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2004-06-22 アメリカン・モーニンング(前編)

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『さよならを言うのは、わずかのあいだ死ぬことだ』(『長いお別れ』/レイモンド・チャンドラー)

                             * * * * * * *

父は故郷を失った。

ここでいう故郷とは非常に限定された便宜的な意味合いを持つのかもしれない。

父の故郷は今も存在するし、これからも存在するだろう。そして、それは父がこの世から消えてしまったとしても永久的に存在するだろう。仮に父の故郷(非常に山奥の農村なのだが)が都市計画で高層ビルが立ち並んだとしても、山が無くなって高速道路が出来ても、当然父の実家が取り壊されても、川が埋め立てられても、市町村合併で故郷の地名が無くなっても存在し続けるだろう。それは緯度と経度によって表わされる実存的な意味における故郷である。

しかし、父は故郷を失ったのである。便宜的な意味においての故郷。そしてそれを僕も感応する事になる。

                             * * * * * * *

それは 今から半年前だった。

叔父(父の一番上の兄)は癌で数ヶ月前から入院していた。

この一週間が山だろうという事で、亡くなる数日前に医者の勧めで、兄弟や孫や親戚を全員呼んでいた。生きている間に顔を見させてあげたいというのである。遠いところから来る者もいて、当然父もその一人だが、それがいわゆる最後の別れになる事を意味していた。父も仕事が忙しかったので、一泊して兄(つまり僕の叔父)と最後の別れをして帰ってきた。父が次に故郷に帰るときは、それが伯父の葬式である事は明白であった。

それは父が実家から戻ってたった四日後の事だった。だからその電話は当然予期されていたものだったし、僕ら家族は、悲しみを除いてはそれ程の驚きを感じなかった。

あと数週間で年が終るいう十二月の晴れたある日。父と僕と兄は喪服を手にぶさらげ、新幹線で父の実家に向かった。まだ結婚していない二九歳の僕と三四歳の兄と還暦を過ぎた父。(僕の母は昔に死んでいる)目には見えない、しかしエンジンのどこか大事な部品を失ってしまった中古車の様な家族だ。

「オマエ達もこの前来るべきだったんだよ」

車中で変わり行く景色を見ながら父はそう言った。叔父の最期に会わせてやりたかった、いや会うべきだった言う。そうだった。僕と兄は頷くだけだった。事実、同じ従兄弟は皆来ていたそうだ。叔父は、僕達兄弟が来なかった事を悲しみ、残念がっていたらしい。僕と兄は約二十年ぶりに父の実家に向かう事になる。二十年ぶりの叔父との再会がこの様な現実である事を悲しみ、寂しかった。僕は生きている叔父ともう一度会うべきだったのだ。多分、兄もそうだ。 そして途中、私鉄に乗り換えて数時間。駅からタクシーで三十分程の所にその村はあった。二十年ぶりのその村は、それでも何一つ変わっていなかった。山と森と林と田んぼと畑が典型的に存在する。東西に流れる大きい川が一つだけあり、そこに架かる橋はバス通りとなっている。鳥の声と、風の音と、土の匂いしかなく、冬の冷たさを持つ白濁色のアンダートーンに緑色と茶色の絵の具だけを無造作に散りばめた水彩画の様な風景だ。小鳥達の問いかけにも、風の囁きにも、森と山と大地は死者の魂を迎えるべく厳粛な沈黙を守り続けていた。

そして二十年ぶりに僕と兄は多くの人と再会した。

父の兄弟、兄と姉は酷く歳をとっていたし、彼らの息子や娘達(僕らの従兄弟)は結婚しているのもいた。その結婚相手とは当然初対面だった。更に彼らには子供が出来ていたし、幼稚園生から高校生までの多くの命がこの二十年の間に誕生していた。僕が二十年前(小学生の頃)何度か遊んであげた子供達は既に社会人になっていた。皆がそれぞれの再会を喜び、今までのそれぞれの歩みを語った。座敷には数十人の人間がひきしめ合っていた。多分、僕が東京の街中ですれ違っていても誰も気付かないだろう。村の不変に反して、時の流れの持つ意味を誰もが噛み締めていた。

父は十六歳迄その村で育ち、父(つまり僕の祖父)と大喧嘩をして、家出同然に村を飛び出し東京出てきた。父の実家は村の名家で、広大な畑と田んぼ、そして幾つもの山を所有していた。村でテレビを一番初めに買ったと言うのを昔父から聞いた記憶がある。父は東京に出ると貴金属加工の職人として丁稚奉公をし、どの同期よりも一番早く独立をした。時を同じくして母と出会い結婚し、二十代半ばにして(僕の生まれた町に)家を建てた。結婚を期に両親(特に父)とも和解し、もともと兄弟同士仲が良かったので実家や兄弟と良好な関係を続けていた。(僕の)母が死んだ時も、実家や兄弟は父に対し、非常に暖かい手を差し伸べてくれた。それから(父の)父と母が、そして数年前には一つ上の兄も亡くなった。そして今回、長男も亡くなってしまった。そうして実家は、長男(叔父)の息子の代に受け継がれ、その子供達も成人する歳になっていた。

実家の居間の片隅で一人ぽつんと遠くから兄の祭壇をぼんやり見つめる父の姿は、小さな窓の隙間から迷い込んだ蜜蜂が花瓶の花に止まって、消えたテレビのブラウン管に映る自分の姿を見つめている様だった。突然、父はその居間の片隅から叔父の祭壇に向かい、叔父の名前を呼びながら崩れ落ちた。父のそんな姿を見るのは初めてだった。

僕ら兄弟は自然と席を外し玄関へ出ると、中庭では喪服に身を包んだ大勢の親戚達がドラム缶で焚き火をして暖をとっていた。炎は空気を燃やし、吐く息を吸い込んでいった。薪はカタッという音を立てながら炎に飲み込まれ、炎は勢いを増し、そして弱まると新しい薪を取り込んでいった。僕らはその繰り返しを眺めながら煙草を吸っていた。炎を取り囲む様に遊びまわる子供達、再会に話が弾む者達、叔父の思い出話にふける者達。傍らで死に行った人間がいて、そして燃え盛る炎を中心にしてそこには生のエネルギーが満ちていた。叔父が残した命、叔父が創り上げた何もかもが脈々と生き続けていた。

葬式は村人全員が参列する程の規模だった。僕はその間、二十年前の叔父の面影を追っていた。夏休みに朝早く起きて一緒にカブト虫を捕まえに行ってくれた叔父。ビールでは無くよくコーヒーを飲んでいた叔父。一緒に紅白歌合戦を見ながら隣で年越そばをすする叔父の横顔。しかし、何故か涙は出なかった。薄れていく限られたそれらの記憶しか存在しない事自体にやるせなかった。二十年という歳月は長過ぎたのだ。あまりに、そして十分に時は流れ過ぎていってしまった。

葬式が終わって、僕ら家族三人は夕刻前のほんのわずかな時間に散歩をした。それは父の少年時代の遊び場でもあり、僕ら兄弟が夏休みに遊び回った場所だった。

実家を出ると左右に道が分れ、右へ行くとバスと通へ出る。僕らは左へ曲がった。アスファルトの道は賞味期限の切れたクッキーの様にひび割れをしていた。数十メートル程行くと急に暗い竹やぶが広がった。乾ききった冬の風は笹の葉を揺らし、それ以外の音がこの世界から消されてしまった様だった。そして前触れも無くアスファルトは土の道になり、ゆるやかな傾斜を登った。登りきると同時に竹やぶは突如姿を消し、一面に広大な畑と田んぼが姿を現した。真っ白な空はその領土を目一杯に拡大させ、わずかな鳶と鷲とカラスが、その広大な空に飛行する場所を弄んでいた。各々が好き勝手に鳴き声を響かせていた。田んぼと畑は地平線まで続き、真ん中には農道が一直線に果てしなく続いていた。その向うには、古代中国の都市の城壁の様に、誰の侵入も許さぬかごとく、その不揃いの山々が全面に広がっていた。

僕らは農道をしばらく歩き、途中で右に折れ、田んぼと田んぼの間の道をひたすら歩いていた。何も遮るものがないせいか、風は北から南、東から西、左から右、上から下へと、僕らの存在を無視する様に吹き荒れていた。僕らは一言もしゃべらず、遠くの木々が揺れる硬い音と、風が風を押しやる鈍い音だけに耳をすましていた。次第に農道は小さな林へ入っていった。あたりは急に暗くなり、様々な木の実の匂いに支配されていた。林を少し行くと池があった。昔、僕ら兄弟が、当然父の小さい頃もだが、よく遊んだ池だ。小さな林の中心を丸く刳りぬいた様に直径三十メートルくらいの池だった。水は澄み渡り、水面は恐ろしい位に波一つ立ててなかった。ちょっとした魔法があれば一瞬にして固まってしまうかの様だ。

父は少し離れた所でその池の水面をじっと眺めていた。時折、落ち葉を踏みつける音だけが聞こえた。父は小さな石を拾い上げると、思い切り池の中心に向かって投げた。その音はそのまま林の隙間に顔を覗かせた空にまっすぐと吸い込まれていった。父は僕らに何か言おうとしたが止めて、ポケットに手を入れたまま、投げた石で出来たかすかな水面の波紋を目で追っていた。林も池も、そして僕らも、深い静寂に中に取り残されていた。

そして父はその日、決定的に故郷を失った。便宜的な故郷の喪失だった。

(父の)父が死に、母が死に、すぐ上の兄が死んだ。そして長男が死んだ。父はこれまであまりに多くの身内の死に直面してきた。それは父の歳であればそれ程珍しくないのかもしれない。しかしその度にゆっくりと故郷の一部を一つづつ失ってきた。それは回転扉のガラス扉が一枚ずつ無くなっていく様に。そしてその回転扉はピタリと回転を止め、ただの一枚の大きなガラス板として入り口を塞ぐのである。ガラスの向うにはそれでも故郷は存在し続ける。向う側から誰かが言うのである。

「あなたの故郷はここに在りますよ。ずっと。例えどんなに変わろうともここはあなたの故郷ですよ。いつでも戻ってきていいんですよ」

しかし、その声はぶ厚いガラス板に遮断されて、父の耳には届かないのである。父は便宜的な故郷を失って、ガラス板の前に静かに佇んでいた。

                            * * * * * * *

僕にも一応故郷はある。厳密に言えばそれが故郷という代物であるかは分らない。そもそも故郷という定義すら分らない。時間に限定されたものなのか、距離に限定されたものなのか。

僕は二四歳までその町で育ち、家族(父と兄)で今の町に引っ越した。しばらくして僕は実家の近くで一人暮らしを始めた。その町は、今の町から電車で三十分程の距離にある。今の町のどこか一番高い鉄塔に登ればあの町の雲を発見出来るかもしれない。あの町の空を飛ぶ鳩は一時間後、僕の頭上を飛び回るかもしれない。それ位の距離だ。

その町は、駅前にロータリーがあり、バスターミナルがあり、東西南北かなり遠くまでの経路を数え切れない程抱えている。いつもテレビの取材が来てそうな商店街であり、大型量販店でも出来そうものなら一斉発起して反対運動をしていしまうのである。少し行くとバス通りがあり、それと交わる様に大きな幹線道路がある。その町は街工場の町として栄え、今でもその幹線道路沿いには小さな工場が幾つも立ち並ぶ。車の騒音と、工場のプレスの機械が金属を型で打ち抜く音が混ざりあって、タイヤと油の匂いと共に町中に漂っていた。当然、大きなスーパーもあるし、コンビにも幾つかあるし、小学校と中学校もある。下町の専売特許の様な街だ。

僕が二四歳までどの様にその街で育ったかはあえて書かない。ごくありふれた普通の少年時代だった。ちょっとした悪さもしたし、学生時代には好きだった女の子とその街を歩いた甘酸っぱい思い出もある。そして僕は、僕という人間の九〇%をその町の中で形成された気がする。ホットケーキの最後にのせるバターを除いた部分までだ。

その町の友人達は、僕が小学生と中学生時代の友人である。僕が二四歳で今の町に引越してから現在に至るまで、僕はその町の友人達と非常に良い関係を保ち続けている。高校以降に出来た友人達と同じく、その古い友人達とも公平に付き合ってきた。いつも五〜六人のグループだった。それぞれが高校生になっても、就職をしても、僕達は会っていた。時にはAとBと僕。CとDとEと僕。ある時には僕を除く皆。僕が引っ越してからも、その度に僕はその町まで行って飲んだ。彼らの殆どがその町に住んでいるという単純な理由であった訳だが、僕はその町に行く度に落ち着いた安らぎを感じた。単なるノスタルジーではない。僕の中の大部分がまだそこの町に存在する様な、そこに同化する度に僕の中に在る小さく美しい何かが顔を出すのである。それは他人にとって美しいものではない。造形者は僕であり、鑑賞者は僕だけである。それだけだ。

その友人達と飲む時どんな話をしただろうか。昔オマエはこうだったとか、こんな悪さを一緒にしたとか、駄菓子屋のオヤジが面白かったとか、中学校の先生がよく言っていた口癖の事とか。そして、会う事がなくなった同級生の誰が今こんな仕事をしてるとか、結婚したとか、厄介な問題に巻き込まれて消息不明とか。また、現在の恋人の話とか、仕事とか、未来や将来の事とか。笑いがあり、沈黙があり、少し興奮して話したり。僕らはテーブルを囲んで語り合っていた。

僕がその町を離れてから、それでも少しづつ僕らも町も変化し続けていた。空き地にビルが建ったり、それまであった店が姿を消し、新しい店ができ、公園の砂場が埋められてなくなったりした。道が広げられ、新しい住宅地が出来たり、ファーストフード店やファミレスも幾つか出来た。それでもその町は全体的に見ればそれ程の変化はなかった。どこかの国で紛争があっても、どこかの軍隊が遠い国に攻め込んでも、どこかの国王が死んでも、地震や火山の爆発があっても、地球がそれでも丸く、太陽の周りで恒久運動を続ける様にだ。

しかし僕らは変わった。それは僕が今の町へ引越てから数年してからだった。友人の一人が仕事の都合でその町を離れ、別の友人が結婚して出て行った。一人暮らしを別な町で始めた友人もいた。そして今から一年前に、僕が二八歳の時に最後の友人がその町を出て行った。

僕がその町に行くことはもう無くなっっていた。それは小さな欠落感だった。

                              * * * * * * *

それからしばらくして、つまり今から半年前の事だった。叔父が亡くなってすぐの頃だった。

僕はその町でその人と再会した。何故、そしてどんなきっかけで僕がその町を訪れたかは思い出せない。友人が誰もいなくなったその町にその時何故僕がそこに居たか、分らない。多分、仕事の関係とか、何か些細な事だった様に思える。その時、僕は駅前の本屋で本を読んでいた。一月のやけに風の強い底冷えした夕方だった。

「ねえ、花田君でしょう?」

その時、僕の前に立っていた女性は紺のスカートを履き、グレーのタートルネックを着て、ベージュのコートを羽織っていた。ブラウンのマフラーを無造作に巻いていた。それでも全体的には小奇麗にまとまっていた。身長は僕より十センチ程低く、軽く脱色した髪は肩まで伸びていた。心地いい笑顔と清潔感が本屋の紙の匂いをかき消していた。僕の名前を言ったその女性が誰であるか、それが判明するのにひどく時間が掛かった。薄暗い記憶の鉱山の第三ゲートから入り、トロッコに乗ってまっすぐ進み、T字を右に曲がり、しばらくして突き当りに一枚のドアを見つけた。そのドアの上にはその町の名前が書いてあり、薄っすら埃が被り文字の一部が消えていた。僕は持っていた幾つかの鍵を鍵穴に差し込んだがドアは開かなかった。すると突然ドアが向こう側から開いて、その女性が立っていた。

「覚えてる?私よ。シノハラユキコ」

扉の向うの暗い部屋の灯かりがつき、その彼女が誰であるか初めてわかった。

「シノハラユキコ・・・・うん?篠原由紀子・・・・ああ、覚えてるよ」

僕と彼女は、小学一、二年生の時、中学でも三年生の時だけ同じクラスだった。彼女は、よかった思い出して、という様なホッとした表情を見せて笑った。

「凄く久しぶりね。何年ぶり?」

「十五年位かな?だって中学を卒業してから会ってないよ。多分」僕は持っていた本を元に戻した。

「そうね」と彼女は言って、もう一度僕の顔を覗き込んだ。

「花田君、全然変わってないね」

「そう?」

僕は、彼女のその言葉に少しだけ気持ちが暗くなった。三十歳を目前にした男が中学からあまり変わっていないという事実を聞かせれる事はあまりいい気持ちがしない。それが彼女にとってのささやかな親切心を内包した嘘であると望んでも、十五年ぶりに会う人間に対して唐突に出た「変わってないね」という言葉にはそれなりに重みがある。そしてそれは客観的に揺るぎない事実として、俺は変わってないのだな、という死刑宣告に似た鋭さを持ち合わせていた。僕は咄嗟に本屋の入り口のガラスドアに映る自分の姿をぼんやり見つめていた。

「篠原は変わったな。最初全然分らなかったよ。ホント」雑誌の表紙に写った名前も知らない女性のタレントに向かって話し掛けている気がした。彼女は実際変わったし、彼女が自分の名前を言うまでは気付かなかったであろう。しかし、それでも久しぶりに会う女性に対する礼儀としての言葉だった。

「花田君は今日どうしたの?遊びに来たの?」

僕はかぶりを振った。

「花田君の家は確かだいぶ前に無くなってるよね。引っ越して今どこに住んでるのかしら?

僕は今いる町の名前を出して、そして家を買って家族で引越し、今は実家の近くで一人暮らしをしている事を言った。

「へえー。」

自然と僕らは本屋を出た。

「篠原はまだこの町に住んでるの?」

「ええ、そうよ。まだ実家に住んでるわ」

「ここも変わったね。だいぶ」僕は駅から家路に向かう人の群れを見ながら言った。

「ホント変わったわ。新しいお店が沢山出来たし」

僕らが駅の正面に着いた頃、彼女は言った。「花田君、帰るの?」

僕はその日、別に用事がある訳じゃなかったので「いや。」と言うと「少し話さない?」と彼女は言った。僕が頷くと、彼女は目の前の喫茶店を見つけた。

「あそこにする?」彼女がそう言った後、僕はしばらく考えていた。

「どうせなら飲もうか?もうお互いに十分に酒の飲める歳だし。篠原は時間大丈夫?」

「そうね。なんかつのる話もあるし」と彼女は心地いい返事をした。

そして、僕らは近くの居酒屋に入った。

最近出来たであろうその店の奥のテーブルに座り、生ビールを二つ注文して乾杯した。お互いにお腹が空いていたので幾つかのつまみを注文した。彼女は近くで見ると本当に中学生の頃の面影をなくしていた。それは良い歳の取り方をしていたし、事実、美しい大人の女性になっていた。彼女は昔大人しく、それ程クラスでは目立つ存在ではなかった。休み時間にはいつも一人で読書をしている様な存在だったし(本当に読書をしていたかは思い出せない)、特にピンク色の服をよく着ている事だけは鮮明に覚えていた。何度か席が隣になった時にはノートを見せてもらった記憶がある。勉強はそこそこ出来たし、聡明な感じがあった。誰から嫌われるといった類の人間ではなかった。その部分においては目の前の彼女はあまり変わらない様な気がする。

まず小さな沈黙があった。それは僕らがこの十五年の間に何があったか、何からしゃべり、何を話し、何を話すべきじゃないか。それを何十年前の大掛かりな計算機の様にゆっくりとその答えを弾き出していた。そうしながら僕は煙草に火をつけ、彼女はその細い手で何度も髪をかきあげた。とりあえず僕がゆっくり話し始めた。二四歳で今の町に引っ越した事。高校に入ってからも仲の良かった連中と遊んでいた事。それが今も続いている事。つい一年前までは遊びによくこの町に来ていた事。しかし仲の良い連中が今では皆出て行ってしまって、今日はたまたま一年ぶりにここに来て君と偶然会った事。彼女は、僕の言葉一つ一つに頷き、会話の中の友人の名前(当然彼女も知っている訳だが)に何度も「なつかしいわ」と言いながらジョッキに口をつけていた。

「皆、元気なのね。でも、花田君は最近までこの辺で飲み歩いていた訳でしょう?それでも一度も会わなかったなんて不思議ね」

「そうだね」僕は頷きながらビールをおかわりした。

「ねえ、花田君は今でもみんなと遊んでいる事は分ったけど、花田君自身はどんな十五年だった?」

僕はしばらく考えてから笑って言った。

「人並みの高校に入って、人並みの恋愛をして、人並みの会社に入って、人並みの給料を貰って、人並みに酒を飲んで、人並みに煙草を吸う。かな」

彼女はつまみの唐揚げの衣が全部吹き飛んでしまいそうな位の大声で笑った。

「ねえ、面白いわ。ホント。そいういう所は全然変わってないね。」

「そうそう、でも人並みじゃないのは記憶力かもね。私の事、最初気付かなかったし・・」彼女は付け足して言った。

「だね。」

彼女は二杯目のビールを注文した。

「今、何の仕事してるの?」

「小さな広告代理店で働いてるよ。」

「へえ。凄いじゃない」

「全然」僕はかぶりを振った。

「小さな飲食店のPRや、町のフリーペーパーの求人とかね。あとはスーパーのチラシや折込なんかね」

実際にたいした仕事じゃなかった。ちょっとした戦争や天災があれば、一番最初に社会から剥ぎ取られていくような仕事だ。クライアントにも印刷所にも何かあればしょっちゅう頭を下げる。僕に頭をさげる人間はスーパーのレジ係り位なものだ。

「本当に人並みの仕事さ。会社の机の数はこの居酒屋よりも少ないぜ」僕は周りを見渡して言った。彼女は、無理やりに表面にニスを塗ったみたいな乾いて腐りそうな刺身を箸で突付きながら、それを食べようか迷っている様子だった。

「ねえ、覚えてる?花田君の卒業アルバムの一言コメント」

「ヒトコトコメント?」

「そうよ。一言コメント」僕はその言葉を空中で描いてみた。

「花田君はねえ、『人並みに精一杯生きます』って書いたのよ。覚えてない?」僕は全然思い出せなかった。

「それにしても凄いコメントだな。究極的にポジティブで、究極的にネガティブな言葉だ」

「だから花田君のさっきから言っている「人並み」って言葉。やっぱりあれから変わってないんだなあって思うの」

彼女はセーターについた毛だまりを二つ程つまんで、灰皿に捨てた。その間も平均的な笑みを浮かべていた。

「でもね。この歳になって分ったけど、人並みに生きる事も、精一杯生きる事も結構難しいって思うわ」

「確かに・・・・・篠原はどうなの?」

「だから花田君は卒業アルバムに書いたとおり、人並みに、精一杯生きてるんでしょう?それって凄い事よ」彼女は僕の質問を無視して言った。

「でも。精一杯かどうかは分らないな。まあ、そのつもりだけど」その答えに彼女は小さく頷いた。

「そうそう。私ね・・・・」彼女は思い出した様に言った。何か衛星中継で話しているみたいだ。彼女は少し考えた後、グレープフルーツサワーを注文して、改めて座りなおすと話はじめた。

「私は短大を卒業して、多分、花田君のとこよりも小さい洋服のデザイン会社に勤めたわ。でも、その会社も二年前に倒産して・・・その後は、派遣の仕事をしているの。主に端末の打ち込みなんかね。まあ、食べては行けるけど」

彼女は、サラダのトマトの部分だけを意識してどけながら、それを口に運んだ。そういえば彼女は中学の時、いつも給食でトマトを残していたのを思い出した。そのトマトは洗濯を終った後に洗濯層に残った十円玉の様だった。本来、戻るべき所を待ちわびているかの様な憂鬱な表情をしていた。そして彼女も今そんな表情をしながら、僕の肩口をぼんやり見つめていた。

「ねえ、花田君は結婚しているの?」

「いや。・・・・・篠原は?」

「私もよ・・・ その点ではお互い人並み以下ね」笑いながら彼女は言った。

「確かに」

僕らはその後、しばらくとりとめのない話を続けていた。

「そろそろ帰らなくちゃ」

二杯目のグレープフルーツサワーを飲み干した時だった。

「ああ、そうだね」時間は夜の十一時を過ぎていた。

「とても楽しかったわ。また会って飲みたいわね。花田君がOKなら。」

「構わないよ」僕は携帯の電話番号を紙に書いて渡した。彼女の番号は聞かなかった。

                             * * * * * * *

 僕は家に着くと、その日あった事、すなわち篠原由紀子と十五年ぶりに再会をし、何を話したか思い起こした。

缶ビールを一口飲み、部屋のどこからか探し出してきた中学の卒業アルバムを広げた。そこに写る彼女と僕はあまりに典型的な中学生の女の子と男の子だった。集合写真では僕の右下に篠原由紀子が写っていた。彼女はバトミントン部、僕は天文学部だった。しかし、一度も天体望遠鏡で空をきちんと見た記憶がない。それ以前に彼女と僕の所属クラブさえ忘れていた。今の僕は空に浮かぶ土星と金星の区別すら出来ないし、ましてや空の東西南北すら分らないだろう。夏見えるのはオリオン座?冬は北斗七星?こんな具合である。それらを改めて勉強するより、自分が天文学部に入った理由を思い起こす事が先決である。

篠原由紀子と僕は比較的多く同じ写真に収まっていた。多分、中学三年の時の春の遠足と理科の実験の風景だろう。彼女はいずれもピンクをベースにした服を着ていた。ピンクの服を着た二九歳の篠原由紀子も見てみたい、とも思った。理科の実験の写真では、僕が何かを手にして何かをグループの皆に説明している姿を横から写している。その僕の顔を何か真剣に見つめる篠原由紀子の姿があった。

FMラジオをつけると、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が流れていた。

『やあ暗闇、僕の旧友。

また君と話しに来たよ。

だって、一つの夢が、僕の寝ている間に、

そっと忍び寄ってきて、

僕に夢の種を植えていったから、

それが僕の脳味噌の中で芽を出し、

沈黙の音の中で育っているから。』(『sound of silence』/Simon&Garfunkel・1966)

僕はギターを手にとりそれを弾いてみた。昔スコアブックを買って練習した事がある。結局上手く弾けなかったので諦めて、煙草を一本吸った。缶ビールは部屋の冷たさに一層その温度を下げた様だった。そして僕は胸の中に小さな嵐が吹き荒れるのを感じた。僕が中学三年生の時に篠原由紀子を少しだけ気になっていた記憶だ。当時それが恋愛感情だったかどうかは思い出せない。むしろ好意というものだろう。その思いは決して長く続かなかったのだけは思い出せる。それは道端に落ちていた木の実を、どこからか飛んで来た小鳥が口ばしに挟んで、そのまま飛び去ってしまう位の一瞬の出来事だった。彼女と共に写った写真の中の僕は一体彼女に対しどんな風に思っていたのか。僕は考えるのをやめて、残りのビールを一気に飲み干した。

                             * * * * * * *

篠原からの電話はその二週間後だった。僕は人並みの会社に行き、その日人並みの仕事を終えて会社を出た時だった。

「こんばんは。この前はありがとう」

電話口の篠原の声は暗くて遠く、昔観たアメリカのスパイ映画に出てくる秘密結社のボスが新しい指令を出す時みたいな声だった。

「こちらこそ。」

「ねえ、また飲みたいわ。近いうちに」

「いいよ。いつごろ?」

「うーん。今週末はどうかしら」

「構わないよ。どこで飲む?」僕は、通りの植え込みで誰かと携帯で話している若い女の子を見ながら言った。

「出来たら、こちらに来てもらいたいわ。」

「分った。そっちに行くよ。今週の土曜日の夜七時に駅の改札は?」

「うん。大丈夫よ。」

僕が電話を切った時には植え込みの女の子はいなくなっていた。会社から駅へ向かう途中にある馴染みの喫茶店の前で、不意に僕は半年前に別れた彼女の事を思い出した。

                             * * * * * *

ある時期、僕は昼休みにいつもこの喫茶店によく行っていた。

店は「eau de cafe」という名の店である。「コーヒーの水」という意味である。家族でやっている様な小さな店だが、いつも学生アルバイトが交代で何人かいるだけだ。カウンターとテーブルが幾つかある。「カフェ」というよりは「喫茶店」に近い雰囲気を持ち、一昔前の青春ドラマの様に、客が来ると「カラン、コロン」というカーベルの音が聞こえてきそうな店である。といっても、店の主人がいつもコーヒーを落としている訳でなく、主人がウエイターをやったり、アルバイト達がコーヒーを落とす事もあった。ブレンドとアメリカン、そして炭火焼コーヒーやキリマンジャロ、モカなどがあるが、僕はいつもブレンドにしていた。僕は昼休みに週に一、二回はよくそこでコーヒーを飲んだ。

あれはちょうど一年位前だった。

僕はその日忙しくて昼休みに行けなかったが、どうしてもそこのコーヒーが飲みたくなり、仕事帰りの夜の九時少し前に店に行った。店の前では若い二十代中ごろのアルバイトの女性が店じまいをしていた。僕が近寄ると「すみません。今日はもう終わりなの」彼女は「eau de cafe」と書かれた看板のコンセントを抜きながら申し訳なさそうに言った。

「よく昼間にいらっしゃる方よね」

彼女はジーパンと黄色いTシャツを着て、ブルーのエプロンをしていた。いつも店で見かけていたものの、思ったよりも長いその髪を後ろで束ねていた。

「そうですか。でも残念だなあ。どうしてもコーヒーを飲みたくてね」

「ごめんなさいね。ここのコーヒーは好き?」

僕が頷くと、彼女は遠くを指差して言った。「この先を駅の方に300M程行った所の最近出来た店、知ってる?」

「あそこ美味しいわよ。ウチよりは少し落ちるけど、でも夜中までやってるし、私たまに仕事終わるとそこでコーヒー飲むの」

彼女に礼を言って、僕はその店を目指した。まあ、しょうがない。とにかくちゃんとしたコーヒーを飲みたかった。缶コーヒーを飲むという選択肢はその時はなかったのは確かだ。「eau de cafe」から実際には350M程行った所にその店はあった。ウエイターに「一番酸味の少ないホットコーヒーを一つ」と言い、それはブレンドになりますが、と彼が言うと、「それで」と言って煙草に火をつけた。三十分程すると、さっきの彼女が目の前に立っていた。

「ここいいかしら」

僕が頷く暇も無く彼女は僕の前に座った。

「ねえ、それはもしかして一番酸味の少ないコーヒー?」

束ねた髪をほどきながら彼女は笑いながら言った。

「あなたウチの店に最初に来たときそう注文したのよ。メニューも見ないで、一番酸味の少ないヤツを一つってね」

「そうだった?」

「ええ、そうよ。よく覚えてるわ」

火星から持ち帰った石を初めて見るNASAの研究員の様に僕のコーヒーを見ながらウエイターに言った。

「同じのね」

「お邪魔だったかしら?」

「もう座っている」僕がそう言うと「そうね」と言って、テーブルの上で指先で何かを書いていた。

「ねえ、聞いていい?会社はこの近く?」僕は「eau de cafe」の裏手にある会社の名前を出した。

「ふーん。」彼女は、そんな会社聞いた事がないという風に、全く興味がないそぶりで言った。

僕は、テーブルに置いてある彼女が持ってきた本をぼんやり見ていると「これ?これは地底人の話よ」

「チテイジン?」本のタイトルも著者も聞いた事がなかった。

「これはねえ、地底人が人口増加で住む場所が無くなって地上に出てくるの。だけど地底人はずーっと暗い所にいるからすぐには外に出て来れないの。でね、目を慣らす為に目薬が必要なの」

「目薬?」

「そう。目薬よ。それでね、目薬を確保する為に、目薬が無くて済む選ばれた地底人の男と女二人が地上に上がるの。そしてなんとかして目薬をやっと一万人分手に入れるの」

「それはどれ位の量なの?」

「分らないわ。多分、ドラム缶十本分くらいよ。でも地底人は全部で二万人居るの。だから、その目薬をめぐって地底で戦争が起こるの」

「凄い話だな。」

「そうね。目薬戦争よ」

「メグスリセンソウ?・・・最後は?」

「結局、その目薬を地下水で二倍に薄める事で決着がつくの・・・」

「ふーん。それホント?」

「嘘よ。決まってるじゃない。目薬の部分からはデタラメ。だってまだ十ページしか読んでないもの。でもこの手の本はそんなもんよ。結末はね」

僕は大きく溜息をついた。

「ねえ、コーヒーは好き?お酒はあまり飲まないの?」彼女は訊いた。

「酒よりもね。朝起きて薄めのを一杯飲んで、夜帰ったら濃い目のを一杯飲む。そうそう、あと、昼間は君のとこでね。一日三杯は飲む」

彼女は頷きながら髪を耳にかけながら訊いていた。

「君は?」

「ええ、好きよ。昔は駄目だったけど、今はね。あそこで働く様になってから好きになったわ」

彼女はコーヒーにポーションクリームを一個、シュガーを一本入れた。

「泥んこだみたいだね」僕がそう言うと

「何?ドロンコ?」

「そう。泥んこ。小さい頃、公園の砂場で遊んだ時のあの色だよ。」

「ふーん。ねえ、なんかあなた変よ。おかしいわ。だって・・・・」彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら言った。

「コーヒーをこんなに飲むのに、毎回飲むたびに「ドロンコ」って思ってるの?」

「毎回じゃない」

「ふーん」彼女はイヤリングを触りながらそう言うと、僕の頭三つ分上くらい上を目掛けて煙を吐いた。僕がまだ泥んこの事を思い出している頃、それを打ち消す様に言った。

「あなたが店に来た時は必ず私がコーヒー落とすのよ。知ってたかしら?」

「いや。」

「はあ」彼女は大きく溜息をついた。それは道端に落ちた蝉の抜けがらを遠くまで運び去る位の溜息だった。

「でもね。ウチの店であなた位美味しそうにコーヒーを飲むお客さんはいないわ」

「そうか?」

「そうよ。きっと一番だわ。だから私が落とすの。普通は落としておいたコーヒーを出すの。でもあなたが来るとそれを捨てて、新しく落とすの。」

「美味しいよ。ホント」

「そう?嬉しいわ」

彼女の笑顔はいつも店で見るものよりも美しかった。

「注文してから時間が掛かるのはそのせいよ。あなたが来る時はお昼でしょう?いつも店長がいないときだから。もしバレたら怒られるわ」

「感謝しなさい。VIPなんだからね、アナタは」

「ありがとう。ホント美味しいよ。僕の落とすコーヒーよりもね」

「どういたしまして」<

しばらくして彼女は言った。

「ねえ、あなたの落とすコーヒーも一度飲んでみたいものね」


その後、僕達は近くのバーに行き、そして彼女は僕の部屋に来た。

「あなたの落とすコーヒー飲みたいんだけど」

朝目覚めると僕らはベットに寄りかかって座り、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、コーヒー色に変色した壁をぼんやり見つめていた。僕はキッチンでコーヒーメーカーに紙のフィルターをセットし、豆を計量スプーンで二杯入れ、330CCの水を入れる。その間、カップを暖める為に二つのコーヒーカップに水を入れ電子レンジで三分間チンする。しばらくすると二杯分300CCのコーヒーが出来上がるのである。

「美味しいわ」彼女は、僕よりも多めのクリームを入れ、僕よりも少なめの砂糖を入れる。二人のコーヒーをすする音が真夜中の動物園の孔雀の足音の様に部屋に響いていた。

「私ね、ホントは婚約者がいたの。」彼女の小さな溜息が彼女のコーヒーを少しばかりぬるくさせた。

「へえ。でも、いたのって・・・・どういう事?」

彼女は今日二本目の煙草に火をつけると、思い切り肺に吸い込んだ後言った。

「フラれたのよ。婚約して、結婚式の会場も日取も決まって・・・でも、彼に別の女がいたの。」

「それで?」

「それで彼、その人と別れてちゃんと私と結婚するって言って土下座までして謝ったわ。でも、その姿見てなんか全部馬鹿らしくなってね。この人と結婚してもこれからの人生、何度もその土下座を見るはめになるだろうって」

「でも、フラれたって?」

「そうよ。少し賭けたの。彼、本当に心の底から悔いて、戻ってくるんじゃないかって。もう一度やり直したいって言ってくるかと思ってね。・・・それでね。待ってたんだけど、二ヶ月した後に友人から聞いたの。彼がその浮気相手と婚約したって。」

「酷い話だな」

「そうよ。酷い話。結局、フラれたの。そういう事よ。私、結婚の為に会社辞めてたわ。結局そうなって、でも食べていかなくてはいけないじゃない?でも、この不景気で再就職なんて難しかったわ。だからあそこの喫茶店で働いてるの」

彼女は両膝を曲げて座り、膝の上にコーヒーカップを置きながら、しばらくそれを眺めていた。

「ねえ、おかわり貰ってもいいかしら」

僕はさっきと同じ要領でコーヒーを二杯分落とした。キッチンから見える彼女は膝を曲げて座り、膝に顎を乗せ、手の平で足の指先を摩っていた。二杯目のコーヒーに砂糖を入れながら彼女は言った。

「ねえ、コーヒーを落とす時って、出来上がる量に対して一割増し位の水を入れるじゃない?コーヒーの粉が吸うから。なんかね、私の人生の様なの。学生の時も、会社にいた時も、好きな人と一緒の時も、私が望んだり、目指す物の為にはそれなりに努力して来たわ。望んだり、目指したりする事の結果に対して、それ相応の努力は必要じゃない?努力は水で、結果がコーヒーよ。でね、努力しても、結局の所はその結果は努力よりも若干少ないものなの。コーヒーの様にね。そういうものなの。結果にいつも満足出来なかったの。出来たコーヒーが濃すぎる様にね。苦くて飲めないの。でね。もっと努力しようとしたの。そしたら今度は水を入れ過ぎたのね。薄くて飲めないわ」

「そういうものかな?」僕は少しだけ疑問だった。

「きっとそうよ。濃すぎるだけならまだいいじゃない?もっと水を入れてみようってね。でも努力して、つまり水を入れすぎてしまって、結局出来上がったものが薄くて飲めないと、人間て弱いものよ。もう諦めてしまうのよ」

「ちょっと待って」僕は彼女の話を遮って言った。

「豆を増やせばいいんじゃない?」

「少し違うの。要は、水と豆の関係なの。豆を増したって、水を増したって、その比率は変わらないじゃない?それと同じ。だから皆苦しむの。あなたも私も、みんなね。美味しいコーヒーを入れるのには豆と水の絶妙なバランスが必要なの。その比率を知る事って難しいわ。更に、豆も水も悪い、コーヒーメーカーはおかしくなってる。そんな事だってあるのよ。人生と同じよ。」彼女は三本目の煙草に火をつけ、ボブディランのポスターに向かって煙を吐いた。

「別れたその彼との時もそうよ。水を入れすぎても、少なすぎても、つまりそれは愛情ね、相手は去っていくものよ」

僕らはしばらくの間、考えていた。彼女の言う事には全て賛成は出来ない。しかし、そこには小さな真理がある。僕らは夢や希望や目標の為に努力する。そしてそれが予想よりはるかに大きいものが必要だという事も知っている。しかし、頑張り過ぎても空回りする時もあるし、いい加減な小さな努力でも結果は目に見えている。絶妙なバランス。確かにそうだ。

「私はね、私の場合だけど、コーヒーの様に一割増しの努力にしたの。それが私らしいのかもしれないわ。疲れないし。それがしっくりくるのね」

僕は煙たくなった部屋の窓を開けた。週末の朝の静かで柔らかい風がそっと彼女の肩を叩いた。そして彼女はその肩を震わせて小さく泣いている様に見えた。

それから半年間の間、彼女の働いている「eau de cafe」で四十六杯、彼女の落としたコーヒーを飲み、週末の朝、僕の部屋で僕の落としたコーヒーを三十二杯彼女は飲んだ。



『あなたのコーヒーは少し薄かったわ。でも美味しかった。ありがとう』

彼女はある朝、そう書いたメモを残して去っていった。

・・・・一割増しの努力・・・・・

あの時彼女の発した小さな音の端切れが、泥の様なコーヒーの湯気と一緒に薄暗い朝の部屋を漂っていた。その中で僕は一人コーヒーを飲んでいた。

そして、彼女は「eau de cafe」からも姿を消した。それから僕は自然とその店にも行かなくなり、コーヒーすら飲むこともなくなっていた。

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