

「まあ、それはもういい。僕はあの時警察を呼ばなかった。今はそうするべきだったのかもしれないと思っている。しかし女性があの様な悲劇の後で、警察においてあらゆる対応をしなければいけない事を想像すると、それは君をより悲惨な現実に突き落とすという可能性があるのかもしれない。だから僕は躊躇した。それについては君が今後判断すればいい。さて、次は今後の事なんだ。」

立ち上がって換気扇をつけ、キッチンの小窓を開けた。僅かに夜風が入り込み、遠くの列車の音が聞こえてきた。

「君は帰る所がないと言った。帰りたくても帰れないと言った。それについては僕は全く分らないけど、あの出来事が原因でそうなったのなら、多分、本当に帰れないんだろう。それでも他に行く所はないのかい?」

彼女は俯いたまま静かに頷いた。

「分った。では君の好きにすればいい。仮にここに今日泊まるとしてもそれはそれで構わない。僕は男だし一人暮らしだけど、こういう事についてはわりに真面目なんだ。飲み屋で知り合った女性を部屋に連れて来たのとは全然違う。とにかくゆっくり考えて欲しい。たまたま明日は土曜日だけど、君は仕事は休み?」

彼女はまた同じ様に頷いた。

「僕も休みだ。とにかく着替えなきゃいけないし、シャワーでも浴びたほうがいい。風呂場はあまり綺麗じゃないけどその辺りは我慢してくれ。それと最低限の洗面道具はある。僕はこれから二時間、部屋を空けるよ。近くに飲み屋があるからすぐに時間は潰せる。」

僕は立ち上がって奥の部屋から布団とタオルとスウェットの上下を用意した。

「布団は来客用に買ってまだ使っていないものだ。このスウェットも買ったばかりのものだ。タオルは洗いたてだから大丈夫だと思う。今は一時だから三時に戻る。布団は悪いけどこのテーブルを寄せて敷いて寝て欲しい。それと冷蔵庫に多少の飲み物はあるし、少し口に入れられるものが幾らかはある。お腹が空いていたら食べればいい。あと、救急箱もそこにあるし傷の手当てをすればいい。遠慮しなくてもいいんだ。」

僕は着替えて部屋を出て、近くの行きつけのカウンターのみの小料理屋で瓶ビールを二本ばかし飲んだ。隣の客はおかみと最近のジャイアンツのふがいなさについてあれこれしゃべり続けていた。僕の様子がいつもと違うのか、おかみは軽い挨拶だけでとりわけ話し掛けてこようとはしなかった。

 

三時過ぎに部屋に戻ると、彼女は椅子に座ってテーブルの上に伏せたまま寝ていた。シャワーを浴びたらしく髪は濡れそぼっていて僕のグレーのスウェットを着込んでいた。足元には汚れた紺のスーツが丁寧にたたまれて置かれていた。顔を覗き込むと憂いに沈んだ寝息が小さく聞こえた。ふと彼女の脇を見ると、テーブルの上に小さなメモが置いてあった。

『今日はいろいろありがとうございます。名前は滝田 さなえといいます。』

僕はその紙を折ってポケットに突っ込み、奥の部屋に入ってヘッドフォンでビートルズの『サージェント・ペパーズ』を聴きながらそのまま眠りにつき、起きたときには既に朝を迎えていた。

 

時間は朝の九時だった。窓を開けると秋の冷たさの入り混じった微風が頬を撫で真珠の様な朝日が部屋を目一杯に照らしていた。一斉に飛び立った雀の群れは視界を斜めに横切って向かいの電線の上で整列を始めた。

ダイニングに行くと、さなえという名の女性はテーブルに座ったまま頬杖をついてテーブルの木目の上で指を無意識に動かしていた。僕が「おはよう」と言うと、ちらっとこっちを見てから「おはようございます」と言った様だった。口がそう動いただけで実際には聞こえてこなかった。

マグカップにカフェオレを二つ作りテーブルに置いて座った。彼女は幾分生気を取り戻していたものの青ざめた表情には憂いが漂っていた。溜息まじりに呼吸をしながら、向かいに座った僕の胸元あたりに視線を忍ばせていた。髪は結わかれていたので子供っぽい額が顔を覗かせ、化粧は落とされていたものの薄っすらとファンデーションをしている様だった。唇は淡い紫色をしていて固く結ばれていた。

「よく眠れた?」

彼女の頭だけがほんの少しだけ揺れて、そのせいで耳にかかった髪が垂れて鼻の辺りをかすめた。彼女はか細い指でそれをすくい、ふっくらとした耳たぶの裏へ隠した。

「さなえさんだよね。ねえ、お腹空かない?なんか作るよ」

僕は彼女の反応を見るまでもなく立ち上がってパンを二枚トースターで焼いた。冷蔵庫を開けても昨日の晩に彼女が何かを飲んだり、食べたりした形跡はなかった。僕は買ってあったパックのサラダを二つの皿に分け、バターとマヨネーズと塩をテーブルに置いた。その間も彼女は時折鼻をすすりながら指の爪辺りをしきりに触っていた。

「こんなものしかないけど、何か食べた方がいい。君は昨日から多分何も食べてないし、空腹が和らげば少しは気分も変わると思う」

彼女がゆっくりとバターを塗ったトーストを口に運んだのを見届けてから、僕も食べ始めた。静か過ぎる朝食だった。離婚間近の夫婦ならこういう食事なんだろうな、と思った。彼女はトーストを最後まで食べてしまうと、塩を振っただけのサラダを半分残してフォークをコトッと置いた。俯いたまま少し腫れた瞼から氷の欠片の様な固形の涙がぽたっと落ちてテーブルの上を濡らした。僕は玄関で新聞を取り食事をしながら読んだ。通り魔があり、どこかの大きな会社が潰れ、ジャイアンツがサヨナラ負けをして、名前の聞いた事のない女優が入籍したと報じていた。それらはただの記号の羅列にしか見えなかった。

新聞紙の向こう側で彼女は泣いていた。彼女は昨日からどれだけ泣いたのだろうか。彼女の心を微塵に砕いたものに対しての行き場のない怒りとやるせなさ、そして憐れみや同情を含んだ悲しみに僕すらも包まれていた。無慈悲な暴力と凶暴な快楽が突如襲いかかるという事の意味について、その事象的な帰結として、そしてその総体として、目の前の彼女の姿がまさにそのものであるというありありとした事実だった。彼女が今いる世界はどこなのだろうか。彼女の世界では何が起きていて、何が見えて、何を感じているのだろうか。そう考えると僕はこの狭い部屋の中で酷く遠い世界の住人の様にさえ思えた。どんな言葉も眼差しも彼女を素通りして、彼女の背後の壁の中に吸い込まれて消えてなくなっているのではないのだろうか。虚無感と無力感の渦の中で身動きも取れず途方に暮れていた。僕らのいる空間の様にすっかりカフェオレは冷めきってしまっていた。

外から子供達の駆け音が聞こえた。静けさと紙一重の物音だった。僕の食べ残しのトーストはドライトーストの様だった。キッチンの小窓から入る土曜の朝の幻影の中で新聞をめくる乾いた音だけが無機質に断続的に響き渡っていた。僕は音の無い言葉の海のただ中にいた。何か言わなければいけなかった。沈黙の嵐の下では不可能に思えた。しかし、それはより僕を窒息させ、酷く疲れさせた。

「ねえ、昨日の事だけど、君に乱暴した人間は許される訳はないし、その辺りはきちんとすべきだと考えてる。だから」

泣き腫らした彼女は大きく首を振った。

「でも許されるべきじゃない。これは犯罪なんだ。君はその男を見ているし、男は多分逃げ隠れする事は出来ない。だから教えて欲しいんだ。これは空き巣とか、スリとか、そういう類のものではないんだ。僕はたまたまあそこを通って君を見つけた。そして今、こうして目の前にいるにも関わらず『なるべくこういう事は早く忘れるべきだよ』とか『犬に噛まれたり、交通事故みたいなものさ』なんて言えるはずがないんだ。」

彼女は僕の顔を見ていた。というよりは僕の背後の何かを見ている様だった。

「君の気持ちになって考えようとすればする程、それはとても辛い事だけど、僕らは昨日出会ったばかりでお互い何も知らないんだ。僕の出来る事は一般的に言って出来る事、やるべき事なんだ。君をとことん貶めた連中を見つけ出してしかるべき罰を与える事だと思う」

彼女は小さく頷いた。

「僕の言っている事は分ると思う。その反面、昨日も言ったけど、それは再び深く君を傷つける可能性もある。僕が君の立場だったらどうするだろうか、多分、分らない。でもね、あの辺りは僕の会社の近くだし会社の女の子達も通る場所なんだ。これ以上、誰も被害にあわせたくないんだ」

彼女はもう一度頷いた。男物のスウェットはどこかぎこちなさそうだった。

「さなえさん、何か言って欲しいんだ。僕が一方的に話していてもしょうがない。君はどうするべきか、どうしたいか教えて欲しい」

静まり返った部屋で僕は彼女の言葉を待った。宵闇の中で遠くの山の頂きに姿を現す朝日を待っている気分だった。たまりかねて僕は使った皿を下げて流しで洗った。目の前の小窓からそよ風が川の様に流れ込んできた。若い母親が連れていた子供が急に泣き出したので、頭を撫でてしきりに話し掛けていた。

「あの」不意に彼女は柔らかな声で僕の背中に声を掛けた。その後、大きな溜息が聞こえた。僕は振り返りそのまま椅子に腰掛けた。

「私の勤めている会社もあの公園の近くなんです。会社を出た所で嫌な予感がしていました。誰かがつけて来る気配がしました。それでも気にせずに歩いていて、あの公園にさしかかった所で声を掛けられました。声を掛けたのは男二人で私の知り合いだったんです」

彼女はまるでテーブルに話し掛けている様だった。

「知り合い?」驚いて訊いた。「出来たらもっと詳しく教えて欲しいんだ」

「はい。今から四ヶ月前に新宿の飲み屋である男に声を掛けられたんです。歳は三三歳でがっちりしていて背が高く色黒で遊び人風の男でした。話も合うので携帯の番号を交換して電話やメールだけのやりとりがしばらく続きました。だけど付き合うのにそれ程時間は掛かりませんでした。しかし彼は貿易の仕事をしていると言いながらかなり謎めいた部分が多く、その男が半分堅気の人間ではないと分るのはそれから一ヶ月位してからでした。彼は仕事で少しトラブルに巻き込まれたと言って、突然私の練馬区の部屋に転がり込んで来ました。私が断っても土下座までして懇願するので、しょうがなくそれから二人で住む事になりました。彼はあまり仕事にも行かず毎日フラフラ遊んでいました。その頃から彼の友人と名乗る男が二人よく遊びに来る様になり、私が仕事から帰っても三人でよく昼間から酒を飲んでいました。男二人は彼よりも若干年上で、友人というよりは彼の先輩という感じで時折敬語で話をしていました。彼ら二人は明らかに新宿辺りのチンピラでした。一応、彼の事は好きでしたのでそれなりに我慢をしていたのですが、彼ら三人が私の給料までも酒代に使ってしまう程だったので、その友人らが帰った後では彼との喧嘩がいつも絶えませんでした。」

「酷いな」

「ええ、それで私は何度も『別れたい』『出て行って』とお願いしましたが、その度に彼は急に優しくなって詫びてきました。そんな事がしばらく続いたある日、私が仕事帰りにカードでお金を下ろすと何故か残高がゼロになっていました。すぐにそれは彼だろう。つまり部屋にある通帳と印鑑で下ろしたのだと直感したんです。部屋に帰ってその事を彼に問いただすとしらばっくれたまま白状しませんでした。それで私は頭に来て警察を呼びました。やって来た警察に事情を説明すると、彼は断固否定しましたがそのまま連れて行かれました。でも、なぜか警察はきちんと捜査さえしませんでした。彼が黙秘している事、証拠がない事。それとそういう事件は世の中では珍しくないし、そもそも一緒に住んでいる間柄だったからです。あとは、多分ですが、警察とその筋はある程度繋がっていて、彼の後ろにいる人間が手を回したのだと思います。彼はそのまま釈放され、私がいない間に荷物を持って出て行って、そのまま消えてしまいました。」

僕は黙ったまま聞いていた。

「正直、ほっとしました。お金は返ってこないけど、彼が出て行ったおかげで普通の生活に戻れたんですから。しかし、結局・・・」

彼女は天井をしばらくぼんやりと見つめていた。

「昨日、公園で声を掛けてきたのは彼の友人二人でした。『やあ、久しぶり、元気?少し話そうよ』と言って公園に連れ込まれたんです」

天井を見上げたまま糸の様な涙が一直線に筋を作っていた。僕は思わず煙草に火をつけその煙の行方を追っていた。

「何もかもが終った後に突然、彼が現われたんです。」

「彼が?」

「はい。彼は入り口に立ったまま私を見下ろしていました。肩をすくめて声を出さずに不気味に笑っていました。冷酷でそれでいて無表情の笑顔なんです。機械的な笑いでした。」

そこまで話終ると彼女はテーブルに突っ伏したまま肩と頭を震わせて泣き始めた。髪がだらんとテーブルに枝垂れていた。もう一度カフェオレを入れ直した。彼女の言葉を反芻しながら舌に張り付いたコーヒーの酸味に意識を集中させて奮い立つ感情を鎮めようとしていた。

「その事を警察に行って言うつもりはないのかい?」

彼女はうつ伏せのまま頭を大きく振り、くぐもった声で答えた。

「言っても何も解決はしません。私に実際手を出したのは彼の友人達だけです。彼らを捕まえても彼は多分捕まりません。彼ら三人がどんな間柄だと証明しても、たまたまそこを通りかかったとか、なんとでも言い訳はつきます。そして、何より彼が捕まらない限り、警察に行ったら今度はどんな事をされるのか。」

彼女は鼻をすすりながら顔を上げ、髪をかき上げて言った。

「あの時に警察を呼んだ事への報復だったのでしょう。でもなんとなく分るんです。もう彼は手出しをして来ないし、二度と現われる事がないだろうと。」

「ねえ、さなえさん、君はこのままでいいのかい?」

それについて彼女は答えなかった。「でも、怖いんです。凍えてしまうそうな位怖いんです。」

「君はそれでも住んでいる所があるんだよね。そこになんで昨日帰らなかったの?」

「彼は二度と現われないと思います。それよりも私を乱暴したあの男達はまだウロウロしていると思います。それに私の部屋も当然知ってますし。」

「さなえさん、とりあえず分ったよ。明日までゆっくり考えるといい。それまで居ても構わないから」

彼女は泣き疲れたのか擦れた声で言った。

「すみません。」

とても弱々しかったが、初めてみる彼女の笑顔だった。非常に限定的で、(笑顔)というものを真似しているみたいだった。

2004-07-29 地平の舟  (◆

あの男が帰った後、僕は周りを見渡しながら部屋の隅々にさなえ の残していった痕跡を探していた。しかし何もなかった。探しているのは彼女の影の様なものだったのかもしれない。赤いベレー帽の奇妙な男。パチンコですった分を届ける。滝田さなえを知っている。一体誰なんだ。何が繋がっているんだ。何が起きて、何が起ころうとしているんだ。困惑の彼方にはどんよりとした不気味なものが横たわっているだけだった。男はさなえの家に転がり込んだ恋人なのだろうか。いや、多分容姿が全然違うだろう。ならば、さなえをレイプした一人なのだろうか。いや、あの男がチンピラとは思えない。それとも彼らの仲間なのだろうか。僕は考えるのをやめてベットに寝そべったものの本を読む気にはなれなかった。結局、そのまま出掛ける事にした。行く宛ては特になかった。


雲が多いわりには空がとても広く感じた。雲の切れ目から漏れた陽の丸い巨大な輪はこの辺り一角をまばゆく輝かせていた。春の陽光はほんのりと夏の色彩を帯びていて、歩いているだけでじっとりと汗ばんだ。どこに行くのかも、どこを歩いているのかもよく分らなかった。気付くと駅の方向に歩いていた。騒々しい商店街の陰鬱な表情は灰色に染まった僕の心にどこか似ていて、戦乱で廃墟になった東南アジアの小さな村の情景を連想させた。

さなえが居なくなって四ヶ月。僕は休みの度にこうして町を彷徨いながら彼女の残像と実際の姿を捜し続けていた。半年前、彼女は僕の人生に突如現われ、二ヶ月後にいなくなった。去っていったのか消えたのか。立ちこめる煙草の煙が開け放った窓からすっと入り込んだ静かな風の気流に乗って見えなくなってしまったかの様に。

窓を開け放ったのは誰だったのだろうか。それは僕であろう。彼女の心の中心で凝り固まったものをより広い世界に溶解せようとした。しかし、それは彼女の居場所を居場所ではなく違うものに変質させてしまったのだった。彼女を深く傷つけ、深淵の闇にもう一度、つまり彼女があの公園で遭遇した悲劇よりも遥かに無情で無自覚な暴力によって、突き落としてしまった事を考えるとたまらなく哀しかった。しかし、何を考えても今はもういないのだ。失われ遠く霞んだ彼女の声はもう聞こえるはずもなかった。

駅前のガラス張りの喫茶店で一時程、時間を潰した。時折、近くの街路樹の葉が風に吹き飛ばされて目の前のガラスにぺたりと張り付いていた。通り過ぎる人間達の声は重なり合い、言葉を越えて単なる音になっていた。さなえと僕がよくここで飲んだアイスティーは心持苦味を含んでいて、煙草の味と混ざって口を支配する不思議な感覚は僕をあの頃の時間の中心へ引きずり込んでいった。

すっかり陽が傾いた時には僕は電車に乗って練馬区にあった彼女の部屋に向かっていた。これで何度目だろう。既に居るはずのないあの町に僕を運んでいくものは一体何なのだろうか。小さなロータリーを抜けて閑静な住宅街に入り、小学校の脇にその建物はあった。壁全面が茶色く塗りつぶされ、三階建ての建物には各階に二部屋づつ部屋があった。彼女がいなくなってすぐに来た時には既に部屋は引き払われていて、最後に来た一ヶ月前には既に新しい住人の名前がポストに貼られていた。隣に住む大家の初老の男性も「どこに越したかは教えれられない」と言っていた。僕がこうしてここにいる事すら全く意味のない行為だった。通りの反対側から立ったまま建物の全景をぼんやり眺めていたが何も起きないし、何も解決されないのだ。どれだけの時間が経ったのだろう。足元には数本の吸殻が落ちていた。僕はそれを拾って近くの公園の灰皿に捨てて、駅へ向かって歩き出した。

再び初台の駅に降り立つと既に空は青黒く染まっていて、パチンコ屋の眩しいネオンに視力を奪われていた。あの時、ベレー帽の男が、僕がここでパチンコをしていくら負けたかを知っているという事は、彼は傍にいたのかもしれない。しばらくの間、パチンコ屋の前で辺りを見回したがそれらしい人間は見つからなかった。パチンコをやって負けたらまたあの男が現われるかもしれない。そこで今度はちゃんと彼女の事を何かしら聞き出す事が出来るかもしれない。店に入ろうとしたが、結局、馬鹿らしくなってその場を離れた。僕は近くの定食屋でとんかつ定食と一緒にビールを飲んだ。肉はゴムみたいに固く歯につまってなかなか取れない肉片が僕をしばらく苛立たせた。それから表通りにあるペットショップでショウウィンドウに面した檻にいる子犬のパピヨンと遊んだ。僕らはその子犬を勝手に『スルメ』と呼んでいた。数ヶ月前にさなえと来た時に彼女が名付けたのだ。両目と両耳の辺りが黒くて顔の中心が白く、耳はつららを逆さまにしたみたいに立っていた。僕が爪先でガラスをコツコツ叩くとそれに合わせてスルメは尻尾を揺らしながらその場で何度も飛び上っていたが、仕舞には顔をガラスにぶつけて大人しくなってしまった。スルメがぶつけた辺りは彼の吐息と鼻の湿り気で斑点みたいに真ん丸く曇っていた。よく見ると右下には「売約済み」という札がかかっていた。スルメは疲れたのかうずくまって目をそっと閉じて動かなくなった。

大通りの交差点に差し掛かかった時だった。向こう側の車線の先頭に一台のタクシーが止まっていたのが目に入った。いや、目に入ったのは車そのものでなく、そこにいる運転手だった。薄暗くてよく見えなかったが、そこに居たのは昼間に部屋を訪れたベレー帽の男だった。白か淡いブルーのワイシャツに紺のネクタイをしていた。帽子は被っていなかった。乗客を乗せているらしく何やら笑いながら会話をしていた。タクシーの運転手?思わず走り寄ろうとしたが信号が青になってすっと走り去ってしまった。シルバーの車体にはブルーのラインが一本、横一直線に走っていた。咄嗟に遠くに目を凝らした。『東』という文字と『交通』という文字が見えた。『東交通』?あずまこうつう?いや、それ以外に何か文字があった気がする。『東』で始まる名前だろうか。それとも最後に『東』で終る名前なのだろうか。とにかくあの男はタクシーの運転手で、『東』という字を使った会社の人間である事は間違いなかった。

部屋に戻りシャワーを浴びてベットに飛び込んだ。赤いベレー帽の男・パチンコの負け金を届ける・タクシーの運転手・さなえの事を知っている。考えても結論は出なかった。出るはずもなかった。ぐったりと疲れきってそのまま眠りについた。


                      * * * * * * *



 「ねえ、聞きたいんだけど、女友達でしばらくの間住まわしてもらえる様な人はいないの?」

「はい。今年就職で東京に来たんですが、こっちにはそういう友達はまだいないんです。実家は福岡の博多だし親戚もいません。」彼女は物悲しい声で答えた。

さなえがいつまでここにいるかは分らないがとりあえずやらなければいけない事があった。

「うん、分ったよ。まず、当分ここに居るにしても、君だって洋服とか身の回りのものはある程度持って来なきゃいけないだろう?」

「はい」

少し考えてから言った。「今日これから一緒に荷物を取りに行こう。スーツケースは持ってるかな?そこに着替えやなんかを詰めて持ってくるんだ」

彼女は心配そうに頷いた。

「ねえ、僕はこれでも数年前に同棲の経験があるんだ。そういう事の基本的な部分は分っていると思う。それと、僕も君も心配している事だ。昨日知り合ったばかりの男と女が一つ屋根の下で住むんだ。正直よくある事じゃないし、ある意味では正常ではない。でもね、僕は君に指一本触れるつもりはない。信じられる様に努力して欲しい。僕も若い男だ。しかし、そもそもこうして君がここに住む原因が原因なんだ。お互いどこかで知り合って仲良くなって住む訳じゃない。それがどういう事か分っているし、それがとても愚かな事だとも分っているつもりだ。二十歳位で性欲過多な男でも健全な精神を持っていれば出来る訳がないと思う。」

「はい」

「確かに君を乱暴した人間の様に動物手的衝動のみで突き動かされてしまう奴はいるよ。でもそれはごく稀なんだ。こんな世界でもわりにちゃんとしている人間は幾らかはいる。僕は出来ればそうでありたいと思う。」

彼女は幾らか当惑した様に頷いた。

「ねえ、酷い言い方だけど、判断するのは君の方なんだよ」


結局、僕らは彼女の部屋に向かった。彼女はスウェットでは電車に乗ることも出来ないのでとりあえずタクシーで直接向かった。それ程、遠い場所ではなかった。

部屋の前でタクシーを降りると彼女が心配そうな表情を浮かべたので「ここで待っている。数日分のものだけでいいよ。旅行じゃないんだ。それに僕もそんな長居されては困るし」と言った。彼女は小さく微笑んで階段を上がって行った。三十分程で彼女は着替えて紺のスーツケースと化粧ポーチを携えて降りてきた。細身のジーパンに大きな英語が幾つか並んだグレーのトレーナーを着ていた。「用心の為もあるし荷物も重いから、ここからタクシーで帰ろう」と僕は言った。

彼女はタクシーの中で実家に電話をして、訳あって女の子の友人の家に泊まるからしばらく部屋を空ける、と言った。親が何か言ったのだろう。大丈夫心配しないで、と答えて電話を切った。また、数人の女友達にも電話をした。最近、ストーカーみたいのにつけまわされて怖いから友達の所に住まわせてもらうの、と言った。相手が誰の家?と言ったのだろう。知らない友達よ、と彼女は答えた。その後、何かあったら携帯に電話して、心配しないで、と言って電話を切った。その電話を横で聞いていてそんなに長くいるつもりなのか、と僅かに心配になった。

僕の部屋はアパートの一階の角部屋で、フローリングの8畳のダイニング兼キッチンと奥に畳張りの7畳の部屋があった。その間はスリガラスの引き戸で仕切られていた。当分はダイニングのテーブルを寄せてマットレスの上に布団を敷いて寝て欲しい、と言った。僕はベッドでしか寝れないんだ、それに同じ部屋はまずいでしょう。と言って彼女は納得した。部屋に着くとガラクタの入った青いプラスティックケースを空にして、ここに荷物を入れるといいよ、と言い、彼女はスーツケースの中身を手際よく仕舞い込んでいた。

「出来たらハンガー貸して頂けますか?」

彼女は持ってきた数着のスーツを食器棚の縁に掛けた。ケースからはジーパン、スカート、トレーナー、薄手のコート、下着がザクザクと出てきて、更には漫画本、CD、CDウォークマンが現われた。まさかこれで一冬越すつもりじゃないだろうな、と少々困惑したが、当然何も言わなかった。

「さなえさん、とりあえずこっちのダイニングを基本にして欲しいんだけど、CDウォークマンなんかは耳にもよくないし、僕の部屋のコンポ使っても構わないから。テレビも見ても構わないし。音楽はヘビメタと演歌以外だったら文句は言わないよ」

彼女がちらっと見せたCDは、ミスチル、スマップ、サザンだった。僕は思わず、参ったなあ、と呟いた。

「で、テレビはよく見るの?」

彼女は頭を振って答えた。

「あまり見ないほうです」

「ふーん」結局、月曜日からくだらない恋愛ドラマに毎週付き合うはめになってしまった。

その日の夜は僕が夕食を作った。買い物も億劫だし、たまたまにんにくと鷹の爪とパスタがあったのでペペロンチーノを二人分作った。彼女は多分お世辞ではなく「とっても美味しい」と言った。「料理得意なんですか?」と訊いてきたので「若い時に調理のアルバイトを少ししただけだよ」と言った。実は、僕は二十歳から二年間、ちゃんとしたレストランで料理人をやっていたから当然だった。しかしそれを言ったらこれから何を作らされるか分らない。その点だけは伏せておいた。

こうしていつまで続くか分らない二人の生活が始まった。彼女は部屋の大家さんに、しばらく留守にしますと電話して言った。また、精神的なショックもあってしばらく会社を休みたいと言ったので「それは君の問題だから好きにすればいい」と答えた。しかし会社を休む理由がなく、結局、月曜日の朝に僕が彼女の会社に電話をして、滝田さなえの兄ですが、週末に妹が倒れまして昨日病院に言ったら胃潰瘍だと診断されました。症状は軽い方なので部屋でしばらく薬を飲んで安静にしていなければならなく、大変申し訳ございませんが一週間程休ませてください、と彼女の上司らしき女性に言った。女は少し驚いて「分りました。それは大変ですね。お大事にとお伝えください」と言ってガチャンと電話を切った。僕は部屋の鍵のスペアを渡し、会社に向かった。

 

一週間後、彼女は会社に行き始めると利用する駅を変えた。僕よりも先に帰宅した彼女はまず風呂桶にお湯を張った。僕が帰宅して食事を済まして奥の部屋に引き上げると、彼女は風呂に入り、その後に僕が入る様になった。一緒にテレビを観る事はごくたまにあったが彼女はダイニングの方でテーブルで本や雑誌を読むか、CDウォークマンで音楽を聴く事が多かった。寝るときはテーブルを寄せてマットレスの上に布団を敷いて寝た。

僕はまず何事もこと細かく取り決める事をやめた。そもそもお互いをある程度知った上で始めた生活ではない。恋人でもない。もし僕達がその様な関係だったら、逆だっただろう。実際に数年前の女の子の時はそうだった。彼女が食器を洗って、僕が風呂を掃除する。洗濯は僕がセットして、彼女が干す。週末に交代で掃除をする。一ヶ月単位で生活にかかった家賃、光熱費、その他の出費をレシートを基に清算して折半する。しかし今回は違うのだ。彼女と住むには同情と寛容が必要だった。それに彼女の生活の癖も知らない。自然に出来上がるであろうルールに身を任せればいい。彼女自身も構えて生活するのは辛いだろうし、窮屈にさせたくない、それが僕のささやかな願いだった。

まず、僕らは自然な挨拶から始まった。朝を起きれば、おはよう、どちらかが仕事から帰れば、お疲れさま、と言い、寝るときは、おやすみなさい、と言った。ごくごく根本的なルールが出来上がっていった。それは次第に昇華され、長いトイレの後に入ろうとするなら、今、出たばかりだから、と言った。シャワーの後は細かい毛をとことん流しきった。それぞれ買って冷蔵庫に入れたものは手を一切つけなかった。それは長い間忘れていた感覚だった。山登りで下る人間が登る人間に道を空ける。エスカレーターで後ろから来た人間に道を譲る為にどちらかに寄る。といった事に非常に似ていた。そういった山登り的、エスカレーター的ルールがゆっくりと構築されていった。そして次には単に人間同士ではなく男と女として出来上がったルールだった。彼女は基本的にダイニングで生活したが、一度着替えている時に僕が突如入ったのがきっかけだった。必ずお互いがそれぞれの部屋に入る時は引き戸をこんこんと叩いて「大丈夫?」と訊いた。

彼女の会社は僕の会社からそれ程遠くなかったのでいつも一緒に出勤した。降りる駅は一つ違っていた。しかし彼女は三十分早く起きて、洗面、着替え、化粧を僕が起きるまでに済ませた。そういった暗黙のルールが自然に出来ても、それ以外では僕らはあまりお互いを干渉しなかったし、こと細かく何かを決めなかった。彼女はあまり料理をしない人間なのか朝食は抜いていたし、夕食は外食で済ますか、外でおかずだけ買ってきて炊いたご飯を二人で分けて食べた。僕は殆ど自炊して食事を作ったが、彼女は遠慮して勧めた時以外は食べる事はまずなかった。金銭的にはわりにしっかりしていて一ヶ月後には家賃と光熱費の合計をだいたい彼女なりに計算して、それに幾らか上乗せして僕に渡そうとした。その時僕は家賃の半分だけ受け取る様にした。大家がさなえの存在に薄々気付き始めていたので、僕は「妹なんです」と言って誤魔化しておいた。

僕はこの様な生活で彼女を見ているとそれは僕の年齢のせいなのだろうか、三十歳に近い年齢に差し掛かってよく考える事があった。それは、人間は間違った動機と選択によって間違った場所に着地してしまうという事はよくある。つまり着地して初めて動機と選択が間違ったものだと理解するのであるが、そのせいで僕らはその動機と選択が最初の時点で間違っていないと確信出来る為の術を求める。それが歴史であり、経験であり、哲学と思想なのだろう。時には、間違った動機と選択によって間違っていない場所へ着地する事も出来る。それを我々は幸運と呼ぶ。逆に、間違っていないと確信した動機と選択によって、着地した場所が間違っていたという場合もある。それが不運なのだろう。しかし、人間はある程度の動物的時間、つまり年齢を重ねると、間違った場所に着地した後ではそれからどんな正しい動機と選択をしても、そこからそう遠く離れる事が出来なくなってしまうという事だ。でも、彼女との生活を通して僕をとても辛くさせる事は、彼女をあの公園で襲った現実はそこに彼女の動機も選択も一切関与する余地すら無かったという事だった。よってこうして彼女が僕と同じ空間に存在する事さえも、ある意味では彼女の自由意志がどこまでも深く剥ぎ取られてしまった結果であるという事に対する言い表せない息苦しさだった。どこまでも哀しく、寂しい事であると同時に、人間をしばしその様な予期せぬ外部からの圧倒的な力によって、もう自らの足で元の場所に戻れる事が出来ない程の遥か遠くまで吹き飛ばしてしまう事への虚無感と、人間の無力感であった。

だから僕は、彼女との生活に慣れたとか気に入ったとかそういう思いはなかったが、それでも彼女に対して、この生活をいつまで続けるつもりなのか、もうすぐ君は君の世界に戻るべきなんだ、とは言う事は出来なかったし、彼女自身の真意を確かめる事もしなかった。彼女が本来居るべき場所に再度着地するのは、彼女自身の中にしかるべき動機と選択が生れて、しかるべき時に彼女自らの力によって動き出せばいいんだと考えていた。

そして、僕らを支配したものは殆どが沈黙だった。沈黙を通して通じ合っていたのかもしれない。何より彼女の望んだものは僕との生活ではなく、ただの四つの固い壁に囲まれた空間だったのだ。その事は僕を幾分苛立たせたが、いちいち気にしていてもしょうがない。彼女は僕について何も訊こうとはしなかった。それは僕も同じだった。どんな仕事をしているかは分っていたけれど、どんな家庭に育ち、どんな学生時代だったか、どんな友達がいるか、将来の夢は何か、僕らはお互い一切訊こうともしなかった。僕らの生活は非現実的であり、暫定的であり、便宜的だった。同じ列車に乗り合わせた乗客同士によく似ていた。

最初の十日間程、彼女を深く悩ませたのは妊娠の事だった。それは明らかに僕でも分る事だった。どことなく落ち着きを払い、トイレを長い時間占拠した。不意に出る彼女の溜息、夜遅くに漏れ聞こえるすすり泣き、妊娠や生理についての本がテーブルに置き去りにされている事もあった。愛してもいない、そして誰だか分らない男の望まない命を宿すことの恐怖は、公園での衝撃そのものと、半ば永続的につきまとう男達の存在自体と共に、彼女の中に新たに不確かな暗い影を落としていた。

彼女は殆ど外出する事はなかった。普段の日は仕事から帰るとぼんやりと過ごし、週末もほぼ同様だった。それは新宿からそれ程遠く離れた場所でないこの街で、いつあの男達に遭遇するか分らない。彼らだって彼女を捜しているだろう。だからという訳ではないが、僕は休日にはなるべく部屋を空ける様にした。図書館に行ってひたすら本を読んだ。またはごく少ない友達と買い物に行くか、飲みに行ったりした。恋人という程の人も、友達という程の女の子もいなかったので、誰とも会う事のない日は近くの公園で夕暮れまでベンチに座って鳩に餌をやりながら街の景色を眺め、木々の葉が擦れる音を聞いて過ごした。彼女が来てからもう二週間が過ぎていたのだ。

 

ある日の夜、彼女がダイニングのマットの上でヘッドフォンで音楽を聴きながらマンガ本を読んでいる時、僕は彼女の肩を後ろから叩いた。

驚いて振り返り「はい?」と言った。僕は「ちょっと話がしたい」と言い、冷蔵庫から缶ビール2つを取り出してグラスと一緒に置いた。

「いつもあっちの部屋で一人で飲んでいるのも味気なくてね。たまには付き合って欲しい。君もお酒は嫌いじゃないだろう」

プーさんの顔がプリントされたパジャマ姿の彼女は「ええ」と答えて向かいに座った。

「ねえ、とても聞きづらいんだけど、僕が心配しているのは妊娠の事なんだ。その事で最近悩んでいるのはなんとなく知っているし」

風呂上りで赤みがかった彼女の顔が綻んで目を丸くして微笑んだ。

「ええ、昨日、きました」

「本当?」

「はい。かなり遅れてました。多分、精神的なものだと思います。心配してくれてたんですか?」

僕は頷いて彼女のグラスにビール注いだ。

「その関係の本が置いてあったのを見てしまったんだ。まあ、とりあえず良かった」

「はい」

「乾杯しよう。」

彼女は「乾杯?」と首を傾げた。

「うん。乾杯だ。乾杯する程の事じゃないけど、何かお題があった方がいい」

「はい。」

僕はしばらく考えて言った。

「生理に乾杯」

彼女もクスクスと笑って言った。

「生理に乾杯」


彼女は一気に飲み干して溜息をついた。僕は無言で注いだ。

「僕はまだ君の事を何も知らない。まあ、あまり訊かない方がいいと思ったんだ。だけど、こうして君と同じ部屋に住んでいる。ある程度知っていてもおかしくないしね。性格はなんとなく分るけど」

「性格?分りますか?」ビールで濡れて光った薄い唇で言った。

「うん。」

「例えば?」

「泣き虫」

「はい」

「面倒臭がりや」

「はは」

「気が強い」

「うん」

「抜けてる」

「ふふふ」

「見た目よりわりに真面目」

「ええ、ご名答」と人差し指を立てた。

「あと、結構ミーハー嗜好」

「なんで?」

「それ」と言って、CDウオークマンを指差した。

「これはね、スマップです。」と微笑んで言った。

「ねっ」

「ええ?でも、とおるさんが多分かなりマニアックなんだと思います。部屋にあるCD全然聞いた事ない人ばかりだし。」

「ジミースミス、アートブレイキー、コルトレーン、スモール・フェイセズ、ビートルズ」

「ビートルズは知ってます」そう言って彼女は『オブラディ・オブラダ』を鼻歌で歌った。

「お酒は飲む方?」

「はい」グラスの残りを飲み干したので、新しいのを冷蔵庫から出して注いだ。僕はカマンベールを切って皿に盛った。

「ねえ、とおるさんの性格も分りますよ」アルコールで赤くなった顔は首筋までも染めていた。

「僕の?」

彼女は指を折りながら言った。

「見て目と同じで真面目」

「ふむ」

「几帳面」

「はい」

「すごおく普通なんだけど、変っている所もある」

「例えば?」

「なんとなく」

「ふうん」

「優しい」

「ふむ」

「あと、世話好き」

「うん」

「頭がいい」

「ノー」

「嘘です。」とぺろっと舌を出して言った。

「さなえさん、おかしな話だけど僕らはお互い歳も知らないんだ」

「幾つに見えます?」

「キャバクラみたいな会話だね。うーん。今年、就職したって言ってたから二三歳」

「ピンポーン。でももうすぐ二四歳」

「いつ?」

彼女は『ジングルベル』を鼻歌で歌った。どこか違っていた。

「クリスマス?」

「違います。イブ」

「へえ、僕は幾つに見える?」

「なんかコンパみたい」と今度は彼女が笑って言った。「うーん」彼女は僕の顔をまじまじと見つめながら答えた。

「三十歳前後」

「三十歳?」僕はびっくりして言った。「遠からず近からず」

「三一歳」

僕は溜息をついて自分でビールを注いだ。

「とおるさん、ふけてる訳ではないんですよ。あの公園であういう事があって、色々してもらってとても二十代の人には見えないんです。大人っぽいから」

「ふむ」

「本当は?」

「二八歳」

「ええ、そう言われてみれば、でも、本当はちゃんとお礼しなきゃいけないって思ってたんです。ここまでしてもらって。」

「構わないよ」

「すみません。ありがとうございます」彼女はグラスをコトッと置いてあらたまった顔をしながら正面を見据えて、頭を下げた。

「でも普通の男の人だったらこんな事してくれません。なんでそんなに優しいんですか?知らない人にこんなに」

僕はしばらく考えていた。何故だろう。何故なんだろう。分らなかった。

「さなえさん、前も言ったけど、普通の人だったら誰でもああしていたと思う。部屋まで提供するかは分らないけど」

「でも、私は毎日考えていました。何故だろうって」

「月並みに言えば、君に同情していたからなんだ。ねえ、さなえさん、僕でも分らないんだ。でも、その時はいつもオヤジの話を思い出すんだ」

「お父さんの?」

「そう。あのね、僕はこう見えても高校の時はわりにやんちゃをやっていたんだ。校舎の裏で煙草を吸ったり、公園でたむろして酒を飲んだり、歩行者にロケット花火を打ち込んだりね。まあそんな程度だけどね。高校一年の時なんだけど、クラスメイトの中に生れるつきの病気で左手の指が器用に動かない女の子がいたんだ。音楽の時間に笛をやる時はその子はいつもばつの悪そうな顔をしていた。当然、思った通りに指が動かないから上手く吹けないんだ。先生も気を使ってその子だけはテストを免除してあげてたんだけど、笛とか音楽の苦手な僕ら男子の一部がかなりブーブー言ったんだ。それで、その時にその女の子に向かって『オマエ、わざと指動かないフリしてテスト受けないんだろう。だったら笛なんか要らないじゃないか』って言って、休み時間に彼女の笛を取り上げてその子の目の前で力任せにへし折ってしまったんだ。その子は泣き出して教室を飛び出したきり学校へ来なかった。そして転校して二度と会う事はなかったんだ。」

「酷いですね。」

「うん、それでその話を担任が父に言って、僕は家でボコボコに殴られた。『今度はオマエの指を切り落としてやろうか』っ怒鳴って、僕の指をテーブルに押さえつけたまま包丁を指に当てがうんだ。僕は泣きなが何度も謝った。結局父は許してくれたけど、それから『ちゃんと聞くんだ』って言って話始めたんだ。」

彼女は僕の言葉に注意深く耳を傾けていた。

「父が生れたのは長野の山奥の村なんだけど、四方を見事に山に囲まれていて田んぼがひたすらどこまでも平らに続く様な所で、道路と農道が碁盤の目の様に走っているんだ。そこに民家がぽつぽつと建ち並ぶホントに小さな村だった。村の外れの結構大きな農家の離れに吉村さんという、皆からは『よっさん』と呼ばれていた男性が住んでいた。その男は、当時、父が十歳位で、吉村さんは二五歳位だった。吉村さんは戦争で左腕を失っていたんだ。彼は山を一つ越えた近くの村で生まれ育ったんだけど、身寄りがなく、父の村に移り住んで農家の手伝いをしていたそうなんだ。桑や鋤を右手一本で器用に使いこなして、田植えや稲刈り、蒔き割りなんかも出来た。右腕は大人の片足位の太さだったらいしんだ。彼は戦争に行く前に少しの間、学校で算数の先生をやっていたんだけど戦争で左腕を失って教職には戻らず、農家の手伝いをして生計を立てていた。村の人たちも吉村さんに好意的で、機械に詳しい彼はどこかの家の風呂や、車が壊れてしまうと出掛けて行って直してあげたりもしていたらしい。特に子供達から人気があって、村の子供達は学校が終ると吉村さんの住む離れに遊びに行って、ある時は学校の勉強なんかで解らない所を丁寧に教えてもらった。その中の一人に父がいたんだ。

算数が苦手な父に吉村さんは丁寧に教えてくれた。石ころを使って足し算や引き算を教え、りんごを片腕しかないのに包丁で器用にスパッと切って割り算なんかも教えてくれた。裏山に虫を採りに行く時は一緒に行って、沢山虫のいるポイントを教えてくれたり、『ここから先は絶対行っちゃダメだよ』とか言って忠告してくれたらしいんだ。

ある日、父が田んぼの脇の用水路で遊んでいると足を滑らせて落ちてしまったんだ。一緒にいた友達が吉村さんをすぐに呼んできてくれて、泳げない彼は用水路に飛び込んで片腕で父を引き上げて助けてくれた。父は水を一杯飲んで半日意識がなかったけど結局助かった。そんな事もあって吉村さんは村の英雄になった。何かあれば村人の誰かが食事を作ってもっていってあげたり、あまり手の入らない魚介類なんかも彼に差し入れした。子供達には勉強を教えてくれるしね。父は吉村さんのおかげで勉強が好きになって、ある日、吉村さんに『坊やは、勉強が得意だし、理解した事をきちんと説明するのが上手だから、学校の先生なんかになるといいよ』って言ったそうなんだ。でもまだ父は小学生だけど、そんな彼の言葉が頭から離れなくて、漠然としてだけど将来は学校の先生になるのもいいかも、とその時から思っていたらしい。それに吉村さんが元先生で、片腕を失って好きな仕事が出来ないという事に父は小さいながら同情していたから、大好きな吉村さんの為にも、学校の先生になるというのは父の中でしっかりとした目標として出来上がっていたんだと思う。

しかしある日、山の入り口にある神社の賽銭箱から頻繁にお金が取られるという事件が起きて、ある村人がその神社の近くで夜遅く吉村さんを見かけたと言いふらし始めた。それを境に村人の吉村さんに対する見方が序々に変化していき、吉村さんも何となく村にいづらくなって、それである日、ふとその村から姿を消してしまったんだ。後で分ったのはその賽銭泥棒は隣村の若い連中だった。」

「かわいそうですね。そんな良い人が」

「それで父は小学校の時の小さな決意通り上京して八王子の小学校の先生になった。先生になって五年位して小学三年のクラスの担任の時にある事件が起きた。ある男子生徒が持病に苦しむ一人の女生徒をいじめて泣かしてしまった。父はその男子生徒を皆の前に立たせ、往復ビンタを何発も食らわしたらしいんだ。そしてその後に、生徒みんなに吉村さんの話をした。片腕だったけど立派に生きて誰からも信頼されていた。そして溺れる自分を泳げないのに片腕で助け、そんな吉村さんの一言でこうして学校の先生になったんだと。だから、絶対に弱いものをいじめる人間は許さない。とね。

その日の放課後に頬を真っ赤に腫らせたその男子生徒と母親が突然やって来た。多分、殴った事に対する苦情だと思ったらしいんだ。しかし母親の様子がどこか違う。母親はまず自分の息子の非を詫び、息子にも謝らせた。そして母親は、学校から帰った息子から聞いた父の昔話について改めて訊きたいと言った。その母親が言うには、旦那、つまり生徒の父親も片腕で、息子はそれに対する負い目から何故か逆にいじめてしまったんではないかと。色々話を聞くうちにもしかしたらと思った。訊くと、旦那さんは養子で旧姓を吉村と言った。父の故郷のあの吉村さんと目の前の生徒の父親が同一人物だった事がその時分ったんだ。

吉村さんは村を出て東京に来て、その母親と結婚した。理由は分らないが養子に入った。そして十年前に目の前にいる生徒が生れた。

父もその親子も本当に驚いた。そして父は吉村さんに会いたいと言った。会って今の姿を見て欲しいと言った。でも母親は首を振って、五年前に病気で死んだと言ったらしいんだ。息子は言った。父は嫌いじゃなかったけど片腕だったし、幼稚園の時は『オマエの父さんはなんで腕がないんだ』と周りから言われていじめられた。だから、僕は逆にそういう人達を見て攻撃する事によって自分を守っていたんじゃないかと。

父は言った。『さっき授業で言ったけど、お父さんはとても立派な人だったよ。誰よりも働き者で、誰よりも優しかった。頭も良かったし、私がこうして先生になる事を決めたのも君のお父さんのおかげなんだよ。それになんと言っても私の命の恩人なんだよ。君を殴ってしまったけど、それは私は吉村さん、つまり君のお父さんを思い出したからなんだよ。』って。

その親子は揃って泣いていたという。もちろん父も吉村さんが死んでしまった事に涙した。親子は結局、半年後に母親の実家に引っ越して転校してしまったけど、その日から転校するまでの間、その生徒は誰よりも優しくて、誰よりも正義感の溢れる子供に変わったらしんだ。

僕は父に殴られて怒られた次の日に東京の郊外の吉村さんの墓参りに連れて行かれたんだ。父は何度も僕達家族に内緒でそこを訪れていたらしいんだけど、父が墓の前で手を合わせるその姿を横から見て、その時、自分のしてしまった事の意味が分ったんだ。僕はあの日、あの公園のトイレの脇のベンチで思い起こした事は、父の話と吉村さんの事、そして無慈悲に笛をへし折ってしまったクラスメイトの女の子の事なんだ。そして、父だったらどうするだろうか、死んでしまった吉村さんならどうするだろうかってね。僕は、君を乱暴した人間ではないけれど、そこをそのまま立ち去る事は、結局、僕も君を乱暴した人間と同じになってしまう気がしたんだ。」

彼女は静かに泣いていた。涙の雫がふっくらした頬を零れ落ちた。僕はグラスの残りのビールを飲み干して、流しに片した。パンッと手を叩いて「今日はもう寝よう」と言って自分の部屋へ引き上げた。

2004-07-28 地平の舟  ()

あれから二週間が過ぎてもあのベレー帽の男は現われなかった。試しに昨日パチンコを久しぶりにやり、案の定負けてしまったが、それでも金を届には来そうもなかった。とにかくあの男に会ってさなえの事を訊かなければならない。そして彼女に会って言う事が沢山あるのだ。

時はいつもと変わりなく過ぎていった。月曜日から金曜日は普通に会社に行き、夜八時ごろに帰宅する。食事を作り、風呂に入り、酒を飲んで音楽を聴く。気付くと朝を迎える。それはさなえという人間が僕の生活に入り込む以前の生活と同じだけなのだ。ただ何もかも元に戻っただけなのだ。それでもさなえが消えたダイニングには物寂しい空気がべったりと床を這っていて切り離された別の空間にさえ思えた。

突然部屋の電話が鳴った。家の電話が鳴るのは珍しい事だった。

「もしもし」

電話の向うはとてつもなく広い世界で、流れる気体の音が聞こえるだけだった。

「もしもし?」

人間の気配も声も聞こえなかった。

「もしもし?」

幾分語尾を強めても何の反応もなかった。僕は力なく受話器を置いた。間違い電話だろう。洗濯機が止まっていたので中身を籠に移してベランダへ行って干していた。腐ったミルク色をした雲の群れがどんよりと空を覆っていた。そしてまた電話が鳴った。さなえだろうか?果たして家の電話番号を知っているのだろうか。

「もしもし」

さっきと同じだった。何度声を掛けても、受話器の向う側はとことん無であると感じた。しばらくして受話器を置いた。

うん?電話?そうだ、この前、あの男のタクシー会社に電話をしてみよう。僕は咄嗟に電話帳を開いた。分厚い電話帳の『タクシー』というカテゴリーには実に多くの会社があった。世の中にこれだけタクシー会社が必要なのだろうか。一体、何台のタクシーが東京に走っているのだろう。カタカナの名前、漢字の名前、アルファベットを並べただけの名前。色んな名前があった。『スピード交通』というのもあって、きっと早く目的地には着けるけど、いささか違反者が多くてドライバーの出入りが激しそうだと思った。

『東』ではじまる名前は予想以上に多かった。『東和交通』『東部交通』『東京交通』『東新交通』『東西交通』『東洋交通』『東プリンス交通』、更に『東』を含む名前も数限りなかった。『町田東交通』『関東交通』・・・

僕はまず東和交通に電話をしてみた。電話に出たのは中年の女性だった。

「東和交通です。もしもし?」

「あの、訊きたい事がありまして」

僕はそれだけ言った後、気付くと受話器を置いていた。一体何を聞けばいいんだ?まず、そちらのタクシーは銀色の車体で青いラインが入っていますか?と訊くのだろうか。そして、そちらに普段赤いベレー帽を被ったドライバーがいますか?とでも訊くのだろうか。名前も知らないそれだけの手掛かりで電話してどうするというのだ。それにこんなに多くの会社があるんだ。きっとおかしな人間のいたずら電話で、誰も真面目に対応してくれないだろう。僕だったら途中で電話を切るだろう。僕は諦めてベランダに戻ると、糸の様な雨が降り始めていた。僕は洗濯物を部屋に移して出掛ける事にした。念のために『タクシー』のページを破ってポケットに突っ込んだ。



雨は次第に激しさを増し、通りを黒く染め上げていて、新緑を思わせる甘酸っぱい匂いが雨の隙間を縫って流れ始めていた。通りを埋め尽くす色とりどりの傘は絢爛で前衛的なオブジェみたいだった。さなえの姿を盲目的に捜しながらどれだけの間歩いたのだろうか。

僕は雨で人気のなくなった公園の木陰のベンチでぼんやり雨の音を聞いていた。大きさも作りもあの公園に良く似ていた。鉄棒が四つ並んであり、小さな砂場とうさぎの形をしたすべり台があった。遊具はたったそれだけだった。向うに見える公衆便所はどこの公園のとも同じように荒涼としていて、その部分だけが色を抜いてしまった様に奇妙な物体として存在していた。きっとさなえはこれからの人生、こういった公園というものを彼女の中の地図から一切抹消してしまうんだろうな、と思った。僕が不意にこの様な場所にいても絶対彼女を見つける事なんか出来ないのだろう。

僕はポケットから電話帳の端切れを取り出してぼんやりと見ていた。その中の『東京交通』という会社はここからそれ程遠くない所にあった。歩いて十五分位だろう。特に行く所もないし、やる事もない。僕はそこを目指すことにした。大通りをひたすら一キロ程歩いた右手にそれはあった。しかし、そこに停まっている車はオレンジ色をしていた。肩を落としたまま大通りに立ち尽くしてシルバーにブルーのラインの入ったタクシーが通り過ぎるのを捜していた。三十分程経ってもそれらしいのは一台も通らなかった。その他に歩いて行ける位の近い場所には『東』のつくタクシー会社は一つもなかった。僕は馬鹿らしくなって持っていた紙切れを丸めて近くのコンビニのゴミ箱に投げ捨てた。

駅の方へ向かって歩き出す頃には雨は幾分弱くなっていた。例のペットショップに行くとスルメはもういなくなっていた。買われていったのだろう。その代わりに新しいパピヨンがそれまでスルメのいた檻の中で敷かれた毛布の端をかりかりと噛んで遊んでいた。スルメよりも一回り小さく、顔の黒い部分がグレーに近い色をしていた。ガラスをコツコツ叩くと一瞬顔を向けたが、そのまま尻尾をこっちに向けて僕がその場を立ち去るまで毛布の端を噛み続けていた。僕だけの名前を付けようかと思った。さなえはどうか、と思ったが、それはあんまりだったのでやめる事にした。なぜなら既に「売約済み」の札が貼られていたからだった。

ぼんやりと新しいスルメを眺めていると携帯が鳴った。会社の後輩だった。木下という二五歳の男で、入社した時に彼について色々世話をしてから僕をわりに慕っていて時たま飲みに行く事があった。彼は埼玉に住んでいるが、今、新宿にいるんですが飲みませんか?という電話だった。特に用事も無かったし、構わないよ。新宿まで行くよ、と言って電話を切った。

新宿というよりは大久保寄りの通り沿いの居酒屋に入った。彼の先輩であり、僕の同僚の愚痴をこぼした。それについては聞いているだけだった。不景気でウチは大丈夫なんですかねえ?と訊いてきたので、大丈夫じゃないの?と答えた。仕事の悩みから、取引先の人間の悪口になり、女子社員の男話になった。終始どこにでもある会話だった。僕はどこか落ちつかず彼の言葉にあまり集中する事が出来なかった。そのせいで彼は同じ事を繰り返してしゃべらざるをえなかった。なぜなら、彼の背後の風景に無意識のうちにシルバーに青いラインの入ったタクシーを捜していたからだった。店を出るときに彼は言った。「すみません。お金おろすの忘れてしまったんで、後で払います」と財布を見て言った。僕は頷いて会計を済まして店を出ると彼は電話で誰かと話していた。「鏑木さん、今、僕の彼女が新宿で女の子の友達と一緒なんですが、どうですか?四人で飲みません?」しばらく考えたが「ごめん。最近はそういう気分になれないんだ。」と言うと、彼は不思議そうな目をして「じゃあ」と言って歩いて行った。

 

次の日、取引先に直行して会社に着いたのは昼前だった。既に木下は営業に出ていた。僕のデスクの中央に会社の封筒がひっそりと置かれていて、昨日の飲み代です。木下』と書かれてあった。中には3千円入っていた。なんて律儀な奴だろうと思いながら、しばらくの間、その封筒を仔細に見つめていた。その時、僕の中で何かが弾け、漠然とした予感の様なものが僕を包んだ。仕事を片つけると真っ直ぐに部屋に向かった。パチンコ屋にも寄らなかった。買い物もせず、新しいスルメにも会いに行かなかった。部屋に戻ってすぐに電話機の下の引き出しからあの男から受け取った封筒を取り出した。茶封筒の表には何も書かれていなかった。試しに裏返してみた。漠然とした予感は当たったのである。何故、あの時気づかなかったのか。そして今まで何故気付かなかったのだろうか。僕は溜息をついて思わず天井を見上げた。封筒の裏の下の方には青くて小さい文字でこう印字されていた。

『タクシー・ハイヤー・送迎  東洋交通(株) 東京都江東区北砂*-*-* 03-****-****』

* * * * * * *

 

 さなえは表面的には以前の生活を、枠組みは全く違うにしろ取り戻してきている様子だった。テレビを見て笑ったり、女友達との携帯での会話の中でも怒ったり、喜怒哀楽がゆっくりと隆起して幾分ある意味での精神的な健康状態に回復しつつあった。

そして何より、僕との関係においても、僕が「敬語じゃなくていいよ。僕は大家でも寮長でもないんだ。逆に僕の方が疲れてしまうかもしれない」と言ったのを境に、便宜的な友達としての関係になりつつあった。それでも週に一、二度、ダイニングからすすり泣く声が聞こえ、その際には僕は掛ける言葉も、慰める術も持たない単なる赤の他人でしかなかった。食事の時は会社の事や好きな歌手の話、友達との面白いエピソードを話し、一緒にテレビを見る時は、チャンネルの主導権は彼女に譲ったが、芸能人の好き嫌いが激しく特定のタレントが出ているとチャンネルを即刻変えた。僕が見ているのはお構いなしだった。小さな子供がおつかいをする番組を見た時は彼女はそれまでとは全く種類の違う涙を流し、恥ずかしいのか顔を隠してダイニングに逃げ込んでしまった。僕は興味のないテレビの時は、ベッドの上でヘッドフォンをして音楽を聴きながら本を読んでいた。僕が熱中していると、時折、ベッドに寄っかかっている彼女がベットをバンと叩いて「面白い番組やってるよ」と言って僕を驚かせた。「なんで、このベッドはこんなに硬いのかしら?」と訊いたので「これ位がちょうどいいんだ」と答えた。彼女は「ふうん」とどうでもいい様な鼻に抜けた声で言った。それ以来彼女は、僕のベッドの事を「死後硬直ベッド」と呼んでクスクスと笑った。

 

ある日の土曜日、会社の往復しかしないさなえを僕は外に出掛けようと誘った。

「そろそろ、外に慣れた方がいいと思う。散歩でもしないか」

十二月に入り、街路樹には数えられる程しか葉を残していなかった。彼女はベージュのタートルネックのセーターの上にレザーのハーフコートを着て、紺のスカートにローカットの皮のブーツを履いていた。

駅の方へ向かう間も、彼女はどこか落ち着きがなかった。あの男達の気配に怯えているのだろう。少しだけ遠くまで行って映画でも観ようかと誘ったが彼女は首を振った。

「あんまり、映画って見ないの。凄くヒットしてて周りが皆見ている時には、話題作りというか話についていけないから見るけど」

「ミーハー嗜好」と僕は言った。

「そう」と彼女は笑って言った。

駅前の喫茶店に入り、彼女はアイスティー、僕はコーヒーを頼んだ。彼女はカラカラとストローでかき混ぜながら外をぼんやり見つめていた。

「あの男達は君を今でも捜していると思う?」と僕は訊いてみた。

「分らないわ。ただ、二度と現われないとは限らない。いつかきっと姿を現すと思う」

「思うんだけど、君を捜し出して何かをする、という事はもうしない気がするんだ。彼らは君が警察に行ったりするとは思っていない。君の元カレも、君がお金の件で警察を呼んだ事に対する報復と腹いせだったらその目的は達成されたのだと思うし、君に再び会う意味もメリットもないんじゃないかな?」

彼女は頬杖をつきながら答えた。「そうね。アイツはもう現われないかもしれないわ。問題はあの男達なのよ。つまり、ある意味ではあの男達に売られたのよ。」

「売られた?」

「そう」彼女の溜息がガラスを僅かに曇らせた。「カレはあの男達に借りがあったのよ。その分を清算出来るまではね。私に手出しをしてくるかもしれない」

「借金?」

「みたいなもの。これ以上、あんまり話したくないわ。ごめんなさい」

BGMでインストロメンタルの『デイ・トリッパー』が流れていた。サビの部分で突然、店員が有線のチャンネルを変えて歌謡曲が流れ出した。彼女は指先でリズムを刻んでいた。僕の知らない曲だった。

「この数日の間、この前とおるさんが話していた事を考えていたの」そう言って彼女は話題を変えた。

「話?」

「そう、お父さんの昔の話。吉村さんという人がいて、お父さんの生徒さんのお父さんだったという話ね」

「うん」

「私はね、よく分らないの。あの男達に酷い目にあって人間不信になって。特に男性にね。それでも、とおるさんや、とおるさんのお父さんや、吉村さんという人とかね、そういう人もいる。なんかね、世の中というか世界の成り立ちみたいのがとっても分らないの。言っている事、分るかしら?」

「なんとなく」と僕は言った。「ただ、それは僕もよく分らない。けどこういう事だと思う。世界には色んな国があって、色んな人種や文化や言葉がある。スマップを好きな人もいれば嫌いな人もいる。ビートルズを好きな人がいて、そうでない人がいる。それと同じ様に色んな生き方や価値観があって、そこには人の不幸の上に幸福を築く人もいれば、人の幸福の為に自分が幸福になれない人もいる。不器用な人がいて、要領の良い人もいる。総体的な意味でのバランスなんじゃないかな」

「バランス?」

「そう、太陽がどこかを照らせば、そこには必ず影があるんだ。雲が集まる所があれば、雲がない所もある。僕はまだ二八歳だしね。そんな風にしか捉えていない。この世の中は不完全で、不確かで、曖昧で、常に混沌としているんだ。でも、宇宙の彼方から僕らの世界を見れば、遥か遠い過去も現在も、僕らの世界のあり様は根本的に何も変わっていないんじゃないかな。そう思っている」

「でも、世界や世の中のバランスの為に、私はあんな目に遭わなくちゃいけなかったのかしら」

それについての言葉は見つからなかった。彼女のアイスティーは氷が溶け出して薄くなっていた。氷は丸みを帯びて小さくなりカタッと音を立てた。そんな様子を見ていると僕は何故かとても悲しい気持ちになった。アイスティーは無くなり、残った氷は溶け出して水となる。グラスの中のものはこんな短時間の間に全く別なものに変わってしまうんだと。目の前の彼女がまさにそうなのかもしれない。あの日を境に彼女は全く別な人間に変わってしまったんじゃないか。あの日以前の彼女を僕は全く知らないのだから。

既にアイスティーではないその液体をストローで吸いながら彼女は言った。

「お父さんはまだ先生をやっているのかしら?」

「オヤジ?」

「うん」

「死んだんだ。3年前にね。」

「そう。ごめんなさい。」

「おふくろが言ってたよ。『きっと吉村さんという人と一緒にあの世で学校の先生でもやってるわよ』ってね」

「そうね。でもね、お父さんとその吉村さんていう人はとても立派な人だと思う。そしてあなたも」

「僕は違う。真面目で几帳面で世話好きなだけだよ。」そして付け加えて言った。「頭がいい」

「ブー」と彼女は笑って言った。


「あったかあい」と言いながらマフラーをした高校生位の女の子が二人入ってきた。さなえは彼女らに視線を追いながら小さい声で言った。

「もし、私がレイプされたのが今位の季節で、あの日マフラーをしていたら、きっとそれで男のどちらかを絞め殺していたと思う。そして最後には私も殺されるの」

彼女は俯いたまま口を尖らせてストローの先で必死に氷を吸い上げようとしていた。五センチ位浮いた所で音を立てて落ちてしまった。

「それで、とおるさんのお父さんの生徒になるの。殺した男はお父さんにビンタしてもらうわ」

「死んでまで君とその男は同じ場所に行くのかい?」

首を少しだけ傾けて答えた。「そうね。やっぱりそんなの嫌だわ。たまったもじゃないわね」

店を出ると凍てついた風が街中を縫う様に這い、雲がどんよりと灰色にたちこめていた。雨の気配すらした。見渡せば傘を持った人がぽつりぽつりと見つける事が出来た。商店街を歩いていると一軒のペットショップの前に僕らは立ち止まった。ガラスの向うにはコインロッカーみたいに檻が幾つもあって、それぞれに子犬が飼われていた。コーギーやミニチュア・ダックスフンド、柴犬がその中でクルクル回って遊んでいた。彼女はガラスをコンコン叩いたり、目を丸くして顔を近づけて何やら話し掛けていた。彼女はその中の一匹を『スルメ』と名付けた。

「なんでスルメなんだ?」と僕は訊いてみた。

「なんかスルメを焼いてる匂いしない?」

振り返ると、向かいの魚屋からの匂いだった。

「それでスルメ?」

「かわいそうかしら、そんな名前で」

「うん」

彼女は肩をすくめながら言った。「いいの、私だけの名前」

子犬は彼女を目掛けて何度も飛び掛っていた。彼女はしゃがんでガラスに額をつけたままじっとその子犬に目を合わせていた。「かわあいい」と何度も呟きながら、スルメには決して届かない言葉をとても長い時間投げかけていた。束ねた黒髪は揺れ、吹き付ける冬の風に彼女は肩を丸めた。携帯ショップの呼び込みの声が聞こえ、自転車のブレーキ音が聞こえた。幼い子供の手を引いた母親が傍に寄ってきて、子供はペタリと小さな手の平をガラスにつけて「わんわんちゃん」と叫んだ。さなえはすっと立ち上がりスルメに向かって「バイバイ」と手を小さく振った。「スルメちゃん、買われていったらちゃんとした名前を付けてもらうのよ」と言った。幼い子供は「するめ?」と言った。彼女は微笑みながらその子供にも手を振った。

突然、大きな雨粒が顔を濡らし始め、あっという間に赤いタイル張りの道を斑点みたいに染め始めていた。僕らは小走りでコンビニの入り口に逃げ込み、そこでビニール傘を買った。彼女は傘の下から外れまいと指先でちょこんと僕のダッフルコートの肩口を摘んだ。それは明らかに冬の雨だった。ケーキ屋の入り口には既に大きなもみの木が置かれていた。『X'mas』の文字はいたる所にあった。町には赤と白と金色のカラーが満ちていた。

商店街を抜けた辺りで彼女は訊いた。

「ねえ、彼女とかはいるの?」

「いいや」と短く答えた。

「私がいるから?ねえ、気にしなくていいのよ。もし好きな人がいたり、あのね、そういう人がいてね、部屋に呼びたかったら言ってね。出て行くから。」

「出て行く?」振り向いて訊いた。

「ねえ、私はね、とおるさんの人生とか生活とかをね、とっても邪魔しているんじゃないかって思うの。」

「邪魔なのかは分らないな。でも、僕は今の生活はそんなに嫌いでもない。何故かは分らないけど」

「とにかくそういう時は言ってね」

「うん」と僕は頷いた。「そういう時があったらちゃんと言うよ」

僕らは突然言葉を失ったまま大通りを歩いていた。どこに向かっているのかも僕すら分らなかった。車が雨を弾く細かい音が響いて、傘を持っていない女子高校生の群れがキャッキャッと騒ぎながら走り去っていった。リサイクルショップの店員が軒先に出ていた商品にシートを被せていた。空は全面が白濁色に覆われていて、隠れてしまった太陽を探そうと西の空を見上げてもどこにも見当たらなかった。そこには赤く点滅した飛行機が真っ直ぐに東へ向かって飛んでいるだけだった。あの飛行機はどこへ向かっているのだろうと思った。そこはきっと鳥すらも辿り着けない雲一つない晴天の遥か上空で、見下ろせば海洋に浮かぶ島々が染みみたいに見えるのだろう。僕らはどこへ向かってるのか。どこに向かって吸い寄せられているのか。どこまでも、どこまでも歩いても雲はとぎれる事なく僕らの進む世界をすっぽりと飲み込んでしまっていた。

比較的大きな本屋に入り、彼女は漫画コーナーにさっさと歩いて行ってしまった。僕は文学のコーナーで前から探していた本を見つけた。カート・ヴォネガットの短編集で、パラパラとめくって目に入った一編を最後まで読んだ。とても素敵な話だった。村の劇団の脚本家が主人公で、演目の主人公は本物の役者で結婚もせず女の子とも出歩く事もしないそんな男に決まった。演技に関してはピカ一だったが変わった男だった。相手役の女性は、電話会社の受付をしていて長い間恋から遠ざかっている様な女性だった。演技に関しては全くの素人だった。彼らは初対面でありながら演目を見事に演じきり、終了後、彼女は楽屋で『ロミオとジュリエット』の本を彼にプレゼントする。彼女がその中で一番気に入ったシーンの会話を、その場で彼がロミオのセリフを朗読し、彼女がジュリエットのセリフを朗読した。そして彼ら二人は打ち上げにも行かず、そのまま二人で消えて、そして一週間後に結婚した。

僕はその本をレジに持って行くと、さなえは少女漫画を清算していた。

「それ、なあに?」と訊いた。

僕は本のカバーをちらっと見せた。彼女は目を細めて「ヴィネガー?調味料みたいな名前ね」と目尻に皺を寄せて全く興味なさそうに言った。僕は黙っていた。

部屋に戻ると、彼女は濡れたレザーのコートをタオルで拭きながら「なんか久しぶりに休みの日に外に出て、だいぶ気分が変わったわ」と言った。

「それはとても良かった」と僕は言って、ベッドの上で本の残りを読んだ。彼女は漫画をあっという間に読み終わり、そのまま眠ってしまった。


 次の日、会社から帰るとさなえはスーツ姿のままで椅子に腰掛けて、テーブルの上でしな垂れていた。僕の姿をちらっと見ると額に手をあてて肘をついたまま動かなくなった。何かがあったのは分ったが、この一ヶ月を通して僕はそういう時はあまりこちらから声を掛けない方が良いという事を会得していた。ささやかな教訓だった。仕事で何か

あったのだろう。と思った。

僕はコートを椅子に掛けて冷蔵庫を開けて缶ビールを二つ取り出そうと思った。見ると中は彼女が買いだめした大量のパックのヨーグルトとボトルのアイスティーが溢れんばかりに冷蔵庫を占拠していて、ビールは冬なのに生ぬるかった。僕が冷蔵庫の温度調節のダイヤルを「強」にして、それについて何か言おうとしたが、振り返ると彼女はピクリとも動かなかった。僕は諦めて自分でビールを注いで一杯だけ飲んだ。着替えようとして立ち上がると、彼女は口を開いた。

「遭ったの」

その言葉を聞き逃しそうになった。

「あの男達に遭ったの」彼女は結わいた髪をばさっとほどきながら伏し目がちに言った。

「遭ったって?」驚いて訊いた。「君を乱暴した男達に?」

「うん。会社の帰りに表通りで向うから歩いてきたの。咄嗟に隠れたから向うは気付かなかったと思うけど」彼女はシルバーのイヤリングを手でいじっていた。「それでいきなりあの時の事が鮮明に頭の中に蘇ってその場に座り込んでしまったの。具合が悪くて近くのブティックの女の人が声を掛けてくれて、結局店の奥でしばらく休ませてもらったの」

「ねえ、なんで電話してくれなかったんだい?」

「二度電話したわ。でも繋がらなかった。」鼻の頭を掻きながら言った。「とても怖かったの。怖かったの」

目に溜まった涙を隠すように手の平で覆いそのまま額をテーブルについてうずくまって肩を震わせた。後ろから彼女の肩に手をかけて「大丈夫だよ」と言った。小刻みな震動がはっきりと感じ取られた。初めて触る彼女の肩はとてもやせ細っていて弱々しかった。彼女は少ししてゆっくりと目の前の缶ビールに手をかけてグラスに注いだ。半分だけ飲み干して置かれたグラスには淡い色の口紅がほんのりとついていた。その色は公園での彼女の鮮血を思い起こさせた。彼女が顔を上げて、鼻をすすりながら「もう大丈夫」と微笑んで答えるまで、僕は「大丈夫だよ」と何度も声を掛けていた。

                       * * * * * *

 

 あの男の名前を知らないのだから東洋交通に電話した所で以前と同じであろう。あの男から受け取った封筒をバッグに入れて僕は次の土曜日に東洋交通を目指した。

夏の息吹が半ば混じりあい、幾らかの人間は半袖のシャツを着ていた。日差しがガラス張りのビルの壁面に反射して瑠璃色に変色していた。湿気を帯びてこもった空気は体全体に重く圧し掛かっている気がした。錦糸町駅からバスに乗って、バスが小さな川を越すと、次第に建物全体が低く潰れたみたいに町工場と下町の混在する一角へ入って行った。機械の油の匂いが充満して空の色を僅かに鈍くさせた。歩いている作業着を着た男達の目は疲労を耐えてギラギラしていた。

バスを降りて一本裏に入った所に東洋交通はあった。所々にひびが入ったクリーム色をした古ぼけた十階建てのマンションの敷地がそのままタクシー会社になっていた。トタン屋根の下には何十台というタクシーが綺麗に並んでいて、数人のドライバーが怪訝そうな顔で自分の車を洗車していた。車体も男達の服装も、あの時と同じだった。マンションの一階全部がそのまま会社の事務所になっていて、多分、ドライバーの幾らかはこの上に安く住まわしてもらっているのだろう。

通りの反対側から様子をしばらく眺めながら、あの男が来るのを待っていたが、きりが無さそうだったので傍に居たドライバーに訊くことにした。男はやけに腹の出た四十代風の男で、煙草を咥えながらボンネットに手をついて何か考え事でもしている様子だった。

「すみません」

「はい」男は煙草を足元で消しながら言った。

「ちょっとお伺いしたいのですが、こちらで働いている方を捜しているんです。身長が160センチ位の目が細い方で、あ、あの普段赤い帽子とかそんなの被っている方で、いませんか?名前は分りません」

男は僕の顔をしげしげと眺めてから言った。

「で、どういう関係なの?」

「ええ、一度お会いしてるんです。名前は聞いてませんが、どうしても今日お会いしたいと思ってこちらに伺ったんですが」

「ふーん。それは多分、松田さんでしょう?」

「松田さん?」

「ああ、今丁度、帰社して事務所に居るから呼んできてやるよ。名前は?」

「かぶらぎと申します。名前を言って頂けたら分ると思います」

「おう、分った。ちょっと待ってな」

男はそのまま事務所の方へ歩いて行った。しばらくするとあの男が入り口から出てきてこちらに向かって歩いてきた。男は制服のままだった。薄くなった頭を撫でながら顔には若干笑みを浮かべていた。

「いや、驚きましたよ。かぶらぎさんではないですか。」彼はその場で小さく頭を下げた。「よくここが分りましたね。」

「ねえ、松田さんと仰るんですね。松田さん、僕はあなたが来てから色々気になる事があって、どうしてもお会いしたいと思って待っていたんです。封筒に会社の名前が書いてあったからもしかしたらこちらの会社の方だと思って。」

松田という男は急に真面目な顔をして僕を見上げて言った。

「わたくしも待っていたんです」

「待っていた?」僕は驚いて訊いた。

松田は頷いて「そうです。あなたはきっと来ていただけるだろうと。もっと早いと思っておりました。かぶらぎさん、もう少しで仕事が終ります。この通りを右に少し行った所に『蘭豆』という喫茶店があります。出来たらそちらでお待ち頂けますか?三十分程で伺います。」

松田はそれだけ言うと颯爽とまた事務所の方に歩いて行ってしまった。


何の特徴もない蘭豆という喫茶店でオレンジジュースを飲んでいると三十分を過ぎたあたりで松田はやって来た。赤いベレー帽とジャケットは着ていなかった。白いソックスが見える位の短いスリムのジーパンを履いてストライプのシャツを着ていた。この前と同様、服装に関してはかなりずれた所があった。彼は僕の向かいにどかっと座り、コーヒーを注文すると、曖昧に微笑みながら口を開いた。

「いや、本当に驚きました。まさか会社に直接来るとは。そう、私は松田といって、あそこでタクシーの運転手をしているんです。」

「松田さん、さっき言った、待っていました。もっと早いと思っていました。とはどういう事ですか?」

「ええ、そうです。待っておりました。きっと来て頂けると思いました。もう一度、かぶらぎさんのお宅にお伺いしようかと考えましたが、敢えてそれをしませんでした。しかるべき時間が過ぎても来られない様でしたら、もしかしたら再度伺ったかもしれません」

僕は言葉を失った。この男は一体何を言いたいんだ。これではこの前と同じではないか。

「ねえ、松田さん、僕が今日あなたに会いに来たのは、滝田さなえという女性の件です。パチンコのお金の件、僕が彼女を助けた事を知っている。そしてあなたは彼女の事を知っている。僕は何から何まで全く理解できないけど、とにかく僕は今彼女を捜している。それについて松田さんに彼女の事を聞きたいんです」

彼は肩肘をテーブルにつき頭をぽりぽりと掻きながら答えた。

「わたくしは彼女の事を知っています。彼女が今どういう状況で、どこに居るのかも。でも詳しい事は申し上げられません。それは最初に言っておきます。ただ、わたくしがあなたを待っていたのは、彼女の今いる状況を変えるのにあなたの力が必要だと言う事です。その意志があなたにあるのなら、きっとあなたはなんとかしてわたくしを捜し出して、やって来るだろうと。待っていたのです」

僕は無意識のうちに煙草をふかしていた。頭が酷く痛くなって軽い目眩すら覚えた。

「松田さん、あなたの言っている事は全く分らないんです。断片的というか、結論だけ言っても僕には意味不明です。パチンコの負け金の事をなぜ知って、なぜ僕の家が分ったんですか?それと僕が彼女を助けた事。あなたは何を知っているんですか?彼女と会って訊いたのですか?彼女は今どこに居るんですか?」

「かぶらぎさん、わたくしはその女性から聞いたのです。彼女に半年前に何が起きて、あなたとどういう関係があったかも知っています。もしかしたらあなた以上に彼女を知っているかもしれません。ただ、彼女とわたくしは心配する様な変な関係ではありません。しかしパチンコの件は全く別なんです。様々な偶然の、いや必然の複合によってなされた結果です。信じられないかもしれませんか、とにかくあなたに納得されて頂けるには様々な事をきちんと順序立ててお話しなければなりません」

彼は神妙な顔つきで僕の顔をぼやける様な目で捉えていた。

「つまり、なぜ僕をそんな試す様なややこしい事をしたのですか?まず、あの封筒です。何の変哲もない封筒の裏にあなたの会社の名前が印字されている事に気付くのに時間が掛かりました。あれは会社の封筒ですよね。でも、仮にそれに気付いてもまさかあたなたがそこに印字されている会社の人間だとは思いません。ただ、僕はあの日の夕方、僕の家の近くであなたがタクシーの運転をしているのを偶然見かけたんです。それでもしかしたらと思って封筒を見たら」

「そうですか。」彼は口元を緩めて微笑んだ。「まさか、見られていたとは。それは驚きでした。まあ、それはいいにしても、あの封筒の事はいずれ分ると思ってました。もしかしたら当日にでも電話してくるのだろうと。ただ、あの様な事をしたのは、あなたの中の彼女の存在を推し量った部分があるのです。あなたの中で既にそれがどうでも良い事であれば、わたくしは彼女の事を知っていると申したとしても、奇妙な男の奇妙な訪問で片つけてしまうでしょう。そしてあなたは何もせずにそのままだったでしょう。先ほども申しました。もしあなたの中で彼女の存在が大きなものであれば、きっとあなたはわたくしと共に彼女を救い出すことが出来ます。そしてそうする事によって、あなたが彼女にした事に対する報いになるのです。」

僕は溜息をついてしばらく目を閉じて彼の言葉を何度も反芻した。

「かぶらぎさん、心配しないで下さい。彼女は今安全です。彼女を深く傷つけた人間達との接触はありません。もしよければあなたの力を借りたいのです。わたくしにとっても彼女にとっても、頼りになるのはあなただけなのです。」

ゆっくりと目を開けると彼は唇を固く結んだまま僕の顔の中心を仔細な眼差しで見つめていた。

「松田さん、あなたの言っている事は未だよく分りません。それは当然ではないですか。あまりに奇妙過ぎる。でも、もし僕が理解出来るならあなたのその話を順序立ててちゃんと聞きたいと思います。」

「かぶらぎさん、分りました。それにはとても時間が掛かります。とても長い話です。わたくしは、あなたという人物に非常な好感と温かみを感じます。嘘ではありません。だからお話を聞いて頂ければきっとあなたは理解して頂けるだろうし、変な言い方ですが、お互いに分り合えると思います。それが大事なんです。そして、まさにそれが彼女を救う事に繋がると思います。ただ、今日はどうしてもこの後行かなければならない用事があります。明日の日曜日にお伺いしても構いませんか?その時、ゆっくりお話致します。かぶらぎさんは明日の二時頃はどうですか?」

僕は頷いて答えた。「ええ、構わないですよ。」

「分りました。では明日の二時にお伺いします」

彼はそう言って伝票を持ってレジで清算し「じゃあ、明日。またお会いしましょう」とペコリと頭を下げて店を出て行ってしまった。

                      * * * * * * *

 

 さなえがあの男達と街中で遭ってから、彼女は再び暗い渦へと急速に引き込まれていった。精神的後退といっても過言ではなかった。僕らは再び静か過ぎる生活の中でなんとか一日一日を乗り越えて行った。

僕は彼女を元気にさせようと何度か外に誘った。駅前でアイスティーを飲み、スルメと会って遊んだ。ゲームセンターに行ってゲームをしたりプリクラを一緒に撮った。それを彼女は洗面台の脇に貼って、僕を幾分困らせた。本屋で立ち読みをして、彼女はその度に漫画本を買った。近くの図書館に一緒に行って、彼女は雑誌を読み漁り、僕は本を読んだ。「会社を辞めようかと思っている」といつか漏らしたので、「それについてはよく考えた方がいい」と答えた。僕らは数回彼女の部屋を訪れ、真冬に備えた衣服やら色々と取りに帰った。彼女の大家さんが心配になって「いつちゃんと戻るのか」と訊いたので「それについてはまだ分らない」と彼女は答えた。「ならば、それまで家賃はいらないよ」と言ってくれたらしいので、彼女は「よかった」と僕に言って、僕も「本当に良かった」と言った。彼女は浮いたお金でそれから会社の帰りはなるべくタクシーを使うようになった。

日を追うごとに凍てついた北風は益々その鋭さをを増し、街中を吹き流れて全身を突き抜けていった。クリスマスの興奮と正月を迎える高揚感の大渦が都会の町を飲み込んで、色鮮やかに、騒がしく、一切の風景を飾っていた。冬がどんどん深まるに反して、彼女は次第に元気になっていった。

「ねえ、君の誕生日だけど、何か予定あるの?」と仕事から帰ってテレビを見ているときに訊いた。彼女はクロスワードに夢中だった。沢山のCMでクリスマスソングが流れ、彼女が買った週刊誌やファション雑誌の表紙には赤い服を着たタレントが写っていて、クリスマスのイベントをやるテーマパークやホテルの特集が盛んに組まれていた。

「特にはないの」と寂しげに答えた。「ねえ、サンタクロースの生れた国は?」

「サンタクロース?」

しばらく考えて「ホッキョク」と僕は答えた。

「6文字よ」と彼女は言った。「違うわ」

「フィンランド」と答え直した。

「それね。ありがと」と素っ気なく言って彼女は鉛筆でコリコリとクロスワードのマスを埋めた。「出来たあ」と突然叫んだ。

「今週の答えは『フユノソナタ』だったわ。」彼女は首を傾げながら「でも、おかしいのよね、何故か『フユノナナタ」になっちゃうの」と言った。

「ねえ、ここでささやかなクリスマスパーティーしないか?」と訊いた。「僕が料理を作るよ。美味しいの」

彼女は僕の顔を覗き込んで「素敵ね。」と言った。「うん、楽しみだわ」

「食べられないものある?」

「あんまりない方だけど、しいて言うなら牛肉と豚肉よ」と答えた。

一体それのどこが、あんまりない方だけど、なんだと思った。「じゃあ、鶏肉の料理にしよう。七面鳥はちょっと無理だけど」

 

十二月二四日は金曜日だった。

夕方、会社からさなえに電話をした。外にいる様だったが「まだ仕事中なの」と言った。事務職の彼女にしては仕事で外とは珍しかったが「あと一時間位で終るから、真っ直ぐ帰るね」と言って電話を切った。

僕は仕事帰りにスーパーで鶏肉と野菜と幾つかの調味料を買った。パン屋でバケットと予約してあったブッシュ・ド・ノエルを買い、酒屋で白ワインを買った。部屋に帰り、白ワインを冷やし、料理の準備を始めるとさなえが「とてもいい匂い」と言いながら帰ってきた。「何か手伝おうか?」と訊いてきたので、大丈夫。出来たら周りを少し片つけて欲しい。それとあそこに赤と白のチェックのテーブルクロスがあるからそれをテーブルに敷いてくれるかな、と頼んだ。

僕は鶏の胸肉を塩、コショウし、強火で表面だけソテーして上に粒マスタードにマヨネーズを少し混ぜたものを塗り、その上からパン粉をふってオーブンレンジでじっくり焼いた。付け合せはニンジンと大きめに切ったホールベーコンをバターと砂糖を入れた水で煮込んだものにした。出来た鶏肉と付け合せを皿に盛り付け、切ったライムを添えた。バケットを斜に切り、ニンニクを漬け込んだオリーブオイルを塗ってトースターで軽く焼いた。

全ての準備が終えると僕らは冷えた白ワインで乾杯した。「誕生日おめでとう。メリークリスマス」と言った。

「ありがとう」と彼女は目尻を緩めて微笑んで言った。着替えた彼女は大きめの白い毛糸のセーターを着て、艶やかでふっくらとした頬は暖房の熱気でピンクに染まり、髪を上げ「失敗しちゃったの」と言っていた切り過ぎた前髪のせいでとても二四歳には見えなかった。

「ねえ、これ、とっても美味しいわ」と鶏肉のソテーをフォークで口に運んで言った。「男の人で料理が得意っていいわね」

「実は、昔、2年間位、コックをやってたんだ」と正直に言った。

「えっ? そうなの?」グラスの淵を指でなぞりながら言った。「初耳だわ」

「うん、町場のフランス料理屋だけど」

「なんで、やめたの?」

僕はグラスに映る彼女の姿をぼんやり見ていた。「なんでだろうね。料理は好きだけど、僕はその仕事に一生を捧げるという事にふとある時期になって疑問を持ちはじめたんだ。若い時はよくある事だよ」

「そう」と彼女はライムを絞りながら言った。「そうそう」と言って足元の真っ赤な紙袋からマフラーを取り出した。『FORZIERI』のカシミアのマフラーだった。「これね、今までのお礼を兼ねてクリスマスプレゼント」

「ありがとう。」僕はそれを首に巻いて微笑んだ。「凄く素敵なマフラーだ。本当に嬉しいよ」と言った。

「とおるさんは首が細くて長いから似合うわね。本当よ」

そして僕の方は『DENTS』のレザーの手袋を渡した。「これは誕生日プレゼントでもあり、クリスマスプレゼントだよ。マフラーにしようかなと思ったけど絞め殺されたらかなわないからね」

「ありがとう」と笑って言った。彼女はそれを手にはめて両方の頬にあてて「あったかあい」と言った。

「もう一つあるの」と彼女は別の紙袋から一冊の本を取り出してテーブルの上にそっと置いた。それはディケンズの『クリスマス・キャロル』だった。僕はありがとうと言った。

「ねえ、とおるさんは本が大好きでしょう?特に海外の本ばかり読んでるから、そういうのがいいと思ったの。いつも行くあの本屋さんでね、海外の作家さんでクリスマスにぴったりの本ありませんか?って訊いたらこれを持ってきてくれたの。もしかしたらもう読んだかもしれないって、少しだけ不安だったけど」

「この本はまだ読んだ事ないんだ」とカバーを見ながら言った。「ディケンズは『大いなる遺産』ていうのは昔読んだことがある。とても好きな作家でね。この本は一度読んでみたかったんだ。嬉しいよ」

「よかった。どういたしまして。私ね。実は二十歳位の時に小説でも書こうかなって思ってたの」

「小説?」

「うん、私はね、本なんて全然読んだことないの。今も全然読まないけど。学校の国語に時間に教科書で読んだり、夏休みの宿題の読書感想文の為に嫌々読んだだけ。夏目、芥川、太宰の作品なんてちゃんと読んだ事なんて一度もないもの。『走れメロス』が太宰治の作品だなんて最近知ったわ。アレ、凄い昔のヨーロッパ辺りの作品だと思ってたんだから。」

「それで内容は決まっていたの?」

「そうね、大体はね。あのね、自殺志願者が集まるサイトってあるでしょう?そこで自殺願望のある主人公の女の人が数人の同じ自殺願望のある人達と掲示板やチャットを通じて仲良くなるの。それで、今度会いましょう、って事になって、色々話しているうちに、会ってそのまま車に練炭積んで皆で自殺するっていう事に決まるの。男性が二人、十年勤めた会社をリストラされたサラリーマン。結婚せず父親の介護に疲れた四十代の男性。あと女性が二人。幼い子供を事故で亡くしたシングルマザー。それと恋人に酷い仕打ちを受けた主人公の女性。主人公が『だったら死ぬ前に最高のフランス料理を食べて、最高のワインを飲みましょう』って言ってね。それである日、主人公を含んだ四人が赤坂辺りで会って東京で一番有名なフランス料理店に入るの。物語の各章の題名が料理の名前になってって『第一章〜オードヴル フォアグラのテリーヌ、南フランス風』みたいにね。各章ごとにそれぞれの登場人物が自分の半生と自殺をしたいと思った理由を話すの。ちょっとした自伝みたいにね。『第二章 スープ』から『第三章 サラダ』『第四章 魚料理』、そして最後に『第五章 肉料理』で主人公が話すの。『第六章 デザート』から色んな話合いがされて、『第7章 デミタスカフェ』である結論が出るの。主人公とリストラされたサラリーマンが死ぬのをやめて、残りの二人が自殺を決意する。そして店を出て、そこで別れるの。エピローグ、結末ね、店を出た後四人がそれぞれどうなたったか。二人は死んで、主人公ともう一人は生きる。そういう物語を書こうとしていたの」

「面白そうだね」と言葉を選んで慎重に言った。

「うん、でもね、私は自殺とか、死って考えた事なかったの。だから四人分のエピソードを考えつく事なんか出来なかった。それと、私は男性でもないし、リストラも介護も経験がない。更に結婚もしていなし子供もいない。ただね、物語の冒頭はだいたい決まっているの」

「どういうの?」

「生き延びた、というより生き続けている主人公がね、十年後位に仕事で成功して、それで何かのきっかけであの時と同じフランス料理店に仕事上の付き合いみたいので食事に行くの。それでオードヴルを食べた瞬間に十年前の事が蘇っていきなり泣き出すの。周りはびっくりしちゃってどうしたんですか?って訊くんだけど、発作の様なものが起きて、結局、従業員の控え室みたいな所で寝かされて、目が覚めた時に天井を睨みながらあの時の事を思いだして、そして物語が始まるの。でもね、今は、あの時にあの男達にレイプされてね、ある意味では自分の考えた物語の主人公と同じになってしまったの。それでね、今は書こうとする興味も意欲もね、全く湧かなくなったの。不思議ね」

「そういうものかもしれない」と僕は言った。「人間はそれを本当に経験してしまうと言葉で表現する事も、文字に置き換える事も出来ないのかもしれない」

「そうね。多分、そうだと思う」彼女は独り言の様に言った。 


彼女は鶏肉と付け合せをぺろっと平らげ、皿に残ったマスタードソースをパンにつけて食べていた。僕らは時間を掛けてゆっくりと食事をし、ワインを飲んだ。

ちょっとした冗談を言ったり、真面目な表情で何故か政治の話もした。お互いの仕事の事や、彼女の両親の昔話もした。僕らはお互い一人っ子で、彼女は「お兄さんが欲しかったわ」と言い、僕は「結構、一人でも楽しく生きてこられた」と言った。それでも多少の違いがあるにしろ、僕らの中で共通する何か、何に笑い、何に怒り、何に共鳴するのかといったものが、そしてどんな空気の震動に落ち着き、どんな歪みに苛立つ、そういうものを僕ははっきりと感じ取れた。何よりも沈黙と静寂の中にこそ最も深い理解をお互いが認識している事であった。


「今年は色々あってあんまり良い一年じゃなかったけど、こんな素敵なクリスマスは初めてだわ。料理もワインも美味しいし、プレゼントも素敵だし。」とアルコールでほんの少し赤くなった顔で言った。

「さなえさん、僕はね、君との生活は全然嫌じゃない。むしろ楽しんでいるかもしれない。ただね、君はこれからどうするんだい?借りてる部屋もあるし、このままずーっとというのもお互いには良くないのかもしれない」

彼女は曇った表情のままテーブルに置いた自分の指先を見つめて言った。「そうね、それはよく分ってるの。」

「僕は君を追い出したいんじゃない。ただ、君がこれからどうしたいか、それを僕に言わなくてもいいけど、君の中でそれをしっかり考えているかどうかなんだ」

「分らないの」僕は彼女のグラスにワインを注いだ。「どうするべきかも、どうしたいのかも、全然分らないの」

「ならば、分るまでここに居ればいい」と僕は言った。

「うん、なるべく早く答えを出すわ。ただこれだけは分って欲しいの。とおるさんにとても迷惑を掛けている。それについて私はとても心が痛いの。そして、とても感謝しているの」

「分ったよ」と僕は少ししてから答えた。

白ワインを空け、皿の上はきれいになくなり、僕はそれを流しに片つけてケーキと彼女が買っておいたアイスティーを出した。

「お腹いっぱい。ごちそうさまでした。」と彼女は頭を下げて言った。そして彼女は食器を洗い、僕はテーブルクロスをベランダでぱんぱんとはたいた。夜空は鮮やかに澄み切っていた。向かいの家のガラスを通してぼやけたクリスマスツリーの電飾が点滅しているのが見えた。クリスマスにしては町は恐ろしく物静かだった。まるで日本中の人間が家の中で息を潜めてじっとサンタクロースを待ち望んでいるみたいだった。


残ったケーキを皿に盛り、アイスティーを持って奥の部屋に移る事にした。

僕らはベッドに寄りかかりテレビを観たがどれもとてもつまらなかった。サンタの格好をした女性タレントを男の芸人が野球拳で服を脱がしていくというくだらなさだし、完結ドラマでは、結婚を控えた女の部屋に数日前に忘れられない昔の男からクリスマスプレゼントが届き、そこにはイブの日のホテルの部屋の鍵が入っていて、二人の男の間に揺れ動きながら最後には昔の男の元に戻っていく。ラストでは、ホテルのロビーで二人はキスをしてそこでワムの「ラスト・クリスマス」が流れて終る。最悪だった。さなえは「俳優が駄目ね」と言いながらもわりに面白そうに見ていた。「でもね、結婚を約束していた男にとっては一生忘れられない最悪のクリスマスね。こういうクリスマスとかバレンタインとかっていう日はね、多分だけど、世の中では哀しい涙を流す人の方が圧倒的に多いのよ。」

テレビを消して音楽をかけた。スティーヴィー・ワンダーの『キー・オブ・ライフ』だった。「ラブズ・イン・ニード・オブ・ラヴ・トゥデイ」を「素敵な曲」と言って聴き入っていた。とても不思議だった。たった一ヶ月前に知り合い、転がり込んできた女性とクリスマスにスティーヴィー・ワンダーを聴くことになるとは。スティーヴィー・ワンダーはいささかクリスマスには合わなかった。やっぱり春か秋なのだろう。

「親愛なるデューク」と「イズント・シー・ラブリー」では「この曲は知ってる。大好きよ」と言って二人で歌った。彼女は鼻歌で僕は適当な英語だった。その後、僕はCDを変えて、チェット・ベイカーの『シングス』をかけた。「ゼア・ウィル・ネバー・ビー・アナザー・ユー」の所で僕はボサノヴァの神様ジョアン・ジルベルトが後に奥さんになるアストラッド・ジルベルトを口説いたセリフを思い出した。

『君とチェット・ベイカーと僕の三人で、『ゼア・ウィル・ネバー・ビー・アナザー・ユー』を永遠に歌い続ける想像上のヴォーカル・トリオを結成しよう』


「今、考えるとね」彼女は曲げた膝の上に顔を乗せて言った。「何故、私はあの男と付き合って自分の部屋に住まわしてしまったんだろうかってね。とっても分らないの。それでもってあの男がまともじゃない人間だとは多少なりとも気付いていたんだからね。ナンパされて付き合って。私なりにも責任があると思うの。ねえ、正直に言って欲しいの。」

僕は煙草に火をつけ、窓を開けながら答えた。「君には責任はない」

「でも軽い女、そういう女だと思っている?」

「さなえさん、人間は必ず誰かを愛するんだ。それについて他人は、誰かが誰かを愛した事については何もいうべきじゃないんだ。だから、当時の君の事も今の君も、僕は何もいう事は出来ない。君の恋愛はどこまでも君のものなんだ。それを総括出来るのは誰でもない。君だけなんだ」

「私の恋愛?」と僕の煙の行方を追いながら訊いた。

「うん、その男がどんな人間でも君はその時、その男に恋をした。それは君の恋愛なんだ。君を軽い女だとは全く思わない。むしろ恋の最も恐ろしくて素晴らしい所は自分を全く違う人間に変えてしまうという事。恋は自我を超える」

「自我?」と目を少し細めながら言った。

「君が愛した人間の事を僕は何も言えない。ましてや君の事もね」煙草を消して窓を閉めた。

「今は言えるわ」

「言える?」

「そう」と言って僕の顔を覗き込んだ。「今、私の愛している人間はあの男じゃない。分るでしょう?」

その言葉の意味を理解する前に彼女は僕の頬にキスをした。唇はアイスティーでしっとりと湿っていて、アルコールの香りが仄かに漂った。

「とおるさんはとおるさんの事について言えるでしょう?自分の事なんだから」

音楽が鳴り止み、世界が眠ってしまったかの様な静けさだった。彼女の目は澄み渡っていてまつげが微かに動いていた。きっと彼女の中では泣いているのだろうと思った。あの出来事が今再び彼女の中で再現されているんだと僕ははっきりと感じた。しかし彼女は泣かなかった。

僕はそっと彼女に口づけをした。滑らかで柔らかい唇だった。人の暖かさの中に冷たい孤独感が入り混じっていた。それは僕をどこか遠くへ運び去ろうとしている感触だった。それでも構わないんだと、僕は思った。

「僕は君がとても好きなんだと思う。」と言って僕は彼女の短い前髪を触った。彼女は恥ずかしそうに俯いて額を隠す様に手をあてた。彼女のほっそりとした指先が僕の指先に触れ、彼女はその手を掴んで自分の頬にぺたりとつけた。手の平の中で彼女の頬は呼吸のせいで小さく収縮していた。

「自我を超えた?」と微笑んで彼女は訊いた。微かに耳に届くほどの小さな声だった。

「分らない」と僕は答えて彼女の肩を抱いた。毛糸のセーターのチクチクとした感触が手に優しく沈んでいった。「超えたかもしれない。僕は最初、君に同情してこの部屋に住んでもいいと言った。君が元気を取り戻して歩き始めるまで見守るつもりだった。そして出て行った後に、本当によかった。よかった。と思うんだ。それで構わないと思った」

「うん、とおるさんを信じていたし、そういう人だと思った。とても安心出来たし、私はとても救われたのよ」

もう一度口づけをした。舌を少し入れると暖かい彼女の舌先に触れた。僕の中の一部が初めて彼女と繋がった気がした。これまでの彼女はいつも遠い世界の淵をうろうろと彷徨っていて、一切の彼女の姿が僕との間に仄かに曇った空気のかたまりの様なものを作りだしていた。舌先が彼女の濡れた前歯を這い、それを追いかけて僕の舌に絡みついた。ざらざらとした舌の感触が唾液に掻き消され、次第に熱を帯びて二人の舌は小さな昆虫の交尾の様に僕らの口の中で激しくうごめいていた。僕の舌が彼女の歯茎に沿って這うと彼女の舌が僕の唾液を吸い取っていた。

今度は彼女は泣いていた。目を開けるまでもなく僕は分った。僕は舌を絡ませながら彼女の頬の涙を指ですくい、彼女の顔の輪郭をしっかりと確かめようとしていた。彼女は僕の肩を両手で引き寄せ、首筋を力強く掴んだ。僕は手の平で彼女の首筋を撫で、その息遣いを感じた。

目を開けると彼女は薄っすらと充血した目を擦り、鼻をすすりながら「いつからか分らない。私も自我を超えたわ。」と微笑んで言った。「好きなの」

僕は彼女の肩を抱き、ベッドに優しく倒した。セーター越しに彼女の胸は呼吸のせいでゆっくりと隆起して、そして沈んだ。彼女の目は僕の顔を中心をしっかりと見つめていた。それはスライドショーの様に一瞬、一瞬のうちに様々な表情を見せた。不安、孤独、憂い、そして恐怖。

「死後硬直ベッド」とクスクス笑って彼女は言った。僕はもう一度、キスをした。とても激しく情熱的で、熱く湿った唾液が二人の口に目一杯に溢れていた。首筋にそっと口をあてると彼女は一瞬身をよじり、小さく息を吐いた。彼女の細い髪を撫でながら胸をセーターの上から手の平で包みこんで、そのまま彼女の細い足に指先を這わした。小さな声が漏れる中で彼女は僕の腕をしっかり掴んでいた。

僕の指先が赤いスカートの中に忍び込ませた瞬間に彼女は僕の腕をぎゅっと掴んだ。見上げたその目にはどこか遠くを見ているみたいだった。僕を通り過ぎて天井を見上げている様だった。

「ごめんなさい」と言った。僕は黙っていた。「ねえ、お願い。私ね、怖いの。まだそういう準備が出来てないの」

その表情と声はあの公園のトイレの時に見たものと全く一緒だった。彼女の言いたい事は僕にもすぐに理解できた。

「ごめんなさい」その時、彼女の手がパジャマ越しに僕の勃起したペニスを優しく包んだ。僕は反射的に腰を浮かせて彼女を見下ろしていた。人間はもっとまばたきをするのではないかという位に僕の顔を見上げていた。指先がペニスの輪郭を確かめる様に這い、優しく、時にはぎゅっと掴んだ。五本の指が独立した生き物の様にペニスのあらゆる部分に絡みついていた。今度は指はパジャマの隙間から入り込んでペニスをに直接触れた。つめ先でそっと触り、陰毛を撫で、睾丸を掴んだ。

彼女は僕の表情を唇を噛んだまま無言で観察していた。硬くなったペニスを握り、ゆっくりと動かした。僕は声を失っていた。頭の中に綿菓子みたいなものがふわふわと満ちていく感じだった。僕は恥ずかしくなってキスをすると、彼女の舌は僕の歯を一本一本確認する様に動いてそれは歯の裏側までにも到達していた。彼女は唾液を僕の口に押しやり、それを僕はまた戻して何度も繰り返した。動物的な湿った音が響いた。同時に彼女の手がスピードを増し、僕は射精しそうになったので思わず彼女の手を掴んだ。

「ねえ」唾液で光った唇で彼女は言った。「横になって」

僕が仰向けになると僕の顔をじっくりと見下ろしながら僕のパジャマとパンツを剥ぎ取り、するっとベッドの外へ落とした。

彼女は僕の頬に舌を這わせ鼻筋に沿って縫い、口に一瞬キスをするとそのまま首筋に降りていった。彼女の手は僕の下腹をくすぐり、陰毛の辺りを滑り落ち、そしてもう一度固くなったペニスを掴んだ。その間、彼女は僕の顔とペニスに交互に視線を移した。手はゆっくりとスピードを増して力強く、時折、緩めながら、その鼓動を自分の手にしっかりと感じ取っている様だった。

「ねえ、いいのよ」と優しく言った。そしてペニスをうっ血した血管が破裂してしまう位の力で握りしめ、千切れてしまう位の激しいスピードで動かした。彼女は僕の顔を見下ろしながらしっかりと見届けようとした。僕は遠のいていく意識の中で登りつめて、そして射精した。彼女の手がゆっくりと止まり、微笑んで言った。「わあ」

ティッシュを取り「拭いて上げる」と言った。丁寧に飛び散った大量の精子を拭き取りながら、もう一度、手で優しく包んで触りだした。すぐにペニスは勃起した。その様子を見下ろして目を丸くして驚いていた。僕は何か言おうとしたが急に彼女はペニスを口に含んだ。唾液と熱い舌がペニスを覆い、口をすぼめて思い切り吸い込んだ。舌がペニスの先を突き、円を描くようにまとわりつき、手の平で睾丸を愛撫した。彼女の頭が小刻みに震えだし、髪の毛がゆらゆらと揺れた。唾液で満ちた彼女の口のあらゆる肉壁にペニスが激しくぶつかって鈍い音が断続的に聞こえた。僕はもう一度登りつめると彼女の肩を掴んだ。そして、彼女が口をペニスから離した瞬間に僕は二度目の射精をした。


ベッドにもたれながら並んでアイスティーを飲んでいた。

彼女は僕の股間をパジャマの上からポンポンと手の平で叩いて「ねえ、もう大人しくなったわね」と言って「もう少し待っててね。お願いね」と股間に声を掛けた。

僕が裏声で「わかったよ」と言うと、彼女はクスクスと笑って僕の肩に頭を乗せた。

「ねえ、まだ色んな気持ちが複雑に絡みあってて」と真面目な顔で言った。「もう少し待って欲しいの。気持ちの整理がつくまでは。お願い。それとね、それまでに他に好きな人が出来てHしたい時は言ってね。」

「なんで?」と訊いた。

「分らないけど、ここまでしてもらったのにわがまま言って、これ以上とおるさんを束縛する事なんか出来ない。」

もう一度、チェット・ベイカーの『シングス』をかけた。チェット・ベイカーの甘くてけだるい声が重くたちこめていた。「僕は他に好きな人は出来ないと思うし、Hする事もないと思う。半年、一年待たされるのはきついな」と答えた。「でも約束するよ。待つから。」

彼女は唇をきっと固く結んで鼻腔は呼吸のせいで小さく膨らんでいた。「本当?」と唾を飲んで言った。「でもね、そんな掛からないわ、多分。正月に実家に帰ってゆっくり考える。昔遊んだ場所に行ったり、友達と会ったりしたら自分の気持ちも落ち着くと思うし、少しは楽になると思う。」

「それがいいよ。」と言った。「約束する」

そして彼女はそっと僕の頬にキスをして「約束ね」と囁いた。鳥が小枝にとまる様に小指を彼女の小指にそっとおいた。

僕らは死後硬直ベッドの上で彼女の髪を撫でながら一緒に寝た。「本当に硬いわ。こんな所でしたら背骨が折れちゃうかもしれない」と呟いた。

気付くと彼女は寝ていた。小さな寝息が聞こえた。僕は『クリスマス・キャロル』を読み始めたものの最初の数ページを読んだ所で深い眠りに落ちた。

 

週末、僕らはいつもの様に駅前の喫茶店に行ってアイスティーを飲み、図書館に行って本を読み、スルメに会いに行った。「スルメちゃん、また来年ね」とその場を立ち去る時に彼女は言った。「良いお年を」スルメは首を傾げてガラスを必死でペロペロと舐めていた。

カラオケは?映画は?と訊いた。「好きくないの」と答えた。「好きくないの」と僕は繰り返した。僕のポケットに彼女が手を滑り込ませて「あったかあい」と微笑んだ。僕らは町をひたすら歩いた。気の向いた所で気の向いた方角に曲がった。洋品店に行って僕は靴下を買い、彼女は和菓子屋で「実家に帰った時のお土産にする」と言って饅頭を買った。本屋に入って彼女は漫画の次の巻を買った。僕は何も買わず、スティーブン・キングの小説の一部をさらっと読んで時間を潰した。ケーキ屋の前ではサンタの格好をした若い女の子の店員が残ったケーキを売るために声を張り上げていた。継目なく雲に覆われた寒空の下を僕らは白い吐息を吐きながら、何かに引きつけられる様にして彷徨っていた。一つの年がもうすぐ終ろうとしていた。

その日の夜から彼女が実家に帰るまでペニスは彼女の手と口で何度も射精した。

「これも死後硬直ね」と勃起したペニスを仔細に見つめながら言った。「死んでいない」と僕は言い返した。「そうね。生気に満ち溢れている。まさに生きてるって感じよ。」


「年末年始はどうするの?」ベッドの中でごそごそと彼女は訊いてきた。

「特に用はない。お雑煮を作って食べて、友達と少し飲んだり遊ぶ位かな。あとは一人でつまらないテレビを観て、素晴らしい音楽を聴く。あとは君の事を思い出す」

彼女は僕の股間の辺りを服の上から撫でて言った。「で、どうするの?一人でするの?」

「分らない。」と答えた。「するかもしれないし、しないかもしれない。」

「ふうん」と言って。僕の股間に声を掛けた。「来年までお別れね。良いお年を」

2004-07-27 地平の舟  (ぁ

次の日、松田は二時ちょうどにやって来た。最初に来た時と同様に赤いベレー帽と赤いジャケットを着ていた。

「こんにちは。お邪魔します」彼は玄関で丁寧に頭を下げた。

「ねえ、松田さん、一つ訊きたいんだけど、どうしてそんな格好しているんですか?目立ちません?」僕は氷を入れた二つのグラスにオレンジジュースを注ぎながら訊いた。

彼は帽子をテーブルに置き、ジャケットを椅子に掛けながら答えた。

「ええ、確かに変な格好ですよね。わたくしは洋服のセンスがないのは分っているんですが、赤って好きな色なんです。帽子は当然ハゲ隠しです。ほら」

そう言って彼は頭下げててっぺんの方を僕の方に見せながら言った。つむじを中心に十センチ程はっきりと地肌が見えていた。

「わたくしは三五歳ですが、二十代の後半からこうなりまして。いやあ、この歳でこうなると色々と辛いものでよ」彼は僕の頭を見て言った。「かぶらぎさんは大丈夫ですね。髪は細そうですけど、量が有りそうですから」

僕は思わずごそごそと自分の髪の毛に手を当ててみた。彼は笑いながら言った。

「わたくしの場合は多分ストレスとかそんなのが原因です。父も祖父も髪は黒々していましたから」

僕は話題を変えた。「ねえ、松田さん。僕は昨日から色々考えたんだけど、訊きたいことが沢山あってね。殆ど眠れなかったんだ。それでね」

彼はオレンジジュースを一口飲んで、珍しくきっぱりした声で言った。

「かぶらぎさん、わたくしはあまり頭の良い方ではありません。だから、最初や途中に色々訊かれると混乱して訳が分らなくなってしまいます。だから、出来たらとりあえず最後まで聞いて欲しいのです。長くなりますが時間は大丈夫ですか?」

「はい。特に用事もないし、構いません。」

彼は座り直してテーブルの上でしっかり腕を組んで、息をゆっくり吸ってから話し始めた。彼の言葉と時計の音しか聞こえない静か過ぎる日曜の午後だった。


 「わたくしは静岡のある港町で生れました。家を出ると目の前は入り江になっていて、そこは小さな漁港になっていました。数え切れない漁船がボッボッボッとエンジン音を響かせて出港していく姿と、漁師達の威勢のよい掛け声や笑い声や怒鳴り声を高校を卒業するまで毎日聞いて育ちました。しかし、父は漁師ではありませんでした。町役場の職員だったのです。つまり公務員です。わたくしの通っていた地元の学校のクラスメイトは殆どが漁師の子供達でした。体の端々まで海の匂いと潮風が染み込んでいる様な子供達でした。だからという訳ではありませんが、わたくしはどうしても彼らと仲良くなることが出来なかったのです。むしろ漁師の子供達でないわたくしに対しては、彼らはどこか異質な目で見ていました。仲間外れという言い方のが正しいのかもしれません。それに輪をかけてわたくしの方もどこか漁師という職業に対し、そしていつも泥まみれと薄汚れた服を着ている彼らとその子供達を潜在的に軽蔑していたのかもしれません。父はしがない町役場の職員でしたが生活は安定していましたし、気候や季節などの自然の摂理で収入が左右される漁師達の家よりも幾分豊かな生活をしていました。わたくしは友達という様な友達は高校まであまり出来ませんでした。わたくし自身が孤独を愛する性格だったし、小さい頃は海でなく裏の山でどんぐりなどの木の実を一人で採って遊んだり、高校になるとずーっと一人で本を読んでいました。休み時間も、学校が終ってからも一人で部屋にこもって何時間でも本を読んでました。正直、海が嫌いでした。家の前に広がる広大な太平洋も、潮の香りを運ぶ海風もわたくしは嫌いでした。その証拠にこの歳まで泳げないんです。

わたくしが暗くて泳げない事で何度もいじめに合いました。あと、背の小さいこと、どもり癖がある事、顔が不細工な事、色んな言葉で罵倒され、時には海に数人に担ぎ上げられて放り込まれた事もあります。だから、わたくしは高校までの間に何度か父に、引っ越して都会かどこかの山合いの町に行きたいと言いました。しかし父と母はその町がわりに気に入ってたし、物価も安い、食べ物も美味しい、家は公務員の宿舎なので経済的にも、住み心地も良いから、とわたくしの願いを聞き入れてくれませんでした。

わたくしに兄弟はいません。だからわたくしはいつも一人でした。確かにある程度遊べる友達はいましたが、それでも彼らは高校を出て漁師になることを決めていたし、わたくしはこの町を出て東京に行って就職すると決めていましたので、彼らとの間に生き方というか、根本的に違う大きな溝や壁みたいなのがあったのは確かです。心から付き合える友達なんかいなかったのです。これでも一応恋もしたんです。高校の時は非常に高校生らしい淡い恋の思い出もあります。それでも今述べた友人の様に、彼女もまた卒業すると町の中にある水産物の加工工場なんかに就職するのが関の山でした。彼女らはそこで町の漁師の男と結婚して、そしてその町を守り続けていくのです。

わたくしは孤独でしたし、正直、意志の弱い人間でした。恥ずかしがりやで口べたでした。人に話しかけられてもどう答えていいいか分らないんです。いつも相手の首筋辺りを見つめながら話ている様な人間でした。だから、わたくしがその町の人間をどこか軽蔑するのと同時に、彼らからもどこか軽蔑と屈辱の目を向けらていました。具体的に哀しい出来事も沢山ありました。拒絶され、裏切られ、欺かれ、今それを具体的に述べるときりがないのでやめたいと思いますが、とにかく当時のわたくしの考えていたのは、早く高校を卒業してこの町を出たい、ただそれだけでした。実際に東京へ出て行く時に駅まで見送りに来たのは、母と父だけでした。

東京に出て普通の会社に入りました。小さな化粧品メーカーで二九歳までの十一年間、営業をしていました。東京の生活にも慣れ、会社で友人らしい友達も結構出来ました。新宿や六本木で遊んだり、最新のファッション雑誌を見ておしゃれに気を使う様にもなりました。今思えば都会の二十代の若者そのものでした。そうしているうちに高校までのあの漁港の町の姿、潮の匂い、漁師達の声はわたくしの中で遠い世界の記憶になっていました。一応、正月位は実家に帰りましたが、わたくしには会う友達は誰もいなかったのです。二五歳の時に帰った時は、高校の時の恋人は既に結婚して子供がいました。正月のある日の事です。朝起きて家の玄関に出ると、目の前をその恋人とその子供達が横切ったのです。そして一緒にいた旦那さんはわたくしの数少ない友達の一人でした。わたくしは咄嗟に家に逃げ隠れました。あの時に気持ちは今でもよく分りません。ただ、その時思ったのです。懐かしさはありましたが二度とこの町には戻らないと心に誓ったのです。

わたくしには東京に出てから恋人というような女性とのお付き合いはありませんでした。これはわたくし自身の性格に問題があったのでしょう。口下手で恥ずかしがりやで、好きになった女性に声をかけることもデートに誘うことも出来ませんでした。更に背は低く、顔も悪い。わたくしはあの漁港の町での孤独の十八年間で、あまりに一人で生きてきたのです。そしてそれに慣れすぎたのです。だから、もっと積極的に自分を変えようとして努力しました。ここはあの漁港の町ではないし、東京なんだ、僕は生まれ変わる為にこの町に来たんじゃないかと。でもそれは出来ませんでした。かぶらぎさん、人間というのは十八歳という年齢まで生きてしまうと、そこで何かが出来上がってしまうんです。自分の中で、大半の何かががっちりと固まってしまうんです。その時初めて思いました。僕はあの漁港の町でもう少し違った生きかたをすべきだったのでは、生きかたによっては別な人間になれたのではないか。しかし、それはもう手遅れでした。

わたくしが二八歳の時です。春に母が心臓発作で死にました。更にその歳の暮れに父が脳梗塞で死にました。葬式やら事務的なことで何度も静岡に帰りました。二人の葬式には町の人達も役場の人間も沢山来て頂きましたが、わたくしの友人は誰一人とも来ませんでした。その時はもうなんとも思いませんでした。そして墓を東京に買い、本当の意味でわたくしはあの町の呪縛みたいなものからやっと逃れることが出来たのです。それでも一年のうちに両親が相次いで死に、天涯孤独になった事はわたくしをとことん打ちのめしました。仕事も手がつかず、飲みにも行かず、仕事から帰ると一人酒を飲みながら本を読んで過ごしました。ある時、わたくしは東京にいながら、あの漁港の町での自分と何も変わっていないことに気付いたんです。

そして、そんな時に災いは重なるものです。仕事で幾つかの失敗を重ね、時同じくして会社の経営は火の車でした。人員削減と経費削減が叫ばれ、わたくしは職場での信頼を失い、居る場所すらありませんでした。肩をポンと叩かれる様な感じでわたくしは二九歳で十一年勤めた会社を辞めました。あの時代に出来た友人も今ではもう会っておりません。

東京に来て十一年、わたくしに残ったものは何もありませんでした。故郷を捨て、親を失い、友達は去り、恋人すらいませんでした。わたくしには帰る場所も戻る場所もなかったのです。唯一あるとすればそれはこの広い東京だけだったのです。ここで生き延びていくことがただ残された道だったのです。

わたくしはもう一度生まれ変わろうとしました。父が死ぬとき最後に言いました。『東京でしっかりやるんだ。そして、もう少し明るく生きるんだ。誰かに愛されるのを待つのでなく、誰かを愛せ。いつか孫を墓に連れてきてくれよ。待ってるからな』わたくしはその言葉の一字一句を今でも覚えております。

仕事を辞めてから数ヶ月後、わたくしが居た会社の取引先の知り合いと街でばったり会いました。その男の歳の離れたお兄さんがコンビニエンスストアの弁当などを製造している工場で部長をしておりました。わたくしが仕事を探していると言うと、その彼はお兄さんに相談してくれました。色々とありましたが結局そこに就職が決まりました。これはとてもラッキーでした。もう既にバブルが崩壊していたのに、営業の仕事しかしたことのないわたくしにとっては全くの未経験でしたが給料は悪くありません。その時初めて人の暖かさに触れることが出来ました。紹介してくれたその男とは仕事上の付き合いだけでしたが、結構気が合ってたまに飲みにいく仲でした。そしてわたくしが会社を辞めるきっかけになった幾つかのミスも、本当はわたくしのみのミスではなく、結局それをわたくしが責任を取ったという形で身を引いたというのは彼の耳にも入っていましたから、それらを含めてわたくしに同情してくれたのでしょう。そしてわたくしは新しい会社に入りました。

 

『デイリーフレッシュ』という名の会社は大手コンビニエンスストア『フラワーマート』の弁当を委託で製造している会社でした。会社は足立区にあり、山手線の上半分と埼玉南部にあるフラワーマートの全店舗の商品を製造していました。

会社にある製造室は学校の体育館の四分の一程で天井は体育館と同じ位あります。十数メートルの、ラインといってベルトコンベヤーですね、それが四本あって、ラインの左右に人が並んで各自の担当のおかずを入れていくんです。ご飯を入れる人がいて、から揚げなどを入れる人がいて、そして最後にラッピングされて出てくるのです。

工場は二十四時間フル稼働です。一日を三つに区切り、三回製造して店舗に配送するのです。わたくしの仕事はそれらのライン製造が円滑に流れるかをチェックし、指導する事です。簡単に言えば現場監督みたいなものです。人員がいなくなるとわたくし自身がラインに入っておかずを入れることもあります。主婦や中国人や日系人が百人近くいて、それらの人員をどう各ラインに配分するかが大変です。製造は時間が勝負です。おかずが途中でなくなったり、機械の故障もあります。ラインが止まればそこの人員は遊んでしまいます。そのあたりを工夫して百人近い人間を上手く動かして定刻までに注文分の弁当を全て作らなければなりません。

しかし、最初わたくしは戸惑いました。十一年もの間営業をやって、やった分だけ動いた分だけ評価される、そういう仕事をしておりました。しかし、その職場は違うのです。時間との勝負はありましたが、どこよりも美味しいもの、美しいものを作ってもいけないのです。例えば、足立区と品川区にあるフラワーマートで同じ幕の内弁当を買ったとして、それぞれ製造している会社は違うんです。けれどどっちかが美味しかったり、見た目が違ったりしてはいけないのです。あくまで指示されたものよりも上でも下でもないものを作らなければなりませんでした。平均点を越すことも出来ないのです。ベストな仕事とは平均点であり続けることなのです。それがわたくしにとってカルチャーショックでした。そしてその仕事をこのまま続けていくことへの不安に苛まれました。しかしわたくしには当時、何をしたいのか、何をすべきなのか分りませんでしたし、そこを飛び出して新しい職を探す勇気もありませんでした。自問自答しながらも時は確実に過ぎていきました。いつしか諦めというか、覚悟みたいのが生れて、眠る様に働きました。一年が過ぎ、わたくしは三十歳になっていました。


わたくしはその頃から事務員の藤村優子という女性が気になってました。彼女はわたくしよりも二つ若く二八歳でしたが会社では先輩でした。仕事が終って製造報告書を事務所に提出しに行くとその女性はペコリと頭を下げ、『ごくろうさまでした。お疲れ様でした』と必ず言ってくれました。そのしぐさがとても愛らしく、わたくしはその瞬間の為に仕事をしているのではと錯覚する程でした。次第にその挨拶からちょっとした世間話が始まり、天候の事とか、昨日のテレビの事とか、流行の音楽の事とか、一分から二分、気付くと十分程会話する仲になっていました。わたくしが彼女を好きになっているのを自覚するのに大して時間は掛かりませんでした。

何よりも身長が160センチしかなく、頭も既に薄くなリ始めていたわたくしに対しても全くそれを気にするそぶりも見せず、わたくしの言葉の一つ一つを頭の中で紙にメモしている様なそんな風にして聞いてくれているのです。わたくしの目をしっかり見つめ、その奥から何かを探りだそうとしている様な、最初はその視線に落ち着きませんでしたが、わたくしは彼女の視線に引きつけられる様にして心の中の壁の裏側にあるものを一つ一つ静かに晒け出すことが出来る様になっていたのです。

わたくしは、彼女との会話の瞬間はとても幸せでした。高校の時の恋人との初デートで夕暮れの砂浜を散歩している時にわたくし達を包んだふわふわしたまばゆい初夏の潮風を思い出しました。藤村さんは伏し目がちなわたくしに声にならない声で『大丈夫よ。しっかりと私を見て。何も恥ずかしいことはないのよ』そんな風に言っている様でした。

ある日の事です。わたくしが休憩室の机で本を読んでいる時に彼女が入って来ました。

わたくしはその時、カポーティーの『ティファニーで朝食を』を読んでいました。彼女はわたくしの机の傍に立ったまま訊いてきました。

『お疲れ様です。あの、その本はあの映画の『ティファニーで朝食を』なの?』

わたくしは黙って頷き、彼女を見上げました。彼女の顔の全ての部分が曲線になっているかの様な笑顔をみせて言いました。

『私は映画しか観たことがないの。どっちが面白いかしら?』

『僕は映画を観たことがないんです。これも今読み始めたばかりで』

彼女は、あらまあ、という驚いた表情でわたくしを見下ろして言いました。

『あんな有名な映画なのに。とても面白い映画よ。ねえ、もし良かったら読み終わったらその本貸して頂けるかしら?本のほうも読んでみたいし』

その時既に彼女はわたくしの前に座ってました。そしてわたくしが殆ど映画を観ないこと。彼女は殆ど本を読まないこと。いつしか彼女は幾つかの映画のタイトルを言って、それを観てみるといいわ、と言い、わたくしも幾つかの小説のタイトルを言って、お互いそれぞれについて随分長い間話をしていました。

それからしばらくして新宿にある小さな映画館でリバイバルで『ティファニーで朝食を』が短い期間上映されることを知ったのです。正直、わたくしは藤村さんをデートに誘うならその映画しかないと確信しました。しかし、恋というものからあまりにも長い間離れていたので、わたくし自身が高校生の時の自分に戻っているのです。あの時の感覚をもう一度手繰り寄せて、僕はどうするべきなんだろうか、どうすれば上手くいくのかと毎日の様に考えてました。


映画の上映について数日後の休憩室で話をしている時に、わたくしは勇気を出して言ってみました。緊張してねばねばした汗が首筋と胸元を伝って落ちていくのが分りました。

『藤村さん、僕は、僕は出来たらその映画を藤村さんと観てみたいんです。もし良かったら一緒に行って頂けると。どうですか?』

静かな沈黙でした。どこかで空調の入る音が微かに聞こえました。そしてしばらくして彼女はなんの躊躇いもなく、はっきりとした口調で微笑みながら答えたんです。

『はい。いいですよ。あの映画は何度観ても飽きないし。』

そしてわたくしは読み終わった『ティファニーで朝食を』を彼女に手渡しました。なんとも言えない嬉しさでした。草原に降り積もった雪を掘り起こして新緑の新芽が顔を覗かせる様な、穏やかで暖かい風が凍てついた自然を僅かづつ溶かし始めている、そんな気分でした。前の仕事のこと、両親の死、全てを忘れるくらいの巨大な喜びでした。

数日後の非番の日、わたくし達は初めてデートをしました。わたくしにとっては十数年ぶりのデートでした。映画を観て、食事をとり、新宿の中央公園に行きました。わたくしはその間、小さい頃から読んだ本の中で面白いものの話をし、彼女は同じように映画の話を熱心にしていました。お互いにそれぞれの読みたい本と観たい映画のリストが既に出来上がっていました。わたくしは、彼女に次のデートでそれらの本を持ってくる約束をし、彼女が勧めた映画の感想を言うことになったのです。

冬の入り口なのに陽だまりが暖かい日でした。わたくし達は公園でお腹がすいたので近くの『フラワーマート』で買ったおにぎりを食べました。その店の分はわたくし達の会社が製造した商品ではないと思ってました。しかし、彼女は笑いながら言いました。

『ねえ、これウチで作ったものよ。うん?ねえ、なんかしょっぱいわよ』

そうです。そこのお店の商品はエリア的にぎりぎりウチの会社で作ったおにぎりでした。彼女は一口食べたそのおにぎりをわたくしに差し出しました。

『うん、ちょっと、しょっぱいね』

彼女はクスクス笑いながら言いました。

『ねえ、ちゃんと味見なきゃいけないじゃないの』

わたくしもつられて笑いました。なぜか笑いました。おかしいだけじゃありません。わたくしはなんとか着地出来る居場所をその時初めて見つけた様な気がしました。決して幸福に満ちた三十年ではありませんでした。それでも、どんなことがあろうとも等しく誰にも幸福は訪れるものだと、世間や人生に対して失望と怨嫉さえ抱いていたそんな自分に対しておかしかったのです。

しばらくして、気付くとわたくし達は恋人といわれる仲になっていました。彼女の部屋で映画を観て、わたくしの部屋で彼女の料理を食べたりしました。そして、わたくし達は一年後結婚したのです。彼女も一人っ子で実家は茨城にありました。彼女両親の具合が悪いこと、そして金銭的なことも含めてわたくし達は結婚式をあげませんでした。

婚姻届けを出した後、そのままわたくしの父と母に結婚の報告の為に二人で墓参りに行きました。春にしてはとても寒い日でした。山を切り開いて作った霊園にはわたくし達だけで、鳥の鳴き声と木々を揺らす風の音しか聞こえませんでした。わたくしは目の前の墓をじっと見つめていました。振り返ると彼女は数メートル先に立ってわたくしを見ていました。その時に感じたんです。静岡のあの漁港での十八年間、東京でのささやかな生活、それまでの人生の全てを初めて何の恐れもなく受け止めることが出来たんです。わたくしにとってはここに至る為に必要な時間だったのだと。涙が溢れました。声を殺して肩を震わせて泣きました。何も恥ずかしいものはありませんでした。自分の震えた声以外の音が何も聞こえない位でした。気付くと彼女が傍に座ってわたくしの肩にそっと手をかけていました。本当に長い時間です。山の輪郭に沿って空が赤みを帯びるまで、言葉交わすことなく、置き去りにされた二つの置物の様にわたくし達は並んで座っていました。

 それから、わたくし達は会社の近くで暮らし始めました。本当に愛し合っていました。とても幸せでした。

一緒に起きて向かい合いながらコーヒーを飲み、一緒に出社して、昼休みは一緒に彼女の作ったお弁当を食べました。夜勤の時は彼女はよくわたくしの本棚の本を一人読んでました。明けてわたくしが非番の時、彼女が会社に行っている間、わたくしは映画を見て彼女の帰りを待ちました。休日は近所の公園を一緒に散歩しました。お互いあまり友人がいませんでしたので二人はとても狭い世界に生きていましたが、それでもその世界に満足していました。ささやかで両手を伸ばせば足りてしまう様な世界でした。でも、お互い何も望みませんでした。十分でした。まるで雲の隙間から漏れる陽光が照らす小さな陽だまりだったのです。

わたくし達は何度も交わりました。終ってベットの中で毎回お互い自分の人生を話ました。どんな家庭で、どんな友達がいて、哀しかったこと、嬉しかったこと。わたくしはあの漁港の町の話をしました。孤独だったんだ。海が嫌いだったんだ。いつも自分に負けてきたんだ。何をどうすれば良いか、何をすべきなのか分っているのに出来なかったんだ。弱かったんだ。逃げていたんだって。彼女はわたくしの髪に指先をからめて言いました。

『みんな、同じよ。みんな弱いわ。でもね、私は思うの。まず初めに思ったことをするのよ。すべきなのよ。そうすれば決して後悔しないわ』

『初めに思ったこと?』わたくしは訊きました。

『うん。まず初めに思ったことはたいがい間違いないわ。でもその後思うの。いや、こうするべきなのだろうか。やっぱり出来ないかもしれない。色んな言い訳や逃げ道が後からそっと自分の肩を掴むのよ。それが弱さなの。私もあなたも、誰もかも、負けてしまうのは後から考えて思ったことがより正しくて正確で確実だと錯覚してしまうの』

『でも、犯罪を犯してしまう場合もそれは衝動的なものであって、後から思ったこととは思えないけど』

『違うと思う。強盗や盗みをしてしまう場合だけど、お金がない訳だから最初はちゃんと働こう、真面目に生きてなんとかしようと思うのよ。でもね、その後に来る弱さね。もっと楽で手っ取早い方法はないかって。または、電車の中で座っているとして目の前に老人が立っている。立つべきだ、譲るべきだ、って思うでしょう。誰でも。でもその後思うの。恥ずかしい、格好付けていると思われるかもしれない、疲れているからもっと座っていたい。あとね、ちゃんと学校や会社に行くべきだって思っても、サボったりしてしまう。勉強しなければいけない。でも明日からにしょうとかね。何でもいいの。小さい事でも大きいことでも。面白いもので、人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの。それは一番初めに教えてくれるの。誰にでもちゃんとセットされているものなの。』

『そうかもしれない』わたくしは言いました。『僕が自分の人生の中で輝いた瞬間は、僕はその弱さに勝った時だけだったかもしれない。優子さんに最初、会社の休憩室でデートを申し込んだときも、結婚を申し込んだ時も、僕は最初にそう思った。そうしたいと素直に思ったから。でも後から色々考えるんだ。断られるかもしれない。傷つきたくない。本当に数え切れない位の思いが僕の後をつけてくるんだ。でもあの時だけは、僕はその弱さに勝てたんだ』

『私もよ。あなたにデートに誘われた時も、結婚を申し込まれた時も、最初に素直に思った。『うん、デートしたい』『結婚したい』って。あれこれ考える前にすぐに答えたの。それで良かったの。それでこうして幸せになれたんだから。うん、幸せになれると確信していたんだから。』

 

彼女が妊娠していると分ったのは結婚してから半年が経ってからでした。手を取り合って喜びました。言葉のあやではありません。本当に手を取り合って喜んだんです。

毎日の様に彼女のお腹に耳をあてて、そこにいる誰かに向かっていつも話しかけていました。まだお腹は大きくありませんでしたが、彼女はお腹の子に向かって絵本を読んで聞かせました。わたくしは音楽もきかせました。クラシックやジャズやブルースなんかを。時には可愛い昔の童謡を二人で一緒に歌いました。途中でわたくしが歌詞を間違えたりすると、『やりなおし』と言って最初から歌い始めました。そんな風にしてわたくし達は静かで暖かい時間の川に揺られていました。

今思い出すと何故かわかりません。数日後、気付くとわたくし達は静岡のあの漁港の砂浜の上に立っていました。彼女が言い出したんだと思います。体が思う様に動くうちにあなたの生れた町に行ってみたいと。海の向うが燃え尽きてしまう位の日曜の夕暮れでした。父の葬式以来、数年ぶりでしたが何も変わっていませんでした。沢山の漁船が波に揺られていました。潮風が二人の髪を湿らせました。漁師達の威勢の良い声も聞こえました。海岸通りをデートする高校生のカップルの笑い声も聞こえました。そこはかつてわたくしがいた世界でした。でも何故か初めて見る風景に見えたんです。背後にあるごつごつした山も、グレー色に染まった海も、細かい波の音も、空を横切るカモメの姿も。だからかもしれません。その風景がとても好きになったんです。海がとても好きになったんです。既にわたくしはズボンの裾を上げて波打ち際に向かって走り出していました。水は冷たく、足元の砂はわたくしを優しく飲み込んでいきました。振り返ると離れた所で彼女は手を振りながらクスクス笑ってました。そんな彼女の笑顔をその時初めて見ました。どんな種類の笑顔よりも違ってみえました。しかし、そんな笑顔を再び見る事はありませんでした。」


彼はそこまで話し終ると「疲れました?」と物寂しい声で言った。僕はかぶりを振って、空になったグラスに氷とオレンジジュースを入れた。灰皿からはフィルターの焦げた嫌な臭いがしたので流しで洗ってティッシュで拭いた。その間、彼はぼんやりと天井の木目に何かを捜し出す様な目をしながら小さく溜息をついていた。僕が座ってジュースを差し出すと「すみません」と言ってグラスを握り締めたまましばらくしてから続きを話し始めた。それまでと違って声そのものが小刻みに震えていた。

                      * * * * * * *

 

 大晦日の朝、さなえが実家に帰ってしまうと部屋はしんと静まり返っていた。

八王子の実家の母親が電話をしてきて「あんた、今年は帰ってくるの?」と訊いたので「今年は帰らない。こっちで色々用事があるんだ。年明けのなるべく早いうちに週末を使って帰るよ」と答えた。

僕は久しぶりに一人になりたかった。さなえという知らない女性が突然やって来てドタバタした生活が始まり、かなりの精神的消耗があった。結果的に彼女とは恋人同士という関係になったとはいえ、正月明けまではゆっくりと充電する必要があった。若干の疲労感もあったし、とにかく一人の生活を僅かな間でも送りたかった。

まず、玄関も含めて全ての窓を開け放ち、大掃除をした。とても清々しい気分だった。彼女の物はなるべくそのままにして、ダイニングの床にワックスをかけ、ガスレンジをピカピカに磨き、冷蔵庫を中を片つけた。彼女の買ったもので日持ちしないものは食べるか捨てるかした。窓を拭き、トイレと風呂場をごしごしと擦った。仕切りのスリガラス戸を外してアパートの前で水を掛けて洗った。カレンダーを捨てて以前銀行で貰ったものに取り替え、死後硬直ベッドのシーツを洗濯し、本棚を整理した。もう読まない本は古本屋に持って行き、そのお金で幾つかの本を買った。CDと本を(あいうえお順)に並び替えた。僕はわりにそういうのが好きなのだ。

一通り掃除が終ると僕は大きな音でラヴ・アンリミッテッド・オーケストラのCDをかけた。こんな音で音楽を聴くのは久しぶりだった。さなえが来てから殆どヘッドフォンで音楽を聴いていたからだ。真昼の真白い強い日差しがポカポカと部屋を満たした。向かいの家でも家族総出で大掃除をしていた。父親は洗車をして、母親は掃除機をかけていた。暇な幼稚園生位の兄弟が庭のホースで水を出していたずらしているので、母親の叱り声が度々辺りに響いていた。大家がベランダ越しにやって来て世間話をして「妹さんは?」と訊いたので「彼女だけが実家に帰ったんです」と嘘をついた。「兄弟仲良いねえ」と言ったので「結構疲れますよ」と言葉を濁した。沢山の蜜柑を暮れたので「ありがとうございます。来年も宜しくお願いします。良いお年を」と言った。

アパートの殆どが新婚か小さな子供のいる家庭だったが、殆どが田舎や旅行に行っていて静かだった。

上の階のリカコちゃんという小学一年生の女の子が一階のピロティに座って一人で絵本を読んでいた。彼女に蜜柑を十個程あげて「みんなで食べてね」と言った。彼女は「ありがとう」と微笑んで言った。僕らは一緒に並んで座りながら冬の晴天をしばらく眺めていた。雲一つなかった。「その本はどんなお話?」と訊くと「うさぎのピーちゃんがお友達のねこさんと旅に行くの」と答えた。

「どこに旅に行くの?]

「とってもとおい所、山をたくさん越えて、谷をたくさん越えて、川をたくさん超えて、それでね、ねこさんが途中でお腹が空いちゃうの。ピーちゃんは草を食べればいいけど、ねこさんはお魚さんしか食べないの。ねこさんはお腹ペコペコで動けなくなっちゃうの。だからピーちゃんが川にお魚さんをとりにいってあげるの。」

「お魚さんはとれたの?」

「わかんない。まだそこまで読んでないもの。でもね、聞いて。私はお魚さんがだあいきらいなの。」

彼女は、ママにいつも魚をちゃんと食べなさいと叱られるのでいやんなっちゃう、と愚痴をこぼした。

僕が「お魚は美味しいよ」と言うと、彼女は「わたしはだいきらい。だいだいだあいきらい。ふんだ」と口をすぼめて言った。きっと母親が魚嫌いを治す為に買え与えた絵本なのだろう。

それから僕はスーパーで雑煮の材料と蕎麦を買って帰り、ビールを飲みながら雑煮のベースを作った。その間、八王子の友達数人から電話があり、今年はこっちに来るのか?と訊いたので、帰らない、と答えた。一通りやる事が終ると僕はベッドで『クリスマス・キャロル』の続きを読もうとしたがなかなか意識を集中する事は出来ず、気付くと辺りが暗くなるまで寝てしまっていた。

夜は案の定くだらないテレビを観て、飽きてしまうとコルトレーン、ソニー・ロリンズ、マイルズ・デイビスをたて続けに聴いた。蕎麦をすすりながらアル・ジャロウを聴いている最中に年が明けた。すぐにさなえから電話が来た。

「あけましておめでとう」と言った。

「あけましておめでとう」と僕も言った。

「何をしているの?」と彼女は訊いた。

「蕎麦を一人で食べながらくだらないテレビを観て、素晴らしい音楽を聴いている。あとは君の事を思い出そうか悩んでいるところ」と答えた。彼女はクスクスと笑った。

「私は今実家でみんなでテレビを観ているの。従兄弟が来ててね。まだ小学校の低学年なのにこの時間からお年玉、お年玉ってうるさいのよ。生意気なんだから。もう」

「ねえ、その子は魚は好き?」と訊いてみた。

「なんで?」

「なんでもない」と言った。

「ねえ、五日に帰るわ。次の日から仕事だし」

「うん、分った。待ってるよ」と言って電話を切った。

その後、会社の人間や友達から電話があり「あけましておめでとう」と言った。

 

正月は平穏に過ぎて行った。目を凝らして見ないと分らない程の細かい雨が降ったりもしたが、幸い雪にはならなかった。

町はぴたっと蓋を閉めてしまったかの様に静まっていてがらんとしていた。例のペットショップも喫茶店もシャッターが降り、落ち葉がさらさらとアスファルトの上で舞っていた。パチンコ屋に入ったが結局、数千円負けてしまった。公園に行ってベンチで暖かい缶コーヒーを飲んでいる時に携帯が鳴った。横浜に住んでいる友達だった。園川は八王子の時の同級生だった。

「今年はこっちにいるのか?向うの連中に電話したら鏑木は戻らないと言ってたから」と園川は言った。

「ああ、園川は?」

「俺は元旦まで仕事してたんだ。今年は休みもあまりないからこっちに居るんだ。なあ今日飲まないか?」と彼は言った。

「いいよ。別に暇だし」

「新宿の方だろ?これからそっちに行くよ。」彼は時間と場所を言って電話を切った。園川は運送会社の倉庫でバイトをしながらプロのミュージシャンを目指していた。バンドではギターを担当していて、ボーカルの女の子と同棲していた。何度かライブを観に行った事があるが悪くないバンドだった。パンキッシュなロックバンドでアメリカの昔のバンド、ブロンディを連想させた。

小滝橋通り沿いで待ち合わせをしていると、向うから三人やって来た。園川と、ボーカルであり彼女のナオという女の子と、もう一人女の子がいた。

「あけましておめでとう」と園川が言った。「さっき電話する前まで渋谷でバンドの練習だったんだ。十日にライブがあるんだ。メンバー連れてきちゃったけど、いいかな?」

「全然、構わないよ」

「お久しぶりです」とナオが言った。イギリスのロックバンドの名前の入った赤いトレーナーに茶色のダッフルコートを着ていた。

「こっちの子は」と園川がもう一人の女の子を紹介した。「最近入ったベースの子で、高倉れなさん。みんなはレナって呼んでる」

僕は「初めまして」と名前を言って挨拶した。彼女は細みで身長が高く、短く刈り上げた髪を赤く染めてツンツンと立たせていた。グレーのストレートのコーデュロイのズボンに黒いスウェードのジャケットを着ていた。服装に似合わずどこかおっとりとしていた。

正月の三日にやっている居酒屋を見つけるのにそれ程時間は掛からなかった。

「ドラムの人は?」と僕は訊いた。

「今日はこれから用事があるって言って帰ったよ」と園川が答えた。

鍋を突付きながら僕は「最近バンドの方はどうだ?」と訊いた。「うん、この前、あるプロダクションの人がライブに来てくれて、もしかしたらインディーズだけどCDが出せるかもしれない。10日のライブで最終的に決まるんだ。だからとても大事なライブなんだ」と言った。「観に来るか?」

「いや、普段の日だろ?仕事だから難しいな」

「そうか、残念だな。CD出たら教えるよ」


「そういえば、鏑木とは高校の時に一緒にバンドをやってたんだよ。」と園川。

「へえ」とナオ。

「楽器やるんですか?」とレナは生ビールのお代わりを注文しながら言った。

「うん。昔ね。ベースをね」

「3ピースのバンドをやってたんだ。俺がギター、鏑木がベース、マイクスタンド二つ立てて、二人でボーカルしてハモったりして」

「懐かしいね。学園祭だよな」と僕。

「どんな音楽やってたんですか?」とレナ。

「パンクだよ。ピストルズとかダムドとかクラシュとか」と園川。

「歌いながら弾くのは大変だよね」とナオ。

「鏑木さんはベーシスト誰が好きなんですか?」とレナ。

「うーん。当時はストラングラーズのベースの人とか」としばらく考えて答えた。

「ジャン・ジャック・バーネル」と人指し指を立ててレナは言った。

「そう。ゴリゴリベースにピコピコオルガンね」と僕。

「『ノーモア・ヒーローズ』」と園川。

「ベースライン格好いいのは、あとブルース・フォクストンとか」とナオ。

「ザ・ジャム、ポール・ウェラーのね」と僕。

「『ザッツ・エンターテインメント』のアルバムバーションのベースライン、あれないよな」と園川。

「確かに」とコツコツと爪先でテーブルを叩きながらレナ。

「どういうの?」とナオ。

「あとで聴かせてあげる」とビールを飲み干して園川。

僕らはかなりロックな音楽談義をしながらかなりの量を飲んでいた。正月のせいで店はガラガラだった。園川は割り箸をギターにみたてて踊り出し、ナオはおしぼりをマイクにして自分のバンドの曲を大声で歌いだした。店員に何度も注意され、僕とレナは交代に謝りながら2人の姿を見てクスクスと笑っていた。


店を出ると夜十一時を過ぎていた。ナオは園川にもたれながらよろよろと歩いていた。僕もレナもかなり上機嫌だった。

「俺たちは帰るけど、どうするんだ?オマエら」と園川が言った。

「僕は初台だからタクシーで帰るけど。レナちゃんはどこ?」と僕は訊いた。

「はたがや」とコンビにで買ったアイスをかじりながら言った。「食べる?」

「ありがと」と言って僕はかじりついた。「タクシーで一緒に帰ろう。方向一緒だよね」

「オーケー」とレナ

「じゃあな、お休み」と片手を上げて園川は言った。ナオが「バイバーイ。良いお年を」と叫んだ。

レナは大笑いして「あと362日あるわよ」と叫び返した。

「おい、ちゃんと歩け。ナオ」と言いながら園川とナオは消えて行った。遠くから「ライク・ア・ローリング・ストーンズ!」という園川の叫び声が轟いていた。

「ボブ・ディランね、そう、人生は転がる石ころみたい」と呟く様にレナが言った。僕は微笑んだ。

僕らはタクシーを捕まえて乗り込んだ。彼女は「気持ちわるい」と言いながらも必死で喋り続けていた。

「最近はどんな音楽聴いているんですか?」と訊いたので「最近はね、黒人音楽ばっかりだよ。」と答えた。

「チャック・レイニー」とレナは言った。

「最高のベーシストだね」

彼女は喫茶店で働きながら音楽をやっているのだという。歳は二六歳で「今のバンドはとても仲良いし、音楽性も合っているから凄く楽しい」と言った。「園川はとてもいい奴だよ」と僕が言うと、「うん」と頷いた。「でも、このバンド続けたいけど、あの二人が別れたらやっぱり解散なのかな?」とぼやいた。「まあね、普通はね」と僕は答えた。次第にレナの口数が減り、頭を窓にもたれたままじっと外を眺めていた。車の運転がやけに荒かった。甲州街道に入る頃にはレナは俯いたまま動かなくなった。僕が「大丈夫?」と訊いても微かに頭を振るだけだった。「気持ち悪い」と消える様な声を漏らし、僕は彼女の背中をさすった。あれだけ飲んでこんな揺れる車に乗れば気分が悪くなるのは当たり前じゃないか、と思った。「この子、具合が悪いんで、もっとゆっくり、静かに走ってもらえませんか?」と運転手に言った。時折入り込む光は彼女の横顔を青白く照らしていた。「もう少しだから」と声を掛けて背中を摩り続けた。

タクシーが部屋の近くまで差し掛かった時には彼女は極限状態に達していた。時折、辛そうな声が不規則に聞こえ、その様子を心配そうに運転手はミラー越しにちらちらと観察していた。

車が停まっても彼女は固まったままだった。僕が声を掛けても反応がない。そして「もうダメ、ヤバイ」という声が一瞬聞こえたかと思うとレナは素早く車を飛び降り、ガードレールの向うで吐きはじめた。「どうします?」と運転手が訊いたので「いや、このまま彼女を送ってもらおうとしたんですよ」と答え、しばらく二人で外のレナの様子を伺っていた。レナは歩道にしゃがみ込んだままで、運転手が何か言おうとしたので結局清算をした。僕は溜息をついて空を見上げた。これではさなえの時と同じじゃないか。

レナはフラフラと立ち上がりガードレールに座っていた。「どう、大丈夫?」と訊いても首を振るだけだった。「トイレ」

「トイレ?」

彼女は暗闇で灯かりを探す様な動作でトイレに滑り込み、十分程出てこなかった。僕はテーブルの上で煙草をふかしながらアイスティーを飲んで待っていた。

トイレから出た彼女はけろっとした顔で呆然と立ち尽くし、辺りをきょろきょろと見回していた。

「同棲してるんですか?」と鞄からタオルを取り出して口を拭きながら言った。

「妹だよ」と答えた。

「ふーん。で、妹さんは?」

「実家に帰ってる」

「そう」

彼女は「すみません」と改まって言い、僕の様子をぼんやりと見つめていた。

「もう、大丈夫そうだね。帰る?それともジュースでも出そうか?」

少しばかり考えてから答えた。「なんか冷たいものが飲みたいです」

彼女にもアイスティーを出してそれを彼女はごくごくと一気に飲み干した。

テーブルに端に積んであったさなえの雑誌の表紙を眺めながら言った。「妹さんは幾つですか?」

「二四歳だよ。」と短く言った。「そうですか」とどうでもいいような声で彼女は言った。

彼女はテーブルに肩肘をつけながら、もう一つの手はこめかみを押えていた。

「大丈夫?」と訊くと「なんとなく」と言って、スウェードのジャケットを脱ぎ出した。

「さっき吐いてすっきりしちゃいました。」

「そう、そろそろ行く?」と立ち上がって言った。

彼女は僕を見上げたまま舌を出して言った。「ええ、ですけどタクシーだと凄いかかっちゃいます。お金」

驚いて訊いた。「幡ヶ谷でしょう?」

「いえ、鳩ケ谷です」

僕は座りなおして溜息をついてもう一度訊いた。「はとがや?埼玉の」

彼女は頷いた。「ちょっと待ってよ。さっき幡ヶ谷って言って、方向一緒だからタクシーで帰ろうって言ったよね?それでオーケーって言ったから」

「いいました?」首を傾げて言った。「でも、酔ってたからあんまり覚えていないんです」

「参ったねえ」と首の後ろで手を組んで言った。「参りましたねえ」と彼女も首の後ろで手を組んで言った。時計は既に12時だった。


結局、僕らはテーブルに向かい合いながら冷蔵庫の中のビールを全て飲み干してしまったので、焼酎をオレンジジュースで割ることにした。

バイト先の喫茶店によく来る嫌な客の話、学生時代の男友達が最近性転換手術をした話、ギターをやりたかったが不器用なのでベースにした事、園川とナオがスタジオでHをした時の話。

「えっ?スタジオでやったの?」

「そうなのよ」と赤い顔で言った。「あの人達ね、私達が来る二時間前からスタジオとってたのよ。名目上は新曲のデモの歌入れだけどね。私すぐ分った。ピンと来たのよ」

「どうして」

「なんとなく。女の勘。でね、あとでナオにさんに問いただしたら、そう、って認めた。」

「へえ、スタジオでね。でもカメラとかあるんじゃない?」

「いいや、そこは無いのよ。なんかね、凄く興奮するみたい。音は絶対漏れないでしょう?それにね、アレやってる最中にその声をマイクで拾うんだって。喘ぎ声が部屋中に大音量で響き渡って凄く興奮するんだって。ナオさんてエムっぽいからね」

「ふーん、凄いね」

「多分ね、あの人達、マイクとかアソコに突っこんじゃうのよ、きっと。ドラムスティックとか」

「あり得るね。園川だったら」

「でしょう。いい人だけど、そういう方面ではきっとかなり危ない人よ」とつまみのポッキーをぽりぽり齧りながら言った。「でね、ナオさんに言ったの。マイクは駄目よ。感電するからって。そいだら笑ってたけど」

「確かに」と僕もポッキーを齧りながら言った。


「ねえ、鏑木さんのCD見せて」

「いいよ」と答えた。「あっちの部屋」

僕と彼女はおぼつかない足取りで奥の部屋に行き、彼女は僕のCDラックを見て歓喜の声を上げた。これとこれ貸して、あとこれ聴きたい、と言ったので、ルー・リードの『トランスフォーマー』をかけた。「ワイルドサイドを歩け」のベースが最高なの、と独り言の様に言って、僕の存在を無視する様に聴き入っていた。僕は煙草をふかしながら彼女が貸して欲しいと言ったCDジャケットをぼんやりと眺めていた。こんなCDがある事すら忘れかけていた。テレヴィションの『マーキー・ムーン』とパティ・スミスの『ホーセス』だった。もう何年も聴いていない。

曲が終るとレナはCDを一曲目に戻し、僕の煙草をとろんとした目で眺めていた。僕が煙草を手渡すと思い切り吸い込んで壁に向かって吐いた。そして半分残った煙草を灰皿でもみ消して囁く様に言った。「ねえ、私のおウチはね、本当は幡ヶ谷なの」

「知ってる」と僕はしばらくして言った。「確信犯」

「そう、カクシンハン」とうっとりした声で言って僕の胸元に顔を埋めた。

頭の中がアルコールでぐにゃぐにゃと溶解しているみたいだった。レナと舌を絡ませると色んな酒の味がした。柔らかな生肉の様な耳たぶにキスをし、滑らかなで柔らかい首筋を噛んだ、さなえの事が一瞬頭によぎった。思わず僕が体から離れると、彼女は感じの良い微笑みを浮かべて真っ直ぐに僕の顔を見つめていた。そしてレナの言った「人生は転がる石ころみたい」という言葉を思い出した。さなえとレナは対極な人間だった。さなえは濁流の中で翻弄され続ける川底の石であり、レナは流れの中で転がることを楽しんでいる感じだった。レナは首をほんの少し傾げて、秘密を打ち明ける様な声で耳元で言った。「ねえ、寝正月よ。寝、正月」

彼女のその言葉は僕の心の最も柔らかい部分をそっと撫で、硬い膜を破り、奥深くまで潜り込んでいった。僕の性的衝動は膨張し、覚醒して、割れて弾け飛んでしまっていた。気付くと灯かりを消して裸になり、その夜、僕らは何度も交わった。



目覚めるとすやすやと眠ったレナの寝息が微かに鼻腔を震わせていた。ベッドの中で丸まって時折ごそごそとその白い足を動かした。時計を見ると既に昼過ぎで、僕らは一体何時に寝たのだろうと考えても全く思い出せなかった。日差しが真っ直ぐに部屋に差し込み、レナの首筋を細く照らしていた。起き上がるのもニ日酔いで頭が重く、脳みそが全て鉛に変わってしまった気分だった。僕は窓を少し開け煙草を吸い、音楽をかけた。昨日、レナと聴いた「トランスフォーマー」だった。しばらくすると窓の隙間から入り込んだ冷気と音楽のせいで、レナは高い唸り声を上げて起き上がった。

「おはよう」と言っても、僕の顔を目を細めて見つめていた。頭を掻きながら部屋の隅々までを仔細に眺めていた。小さく深呼吸をして僕の肩にひんやりとした手を乗せて言った。

「おはよう」抑揚のない声だった。言葉の意味を忘れ、僕の言った言葉をオウムの様にそのまま繰り返しているみたいだった。

彼女は僕の肩にもたれかかって細っそりとしたつま先でリズムをとっていた。僕の顔を覗き込んでそっと僕の煙草を奪い天井に向かって煙を吐くと、首筋の血管が青々と浮かび上がっていた。「おトイレ」と平板な声で呟いて煙草を僕の口に戻し、そのまま下着のままで立ち上がり、白くて弱々しい背中に陽光を映しながら歩いていった。

少ししてからだった。誰かが玄関のドアを開ける音がした。その瞬間、鉛の様な脳みそに突然血液が激しく流れ出し、血管が異常に膨張していく感覚に襲われた。何故か立ち上がる事が出来なかった。体が硬いベッドにそのまま同化してしまったみたいだった。今日は一月四日、さなえではないのは確かだ。一体誰だ?大家さんか?いや、あの男達か?それは僕ら二人以外の不確かで不気味な人の気配だった。足音が忍び寄って次第に大きくなった。そして僕は顔を上げた。

2004-07-26 地平の舟  (ァ

「静岡から帰った次の日です。彼女は朝体調が悪かったので会社を休みました。その日はわたくしは夜勤でしたので昼間一緒に病院に行きました。診断の結果は妊娠によるちょっとしたストレスと風邪でした。大したことはなく薬を貰って彼女は家に着くと休みました。夕方、わたくしが会社へ行く時に横になった彼女に声を掛けると彼女は答えました。

『大丈夫よ。だいぶ楽になったわ。あとで食事をとって、なんか夜風に当たりたいから散歩でもしてくるわ。』

『あんまり無理しないように。なるべく横になっていた方がいいよ。』

『うん』

『行ってくるね。』

『行ってらっしゃい』



日が明けて製造が朝五時に終わり休憩室で休んでました。そこへ上司が血相を変えて飛びこんで来ました。

『今すぐ、警察に行くんだ』

『警察?』

『とりあえず、今電話が入った。奥さんの事だよ。すぐ来てくれと。』

『何かあったんですか?』

『分らない。とりあえず奥さんが大変だから、君にすぐ警察に来て欲しいと』

タクシーで警察へ着くまでに色んな事が頭をよぎりました。体の事なら病院から電話があるはずだろうし、何故警察なのだろうかと。散歩していてひったくりにあったとか、最悪泥棒に入られたとか。逆に彼女が何か悪いことをしてしまったかなど。わたくしは考えるのをやめて目を閉じました。その時、瞬きする位のほんの一瞬でした。ある光景が見えたのです。前の日に行った漁港のあるあの町の砂浜です。裾は上げて波打際で遊んでいるのはわたくしではなく彼女の方でした。わたくしは離れた場所から彼女の様子を眺めていました。わたくしが手を振っても、声を掛けても一切気付かないのか、彼女は振りかえようともせず必死に波打ち際で遊んでいました。

警察に着いて担当の刑事みたいな男が言ったんです。わたくしの顔を正面に見据えてから小さく息を吸ってゆっくりと言いました。男の首筋は呼吸のせいで微かに震えていました。

『奥さんが今日の未明に亡くなられました』

まるで世界中の川が流れることをやめてしまった様な静寂でした。そしてわたくしは笑いました。なぜか笑ったんです。一体この男は何を言っているんだと。男はもう一度言いました。

『あなたの奥さんが今日の未明に亡くなられました。』

口元ががピクピクと痙攣して何を言おうにも言葉が出ませんでした。男はもう一度言いました。

『自殺です。』

力なくその場で座りこもうとしたわたくしを男は肩を抱いてすくい上げました。言葉そのものの意味は理解出来ましたが、それが事実として一体何を意味しているのかは分りませんでした。男の言葉がわたくしに向けられた言葉であることさえも理解出来ませんでした。

男は言いました。

『あなたの奥さん、つまり松田優子さんが午前一時にビルの十階から飛び降りて、病院に運ばれたんですが、内臓破裂、脳挫傷で先ほど病院で亡くなりました。遺体はここに安置されています。遺書はありませんでしたが現場検証の結果自殺の可能性が強いのではと。』

男はニュースの原稿を読むみたいに抑揚のない声で淡々と言いました。怒りさえ覚えました。男に掴みかかるにも、詰め寄るにも体がバラバラになった感じで動かないのです。用意されたパイプ椅子に座り、ぼんやりと壁に掛かった時計の針を眺めていました。時計の針が少しづつ右へ傾いていくうちに段々と事実が・本当に・起こったこと・として入り込んで来て、同時に声を出して泣き始めました。泣く事以外何も出来なかったんです。

そしてもう一つの事実に気付きました。お腹の子供も同時に失ったんです。なぜ、彼女は死ななければいけなかったのか、わたくしには思い当たることは何一つありませんでした。確かに妊娠中に多少のストレスでナーバスになっていましたが、死を選ぶ程彼女を苦しめたものが何であったのか全く見当がつかなかったのです。刑事らしい男は、遺体は見ないほうが良い。損傷が激しいから、と言いました。わたくしは静かに頷きました。

そして、形式だけの取り調べが始まりました。何を訊かれて何を答えたかは思い出せません。『思いあたる節は?』『いえ、ありません』そんな感じです。十分程すると別の男が入ってきて目の前の男を呼びつけると、二人で部屋を出て行きました。しばらくして戻って来ると、さっきの男は座るなり言いました。

『とても言いにくい事です』そして何故か男は煙草を吸うかと訊いてきました。『僕は煙草は吸わない』と答えると、男は話始めました。『とりあえず、冷静に聞いて欲しいのです。しっかりと気を持って聞いて頂きたいのです』

わたくしは頷きました。

『今分ったのですが、奥さんの遺体から男性の体液が発見されたんです。つまり精子です』

『精子?』

全身の神経が音を立てて千切れていく感覚が襲いました。

『奥さんは死ぬ1時間から2時間前に男性と性交渉をしていたのです。』

わたくしが何を言おうとしているのか分ったのでしょう。男は続けて話し始めました。

『あなたが想像していることではありません。つまり、つまり飛び降りた時に出来た衣服と体の損傷とは別に、人工的に出来た衣服と体の損傷があるのです。その、言いにくいんですが』

わたくしはもうやめてくれと叫びそうになりました。視界が乱れて息苦しさを感じました。何もかもが、何が起きたのか、その瞬間に分りました。しかし男は淡々と言いました。

『乱暴されたんです。乱暴されたショックから衝動的に身を投げたのかと』


目を覚ますと警察内のどこかの部屋でベッドに横たわって寝ていました。椅子と机とベッドしかないがらんとした灰色の冷たい部屋でした。ひび割れた天井を睨みながらその時何を考えていたのでしょうか。多分、二人の命を失った絶望と、彼女を死に追いやった知らない男への怒りと憎しみでした。その後の警察の話では、殺人罪ではなくて傷害罪で衣服についた男の指紋を手掛かりに捜査をしているとのことでした。しかし、彼女の死そのものは自殺として処理されました。彼女をレイプした男性は未だ捕まっていません。

彼女の友人や会社の人間からは、その自殺の原因はわたくしにあるのだと、声には出しませんでしたがはっきりとそう思っている様でした。妊娠している妻の悩みに何故気付かなかったのかと。特に彼女の両親は、はっきりそう言って、わたくしを責めました。彼女がレイプされた事実など誰にも言えるはずがありませんでした。

妻の自殺の後すぐに会社を辞めました。妻も同じ会社の人間でしたし、何食わぬ顔で仕事を続けることなど許されませんでした。当然です。

 

それから一ヶ月程、わたくしは部屋のカーテンを締め切り、薄暗い中で過ごしていました。

食事は買い込んだ食材で何か作って食べました。トイレと食事以外はどんな時もベッドに横たわっていました。テレビも映画も観ず、本も読みませんでした。一日中、ぼんやりとして過ごしました。天井に向かって何時間もじゃべり続けた事もあります。また、夢の中でさんざん泣いて、起きたと同時に怒りと憎しみでシーツを頭から被ったまま喉が焼け付く位までに言葉ではなくただの音の様な声で叫んだこともあります。そうした時間の中でわたくしを次第に蝕んでいったものは恐怖でした。その恐怖とは、感情や意思の中に憎しみと悲しみしか存在しないことです。それ以外に何も存在しないんです。朝起きて鳥が囁いて爽やかな気持ちになることも、初夏の新緑に穏やかな気持になることも、あらゆるものが悲しみと憎しみに押しつぶされて消えてなくなってしまったことの恐怖なんです。わたくしの中に存在しているものは恐怖、それだけなんです。

人生のあらゆる場面を思い出しました。しかし、全てが全く別の人間のエピソードに思えたんです。いや、違います。彼女の死を境にして、わたくし自身がそれまでの自分とは全く別の人間になってしまったという事なんです。

 

納骨の日に、遺骨と一緒にビデオの『ティファニーで朝食を』と、妻がお腹の子供に読み聞かせていた絵本を入れました。無意識のうちにわたくしは彼女と歌った童謡を独り言の様に歌っていました。歌詞を間違えたり忘れてしまうと何度も何度も最初から歌い直しました。

そしてそれは起こりました。線香に火をつけ、煙がまっすぐに空へ吸い上げられていきます。やがてその煙が三つに分かれました。一番太いのはそのまま空に伸びています。しかし、分れた二つの方は細い糸の様な煙でした。それは両方ともわたくしの背の高さ位まで昇りつめると急に折れ曲がってわたくしのほうへ向かって流れ出しました。それはわたくしの体を包みました。漂いながら浮かんでいました。体の周りで旋回しながら二つの煙は混ざって一つの塊となり、どこにも流れ去る事なくふっと消えていきました。その場で消えてしまったのですが、それはわたくしの中に潜り込んでいった為に消えてしまったのではないかと、確信に似た結論が頭の中に浮かんできたのです。

彼女と小さな命の喪失をきっかけにわたくしの中枢までもを侵食した恐怖はそれを期に次第に薄れていきました。悲しみは薄れることはありませんでしたが、彼女をレイプした男に対する怒りだけは、その怒りを持ち続ける事の無意味さと同時に、それによって損なわれてしまったわたくしの核なるものを取り戻すことの必要性を感じたんです。

彼女がわたくしに何度も言った言葉。『まず初めに思ったことをするのよ』そして『人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの』わたくしは立ち上がらなくてはならない。歩き出さなければならない。生き続けなければならない。それがその時、まず初めに思い、感じたことだったのです。

 

わたくしはタクシーの運転手になりました。お客さんはいるにしても、基本的に車内の孤独な空間はそれ程嫌ではありませんでした。

もう一つある事に気付きました。それは納骨の日に起きた奇妙な現象から、自分の中にある特殊な直感力が備わった事です。それを確信する出来事が起きたのです。

ある日の夕方、新宿の高層ビル群辺りで停車しながら細い雨がアスファルトに染み込んでいくのをなんとなく眺めていると、傘も刺さずに走り寄ってくる四十代の男性が視界に入って来ました。

その男は客で、高円寺まで、と言いました。電車はまだある時間だし、新宿から電車一本の場所ですから少々不思議な感じがしたのですが、とりあえず車を走らせました。男は綿のチノパンに薄水色のカラーシャツを着ていて着こなしは綺麗にまとまっていました。顔は少しばかり日に焼けていて掘りが深く、鼻筋は通っていて目は鋭い中に優しさが滲んでいるそんな男でした。ミラー越しに彼の姿が入っていたのでチラチラと見ていましたが、男はじっと腕を組んで外を眺めていました。時折小さな溜息が聞こえてくるだけでわたくし達は会話すらしませんでした。青梅街道をひたすら走っているうちにミラーに映る彼がとても気になりだし、わたくし自身が異常に落ち着きを無くしているのです。ハンドルを握る手は汗ばんで喉が渇きました。その時、ミラーに映る彼はその時の彼ではありませんでした。思わず息を呑み唇を噛んでいました。わたくしの見たものは、彼の心だったのです。彼の心の奥底が映像となって見えてきました。はっきりとした映像ではありません。輪郭も形状も色も奥行きもぼやけていました。映像にならない映像です。私が見たもの、いや感じたものは、彼が何かを創りだす為に暗い静かな空間の中で一人頭を抱え、その彼の頭の中には眩しくて明るい世界と音に満ちた混沌とした世界があったのです。しかし、その世界に彼は今いない。そう分ったのです。たった数秒間の事でした。現実の彼は相変わらず無言のまま外を眺めていました。ふと気付いたのです。その男に見覚えがありました。彼は畑山恭介という歌手だったのです。二十年くらい前に『川沿いの灯かり』という歌謡曲がNO.1ヒットしたのを覚えています。なぜなら、わたくしはその曲を中学生の時によく聴いていましたし、とても好きな曲だったのです。当時の面影からすれば皺が増え、頭髪は若干後退していましたが、確かに畑山恭介本人でした。

わたくしが先ほど見た映像の意味が分りました。それは彼がこの二十年程ヒット曲にも恵まれず、自身の才能に自問自答しながら曲を書いている姿です。彼の頭にあった世界は過去の彼の栄光だったのです。灯かりや音は満杯のコンサートホールでした。

わたくしは思わず声を掛けました。畑山恭介さんですよね?『川沿いの灯かり』はとても好きでした、と。

彼は驚いて座り直して表情を緩めて話てきました。よく分ったねえ。嬉しいよ。あの曲を知っている人は今あんまりいないからさあ、と。そんな話がしばらく続くと、わたくしが先ほど見た映像の彼の心の姿と同じ内容が彼の実際の言葉として溢れてきました。最近、曲が売れないこと、曲を書いても自信が沸かない事、売れようとする為に今の流行の音楽に媚びたり、挙句の果てには盗作すらした事があること。過去の栄光に自身が引きずられて抜け出す事ができない事。僕は何故こんな話をしているのだろう、でも運転手さんにはしゃべってしまいたくなる、いや、しゃべらなければいけない様な気がする。だから何故かは分らないけど、言葉が止まらないんだ、と。

彼が一通りしゃべり終ると車内は再びしんとした空気に包まれていました。車は高円寺の傍まで来ていました。彼は自分の話た事について、次はわたくしの言葉を待ち望んでいる様でした。だから、わたくしは一言、二言彼に何かを言いました。不思議なものでその言葉だけは全く覚えていないのです。しかし、彼は車を降りる際に『ありがとう。本当にありがとう。こんな素晴らしい時間を過ごしたのはここ数年なかった事だ。それは運転手さんに会えて、そして話せて、何もかもが漂白された気分だ』と言い、彼はわたくしに手を差し伸べてがっちりと握手をして別れました。

半年後、わたくしのタクシー会社にわたくし宛てで畑山恭介から一枚のCDが届きました。なぜ会社とわたくしの名前が分ったのかは分りません。そして『虹色の空』という曲はその後、ベスト5に入るヒット曲になりました。


相手の心の奥底がミラー越しに見えるというのは一種の直感力です。例えば相手の心を忠実に模写した一枚の絵があるとします。スカイブルーのテーブルに黄色い花瓶が乗っていて、そこに赤いバラが十本刺さっているとします。私の直感力で見えるもの、正確に言うと感じるものは、テーブルと花瓶とバラがある絵ではなくて、スカイブルーと黄色と赤い絵の具が使えわれた絵が見えるのです。わたくしが見えるものははっきりとした絵そのものではなくて、色です。心の色なんです。意識を集中すればそれらの絵がどの様な輪郭を持っているのかぼんやりと見えてきます。畑山恭介の時は、その色とぼんやりとした輪郭から、今度はわたくし自身の思考と想像力でより具体的に形にしていったのだと思います。しかしあの時わたくしが畑山恭介という歌手だと気付かなかったら、色や輪郭が何を意味するのかは分らなかったでしょう。

それからです。車内という狭い空間の中で相手の人間の存在をしっかりと意識してミラーを通して見ていると人間の心の色と輪郭が見える様になりました。更に想像力と思考を研ぎ澄ますと、色と輪郭は段々とその構図を明らかにしていきます。ただ、そういう映像が見えるのは全員ではありません。だいたい十人に一人位です。その人達に共通するのは、自分の心の姿を実は他人に知ってもらいたい。聞いてもらいたいという想いが強い人達でした。全員が何かをきっかけに話し出し、最後には決して覚えていないわたくしの幾つかの言葉に感謝し、喜び、車を降りていきました。

患者を死なせてしまった医者、親の借金で風俗で働く若い女性、銀座スナックのママ、スランプに落ちた野球選手、愛情問題で苦しむ人間や、仕事に苦しむ人間が沢山いました。生きる事そのものに悩んでいる人間もいました。皆、乗車して数分すると堰きを切った様に話し始め、途中で泣く人さえもいました。その間、わたくしは時折ミラーを見ながら黙って聞いているだけです。話し終らない時は目的地に着いても降りようとせず、辺りをぐるぐる周り、最後に料金とは別にチップをくれる人さえいました。わたくしを名指しで指名してくれるお客もつきました。どこにも行く宛てがないのに、呼び出されて皇居の周りをぐるぐると何周も回った事さえあります。多くの人が畑山恭介と同様、救われた、立ち直ったと手紙をよこしたり、直接、会社に挨拶に来る者もいました。中には多額のお金を受けとって欲しいと言う者もいました。この事は次第に噂になり、『あるタクシー運転手の車内カウンセリング』という名で雑誌やテレビの取材依頼も来ました。多額のお礼や取材依頼はきっぱりお断りしました。慎ましくて、あまり広い世界で生きたくないわたくしにとってはあまり望ましくない事態でした。しかし会社の方は喜びましたし、給料も驚く程良くなりました。駅前で客を待つという事は一切無くなりました。全てが無線で入ってくる指名だったのです。

あの不思議な能力は多分、霊とかオカルトとか言うものではないのは事実です。単純に直感力とか想像力の類だと思います。そして面白い事に、あの様な能力はタクシーという限定された空間の中でしか使えないのです。一歩外を出るとどんなに意識を集中しても何の映像も見えてきません。わたくしが最後にお客さんに言う幾つかの言葉に、何故あれだけ人を安心させ、落ち着かせて、勇気つけられるのか、そして必ず感謝される様な反応があるのか分りません。なぜなら、これだけ多くのお客さんに会っていながら、わたくしが発した言葉のどれ一つも覚えていないのですから。

ただ、この様な直感力が備わったのはいつからだろうと考えれば考える程、それは多分、妻の納骨の時に見たあの不思議な現象からだったのだと思います。

 

そんな風にしてあっという間に四年が過ぎました。三五歳になっていました。再婚も恋愛も諦めました。

そして三ヶ月前、わたくしは、かぶらぎさんのお知り合いの滝田さなえさんと出会ったのです。

ある日の夕方、指名を受けたお客さんを赤坂のホテルの前に降ろしてから六本木方面に向かっている途中で彼女を乗せました。彼女は『銀座まで』と言いました。

彼女は膝の上でしっかり手を組んで座ってましたが、頭はうつむき加減でどこか寂しげでした。窓の外を見る事もなく、組んだ手の指を膝の上で動かして退屈しのぎで遊んでいるだけでした。わたくし達の間には会話もありませんでした。

次第に、数年前の畑山恭介と出会った時に感じたものと同じ落ち着きのなさがわたくしを襲いました。しかしそれは決定的に違っていました。手は汗ばんで、冷や汗が全身から噴出し、呼吸が乱れ、町の景色はぐにゃぐにゃと歪みだしました。全身が心臓になったのではないかと思う位にわたくしの体は激しい鼓動と震えに見舞われ、喉の奥底からは手が何本も突き出してきて外へ這い出てくるのではないかと思う位に口を大きくばっくりと開け、喉は痺れ、息苦しさの中に声すら発することが出来ませんでした。咄嗟に車を脇へ停めると、彼女は『大丈夫ですか?』と驚いて訊いてきたのですが答える事すら出来ませんでした。冷や汗は大量に頬を伝って膝の上にポタポタと流れ落ちていました。彼女はわたくしを覗きこんでもう一度『大丈夫ですか?』と訊いてきました。その声を聞いたまさにその時です。ミラーではなく目の前のフロントガラスにそれは映し出されたのです。まるで映画のスクリーンの様でした。

暗い人気の無い公園のトイレの薄汚れた白いタイルの床に彼女が仰向けに寝ているのです。あちこちの壁に落書きがあって、消えそうな蛍光灯に蛾が何匹も止まっていました。彼女は唇を切り血を流していました。服は破かれ、ブラジャーは首の位置までたくし上げられていました。口にはタオルの様なものが詰られ、青白い頬はピクピクと震えていました。体をこわばらせて目はどこでもない所の一点を見つめ、というよりその位置で止まっているのです。黒目の部分でさえ色は鈍くなり、油紙なんかをぺたりと貼り付けた様な色をしていました。両腕は床にこびり付いたかの様にだらんとしていて、何本かの指先が時折動いているだけです。

一人の若い男が彼女の上に覆い被さり腰を動かしています。男の後姿しか見えません。それはただ真っ黒く塗りつぶした影の様でした。着ているものも髪型も分りません。男の肩越しに見える彼女の表情は生気を失っていました。一切の色が失われていました。二人の体の揺れる音が規則的に冷たいタイルの上に響いていました。しばらくしてその音が消えると、もう一人の男がやって来て再び彼女に覆い被さりました。規則的な不気味な音が再び聞こえ始めました。彼女の目は固まったままで、瞬きすらしません。涙が筋の様に流れ出していました。口に突っ込まれたタオルが自然に落ると鈍い紫色をした唇がひくひくと震えだし、上下の歯が小刻みにぶつかりカタカタを音を立て始めました。その音は次第に早くなりましたが、男達の笑い声でかき消されてしまいました。

男が腰を止めると再び最初の男が覆い被さりました。それから同じ事が何度もくりかえされる間、彼女の顔全体が腐った豆腐の様な色に変わっていきました。声も音も色もどこかへ消えてなくなっていました。最後の最後にもう一人、三人目の男が現われました。その男が現われた時、それはまさに一切の暴力が硬直した瞬間でした。彼は立ったまま彼女を見下ろしていました。彼自身が彼女を犯す事はしませんでしたが、そこには静の暴力が飽和していました。彼女の両目はピクリとも動かず、瞬きもせず、視力がゆっくりと奪い取られて最後には目くらになってしまったんじゃないかとさえ思いました。その男の嘲笑が彼女の声のない叫び声をどこかへ吹き飛ばしていました。

ハンドルに突っ伏してフロントガラスに映るその映像を見たのは実際には数秒足らずだったと思います。やがてそこはいつもの町の風景に戻っていました。車の音、人の足音が聞こえ、色鮮やかな町のネオンが目に入ってきました。呼吸の震えも冷や汗も収まり、置いてあったコーヒーを一口飲むと幾分落ち着きが戻ってきました。

ミラー越しの彼女は心配そうに覗き込んでいたので、すみません。ちょっと具合が悪かったものですから。もう大丈夫です。と笑って言って再び車を走らせました。

わたくしの見たものは彼女の心そのものであったと同時に、それが実際に起こったことであると確信しました。また、そんな風にはっきりとそれもフロントガラスに見えたのは初めてだったのです。ミラー越しの彼女は相変わらず俯き加減にじっと座っていました。

しばらくすると車内に小さくすすり泣く声が聞こえてきました。そして突然彼女は両方の手の平で顔を被い大声で泣き始めました。わたくしが、大丈夫ですか?と声を掛けても無駄でした。銀座へ着くまでの間、彼女は肩を大きく震わせていました。目的地へ着いても彼女は泣き続けたまま降りようとしませんでした。わたくしはいつもの様に何か言ったのだと思います。そうすると彼女は泣きやみ、鼻をすすったままで言いました。『ねえ、聞いてくださるかしら。とりあえずその辺りを走って下さい』わたくしは無言のまま車を再び発進させました。そして彼女は、わたくしが見た一部始終と全く同じ事を静かに話し始めたのです。

わたくしが彼女の話を聞いている間に思い出した事は妻の事でした。先ほど見たものが、それが妻のものである錯覚さえ覚えました。彼女もあの様にレイプされたのでないか。その間、妻は何を思い、何を考え、何を叫ぼうとしたのか。赤ん坊のいる体内に知らない男が入り込んだ時、そして男が射精した時に彼女は何を見たのでしょうか。乾いた灯かりに群がる何匹もの蛾だったのでしょうか。何を聞いたのでしょうか。刃物の様に響く男の笑い声だったのでしょうか。ざらざらとした硬い床の冷たい感触に何を感じたのでしょうか。痙攣する唇はどんな声を発したかったのでしょうか。お腹の子供に歌って聞かせていたあの童謡だったのでしょうか。もう涙は出ませんでした。泣くことはやめました。わたくしはハンドルをしっかり握り締め、夜の街中をあてもなく走り続けていました。」


彼は薄くなったオレンジジュースをごくごくと飲んで、頭を抱えて動かなくなった。

僕は、彼の言うことはなんとなく信じる事が出来た。嘘をつく必要もないし、作り話にしてはあまりにも肉迫していた。何よりも目の前の男の人生に同情し、男を包んでいる憂いに満ちた嵐の様なものが彼という人間を果てしなく変質させてしまったというのは明らかだった。髪を薄くさせ、弱々しい怯えを備えた笑い声を発し、常に何かを拒絶する見えない壁を持ち、浅い眠りの様な魂の輪郭は、彼の通過したあらゆる事象の結晶だったのだ。彼の言う直感力、特質な能力についてもそれが真実であるという漠然とした確信があった。さなえがレイプされた状況は、僕が聞いたものと同じだったし、数年前に畑山恭介という歌手が見事な復活劇を果たしてブラウン管を賑わせていたのは明白な事実だった。

2004-07-25 地平の舟  (Α

そこに立ちすくんでいたのはさなえだった。

さなえの表情には何もなかった。どんな感情も見当たらなかった。僕の顔の一点を見下ろしながら僕の言葉を待っている様だった。煙草の火種が落ちて焦げ臭い匂いが鼻をついた。その時、さなえの背後に立っていたレナが声を出した。「妹さん?」僕と目の前のさなえを交互に見ていた。僕の体の中でゆっくりと何かが固まっていく感じがした。それは喉から口へと這い上がって行った。口は別の生き物の様に顎の筋肉を使って収縮し、言葉となった。

「うん」

さなえはそのまま何も言わず背中を向けて玄関の方へ歩いていった。乾いた足音が不気味に響いていた。そして扉が閉まった。硬くて冷酷な金属音だった。

レナは「ごめんなさい」と俯いたまま着替え始めた。二人を支配する静寂の中では音楽すら耳に入ってこなかった。

鞄を担ぎゆっくりと玄関へ向かい、立ち止まって溜息をついたから言った。

「嘘つき」

扉はバタンと閉まりレナの足音が消えるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。奥の部屋では「パーフェクト・デイ」が流れていた。全くだ、と僕は思った。


その日、さなえは帰って来なかった。携帯は留守電だった。残すメッセージの言葉すら思い浮ばなかった。あの時のさなえの表情は、あの日、公園で見たものと同じだった。何一つ違っていなかった。僕はぼんやりとさなえの帰りを待った。音楽を聴くことも、本を読むこともしなかった。そんな気分にはなれなかった。

ダイニングに吊るされた彼女のスーツ、テーブルの雑誌、CD、CDウォークマン、プラスティックケースの中の彼女の下着や衣服、洗面所のガラスの下に貼られたプリクラ、CDデッキの上に置かれた彼女が買ってきた小さなクリスマスツリーの置物、歯ブラシ、クシ、化粧水、ハートの形をした彼女の枕。彼女の輪郭の断片を眺めながら僕は部屋の中をうろうろと歩き回り、段々と致命的に、そして決定的に何かが損なわれていく様子の前にただただなす術もなく、その状況の渦の中心に引き寄せられていった。

次の日、仕事初めの六日の朝もさなえは戻って来なかった。

昼休みにさなえの会社に電話をすると、いつもの女の上司がでて「実は滝田さん、今日会社に来ていないんですよ。連絡もなくて心配しているんです」と言った。「お兄さんなら何か心当たりありませんか?」と逆に訊いてきたので「いや、分りません。僕も心配しているんです」と答えた。「何かあったら連絡します。もし会社に連絡があったり、出社したら連絡下さいとお伝えください」と言い、「分りました」とその女は言って電話を切った。

仕事から帰るとそれは起きた。いや、起きたのではなくて起きてしまったのだ。彼女の残した輪郭の全てが消えてしまったのである。

一切の持ち物が部屋から消えていた。テーブルの上はがらんとして、スーツもなくなっていた。洗面所のプリクラは剥がされてその部分だけが白くなっていた。クリスマスツリーも洗面道具も幾つかの化粧品も、もうそこにはなかった。僕が会社に行っている間に取りに戻って、そして出て行ったのだろう。テーブルをよく見るとひっそりと合鍵だけが置かれていた。手紙も何もなかった。その光景は彼女が僕の部屋に来る前と全く同じだった。本当に滝田さなえという女性がやって来て、そしてここに住んでいた事すら何かの記憶違いではないかという錯覚に陥った。あの公園で滝田さなえという女性と出会い、そして一緒に住み、クリスマスを祝い、出て行ってしまったという一晩に見たただの夢ではなかったのではないか。あれは確か秋だった。しかしカレンダーを見るとしっかりと年を越していて、現実的に流れて行った時間の感触をはっきりと感じた。現実に彼女は現われ、そして現実に去って行ったのだ。

彼女の電話は相変わらず留守電だった。僕は君ともう一度話がしたい。僕は謝りたい、という内容のメッセージだけを残した。しかし電話が来ることはなかった。


そして一週間が経った。さなえの会社に電話するといつもと違う人間が出て「彼女は昨日付けで退社されました」と言った。どういう事ですか?と訊くと「数日前にその旨の連絡が入り、昨日こちらに来られて事務的な手続きをされました。理由は『一身上の都合』という事だけで、私自身は詳しくは分りません」と淡々と答えた。「どちらに行ったか分りませんか?」と訊いても「その事は申しておりませんでした」と答えるだけで、僕は力なく電話を切った。

手掛かりはなかった。あとは彼女の実家が博多だという事だけだ。場所も連絡先も知らない。そして僕は仕事帰りに練馬にある彼女の部屋に向かった。部屋は既に引き払われていて、大家は「昨日の昼間に彼女と引越し業者がいらっしゃって荷物を積み込んで出て行かれました。それと、行き先については誰にも言わないでくれという事です。」と言った。多分、彼女をレイプした男性に知られたくないのだろう。そして僕にも。更に数日後には携帯が解約された。そして、一切の足取りが消滅した。

僕を支配したのは暗くて濃密な喪失感だった。彼女をレイプした男達を恨み、そして自分自身を恨んだ。僕が彼女に最終的にしてしまった事は結局はあの男達と同じだったのだ。彼女に対する同情も、愛情も、とことん無意味であり、虚構ではなかったのか、あの約束は何だったのか。しかし一番深く傷つき、最も深い哀しみの深淵にいるのは誰でもない彼女なのだ。

その日から僕は彼女を求めて町中を探し回った。あの公園は相変わらず重苦しい不気味な薄明かりに照らされていた。こんな所にいるはずがないじゃないか。と思った。そして駅前の喫茶店、スルメのいるペットショップ、彼女が『クリスマス・キャロル』を買ったあの本屋。町全体が廃車置場の様だった。この辺りの雲が全て圧縮されたみたいにどんよりと空一面を覆っていた。今、彼女のいる場所にはどんな雲があり、どんな星があり、どんな雨が降っているのだろう。そしてどんな風が彼女の体をすり抜けているのだろうか。

部屋の中でもチェット・ベイカーはその物寂しさを一層深く歌い上げ、『クリスマス・キャロル』には何も答えが見つからなかった。

時折、彼女の幻影は僕のペニスを激しく勃起させ、抑制される事のない性欲が激しく頭をもたげて僕を揺れ動かした。そんな時に僕はたまらなく哀しくなった。行き場のない性欲は僕をどこまでも根源的な孤独の淵に繋ぎとめようとしていた。自己完結型であり、一切の留意のない孤独だった。彼女とは繋がっていない、繋がっているのは彼女の映像であり記憶だけなのだ。

時間は容赦なく過ぎていった。さなえの不在を除いては特徴のない毎日だった。僕は彼女を捨て去る事など出来なかった。しかし、誰が彼女を既に捨て去ってしまったのだろうか。それはオマエじゃないかと誰かが言った。誰でもないオマエ自身じゃないか。何を言っているんだ、と。全くの矛盾性は僕を酷く苦しめた。何事も向う側からやって来て、反対側へ去って行く。残るのは錆びついた魂の欠片だけなのだ。僕と、そして彼女の。

いつまでこんな生活が続くのだろう。それは現実的で宿命的な時間の潮流だった。人々のまとった衣服は一枚一枚ゆっくりと薄皮を剥がす様に取り除かれ、反対に街路樹は緑色の葉を少しづつ身にまとっていた。暖かさを帯びた優しい風が吹き始め、季節は既に春を迎えていた。それでも空白を満たすものは何一つなかった。

                      * * * * * * *


 「松田さん、僕はよく分らないけど、あなたを信じれる気がする。ねえ、今度は色々訊きたいんだ。いいですか?」

彼は顔を上げて頷いた。「それはね、あなたの奥さんと生れづして亡くなったお子さんに単に同情しているだけではないんだ。もちろん同情しているし、とても哀しい事で、僕は怒りさえ覚える。激しい怒りを。僕がさなえという女性と過ごして彼女を通して見てきたものとそれは同じだったんだ。僕は彼女を救いたいと思った。そして松田さんも同じ様にそうしようとしている。でもね、僕は彼女を深く傷つけてしまったんだ。より深くね。ねえ、僕はどうすればいいのかな?」

「彼女からは色々聞きました。あなたとの生活の事も。わたくしが彼女と出会ったのはあなたの前から姿を消したすぐ後でした。確かにあなたは酷い事をした。はっきり言ってしまえばあなたは彼女をレイプしたんですよ。精神のレイプです」

「精神のレイプ?」

「そうです。しかしわたくしはあなたをむげに批判したりする立場も、資格もありません。あなたのも言い分もあるでしょう。でも彼女は深く傷つきました。」

僕は黙って頷いた。

「かぶらぎさん、わたくしがこうしてお話しているのは、それはわたくし自身の言葉ではないのかもしれません。それは妻の言葉であり、我が子の言葉なんです。昨日も言いました。さなえさんを救い出すんです。それがわたくしと、かぶらぎさんと、死んだ妻と子供の願いであり、進むべき道なのかもしれません」

「松田さん、変な質問かもしれない。『まず初めに思った事をするのよ』『人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの』と言い続けた奥さんは何故、死を選んでしまったんでしょうか?」

「わたくしが妻の死からずっと考えていた事はそれなんです。知らない男にレイプされた後に妻が最初に思ったことが自殺だったのかと。向かうべき所が死であったのかと。時には彼女を恨みました。憎みました。同時に自分をも恨みました。あの時、仕事ではなかったらあの様な結果を生んでいなかったであろうと。でもそれは段々と理解出来る様になりました。あの納骨の時の奇妙な経験から生れた特殊な直感力を通して、妻自身がわたくしにそれを教えてくれたんです。わたくし個人はあまりに多くの死に直面しました。両親と妻と子供だけではありません。十八年間の間にあの港では何人もの漁師達が海に飲み込まれて死にました。その度に見る火葬場の煙突の煙はわたくしをどこか遠くへ消し去っていく様な深い虚無感を帯びていました。何故そんなに死と隣合わせの仕事をしなければならないのかと、死の恐怖と対決してまでも生きなければならないのかと。わたくしが漁師をどこか軽蔑し、人を獲物でも捕らえるかの様に簡単に飲み込んでしまう海が嫌いだったのはそのせいだと思います。でも、そうさせたのは弱さだったんです。死を極力遠ざける事。それが妻と出会うまでわたくしの望んだ生き方だったのです。

しかし運転手を始めて、出会って話しを聞いた都会の人間達もまたあの漁師達と一緒で死の恐怖と対決して生きていました。直接的な死ではありません。精神の死であり、夢の死であり、理想の死であり、希望の死であり、愛の死なのです。でも感じました。あらゆる種の死の恐怖に対決しても尚、生き続ける事が実はとても素晴らしい事ではないのかと。死を遠ざける事ではなく受け入れる、しっかりと自分の根底にセットする。そして生きるのです。『まず初めに思ったことをするのよ』それはある意味では直接的に死に結びつく危険を孕んでいるのです。だからわたくし達はあれこれ考え、そこから遠ざける道を模索するのです。『人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの』と言った妻の言葉は、つまり、死を受け入れ、死をセットしても尚、死と対決して生きていく。その向うにきっと何かがあるだと思います。それは生きながら死を超えるんです。死を超えた強さです。」

続けて言った。

「しかし最も悲劇なのが、否応なしに土足で入り込んでくる死です。それは非常に暴力的で残酷で冷酷です。それはいとも簡単に一瞬のうちに首筋の動脈をスパッと切ってしまうのです。妻とさなえさんを襲ったそれはセットされていない非情な死です。海で死と格闘する漁師達を襲うあらゆる種の波でもありません。それは突如、辺り一面にガソリンを撒かれ、一本のマッチによって一瞬のうちに海面を焼け尽くす炎なのです。岸へ逃れる暇もなく海中に潜る暇もなく、それは体を灰になるまで溶かしてしまうんです。妻は男にレイプされた時点でまさにその炎によって死んだのです。自殺でしたが、死を選んだのではありません。彼女は既に死に絶えていたのです。今では思うのです。多くのお客さんに言ったあらゆる言葉が思い出せないのは、それがわたくし自身の言葉ではなかったからです。それは死んだ妻自身の言葉だったのだと思います。妻がわたくし自身を通して言った叫びだったのです。

『土足で突如入り込んできた冷酷で残酷な死によって、私は一瞬のうちに殺されてしまったのよ。あなた達の中にある死とは全く別のものなのよ。あなた達は生き続ける事が出来るのよ。そうでしょう?』って。すなわち、彼女は死を超えた強さを持って生きようとしていました。しかし、そんな事さえも微塵に砕いてしまう圧倒的な暴力の下ではなす術も無かったんだと思います。」

「松田さん、確かにさなえはレイプされた直後に走ってくる車に身を投げて死のうとしたんです。幸いにそうにはなりませんでしたけど。」

「そうですね。その後に彼女がなんとか生きる道を模索できたのは、かぶらぎさんの存在が大きかったのだと思います。」

「あと、どうしても分らないのは、なぜ、あなたがパチンコの件を知っていたかという事です」

「はい。彼女と出会って彼女の心の映像を見てからというもの、彼女は度々わたくしを指名して特に行く宛てのないドライブをしました。赤坂や渋谷、横浜なんかで拾った事があります。タクシーの中で彼女は色んな話をしました。タクシーの中でしか会った事がありません。当然、あなたの名前も出ましたし、どういう人なのかも詳しく言っておりました。そんな中で本当に偶然ですが、ある日、あなたが初台の大通りでわたくしのタクシーを止めたのです。確かあなたは初台から日本橋まで乗りましたね。あなたの姿を見て不思議な感覚に襲われました。意識を集中すればする程、他の乗客同様に映像が浮かんでくるのです。わたくしの見たのは、あなたが失ったお金に対して落ち込んでいる情景でした。それは次第に輪郭を帯び『5』という二つの数字が見えたんです。その時わたくしは何気に賭け事の話をしました。かまをかけたんです。『競馬かなんかおやりになるんですか?』みたいにです。あなたは『まあ、パチンコ位だけどね』とそんな風に答えました。その時に確信したんです。この人はパチンコをして負けたのだと。ただより詳しい金額は分りませんでした。『5』が二つある。賭けたのです。5500円ではないかとね。そしてもう一つ、あなたを通して見た映像には女性を失った深い悲しみでした。そこから浮かび上がる輪郭がどこか、さなえさんと酷似するのです。その後にさなえさんとお会いした時に聞いたり、感じた映像から、さなえさんを救った男性があの時の男性と同じ人物であると分ったのです。あなたの家が分ったのは彼女に聞いたからでした。さなえさんには言いました。とりあえず、わたくしは鏑木透さんという男性と会って話をしたいと、最初彼女は躊躇していましたが、最後にはあなたの住んでいる所を教えてくれました。それでお伺いしたらやはりあなたでした。あの時の乗客と同じだったんです。」

「でもなんであんな風にやって来たんですか」

「伺っていきなりさなえさんのお知り合いですよね。わたくしは彼女を知っています。彼女に起きた事も彼女とあなたの事も知っています。だから彼女を救いましょう。もし、そんな事を言ったら何が何だか分らないだろうし、信じてもらえないでしょう。警戒するだけです。今回の事は端から端までが全て例の特殊な直感力が基本になって構成されています。それにはパチンコの件を通してあなたにまず信じて貰いたかったからです。それと、あなたがどこまでの意志力を持っているかという事です。彼女を失った悲しみはあっても、あなたの中で過去の事として風化してしまったのであれば、無理矢理にあなたを巻き込みたくなかったんです。」

「あと訊きたい事があります。あなたのその能力で多くの心の病んだ乗客を救う事が出来たのに、なぜ彼女を救う事が出来なかったんですか?」

「わたくしの発する知らない言葉にどんな力があったとしても彼女の問題を最終的な段階までに押し上げられないのは、それが妻を襲った問題と同じだったからです。結局は今こうして生きている我々でしかそれは出来ないのかと思います。あなたとさなえさんを偶然に乗せたのも、彼女を救う事によって、妻が乗り越えられなかった事を同時に解決する事が出来るのではないかと」

「つまり、さなえを救うという事は、同時に奥さんとお子さんを救う事になると?」

「簡単に言えばそういう事です。ただし、厳密に言うと、それはわたくしとかぶらぎさん、わたくし達自らをも救う事になるのです」

「さなえは、僕と松田さんがこうして接触しているのは知っているんですか?」

「いえ、今はまだ知りません。」



僕は煙草を吸い、松田は話し疲れたのか手の平で頬を撫でながら椅子に縛られた様にぐったりとしていた。僕は何を出来るのだろうか、どんな力を持っているのであろうか。何をすべきなのだろうか。さなえは今、何処にいて、何をしているのだろうか。しかしそれを聞き出す為に僕には通過しなければいけない何かがあるのだ。松田が僕に言いつづけている一貫したもの、それを僕は通過して乗り越えなければいけないのだ。何も解決されないのだ。それで初めて僕は彼女のいる場所に辿り着ける気がする。


「松田さん、分りました。抽象的な話からより具体的な話をしましょう。どうすれば彼女を救う事が出来るのですか?方策はあるんですか?」

彼は身を乗り出して言った。「はい。さなえさんの付き合っていたあの男性をタクシーに乗せて全てを喋らせるんです。」

「喋させる?」僕は驚いて訊いた。

「そうです。それをテープに撮って警察に持って行くんです。つまりあの男に全てを吐かせて、あの男の友人共々逮捕させるんです。」

「そんな事が出来るんですか?」

「さっき申した様に、心の映像を見るのも相手が心に仕舞い込んだものを吐露するのも全員ではありません。十人に一人位です。そこに賭けるんです。色々考えました。わたくし一人であの男を誘き呼びよせてタクシーに乗らせる。しかし、それはあまりに現実的に難しいんです。それであなたの力をお借りしたいのです。あなたがあの男と接触して頂いてわたくしのタクシーに偶然乗る機会を作るんです。そして車内であなたがまず、さなえさんの事を持ちかけるんです。当然、わたくしもさなえさんの知り合いとして援護します。そこで彼がいつもの乗客の様に全てを吐露できれば、その一部始終を記録した映像を警察に持ち込むという計画です」

「仮にその男が、あなたの直感力と感応しなければどうするんですか?そんな事知らないって、しらを切ったら」

「その可能性はあります。そしてあの事を知っているわたくしとあなた、さなえさんさえも放ってはおかないでしょう。彼らはその筋の人間です。あらゆる手段を使ってわたくし達を見つけ出して口を封じるでしょう。失敗したら彼女をより危険に晒すでしょう。しかし今の彼女はあの男達の見えない影に怯えています。それは一生続くでしょう。それを取り払わない限り彼女は救われないのです。今はもう彼女自身で警察に行って全てを喋る力も精神力もありません。彼らの存在と受けた傷にどこまでも付回されるのです。だから、最低でもその片方だけでも取り払わないといけません。そしてそれが出来るのはわたくしとあなたなのです。そうする事が出来れば現実的な不安からは開放されます。きっとあなたの元へ戻ってきます。残った心の傷は、わたくしではなくあなた自身が癒してあげるしかありません。だからあなたが必要なんです。わたくし達にとって、まず最初に思った事としてすべきこと、向かうべき所は、決して許されない罪に対してきちんと裁きを受けさせる事。それをするという事の危険、すなわち死の恐怖に対決しても尚進んで行かなくてはならないのだという事なのです。」

「分りました。失敗したら僕らは危険になります。それはいいとして、彼女はどうなるのですか?彼女の判断を超えた所で僕らが勝手に行動してしまう事については?」

「かぶらぎさん、確かにあの男が感応しない可能性もあります。でも、分るんです。彼は絶対言うでしょう。漠然としてですが確信はあります。どうか信じて下さい。大丈夫です。」

彼は何やら地図みたいなものを書いた紙を渡し、立ち上がって言った。

「いいですか。決行は来週の日曜日です。夕方五時に新宿で会いましょう。詳しい場所はここに書いてあります。わたくしは当然タクシーで伺います。かぶらぎさんはスーツを着て来てください。ネクタイは要りません。詳しい事は当日お話します。」

僕は頷いた。

「今日は色々お話しましてわたくしは少々疲れました。これで失礼させて頂きます。では。」

赤いベレー帽を被り、ジャケットは手に抱えたまま彼は部屋を出て行った。



 次の日曜日の夕方、松田に指定された場所で彼と会った。太陽はまだ西の空にどっかりと浮かんでいて、晴天の空の外れに月がコンパスで切り取った様に留まっていた。街は明るいうちから賑わいを帯びていて、不揃いのビル群が遠くの空に頭を覗かせていた。

路肩に駐車したタクシーの中からどこか緊張した表情の松田が降りてきて、「こんな所まで来て頂いてすみません」と礼儀正しく頭を下げて言った。僕らはガードレールに座り、松田から矢野というさなえの昔の彼氏についての詳しい情報を聞いた。

「矢野真一という男は埼玉生れの三三歳で、高校の時は暴走族なんかでかなり地元では有名になった男です。高校を卒業してから新宿でパチンコ屋の店員、ホストなんかをやった後、車のディーラーの職に就いて二八歳の時に結婚。しかし三十歳で離婚してます。仕事を辞めて新宿でフラフラしていた時に、昔交友のあった人間との付き合いが復活し、風俗嬢のスカウトを始めました。それはある組の系列が経営する幾つかの風俗店を専門に女性を送り込む仕事でした。組が直接に斡旋をして、後で問題が起きるとヤバイので形式的にはそういった彼の様なスカウトのプロが独立してやっているという形態をとっているんです。街中のスカウトだけでなく、組の関連の消費者金融に多額の負債を抱えている女性の情報を得て、彼女らに近づく。組の傘下に金融があり、風俗店があるが、その女性達にその繋がりを知られると厄介な事になるし、働くのに躊躇ってしまう。よって、負債を抱えているという情報源をあるルートから得たのだが手っ取り早い返済方法があるからと言って風俗の仕事を紹介するんです。そういう女性達はある程度の返済のめどが立つとまた借金をする癖を持っている。そして今度は、そのスカウトマンなどが相談に乗り、別な金融会社や違う給料の高い風俗店を紹介する。そこは最初の金融会社と全く関連のない様に装いますが、結局は同じ系列となっています。彼女の稼ぎも借金の利子も全て吸い上げる大元は一緒になっているというしくみです。また、家出少女なんかをスカウトして、金を稼げるからと言って風俗で働かせる事もしています。

特に縄張りが細分化され新宿界隈では、一つのグループが端から端までやらないと微妙な対立を生んでややこしい問題となるんです。つまり金融、風俗、などのまる抱えです。スカウト達は紹介料と女性らの稼ぎから一部マージンを取る。スカウト達は力を持つと、芸能プロダクションなどとのパイプを持ち、そこで使えないモデルや女優の卵などを紹介してもらいます。その子らは、養成費、レッスン費などが払えなくなったり、プロダクションとの契約違反などをした子らばかりで、プロダクションが直接風俗店などを紹介するとその筋との関係が表に出る事をイメージ的に最も嫌う世界では間に仲介者を立てます。その役割もスカウト達が行います。ただ、何か問題があるとその責任はスカウト達が被る。トカゲの尻尾切りですね。

矢野がさなえさんの家に転がり込んだのは、彼の紹介した女の子が何かやらかしたのでしょう。店のイメージを壊す様な事とか、突然いなくなったとか。その場合、女の子が見つからない時は矢野みたいのに責任が回るのです。多分、さなえさんの家に来ていた男達はスカウト達を管轄、もしくは窓口になっている上の者です。そこで金に困った矢野はさなえさんの金に手を付けた。それでも足りないのか、男達のどちらかがさなえさんを風俗に入れさせる案を持ちかけたのでしょう。もしくは彼女を好きにしてもいいと言ったのかもしれません。挙句の果てに最悪、薬浸けにされたりする事もあります。彼女が、彼らから逃げたのはそういう事を薄々感じていたのかもしれません。

わたくしはドライバーを始めてからの五年間で色んな人を乗せました。よく言うでしょう。美味しいラーメン屋と景気の動向に関してはタクシーのドライバーに訊けと。同時に裏社会の事や政治の世界の裏側も結構詳しくなるんです。一年前位でしたか、ある男を乗せたんですが、その男は新宿辺りでは有名なその筋の人間でしたが足を洗いたいと思っていたらしく、いつもの直感力で彼と色々話した後、数ヶ月後に、足を洗いましたと、突然会いに来ました。辞める時には酷い仕打ちもあったのですが、今はこうしてカタギの仕事をしていると、とても感謝してくれました。それから結構、彼との付き合いが始まって、非番の時にはたまに飲みに行く様な仲になりました。

さなえさんから矢野真一という名前を聞いて思い出したのは、その乗客の事です。レイプの事など詳しい事は話ませんでしたが、わたくしがその男を捜していると言うと、幾つかのパイプを使って調べてくれました。それが今話た事です。彼らの世界は思ったより狭いですから。そして、その世界の仕事や仕組みなど色々教えてくれました。

さて、かぶらぎさんは、矢野に近づく際に芸能プロの男として接触してもらいます。『プラザエージェンシー』という有名なプロダクションを知っていますよね。その傘下にも幾つかの小さなプロダクションがあるのですが、そこに『KSKプロダクション』というのがあります。そこの人間になって頂きます。『KSKプロダクション』はレースクイーンや雑誌のモデルなどを抱える傍ら、ヌード雑誌やアダルトビデオなどに出ている様な女の子も抱えています。その子達の多くは訳ありです。つまり借金です。『KSKプロダクション』が関係しているのが主に矢野のいるグループなんです。仕事に穴を空けたり、契約違反をしたり、借金を抱えたどうしようもない子らを矢野の様な人間に紹介して一部の稼ぎを取ったり、借金の返済にあてさせたりするのです。スカウトの人間は幾つかの風俗店の中から女の子の不足している店、その子の容姿やタイプから適当な店を選んで送り込むのです。

基本的にはこうです。矢野は歌舞伎町の明治通りに近い辺りを拠点にしています。そこで接触してもらって『KSKプロダクション』の人間だと言う。そして、矢野真一さんですよね、といえばそれだけで話はつきます。名刺などは必要ありません。そんなややこしい事は彼らの慣習ではむしろ後々に面倒になるので嫌がります。

そして、どこどこに女の子を待機させているから今から会って欲しいという。そこでわたくしのタクシーがやって来る。『KSKプロダクション』は目黒にあります。事務所ではマズイので近くの喫茶店に待たせる様にしてあると言えばいいでしょう。そして、これから事務所に、今から向かうという電話をすると言ってわたくしに電話してください。そこで近くで待機しているわたくしが伺います。



それから僕らは、矢野のいるポイントまで歩いて向かった。矢野は歌舞伎町から一本入った明治通りに繋がる裏道に立っていた。松田は遠目から「あの男です」と指差して言った。そして「では、宜しくお願いします。」と言って自分の携帯番号を書いた紙を僕に渡し、タクシーのある場所に戻って行った。

矢野は植え込みに座って煙草を吸っていた。胸元まで開いた麻の白いシャツを着て、青のチノパンを履いていた。肩幅があり、黒々とした太い腕には高価そうなブレスレッドがぶら下がっていた。日焼けサロンで焼いているであろう顔は全体が角張っていて眼光は鋭かった。長めの髪は金髪でオールバックにしていて後ろで束ねられていた。

僕はゆっくりと彼に近づいた。彼は植え込みに座りながら、手の平を組んだまま通り過ぎる若い女性達を上目使いで物色していた。彼の携帯が突然鳴ったので、僕は少し離れた植え込みに座って空を見上げていた。町の明かりが星すらもぼやけさせていた。

彼の電話が終ると僕は彼の横に座り、声を掛けた。

「矢野真一さんですよね?」

彼は横に座った僕の顔を警戒心を帯びた神妙な顔つきで見つめ、紺のスーツ姿でノーネクタイの僕の格好を仔細に端から端までに視線を配っていた。彼は何も言わなかった。

「KSKプロダクションの高田と申します」

そう言うと彼はそっと立ち上がって僕の前に立ち、見下ろした。鋭い目つきが僅かに緩み、硬く結ばれていた薄い唇が小さく動いた。

「そうです。矢野ですが」

僕は立ち上がると彼の胸元のネックレスが不気味に光るのが見えた。彼はたくわえた顎鬚に手をやったまま、もう一度、僕の全身に注意深く目を凝らしていた。

「ウチの子を紹介したいのですが」僕はゆっくりと言った。

彼は目をぎょろっとさせてから一層思慮深い顔で僕の顔を覗き込んで、しばらくの間、唇を舌で舐めながら何かの考えにふけっている様だった。

「高田さんと言いましたね。いきなりでびっくりしましたよ。普通はまず電話など掛けてくるはずなんですが」

「そうですね。失礼しました。ちょうど別件で新宿に来ましてね。実は先程、会社から電話があって、スカウトの矢野さんと会って女の子の面接のセッティングをしてくれと。矢野さんの事は実は存じ上げてますし、この辺りでこの時間にいらっしゃるのは知っていましたから」

彼はポケットからメンソールの煙草を取り出して火をつけて目を細めながら辺りをキョロキョロと見回していた。

「分りました。で、女の子は何人で幾つですか?」

「はい、二十歳と二二歳の子、二人です。」

彼は何かをじっと考えた後、時計をちらりと見て訊いてきた。

「まあ、いいでしょう。で、その子らとこれから会えるんでしょうか?」

「ええ、目黒の会社にいますが、近くの喫茶店に来させましょう。」

矢野は煙草を捨てて足元で消しながら「いいですよ」と言った。

僕はその場で松田に繋がる電話を掛けた。

「高田です。矢野さんとこれから向かうので、彼女らを駅前の例の喫茶店で待てせておいて下さい。三十分後に行きます」

僕らは無言のまま明治通りに出て片手を上げた。そこに予定通り偶然を装ったシルバーに青いラインの入った松田のタクシーが現われた。

「タクシーで行きましょう。」

タクシーに乗り込み、松田に「目黒駅前まで」と言った。矢野は足を組んだまま煙草を取りだし窓を開けた。ミラー越しに冷静な顔をした松田の表情が見えた。明治通りを夕刻の喧騒の中をひたすら南に走っていた。僕ら三人は沈黙の深淵の中に沈んでいった。矢野は仕舞には目を閉じて何か瞑想にふけっている様だった。目を閉じたままの矢野がそのままの姿勢で口を開いた。

「おたくの浅沼さんは最近どうですか?この前、紹介して頂いた子がねえ、ちょっと色々あってさあ」

浅沼って誰だ?きっと僕の上司の立場の人間なのだろう。

「ええ、元気ですよ。」と適当に答えた。

「まあ、あなたに言ってもしょうがないですね」彼は、僕の言葉を聞くまでもなく言った。

僕は取り繕った笑いを浮かべ、松田は相変わらず前方を凝視したままハンドルをしっかりと掴んでいた。細い目は居眠りをしているとさえ見えた。再び静寂が訪れて、生暖かい風が車内で対流していた。煙草の煙は歪にゆがみながら消え失せていった。車は渋谷に差し掛かっていた。やけに喉が乾いて緊張して首筋がじっとりと濡れ始めていたのでシャツの第一ボタンを外して緩めながらはっきりした声で言った。松田は僕の様子を伺っていた。

「矢野さん、実は待たせてある子なんですが」

矢野が真面目な顔つきで振り向いた。「はい」

僕は小さく深呼吸をして言った。

「待たせてある子なんですが、滝田さなえという女性です」

その瞬間、矢野の目が異様に大きく見開いて僕の表情に釘づけになって固まっていた。

「滝田さなえをご存知でしょう?矢野さん」

矢野は唇を噛んだまま何か言おうとしたが、声が出ないらしい。僕は続けて言った。

「知っているはずです。」

「高田さん、何を言っているんですか?」彼は抑揚のない声で言った。彼の眼差しは驚きと困惑の表情を孕んでいて、僕の言っている言葉に肩をすくめた。「高田さん、その滝田さなえという女性が風俗で働くというんですか?」

彼は奇妙な笑みを浮かべていた。僕は続けてはっきりと答えた。

「いいえ、違います。ねえ、矢野さん、あなたは滝田さなえと付き合い、彼女の金を使い込み、あなたの友人を使ってレイプした。そうでしょう?」

彼はそれまでの表情とは明らかに違う殺気に満ちた微笑を浮かべていた。

「高田さん、あなた一体誰ですか?女の子の件は嘘ですか?」

その時、松田の咳払いが聞こえた。彼は松田に向かって声を上げて言った。

「運転手さん、停めてもらいますか?」

松田は聞こえない振りをしたまま運転を続けていた。矢野は更に声を大きくして叫んだ。

「おい、停めろよ。俺は降りるからな」

今度は松田は前方を見つめたまま口を開けた。

「矢野さん、滝田さなえという女性をご存知ですね」

矢野は松田の後ろ姿と僕の表情に何度も目を移し、その顔は次第に赤みを帯びていた。

「なあ、オマエら、一体なんなんだ?おい、車を停めろ。」

矢野は松田のシートを拳で後ろから思い切り叩いた。松田は車を左折させて人通りのない静かな道に入っていた。矢野はその鋭い目つきで顎を引きつかせながら何か言葉を捜している様だった。日焼けして硬直した表情が次第に薄っすらと青ざめていった。

「矢野さん、あなたは知り合い二人を使って彼女をレイプしたんだ」

彼の腕には隆々と血管が浮かび上がっていて、突然、彼は僕の胸ぐらを掴んで低い声で言った。

「あんた、何言ってるんだ?おい。車を停めろ、停めるんだ。」

彼は叫び声を上げた。その瞬間、僕の胸ぐらを掴んだまま窓ガラスに思い切り押し付けた。後頭部が当たり激しい痛みが駆け抜けた。僕は頭を押えながらもう一度言った。

「矢野さん、そうだろ。あなたは彼女の金をおろして使い込み、友人を使ってレイプしたんだ」

矢野は今度は松田を後ろから羽交い絞めにすると車が激しく左右に揺れた。対向車のクラクションが鋭く響いた。僕は矢野の後ろから松田を捉えた彼の腕を解こうと覆い被さった。すると彼の肘が大きくしなって僕の胸元を強くえぐった。もう一度飛び掛り、彼の両手を取ってそのまま僕らはシートの上に転げ落ちた。車は速度を落とし、松田は呼吸を荒くしながら運転に集中していた。矢野は起き上がると何かをわめき散らしてドアに手をかけたので、僕は咄嗟に彼の手を取り思い切り引き寄せた。

「何をするんだ、この野郎」

彼の片足が方向を変えて一瞬の速さで僕の腹部に沈み込んだ。衝撃で生唾が喉を伝って口を一杯にした。彼は再度ドアに手を掛けた瞬間、車は急停車して矢野の体は前のシートに頭を埋め込ませたまま激しく衝突した。シートの軋む音と一緒に松田は振り返り、うずくまったままの矢野を見下ろして声を張り上げて言った。その表情は燃え立つ様な怒りに溢れ、それまで僕が見た事のある松田のどの表情とも違っていた。

「君は、滝田さなえを弄び、レイプした。そうだろ?」

矢野はぶつけた頭を抱えたまま小さく震えていた。それでも片手はドアに忍び寄っていたので、僕は痛みに耐えながら彼の上からその手を奪った。彼はゆっくりと顔を上げると、目は異常に見開いていて赤く充血していた。口は半開きのまま肩で息を吸っている様だった。矢野は不気味に笑いながらゆっくりと言った。

「ははは、そうだよ。俺はあの女を利用した。金も使い込んださ。そうだよ」

そこまで言うと彼はシートにふん反り返りながら息を切らしていた。目は焦点を失っていてうつろだった。

「おい、俺は何を言ってるんだ。俺は何を言ってるんだ。おい」

彼は突然、頭を下げて嘔吐した。異様な臭いが車内を満たした。「おい、俺は・・・そうだよ。あの女は便所だったんだ。」

「そうだ、もっと言うんだ。君はあの人に酷いことをしたんだ」松田は振り返ったまま落ち着いた表情で矢野を見下ろして言った。

矢野は汗だくになった顔で交互に僕らを見つめた。口元には黄色く濁ったどろんとした液体が滴り落ちていた。

「言わないぞ、言うもんか」彼は自分の喉元を手の平で押え、弱々しく声を出さず笑ったままだった。

「言うんだ」松田が叫んだ。

「うっ、言うもんか」彼は再び嘔吐した。今度は透明のぬめっとした液体が彼のだらんと垂れた舌の上を零れ落ちて、濡れて光っていた。

「そうだよ。あの女は警察に通報しやがった。だからな、仕返しをしたんだ。ちょうどあの女に目をつけていた奴らに好きにさせたんだよ。おい、俺は何を言ってるんだ」

「誰なんだ、そいつらは」松田の声が甲高く響いた。

「知るか、知るもんか、絶対言わないからな」矢野は擦れた声で叫び、結ばれた髪の一部がほつれていた。矢野の下半身は力を失ったのかその場から動くのにも足がもつれて上半身だけがシートの上で左右に大きく揺れていた。苦痛に歪んだ顔から汗が吹き出て、怯えと怒りが奇妙に入り混じっていた。

「言わないぞ」彼は小刻みに震えた。顔を手で覆い震えていた。「言うか、言えるわけがないだろう。」突然声を張り上げて発狂した。顔の全ての血管が隆起して、彼の腕が僕のスーツを捉えても、既にその力は失って弱々しいものだった。喉を鳴らして笑いながら、顔を冷笑的にゆがめて言った。

「ははは、そうだよ。あの女を犯したのはな・・・犯したのはな・・黒石という男と平井という男だ。おおお、何を喋っているんだ」

体中の力が抜け落ちたのか、気落ちした彼はシートにもたれてぐったりしていた。白い麻のシャツは嘔吐物でその色を失っている始末だった。僕を見つめる彼の目にはあらゆる感情がその一点に集中していて、その冷酷な眼差しの中で僕は反射的に彼の向うのドアに手を掛けて開けた。

「もういい、降りるんだ。矢野さん」

それまでの彼の威勢の良い表情はもうひとかけらもなかった。青白く怯えきって、何か諦めた表情で僕らを見つめていた。唇は痙攣し、これ以上言葉を口にする事は出来ない様だった。彼はそのまま路上に転げ落ち、アスファルトの上で手を付きながら胃の中の残りを全て吐き出していた。体全体で呼吸をしていたその姿は奇怪な生物の終焉にさえ見え、このまま倒れ込んで死んでしまうのかとさえ思った。


ドアが自動に閉まり、松田が「行きましょう」と言ってゆっくりと車を発車させた。振り返ると矢野は道の真ん中で両手を地面について固まったままぴくりとも動かなかった。彼の姿が見えなくなると、僕は窓を全て開ける様に松田に頼み、煙草に火をつけて、既に薄暗くなった町並みをぼんやりと眺めていた。腹部と頭の痛みは矢野の嘔吐によって出来た激しい異臭によって消え失せていた。十分程走ると車は静かに停まった。

「かぶらぎさん、ちやんと撮れましたよ」助手席のダッシュボードの隙間に小さいカメラが見えた。「これからこれを持って警察に行きます。かぶらぎさんはここで降りてください」彼はミラー越しに言った。

「松田さん」

「いいんです。後はわたくしがやります。」彼は静かに囁く様に言った。

「ねえ、松田さん。僕は、あなたの直感力に感応しなかったのかな?」

「はい。わたくしはなるべく矢野だけに集中していましたから。さて、かぶらぎさん、これから少し面倒な事が色々あるかと思います。それはある程度覚悟しておいて下さい。このテープを見せれば、あなたも警察に呼ばれるかもしれない」

「いや、構わないです」

車から降りるとそこは住宅街のど真ん中だった。自分の立っている場所も全く分らなかった。

「松田さん、車の中が大分汚れてしまいましたね」僕はそう言ってポケットから5500円の入った例の封筒を取り出して彼に渡した。「これはそもそもあなたのお金です。少し足りないかもしれませんが」

そう言うと彼はにっこりと笑って黙って受け取って言った。

「かぶらぎさん、ありがとうございました。見事でしたよ」物柔らかで満面の笑みだった。「今日はこれで。では」

彼は頭をペコリと下げて車を走らせて行ってしまった。僕は見えなくなるまでしばらく立ったまま車の姿を目で追っていた。時計は既に夜の七時でそれでも生暖かい風が全身を包んで流れ去っていった。僕は町の喧騒が聞こえる方向へ歩き出した。空はどす黒く、数えられる位の夏色をした星がひっそりと浮かんでいた。


 

それからの二週間は特に警察からの連絡はなく静かな毎日だった。それでもどことなく落ち着かず、さなえと松田の事を時折考えていた。気になって数回、松田に電話をしたが連絡は取れなかった。

日曜日の昼間、僕は部屋の掃除をして一息ついていると、突然、ドアを誰かがノックした。松田だった。夏が十分過ぎるほど足元に忍び寄っていたので、彼は赤いベレー帽を被っていたもののジャケットの方は着ていなかった。部屋に招き入れ、オレンジジュースを炭酸で割って少しだけガムシロップを垂らしたものをテーブルに置いた。彼はパタパタと胸元に風を送りながら椅子に腰掛けて喋りだした。

彼が言うには、あの後警察に行ってビデオを見せるが、僕らが高圧的な態度で矢野に対して押し迫った事、矢野の様子が普通でなく内容全体が演劇か芝居の様に受け止められた事から、結果的に警察の関心を得ることはそれ程出来なかったらしい。しかし、矢野は以前からマークされていた人物で、ビデオがきっかけで警察に任意同行され、取り調べでは最初は黙秘していたが、結局は根負けして全てを話した。その中で滝田さなえのお金の事、黒石と平井という知り合いに彼女をレイプさせた事を自白。更に彼は未成年をスカウトして風俗店で働かせていた事も発覚してしまう。黒石と平井も連行され、警察に呼ばれたさなえも事の一部始終を証言。黒石と平井の体液と指紋が彼女の当日の衣服から発見されてそれが決めてとなった。彼ら二人は窃盗と傷害で執行猶予中で、今回の件で数年の実刑が決定するだろう。そして矢野は、スカウトした女性の家へ転がり込んで住んでいたのだが、その部屋からは捜査の結果、微量の覚せい剤が発見される。様々な刑が重なり、十年は服役するだろうという事であった。

松田が喋り終わる頃にはグラスはとっくに空になっていたが、ジュースが切れたので新しいグラスに氷とミネラルウォーターを入れた。

彼は取り出したハンカチで頭を拭きながら、表情には終始安堵感が漂っていた。

「うまくいってよかったですね」僕は微笑んで言った。

「ええ、最初はタクシーで矢野が告白しなかったらどうしようかと不安でした。まあ、とにかくこれで終りました」

彼は何度も自分を納得させる様に頷きながら、感傷的な表情を浮かべていた。

「松田さん、さなえの事ですが」

「そうですね。ちゃんとお話ししなければなりません。」彼はそう言って、落ち着いた表情で口を開いた。

「彼女はあなたの元を去ってから、しばらく都内のホテルを点々としておりました。その時、わたくしは出会ったのです。彼女は考えた結果、仕事を辞め、実家にも帰らず、現在は高崎にいる女友達の家に身を寄せております。わたくしと会う時はわざわざ都内まで出て来てくれました。彼女に今回の件、すなわち矢野を捕まえるという件に関しては最初のうちは悩んでいましたが、かぶらぎさんがお力になってくれるという事を仰ったら、わたくし達に一任してくれました。彼女は警察に呼ばれて、最初は困惑しておりましたが、結果的に彼らが捕まって大分安心されたかと思います。更に、あなたが今回の件で尽力された事はとても喜んでいましたし、かぶらぎさんが、あなたに会いたがっている。そしてあなたにしてしまった事に対して深く後悔されているという事を申しました。」

彼はポケットから小さな紙切れをテーブルの上に置いて、僕にそっと差し出した。

「彼女の今の番号です。あなたにお渡し下さいと」僕は黙って受け取りポケットにしまった。

「松田さん、最後に訊きたいんだ。あなたはもしかしたらこの数年間、あたなと奥さんをレイプした人間を捜し続けていたんじゃないですか?」

彼は僕の言葉を深く噛み砕く様に聞き入り、しばらく考えていた。その目はどこまでも澄んでいた。

「そうです。その通りです。そもそもタクシーの運転手になったのもそのせいです。東京でこれだけの間、タクシーの運転手をやっていたのですから、もしかしたら偶然乗り合わせる可能性だって無きにしもあらずです。わたくしの例の能力も実はその為だったのではと思います。つまり、その男を見つけ出して復讐する為です。だから妻があの様な力をわたくしに与えたのではないかと。でもですね、不思議なんです。あの日、矢野の件があってから一切、例の直感力がなくなってしまったんです。あの日を境に映像も何も感じ取れなくなってしまいました。何故かは分りません。でも、わたくしはこれで良かったのだと思います。もしこれから先、いつか妻をレイプした男を乗せていたら、もしかしたら降ろした後にひき殺していたかもしれません。」

彼は続けた。

「でも、今回のさなえさんの件を通して、多分ですが、死んだ妻と我が子の何かが清算されたのだと思います。」その時の彼の目はどこまでも深く、優しさを帯びていた。

「松田さん、僕もそう思うよ」

僕は煙草を吹かしたまま、蛍光灯の光を見つめていた。月光の様に白い光が淡く舞い降りていた。


「かぶらぎさん、、わたくしは今の会社を辞める事になりました。幾らなんでもカメラを忍ばせて乗客を撮るというのはマズかったらしく、結局はクビです」彼は笑って言った。「それでわたくしは東京を離れます」

「えっ? どこへ行くの?」あまりの唐突さに驚いて声を上げた。

「静岡です。あの漁港の町に戻ります。結局はあそこが一番落ち着くのかもしれません。まあ、この歳で漁師は出来ないでしょう。あの辺りでまたタクシーの運転手でもやりますよ。海を見ながらのんびり暮らします」

「寂しくなりますね」と僕は力なく言った。彼は頷いた。

僕は想像した。知らない漁港の町を。潮の香りと船の油の臭いがカオスを作り出して、まだ薄暗い朝早くに太平洋に向かって出港していく船の群れ。太陽が昇るときらきらと海を照らし、カモメが澄み渡った青空に浮遊する。午後になると幼い子供達が砂浜で貝を採り、離れた防波堤では、高校生位の少年達が海に飛び込んで遊んでいる。赤く染まった黄昏時には、海から戻った漁師達が頭に巻いたタオルで汗を拭きながら採った魚介類を手早く陸揚げする。その様子を子供を抱いた漁師の妻達が遠くから眺めている。



「かぶらぎさん、そろそろ行きます。」

彼はゆっくり立ち上がって玄関へ向かった。そして振り返って染み入る様な寂しい表情で言った。

「わたくしは、かぶらぎさんとさなえさんとはもう会えないかもしれません。でも、こんな男がいたという事だけは覚えていて下さい。」

彼は僕に手を差し伸べて握手をした。その手は三五歳にしては小さくて柔らかく、まるで子供の様だった。

「忘れないよ」

彼は一番初めに来た時と同じ様に深々とペコリと頭を下げて「さよなら」と微笑んで言った。

「さよなら」と僕は言った。



扉が鈍い音を立てて閉まった後、そのグレーでのっぺりとした分厚い鉄の板をぼんやりと眺めていた。ポケットにあった小さい紙切れには、丸みを帯びた彼女の字で知らない番号と一緒に「さなえ」と書いてあった。

僕はゆっくりと一つ一つのボタンを押した。その度に命が宿った様な機械音が聞こえた。何度目かのコールの後に彼女の擦れた声が遠くから微かに聞こえた。

「もしもし」

「もしもし」と僕は言った。

とても長い沈黙だった。これまで僕と彼女とは数え切れない沈黙を通して繋がっていた。しかしこれ程、暖かで柔らかい沈黙はなかった。そして、その沈黙はもう沈黙でなくなろうとしていた。彼女がそれをまさに今、違う形に変えようとしていた。

「ねえ、松田さんに新しい番号を教えてからのこの数日はね、私は本当に本当に、あなたの電話を待っていたの。分娩室の前の廊下をうろうろしている旦那さんみたいにね。携帯が鳴る度にはっとして呼吸が止まってしまいそうになるの。寝てる時でも、どんな時でも、携帯が震え、音を発する度に胸の奥にあるドロドロしたものが気化して皮膚を通って蒸発していく感じなの」

僕は言葉を捜していた。そして体の中枢でゆっくりと頭をもたげる何かを感じた。

「ねえ、僕は謝らなければならないんだ。君の約束を破り、君を深く傷つけてしまった」

僕の言葉はどこかへ吸い上げられて山の頂きの向うの見えないどこかにその着地点を捜している様だった。

「もういいのよ。」その言葉はまるで綺麗に刈り整えられた芝生に染み込む細い雨だった。「でもね、聞いて欲しいの。私は、あなたと出会った最初の頃に何度自殺しようとしたか。本当よ。私はあの時、あの男達が私に入ってきた瞬間に私の精神は殺されたの。死んだの。そして肉体も太いチューブで体内の血液を全部抜かれてしまった感じなの。麻痺してただの個体として存在しているだけなの。だから、肉体を殺すことは私にとってそれ程難しい事ではなかった。そうでしょう?私の半分はもう既に死んでしまっているのよ。だから残りの半分を殺すことに何の抵抗もなかったの。でもね、あなたと出会ってから、残りの半分を殺すことが、それを考えることが何故か辛くなったの。精神は死んだまま、それでも肉体、私の肌や髪の毛や唇にあなたが触れる度にね、もう肉体だけに独自の生命が宿ったみたいに、あなたに寄りかかってちゃんと生きようとしてるの。その生命力は僅かながら少しづつ私の精神の方にも移り流れていってね、ちょっとづつだけど人間らしい呼吸を始めるの。でもね、あなたのやった事を見てね、私は再び薄暗い海の地平に一人小さな舟に揺られているの。空は絶望、海は死なのよ。手を伸ばせば絶望の中に私自身が吸い込まれて溶けてしまいそうになるの。そして海面を指先を撫でれば、死が私を飲みこみそうになるの。分る?」

「わかると思う」と僕は言った。

「あなたと知り合って、私は波に乗って着実に陸へ向かって進んでいたのよ。それをあなたはもう一度沖に向かって突き放したの。砂浜が遠ざかる様子を見ながら、もう一度沖へ向かって流されて行くの。辺りは日が暮れて、星も月もない海の真ん中に一人でいるのよ。彼方の浜辺には民家の小さな明かりが点々と蛍みたいに見えるの。その明かりを手掛かりに浜辺にあなたの姿を探している。あなたの人影をね。でもね、声も出ないの、恐怖と絶望でね。そしてその家の明かりも一つ、また一つ消えていくのよ。音も明かりもない、風も吹かない、そんな暗い海の真ん中でね。」

目を閉じてじっと耳を澄ましていた。体の芯が湿った空気のかたまりに包まれていく気分だった。

「ねえ、聞いてる?私はね、私は二度殺されたのよ。アイツとあなたに。でもアイツを恨んで憎んでも、あなたのことは出来なかった。いつか遠い砂浜にあなたが再び現われるのを舟の淵に掴まりながらじっと待ってたの。それしか出来なかった。そう信じるしかなかった。そうでもしないと本当に私の肉体は海に飲み込まれ、精神は空に吸い取られていってしまいそうになるの。でもね、私はあなたに感謝すべきなのよ。あなたのやった事はとっても酷いこと。ただ、あなたは最初に私を救ってくれた。そして、私をね、これからとても永い間、支配し続けるであろう凍りつく様な恐怖からあなたは解き放ってくれた。嬉しいの。本当よ。凄く嬉しくて、あなたにとても感謝しているの」

その不確かな空気のかたまりが僕の口を開かせた。

「ねえ、確かに僕は君という人間をある種、殺してしまったかもしれない。でもね、僕にはそうするしかなかった。いや、そうする事しか出来なかったんだ。あの時の僕にとってはそうする選択肢しかなかった。そうさせたのは何か分る?それは弱さなんだ。人間の弱さなんだ。人間の中のある種の弱さは瞬間的に自分を守ると同時に、誰かをその何百倍も傷つけてしまうものなんだ。やがて、誰かにとってのその傷は最終的には何より自分自身を苦しめるんだ。僕は君を守りたいと思った。死ほどの苦しみの淵からなんとか引きずりだそうとした。しかし僕にはその術も、力もないのではないかと不安だったんだ。むしろ僕が、君が這い上がろうとしている窪地に立って、入り口を塞いでるのかとさえ思えた。そして、それがたまらなく嫌だった。でも本当は、僕は君を守ろうとした以上に自分を守ろうとしていたんだ。きっとそうなんだ」


何を言っているんだ。何が言いたいんだ。松田の死んだ妻の言葉を思い出した。『まず初めに思ったことをするのよ』『人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの』

その言葉を何度も反芻した。そして息を大きく吸い込み、僕を後ろから手を伸ばして掴もうとする何かを振り払い、はっきりと言った。

「理由はうまく言えないけど、僕は君が必要なんだ。そして君も僕が必要なんだ。僕にしか君を救えないし、君もそのことは分っている。君を深く損なったものを取り戻すためには僕がいなきゃいけない。僕は君を救う自信があるし、その為に僕は弱さを捨てたんだ。弱さが僕を蝕む前に、僕は歩き出す強さを身に付けたんだ。その強さが君を守るんだ。」

しんとする午後の深い温もりの中で、なだらかな時間が過ぎていった。僕らにとっての最後の沈黙だった。とてもとても長い沈黙だった。その間、僕はあの公園と松田の顔を思い出した。知らない漁港の町をもう一度想像してみた。スルメの事も思い出した。スルメは何処に行ったのだろうか。レナの細くてごつごつとした華奢な背中も思い出した。彼女とは二度と遭わないだろう。彼女はあの後バンドを辞めてどこかに消えてしまった。雑踏の中に立っている矢野も思い出した。しかし、そこに象徴的なものは何一つなかった。僕が見つけて、感じるのは、電話の向うの現実的な感触だった。それは音となり、声となった。そして僕の耳にしっかりと届いた。



「ねえ、これからあなたに会いに行くわ。まだ、あの硬い硬いベッドで寝ているのかしら?」

「死後硬直ベッド」と僕は答えた。

「そう、死後硬直ベッド」電話の向うから、ぱちんと指を鳴らす音が聞こえた。

「待ってるよ」

「6時に行くわ」

そして、電話は唐突に切れた。

時計はまだ一時だった。それからかなり長い間、立ったまま握り締めた携帯電話を眺めていた。ごつごつした感触は皮膚の表面に沈んでいた。僕は何度も数字と記号のボタンを端から端まで一つづつ読み取っていた。それは地平に浮かぶ舟みたいだった。でも今は違う、ゆっくりと岸へ向かって漕ぎはじめたのだ。



奥の部屋に戻り、窓を全て開け放った。柔らかくて羽毛みたいな日差しが差し込んだ夏の日曜の午後だった。ベッドに寝そべり、あの男が初めて訪れて来た時以来読んでいなかった『クリスマス・キャロル』を読んだ。一時間近くかけて読み終わり、パタンと閉じて枕元に置いた。


そっと目を閉じた。奥行きのないのっぺりとした暗闇の中に何百という粒子の粒が漂っていた。やがて一つ、また一つとゆっくりと消えていった。最後には何もないただの暗闇となった。しかし、そこはそれまでの暗闇ではなかった。どこまでも広く、どこまでも深く、どこにでも行ける暗闇だった。気の遠くなる位の広大な暗闇だった。どこに居て、どこへ向かおうとしているのか、僕は、いや、僕らには分っている暗闇だった。遥か遠くから列車の音が聞こえた。暗闇を切り進む音だった。そして僕は、僅かな眠りについた。(了)

2004-06-30 地底人と、コーヒーの功罪について。

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どんよりとしたカーボン紙みたいな闇夜が次第に熱と光を帯び、白濁色の光彩が朝の空気に膨張し始める。それはやがて鮮やかに透き通ったオレンジ色となり、町の隅々までに一切の余白すらない程までに広がっていった。

 僕と彼女はベットの上で、一枚のカーキ色の毛布に包まれながら静かな時を過ごしていた。白い三角形の陽の刻印が彼女の細い首筋を捉えて、カーテンの隙間を通って空からの使者達が舞い降りようとしていた。

「ねえ、眩しいの。カーテン閉めて。ねえ。お願い」

10センチ程の隙間を消し去ると、逃亡者の地下室の様に暗い世界が惜しげも無く広がっていった。

「なんで、コーヒーにクリームと砂糖を入れるの?」

僕たちはベットの上でお揃いのマグカップでコーヒーを飲んでいた。

「ねえ、聞いてるの?なんで、砂糖とクリームを入れるの?」彼女は僕のカップを見つめながらもう一度言った。

「私はブラックだわ。味が台無しじゃない。砂糖とクリームを入れたら」

僕は、子供の頃に公園の砂場で遊んだ時のドロンコ遊びの泥の色を想い出していた。

「昔はブラックだったけど、今はこれがいいんだ」

僕がそう言うと、彼女は納得いかない顔をしながら、自分の持っている煙草を僕の口に入れた。

「私達最高のお似合いのカップルじゃない?コーヒーの飲み方の違いを抜きにすれば・・」

空中に浮かぶメンソールの煙を見ながら頷いた。

「でも、煙草の趣味も違う」

僕がそう言うと、彼女は泣きそうな笑顔を浮かべ、僕の口から煙草を奪い取った。

「ねえ、私思うの。なんかあなたと出会う為に生まれてきたんじゃないかと。あなた以外の人とは、いやあなた以上の人とは今後巡り会わない様なきがするの」

そう言いながらメンソールの煙草を灰皿で消すと、新しいコーヒーを入れに彼女はキッチンに向かった。


 

一週間後、ダイニングテーブルに『棚の中のコーヒークリームとシュガーが切れてましたよ。』とだけ書いたメモを置いて、彼女は出て行った。

僕が2度とブラックのコーヒーを飲まない様に、彼女は二度と戻っては来なかった。

 

それから、毎朝、僕は一人でコーヒーを入れ、いつもの様にクリームと砂糖を入れ、そしてドロンコ遊びの時の泥を想像しながら、一人でコーヒーを飲んだ。

彼女は相変わらずどこかの男と、朝のまどろみの中でコーヒーをブラックで飲んでいるのだろう。そして僕の時の様に、コーヒーをブラックでは飲めない男に「味が台無しじゃない」と言っているかもしれない。もしかしたらブラックしか飲めない男と巡り会って、「ねえ。私達最高のお似合いのカップルじゃない?コーヒーの飲み方も同じだし・・・」

そう言って、その男に抱かれているのかもしれない。


                         * * * * * * * *


 そんな風に一ヶ月をやり過ごしたある日。

僕は会社帰りに、昼休みにいつもよく行く青山通り沿いのコーヒーショップに行った。店は『eau de cafe」』という名の店である。「コーヒーの水」という意味である。

家族でやっている様な小さな店だが、いつも学生アルバイトが交代で何人かいるだけだ。木製のカウンターとテーブルが幾つかある。「カフェ」というよりは「喫茶店」に近い雰囲気を持ち、一昔前の青春ドラマの様に、客が来ると「カラン、コロン」というカーベルの音が聞こえてきそうな店である。といっても、店の主人がいつもコーヒーを落としている訳でなく、主人がウエイターをやったり、アルバイト達がコーヒーを落とす事もあった。ブレンドとアメリカン、そして炭火焼コーヒーやキリマンジャロ、モカなどがあるが、僕はいつもブレンドにしている。


僕は昼休みに週に一、二回はよくそこでコーヒーを飲んだ。

 僕はその日忙しくて昼休みに行けなかったが、どうしてもそこのコーヒーが飲みたくなり、仕事帰りの夜の9時少し前に店に行った。店の前では若い20代中ごろのアルバイトの女性が店じまいをしていた。

僕が近寄ると「すみません。今日はもう終わりなんです」

彼女は「eau de cafe」と書かれた看板のコンセントを抜きながら申し訳なさそうに言った。

「よく昼間にいらっしゃる方ですよね」

彼女はジーパンと黄色いTシャツを着て、ブルーのエプロンをしていた。いつも店で見かけていたものの、思ったよりもよりも長いその髪を後ろで束ねていた。

「そうですか。でも残念だなあ。どうしてもここのコーヒーを飲みたくてね」

「すみません。ここのコーヒー好きなんですか?」

僕が頷くと、彼女は遠くを指差して言った。「この先を駅の方に300M程行った所の最近出来た店、知ってますよね?」

「あそこ美味しいんですよ。ウチよりは少し落ちるけど、でも夜中までやってるし、私いつも仕事終わるとそこでコーヒー飲むんですよ」

彼女に礼を言って、僕はその店を目指した。まあ、しょうがない。とにかくちゃんとしたコーヒーを飲みたかった。缶コーヒーを飲むという選択肢はその時はなかったのは確かだ。


「eau de cafe」から実際には350M程行った所にその店はあった。

ウエイターに「一番酸味の少ないホットコーヒーを1つ」と言い、それはブレンドになりますが、と彼が言うと、「それで」と言って、煙草に火をつけた。

30分程すると、さっきの彼女が目の前に立っていた。

「ここいいかしら」

僕が頷く暇も無く、彼女は僕の前に座った。

「それはもしかして一番酸味の少ないコーヒー?」

束ねた髪をほどきながら彼女は笑いながら言った。

「あなたウチの店に最初に来たときそう注文したのよ。メニューも見ないで、一番酸味の少ないヤツを1つってね」

「そうだった?」

「えーそうよ。よく覚えてるわ」

火星から持ち帰った石を初めて見るNASAの研究員の様に僕のコーヒーを見ながらウエイターに言った。

「同じのね」

彼女は座り直して言った。

「お邪魔だったかしら?」

「もう座っている」

僕がそう言うと「そうね」と言って、テーブルの上の指先で何かを書いていた。

「ねえ、聞いていい?会社はこの近く?」

僕は「eau de cafe」の裏手にある酒造メーカーの名前を出した。

「ふーん。」

僕は、テーブルに置いてある彼女が持ってきた本をぼんやり見ていると

「これ?これは地底人の話よ」

「チテイジン?」

本のタイトルも著者も聞いた事がなかった。

「これはねえ、地底人が人口増加で住む場所が無くなって地上に出てくるの。だけど地底人はずーっと暗い所にいるからすぐには外に出て来れないの。

でね、目を慣らす為に目薬が必要なの」

「目薬?」

「そう。目薬よ。それでね、目薬を確保する為に、目薬が無くて済む選ばれた地底人の男と女2人が地上に上がるの。そして目薬をやっと1万人分手に入れるの」

「それはどれ位の量なの?」

「分らないわ。多分、ドラム缶10本分くらいよ。でも地底人は全部で2万人居るの。だから、その目薬をめぐって地底で戦争が起こるの」

「凄い話だな」

「そうね。目薬戦争よ」

「メグスリセンソウ・・・で、最後は?」

「結局、その目薬を地下水で2倍に薄める事で決着がつくの・・・」

「ふーん。それホント?」

「嘘よ。決まってるじゃない。目薬の部分からはデタラメ。だってまだ10ページしか読んでないもの。でもこの手の本はそんなもんよ。結末はね。」

僕は大きく溜息をついた。

「ねえ、コーヒーは好き?お酒は飲まないの?」彼女は訊いた。

「酒よりもね。朝起きて薄めのを一杯飲んで、夜帰ったら濃い目を一杯飲む。そうそう、あと、昼間は君のとこでね」

彼女は頷きながら髪を耳にかけて言った。

「訊いていい?ちょっとさあ、あなたお酒の会社に勤めているんでしょう?おかしくない?お酒よりもコーヒーが好きだなんて」

「そういう人もいる。寿司の食えない漁師もいる」非常に便宜的な言い訳だった。

「まあ、いるかもね」

「君だって、こうして仕事が終わっても違う店でコーヒーを飲む」

「漁師だって魚屋で魚を買うこともあるわ」彼女も便宜的に言った。

「そうかね」

「そうよ。きっと」

彼女もコーヒーにポーションクリームを一個、シュガーを一本入れた。

「泥んこだ」僕がそう言うと

「何?ドロンコ?」

「そう。泥んこ。小さい頃、公園の砂場で遊んだ時のあの色」

「ふーん。ねえ、なんかあなた変よ。おかしいわ。だって・・・・」彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら言った。

「コーヒーをこんなに飲むのに、毎回飲むたびに「ドロンコ」って思ってるの?」

「毎回じゃない」

「ふーん」

彼女はイヤリングを触りながらそう言うと、僕の頭3つ分上くらい上をめがけて煙を吐いた。

「知ってた?」

僕がまだ泥んこの事を思い出している頃、それを打ち消す様に言った。

「あなたが店に来た時は必ず私がコーヒー落とすのよ。知ってた?」

「いや」

「はあ」彼女は大きく溜息をついた。

それは道端に落ちた蝉の抜けがらを遠くまで運び去る位の溜息だった。

「でもね。ウチの店であなた位美味しそうにコーヒーを飲むお客さんはいないわ」

「そうか?」

「そうよ。きっと一番だわ。だから私が落とすの。普通は落としておいたコーヒーを出すの。でもあなたが来るとそれを捨てて、新しく落とすの」

「美味しいよ。ホント」

「そう?嬉しいわ」

彼女の笑顔はいつも店で見るものよりも美しかった。

「注文してから時間が掛かるのはそのせいよ。あなたが来る時はお昼でしょう?いつも店長がいないときだから。もしバレたら怒られるわ。感謝しなさい。VIPなんだからね、アナタは」

「ありがとう。ホント美味しいよ。僕の落とすコーヒーよりもね」

「どういたしまして」

しばらくして彼女は言った。

「あなたの落とすコーヒーも飲んでみたいわ」


その後、僕たちは近くのバーに行き、そして彼女は僕の部屋に来た。


「ねえ、あなたのコーヒー飲みたいわ」

朝目覚めると僕たちはベットに寄りかかって座り、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、コーヒー色に変色した壁をぼんやり見つめていた。僕は、キッチンでコーヒーメーカーに紙のフィルターをセットし、豆を計量スプーンで2杯入れ、330ccの水を入れる。その間、カップを暖める為に2つのコーヒーカップに水を入れ電子レンジで3分間チンする。しばらくすると2杯分300ccのコーヒーが出来上がるのである。


「美味しいわ」

彼女は、僕よりも多めのクリームを入れ、僕よりも少なめの砂糖を入れる。

二人のコーヒーをすする音が、真夜中の動物園の孔雀の足音の様に部屋に響いていた。

「私ね。ホントは婚約者がいたの」

「へえ」

彼女の小さな溜息が彼女のコーヒーを少しばかりぬるくさせた。

「いたのって・・・・どういう事?」

彼女はその日2本目の煙草に火をつけると、思い切り肺に吸い込んだ後言った。

「フラレタのよ。婚約して、結婚式の会場も日取も決まって・・・でも、彼に別の女がいたの」

「それで?」

「それで彼、その人と別れてちゃんと私と結婚するって言って土下座までして謝ったわ。・・・でも、その姿見てなんか全部馬鹿らしくなってね。この人と結婚してもこれからの人生、何度もその土下座を見るはめになるだろうって」

「でも、フラレタって?」

「そうよ。少し賭けたの。彼、本当に心の底から悔いて、戻ってくるんじゃないかって。もう一度やり直したいって言ってくるかと思ってね。それでね。待ってたんだけど、2ヶ月した後に友人から聞いたの。彼がその浮気相手と婚約したって。」

「酷い話だな」

「そうよ。酷い話。結局、フラレタの。そういう事よ。私、結婚の為に会社辞めてたわ。結局そうなって、でも食べていかなくてはいけないじゃない?

でも、この不景気、再就職なんて難しかったわ。だからあそこの喫茶店で働いてるの」

彼女は両膝を曲げて座り、膝の上ににコーヒーカップを置きながら、しばらくそれを眺めていた。


「おかわり貰ってもいいかしら」

僕はさっきと同じ要領でコーヒーを2杯分落とした。

キッチンから見える彼女は膝を曲げて座り、膝に顎を乗せ、手の平で足の指先を摩っていた。2杯目のコーヒーに砂糖を入れながら彼女は言った

「ねえ、コーヒーを落とす時って、出来上がる量に対して一割増し位の水を入れるじゃない?コーヒーの粉が吸うから。なんかね。私の人生の様なの。学生の時も、会社にいた時も、好きな人と一緒の時も、私が望んだり、目指す物の為にはそれなりに努力して来たわ。望んだり、目指したりする事の結果に対して、それ相応の努力は必要じゃない?努力は水で、結果がコーヒーよ。でね。努力しても、結局の所はその結果は努力よりも若干少ないものなの。コーヒーの様にね。そういうものなの」

二人のコーヒーの湯気は弱々しい糸みたいだった。

「結果にいつも満足出来なかったの。出来たコーヒーが濃すぎる様にね。苦くて飲めないの。でね。もっと努力しようとしたの。そしたら今度は水を入れ過ぎたのね。薄くて飲めないわ」

「そういうものかな?」僕は少しだけ疑問だった。

「きっとそうよ。濃すぎるだけならまだいいじゃない?もっと水を入れてみようってね」

「でも努力し過ぎて、つまり、水を入れすぎてしまって、結局出来上がったものが薄くて飲めないと、人間って弱いものよ。もう諦めてしまうのよ」

「ちょっと待って」

僕は彼女の話を遮って言った。

「豆を増やせばいいんじゃない?」

「違うの。要は、水とコーヒーの関係なの。豆を増やしたってその比率は変わらないじゃない?それと同じ。だから皆苦しむの。あなたも私も、みんなね。美味しいコーヒーを入れるのには、豆と水の絶妙なバランスが必要なの。その比率を知る事って難しいわ。更に、豆も水も悪い、コーヒーメーカーはおかしくなってる。そんな事だってあるのよ。人生と同じよ」

彼女は3本目の煙草に火をつけ、ボブディランのポスターに向かって煙を吐いた。

「別れた彼との時もそうよ。水を入れすぎても、少なすぎても、つまりそれは愛情ね、相手は去っていくものよ」

僕はしばらくの間、考えていた。

彼女の言う事には全て賛成は出来ない。しかし、そこには小さな真理がある。僕らは、夢や希望や目標の為に努力する。そしてそれが予想よりはるかに大きいものが必要だという事も知っている。しかし、頑張り過ぎても空回りする時もあるし、いい加減な小さな努力でも結果は目に見えている。

絶妙なバランス。確かにそうだ。

「私はね。私の場合だけど、コーヒーの様に一割増しの努力にしたの。それが私らしいのかもしれないわ。疲れないし。それがしっくりくるのね」

僕は、煙たくなった部屋の窓を開けた。週末の朝の静かで柔らかい風がそっと彼女の肩を叩いた。そして彼女はその肩を震わせて小さく泣いた。


それから彼女の働いている「eau de cafe」で46杯、彼女の落としたコーヒーを飲み、週末の朝、僕の部屋で僕の落としたコーヒーを32杯彼女は飲んだ。

それだけの時間が経ったある日。「あなたのコーヒーは少し薄かったわ。でも美味しかった。ありがとう。」彼女はそう最後に言って去っていった。


そして、青山通り沿いのその店からも彼女は姿を消した。


それからしばらくして、彼女が自分の部屋で自らその命を絶ったのを知った。


                           * * * * * * * *



 地底人の世界。それは地下帝国という。

地下帝国は一面闇の世界なので、彼らは地下水でなくコーヒーを飲む。彼らの法律では15歳の男女は必ず地上に出なければならない。そこで子孫繁栄の為に地上世界の結婚相手を見つけなければならない。彼女ら(彼ら)はその条件として、自分がそれまで飲んでいたコーヒーの味と同じのを好む地上人を選ぶ。地下帝国の若者のファッション雑誌では、「結婚する相手の条件」の一位は「美味しいコーヒーを入れられる人」である。そして「結婚相手にしたい人の住む地上の国ベスト3」は一位「コロンビア」二位「イタリア」三位「フランス」なのだ。

 そう、僕の出会った彼女達は地底人だったのかもしれない。

一人、僕は部屋でコーヒーを飲みながら、彼女の持っていた「地底人」の本について想像していた。時折、コーヒーで黄色く変色した煙草のフィルターに吸い込まれそうになった。

 

・・・一割増しの努力・・・・

あの時彼女の発した小さな音の端切れが、泥の様なコーヒーの表面にそっと着地して、ゆっくりと沈み、そして消えて行くのを眺めていた。




                           * * * * * * * *


 数年後、僕は結婚した。彼女は少なからず地底人ではなかった。


「コーヒーは嫌いじゃないわ。でも、私にしてみればそれは自転車の雨避けの様なものよ」ある朝、彼女は言った。

「アメヨケ?」

「そう。雨避け。自転車の雨避けは・・・・雨の降っていない日は必要ないわ。雨が降っている時でも自転車に乗ってなければ必要ないわ」

僕は首を傾げた。

「でしょう?晴れた日に自転車に乗ってる時でも必要ないわ。雨の時は歩く時も車の時もある。でも、雨の日にどうしても自転車に乗らなくてはならないときは、やっぱり必要ね。そういうもんよ。私にとっては」

「じゃあ、君がコーヒーを飲むとき、いや飲む必要があると感じる時はどんなときなんだい?」僕は訊いた。

「そんなの分らないわ。私にとっては・・・そうね形而上的なものなの」

「形而上的?」

僕はそれ以上続けるのをやめた。

それでも、僕たちはほぼ毎朝、テーブルで向かい合いながらコーヒーを飲んだ。僕がコーヒーが好きで毎朝飲んでいるので、自然と彼女も付き合う様になった。

僕が落としたり、彼女が落としたり、ただ彼女の落とすコーヒーの味は一定ではなかった。僕はあまり気にしない。そして彼女も、コーヒーを「自転車の雨避け」のごとく、ただの黒い液体として胃袋の中に流し込んでいた。 彼女は気分でブラックの時もある。砂糖だけの日もあれば、クリームだけの日もあった。でも概ね、僕と同じ泥んこのコーヒーを飲むのが習慣となった。また、彼女は紅茶の時もあれば、オレンジジューズの時もあった。僕は別に何とも思わなかった。

次第に僕たちは、月、水、金曜日は僕がコーヒーを落とし、火、木、土曜は彼女が落とした。日曜日は気分の向いた方だった。彼女のコーヒーの味はそれでも一定ではなかったが、紅茶やオレンジジュースを飲むことはなくなっていた。僕たちが毎朝コーヒーを飲むのは、新入りの坊主が毎日境内を掃除するかごとく、もしくは総理大臣の秘書が毎朝「総理、昨日はよくお休みになれましたか?」というセリフの様に、当たり前の様に日常に溶け込んでいった。



そして、僕たちが結婚してお互い毎朝それぞれ500杯位コーヒーを飲んだであろう、ある月曜日の朝。

僕はコーヒーを入れず、前の日に買っておいたホットココアを入れた。水ではなく牛乳を沸かし、念入りにココアの粉末を溶かし、出来上がる寸前に生クリームとブランデーを少しだけ入れた。そしてそれを茶漉しでこした。

テーブルに2つのホットココアを出すと、パジャマのまま椅子に座った彼女の表情が一瞬曇った。

「アンタ、何これ?」

「ココアだよ。ココア。たまにはいいだろ。君も毎朝飲んで飽きただろう」

「どうして?」

彼女はココアのカップに手をつける事もせず、それをずっと眺めていた。

「ねえ、ねえ、なんでコーヒーじゃないの?」

彼女の声が次第に大きくかん高くなった。

「ねえ、どうしてなの?」

彼女は序々に顔を赤く硬直させながら、両手の平を頭に乗せて言った。

「何で。何でなの?コーヒーじゃないの?」

そして片肘をテーブルにつきながら、手の平でお額を押さえて、そして肩を震わせながら泣き始めた。

「どうしたって言うんだよ。ココアじゃダメかい?コーヒーが飲みたかったのか?」

彼女の思いがけない反応に僕は酷く動揺した。

「別にココアが嫌いな訳じゃないわ。コーヒーが死ぬ程好きな訳じゃないわ。そう、自転車の雨避けよ。でも、何故よ。何故よ。ねえ。教えて」

彼女は両手で頭を抱えて、両目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。

「なんで・・・・なんで、コーヒーじゃないのよ」

そう言うと彼女は頭をテーブルにつき、両手で頭を抱える様にして、いつまでも大きく泣き続けた。


行き場を失った二つのココアの湯気はまっすぐに天井に吸い込まれていった。

僕はそれを見ながらぼんやり地底人について考えていた。(了)

らぷりらぷり 2004/07/08 19:30 話が中途で終わった感は拭えないのですが面白く読めました。

2004-06-26 『観覧車』

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 夏草が陽光をたっぷりと吸い込み、風がカサカサと潮の音を運ぶ。耳を澄ます。カモメが中空で旋回する。

広大な芝生の斜面をどこかの子供達が転がっていく。空には千切れた雲の端切れが斑点の様に澄み切った空にぽっかりと浮かんでいる。


16年ぶりに再会した僕らは、海辺の公園の木製のテーブルを囲んでいた。

高校を卒業した歳に取り壊された僕らの高校の跡地に、平らでのっぺりとした海浜公園が出来ていた。

僕は卒業して東京へ行き、数年前に結婚して二人の子供がいる。ここから100KM程離れた都市へ行った男は結婚したばかりだった。この地で家業を継いだ男は「最近フラれたんだ」と笑いながら言った。北海道に住んでいる男は、一人息子が小学生に上がる年に10トントラックに轢かれて死んだんだ、と言った。「まるで蛙かなんかみたいだったんだ。ペシャンコでね」


離れた芝生の上で僕の幼い息子達は、紙飛行機を作ってあげると、交代で飛ばし合いながら、風に乗ったそれを追っかけていた。紙飛行機はひらひらと、幼い子供達の木の枝の様な4本の足はクルクルと、糸の様なか細い4本の腕は空に浮かぶ紙飛行機に向かってバタバタと目一杯に突き出していた。


僕らの目の前で巨大な観覧車がゆっくりと回る。空に浮かび、地に沈む。

僕らは会話に詰まるとそっと見上げて観覧車を見る。誰かの子供がどこかの親に手を振る。

客に恵まれないその観覧車の足元で、多分ここで生まれ育ったであろう、風で吹き飛んでしまいそうな痩せて年老いた男が料金を受け取る。下りてきた観覧車のドアを開けて、客に軽く会釈して「お疲れ様でした」と言う。これから上り始める観覧車のドアを閉め「いってらっしゃい」と言う。彼は毎日それを幾度となく繰り返す。しかし彼自身は観覧車に乗る事はない。


遊び疲れた息子達が駆け寄る。

「パパ。ぼくたちものりたいな」

僕らは無言のまま顔を見合わせて全員が立ち上がった。そして観覧車へ向かってゆっくりと歩き出した。

一人が立ち止まって言う。

「アイツは死ぬべきじゃなかったんだ」


潮風が頬を打ち、草を踏みつける柔らかな音が聞こえた。


観覧車がゆっくりと上昇すると、アイツを飲み込んだグレー色の海がひっそりと横たわっている。地平線は立ち込めた雲の塊のせいで滲んで薄ぼけている。遠くで巨大な鉄の塊が浮かんでいる。


僕らの16年の間、この観覧車はどれだけ回りつづけたのであろう。

どれだけの波が打ち寄せられ、どれだけの風が吹き、どれだけの鳥が羽ばたいたのだろう。

もう一度考える。

僕は、そして彼らは、それぞれこの16年間にどれだけ泣き、笑ったのだろうか。

どれだけのものを傷つけ、失い、損なったのだろうか。

どれだけの愛を受け、どれだけの愛に生きたのだろうかと。


僕らは空に浮かび、地に沈む。


地上に着くと僕は係員に一万円を差し出した。

「これで乗れる分だけ、乗らせて欲しいんだ」


観覧車は何度も回る。同じ場所を飛び立ち、同じ場所に降り立つ。


息子の一人が窓から放った紙飛行機は風に乗って真っ直ぐに海に向かって飛んで行った。


「わあ! すごいや」

2004-06-22 アメリカン・モーニンング(前編)

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『さよならを言うのは、わずかのあいだ死ぬことだ』(『長いお別れ』/レイモンド・チャンドラー)

                             * * * * * * *

父は故郷を失った。

ここでいう故郷とは非常に限定された便宜的な意味合いを持つのかもしれない。

父の故郷は今も存在するし、これからも存在するだろう。そして、それは父がこの世から消えてしまったとしても永久的に存在するだろう。仮に父の故郷(非常に山奥の農村なのだが)が都市計画で高層ビルが立ち並んだとしても、山が無くなって高速道路が出来ても、当然父の実家が取り壊されても、川が埋め立てられても、市町村合併で故郷の地名が無くなっても存在し続けるだろう。それは緯度と経度によって表わされる実存的な意味における故郷である。

しかし、父は故郷を失ったのである。便宜的な意味においての故郷。そしてそれを僕も感応する事になる。

                             * * * * * * *

それは 今から半年前だった。

叔父(父の一番上の兄)は癌で数ヶ月前から入院していた。

この一週間が山だろうという事で、亡くなる数日前に医者の勧めで、兄弟や孫や親戚を全員呼んでいた。生きている間に顔を見させてあげたいというのである。遠いところから来る者もいて、当然父もその一人だが、それがいわゆる最後の別れになる事を意味していた。父も仕事が忙しかったので、一泊して兄(つまり僕の叔父)と最後の別れをして帰ってきた。父が次に故郷に帰るときは、それが伯父の葬式である事は明白であった。

それは父が実家から戻ってたった四日後の事だった。だからその電話は当然予期されていたものだったし、僕ら家族は、悲しみを除いてはそれ程の驚きを感じなかった。

あと数週間で年が終るいう十二月の晴れたある日。父と僕と兄は喪服を手にぶさらげ、新幹線で父の実家に向かった。まだ結婚していない二九歳の僕と三四歳の兄と還暦を過ぎた父。(僕の母は昔に死んでいる)目には見えない、しかしエンジンのどこか大事な部品を失ってしまった中古車の様な家族だ。

「オマエ達もこの前来るべきだったんだよ」

車中で変わり行く景色を見ながら父はそう言った。叔父の最期に会わせてやりたかった、いや会うべきだった言う。そうだった。僕と兄は頷くだけだった。事実、同じ従兄弟は皆来ていたそうだ。叔父は、僕達兄弟が来なかった事を悲しみ、残念がっていたらしい。僕と兄は約二十年ぶりに父の実家に向かう事になる。二十年ぶりの叔父との再会がこの様な現実である事を悲しみ、寂しかった。僕は生きている叔父ともう一度会うべきだったのだ。多分、兄もそうだ。 そして途中、私鉄に乗り換えて数時間。駅からタクシーで三十分程の所にその村はあった。二十年ぶりのその村は、それでも何一つ変わっていなかった。山と森と林と田んぼと畑が典型的に存在する。東西に流れる大きい川が一つだけあり、そこに架かる橋はバス通りとなっている。鳥の声と、風の音と、土の匂いしかなく、冬の冷たさを持つ白濁色のアンダートーンに緑色と茶色の絵の具だけを無造作に散りばめた水彩画の様な風景だ。小鳥達の問いかけにも、風の囁きにも、森と山と大地は死者の魂を迎えるべく厳粛な沈黙を守り続けていた。

そして二十年ぶりに僕と兄は多くの人と再会した。

父の兄弟、兄と姉は酷く歳をとっていたし、彼らの息子や娘達(僕らの従兄弟)は結婚しているのもいた。その結婚相手とは当然初対面だった。更に彼らには子供が出来ていたし、幼稚園生から高校生までの多くの命がこの二十年の間に誕生していた。僕が二十年前(小学生の頃)何度か遊んであげた子供達は既に社会人になっていた。皆がそれぞれの再会を喜び、今までのそれぞれの歩みを語った。座敷には数十人の人間がひきしめ合っていた。多分、僕が東京の街中ですれ違っていても誰も気付かないだろう。村の不変に反して、時の流れの持つ意味を誰もが噛み締めていた。

父は十六歳迄その村で育ち、父(つまり僕の祖父)と大喧嘩をして、家出同然に村を飛び出し東京出てきた。父の実家は村の名家で、広大な畑と田んぼ、そして幾つもの山を所有していた。村でテレビを一番初めに買ったと言うのを昔父から聞いた記憶がある。父は東京に出ると貴金属加工の職人として丁稚奉公をし、どの同期よりも一番早く独立をした。時を同じくして母と出会い結婚し、二十代半ばにして(僕の生まれた町に)家を建てた。結婚を期に両親(特に父)とも和解し、もともと兄弟同士仲が良かったので実家や兄弟と良好な関係を続けていた。(僕の)母が死んだ時も、実家や兄弟は父に対し、非常に暖かい手を差し伸べてくれた。それから(父の)父と母が、そして数年前には一つ上の兄も亡くなった。そして今回、長男も亡くなってしまった。そうして実家は、長男(叔父)の息子の代に受け継がれ、その子供達も成人する歳になっていた。

実家の居間の片隅で一人ぽつんと遠くから兄の祭壇をぼんやり見つめる父の姿は、小さな窓の隙間から迷い込んだ蜜蜂が花瓶の花に止まって、消えたテレビのブラウン管に映る自分の姿を見つめている様だった。突然、父はその居間の片隅から叔父の祭壇に向かい、叔父の名前を呼びながら崩れ落ちた。父のそんな姿を見るのは初めてだった。

僕ら兄弟は自然と席を外し玄関へ出ると、中庭では喪服に身を包んだ大勢の親戚達がドラム缶で焚き火をして暖をとっていた。炎は空気を燃やし、吐く息を吸い込んでいった。薪はカタッという音を立てながら炎に飲み込まれ、炎は勢いを増し、そして弱まると新しい薪を取り込んでいった。僕らはその繰り返しを眺めながら煙草を吸っていた。炎を取り囲む様に遊びまわる子供達、再会に話が弾む者達、叔父の思い出話にふける者達。傍らで死に行った人間がいて、そして燃え盛る炎を中心にしてそこには生のエネルギーが満ちていた。叔父が残した命、叔父が創り上げた何もかもが脈々と生き続けていた。

葬式は村人全員が参列する程の規模だった。僕はその間、二十年前の叔父の面影を追っていた。夏休みに朝早く起きて一緒にカブト虫を捕まえに行ってくれた叔父。ビールでは無くよくコーヒーを飲んでいた叔父。一緒に紅白歌合戦を見ながら隣で年越そばをすする叔父の横顔。しかし、何故か涙は出なかった。薄れていく限られたそれらの記憶しか存在しない事自体にやるせなかった。二十年という歳月は長過ぎたのだ。あまりに、そして十分に時は流れ過ぎていってしまった。

葬式が終わって、僕ら家族三人は夕刻前のほんのわずかな時間に散歩をした。それは父の少年時代の遊び場でもあり、僕ら兄弟が夏休みに遊び回った場所だった。

実家を出ると左右に道が分れ、右へ行くとバスと通へ出る。僕らは左へ曲がった。アスファルトの道は賞味期限の切れたクッキーの様にひび割れをしていた。数十メートル程行くと急に暗い竹やぶが広がった。乾ききった冬の風は笹の葉を揺らし、それ以外の音がこの世界から消されてしまった様だった。そして前触れも無くアスファルトは土の道になり、ゆるやかな傾斜を登った。登りきると同時に竹やぶは突如姿を消し、一面に広大な畑と田んぼが姿を現した。真っ白な空はその領土を目一杯に拡大させ、わずかな鳶と鷲とカラスが、その広大な空に飛行する場所を弄んでいた。各々が好き勝手に鳴き声を響かせていた。田んぼと畑は地平線まで続き、真ん中には農道が一直線に果てしなく続いていた。その向うには、古代中国の都市の城壁の様に、誰の侵入も許さぬかごとく、その不揃いの山々が全面に広がっていた。

僕らは農道をしばらく歩き、途中で右に折れ、田んぼと田んぼの間の道をひたすら歩いていた。何も遮るものがないせいか、風は北から南、東から西、左から右、上から下へと、僕らの存在を無視する様に吹き荒れていた。僕らは一言もしゃべらず、遠くの木々が揺れる硬い音と、風が風を押しやる鈍い音だけに耳をすましていた。次第に農道は小さな林へ入っていった。あたりは急に暗くなり、様々な木の実の匂いに支配されていた。林を少し行くと池があった。昔、僕ら兄弟が、当然父の小さい頃もだが、よく遊んだ池だ。小さな林の中心を丸く刳りぬいた様に直径三十メートルくらいの池だった。水は澄み渡り、水面は恐ろしい位に波一つ立ててなかった。ちょっとした魔法があれば一瞬にして固まってしまうかの様だ。

父は少し離れた所でその池の水面をじっと眺めていた。時折、落ち葉を踏みつける音だけが聞こえた。父は小さな石を拾い上げると、思い切り池の中心に向かって投げた。その音はそのまま林の隙間に顔を覗かせた空にまっすぐと吸い込まれていった。父は僕らに何か言おうとしたが止めて、ポケットに手を入れたまま、投げた石で出来たかすかな水面の波紋を目で追っていた。林も池も、そして僕らも、深い静寂に中に取り残されていた。

そして父はその日、決定的に故郷を失った。便宜的な故郷の喪失だった。

(父の)父が死に、母が死に、すぐ上の兄が死んだ。そして長男が死んだ。父はこれまであまりに多くの身内の死に直面してきた。それは父の歳であればそれ程珍しくないのかもしれない。しかしその度にゆっくりと故郷の一部を一つづつ失ってきた。それは回転扉のガラス扉が一枚ずつ無くなっていく様に。そしてその回転扉はピタリと回転を止め、ただの一枚の大きなガラス板として入り口を塞ぐのである。ガラスの向うにはそれでも故郷は存在し続ける。向う側から誰かが言うのである。

「あなたの故郷はここに在りますよ。ずっと。例えどんなに変わろうともここはあなたの故郷ですよ。いつでも戻ってきていいんですよ」

しかし、その声はぶ厚いガラス板に遮断されて、父の耳には届かないのである。父は便宜的な故郷を失って、ガラス板の前に静かに佇んでいた。

                            * * * * * * *

僕にも一応故郷はある。厳密に言えばそれが故郷という代物であるかは分らない。そもそも故郷という定義すら分らない。時間に限定されたものなのか、距離に限定されたものなのか。

僕は二四歳までその町で育ち、家族(父と兄)で今の町に引っ越した。しばらくして僕は実家の近くで一人暮らしを始めた。その町は、今の町から電車で三十分程の距離にある。今の町のどこか一番高い鉄塔に登ればあの町の雲を発見出来るかもしれない。あの町の空を飛ぶ鳩は一時間後、僕の頭上を飛び回るかもしれない。それ位の距離だ。

その町は、駅前にロータリーがあり、バスターミナルがあり、東西南北かなり遠くまでの経路を数え切れない程抱えている。いつもテレビの取材が来てそうな商店街であり、大型量販店でも出来そうものなら一斉発起して反対運動をしていしまうのである。少し行くとバス通りがあり、それと交わる様に大きな幹線道路がある。その町は街工場の町として栄え、今でもその幹線道路沿いには小さな工場が幾つも立ち並ぶ。車の騒音と、工場のプレスの機械が金属を型で打ち抜く音が混ざりあって、タイヤと油の匂いと共に町中に漂っていた。当然、大きなスーパーもあるし、コンビにも幾つかあるし、小学校と中学校もある。下町の専売特許の様な街だ。

僕が二四歳までどの様にその街で育ったかはあえて書かない。ごくありふれた普通の少年時代だった。ちょっとした悪さもしたし、学生時代には好きだった女の子とその街を歩いた甘酸っぱい思い出もある。そして僕は、僕という人間の九〇%をその町の中で形成された気がする。ホットケーキの最後にのせるバターを除いた部分までだ。

その町の友人達は、僕が小学生と中学生時代の友人である。僕が二四歳で今の町に引越してから現在に至るまで、僕はその町の友人達と非常に良い関係を保ち続けている。高校以降に出来た友人達と同じく、その古い友人達とも公平に付き合ってきた。いつも五〜六人のグループだった。それぞれが高校生になっても、就職をしても、僕達は会っていた。時にはAとBと僕。CとDとEと僕。ある時には僕を除く皆。僕が引っ越してからも、その度に僕はその町まで行って飲んだ。彼らの殆どがその町に住んでいるという単純な理由であった訳だが、僕はその町に行く度に落ち着いた安らぎを感じた。単なるノスタルジーではない。僕の中の大部分がまだそこの町に存在する様な、そこに同化する度に僕の中に在る小さく美しい何かが顔を出すのである。それは他人にとって美しいものではない。造形者は僕であり、鑑賞者は僕だけである。それだけだ。

その友人達と飲む時どんな話をしただろうか。昔オマエはこうだったとか、こんな悪さを一緒にしたとか、駄菓子屋のオヤジが面白かったとか、中学校の先生がよく言っていた口癖の事とか。そして、会う事がなくなった同級生の誰が今こんな仕事をしてるとか、結婚したとか、厄介な問題に巻き込まれて消息不明とか。また、現在の恋人の話とか、仕事とか、未来や将来の事とか。笑いがあり、沈黙があり、少し興奮して話したり。僕らはテーブルを囲んで語り合っていた。

僕がその町を離れてから、それでも少しづつ僕らも町も変化し続けていた。空き地にビルが建ったり、それまであった店が姿を消し、新しい店ができ、公園の砂場が埋められてなくなったりした。道が広げられ、新しい住宅地が出来たり、ファーストフード店やファミレスも幾つか出来た。それでもその町は全体的に見ればそれ程の変化はなかった。どこかの国で紛争があっても、どこかの軍隊が遠い国に攻め込んでも、どこかの国王が死んでも、地震や火山の爆発があっても、地球がそれでも丸く、太陽の周りで恒久運動を続ける様にだ。

しかし僕らは変わった。それは僕が今の町へ引越てから数年してからだった。友人の一人が仕事の都合でその町を離れ、別の友人が結婚して出て行った。一人暮らしを別な町で始めた友人もいた。そして今から一年前に、僕が二八歳の時に最後の友人がその町を出て行った。

僕がその町に行くことはもう無くなっっていた。それは小さな欠落感だった。

                              * * * * * * *

それからしばらくして、つまり今から半年前の事だった。叔父が亡くなってすぐの頃だった。

僕はその町でその人と再会した。何故、そしてどんなきっかけで僕がその町を訪れたかは思い出せない。友人が誰もいなくなったその町にその時何故僕がそこに居たか、分らない。多分、仕事の関係とか、何か些細な事だった様に思える。その時、僕は駅前の本屋で本を読んでいた。一月のやけに風の強い底冷えした夕方だった。

「ねえ、花田君でしょう?」

その時、僕の前に立っていた女性は紺のスカートを履き、グレーのタートルネックを着て、ベージュのコートを羽織っていた。ブラウンのマフラーを無造作に巻いていた。それでも全体的には小奇麗にまとまっていた。身長は僕より十センチ程低く、軽く脱色した髪は肩まで伸びていた。心地いい笑顔と清潔感が本屋の紙の匂いをかき消していた。僕の名前を言ったその女性が誰であるか、それが判明するのにひどく時間が掛かった。薄暗い記憶の鉱山の第三ゲートから入り、トロッコに乗ってまっすぐ進み、T字を右に曲がり、しばらくして突き当りに一枚のドアを見つけた。そのドアの上にはその町の名前が書いてあり、薄っすら埃が被り文字の一部が消えていた。僕は持っていた幾つかの鍵を鍵穴に差し込んだがドアは開かなかった。すると突然ドアが向こう側から開いて、その女性が立っていた。

「覚えてる?私よ。シノハラユキコ」

扉の向うの暗い部屋の灯かりがつき、その彼女が誰であるか初めてわかった。

「シノハラユキコ・・・・うん?篠原由紀子・・・・ああ、覚えてるよ」

僕と彼女は、小学一、二年生の時、中学でも三年生の時だけ同じクラスだった。彼女は、よかった思い出して、という様なホッとした表情を見せて笑った。

「凄く久しぶりね。何年ぶり?」

「十五年位かな?だって中学を卒業してから会ってないよ。多分」僕は持っていた本を元に戻した。

「そうね」と彼女は言って、もう一度僕の顔を覗き込んだ。

「花田君、全然変わってないね」

「そう?」

僕は、彼女のその言葉に少しだけ気持ちが暗くなった。三十歳を目前にした男が中学からあまり変わっていないという事実を聞かせれる事はあまりいい気持ちがしない。それが彼女にとってのささやかな親切心を内包した嘘であると望んでも、十五年ぶりに会う人間に対して唐突に出た「変わってないね」という言葉にはそれなりに重みがある。そしてそれは客観的に揺るぎない事実として、俺は変わってないのだな、という死刑宣告に似た鋭さを持ち合わせていた。僕は咄嗟に本屋の入り口のガラスドアに映る自分の姿をぼんやり見つめていた。

「篠原は変わったな。最初全然分らなかったよ。ホント」雑誌の表紙に写った名前も知らない女性のタレントに向かって話し掛けている気がした。彼女は実際変わったし、彼女が自分の名前を言うまでは気付かなかったであろう。しかし、それでも久しぶりに会う女性に対する礼儀としての言葉だった。

「花田君は今日どうしたの?遊びに来たの?」

僕はかぶりを振った。

「花田君の家は確かだいぶ前に無くなってるよね。引っ越して今どこに住んでるのかしら?

僕は今いる町の名前を出して、そして家を買って家族で引越し、今は実家の近くで一人暮らしをしている事を言った。

「へえー。」

自然と僕らは本屋を出た。

「篠原はまだこの町に住んでるの?」

「ええ、そうよ。まだ実家に住んでるわ」

「ここも変わったね。だいぶ」僕は駅から家路に向かう人の群れを見ながら言った。

「ホント変わったわ。新しいお店が沢山出来たし」

僕らが駅の正面に着いた頃、彼女は言った。「花田君、帰るの?」

僕はその日、別に用事がある訳じゃなかったので「いや。」と言うと「少し話さない?」と彼女は言った。僕が頷くと、彼女は目の前の喫茶店を見つけた。

「あそこにする?」彼女がそう言った後、僕はしばらく考えていた。

「どうせなら飲もうか?もうお互いに十分に酒の飲める歳だし。篠原は時間大丈夫?」

「そうね。なんかつのる話もあるし」と彼女は心地いい返事をした。

そして、僕らは近くの居酒屋に入った。

最近出来たであろうその店の奥のテーブルに座り、生ビールを二つ注文して乾杯した。お互いにお腹が空いていたので幾つかのつまみを注文した。彼女は近くで見ると本当に中学生の頃の面影をなくしていた。それは良い歳の取り方をしていたし、事実、美しい大人の女性になっていた。彼女は昔大人しく、それ程クラスでは目立つ存在ではなかった。休み時間にはいつも一人で読書をしている様な存在だったし(本当に読書をしていたかは思い出せない)、特にピンク色の服をよく着ている事だけは鮮明に覚えていた。何度か席が隣になった時にはノートを見せてもらった記憶がある。勉強はそこそこ出来たし、聡明な感じがあった。誰から嫌われるといった類の人間ではなかった。その部分においては目の前の彼女はあまり変わらない様な気がする。

まず小さな沈黙があった。それは僕らがこの十五年の間に何があったか、何からしゃべり、何を話し、何を話すべきじゃないか。それを何十年前の大掛かりな計算機の様にゆっくりとその答えを弾き出していた。そうしながら僕は煙草に火をつけ、彼女はその細い手で何度も髪をかきあげた。とりあえず僕がゆっくり話し始めた。二四歳で今の町に引っ越した事。高校に入ってからも仲の良かった連中と遊んでいた事。それが今も続いている事。つい一年前までは遊びによくこの町に来ていた事。しかし仲の良い連中が今では皆出て行ってしまって、今日はたまたま一年ぶりにここに来て君と偶然会った事。彼女は、僕の言葉一つ一つに頷き、会話の中の友人の名前(当然彼女も知っている訳だが)に何度も「なつかしいわ」と言いながらジョッキに口をつけていた。

「皆、元気なのね。でも、花田君は最近までこの辺で飲み歩いていた訳でしょう?それでも一度も会わなかったなんて不思議ね」

「そうだね」僕は頷きながらビールをおかわりした。

「ねえ、花田君は今でもみんなと遊んでいる事は分ったけど、花田君自身はどんな十五年だった?」

僕はしばらく考えてから笑って言った。

「人並みの高校に入って、人並みの恋愛をして、人並みの会社に入って、人並みの給料を貰って、人並みに酒を飲んで、人並みに煙草を吸う。かな」

彼女はつまみの唐揚げの衣が全部吹き飛んでしまいそうな位の大声で笑った。

「ねえ、面白いわ。ホント。そいういう所は全然変わってないね。」

「そうそう、でも人並みじゃないのは記憶力かもね。私の事、最初気付かなかったし・・」彼女は付け足して言った。

「だね。」

彼女は二杯目のビールを注文した。

「今、何の仕事してるの?」

「小さな広告代理店で働いてるよ。」

「へえ。凄いじゃない」

「全然」僕はかぶりを振った。

「小さな飲食店のPRや、町のフリーペーパーの求人とかね。あとはスーパーのチラシや折込なんかね」

実際にたいした仕事じゃなかった。ちょっとした戦争や天災があれば、一番最初に社会から剥ぎ取られていくような仕事だ。クライアントにも印刷所にも何かあればしょっちゅう頭を下げる。僕に頭をさげる人間はスーパーのレジ係り位なものだ。

「本当に人並みの仕事さ。会社の机の数はこの居酒屋よりも少ないぜ」僕は周りを見渡して言った。彼女は、無理やりに表面にニスを塗ったみたいな乾いて腐りそうな刺身を箸で突付きながら、それを食べようか迷っている様子だった。

「ねえ、覚えてる?花田君の卒業アルバムの一言コメント」

「ヒトコトコメント?」

「そうよ。一言コメント」僕はその言葉を空中で描いてみた。

「花田君はねえ、『人並みに精一杯生きます』って書いたのよ。覚えてない?」僕は全然思い出せなかった。

「それにしても凄いコメントだな。究極的にポジティブで、究極的にネガティブな言葉だ」

「だから花田君のさっきから言っている「人並み」って言葉。やっぱりあれから変わってないんだなあって思うの」

彼女はセーターについた毛だまりを二つ程つまんで、灰皿に捨てた。その間も平均的な笑みを浮かべていた。

「でもね。この歳になって分ったけど、人並みに生きる事も、精一杯生きる事も結構難しいって思うわ」

「確かに・・・・・篠原はどうなの?」

「だから花田君は卒業アルバムに書いたとおり、人並みに、精一杯生きてるんでしょう?それって凄い事よ」彼女は僕の質問を無視して言った。

「でも。精一杯かどうかは分らないな。まあ、そのつもりだけど」その答えに彼女は小さく頷いた。

「そうそう。私ね・・・・」彼女は思い出した様に言った。何か衛星中継で話しているみたいだ。彼女は少し考えた後、グレープフルーツサワーを注文して、改めて座りなおすと話はじめた。

「私は短大を卒業して、多分、花田君のとこよりも小さい洋服のデザイン会社に勤めたわ。でも、その会社も二年前に倒産して・・・その後は、派遣の仕事をしているの。主に端末の打ち込みなんかね。まあ、食べては行けるけど」

彼女は、サラダのトマトの部分だけを意識してどけながら、それを口に運んだ。そういえば彼女は中学の時、いつも給食でトマトを残していたのを思い出した。そのトマトは洗濯を終った後に洗濯層に残った十円玉の様だった。本来、戻るべき所を待ちわびているかの様な憂鬱な表情をしていた。そして彼女も今そんな表情をしながら、僕の肩口をぼんやり見つめていた。

「ねえ、花田君は結婚しているの?」

「いや。・・・・・篠原は?」

「私もよ・・・ その点ではお互い人並み以下ね」笑いながら彼女は言った。

「確かに」

僕らはその後、しばらくとりとめのない話を続けていた。

「そろそろ帰らなくちゃ」

二杯目のグレープフルーツサワーを飲み干した時だった。

「ああ、そうだね」時間は夜の十一時を過ぎていた。

「とても楽しかったわ。また会って飲みたいわね。花田君がOKなら。」

「構わないよ」僕は携帯の電話番号を紙に書いて渡した。彼女の番号は聞かなかった。

                             * * * * * * *

 僕は家に着くと、その日あった事、すなわち篠原由紀子と十五年ぶりに再会をし、何を話したか思い起こした。

缶ビールを一口飲み、部屋のどこからか探し出してきた中学の卒業アルバムを広げた。そこに写る彼女と僕はあまりに典型的な中学生の女の子と男の子だった。集合写真では僕の右下に篠原由紀子が写っていた。彼女はバトミントン部、僕は天文学部だった。しかし、一度も天体望遠鏡で空をきちんと見た記憶がない。それ以前に彼女と僕の所属クラブさえ忘れていた。今の僕は空に浮かぶ土星と金星の区別すら出来ないし、ましてや空の東西南北すら分らないだろう。夏見えるのはオリオン座?冬は北斗七星?こんな具合である。それらを改めて勉強するより、自分が天文学部に入った理由を思い起こす事が先決である。

篠原由紀子と僕は比較的多く同じ写真に収まっていた。多分、中学三年の時の春の遠足と理科の実験の風景だろう。彼女はいずれもピンクをベースにした服を着ていた。ピンクの服を着た二九歳の篠原由紀子も見てみたい、とも思った。理科の実験の写真では、僕が何かを手にして何かをグループの皆に説明している姿を横から写している。その僕の顔を何か真剣に見つめる篠原由紀子の姿があった。

FMラジオをつけると、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が流れていた。

『やあ暗闇、僕の旧友。

また君と話しに来たよ。

だって、一つの夢が、僕の寝ている間に、

そっと忍び寄ってきて、

僕に夢の種を植えていったから、

それが僕の脳味噌の中で芽を出し、

沈黙の音の中で育っているから。』(『sound of silence』/Simon&Garfunkel・1966)

僕はギターを手にとりそれを弾いてみた。昔スコアブックを買って練習した事がある。結局上手く弾けなかったので諦めて、煙草を一本吸った。缶ビールは部屋の冷たさに一層その温度を下げた様だった。そして僕は胸の中に小さな嵐が吹き荒れるのを感じた。僕が中学三年生の時に篠原由紀子を少しだけ気になっていた記憶だ。当時それが恋愛感情だったかどうかは思い出せない。むしろ好意というものだろう。その思いは決して長く続かなかったのだけは思い出せる。それは道端に落ちていた木の実を、どこからか飛んで来た小鳥が口ばしに挟んで、そのまま飛び去ってしまう位の一瞬の出来事だった。彼女と共に写った写真の中の僕は一体彼女に対しどんな風に思っていたのか。僕は考えるのをやめて、残りのビールを一気に飲み干した。

                             * * * * * * *

篠原からの電話はその二週間後だった。僕は人並みの会社に行き、その日人並みの仕事を終えて会社を出た時だった。

「こんばんは。この前はありがとう」

電話口の篠原の声は暗くて遠く、昔観たアメリカのスパイ映画に出てくる秘密結社のボスが新しい指令を出す時みたいな声だった。

「こちらこそ。」

「ねえ、また飲みたいわ。近いうちに」

「いいよ。いつごろ?」

「うーん。今週末はどうかしら」

「構わないよ。どこで飲む?」僕は、通りの植え込みで誰かと携帯で話している若い女の子を見ながら言った。

「出来たら、こちらに来てもらいたいわ。」

「分った。そっちに行くよ。今週の土曜日の夜七時に駅の改札は?」

「うん。大丈夫よ。」

僕が電話を切った時には植え込みの女の子はいなくなっていた。会社から駅へ向かう途中にある馴染みの喫茶店の前で、不意に僕は半年前に別れた彼女の事を思い出した。

                             * * * * * *

ある時期、僕は昼休みにいつもこの喫茶店によく行っていた。

店は「eau de cafe」という名の店である。「コーヒーの水」という意味である。家族でやっている様な小さな店だが、いつも学生アルバイトが交代で何人かいるだけだ。カウンターとテーブルが幾つかある。「カフェ」というよりは「喫茶店」に近い雰囲気を持ち、一昔前の青春ドラマの様に、客が来ると「カラン、コロン」というカーベルの音が聞こえてきそうな店である。といっても、店の主人がいつもコーヒーを落としている訳でなく、主人がウエイターをやったり、アルバイト達がコーヒーを落とす事もあった。ブレンドとアメリカン、そして炭火焼コーヒーやキリマンジャロ、モカなどがあるが、僕はいつもブレンドにしていた。僕は昼休みに週に一、二回はよくそこでコーヒーを飲んだ。

あれはちょうど一年位前だった。

僕はその日忙しくて昼休みに行けなかったが、どうしてもそこのコーヒーが飲みたくなり、仕事帰りの夜の九時少し前に店に行った。店の前では若い二十代中ごろのアルバイトの女性が店じまいをしていた。僕が近寄ると「すみません。今日はもう終わりなの」彼女は「eau de cafe」と書かれた看板のコンセントを抜きながら申し訳なさそうに言った。

「よく昼間にいらっしゃる方よね」

彼女はジーパンと黄色いTシャツを着て、ブルーのエプロンをしていた。いつも店で見かけていたものの、思ったよりも長いその髪を後ろで束ねていた。

「そうですか。でも残念だなあ。どうしてもコーヒーを飲みたくてね」

「ごめんなさいね。ここのコーヒーは好き?」

僕が頷くと、彼女は遠くを指差して言った。「この先を駅の方に300M程行った所の最近出来た店、知ってる?」

「あそこ美味しいわよ。ウチよりは少し落ちるけど、でも夜中までやってるし、私たまに仕事終わるとそこでコーヒー飲むの」

彼女に礼を言って、僕はその店を目指した。まあ、しょうがない。とにかくちゃんとしたコーヒーを飲みたかった。缶コーヒーを飲むという選択肢はその時はなかったのは確かだ。「eau de cafe」から実際には350M程行った所にその店はあった。ウエイターに「一番酸味の少ないホットコーヒーを一つ」と言い、それはブレンドになりますが、と彼が言うと、「それで」と言って煙草に火をつけた。三十分程すると、さっきの彼女が目の前に立っていた。

「ここいいかしら」

僕が頷く暇も無く彼女は僕の前に座った。

「ねえ、それはもしかして一番酸味の少ないコーヒー?」

束ねた髪をほどきながら彼女は笑いながら言った。

「あなたウチの店に最初に来たときそう注文したのよ。メニューも見ないで、一番酸味の少ないヤツを一つってね」

「そうだった?」

「ええ、そうよ。よく覚えてるわ」

火星から持ち帰った石を初めて見るNASAの研究員の様に僕のコーヒーを見ながらウエイターに言った。

「同じのね」

「お邪魔だったかしら?」

「もう座っている」僕がそう言うと「そうね」と言って、テーブルの上で指先で何かを書いていた。

「ねえ、聞いていい?会社はこの近く?」僕は「eau de cafe」の裏手にある会社の名前を出した。

「ふーん。」彼女は、そんな会社聞いた事がないという風に、全く興味がないそぶりで言った。

僕は、テーブルに置いてある彼女が持ってきた本をぼんやり見ていると「これ?これは地底人の話よ」

「チテイジン?」本のタイトルも著者も聞いた事がなかった。

「これはねえ、地底人が人口増加で住む場所が無くなって地上に出てくるの。だけど地底人はずーっと暗い所にいるからすぐには外に出て来れないの。でね、目を慣らす為に目薬が必要なの」

「目薬?」

「そう。目薬よ。それでね、目薬を確保する為に、目薬が無くて済む選ばれた地底人の男と女二人が地上に上がるの。そしてなんとかして目薬をやっと一万人分手に入れるの」

「それはどれ位の量なの?」

「分らないわ。多分、ドラム缶十本分くらいよ。でも地底人は全部で二万人居るの。だから、その目薬をめぐって地底で戦争が起こるの」

「凄い話だな。」

「そうね。目薬戦争よ」

「メグスリセンソウ?・・・最後は?」

「結局、その目薬を地下水で二倍に薄める事で決着がつくの・・・」

「ふーん。それホント?」

「嘘よ。決まってるじゃない。目薬の部分からはデタラメ。だってまだ十ページしか読んでないもの。でもこの手の本はそんなもんよ。結末はね」

僕は大きく溜息をついた。

「ねえ、コーヒーは好き?お酒はあまり飲まないの?」彼女は訊いた。

「酒よりもね。朝起きて薄めのを一杯飲んで、夜帰ったら濃い目のを一杯飲む。そうそう、あと、昼間は君のとこでね。一日三杯は飲む」

彼女は頷きながら髪を耳にかけながら訊いていた。

「君は?」

「ええ、好きよ。昔は駄目だったけど、今はね。あそこで働く様になってから好きになったわ」

彼女はコーヒーにポーションクリームを一個、シュガーを一本入れた。

「泥んこだみたいだね」僕がそう言うと

「何?ドロンコ?」

「そう。泥んこ。小さい頃、公園の砂場で遊んだ時のあの色だよ。」

「ふーん。ねえ、なんかあなた変よ。おかしいわ。だって・・・・」彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら言った。

「コーヒーをこんなに飲むのに、毎回飲むたびに「ドロンコ」って思ってるの?」

「毎回じゃない」

「ふーん」彼女はイヤリングを触りながらそう言うと、僕の頭三つ分上くらい上を目掛けて煙を吐いた。僕がまだ泥んこの事を思い出している頃、それを打ち消す様に言った。

「あなたが店に来た時は必ず私がコーヒー落とすのよ。知ってたかしら?」

「いや。」

「はあ」彼女は大きく溜息をついた。それは道端に落ちた蝉の抜けがらを遠くまで運び去る位の溜息だった。

「でもね。ウチの店であなた位美味しそうにコーヒーを飲むお客さんはいないわ」

「そうか?」

「そうよ。きっと一番だわ。だから私が落とすの。普通は落としておいたコーヒーを出すの。でもあなたが来るとそれを捨てて、新しく落とすの。」

「美味しいよ。ホント」

「そう?嬉しいわ」

彼女の笑顔はいつも店で見るものよりも美しかった。

「注文してから時間が掛かるのはそのせいよ。あなたが来る時はお昼でしょう?いつも店長がいないときだから。もしバレたら怒られるわ」

「感謝しなさい。VIPなんだからね、アナタは」

「ありがとう。ホント美味しいよ。僕の落とすコーヒーよりもね」

「どういたしまして」<

しばらくして彼女は言った。

「ねえ、あなたの落とすコーヒーも一度飲んでみたいものね」


その後、僕達は近くのバーに行き、そして彼女は僕の部屋に来た。

「あなたの落とすコーヒー飲みたいんだけど」

朝目覚めると僕らはベットに寄りかかって座り、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、コーヒー色に変色した壁をぼんやり見つめていた。僕はキッチンでコーヒーメーカーに紙のフィルターをセットし、豆を計量スプーンで二杯入れ、330CCの水を入れる。その間、カップを暖める為に二つのコーヒーカップに水を入れ電子レンジで三分間チンする。しばらくすると二杯分300CCのコーヒーが出来上がるのである。

「美味しいわ」彼女は、僕よりも多めのクリームを入れ、僕よりも少なめの砂糖を入れる。二人のコーヒーをすする音が真夜中の動物園の孔雀の足音の様に部屋に響いていた。

「私ね、ホントは婚約者がいたの。」彼女の小さな溜息が彼女のコーヒーを少しばかりぬるくさせた。

「へえ。でも、いたのって・・・・どういう事?」

彼女は今日二本目の煙草に火をつけると、思い切り肺に吸い込んだ後言った。

「フラれたのよ。婚約して、結婚式の会場も日取も決まって・・・でも、彼に別の女がいたの。」

「それで?」

「それで彼、その人と別れてちゃんと私と結婚するって言って土下座までして謝ったわ。でも、その姿見てなんか全部馬鹿らしくなってね。この人と結婚してもこれからの人生、何度もその土下座を見るはめになるだろうって」

「でも、フラれたって?」

「そうよ。少し賭けたの。彼、本当に心の底から悔いて、戻ってくるんじゃないかって。もう一度やり直したいって言ってくるかと思ってね。・・・それでね。待ってたんだけど、二ヶ月した後に友人から聞いたの。彼がその浮気相手と婚約したって。」

「酷い話だな」

「そうよ。酷い話。結局、フラれたの。そういう事よ。私、結婚の為に会社辞めてたわ。結局そうなって、でも食べていかなくてはいけないじゃない?でも、この不景気で再就職なんて難しかったわ。だからあそこの喫茶店で働いてるの」

彼女は両膝を曲げて座り、膝の上にコーヒーカップを置きながら、しばらくそれを眺めていた。

「ねえ、おかわり貰ってもいいかしら」

僕はさっきと同じ要領でコーヒーを二杯分落とした。キッチンから見える彼女は膝を曲げて座り、膝に顎を乗せ、手の平で足の指先を摩っていた。二杯目のコーヒーに砂糖を入れながら彼女は言った。

「ねえ、コーヒーを落とす時って、出来上がる量に対して一割増し位の水を入れるじゃない?コーヒーの粉が吸うから。なんかね、私の人生の様なの。学生の時も、会社にいた時も、好きな人と一緒の時も、私が望んだり、目指す物の為にはそれなりに努力して来たわ。望んだり、目指したりする事の結果に対して、それ相応の努力は必要じゃない?努力は水で、結果がコーヒーよ。でね、努力しても、結局の所はその結果は努力よりも若干少ないものなの。コーヒーの様にね。そういうものなの。結果にいつも満足出来なかったの。出来たコーヒーが濃すぎる様にね。苦くて飲めないの。でね。もっと努力しようとしたの。そしたら今度は水を入れ過ぎたのね。薄くて飲めないわ」

「そういうものかな?」僕は少しだけ疑問だった。

「きっとそうよ。濃すぎるだけならまだいいじゃない?もっと水を入れてみようってね。でも努力して、つまり水を入れすぎてしまって、結局出来上がったものが薄くて飲めないと、人間て弱いものよ。もう諦めてしまうのよ」

「ちょっと待って」僕は彼女の話を遮って言った。

「豆を増やせばいいんじゃない?」

「少し違うの。要は、水と豆の関係なの。豆を増したって、水を増したって、その比率は変わらないじゃない?それと同じ。だから皆苦しむの。あなたも私も、みんなね。美味しいコーヒーを入れるのには豆と水の絶妙なバランスが必要なの。その比率を知る事って難しいわ。更に、豆も水も悪い、コーヒーメーカーはおかしくなってる。そんな事だってあるのよ。人生と同じよ。」彼女は三本目の煙草に火をつけ、ボブディランのポスターに向かって煙を吐いた。

「別れたその彼との時もそうよ。水を入れすぎても、少なすぎても、つまりそれは愛情ね、相手は去っていくものよ」

僕らはしばらくの間、考えていた。彼女の言う事には全て賛成は出来ない。しかし、そこには小さな真理がある。僕らは夢や希望や目標の為に努力する。そしてそれが予想よりはるかに大きいものが必要だという事も知っている。しかし、頑張り過ぎても空回りする時もあるし、いい加減な小さな努力でも結果は目に見えている。絶妙なバランス。確かにそうだ。

「私はね、私の場合だけど、コーヒーの様に一割増しの努力にしたの。それが私らしいのかもしれないわ。疲れないし。それがしっくりくるのね」

僕は煙たくなった部屋の窓を開けた。週末の朝の静かで柔らかい風がそっと彼女の肩を叩いた。そして彼女はその肩を震わせて小さく泣いている様に見えた。

それから半年間の間、彼女の働いている「eau de cafe」で四十六杯、彼女の落としたコーヒーを飲み、週末の朝、僕の部屋で僕の落としたコーヒーを三十二杯彼女は飲んだ。



『あなたのコーヒーは少し薄かったわ。でも美味しかった。ありがとう』

彼女はある朝、そう書いたメモを残して去っていった。

・・・・一割増しの努力・・・・・

あの時彼女の発した小さな音の端切れが、泥の様なコーヒーの湯気と一緒に薄暗い朝の部屋を漂っていた。その中で僕は一人コーヒーを飲んでいた。

そして、彼女は「eau de cafe」からも姿を消した。それから僕は自然とその店にも行かなくなり、コーヒーすら飲むこともなくなっていた。

2004-06-21 アメリカン・モーニンング(後編)

土曜日は少しばかり雨が降っていた。凄く弱い雨だ。

次の日に誰がが「昨日はいい天気でしたね」と言っても信じてしまいそうな雨降りだった。七時少し前だったので僕は駅から吐き出される人の流れを観察していた。折りたたんだ傘を持ってる者、傘をさしている者、傘を持っていない者。それぞれ三割ずつ位だった。僕は傘を持っていなかった。僕がこうしてこの町の駅の改札に立っている事が不思議だった。そして、僕は最後にこの町を出て行った友人の事を考えていた。彼は勤めていた工務店を辞めて、新しい工務店に入り、この町を出てその会社の寮に入った。付き合っている女性がいるが、やはり実家だと色々不都合があるのだろう。彼が終日前に電話してきた時に、僕は偶然、篠原由紀子と会って、そして飲んだ事を言った。彼は、篠原由紀子の事を僕と違ってすぐに思い出し、そういえば篠原由紀子の体の具合が良くないという事を、自分の母親から聞いた、と言った。具体的には何も分らないと言っていたが、僕は少しそれが気になっていた。

七時を十分程過ぎた頃、篠原が僕の肩を叩いた。彼女も傘を持っていなかった。彼女は改札から出てきたので仕事帰りなのだろう。スリムの黒のジーパンに、グレーのセーターを着て白いハーフコートを羽織っていた。先日会った時よりも少し痩せた感じがした。

「遅れてごめんなさい。仕事だったの。あれ?雨降ってるわね。でも大丈夫そうね」

彼女は手の平を上にかざしながら言った。古いミュージカルの様なあまりにも象徴的なしぐさだった。

「どこに行こうかしら?」

僕は駅から少し離れた所にあるバーの名前を言った。名前だけで一度も行った事がなかった。

「ええ、知っているわ。たまに前を通るけど、一度行ってみたかったの」

その店は商店街を抜けてバス通りを少しばかり行った所にあった。多くの買い物客と、一部の傘をさした年配の女性達の間を縫う様に僕らは歩いた。商店街のあちらこちらには新年を祝うモニュメントが撤去されるのを忘れられた上に、微かな雨に打たれていた。きっと年明けまでこのままなのだろう。それは映画『南極物語』のタローとジローみたいだった。そういえば昔、この商店街を抜けた所に小さなおんぼろの映画館があった。そこで小学生の頃『南極物語』を観た記憶がある。どんな映画かは殆ど覚えていない。今は取り壊されて近代的なスーパーになっていた。

そのバーはカウンターが十席程しかない小さな店だった。客は誰もいなかった。ゴールドラッシュの頃と一九五〇年代のアメリカを、刃がかけてしまったミキサーでかき回した様な店だった。とりあえず狙いは「古き良きアメリカ」なのだろう。壁一面にはR&Bとウエストコーストの名盤が所狭しと飾られていた。まあまあ悪くない店だった。むしろこんな下町ではなくて、246沿い辺りでやればいいのにと思った。マスターらしき若い主人は僕らに軽く挨拶をすると、ひたすらレモンのカルチェを切っていた。多分一年分くらいだ。僕は黒ビール、彼女はコロナを注文した。マスターの切ったレモンはようやく一つ消費された訳である。

「私、この曲好きよ」彼女はイントロのリフに合わせて、右手の人差し指と中指でリズムをとっていた。ドゥービー・ブラザーズの『ホワット・ア・フール・ビリーブズ』だった。悪くない。一九七九年、確か僕らが小学生に入った年、僕が初めて篠原と出会った年の曲だ。

彼女は、今の仕事の愚痴や当り障りのない世間話を始めた。仕事場の上司がエロオヤジとか、派遣で来た連中を人間扱いしていないとか、それでも派遣社員達は我慢して耐えているとか。一人の派遣社員はそれでもエロオヤジに媚びを売って、彼女がその上司と不倫しているのではないか、とか。彼女は十八回溜息をつき、その間に二本目のコロナを空にしていた。僕はその間、二本煙草を吸い、つまみのカマンベールを四切れとミックスナッツを十五粒食べていた。マスターは次にライムのカルチェを切り始めていた。これもおそらく一年分なのだろう。

「花田君は仕事大変?」

「いや。大変だけど、大変な様に追い込まない様にしているよ。自分で。要領よくね」

「花田君らしいわ・・羨ましいなあ」

僕はジンライムを注文した。その時、常連客らしい三十代前半のカップルが入ってきた。男性の方が何やらマスターと話し込んだ後、ランディ・ヴァンウォーマーのアルバムをリクエストしていた。二曲目の『アメリカン・モーニング』がかかり始めると、篠原は言った。

「これって、恋人達の幸せな朝のひとときを歌った歌じゃないのよね。朝に彼女のほうが去っていってしまうという悲しい曲だって、最近知ったわ」

「ねえ、花田君は彼女いるの?」彼女はミックスナッツの殻を手の平で弄んでいた。

「いいや。」しばらくして言った。「篠原は?」

「うん、私も。別れたわ。三ヶ月にね。でも、結婚も考えていたんだけど、私自身の問題で色々あってね。それで・・・・それで向うのご両親がそれを知ってね。彼に別れるように言ったらしいの・・・でも・・私は二人だけの問題だから大丈夫って思ったわ。でも、最終的に彼は彼の両親に従う形でね・・・それで・・それで終ってしまったの」

「ねえ。聞いちゃいけないかもしれないけど、その君自身の問題って何?」僕は訊いた。

「うん。それはね・・・」彼女はしばらく指のマニキュアを眺めていた。

「花田君に言ってもしょうがないわ。実際に私自身にもどうする事も出来ないし・・・ごめんなさいね。変な話で」

「いや。構わないよ」

「花田君はどうして別れたの?」

「分らないな。ある朝、彼女は既にいなくなっていたんだ。そして二度と戻らなかった。それだけ。ホントさ。『アメリカン・モーニング』みたいにね」

「そうなんだ」彼女はそう言った後黙り込んだ。彼女の三本目のコロナのレモンがゆっくりと底に落ちていった。

「そうそう、そう言えば、花田君は中学三年の時、広河さんと付き合ってなかった?」その唐突さは静かな日曜の午後の間違い電話みたいだった。

「えっ?」僕はその時、歯が異常に黄ばんだ取引先の営業マンの広川を思い起こしていた。広川・・・・広河さん。

「・・・・うん。懐しいなあ」広河さんという女の子は中学三年生の時に春の終わりから秋まで付き合った子だった。高校受験にお互い追われて自然消滅してしまったのだ。

「篠原と仲良かったよな?」

「ええ、高校に入ってからも度々会ってたわ。今はもう実家ごと越して、数年前に結婚したって聞いたけど」

「ふーん。今でも誰か会ってるの?」

「うーん。もう誰とも会ってないわ。仲の良かった人達はね。実家ごと越したり、結婚してどっかに行ってしまったから」

「そりゃ十五年だもな。」

「うん。ホント・・・誰も残ってないわ。私だけがこの町に取り残されているみたいで。でも好きよ。この町は」

小さな溜息が表の車の音でかき消されていた。そして僕らはそれぞれの中学時代の思い出を話していた。次第にそれは彼女のエピソードが僕のエピソードと繋がり、僕のエピソードが彼女のエピソードと繋がっていった。驚きと発見と誤解。僕らは十五年前の断片的な過去の出来事を少しづつバーの片隅でけなげに組み合わせていた。バーのマスターはアイスピックで氷を砕いていた。僕らも同じように、ゆっくり凍りついた何かを砕き、それは暖かな川の流れになっていた。

 

                             * * * * * * *

僕はその夜、天井を睨みながら、篠原由紀子と繋ぎ合わせた記憶の川の流れに揺られていた。

あれは中学三年になったすぐの頃だった。クラスのある一人の女の子が、校庭の隅のチューリップの花壇に半ば住みついている小さな子犬の野良犬を捕まえてきた。

一週間位前から居たのだという。どこからか紛れ込んでいつの間にかそこに住んでいたらしい。一部の女の子達が先生に内緒で給食の残りを持っていったりしていたのだという。その子犬の存在は生徒達にも知れ渡り、一部の男の子達がその子犬をいじめるので、その女の子がその子犬を保護をして、担任に「学校で飼うか、誰か飼い主を探したい」という申し出をしたのだった。その女の子が篠原由紀子だった。担任は一応に困った表情をしていたが、篠原と数人の女の子の熱意に押され、担任は校長や教頭を説得して、結局その子犬を学校で飼うことになった。校庭の片隅には小さなウサギ小屋があり、その前の年にウサギが全部死んでしまって空になっていた。そしてそこで子犬を飼うことになった。飼育の全責任は僕達のクラスで請負う事になった。平行して校内の学校新聞でその子犬の里親探しを保護者などに呼びかけていた。それから、担任からきちんと子犬の世話係りを作った方が良いと提案があって、その世話係りを篠原とは別に男女一人づつを学級会でくじ引きで選んだ。それが僕と広河さんだった。僕は当然やりたくはなかったが、クラスの男子から人気のあった広河さんとだったら良いと思った。案の定、男子の一部からはやっかみと冷やかしがあったのを覚えている。

広河さんは美人だった。中学三年とは思えない程の成熟ぶりを見せていた。手足はすらっと長く、色白で、リンスを一日五時間位しているのではないかと思うほどその腰までまっすぐに伸びた細く長い髪は恐ろしいほど美しく綺麗だった。その色は新入社員の革靴の色の様だった。ちょっとつまらない冗談を言う癖があったが、広河さんの美しさの前では誰もが許せてしまっていた。僕と広河さんと篠原は登校するとすぐに給食室へ行き、前の日の給食の残飯を貰って子犬にあげた。そして昼休みにはその日の給食の残りと誰かが残した牛乳をあげた。放課後には、広河さんや篠原、時には別の女の子が一時間位散歩をさせていた。僕はやらなかった。

その子犬係りを通して僕と広河さんは仲良くなった。犬小屋の前で僕らはとても優しい気持ちになってなんでも話せる様になっていた。子犬の頭をなでながら、微笑んで小さく開いた口の隙間から見える広河さんの可愛らしい八重歯を見るのが好きだった。その頃から篠原は僕らに気をつかう様になり、僕と広河さんは二人で犬に餌をあげる事が多くなった。それでも僕が気まぐれで犬の世話を怠るときは、広河さんと篠原は一緒によく面倒をみていた。しかし一ヶ月位してから、突然その小屋から子犬はいなくなっていた。逃げたのか、誰かが首輪を外したのか。結局は分らなかった。気付くと僕と広河さんはそれから自然と付き合う様になったが、しかしそれも秋頃に終っていた。

子犬がふらっとやって来て、そしてある日いなくなった様に。

                             * * * * * * *

僕はその時、素麺を茹でていた。お中元か何かで貰ったものだ。真冬に素麺というのも不思議だったが、冷蔵庫には何もなかったからしょうがない。僕はその細く白い素麺が鍋の中で何か生命が宿った様にゆらゆらと泳いでいる様子を見て、広河さんの白い肌と細く長い髪を思い出していた。しかしその電話は当然広河さんではなかった。

「ねえ、花田君、今何やってるの?」それは篠原由紀子だった。

「素麺茹でてる」僕はまだ広河さんの事を考えていた。

「えっ?何?・・・そうめん?」

「あーそうだよ。そ・う・め・ん」僕はクイズ番組の解答者みたいに言った。

「嘘でしょ?いま冬よ。ふ・ゆ」彼女もクイズ番組の解答者みたいに言った。

「腹減ってね。これしかなかったんだ。」

彼女の深い溜息が僕の右の耳から左の耳へ通り抜けた。

「まあ、いいや。ねえ、今週の土曜日何やってる?」

「少なからず素麺は茹でてない」

「そうでしょうね。で、どうなの?」

結局、その週の土曜日の夜、僕らは「古き良きアメリカ」のバーにいた。

                            * * * * * * *

僕は待ち合わせの十五分位前にその店に着いていた。レモンとライムを切るのが大好きなマスターと世間話をしていた。僕はこの店に飾ってあるレコードが大好きだという事を言うと自然と話が弾んだ。

「お客さん、なんか聴きます?好きなの言ってくださいよ」

僕はケニーランキンのアルバム『ザ・ケニーランキン・アルバム』をリクエストした。

「このアルバムの『オン・アンド・オン』と『グルーヴィン』が大好きなんだ」僕がそう言うと、マスターは無言で拳を縦に握り親指を立てた。そして微笑んだ後、レモンを切り始めた。

彼女はしばらくしてやって来た。彼女は休みだったのか、ブルーのジーパンに赤いセーターを着ていた。首元からはピンクのシャツの襟が出ていた。彼女と僕は生ビールを注文した。

「ごめんなさい。遅れて。」僅かに息切れした胸に手をあてながら言った。

「いや。全然構わないよ」

「なあ、篠原。この前卒業アルバムを見てたんだけど、篠原ってピンクの服好きだったよな」

彼女は、僕の視線の先にある自分のシャツを見てしばらくして笑いながら言った。

「ええ、そうね。今も好きよ。ほら」彼女は両方の手の指先でシャツの両方の襟を掴んでいた。

「花田君はさすがに服のセンスは変わったのかしら?でも毎回スーツ着てるわね。土曜日は毎週仕事?」

「ああ、そうだよ。休みは日曜と祝日だけ。」

「でも、いいじゃない。忙しいんだから。私達みたいな派遣は仕事無くって皆ピーピー言ってるわよ」

「まあね。」

「ねえ、そういえば、中学三年の頃の子犬の事覚えてる?」僕は思い出した様に言った。彼女は、僕の顔を顔をじっと眺めていた。その瞳は、僕でなく僕の後ろにある何かを見つめている様だった。

「ええ、覚えてるわ」

「名前なんだっけ?あの子犬の名前は」

「トラよ。」

「なんでトラなの?」

「よく覚えてないけど、確か男子の一人が阪神ファンで・・・その前の前の年に優勝したじゃない?・・・で、なんかあの子犬の模様が虎みたいで。多分ね」

「ふーん」

「確か、あの子犬連れてきたのは篠原だったよな。ウチらで餌やって・・でもなんでいなくなっちゃたんだろうね」

彼女はぼんやりと目の前に並べられたカクテル用のリキュールのラベルを一つ一つ読み取っているみたいだった。

「・・・そうねえ。でも、どこかできっとうまくやったはずよ。あれが良かったんじゃない?」

「うん。そうかもね。餌は確実に確保できたけど、でも自由じゃなかったね。トラは」

「ねえ、花田君。あのね、広河さんと付き合ったのって、トラ、うーん、そうあの世話係りがきっかけだったの?」

彼女は、僕の顔を見ながら的確な答えを求めている様だった。

「そうかも。でも、俺と広河が付き合ったのはトラがいなくなってからだよ。確か」

「ふーん。私に感謝している?」

「えっ?篠原に?」

「そう。だって、私がトラを連れてこなかったら、花田君と広河さんは、仲良くならなかったんじゃない?」

「分らないな」

その時「グルーヴィン」が流れていた。僕はその曲に耳を奪われ、篠原の言葉の深い意味までは理解できなかった。彼女はカシューナッツを一つ口に入れて言った。

「花田君はあの時に戻りたいと思う?」

「中学生って事?」

「そう」

「どうだろうな」僕は本当に分らなかった。

「私ね、最近思うの。あの頃に戻れて、そしてやり直されたら、全てがうまくいってるんじゃないかってね」

「どんな風に?つまり、逆に何かうまくいってないのかな?今は」

「分らないわ。でも、うまくいってないわ。何もかも・・違うわ、うまくいく様に努力してきたつもりだけど、私の中にあるのは本当の私なのかってね」僕は黙っていた。

「最近、そういう事をよく思うの。星を見ながらね」

「星?」

「そうよ。星。今私達の見ている星って凄い遠いところにあるじゃない?でも、今見ている星って、今この瞬間には存在していないかもしれないのよ。つまり今見ている星、それが今の私としてね。でもそれは星そのものじゃなくて星の光なのよね。その光を発している星そのもの、それが本当の私で。その星はもうとっくの昔に無くなってしまってるんじゃないかって、凄く不安になるの」

「つまり、君本来の何かが、遠い昔に失われているって事?」

「うん」

「でもね。篠原、その星そのものが今この瞬間に存在しているかっていう事は、我々は知るすべは全くないんだ。しかし、今僕らの見ているその光は、僕らはそれがその星そのものだと認識している。そして、その光がその星そのものから発せられた事もね。つまり、今の我々は、結局は僕らそのものなんだ。失われてはいない。」

「そうかしら」

「そう。今、その星が存在している、していないではなくて、今、僕達ははっきりとその星の見ている。つまり星は星そのものとして存在している。・・・そうだな。篠原の全ては今、ここにあるという事だよ」

彼女は、唇を噛んだまま耳を傾けていた。僕は続けた。

「星そのものが原因で、今見ている星つまり光という仮の姿が今の自分だと仮定しても、結局は、あの頃に戻っても何もかわらないんじゃないかな?」

「じゃあ、今私の抱えている問題や、今の自分という姿は、私の本来の姿、つまり私そのもの全てという事?」

「そういう事になる」

「悲しいわ。」

「でも、それに納得出来なくても、もしくは、本来の自分の生き方や本来の姿がどこか別の所にあるとしたいと望んでも、今の君そのものが本来の自分が作り出したものであるという事は違わないんじゃないかな?」

「要はこれが宿命みたいな?」彼女は訊いた。

「分らない。宿命とか運命とかが本当にあるかは分らないけど、でもそれに似た観念は存在するかもしれないね」

「ねえ、花田君自身はどうなの?」

しばらく考えてから言葉を選んで言った。

「人間は確かに後悔したり、自分を変えようと努力したりするものだよ。でもね、さっきの星の例えじゃないけど、僕は僕でどこまでもその星なんだよ。取り替える事は出来ない。そして、その星そのものが光を発して、長い間宇宙空間を彷徨い続けるんだ。だから僕は、僕として輝き続ける努力しか出来ない」

「それは、『人並みに精一杯い生きます』って事?」彼女は微笑んで言った。

「そう。そういう事。光を発した星そのものの存在なんか実はどうでも良いんだ。輝き続けるって事。僕らしくね」

「僕らしくねえ。じゃあ、私らしくするには?だって、今の私が私そのものなんでしょ?」彼女は訊いた。

「それは篠原にしか分らない。ただ、君のさっき言った事は、自分で自分の光そのものを消そうとしているんじゃないかな?」

「消そうとしてる?」

彼女はその後、どこでもない空中をぼんやり眺めながら、時折、彼女そのものが霞んでいく様な深い悲しみに包まれていた。僕は自分の言った事を反芻しながら、煙草に火をつけ、煙の行方を見守っていた。そして、彼女は喉の奥にある黒い物体を押し出す様な声で言った。


「ねえ、花田君。・・・・トラを逃がしたのは私なの」

「えっ?」

「そうなの。私が逃がしたの。何でか分らないわ。トラを見つけて来た時は良かったの。でもね、みんなで飼いだしてしばらくしてから小屋に繋がれたトラを見て思ったの。トラは本来ここにいるべきじゃないんだって。確かに餌はあるわ。野良犬になって必死になって餌を探したり、どこかの犬に襲われる危険もないもの。でもね、トラがどういう理由で野良犬になったかは分らないけど、トラ自身がそれを選んだのなら、また元に戻すべきだって思ったの。実際、トラはあの小屋の中でとても悲しそうだった。私が最初花壇で見つけてきたよりもね」

僕は何も言わなかった。

彼女は、その後、多分実家であろう所から電話が入り帰っていった。僕はマスターにビールをおごり、もう一度、ケニーランキンの『ザ・ケニーランキン・アルバム』をリクエストした。店を出ると二月にしてはやけに生暖かい不気味な風が吹き荒れていた。

                             * * * * * *        

その後、一ヶ月程、篠原からの連絡はなかった。そして僕も連絡はしなかった。

その間僕は、篠原の言葉の一つ一つを思い出していた。そうしている内に、それまで小さかった僕の中の嵐は次第に力を増し、そして僕を強烈な渦の中心に引き込んでいった。中学三年生の時、多分、あれは広河さんと別れた後に生れた僕の中の微かな篠原に対する好意が一体何であったのかを、その正体に今やっと気付いたのだった。あの時、篠原は僕を求めていた。そうだ、トラを逃がしたのは、本当は僕と広河さんの仲に対する嫉妬だったのかもしれない。同時に僕も、広河さんではなく篠原を求めていたのだ。そして、篠原は今も僕を求めている。彼女は深く暗い闇の底から叫んでいるのである。今の彼女がどういう問題を抱えているのか分らない。少なからず、彼女は今この瞬間も僕を求めている。そして僕も。

十五年前に空中を彷徨い出したひ弱なたんぽぽの綿毛は長い間あてもなく漂い、そして今、あの町の強烈な吸引力によってしっかりと大地に着地するのだ。

                             * * * * * *

「ねえ、花田君はこの町好き?」

その日、僕らはいつもの様に土曜日の夜に「古き良きアメリカ」のバーにいた。

「ああ、好きだよ」

「今住んでいる所とどっちが好き?」

「この町だと思う」

「どうして?」

「僕の全てがここにあるからだよ」

「ここに?」彼女は少し驚いて言った。

「そう。今の町は、寝る場所のある町でしかない。でもここは違う。ここで生れ、ここで人生初めての友達を作って、勉強して、遊んで、駆けずり回って・・・そして、ここで初めて恋をして、そして人間として成長する為の一番大事な基本的な部分をこの町の全てから学んだんだ」

彼女は頬杖をしながらしっかりと僕を瞳を捉えていた。僕は続けて言った。

「僕の根本的な何かがこの町のあちらこちらに染み込んでいる。だから、僕はこの町に来ると凄く落ち着くんだ。僕らしくなれる。とても自然な自分に。・・ふるさとだよ」

彼女は清々しい日曜の朝の様な笑顔を見せて言った。

「ふるさと?」

「うん。僕は実家ごと引越してしまってるからね。でも、例えそんなに遠くなくても同じ東京でも、故郷だよ。ここは」

「ねえ、私はずーっとここに住んでいるからよく分らないけど、もし私が遠くへ行ったら花田君みたいに思うのかな?」

「うん。きっとね」

「でも、遠くへ行かなくても、今、故郷って思わない?ここが」僕は訊いた。

「そうねえ。でもね、故郷たらしめるものって、思い出とかだけじゃなくてなんか別な所にある様な気がする。」彼女は言った。

「例えば?」僕は静かに訊いた。彼女は一瞬躊躇って、そしてゆっくり息を吐いて言った。

「今、この瞬間とか・・・・」


店内にはシャイ・ライツの「オー・ガール」が流れていた。彼女はコロナの二本目を注文した。

「『アメリカンモーニング』が聴きたいわ」彼女はレモンを絞りながら言った。僕はジントニックのおかわりと一緒にそれをマスターに伝えた。

「花田君。変な事訊いていい?・・・この前言ってた、朝に突然居なくなってた別れた彼女の事だけど、今はどう思ってるの?」

「もうそれは終ったんだ。そりゃ、少し寂しい気持ちはあるけど・・・・」

「まだ、好きなの?」

「分らない。でも、彼女は本来戻るべき所に、いや、本来行くべき所へ行っただけだと思う。トラみたいにね」

彼女は言葉を捜していた。

「花田君、トラはあれで幸せかだったのかなあ?」

「うん。きっとそうだよ」


「もう、帰らなくちゃ」

曲が終ると僕らは店を出た。店の前で僕らは黙ってしばらく春を予感させる夜風にあたっていた。通りには家路を急ぐサラリーマンが列をなしていた。中学生位の若いカップルがガードレールに座って笑いながら何かを喋っていた。通りの向うには僕が小さい頃によく買いに行ったお菓子屋が店じまいを始めていた。ここの町の風の匂いも、車の騒音も、人々の足音も、変わらずに生き続けていた。

彼女は突然、僕の胸に顔を押し当て、そして小さく泣いた。次第に体は大きく震え、声を押し殺す様にして僕の背中を強く抱きしめた。そして僕も彼女肩にそっと手を添えた。彼女の髪は弱々しくなびき、細い首筋の根本には春先に少しだけ地中から芽を出した植物の様に、彼女のピンク色のシャツの襟が慎ましく顔をのぞかせていた。

「ごめんなさい。」

彼女の瞳は涙で濡れ、唇を噛んでいた。その瞳の奥はどこまでも暗く、深く、そして透明だった。その時、僕は感じた。二人の間には見えない薄い布の様なものがあるのを。それは月明かりの様にどこまでも弱く、どこまでもおぼろげだった。彼女の口元が大きく緩み、僕の瞳の奥底に何かを語りかけていた。それは卒業アルバムの時の彼女の瞳と同じだった。

「またね。今日はありがとう」

「うん。」

「ねえ。訊いていい?」

「うん。何?」

「花田君、あのね、私の星の光は、今・・・・ここに・・・・しっかりと・・・・見える?」

僕は一瞬空を見上げ、そして彼女を見た。彼女の鼻は涙のせいでピンク色に染まっていた。

「うん。ちゃんと見えるよ。」

「ホント?」車のヘッドライトが彼女の姿全体を明るく捉えていた。

「ホントさ」

「嬉しいわ。・・・ありがとう」

「どういたしまして」

「また電話するね。・・・・・じゃね」

自然と彼女はゆっくりと家の方向へ歩き出した。そして、僕はその場で彼女の後姿を追っていた。彼女は一度立ち止り振り返ると、僕に両手上げて手を振った。そしてそのまま人波の中に消えていった。

                             * * * * * * *

「一緒に帰ろうぜ」

ある日、会社で最後の仕事を片付けていると同期のデザイナーの児玉が言った。

彼は僕と同じ歳だった。もう六年の付き合いになる。僕は仕事に対してはかなりステレオタイプな人間だが、僕がとって来た仕事に対して彼は、予想もしないラディカルなやり方でデザインを形にする人間だった。ごくたまにクライアントから「これは・・ちょっと」という風に言われるが、概ね「こんな仕上がりは予想もしなかったんですが、凄くいいですよ」という感じで好評だった。クライアントの注文の範囲内でギリギリに「遊び」をやる。僕と彼は結構いいコンビで、特に僕の仕事に関してはパーフェクト、もしくはそれ以上に熱意を持ってとり組んでいたくれた。それはというのは、数年前に僕の紹介した大学時代の友達の女の子と付き合い、数ヶ月後に結婚を控えていたからだ。彼とその彼女の間に何かしらのトラブルが生じると、何度か僕はその間に入って問題の解決に努めた事もあった。彼はデザイナーでありながら、本質としてはモニターの中の二元的な世界には全く興味のない人間だった。彼は朝早く起きて5KM程ランニングをし、週に数回ジムに通う。彼女とのデート以外の休みの日は毎回釣りに行っていたし、家で釣りのしかけを作っている時が一番落ち着くのだという。彼の口癖は「コンピューターは人間を駄目にする」である。肉体改造をした三島由紀夫やテニスやランニングに興じる村上龍・春樹を「分る気がする」と言っていた。「といっても俺は本なんかあんまり読まないけど」と付け足して言った。彼に最近買った本は何かと訊ねると決まって「DANCYU」と冗談まじりに答えた。彼は実際的な人間だったし、少なからずその点では僕と気が合った。月に数回は二人で飲み、年に数回は彼の彼女と三人で釣りにも行った。僕の紹介した彼の彼女はよく言った。

「あなたたちは根本的に一緒なのよ」

「飲みにでも行くか?」僕がそう訊ねた。彼は一瞬迷って言った。「金がないんだ。結婚式で色々大変でさあ」そして僕らは会社から少し離れた公園で、コンビニで買った缶ビールを飲む事にした。太陽はたった今沈んだばかりという感じで、昼間のその匂いがまだ木製のベンチに染み込んでいた。会社へ戻る人間、帰宅する人間、近道で公園を通り抜けるサラリーマン達が奇妙な顔をして、僕らの前を足早に通り過ぎて行った。

「なあ、花田。もうすぐ俺達三十歳だな。」

缶ビールを開けながら彼は言った。僕は、ヘリコプターの点滅したライトが薄ぼけた空にゆっくりと移動していくのを眺めていた。

「花田はこの仕事を続けるのか?」

煙草の灰をベンチに備え付けの灰皿にゆっくりと落として僕は言った。

「ああ、もうこの歳で新しい何かをすると言ってもなあ。まあ、あまり嫌いな仕事じゃないし、当分は続けるだろう。児玉は?」

小さな沈黙の後、彼は言った。

「そうだな。俺も結婚するしな。ヘタな事は出来ないな。このまま俺もあの会社でモニターに向かってチャカチャカやるんだろうな。」

塾帰りなのだろう。数人の子供達が騒ぎながら公園の向うの芝生で走り回っていた。

「花田。俺最近考えるんだよ。歳をとる事の怖さは自分が死に近づく事だとよく言うよな。でもな、俺は少し違うと思うんだ」彼は急にそう言い出した。

「どうしたんだ?いきなり」

僕はビールを二口程飲んだ後、反射的に彼の顔を見て言った。彼は小さく溜息をつくと、続きを話し始めた。

「歳をとるって事はさあ、それだけ身近な人間の死に接する機会が増える事の怖さだと思うんだよな」

僕は頷いた。

「親も兄もダチも歳を取る訳で確実に死に近づく。そして、商店街のくじ引きのガラガラポンみたいに、確実に少しづつ周りの誰かが死んでいくんだ。その死に隣接した時の怖さ。その時に人間って何かを決定的に失っていくんだよ。」

「何かあったのか?こんなシリアスな話して」僕は驚いて言った。

彼は「まあな」と言った後、缶ビールの缶を両手で大事に抱える様にして、遠くの子供達の姿に目を凝らしていた。

「この前、高校のクラスメイトの女の子の葬式に行ったんだ。その子とは殆ど話したこともなくて、ダチから電話あった時も名前を思い出すのにしばらく時間がかかった位だからな。なんか数年前から脳腫瘍で入院していたらしいんだ。まだ二十代だぜ。かわいそうに。でもその葬式でその子の写真見ても実感がないんだよ。その写真でさえ高校の時のじゃなくて社会人になった頃のものみたいで、全然変わってたからな。」

「脳腫瘍?」僕は言った。

「ああ。二十代の若い人間がそんな風にこの世から消えてしまうんだよ。彼女とは全然仲良くなかったけどな。でも・・・残酷だよ」

ヘリコプターは姿を消し、その代わりに真白い月が空に現れていた。

「でもな、俺がその葬式で衝撃だったのがさあ・・・・」

彼はしばらく何かをしきりに考えた後、覚悟を決めた様な口調で話し始めた。

「俺が高校三年の時にずーっと好きだったある子が来てたんだよな。十年ぶりだったよ。会ったのはさあ。その子を数十メートル先だ見かけた時のあの気持ちだけは今でもよく分らないんだ。その彼女、車椅子なんだよ。車椅子。多分旦那さんだと思うな。付き添いで来てたのはさあ」

「車椅子?」僕は持っていた缶を潰して言った。

「ああ、俺聞いたんだよ。一緒にいたダチに彼女の事。そしたら結婚してすぐに交通事故で下半身付随になったらしいんだよな。俺ってさ、自分のあらゆる感情を自分の中で言葉に出来る位、自分を客観視出来る人間でさあ、失恋しても、誰かが死んでも、どんな辛い事も悲しい事もその感情をもう一人の自分が冷静に認識にして、それに対する対処法なり処方箋を提示して、気持ちを静めてくれるんだよな。」

「そうだな。児玉、オマエはそういうタイプだよな」

彼は少し笑って頷きながら言った。

「そう。だから俺は昔から「前向き」とか「ポジティブ」とか言う言葉でよく羨ましがられた。違うんだよ。単に冷酷なだけさ。ポジティブと冷酷は表裏一体、いや、どちらもがどちらもを内包しているもんなんだよ。特に俺の場合はね」

「そうかな?」

彼は新しい缶ビールを開けようとしたが、その手を止めて言った。

「でも、その彼女を見た時、車椅子の理由を訊いた時のあの時の気持ちだけはな、本当に分らないんだ。体中の内臓や血管、肉と皮膚の隙間、そんなあらゆる所全部に黒い綿菓子みたいなものがびっしり詰まっているというか、占拠してまっている感じなんだよ。ふわふわしているけど空気なのか硬い物体なのか分らない、得体の知れないどす黒い奇妙なものがさ、体中に入り込んでいる感覚。分るか?」

「なんとなくな」僕は小さく頷いた。

「彼女とは付き合ったのか?」僕は続けて訊いた。

「いや。」彼はかぶりを振った。「彼女は高校三年の時に一度だけ同じクラスになって一目惚れしたんだ。あれは本当突然だったな。五月頃だったかな。確か。俺は新しいクラスの女の子をいちいちチェックなんかしてなかったけど、その子がある授業で先生に指されたんだよ。彼女立ち上がったんだけど答えられなくてさあ。「すみません。解りません」って申し訳なさそうに言って、後ろの席の友達の女の子に舌をペロっと出して座ったんだよ。俺はその彼女の机三つ分くらい斜め後ろで、その一部始終をなんとなく見てたんだよな。クラスにそんな子がいるとは知らなかった。でも、あの一瞬だった。「はい、たった今、あなたは恋に落ちました」って、もう一人の自分が淡々と言うんだよ。まさに邂逅ってやつだよ」

「邂逅・・・」彼がそんな難しい言葉を言って少しばかり驚いた。

「それからが大変だった。ほんとあれには参ったな。彼女と同じ教室にいるだけで僕の彼女に対する意識以外の余計なものがどんどん吹き飛ばされていくんだ。授業も休み時間のダチとの馬鹿話もさ、全くそこに自分がいない様な感覚さ。彼女はテニス部で、時々俺は放課後にいつもぼんやり教室からテニスコートを眺めていたよ。すらっとした細くて長い足がコートを駆け巡って、時折、額の汗を拭いながらラケットでボールを必死に追いかけてね。その時はこの世で最も美しいテニスプレイヤーだと思った程さ」

彼はいくらか恥ずかしそうに続きを話した。

「彼女とは殆ど会話はしなかった。というか出来なかったんだ。分るだろう?もし俺が彼女の目を見て、そして何か話したとしたら、俺の想いが無防備に彼女に筒抜けてしまうと感じるからだよ。恥ずかしかったんだ」

「児玉らしくないな」僕は笑いながら煙草に火を付けた。

「結局、俺は三学期の終業式、つまり残すところ卒業式だけとなったその日の帰りに彼女を呼んで手紙を渡したんだ」

「へえ。手紙か・・・何て書いたんだ?」

彼は笑いながら言った。「まあ、よくあるラブレターってやつだよ」

「で、どうなったなんだ?」

彼は新しい缶ビールを空けると、一気に半分位飲み干し、砂埃に目を擦りながら言った。「卒業式が終った廊下の片隅で彼女は言ったよ。「ごめんなさい。私は児玉君と付き合えません。」ってね。ショックだったけど、つまり、それは今思えばごく自然な事象的帰結だった気がする。そりゃそうだよな。一年間全く会話すら無かったんだからな。彼女は美人というよりは可愛いって感じでさ。世の中の美しい部分とか、幸せとかを無自覚に自分で取り込んでいける様な子だった。よくあるだろ、動く歩道って。俺は必死に真ん中の道を自分の足でひたすら歩いていく。その両側にはその動く歩道があって、彼女はそこをすいすいと速いスピードで歩いていく感じだよ。だから、俺には不釣合いだし、五月に彼女に恋した時点で既に居る場所みたいのが僕と彼女では全然違ってたんだな。でさ、クラスメイトの子のその葬式の時に車椅子の彼女を見てさ、なんていうかな、悲しいとか哀れとかじゃなくて、怒りとか悔しさとか、多分そういうものだよ」

春を迎えるにしては寒すぎる位の夕方だった。公園の外灯が自然に点灯するのが目に入った。

「葬式の時の彼女は高校の時と全然変わってなかった。でも感じたんだ。テニスコートでその長い足で走り回っていたあの時のその姿が、彼女の中で二度と再現される可能性がなくなってしまっているという事実への悔しさだよ。誰に対する悔しさか分らない。でも、これだけははっきり言えるよ。それは、時の流れというものに対する失望なんだよ。」

僕は黙って続きを待った。

「俺と居場所が違い、動く歩道をすいすいと俺の遥か先を行っていた彼女を、今度は数十メートル先から見下ろしているんだ。耐えられなかったな」

「声をかけなかったのか?」僕は訊いた。

「いや。結局俺は焼香をあげてすぐにその場を離れた。彼女も気付かなかった思うよ。もし仮に彼女と目が合ったり、話す機会に陥ったら何て言うんだい?どんな振る舞いをすればいい?」

彼は少しばかり興奮しながら、僕の顔を見て言った。

「やあ、久しぶりだね、と言って車椅子に関する話題を避けながら世間話でもするのかい?それとも、どうしたの?って理由を訊いた後で一体どんな慰めの言葉をかければいい?まして、大人が子供と話すみたいに、彼女と同じ目線になる様に俺がしゃがんで何か話すのかい?そん事は全くもって出来る自身なんて俺にはないよ」

「そうだな。確かに」僕は彼をなだめる様に頷いた。

しばらくして彼は落ち着いた表情を取り戻して言った。

「でもな、その後家に帰っていつもと変わりなくテレビ見て笑って、ビール飲んで、夢さえも見ない程熟睡してさあ。それでさあ、朝起きたら前の日の出来事が一瞬にして頭の中で再現されたんだ。そしたらどうしたと思う?」

「いや」僕はかぶりを振った。

「布団の上に立ったまま泣いたんだよ。おかしいだろ?一人で泣いたのなんかホント久しぶりだった。物心ついてからは一度もなかったな。その彼女にフラれた卒業式の日も、大学時代にダチがバイクで事故って死んだ時も、決して泣かなかった。でも、その時はとにかく泣いたんだよ。何分間も立ったままずーっと泣いてたんだよ。」

彼は飲んでいた缶を潰して、煙草に火をつけ、灰をその中に落とした。僕らは数分間の間、夕刻の町の喧騒が渦巻く中、ただただ無言でベンチに深くこしかけ、暗みを増した公園の風景にすっぽりと収まっていった。それは世界中のあらゆる公園のベンチにおける最も忠実な姿だった。

「で、その後にさあ」

彼はそう言って沈黙をかき消した。

「俺は祈ったんだよ。・・・この俺が祈ったんだぜ。生れて初めてかもしれないな。俺は宗教とか、そういうの女々しいって思ってたからな」

「祈り?」

「ああ、祈りだよ。でもあれが本当に祈りというものだったかどうかは疑問だよ。でも・・そう祈りみたいなものさ。誰に対してか分らない。多分、神でも仏でもない。手も合わせなかったし、組みもしなかった」

彼は持っていた煙草を空いた缶で消すと言った。

「ただ、こう祈ったんだ。・・・彼女は・あんな姿で・あるべきじゃないんだ・・・って何度もね。分るか?」

「ああ、凄く分るよ」

            

                             * * * * * * *

次第に街路樹は緑の色彩を増し、その間をすり抜けて穏やかで優しい音色が季節の変化を無機質に知らせていた。篠原由紀子と最後に会って既に三ヶ月がたっていた。その間に会社近くのあの喫茶店は閉店して、跡形もなくなっていた。繁華街のオーロラビジョンではスキー場のシーズンの終了を伝え、連休の行楽地の来客数を予想した数字が映っていた。児玉は三十歳の誕生日に結婚した。「DANCYU」を読む必要がなくなったし、走る事もジムにも行かなくなった。相変わらず釣りだけは続けていた。それでも僕らは時折二人で飲みに行った。彼は笑いながら新婚生活の功罪と釣りについて話していた。

「結婚して変わったのは、釣りなんだ」彼は言った。

「釣り?」

「ああ、そう釣り。俺は学生の頃から海釣りが好きで今も続けてるけど、結婚する前は釣ったものを料理して食べる事が好きだったんだ。雑魚よりも鯛や平目をいつも狙っていた。でも、結婚してから釣りに行ってもそんな事には全く興味がなくなったんだ。釣ってもすぐにリリースしていしまうんだ。」

「それは結婚したという事に何か関係があるのか?」僕は訊いた。

「どうなんだろうな。単純に興味がなくなっただけさ」

                             * * * * * *

季節も既に春も終わり、あっという間に梅雨を迎えたやけに蒸し暑い日だった。前日まで数日間降り続いた雨はやんだものの、雨の残した不親切な湿気に僕はしばらく苛立っていた。なかなか眠りに着けなかったので諦めて、僕は冷蔵庫から缶ビールを出して飲みながら、テレビの深夜番組を見ていた。時計は十二時を過ぎていた。

その時、突然携帯が鳴った。知らない番号だった。その声は年老いた女性の声で、細く、擦れ、そして震えていた。僕は次の瞬間、携帯を持つその手が闇夜に溶けて無くなってしまうのではないかと感じた。ブラウン管に映るテレビ番組は自分とは全く無縁な世界で繰り広げられていた。名前すらない宇宙の果ての遠い星の表面で、浮遊する星屑を観客相手に芝居をしている演劇の様だった。

「篠原由紀子の母です・・・・」

電話の向うの女性はゆっくりとそう言った。

       

                             * * * * * *

    

二日後の夜遅く、僕は一人「古き良きアメリカ」のバーの端の席でコロナを飲んでいた。マスターは相変わらずレモンのカルチェを切っていた。店にはボズ・スキャッグスのアルバム『シルク・ディグリーズ』が流れていた。平日の夜に店の中には僕と中年のカップルしかいなかった。男はくたびれた紺のスーツを、女は十年前買ったブランド品の服を一時間前にクローゼットから引っ張り出してきて着込んだ様な格好をしていた。そのカップルは何かクスクス笑いながら、時にはふざけ、時には真面目に何かを話していた。男が「それでさあ・・・・」と言い、女が「ホント?」と訊ねた。男が「でもね・・・」と言い、女が「それは・・・」とかぶりを振った。二人の声は次第に大きくなり、最後に男の方が大きく溜息をつくと、彼らは急に黙り込み、帰るまで一言もじゃべらなかった。

「今日は結婚式か何かだったんですか?」マスターは僕の服装を見ながら話し掛けてきた。

「いや・・・ええ、まあ」僕は言葉を濁しながら、視線の先にある壁に掛かったマービン・ゲイのレコードジャケットをぼんやり見ていた。

「今日は御一人なんですね」彼は、僕の二杯目のコロナを冷蔵庫から出して言った。

僕は頷いた。

「ねえ、マスターはこの町の人?」

「いや、兵庫ですよ。」彼はエプロンからメンソールの煙草を取り出して火をつけながら言った。

「良いところだね」

「ありがとう」

「たまに帰るの?」

彼は自分の煙草の煙にむせながら、店の奥の壁に何かを探し出す様に見ながらしばらく考えていた。

「いや。今もうあそこには何もないんです。地震で全てが壊れて何もかもなくなってしまったんです」

彼は半分位残ったメンソールの煙草を流しの水で消して、そしてゴミ箱に投げ捨てた。

「お客さんは?」

「僕は兵庫じゃないけど・・・・でも、あなたと似た様なものだよ。」

「悲しいですね」彼は言った。

「うん。悲しいよ。とても」


曲は『シルク・ディグリーズ』のラストの『ウィ・アー・オール・アローン』だった。

「この曲大好きだよ」僕は言った。

彼は拳を縦に握り親指を立てて、笑って言った。

「僕も大好です。良い曲ですね。ホント」

僕はマスターに礼を言い、店を出た。


そしてそこは薄暗い林の中だった。僕は波一つ立ってない静かな池の前に立っていた。間違いなく父の実家の近くにある、あの池だった。鳥は姿を消し、風はやみ、木の実の匂いも一切無かった。池のほとりには薄らと雪が積もっていた。その雪は何千年も前からそこにある様な佇まいを見せていた。そして、僕の前には篠原由紀子が立っていった。僕と彼女以外は誰もいなかった。彼女はゆっくりと池に近づいていった。何の音立てず、僕の存在に気付かないのか一切振り返えようともせず、その足元は次第に池の中へ沈んでいった。僕は動く事も声を発する事も出来なかった。彼女は池の中心に向かって歩いていた。既にその足は膝までが池の中に埋まっていた。僕は黙って彼女の後ろ姿を見ていた。太陽が山の西の斜面に消えていく様にゆっくりと確実に彼女の姿は池の中に沈んでいった。そしてそれが腰までになり、次第に肩までも飲み込んでいった。それでも彼女はそのまま進み続けた。そしてそれは頭だけになり、彼女の薄茶色い髪が水草の様に水面に揺らいでいた。僕はひっそりと息を呑み、それを目で追っていた。段々と彼女の頭は池の中に吸い込まれ、池の中央までいった所で彼女の姿は最後にはただの一つの黒い点となり、次の瞬間に彼女は池の中へ消えていった。

辺りを再び深い静寂と凍りつく様な暗闇が池を覆っていた。水面には波一つ立っていなかった。その時、僕は不意に絶望にも似た深い喪失感に襲われた。それはこの町と私を繋ぎとめている人間そのものの喪失と同時に、それによって脈打っていたこの町の死に等しかった。

父と同様、僕は決定的に便宜的な故郷を喪失した。

                              

林も池もその姿を消すと、いつもの土曜日の夜の町の風景がそこにあった。駅から流れた人の群れを故郷の町は今日もいつもと同じ様に飲み込んでいった。人々の足音と、車の騒音と若いカップルの笑い声は、遠い過去から現在へ、そして未来へと永遠に変わる事なく続いていくだろう。そして故郷、すなわちこの町は、この町として存在し続けるのである。


気付いた時に僕は、駅へ向かう道のど真ん中で立ち尽くしていた。生暖かい初夏の香りは僕の体を通り抜け、遥か遠くの見知らぬ大地までゆっくりと流れていった。その香りに乗って無数の星が色鮮やかに輝いているのを、僕はいつまでも見上げていた。(了)

勇作勇作 2004/06/26 00:45 初めてお書きになった小説でしょうか?

勇作勇作 2004/06/26 00:45 初めてお書きになった小説でしょうか?

jamming_groovinjamming_groovin 2004/06/26 05:44 はい。そうです。