地底人と、コーヒーの功罪について。

 

どんよりとしたカーボン紙みたいな闇夜が次第に熱と光を帯び、白濁色の光彩が朝の空気に膨張し始める。それはやがて鮮やかに透き通ったオレンジ色となり、町の隅々までに一切の余白すらない程までに広がっていった。

 僕と彼女はベットの上で、一枚のカーキ色の毛布に包まれながら静かな時を過ごしていた。白い三角形の陽の刻印が彼女の細い首筋を捉えて、カーテンの隙間を通って空からの使者達が舞い降りようとしていた。

「ねえ、眩しいの。カーテン閉めて。ねえ。お願い」

10センチ程の隙間を消し去ると、逃亡者の地下室の様に暗い世界が惜しげも無く広がっていった。
「なんで、コーヒーにクリームと砂糖を入れるの?」
僕たちはベットの上でお揃いのマグカップでコーヒーを飲んでいた。
「ねえ、聞いてるの?なんで、砂糖とクリームを入れるの?」彼女は僕のカップを見つめながらもう一度言った。
「私はブラックだわ。味が台無しじゃない。砂糖とクリームを入れたら」
僕は、子供の頃に公園の砂場で遊んだ時のドロンコ遊びの泥の色を想い出していた。
「昔はブラックだったけど、今はこれがいいんだ」
僕がそう言うと、彼女は納得いかない顔をしながら、自分の持っている煙草を僕の口に入れた。
「私達最高のお似合いのカップルじゃない?コーヒーの飲み方の違いを抜きにすれば・・」
空中に浮かぶメンソールの煙を見ながら頷いた。
「でも、煙草の趣味も違う」
僕がそう言うと、彼女は泣きそうな笑顔を浮かべ、僕の口から煙草を奪い取った。
「ねえ、私思うの。なんかあなたと出会う為に生まれてきたんじゃないかと。あなた以外の人とは、いやあなた以上の人とは今後巡り会わない様なきがするの」
そう言いながらメンソールの煙草を灰皿で消すと、新しいコーヒーを入れに彼女はキッチンに向かった。


 
一週間後、ダイニングテーブルに『棚の中のコーヒークリームとシュガーが切れてましたよ。』とだけ書いたメモを置いて、彼女は出て行った。

僕が2度とブラックのコーヒーを飲まない様に、彼女は二度と戻っては来なかった。

 
それから、毎朝、僕は一人でコーヒーを入れ、いつもの様にクリームと砂糖を入れ、そしてドロンコ遊びの時の泥を想像しながら、一人でコーヒーを飲んだ。
彼女は相変わらずどこかの男と、朝のまどろみの中でコーヒーをブラックで飲んでいるのだろう。そして僕の時の様に、コーヒーをブラックでは飲めない男に「味が台無しじゃない」と言っているかもしれない。もしかしたらブラックしか飲めない男と巡り会って、「ねえ。私達最高のお似合いのカップルじゃない?コーヒーの飲み方も同じだし・・・」

そう言って、その男に抱かれているのかもしれない。


                         * * * * * * * *


 そんな風に一ヶ月をやり過ごしたある日。
僕は会社帰りに、昼休みにいつもよく行く青山通り沿いのコーヒーショップに行った。店は『eau de cafe」』という名の店である。「コーヒーの水」という意味である。
家族でやっている様な小さな店だが、いつも学生アルバイトが交代で何人かいるだけだ。木製のカウンターとテーブルが幾つかある。「カフェ」というよりは「喫茶店」に近い雰囲気を持ち、一昔前の青春ドラマの様に、客が来ると「カラン、コロン」というカーベルの音が聞こえてきそうな店である。といっても、店の主人がいつもコーヒーを落としている訳でなく、主人がウエイターをやったり、アルバイト達がコーヒーを落とす事もあった。ブレンドアメリカン、そして炭火焼コーヒーやキリマンジャロモカなどがあるが、僕はいつもブレンドにしている。


僕は昼休みに週に一、二回はよくそこでコーヒーを飲んだ。

 僕はその日忙しくて昼休みに行けなかったが、どうしてもそこのコーヒーが飲みたくなり、仕事帰りの夜の9時少し前に店に行った。店の前では若い20代中ごろのアルバイトの女性が店じまいをしていた。

僕が近寄ると「すみません。今日はもう終わりなんです」
彼女は「eau de cafe」と書かれた看板のコンセントを抜きながら申し訳なさそうに言った。

「よく昼間にいらっしゃる方ですよね」
彼女はジーパンと黄色いTシャツを着て、ブルーのエプロンをしていた。いつも店で見かけていたものの、思ったよりもよりも長いその髪を後ろで束ねていた。
「そうですか。でも残念だなあ。どうしてもここのコーヒーを飲みたくてね」
「すみません。ここのコーヒー好きなんですか?」
僕が頷くと、彼女は遠くを指差して言った。「この先を駅の方に300M程行った所の最近出来た店、知ってますよね?」
「あそこ美味しいんですよ。ウチよりは少し落ちるけど、でも夜中までやってるし、私いつも仕事終わるとそこでコーヒー飲むんですよ」
彼女に礼を言って、僕はその店を目指した。まあ、しょうがない。とにかくちゃんとしたコーヒーを飲みたかった。缶コーヒーを飲むという選択肢はその時はなかったのは確かだ。


「eau de cafe」から実際には350M程行った所にその店はあった。
ウエイターに「一番酸味の少ないホットコーヒーを1つ」と言い、それはブレンドになりますが、と彼が言うと、「それで」と言って、煙草に火をつけた。

30分程すると、さっきの彼女が目の前に立っていた。
「ここいいかしら」
僕が頷く暇も無く、彼女は僕の前に座った。
「それはもしかして一番酸味の少ないコーヒー?」
束ねた髪をほどきながら彼女は笑いながら言った。
「あなたウチの店に最初に来たときそう注文したのよ。メニューも見ないで、一番酸味の少ないヤツを1つってね」
「そうだった?」
「えーそうよ。よく覚えてるわ」
火星から持ち帰った石を初めて見るNASAの研究員の様に僕のコーヒーを見ながらウエイターに言った。
「同じのね」
彼女は座り直して言った。
「お邪魔だったかしら?」
「もう座っている」
僕がそう言うと「そうね」と言って、テーブルの上の指先で何かを書いていた。
「ねえ、聞いていい?会社はこの近く?」
僕は「eau de cafe」の裏手にある酒造メーカーの名前を出した。
「ふーん。」
僕は、テーブルに置いてある彼女が持ってきた本をぼんやり見ていると
「これ?これは地底人の話よ」
「チテイジン?」
本のタイトルも著者も聞いた事がなかった。
「これはねえ、地底人が人口増加で住む場所が無くなって地上に出てくるの。だけど地底人はずーっと暗い所にいるからすぐには外に出て来れないの。
でね、目を慣らす為に目薬が必要なの」
「目薬?」
「そう。目薬よ。それでね、目薬を確保する為に、目薬が無くて済む選ばれた地底人の男と女2人が地上に上がるの。そして目薬をやっと1万人分手に入れるの」
「それはどれ位の量なの?」
「分らないわ。多分、ドラム缶10本分くらいよ。でも地底人は全部で2万人居るの。だから、その目薬をめぐって地底で戦争が起こるの」
「凄い話だな」
「そうね。目薬戦争よ」
「メグスリセンソウ・・・で、最後は?」
「結局、その目薬を地下水で2倍に薄める事で決着がつくの・・・」
「ふーん。それホント?」
「嘘よ。決まってるじゃない。目薬の部分からはデタラメ。だってまだ10ページしか読んでないもの。でもこの手の本はそんなもんよ。結末はね。」
僕は大きく溜息をついた。

「ねえ、コーヒーは好き?お酒は飲まないの?」彼女は訊いた。
「酒よりもね。朝起きて薄めのを一杯飲んで、夜帰ったら濃い目を一杯飲む。そうそう、あと、昼間は君のとこでね」
彼女は頷きながら髪を耳にかけて言った。
「訊いていい?ちょっとさあ、あなたお酒の会社に勤めているんでしょう?おかしくない?お酒よりもコーヒーが好きだなんて」
「そういう人もいる。寿司の食えない漁師もいる」非常に便宜的な言い訳だった。
「まあ、いるかもね」
「君だって、こうして仕事が終わっても違う店でコーヒーを飲む」
「漁師だって魚屋で魚を買うこともあるわ」彼女も便宜的に言った。
「そうかね」
「そうよ。きっと」
彼女もコーヒーにポーションクリームを一個、シュガーを一本入れた。
「泥んこだ」僕がそう言うと
「何?ドロンコ?」
「そう。泥んこ。小さい頃、公園の砂場で遊んだ時のあの色」
「ふーん。ねえ、なんかあなた変よ。おかしいわ。だって・・・・」彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら言った。
「コーヒーをこんなに飲むのに、毎回飲むたびに「ドロンコ」って思ってるの?」
「毎回じゃない」
「ふーん」
彼女はイヤリングを触りながらそう言うと、僕の頭3つ分上くらい上をめがけて煙を吐いた。
「知ってた?」
僕がまだ泥んこの事を思い出している頃、それを打ち消す様に言った。
「あなたが店に来た時は必ず私がコーヒー落とすのよ。知ってた?」
「いや」
「はあ」彼女は大きく溜息をついた。
それは道端に落ちた蝉の抜けがらを遠くまで運び去る位の溜息だった。
「でもね。ウチの店であなた位美味しそうにコーヒーを飲むお客さんはいないわ」
「そうか?」
「そうよ。きっと一番だわ。だから私が落とすの。普通は落としておいたコーヒーを出すの。でもあなたが来るとそれを捨てて、新しく落とすの」
「美味しいよ。ホント」
「そう?嬉しいわ」
彼女の笑顔はいつも店で見るものよりも美しかった。
「注文してから時間が掛かるのはそのせいよ。あなたが来る時はお昼でしょう?いつも店長がいないときだから。もしバレたら怒られるわ。感謝しなさい。VIPなんだからね、アナタは」
「ありがとう。ホント美味しいよ。僕の落とすコーヒーよりもね」
「どういたしまして」
しばらくして彼女は言った。
「あなたの落とすコーヒーも飲んでみたいわ」


その後、僕たちは近くのバーに行き、そして彼女は僕の部屋に来た。


「ねえ、あなたのコーヒー飲みたいわ」
朝目覚めると僕たちはベットに寄りかかって座り、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、コーヒー色に変色した壁をぼんやり見つめていた。僕は、キッチンでコーヒーメーカーに紙のフィルターをセットし、豆を計量スプーンで2杯入れ、330ccの水を入れる。その間、カップを暖める為に2つのコーヒーカップに水を入れ電子レンジで3分間チンする。しばらくすると2杯分300ccのコーヒーが出来上がるのである。


「美味しいわ」
彼女は、僕よりも多めのクリームを入れ、僕よりも少なめの砂糖を入れる。
二人のコーヒーをすする音が、真夜中の動物園の孔雀の足音の様に部屋に響いていた。
「私ね。ホントは婚約者がいたの」
「へえ」
彼女の小さな溜息が彼女のコーヒーを少しばかりぬるくさせた。
「いたのって・・・・どういう事?」
彼女はその日2本目の煙草に火をつけると、思い切り肺に吸い込んだ後言った。
「フラレタのよ。婚約して、結婚式の会場も日取も決まって・・・でも、彼に別の女がいたの」
「それで?」
「それで彼、その人と別れてちゃんと私と結婚するって言って土下座までして謝ったわ。・・・でも、その姿見てなんか全部馬鹿らしくなってね。この人と結婚してもこれからの人生、何度もその土下座を見るはめになるだろうって」
「でも、フラレタって?」
「そうよ。少し賭けたの。彼、本当に心の底から悔いて、戻ってくるんじゃないかって。もう一度やり直したいって言ってくるかと思ってね。それでね。待ってたんだけど、2ヶ月した後に友人から聞いたの。彼がその浮気相手と婚約したって。」
「酷い話だな」
「そうよ。酷い話。結局、フラレタの。そういう事よ。私、結婚の為に会社辞めてたわ。結局そうなって、でも食べていかなくてはいけないじゃない?
でも、この不景気、再就職なんて難しかったわ。だからあそこの喫茶店で働いてるの」
彼女は両膝を曲げて座り、膝の上ににコーヒーカップを置きながら、しばらくそれを眺めていた。


「おかわり貰ってもいいかしら」

僕はさっきと同じ要領でコーヒーを2杯分落とした。
キッチンから見える彼女は膝を曲げて座り、膝に顎を乗せ、手の平で足の指先を摩っていた。2杯目のコーヒーに砂糖を入れながら彼女は言った

「ねえ、コーヒーを落とす時って、出来上がる量に対して一割増し位の水を入れるじゃない?コーヒーの粉が吸うから。なんかね。私の人生の様なの。学生の時も、会社にいた時も、好きな人と一緒の時も、私が望んだり、目指す物の為にはそれなりに努力して来たわ。望んだり、目指したりする事の結果に対して、それ相応の努力は必要じゃない?努力は水で、結果がコーヒーよ。でね。努力しても、結局の所はその結果は努力よりも若干少ないものなの。コーヒーの様にね。そういうものなの」

二人のコーヒーの湯気は弱々しい糸みたいだった。

「結果にいつも満足出来なかったの。出来たコーヒーが濃すぎる様にね。苦くて飲めないの。でね。もっと努力しようとしたの。そしたら今度は水を入れ過ぎたのね。薄くて飲めないわ」
「そういうものかな?」僕は少しだけ疑問だった。
「きっとそうよ。濃すぎるだけならまだいいじゃない?もっと水を入れてみようってね」
「でも努力し過ぎて、つまり、水を入れすぎてしまって、結局出来上がったものが薄くて飲めないと、人間って弱いものよ。もう諦めてしまうのよ」
「ちょっと待って」
僕は彼女の話を遮って言った。
「豆を増やせばいいんじゃない?」
「違うの。要は、水とコーヒーの関係なの。豆を増やしたってその比率は変わらないじゃない?それと同じ。だから皆苦しむの。あなたも私も、みんなね。美味しいコーヒーを入れるのには、豆と水の絶妙なバランスが必要なの。その比率を知る事って難しいわ。更に、豆も水も悪い、コーヒーメーカーはおかしくなってる。そんな事だってあるのよ。人生と同じよ」
彼女は3本目の煙草に火をつけ、ボブディランのポスターに向かって煙を吐いた。
「別れた彼との時もそうよ。水を入れすぎても、少なすぎても、つまりそれは愛情ね、相手は去っていくものよ」

僕はしばらくの間、考えていた。
彼女の言う事には全て賛成は出来ない。しかし、そこには小さな真理がある。僕らは、夢や希望や目標の為に努力する。そしてそれが予想よりはるかに大きいものが必要だという事も知っている。しかし、頑張り過ぎても空回りする時もあるし、いい加減な小さな努力でも結果は目に見えている。
絶妙なバランス。確かにそうだ。

「私はね。私の場合だけど、コーヒーの様に一割増しの努力にしたの。それが私らしいのかもしれないわ。疲れないし。それがしっくりくるのね」
僕は、煙たくなった部屋の窓を開けた。週末の朝の静かで柔らかい風がそっと彼女の肩を叩いた。そして彼女はその肩を震わせて小さく泣いた。


それから彼女の働いている「eau de cafe」で46杯、彼女の落としたコーヒーを飲み、週末の朝、僕の部屋で僕の落としたコーヒーを32杯彼女は飲んだ。


それだけの時間が経ったある日。「あなたのコーヒーは少し薄かったわ。でも美味しかった。ありがとう。」彼女はそう最後に言って去っていった。


そして、青山通り沿いのその店からも彼女は姿を消した。


それからしばらくして、彼女が自分の部屋で自らその命を絶ったのを知った。


                           * * * * * * * *



 地底人の世界。それは地下帝国という。
地下帝国は一面闇の世界なので、彼らは地下水でなくコーヒーを飲む。彼らの法律では15歳の男女は必ず地上に出なければならない。そこで子孫繁栄の為に地上世界の結婚相手を見つけなければならない。彼女ら(彼ら)はその条件として、自分がそれまで飲んでいたコーヒーの味と同じのを好む地上人を選ぶ。地下帝国の若者のファッション雑誌では、「結婚する相手の条件」の一位は「美味しいコーヒーを入れられる人」である。そして「結婚相手にしたい人の住む地上の国ベスト3」は一位「コロンビア」二位「イタリア」三位「フランス」なのだ。

 そう、僕の出会った彼女達は地底人だったのかもしれない。

一人、僕は部屋でコーヒーを飲みながら、彼女の持っていた「地底人」の本について想像していた。時折、コーヒーで黄色く変色した煙草のフィルターに吸い込まれそうになった。
 
・・・一割増しの努力・・・・

あの時彼女の発した小さな音の端切れが、泥の様なコーヒーの表面にそっと着地して、ゆっくりと沈み、そして消えて行くのを眺めていた。




                           * * * * * * * *


 数年後、僕は結婚した。彼女は少なからず地底人ではなかった。


「コーヒーは嫌いじゃないわ。でも、私にしてみればそれは自転車の雨避けの様なものよ」ある朝、彼女は言った。
「アメヨケ?」
「そう。雨避け。自転車の雨避けは・・・・雨の降っていない日は必要ないわ。雨が降っている時でも自転車に乗ってなければ必要ないわ」
僕は首を傾げた。

「でしょう?晴れた日に自転車に乗ってる時でも必要ないわ。雨の時は歩く時も車の時もある。でも、雨の日にどうしても自転車に乗らなくてはならないときは、やっぱり必要ね。そういうもんよ。私にとっては」
「じゃあ、君がコーヒーを飲むとき、いや飲む必要があると感じる時はどんなときなんだい?」僕は訊いた。
「そんなの分らないわ。私にとっては・・・そうね形而上的なものなの」
「形而上的?」
僕はそれ以上続けるのをやめた。

それでも、僕たちはほぼ毎朝、テーブルで向かい合いながらコーヒーを飲んだ。僕がコーヒーが好きで毎朝飲んでいるので、自然と彼女も付き合う様になった。
僕が落としたり、彼女が落としたり、ただ彼女の落とすコーヒーの味は一定ではなかった。僕はあまり気にしない。そして彼女も、コーヒーを「自転車の雨避け」のごとく、ただの黒い液体として胃袋の中に流し込んでいた。 彼女は気分でブラックの時もある。砂糖だけの日もあれば、クリームだけの日もあった。でも概ね、僕と同じ泥んこのコーヒーを飲むのが習慣となった。また、彼女は紅茶の時もあれば、オレンジジューズの時もあった。僕は別に何とも思わなかった。

次第に僕たちは、月、水、金曜日は僕がコーヒーを落とし、火、木、土曜は彼女が落とした。日曜日は気分の向いた方だった。彼女のコーヒーの味はそれでも一定ではなかったが、紅茶やオレンジジュースを飲むことはなくなっていた。僕たちが毎朝コーヒーを飲むのは、新入りの坊主が毎日境内を掃除するかごとく、もしくは総理大臣の秘書が毎朝「総理、昨日はよくお休みになれましたか?」というセリフの様に、当たり前の様に日常に溶け込んでいった。



そして、僕たちが結婚してお互い毎朝それぞれ500杯位コーヒーを飲んだであろう、ある月曜日の朝。
僕はコーヒーを入れず、前の日に買っておいたホットココアを入れた。水ではなく牛乳を沸かし、念入りにココアの粉末を溶かし、出来上がる寸前に生クリームとブランデーを少しだけ入れた。そしてそれを茶漉しでこした。

テーブルに2つのホットココアを出すと、パジャマのまま椅子に座った彼女の表情が一瞬曇った。
「アンタ、何これ?」
「ココアだよ。ココア。たまにはいいだろ。君も毎朝飲んで飽きただろう」
「どうして?」
彼女はココアのカップに手をつける事もせず、それをずっと眺めていた。
「ねえ、ねえ、なんでコーヒーじゃないの?」
彼女の声が次第に大きくかん高くなった。
「ねえ、どうしてなの?」
彼女は序々に顔を赤く硬直させながら、両手の平を頭に乗せて言った。
「何で。何でなの?コーヒーじゃないの?」
そして片肘をテーブルにつきながら、手の平でお額を押さえて、そして肩を震わせながら泣き始めた。
「どうしたって言うんだよ。ココアじゃダメかい?コーヒーが飲みたかったのか?」
彼女の思いがけない反応に僕は酷く動揺した。
「別にココアが嫌いな訳じゃないわ。コーヒーが死ぬ程好きな訳じゃないわ。そう、自転車の雨避けよ。でも、何故よ。何故よ。ねえ。教えて」
彼女は両手で頭を抱えて、両目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
「なんで・・・・なんで、コーヒーじゃないのよ」
そう言うと彼女は頭をテーブルにつき、両手で頭を抱える様にして、いつまでも大きく泣き続けた。


行き場を失った二つのココアの湯気はまっすぐに天井に吸い込まれていった。
僕はそれを見ながらぼんやり地底人について考えていた。(了)