静かな雨が降ろうとしている

 

 静かな雨が降ろうとしている。

 
 いつからだろう、僕はそんな予感の様なものを感じる様になった。
それはたいした雨ではない。時には傘だって必要ないかもしれない。雨粒は空中で更に分解され、砂粒の様になってしまう。または目を凝らさないと見えない雨。しばらくじっと顔を空に向けていなくては分からない程の雨。
「昨日、雨が降ったんだよ」と次の日に誰かに言っても、その誰かは決まって首を傾げるだろう。 「そうだったけ?」
税金の徴収書や新聞の勧誘やら、ローリングストーンズの新譜の様に、そんな静かな雨は決まって訪れるのだ。


 その日の朝も僕はそんな予感を感じた。
「雨が降るなんて天気予報では言ってなかったわよ」とその子はベッドの中でアーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』を読みながら言った。
「いや、きっと降るよ。必ずね」
「ふうん・・・・・・ねえ、このお話に出てくる熊って人間なの? それとも『熊』というメタファー? それとも・・・・・・」
「最後まで読めば分かるよ」と僕は彼女の言葉を遮って答え、イルカがプリントされたカーテンを閉めた。秋の朝の陽光が眩し過ぎるのだ。空は雲ひとつなく、雀達が何匹も窓を外を浮遊していた。
僕は『ホテル・ニューハンプシャー』を取り上げ、枕元にパタンと閉じて置いた。それから薄暗い日曜の朝の部屋で彼女を抱いた。


 昼過ぎにテーブルで僕と彼女はコーヒーを飲み、昨日買っておいたレタスと卵の入ったサンドウィッチを食べた。彼女は会社の役員達の悪口を言い、雑誌の売り上げが落ちたのは最近就任した編集長の責任だとため息をついた。彼女は洋楽音楽雑誌の編集者をしているのだ。
「あの男は無能よ。それと役員連中は音楽を所詮文化的スラムとしか思ってないもの」
「へえ」と僕はスポーツ新聞を読みながら言った。
「聞いている? 編集長なんかこのご時世にフレオ・イグレシアスなんか聞いてるのよ」
僕は笑った。フレオ・イグレシアス・・・・・・確かに無能な歌手だ。
「文化的スラム、ってなんだ?」と僕は気になって訊いてみた。
「役員の一人がいつかそう言ったのよ。うちの会社は昔は不動産やら金融やってて、数年前にいきなり出版部門なんか立ち上げて・・・・・・」

僕は彼女に聞こえない様に小さなため息をついた。その話はもう十三回聞いていたのだ。お堅い商社が税金対策で始めた出版部門。会社も酷いが雑誌も酷かった。ページの半分は広告で埋め尽くされ、大して音楽なんか知らないろくでもない評論家のCDレビューと、化石と化したハードロックの爺さん達のインタビューを金を積んで2頁設けるのが精一杯の雑誌。そもそも君が毎晩徹夜して作っている雑誌だって文化的スラムじゃないか、と思った。それに君は結構楽しんでいる様に見えるぜ。


「そろそろ会社に行くわ。校了だから」と彼女は立ち上がって淡々と言い、着替え、化粧をし、髪をとかした。
僕はその間、窓の外をじっと眺めていた。雲は相変わらず一つもなかった。一つも。

「じゃあね、次は来週以降になりそうね。ここに来るの」と玄関で彼女は曖昧に言った。
「分かったよ」
「ねえ、どうしたの?」
「雨が降るよ」
彼女はしばらく窓の外を目を凝らして眺めていた。「いいお天気じゃない」
「とにかく傘は持って行った方がいい。」と僕は傘を差し出して微笑んだ。
「これ・・・・・・私の傘、この前忘れていったやつね」
「うん」
「っていうか置き傘のしたつもりなの」
「じゃあ、丁度いいじゃないか、雨が降る」
「雨・・・・・・雨ねえ」

首を傾げて彼女は傘と一緒に出て行った。
それから僕はコーヒーにたっぷりブランデーを入れて飲み、『ホテル・ニューハンプシャー』を一時間ばかり読んだ。もう三回目になるだろう。悪くない小説だ。決して文化的スラムではない。決して。


 気づくと窓の外では雨が降り始めていた。霧の様な静かな雨だ。アスファルトはほんのりと黒く染まり、耳を澄ませば微かにパタパタと音が聞こえてきそうだ。雲がどんよりと空を覆い、ひんやりした秋の風が窓の外で音を立てずに舞い踊っていた。


そんな中で僕は目を閉じ、静かな雨について考え、彼女に二度と続きが読まれることのなかった小説の風景を想像し、彼女が気になっていた『熊』を連想し、そして今日の朝、最後となった彼女の白い肌のぬくもりを想い出していた。(了)

『あの子に夢中』

  

  突然の雨が一瞬にしてやんでしまった後の様な静かな夜の部屋で男と僕はコーヒーを飲んでいる。男はブラックで、僕は人肌に暖めたクリームをたっぷり入れたモカを飲む。


男は上品そうにコーヒーをすすり、部屋を見渡して言う。
「何か音楽はないのかい?」
無意識に僕は立ち上がってプレイヤーにスティーリー・ダンの『Aja』のレコードを乗せる。ソリッドなベースのリフに乾いたスネアの音が交じり合う。
男は少しだけ体を揺らす。「いいね、最高だ」
僕は黙って肯く。


「で、君はその子に夢中なのかい?」と男は想い出したかの様に突然訊く。
僕はもう一度黙ってゆっくりと肯く。
「どんな子なんだい?」と男は興味深そうに僕の顔を見て訊く。
「素敵な子さ」
男がほんの少しだけ笑う。「どんな風に素敵なんだい?」
「とにかく素敵なんだ。僕らが無条件で『Aja』が好きな様に、僕はあの子が好きなんだ。夢中なんだ」
男は激しく頭を振って、カップをカチャリとソーサーに置く。「じゃあ、こういう質問はどうだい? その子のどういうところに惹かれたんだい?」
僕はじっくり考えてみる。男は息を殺してじっと待つ。バーナード・パーディの警戒なドラムソロが僕らを叩く。
「髪が長くて綺麗で素敵だ」
「他には?」
「笑った時に見える八重歯が素敵だ」
「他には?」
「指先が素敵だ」


男はため息をついてから幾分納得いかない表情を浮かべて更に訊く。「幾つなんだい?」
「このアルバムが出た年さ・・・一九七七年生まれ・・・・・・」
男はマルボーロに火をつける。「一九七七年、いい年だ・・・・・・二九歳」
僕もマルボーロに火をつけ、静かに肯く。
「最高だ」男が口元を緩めて言う。
「ああ、最高さ」と僕も微笑む。


今度は僕が男に訊く。「あの子は『Aja』が気に入ると思うかい?」
男は酷くびっくりして僕を凝視している。「どうしてだい?」
一週間前に北青山のカフェで彼女と会っ時、彼女は買い物帰りでCDショップの袋に『Aja』が入っていたのが見えたんだ、と僕は説明した。
男は当然の様に答える。「当たり前じゃないか」
「なぜ分かる?」
「なんとなくさ」と男は煙草をもみ消しながら言う。「『Aja』を好きな女の子に悪い子はいない」
少し間を置いて男は訂正する。「『Aja』を好きになる子はみんな素敵さ」
四曲目の「Peg」のコミカルなサクスフォンが僕らを何故かとても優しい気持ちにさせる。


僕は想像してみる。こんな静かな部屋で一人白く細い指でリズムをとり、ぷっくりした可愛らしい耳たぶにその素敵な髪をかきあげながらじっと耳を澄ますあの子の姿を。


男はコーヒーを飲み干して言う。「僕にできることはないかい?」
「たぶん、ないよ」
「とにかく何か協力できることがあったら言ってくれ」
「ありがとう」
僕がそう言うと、男は片目をつむってニッコリと笑った。


そして男が突然姿を消す。気づくとレコードは止まってしまっている。針がバチバチとレコード盤の端で微かに振動している。窓の外には何もない。風もない。音もない。灯りもない。あの子もいない。


それから僕はゆっくり立ち上がり、レコードを裏返して、三杯目のコーヒーを飲んだ。(了)

『返却は、あした、になっております。①』(携帯閲覧用)

 時折僕はこんな風に考えている。
僕はこれまで退屈というものが好きだった。厳密に言えば、嫌いじゃなかった。東北の故郷の山合いの村に吹く退屈という名の風にはどこか温かみがあり、うっとりと僕を誘惑し、その中心に引きずり込まれてしまっても僕はそんな時間の中ならいつまでも漂う事が出来た。辺り一面から聞こえる見えない虫達の鳴き声に耳を澄まし、山の輪郭に沿って太陽がその赤みを帯びるまでをじっと遠くを眺め、時にはさらさら流れる川の縁に座って空に向かってダイブする魚達に喝采を贈ったものだ。短すぎる夏と、早すぎる到来と深刻で一切を眠らせてしまうとても長い冬、その間にあって必死に自己主張しながらも、まるで敵船を目前にしながら朽ち果てていく戦艦の様なあっけない春と秋。それでもそこには優雅で荘厳で、様々な色と音があり、飽きることのない情景があった。時間は恐ろしくゆっくりと流れながらも同時に僕を包んだ多くの退屈さは、若かったからだろう、人生の過程の上で必要だったのかもしれない。
就職で東京にやって来て一年。二回目の初夏を迎えるまでに僕を襲った幾千もの新たな退屈さは窮屈で棘があり、表情はなく、暴力的なまでに僕自身を溶解させてしまった。のっぺりとし、それでいて鋭角的な佇まいを見せる知らない都会の街並と、その中を盲目的にただ通り過ぎる人達、人工的で鼓膜を針の先でピリピリと刺激する様な騒音、何よりどこまでも形式的過ぎる季節の移り変わり。
それでも一年もすると仕事にも自然と慣れ、会社で同年代の友達も数人出来た。僕らの考えている事は若い男の誰もがそうである様に女の子の事や流行の洋服や音楽だったが、そこに横たわるものはお互いどこか違っていた。それはまるで北極と南極の違いの様だった。見るもの感じるものは全く同じ様であっても、それぞれ立っている場所みたいなものが根源的に違っているのだ。彼らの殆どは都会で生まれ、退屈さには無縁で、仮に些細な退屈さえも彼らなりの魔法でどんなものにも変えていけるんだ、という器用さと活力を持ち合わせていた。
そもそも休日にまで会社の人間と会うなんてまっぴらだ、という僕のささやかな信念と、必要以上の人間との関わりを持つ事が出来ない性格によって、週末になるとそんな新たな退屈さの中で僕は一人部屋で本を読み、いつからだろう、パソコンを使って小説を書き始めた。書くという行為そのものが退屈さを吹き飛ばしてしまう効力があるのかどうか僕には分からない。ただ僕は自分で紡ぎ出す世界の中では退屈さとは無縁だった。仮想の世界の中では僕も会社の友達同様に魔法を使う事が出来たのだ。

その時家の電話が鳴った。モニターの中の仮想の世界で主人公は電話で恋人に別れを告げられる所だった。
「村岡さんのお宅ですか?」と若い女性は淡々と現実的な声で言った。
「はい」
「桜丘図書館です。村岡さんのお借りになっている本一冊が返却期限を過ぎておりますので、お早めにご返却下さい」
思わず言葉を失った。借りている本って一体何なんだ? 僕は記憶の隅に視線を巡らせた。
「すみません。分かりました」
僕はため息をついた。どうしていつも忘れてしまうのだろう。銀行の支払いの期限もクリーニングの引き取りもレンタルビデオの返却も今まで忘れた事がないのだ。しばらく部屋を探してみると本棚から長い年月のせいで色褪せたフォークナー短編集が姿を現した。『エミリーにバラを』以外に特に印象はなかった。僕は着替えて桜丘図書館に向かった。

桜丘図書館は街の外れの公園の隣にあった。公立の図書館ではこの地域では一番古くて大きいのだろう。長年の雨風のせいで建物のはくたびれ、赤茶けた外壁の至る所には補修された跡があった。建物は三階建てで、地下には利用した者など見たことのない食堂と、書庫、一階はカウンターと、月一回古い昔の映画や子供向けのアニメを上映する視聴覚室があった。二階には開架書架、三階には自習室があった。
この数ヶ月、休日になると時折図書館にやって来るのは単に本が好きだったからでない。都会の中でさえもこの空間に満ちた特有の空気感はあの故郷の図書館と同じだった。田舎であっても都会であっても、背後に山が連なろうが高層ビルが立ち並びようが、図書館独特の物寂しさの中に穏やかな何かが対流する空間は僕をとても安心させた。そこにいる誰もが黙って本を読み、ここでは決して誰かを憎まず、声を上げて罵らず、苛立ちもせず、本を相手に無声の会話をしているのだ。書店の本達はどこか、読んでもらわなきゃ困る、といういささか悲壮感みたいなものが漂っている様に思えるが、手垢にまみれた図書館の本達は、私みたいなものでよければ、どうぞ、みたいな謙虚さがあって親しみが持てる。人間の方も、それじゃあ読ませてもらいます。はい。という本に対するある種の慈愛があって、誰もが黙々とページをめくる。その一切が織り成す、外界から隔離された密閉された瓶の中の様な世界に身を置く度に、僕は何事に対しても優しくなれる気がした。


一階カウンターにはよく見かける若い女性職員が座っていた。桜丘図書館では一番若いのだろう。
僕は『フォークナー短編集』をそっと置いて頭下げて言った。「すみません、遅れまして」
彼女は慣れた手つきでパソコンを操作し、僕を見上げた。唇はきっと結ばれていた。
「村岡さん、あんまり遅れないでください。」とその女性は呆れた様に言った。
「すみません」と僕はもう一度頭を下げた。彼女が返却に遅れて何かを言うのは初めてだった。そしてその口調と声のトーンが先程電話を掛けてきた女性だったとその時気づいた。
二階に上がると思ったより多くの利用者がいた。僕の周りを走り回る小さな子供達を母親らしき女性が「シーッ」と唇に人差し指を当てて叱った。高校生のカップルが寄り添いながら座り、一つの本を見ながら笑い合っていた。その傍で浮浪者らしき中年の男性が座ったまま口を天井に向け、微かにいびきをかきながら寝入っていた。それ以外声らしき声はあまりなかった。新聞をめくる音、咳払い、そして六月にしては蒸し暑いからだろう、空調の音が日曜の館内全体を静かに覆っていた。本を一杯大事そうに抱えた職員が数人通り過ぎて行った。

しばらく僕は幾つかの本を読んだ。チェーホフスタインベックの短編集だった。どれもあまり夢中にはなれなかった。目の前のリファレンスカウンターにはついさっき一階にいたあの女性が座っているのが視界に入っていたのだ。まじまじと見るのは初めてだった。彼女はとても退屈そうだった。ごくたまに二十センチ先位の空中に向かってため息をつき、利用者が来るとふと急に顔を上げ、一拍置いてから返事をしてテキパキと対応した。そしてまた一人になると物静かに俯いたまま固まり、何気なくほんの少し顔を上げ、ぼんやりと遠くの壁の一点を仔細に見つめていた。僕は気付くとページを止めたまま、潮の満ち引きの様に繰り返すそんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。彼女はこの仕事がは酷くつまらなそうであり、酷く楽しそうでもあった。特に美人ではないが、目はくりっと大きく、高い鼻が特徴的だった。顎はすっとシャープな線を描き、わりに気の強そうな感じがした。それでもどこか愛嬌があり、幾分人より遅れたスローな仕草と、ふとした拍子で出る哀しみや寂しさをほんの僅か抱えた様な表情が対照的だった。いつしかそんな彼女の姿を見るのも飽きて僕は再び活字の隙間に潜り込んだ。
スタインベックの短編の一つ『菊』で、主人公の女性がいとおしく育てた菊の鉢植えを通りがかったある旅の修理人の男に分けてやるが、離れた所の道端に新芽だけが捨てられたているのを彼女はしばらくしてから目撃する。そして彼女は隣にいる主人に隠れて黙って涙を流す。それは僕がこの一年でこの街と社会で感じてきた事だったのかもしれない。最も大事な部分、最も大切で理解して欲しい事にこそ他人は素通りしていくものだ。自分にとって有益なものだけを相手から根こそぎ奪い取り、そんな時こそ彼らは無自覚で凶暴な微笑みを浮かべるのだ。
僕は思い立って一つの本を探していた。文庫の『アンナカレーニナ』の中巻だった。僕は先程その中巻が本棚にしっかりあるのを知っていたし、それを借りる予定だったのだ。本棚からたった一時間で姿を消してしまい、一応僕はカウンターの彼女にその事を訊いてみた。
「ないんですか?」と彼女は訊いた。
「ええ、ついさっきまであったんですが」
彼女はパソコンで調べ、それが貸し出し中でない事を告げた。「誰か読んでいるんじゃないですか?」
「分かりました」と僕は力なく答えた。

背が高くほっしりとした彼女が館内でテキパキと仕事をこなす様子をそれからしばし目撃した。ちょっと意外だった。先輩らしき男性職員に、はい、分かりました。ああ、そうですか。すぐ取ってきます。と言ったり、顔を赤くしながら必死に重そうな本を何冊も抱きかかえながら開架に慣れた手つきで本を戻した。ある老人の利用者には、はい、その本はこちらでございます。ああ、ちょっと高い所にありますので、と言って台椅子を持ってきて本を取ってあげ、老人に、どうぞ、と愛くるしい笑みを投げかけていた。動作が俊敏で無駄がなく、僕は関心してそれを眺めていた。
その時彼女が背後から肩をちょこんと叩いた。彼女は僕を見上げ小さな声で言った。
「これですよね?」と彼女は僕に探していた『アンナカレーニナ』の中巻を手渡した。
「ああ、ありがとう」と僕は言った。
「ごめんなさいね、実はさっきカウンターでこれ読んでたの」と乾いた声で申し訳なさそうに言った。
僕は彼女の言っている事がよく分からなかった。
「本当はいけないんだけど……村岡さんだよね? 村岡さんが急に来て、探している、って来たから驚いて嘘ついちゃったの」
彼女は辺りに誰もいない事を確認してから続けた。「仕事中にはあんまり読んではいけないの。当たり前だけど。にしても、まさか『アンナカレーニナ』を読んでて、いくら名作とはいえ偶然にもそれを探しているなんて……」
彼女は肩まで伸びた真っ直ぐな髪をすっと両手でかきあげた。染めてから数ヶ月経っているのだろう。根元から数センチ程には既に黒髪が顔を覗かせていた。
「偶然だね」と僕はとりあえず言った。それ以外何て言ったらいいか分からなかった。
「でね、悪いと思ったけど、さっき村岡さんの今まで借りた本を調べてみたの」と聞こえるか聞こえないか位の小さな声で言った。「結構シブイ趣味しているんだね」
「調べた?」と僕はびっくりして訊いた。声が大きかったので彼女は自分の唇に人差し指をあてて、ぺろっと舌を出した。
「これもあんまりいけない事なんだけどね」と彼女は僕の全身に視線を配らせてから言った。「村岡さんってまだ若いでしょう? 多分、私よりも少し若い位ね。このご時世にドストエフスキーやらトルストイやらフォークナーやらを読んでるこんな若い男の人って凄い珍しいと思う」と本当に物珍しそうに言った。
「駄目かな?」と少しむっとして尋ねた。
彼女は黙ってかぶりを振り、シャツの襟を直しながら答えた。「私も似た様なもの。」
「ふうん」と僕が言うと図書館職員が身につけるデニムのエプロンの胸元のネームプレートが目に入った。『白河里枝』
「あ、仕事、仕事」と思い立った様に言い残し、白河里枝という名の女性はスタスタと歩いて行ってしまった。


               * * * * * * 
  
 
 『アンナカレーニナ』の中巻きを読み終えたのはそれから三週間経った頃だった。白河里枝は数日前に図書館から電話を掛けてきていつも通り催促した。
東京の二回目の七月は恐ろしく暑く、樹々の下を選んで歩いていてもじっとりと汗ばんだ。太陽は手を伸ばせば届きそうな位置にある気がした。アスファルトは視界の中で歪み、いたずらに僕を苛立たせているみたいだった。
桜丘図書館はクーラーが効いているからだろう、沢山の利用者で溢れていた。座る場所がないからか床にかがんだままじっと本を読みふける者があちこちに見られ、学校が試験休みなのか制服を着た学生達の騒がしいしゃべり声が轟いていた。

「やっと返してくれた」と白河里枝がため息まじりに話しかけてきた。エプロンの下にはピンク色のやや小さめのTシャツを着ていた。
「すみません」
「あの時ちょうどいい所だったの」と唇を噛みながら言った。「中巻の最後の方だったけど。ねえ、読みたい本を一ヶ月待つ心境って分かる?」
僕をもう一度謝った。それにしてもなんでそこまで言われなくちゃいけないんだろう、と僕は思った。他の図書館にもあるだろうし、そもそも買えばいいなじゃいか。あなたは図書館の職員で、僕は利用者なんだ。
「ねえ、私が読みたかったから、って言ってるんじゃないんだよ。村岡さんの借りた本を後ろで待っている人がこういう風に思っているかも知れない、ってこと」と腕を組んで諭す様に言った。
僕は再び謝った。「気をつけます」


夕方、一階玄関脇にある喫煙所で僕が煙草を吸っていると彼女が外から缶ジュースを持って入って来た。「暑いわねえ」
「休憩?」
彼女は立ったまま美味そうにジュースを一口飲んで言った。「うん」
Tシャツの胸元にパタパタと風を送り、しばらく通り過ぎる車や下校途中の子供達を眺めてからデニムのエプロンの紐を外し、膝の上にたたんで僕の隣に座った。
「煙草吸うのね」
「うん」
「私もつい三ヶ月前まで吸ってたの。だからいつも休憩はここだったんだけど、もう煙草辞めたし、ここ暑いし。でもなんか癖ね、ここに来ると落ち着く。」
「よく辞めれたね」
「辞めなきゃいけなくなったから」と独り言の様に言った。彼女はもう一度外を眺め、それについて深く言いたがらない様子だった。「図書館って静かでいいんだけど、こう見えても人は結構いるしわりに疲れるの。こういう狭い場所であんまり人のいない所だとふと気が落ち着くの」
「邪魔かな?」
彼女は顔の前で手のひらをヒラヒラと揺った。「全然、気にしないで、あっ、これあげる」とエプロンポケットからレモン味の飴玉を一つ僕に手渡した。「見てよ、こんなに一杯あるの。煙草辞めたら口寂しくなってね」見るとエプロン一杯にどっさりと飴玉が入っていた。
「仕事中飴舐めるは、本読むわ、どうしようもない職員だね」と僕は冗談ぽく言った。
「そうね、どうしようもないね。でも、こう見えてもちゃんとやってるんだから。返却期限を守らない利用者に言われたくない」と微笑んで言った。
「確かに」と僕も微笑んで言った。
  

                    * * * * * * 


 それからというもの僕を図書館で見つけると彼女は「こんにちは」と話しかけてくる事もあった。相変わらず返却が遅れた事に小言を漏らす事もあったが、彼女はそれを言うことが楽しみの一つになっているかの様だった。むしろ返却日前に持って行った時などは、当然よ、ふん、とみたい素っ気ない態度でとりわけ話しかけてこようとはしなかった。逆に、はい、よく出来ましたわねえ、とまるで子供がおつかいが出来たみたいに言って僕をからかったりもした。僕はそんな彼女の一貫しない態度が不思議でたまらなかったが、きっとここでは一番下っ端? の彼女のストレス発散の一翼を担っているのだろうと勝手に解釈する事にした。ある時は背後からすっと近寄り、僕の読んでいる本を、それイマイチ、とか、それ絶対借りるべき、と教えてくれ、ミステリーを読んでいるときは、なあにそれ? と訊いてきて、それ○○が犯人よ!と一言だけ言って一目散に逃げて行った。時には僕は彼女に幾つかの本を薦めて、うん、読んだけど面白かった。と感想を聞かせてくれた。
喫煙場所や本棚の影で僕らはそうして色んな話をするうちに、僕と彼女の文学的嗜好というべきものに幾つか共通点があるのが分かった。僕は若い癖にリアルタイムの小説に、そして国内の小説に恐ろしく興味がなく古い海外文学ばかりだったが、彼女は最近の国内の女性作家を好んで読んだ。彼女の挙げた作家や作品どれも知ってはいたが僕は全く読んだ事がなかった。しかし、彼女がそこまでに至る過程で読んだ古い海外作品の好みは僕のそれと一致した。そして言葉や文体、リズム、その隙間に潜む独特の世界観に共感した。ドストエフスキートルストイが僕らにとって神として君臨し、その下に戦前戦後辺りの欧米作家達が続いた。
僕らはそうして次第に親密になり、僕はそんな彼女に好感を持ち始めていた。文学的嗜好だけではない、お互い自身の中で、どんなものに喜び、苛立ち、どんな空気の振動に心が揺れ動かされる、そんな些細な点でも恐ろしく似ていたのだ。それでも僕を混乱させ、時に苛立たせ、ある時は強烈に惹きつけられたのが彼女自身の風貌だった。彼女はこざっぱりとしたモノトーンのシャツや体の線を強調した様なTシャツと、スカートでなくすっと長い足が目立つGパンをスマートに着こなしていた。そんな彼女の服装と化粧気はいつも街で見かける都会の若い女性そのものだった。身のこなし、仕草、佇まいはスタイリッシュで僕の世界の埒外にある様だった。それでも僕と話す時に見せる大きな瞳の奥底の一点に感じるある種の寂しさみたいもの、相手の言葉を飲み込んで数秒してから言葉を探しながら話す細やかな口の動き、カウンターで時折見せる物寂しい表情。そのアンバランスさが、僕が育った故郷の村の女の子達の断片と重なり合った。特に白河さんの都会的な服装の上にまとった図書館職員のエプロン姿は全く似合っている様でもあり、そうでない様にも思えた。仕事中の彼女はどこかこの都会と切り離され、僕が昔感じた様に、彼女の中ではきっと時間がとてもゆっくり流れているんだろうな、と思った。そんな彼女には誰もが共感するであろう暖かさと、ユーモアさと、人の良さが滲みでていた。特に僕は尚一層強く惹きつけられ、気づいた時には彼女に対する好感みたいなものはいつしか好意に変わっていた。


僕の会社は銀座にあり、友人とはごくたまに渋谷や新宿に遊びに行った。何もかもが揃い、合理的に手に入れられる利便性に感心し、同時に驚きさえもした。しかし僕は何故か相変わらず居心地の悪さを感じざるを得なかった。いつも早くこの雑踏から逃れたいと思った。人は肩をぶつけ合いながら歩き、攻撃的で、車が殺人的に走り回る。しかしそんな街にある種の慣れを感じてきたと実感するきっかけになったのは、僕にとって一番身近な白河さんの存在だった。街中で多くの若いカップルを見ていると、仮に僕の傍に彼女がいたらこんな街でさえも美しく見え、数限りない甘美な誘惑の中で心踊り、魅了され、キラキラした眩しい位のネオンの下でとても生き生きとし、僕は新しい世界の真の住人になれる予感がした。いや、そうしたいんだ、とはっきりと思った。

『返却は、あした、になっております。②』(携帯閲覧用)

八月の東京は体の芯まで僕をとことん苦しめた。暑さは暑さを超えて痛さに変質し、降り注ぐ陽光はずっしりと体全体に重くのしかかった。仕事の疲労が追い討ちをかけてダウンし、数日間会社を休んだ。やっと歩ける様になったのは既にお盆を過ぎた辺りで、僕は借りていた本を返しに桜丘図書館に出かけた。


「久しぶり」と彼女は僕が返却を遅れた事なんかどうでもいいみたいに言った。
「ちょっと体調が悪くてね」
「あらそう」とリファレンスカウンターでパソコンを睨みながら言った。「ねえ、も少しで休憩だから地下の食堂で何か飲まない? 喫煙所は暑くてクーラーきいてないでしょう? 食堂は煙草吸えないけど、いい?」

地下の食堂は昔教科書で見た旧ソ連のどこかの施設みたいだった。のっぺりっとした灰色の壁が無機質に広がり、異様に天井が高かった。テーブルには六つの椅子が並べられ、食堂内に不気味なほどに整然と置かれていた。メニューはカレーや、ラーメンや、ナポリタンなどがあり、きっとスキー場や海の家のそれと大して変わらないんだろうな、と思った。客は誰もいなく(当たり前だ)、長い間油が染み込んだ様な黄ばんだコックコートを着た太った男性の調理人と配膳係であろう中年の女性が奥のほうで昨日観たドラマについてあれこれ話しているのが耳に入った。

白河さんは僕にコーラをおごってくれた。
「最近肩こりが酷いのよ」と自分で片方の肩を揉みながら疲れた様な声で言った。「村岡さんはそういえば幾つなの?」
「二十四歳」
「そうなんだあ」と彼女はゆっくりコーヒをかき回しながら言った。「私は二十六歳」
「この仕事どれ位になるの?」
「三年かな」
「面白い?」
「そうねえ」と今度はもう片方の肩を揉みながら言った。「肩は凝るね。確かに」
僕は少しだけ笑った。
「楽しいよ。昔から本が好きだったし、本に囲まれて仕事をしたいと思ったの。小さい頃から図書館っていう場所が好きでね。そうねえ、私は学生時代にウェイトレスとかのアルバイトやったり、普通の企業の就職も考えて就職活動もしたけど、本は何も要求しないんだよね」
「要求?」と僕は尋ねた。
「うまく説明出来ないけど、ここでは全てが本を中心に回っているの」とあらたまった口調で言った。「普通の仕事では、お客さんとか、会社だったら会社そのものだったり、取引先だったり、色んな事を要求してくるでしょう? サービス、成果、実績なんかをね。でもここにやって来る人達は私達職員に直接は何も要求しない。要求というより求めているのはあくまで本の中にあるの」
「分かる気がするな」とコーラをすすりながら僕は言った。
「その人達が、読んだ本が面白くなかったからどうしてくれるんだ! とは決して私達職員に苦情なんか言ったりしないでしょう? 利用者は本と本の中にある何かを求めて、ここ、もしくはお家で黙って本を読む。私達は彼らが求めているものに対して間接的に、それでいて迅速かつ親切にその環境みたいなものを作るお手伝いをしているの」
彼女は俯いてほっそりとした指先を一本一本触りながら続けた。「読書というものがある意味において現実逃避なら、ここは癒しの場所かもしれないね。そこに何かしら協力出来るのが嬉しいの。」
「具体的にどんな仕事をしているの? 大体は分かるけど」
彼女はそれからびっくりする位に楽しそうにしゃべり、自分の仕事を細かく説明した。朝は閉館中に返却ポストに返された本の返却処理からはじまり、本棚に戻し、棚の整理をして、本を見やすく探しやすくする。新聞の整理、地域の記事や図書、図書館に関する記事を新聞から朝・夕刊を毎日チェックしてスクラップにして保存する。また、選書会議に参加して話題の本や図書館に必要な本、利用者から寄せられたリクエストなどに応じて選書、発注をする。それとレファレンス業務や、痛んだ本の修理、催しものの企画などだ。そこには誇りがあり、課せられた職務を遂行する喜びみたいなものが満ちていた。
「結構大変なんだね」と僕は正直驚いて言った。「それにしてはサボっている事が多い様に思えるけど」
彼女はあっさりと言った。「要領よ、要領」

今度は彼女が僕の事を訊いた。東京に来てまだ二年目だという事、普通の会社で営業の仕事をしているという事。とりたてて山場のある話ではなかった。
彼女は首を傾げて訊いた。「趣味とかは?」
僕がしばらく考えていると、彼女は人差し指を立てて見透かした様に言った。「本を読むこと」
「うん、それもある。あとは……」
「あとは?」
「書くこと」
僕は答えて恥ずかしくなった。
「へえ」と彼女は僕の顔を覗き込んだ。「以外ね。どういうの書いているの?」
「普通の話だよ」
「いわゆる純文学?」
「まあね。みたいなものだよ」
「ねえ」と彼女は突然クスクスと笑った。「二十四歳で休日を図書館で過ごして普段は趣味で小説書いている、なんてちょっと変わってるんじゃない?」
「そうかな」
「でも一度読んでみたいな、村岡さんの書く小説。今まで誰かに読んで貰ったことはあるの?」
僕は「ない」と答えた。「人に見せる様なものじゃないから」
「いいのよ、是非読ませて。今度絶対持ってきてよ」とピシャリと言った。「読者第一号になってあげるから」


                  * * * * * *  


 翌週末、図書館で僕は書き溜めていた物語をプリントアウトした原稿を黙って白河さんに渡した。どれも短い話で、どれも東北の故郷の村が舞台だった。木こりの父親が山で行方不明になって探しに行く息子の話。親友と半分凍った川で釣りをしながら会話をするだけの話。憧れだったの女の子が帰郷すると結婚していたというちょっとした失恋物語なんかだ。


彼女は「ありがとう」と言って受け取りにっこり笑った。「二時から二階カウンターだから読ませてもらうね」
僕はその間、何冊か雑誌を読み、新聞をとっていないのでその日の新聞を片っ端から読んで時間を潰した。でもそれは記号の羅列の様にしか思えなかった。カウンターの彼女は俯きながら原稿にじっと視線を落としていた。ごくたまに利用者に応対をし、パソコンのキーをカチャカチャと打つ音が微かに聞こえた。しばらくして彼女が僕の隣に辺りを気にしながらゆっくりと腰を降ろした。
「うん、面白かった。情景が凄く浮かんでくるし。」と爪先をいじりながら言った。「あと、スラスラと読めたよ」
「ありがとう」と僕は言った。
「でもね、思うんだけど」彼女はちらりと僕を見て続けた。「視覚的な描写はいいんだけど、心情描写が幾分多すぎて、言い方が分からないけど、あえて書かないで読者に察してもらう、みたいな部分があってもいいんじゃないかな」
僕は膝の新聞紙を折りたたみながら黙って聞いていた。
「ごめんなさいね。まあ、こういう仕事してて本が好きでこれまで結構読んだからね。気にしないで、私個人の意見だから。もしかしたら他の人は今言った事の逆を言うかもしれないし」
「気にしないよ」と僕は彼女を見て言った。その横顔から見えるすっと伸びた鼻がとても素敵だった。
僕はもう一度言った。「ありがとう」
「ねえ、今日は何を借りるの?」
僕は一冊の本を見せた。『戦後の日本文学と日本経済』
彼女は目を丸くした。「そんなのも読むの? あれ、それって新刊じゃない。ちゃんと返してよ」ときっぱりと言った。「そうそう、まだ書いている小説あるの?」
「あと幾つかあるよ。今度持ってきていい?」と訊いてみた。
「ええ」と彼女は複雑な笑みを浮かべた。「持ってきて。この本と一緒に返却日にね」と更にきっぱりと言った。


いつからだろう、僕は本を借りる為ではなく彼女に会う為に図書館に休日決まって足を運んでいる気がした。借りる本なんて何でもよかった。中には昔一度読んだ本さえあった。それ以外には太平洋戦争の特攻隊員の私記やら、イタリア料理のレシピ本、生態学の本なんてまであった。帰宅すると僕はいつもため息をついた。どれも一行たりとも読まなかった。でも何故かその頃から返却日をきちんと守った。むしろそれよりも前に行くことはなかった。きっかり貸し出し期間の二週間だ。それが僕らにとって、いや、少なくとも僕にとっての暗黙のルールだったのだ。きっかり二週間後の返却日に本と書いた小説を持って僕らは図書館で会う。
彼女はその度に的確な批評をしてくれた。いさかか深読みし過ぎる感は否めなかったが、その殆どに僕は心底納得した。女性はこういう時こんな事言わない、とか、ここは書かなくていいとか、ここはもっと掘り下げて書くべきよ、とか。次第に彼女は僕の小説を読むこと、いや、批評する事に楽しみを見出している様に思えた。同時にふと僕はいつか彼女について書きたいと思った。図書館で働く女性と若い小説家志望の男の仮想の話。背中を押してくれたのは彼女の方だった。

『返却は、あした、になっております。③』(携帯閲覧用)

「村岡さん、凄い変なお願いがあるの」と彼女は恐ろしく真剣な顔で言った。


九月も終わりに近づき、吹く風の後ろの方にはもう秋の穏やかさとその匂いががほんの少し混じり始めていた。
ある日曜、図書館の喫煙場所で煙草を吸っていると彼女がやって来て僕の隣に座り、聞こえるか聞こえないかのため息を漏らした。
「私が登場するお話を書いて欲しいの」
「白河さんが?」と僕はびっくりして訊いた。
彼女はエプロンのポケットからレモン味の飴を一つ取り出して無言で手渡して言った。「なんとなく。今まで色んな本を読んで、こんなに多くの本に囲まれて働いているのにどの本にも自分みたいな人間がいないの」
僕はよく分からなかった。「自分みたいな人間?」
「それに似た登場人物はいたかもね。でもね……」長い間彼女は黙っていた。その間、通り過ぎる上司らしき職員に申し訳なさそうに視線を注いだ。
「なんか素敵じゃない? 自分が登場するお話って」と急に明るく表情を変えて言った。
「シンデレラ願望みたいなもの?」
「かもしれない。シンデレラガンボウ」と彼女も繰り返して言った。
「自分で書こうとは思わないの?」と僕は煙草をもみ消して飴を口にほ放り込んだ。「これ、ありがとう」
彼女はかぶりを振って、消えかかる煙草の煙の行方を目で追いながら答えた。「書こうとはした事はあるけど、大分昔ね。でも本をよく読む事と書くことは全く別だと思う。食べる事と作る事の違いみたいにね。私は食べる専門」
「でも、あの食堂の調理人、太ってるよ」
彼女は「あはは」と口を押さえて笑った。「そう人もいるわ。村岡さんみたいに。でも私は違う」
「でも、僕は白河さんの事をあんまり知らない」
彼女は僕の顔を優しく見ながら訊いた。「知りたい?」
僕は肯いた。「白河さんがどんなものに興味を持っているとか、好きな食べ物とかさ」
「ううん」と彼女は空中に何かを探す様に考えて答えた。「じゃあ、生き物が大好きで、犬二匹、猫四匹を飼ってる」
「そんなに? ムツゴロウみたいだな」
彼女はクスクス笑って続けた。「食べ物は、ハーゲンダッツのアイスクリーム。それとドラクエと温泉が好き、音楽はダニー・ハサウェイ。みたいな感じかな」
僕は驚いた。「なんか滅茶苦茶だな。イメージと全然違う。ドラクエやりながらハーゲンダッツのアイス食べてBGMはソウルミュージック?」
「そう。書きづらい?」と困った様に訊いた。
「分かったよ」と僕はしばらく考えてから言った。「短いのでもいい?」
「ええ、凄く嬉しい」と感じの良い爽やかな笑顔を見せた。いつも見るどこか陰鬱な表情は微塵もなかった。

その日の夜、僕はパソコンのモニターに向かっていた。言葉が溢れる度にむしろ手が何故か止まった。これは小説なんだ、と一人かぶりを振った。フィクションなんだ、そう、存在しない図書館で働く存在しない女性と存在しない若い小説家志望の男の話。その中では僕らは本当の僕らじゃないんだ、と。それでも湧き上がる暖かい想いや、濃密ながらも漠然とした昂ぶる感情の塊みたいなものが僕を酷く混乱させた。生々し過ぎる言葉ががむしろ書かれるべき言葉を吹き飛ばしていった。必死に目を閉じて心の色の様なものに一つ一つ言葉を当てはめ綴っていった。そして僕は最初にこう書いた。

『時折僕はこんな風に考えている。』

 
                 * * * * * * 


 決まって二週間後、僕は新しい小説の最初の部分を持って図書館に出かけた。いつも通りに二階カウンターで白河さんは僕の原稿を仕事の合間にじっと読みふけっていた。僕は探している本の検索をしてもらう為に彼女に尋ねた。
彼女はパソコンのモニターを睨みながら事務的に答えた。「それはA192の欄にあります。」そしてゆっくり顔を上げ、眉をしかめて訊いた。「ねえ、読んだけど、これって実話?」
僕は黙っていた。
「ここに出てくるのは私と村岡さん?」と幾分納得いかない様に頬杖をして訊いた。
「違うよ」と僕は断固として答えた。「確かにシチュエーションはそうかも知れないけど、架空のお話だよ」
「ふうん、それで田舎から出てきたばかりの主人公の彼は借りた本を返しに来て、図書館で『私』みたいな人に会う。ここまでだけどこの後どうなるの?」
「まだ分からない。考えていない」
彼女は急に表情を明るくして言った。「でも、まあ、とにかく続きが面白そう」


 次の二週間後の夕方、僕ら以外誰もいないあの食堂で二人ともどこか黴臭いオレンジジュースを飲んだ。例の調理人が調理場の床をデッキブラシで擦る音が響いていた。
「どうかな?」と新しい原稿を見て訊いてみた。
「なんかあまりに実話過ぎて怖い部分もあるけど」そこまで言って彼女の言葉はピタリと止まった。「主人公はこの女の子に恋しているのね」と曖昧な表情を見せて言った。
「まあね」と僕は肯いた。
彼女はオレンジジュースをすすりながら長い時間静かに僕を凝視していた。「それで主人公は彼女の為に小説を書く」
「そう」
「ねえ」と彼女は突然話題を変えた。「村岡さんの小説には寒い所の話が一杯出てくるよね?」
「僕が山形生まれだからね」
「私は東京生まれだから分からないけど、冬とかもの凄く寒いんでしょう? 雪が何メートルも降って」
「そこで生まれ育って慣れてるからそんなに寒いとは思わないよ。去年の東京のあの底冷えした寒さよろりも増しだよ」
彼女は目を丸くして言った。「本当?」
「うん、こっちの寒さは、なんというかな、肌に突き刺さる感じなんだ。じんわりでなくズキッと体内に入り込んでいく様なね。向こうは確かに気温としては寒いけど、雪があってどこか滑らかな寒さなんだ。」
「ふうん」と彼女はグラスの氷をコリコリと噛みながら訊いた。「北海道って行ったことある?」
「ないよ」と僕は幾分驚いて答えた。「どうして?」
「なんとなく。もっと寒いのかなあ?」と憂いに満ちた顔で訊いた。
「どうだろうね。親戚が北海道のかなり奥の所に住んでいて言ってたけど、確かに寒いけど自然があって結構いいらしいよ。キツネやら鹿が普通に道路を横切るらしいし。もし行ったとしたら白河さんには合うんじゃない? 動物好きだしね。ムツゴロウ王国みたいで」
彼女は薄くなったオレンジジュースを最後まで飲み干して笑った。「そうねえ、ムツゴロウ王国。そういう所ってきっとどこでもバターのCMなんかが撮れちゃうのよね。多分だけど……まあ、北海道も悪くなさそうね。」
彼女は再び原稿に視線を落として訊いた。「これ、次で結末でしょう?」
「うん」
「大体考えてあるの?」
「いや全く。全然思い浮かばない。実のところ。白河さんだったらどうする?」
彼女は腕を組んで、ううん、と唸り、随分長い間考え込んでいた。
「私だったら、そうね、彼は彼女に物語を書く訳よね? で、その返事として彼女の方も頑張って彼に物語を書くの。その彼女の書く物語の結末に答えがあるの」
僕はしばらくそれについて考えていた。「でもそれ大変だなあ。物語の中に二つの物語入れるなんて。で、ハッピーエンドなの?」
「そうね。書く方は大変だもんね。だから言ったじゃない、私は食べる専門だって。ハッピーエンドかそうじゃないかなんて分かんない。今思いつきで言ったもの」
「でも、それ面白いかも」と僕は言った。
「そう?」と嬉しそうに彼女は笑った。「物語の中では<食べる専門>の彼女が彼に対して小説を書くの」
「オマージュみたいな?」
「うん。」と彼女は肯き、「ねえ」と思い立った様に言った。「ここに出てくる彼女が小説を書くんだったらペンネームみたいのがの必要かな?」
「どうかな。図書館で働く彼女が書く小説にペンネームなんか必要?」
「確かにね。でももしよければそうしてくれると嬉しいな。名前は考えて」
僕は全然思い浮かばなかった。「何かヒントみたいのないかな? 白河さんに関連したキーワードで考えるよ」
「そうねえ」と彼女はぼんやりと僕を眺めて答えた。「私、花水木っていう花が好きなの。」
ハナミズキ?」
「知ってた? あの喫煙所から見えるけど図書館の玄関の脇にあるよ。」
「知らなかったし、どんな花か知らないな」
「東京にはあちこちにあるよ。あんまり山形ではないかもね。匂いも好きだし、白やピンクや赤や色とりどりの花を春ごろに咲かせるの。秋には実をつけてね。ここでこうして働きながらそんな移り変わりを見るのがとっても好きなの」
「じゃあ、水木って言う名前は?」
彼女は親指を立ててにっこりと微笑んだ。「いいね。それ」

彼女は壁時計をちらりと見て席を立った。「休憩時間終わっちゃった。仕事に戻らなきゃ……これ完成したら、どうするの?」
僕は彼女を見上げていた。彼女の表情にはこれまで僕が見た中で最も深刻な静けさみたいなものがべたりと張り付いていた。
「白河さんにあげるよ」
彼女は必死に表情を崩して薄っすらと小さな笑みを浮かべた。
「ありがとう」


結局、僕は二週間近くその小説の結末に一文字も費やす事が出来なかった。仕事がこれまでが嘘だったみたいに波になって襲い、精神的にも肉体的にも言葉を紡ぎだす作業にはいささか疲れすぎていた。しかしその波が収まったのは僕が図書館に行くべき前日だった。
仕事から帰るとその声は家の留守電から聞こえた。白河さんだった。

「村岡さんのお宅でしょうか? 桜丘図書館です。お借りになった本の返却は、あした、となっております。必ずご返却ください」

僕は何度もテープを再生して彼女の声を繰り返して聞いた。あした、ってなんだ? なんで前日に電話にしてくるんだ? 僕の借りたプローディガンの『西瓜糖の日々』なんて誰も待っているはずがないじゃないか。
僕はその夜必死に小説の結末を考えていた。そしてはっきりと何かを感じた。いや、知覚したのだ。今まで僕の中にチラチラと姿を現していた影の様なものの輪郭を捉えたのだ。もしかしたら僕は例の退屈さの中にもういないんじゃじないか。退屈さが自然と作り出す書くという行為。誰にも読まれる当てのない物語。その中に僕はこれまで漂っていたのだ。でも今は違う。読んでくれる相手がいる物語なんだ。その先には現実的で、一年間この慣れない都会で感じてきたあらゆる種の退屈さなんか微塵に吹き飛ばす事の出来る何かがあるんじゃないか。僕は書いた。湧き上がる言葉を生々しいままに書き続けた。

小説が最後が完成したのはそれから四日後だった。仕事を早く切り上げ僕は桜丘図書館に走った。辺りは半分程日が暮れて、普段の日の夕方の図書館を週末よりも暗く沈んだ空気がひっそりとの包み込んでいた。

『返却は、あした、になっております。④』(携帯閲覧用)

あの日以来、僕は桜丘図書館には行っていない。小説も書いていない。理由は分からないが好むと好まざるとに関わらずこの都会の退屈さに慣れすぎてしまったのかもしれない。いや、退屈さを感じる事さえいつしかなくなってしまっていたのだ。そして昔の故郷のあの退屈さと同じ様に、あの僕にとっての最後の小説もどこかに失くしてしまった。あの時僕がどんな事を書いたのかさえ必死に思い出そうとしても思い出せない。それはまるで薄い靄のかかった森の奥深くの洞窟の中に閉じ込められてしまったみたいだった。仮にも僕はもうあの退屈さには溶け込めないだろう。それが大人になったというのか、歳を取ったというのか、それとも変わってしまったのか、分からない。僕にはもう妻がいて、三歳の娘がいて、退屈さなんか入りこむ余地がないのだ。現実の足元に横たわる倒れた巨木や転がった巨岩を取り除く事に精一杯なのだ。
結婚して僕は二つ隣の街に引越し、家の近くには桜丘図書館よりも大きな図書館が建っていた。本の量も多く、特に子供向けの児童書が充実していてたので僕は娘を連れてよく利用していた。


ある日曜日に突然家の電話が鳴った。若い女性の声だった。どこか聞き覚えのある様な声でもあり、そうでない様にも思えた。
「桜丘図書館です。予約された本一冊が手違いでこちらの図書館に回ってきてしまっております。すみませんがこちらまで取りに来て頂けますでしょうか?」

僕は驚いて事情を訊いた。娘の為に予約していた童話の絵本がその女性の言うとおり近所の図書館でなく手違いで桜丘図書館に回されてしまったのだ。人気の絵本なのでそちらの図書館に回す時間はなく、次の人も待っているのでこちらまで取りに来て頂けないか? とその女性は本当に申し訳なさそうに何度も何度も自分達の非を詫びた。
「分かりました」と僕は答えた。


何年ぶりだろう。僕はあの図書館の前に立っていた。
桜丘図書館はあの時とどこも変わっていなかった。ただ年月の分だけコンクリート壁の色は褪せ、ひびが至る所に入っていた。利用者が減ったのか、休日にも関わらず館内は驚く程しんとしていた。図書館独特の、しん、ではなかった。読まれるを望んだ無数の本達の無言の涙の様だった。
僕はしばらく気の向くままに幾つかの本を手に取ったが、それはどうしてか僕に読んでいる事を望んでいる様には思えなかった。その時、突然、僕が不意に足を止めたのは新刊のコーナーのある一冊のハードカバーが目に入った時だった。
僕は緊張し、そして遥か昔若い僕を包んだあの退屈さがどこからか吹き荒れ、あの時間の中心へと、その深淵へと導いていった。喉が急に渇き、息を飲んでその場に数分の間木立の様に立ち尽くしていた。体のあちこちの神経が音を立てている気がし、全身は小刻みに震えていた。気持ちを落ちつかせようと僕は窓際の椅子に腰を下ろした。そしてゆっくりと深呼吸をし、その本のページをめくった。窓の外には地面から伸びたハナミズキが僕の目線の所までそびえ立ち、幾つもの鮮やかな色に染まった花達が僕に向かって微笑んでいる様に見えた。その時僕は自らの目に薄っすらと涙が滲んでいるのを感じた。どうして泣いているのかさえ分からなかった。泣くのなんて本当に久しぶりだった。
その瞬間だった。目の前には二四歳の僕がいた。椅子に座って黙って本を読みふけ、その先にはカウンターに座ってじっと同じ様に僕の書いた小説を読む白河さんがいた。時折、彼女は持っているペンを指の上でクルクル回しながら利用者数人に電話をして「……本の返却期日が遅れていますので、返却の方よろしくお願いします」と原稿を読み上げる様に言った。
あの時の僕はふと本から視線を上げ、そんな彼女にばつの悪そうな笑みを浮かべていた。彼女は受話器を持ちながらにっこりとあの時の僕に向って笑い、片目をつむった。


現実のカウンターには若くてショートカットの小柄な女性が座っていた。黒い縁の眼鏡はどこか彼女には不似合いで、眼鏡の方が断固として彼女にしがみついている気がした。
僕は黙って娘の為の本と一緒にその本を差し出すと眼鏡の子は抑揚なく言った。
「こちらの本は新刊となっておりますので、返却日は必ずお守りください」
「分かりました。」と僕は答えた。「大丈夫です。」
彼女は眼鏡の中から感じの良い笑みを浮かべた。
「ねえ」と僕は彼女に言った。「返却日の前日に電話してくれないかな?」
彼女は不思議そうに僕を見上げ、しばらくの間口をあんぐりと開けていた。「前日にですか?」
僕はかぶりを振り、微笑んで言った。
「冗談ですよ」


             あとがきとして

 
 私の姿勢としては基本的に物語に「あとがき」をつけるのはふさわしくないと思っております。これまでもそうでしたし、これからもそうでしょう。しかし、この短編集『雪原の灯り』の「返却は、あした、になっております」に関してだけはそれがどうしても必要かと思われます。いや、私はこのあとがきを書く為にこの物語を書いたのかもしれません。
 今から八年前に実際に東京のある図書館で働いていた時にある男性と出会いました。当時彼は確か二十代前半だったと思います。彼は借りた本を返却日をかなり過ぎても返さない図書館では有名な常習犯だったのです。何故か私がよく返却の催促の電話をしたのを覚えています。返却にやって来ると彼は毎回丁重に詫びをいれ、そこにはどこか憎めない姿がありました。どんなきっかけか覚えてません。それとも彼と私の好きな小説が似ていたからでしょう。私達は些細のない会話から始め、文学の事やら色んな話をしました。彼が趣味で小説を書いていると言ったのはそれからしばらくしてからでした。彼の話や価値観、ちょっとした物事に対する考察などに私は興味を持ったのかもしれません。彼の書いている物語を是非読んでみたいと思ったのです。
彼は書きためていた幾つかの小説の原稿を本の返却と一緒に図書館に持ってきて、私にそっと隠れて渡しました。読んでみると、文章か鋭く、情景描写も巧みで、何より淀みなく読者に読み通させてしまう筆力がありました。しかし私達は図書館以外で会うことはありませんでした。お互いは図書館の職員と利用者、読者と筆者の関係に過ぎませんでした。少なからずその時はそう思っておりました。
彼のある一つの小説の結末を読む筈だった日は、偶然にも私が三年勤めたその図書館を辞める日だったのです。しかし何故か当日彼は現れませんでした。結局、その小説の結末も分からぬまま、二度と彼とは会う事がなかったのです。

人生とは不思議なものです。私の方が本当に小説家になってしまったのですから。よってこの作品はある意味では当時の彼との共著かもしれません。違いますね。彼の作品といっても過言ではありません。彼はきっと許してくれると信じています。何より彼と出会わなかったらきっと私は小説家になっていなかったと思います。そして、この物語は全くの実話であり、同時に全くのフィクションでもあります。

彼は今でも返却に遅れて、どこかの図書館のカウンターにいる誰かに深々と頭を下げて「これから気をつけます」と言っている様な気がします。

最後に、

Mさん、お借りになった本の返却は、あした、までとなっております。
               
                 二〇〇五年九月 水木里枝 釧路にて

『返却は、あした、になっております。』

jamming_groovin2005-10-02

 時折僕はこんな風に考えている。
僕はこれまで退屈というものが好きだった。厳密に言えば、嫌いじゃなかった。東北の故郷の山合いの村に吹く退屈という名の風にはどこか温かみがあり、うっとりと僕を誘惑し、その中心に引きずり込まれてしまっても僕はそんな時間の中ならいつまでも漂う事が出来た。辺り一面から聞こえる見えない虫達の鳴き声に耳を澄まし、山の輪郭に沿って太陽がその赤みを帯びるまでをじっと遠くを眺め、時にはさらさら流れる川の縁に座って空に向かってダイブする魚達に喝采を贈ったものだ。短すぎる夏と、早すぎる到来と深刻で一切を眠らせてしまうとても長い冬、その間にあって必死に自己主張しながらも、まるで敵船を目前にしながら朽ち果てていく戦艦の様なあっけない春と秋。それでもそこには優雅で荘厳で、様々な色と音があり、飽きることのない情景があった。時間は恐ろしくゆっくりと流れながらも同時に僕を包んだ多くの退屈さは、若かったからだろう、人生の過程の上で必要だったのかもしれない。
就職で東京にやって来て一年。二回目の初夏を迎えるまでに僕を襲った幾千もの新たな退屈さは窮屈で棘があり、表情はなく、暴力的なまでに僕自身を溶解させてしまった。のっぺりとし、それでいて鋭角的な佇まいを見せる知らない都会の街並と、その中を盲目的にただ通り過ぎる人達、人工的で鼓膜を針の先でピリピリと刺激する様な騒音、何よりどこまでも形式的過ぎる季節の移り変わり。
それでも一年もすると仕事にも自然と慣れ、会社で同年代の友達も数人出来た。僕らの考えている事は若い男の誰もがそうである様に女の子の事や流行の洋服や音楽だったが、そこに横たわるものはお互いどこか違っていた。それはまるで北極と南極の違いの様だった。見るもの感じるものは全く同じ様であっても、それぞれ立っている場所みたいなものが根源的に違っているのだ。彼らの殆どは都会で生まれ、退屈さには無縁で、仮に些細な退屈さえも彼らなりの魔法でどんなものにも変えていけるんだ、という器用さと活力を持ち合わせていた。
そもそも休日にまで会社の人間と会うなんてまっぴらだ、という僕のささやかな信念と、必要以上の人間との関わりを持つ事が出来ない性格によって、週末になるとそんな新たな退屈さの中で僕は一人部屋で本を読み、いつからだろう、パソコンを使って小説を書き始めた。書くという行為そのものが退屈さを吹き飛ばしてしまう効力があるのかどうか僕には分からない。ただ僕は自分で紡ぎ出す世界の中では退屈さとは無縁だった。仮想の世界の中では僕も会社の友達同様に魔法を使う事が出来たのだ。

その時家の電話が鳴った。モニターの中の仮想の世界で主人公は電話で恋人に別れを告げられる所だった。
「村岡さんのお宅ですか?」と若い女性は淡々と現実的な声で言った。
「はい」
「桜丘図書館です。村岡さんのお借りになっている本一冊が返却期限を過ぎておりますので、お早めにご返却下さい」
思わず言葉を失った。借りている本って一体何なんだ? 僕は記憶の隅に視線を巡らせた。
「すみません。分かりました」
僕はため息をついた。どうしていつも忘れてしまうのだろう。銀行の支払いの期限もクリーニングの引き取りもレンタルビデオの返却も今まで忘れた事がないのだ。しばらく部屋を探してみると本棚から長い年月のせいで色褪せたフォークナー短編集が姿を現した。『エミリーにバラを』以外に特に印象はなかった。僕は着替えて桜丘図書館に向かった。

桜丘図書館は街の外れの公園の隣にあった。公立の図書館ではこの地域では一番古くて大きいのだろう。長年の雨風のせいで建物のはくたびれ、赤茶けた外壁の至る所には補修された跡があった。建物は三階建てで、地下には利用した者など見たことのない食堂と、書庫、一階はカウンターと、月一回古い昔の映画や子供向けのアニメを上映する視聴覚室があった。二階には開架書架、三階には自習室があった。
この数ヶ月、休日になると時折図書館にやって来るのは単に本が好きだったからでない。都会の中でさえもこの空間に満ちた特有の空気感はあの故郷の図書館と同じだった。田舎であっても都会であっても、背後に山が連なろうが高層ビルが立ち並びようが、図書館独特の物寂しさの中に穏やかな何かが対流する空間は僕をとても安心させた。そこにいる誰もが黙って本を読み、ここでは決して誰かを憎まず、声を上げて罵らず、苛立ちもせず、本を相手に無声の会話をしているのだ。書店の本達はどこか、読んでもらわなきゃ困る、といういささか悲壮感みたいなものが漂っている様に思えるが、手垢にまみれた図書館の本達は、私みたいなものでよければ、どうぞ、みたいな謙虚さがあって親しみが持てる。人間の方も、それじゃあ読ませてもらいます。はい。という本に対するある種の慈愛があって、誰もが黙々とページをめくる。その一切が織り成す、外界から隔離された密閉された瓶の中の様な世界に身を置く度に、僕は何事に対しても優しくなれる気がした。


一階カウンターにはよく見かける若い女性職員が座っていた。桜丘図書館では一番若いのだろう。
僕は『フォークナー短編集』をそっと置いて頭下げて言った。「すみません、遅れまして」
彼女は慣れた手つきでパソコンを操作し、僕を見上げた。唇はきっと結ばれていた。
「村岡さん、あんまり遅れないでください。」とその女性は呆れた様に言った。
「すみません」と僕はもう一度頭を下げた。彼女が返却に遅れて何かを言うのは初めてだった。そしてその口調と声のトーンが先程電話を掛けてきた女性だったとその時気づいた。
二階に上がると思ったより多くの利用者がいた。僕の周りを走り回る小さな子供達を母親らしき女性が「シーッ」と唇に人差し指を当てて叱った。高校生のカップルが寄り添いながら座り、一つの本を見ながら笑い合っていた。その傍で浮浪者らしき中年の男性が座ったまま口を天井に向け、微かにいびきをかきながら寝入っていた。それ以外声らしき声はあまりなかった。新聞をめくる音、咳払い、そして六月にしては蒸し暑いからだろう、空調の音が日曜の館内全体を静かに覆っていた。本を一杯大事そうに抱えた職員が数人通り過ぎて行った。

しばらく僕は幾つかの本を読んだ。チェーホフスタインベックの短編集だった。どれもあまり夢中にはなれなかった。目の前のリファレンスカウンターにはついさっき一階にいたあの女性が座っているのが視界に入っていたのだ。まじまじと見るのは初めてだった。彼女はとても退屈そうだった。ごくたまに二十センチ先位の空中に向かってため息をつき、利用者が来るとふと急に顔を上げ、一拍置いてから返事をしてテキパキと対応した。そしてまた一人になると物静かに俯いたまま固まり、何気なくほんの少し顔を上げ、ぼんやりと遠くの壁の一点を仔細に見つめていた。僕は気付くとページを止めたまま、潮の満ち引きの様に繰り返すそんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。彼女はこの仕事がは酷くつまらなそうであり、酷く楽しそうでもあった。特に美人ではないが、目はくりっと大きく、高い鼻が特徴的だった。顎はすっとシャープな線を描き、わりに気の強そうな感じがした。それでもどこか愛嬌があり、幾分人より遅れたスローな仕草と、ふとした拍子で出る哀しみや寂しさをほんの僅か抱えた様な表情が対照的だった。いつしかそんな彼女の姿を見るのも飽きて僕は再び活字の隙間に潜り込んだ。
スタインベックの短編の一つ『菊』で、主人公の女性がいとおしく育てた菊の鉢植えを通りがかったある旅の修理人の男に分けてやるが、離れた所の道端に新芽だけが捨てられたているのを彼女はしばらくしてから目撃する。そして彼女は隣にいる主人に隠れて黙って涙を流す。それは僕がこの一年でこの街と社会で感じてきた事だったのかもしれない。最も大事な部分、最も大切で理解して欲しい事にこそ他人は素通りしていくものだ。自分にとって有益なものだけを相手から根こそぎ奪い取り、そんな時こそ彼らは無自覚で凶暴な微笑みを浮かべるのだ。
僕は思い立って一つの本を探していた。文庫の『アンナカレーニナ』の中巻だった。僕は先程その中巻が本棚にしっかりあるのを知っていたし、それを借りる予定だったのだ。本棚からたった一時間で姿を消してしまい、一応僕はカウンターの彼女にその事を訊いてみた。
「ないんですか?」と彼女は訊いた。
「ええ、ついさっきまであったんですが」
彼女はパソコンで調べ、それが貸し出し中でない事を告げた。「誰か読んでいるんじゃないですか?」
「分かりました」と僕は力なく答えた。

背が高くほっしりとした彼女が館内でテキパキと仕事をこなす様子をそれからしばし目撃した。ちょっと意外だった。先輩らしき男性職員に、はい、分かりました。ああ、そうですか。すぐ取ってきます。と言ったり、顔を赤くしながら必死に重そうな本を何冊も抱きかかえながら開架に慣れた手つきで本を戻した。ある老人の利用者には、はい、その本はこちらでございます。ああ、ちょっと高い所にありますので、と言って台椅子を持ってきて本を取ってあげ、老人に、どうぞ、と愛くるしい笑みを投げかけていた。動作が俊敏で無駄がなく、僕は関心してそれを眺めていた。
その時彼女が背後から肩をちょこんと叩いた。彼女は僕を見上げ小さな声で言った。
「これですよね?」と彼女は僕に探していた『アンナカレーニナ』の中巻を手渡した。
「ああ、ありがとう」と僕は言った。
「ごめんなさいね、実はさっきカウンターでこれ読んでたの」と乾いた声で申し訳なさそうに言った。
僕は彼女の言っている事がよく分からなかった。
「本当はいけないんだけど……村岡さんだよね? 村岡さんが急に来て、探している、って来たから驚いて嘘ついちゃったの」
彼女は辺りに誰もいない事を確認してから続けた。「仕事中にはあんまり読んではいけないの。当たり前だけど。にしても、まさか『アンナカレーニナ』を読んでて、いくら名作とはいえ偶然にもそれを探しているなんて……」
彼女は肩まで伸びた真っ直ぐな髪をすっと両手でかきあげた。染めてから数ヶ月経っているのだろう。根元から数センチ程には既に黒髪が顔を覗かせていた。
「偶然だね」と僕はとりあえず言った。それ以外何て言ったらいいか分からなかった。
「でね、悪いと思ったけど、さっき村岡さんの今まで借りた本を調べてみたの」と聞こえるか聞こえないか位の小さな声で言った。「結構シブイ趣味しているんだね」
「調べた?」と僕はびっくりして訊いた。声が大きかったので彼女は自分の唇に人差し指をあてて、ぺろっと舌を出した。
「これもあんまりいけない事なんだけどね」と彼女は僕の全身に視線を配らせてから言った。「村岡さんってまだ若いでしょう? 多分、私よりも少し若い位ね。このご時世にドストエフスキーやらトルストイやらフォークナーやらを読んでるこんな若い男の人って凄い珍しいと思う」と本当に物珍しそうに言った。
「駄目かな?」と少しむっとして尋ねた。
彼女は黙ってかぶりを振り、シャツの襟を直しながら答えた。「私も似た様なもの。」
「ふうん」と僕が言うと図書館職員が身につけるデニムのエプロンの胸元のネームプレートが目に入った。『白河里枝』
「あ、仕事、仕事」と思い立った様に言い残し、白河里枝という名の女性はスタスタと歩いて行ってしまった。


               * * * * * * 
  
 
 『アンナカレーニナ』の中巻きを読み終えたのはそれから三週間経った頃だった。白河里枝は数日前に図書館から電話を掛けてきていつも通り催促した。
東京の二回目の七月は恐ろしく暑く、樹々の下を選んで歩いていてもじっとりと汗ばんだ。太陽は手を伸ばせば届きそうな位置にある気がした。アスファルトは視界の中で歪み、いたずらに僕を苛立たせているみたいだった。
桜丘図書館はクーラーが効いているからだろう、沢山の利用者で溢れていた。座る場所がないからか床にかがんだままじっと本を読みふける者があちこちに見られ、学校が試験休みなのか制服を着た学生達の騒がしいしゃべり声が轟いていた。

「やっと返してくれた」と白河里枝がため息まじりに話しかけてきた。エプロンの下にはピンク色のやや小さめのTシャツを着ていた。
「すみません」
「あの時ちょうどいい所だったの」と唇を噛みながら言った。「中巻の最後の方だったけど。ねえ、読みたい本を一ヶ月待つ心境って分かる?」
僕をもう一度謝った。それにしてもなんでそこまで言われなくちゃいけないんだろう、と僕は思った。他の図書館にもあるだろうし、そもそも買えばいいなじゃいか。あなたは図書館の職員で、僕は利用者なんだ。
「ねえ、私が読みたかったから、って言ってるんじゃないんだよ。村岡さんの借りた本を後ろで待っている人がこういう風に思っているかも知れない、ってこと」と腕を組んで諭す様に言った。
僕は再び謝った。「気をつけます」


夕方、一階玄関脇にある喫煙所で僕が煙草を吸っていると彼女が外から缶ジュースを持って入って来た。「暑いわねえ」
「休憩?」
彼女は立ったまま美味そうにジュースを一口飲んで言った。「うん」
Tシャツの胸元にパタパタと風を送り、しばらく通り過ぎる車や下校途中の子供達を眺めてからデニムのエプロンの紐を外し、膝の上にたたんで僕の隣に座った。
「煙草吸うのね」
「うん」
「私もつい三ヶ月前まで吸ってたの。だからいつも休憩はここだったんだけど、もう煙草辞めたし、ここ暑いし。でもなんか癖ね、ここに来ると落ち着く。」
「よく辞めれたね」
「辞めなきゃいけなくなったから」と独り言の様に言った。彼女はもう一度外を眺め、それについて深く言いたがらない様子だった。「図書館って静かでいいんだけど、こう見えても人は結構いるしわりに疲れるの。こういう狭い場所であんまり人のいない所だとふと気が落ち着くの」
「邪魔かな?」
彼女は顔の前で手のひらをヒラヒラと揺った。「全然、気にしないで、あっ、これあげる」とエプロンポケットからレモン味の飴玉を一つ僕に手渡した。「見てよ、こんなに一杯あるの。煙草辞めたら口寂しくなってね」見るとエプロン一杯にどっさりと飴玉が入っていた。
「仕事中飴舐めるは、本読むわ、どうしようもない職員だね」と僕は冗談ぽく言った。
「そうね、どうしようもないね。でも、こう見えてもちゃんとやってるんだから。返却期限を守らない利用者に言われたくない」と微笑んで言った。
「確かに」と僕も微笑んで言った。
  

                    * * * * * * 


 それからというもの僕を図書館で見つけると彼女は「こんにちは」と話しかけてくる事もあった。相変わらず返却が遅れた事に小言を漏らす事もあったが、彼女はそれを言うことが楽しみの一つになっているかの様だった。むしろ返却日前に持って行った時などは、当然よ、ふん、とみたい素っ気ない態度でとりわけ話しかけてこようとはしなかった。逆に、はい、よく出来ましたわねえ、とまるで子供がおつかいが出来たみたいに言って僕をからかったりもした。僕はそんな彼女の一貫しない態度が不思議でたまらなかったが、きっとここでは一番下っ端? の彼女のストレス発散の一翼を担っているのだろうと勝手に解釈する事にした。ある時は背後からすっと近寄り、僕の読んでいる本を、それイマイチ、とか、それ絶対借りるべき、と教えてくれ、ミステリーを読んでいるときは、なあにそれ? と訊いてきて、それ○○が犯人よ!と一言だけ言って一目散に逃げて行った。時には僕は彼女に幾つかの本を薦めて、うん、読んだけど面白かった。と感想を聞かせてくれた。
喫煙場所や本棚の影で僕らはそうして色んな話をするうちに、僕と彼女の文学的嗜好というべきものに幾つか共通点があるのが分かった。僕は若い癖にリアルタイムの小説に、そして国内の小説に恐ろしく興味がなく古い海外文学ばかりだったが、彼女は最近の国内の女性作家を好んで読んだ。彼女の挙げた作家や作品どれも知ってはいたが僕は全く読んだ事がなかった。しかし、彼女がそこまでに至る過程で読んだ古い海外作品の好みは僕のそれと一致した。そして言葉や文体、リズム、その隙間に潜む独特の世界観に共感した。ドストエフスキートルストイが僕らにとって神として君臨し、その下に戦前戦後辺りの欧米作家達が続いた。
僕らはそうして次第に親密になり、僕はそんな彼女に好感を持ち始めていた。文学的嗜好だけではない、お互い自身の中で、どんなものに喜び、苛立ち、どんな空気の振動に心が揺れ動かされる、そんな些細な点でも恐ろしく似ていたのだ。それでも僕を混乱させ、時に苛立たせ、ある時は強烈に惹きつけられたのが彼女自身の風貌だった。彼女はこざっぱりとしたモノトーンのシャツや体の線を強調した様なTシャツと、スカートでなくすっと長い足が目立つGパンをスマートに着こなしていた。そんな彼女の服装と化粧気はいつも街で見かける都会の若い女性そのものだった。身のこなし、仕草、佇まいはスタイリッシュで僕の世界の埒外にある様だった。それでも僕と話す時に見せる大きな瞳の奥底の一点に感じるある種の寂しさみたいもの、相手の言葉を飲み込んで数秒してから言葉を探しながら話す細やかな口の動き、カウンターで時折見せる物寂しい表情。そのアンバランスさが、僕が育った故郷の村の女の子達の断片と重なり合った。特に白河さんの都会的な服装の上にまとった図書館職員のエプロン姿は全く似合っている様でもあり、そうでない様にも思えた。仕事中の彼女はどこかこの都会と切り離され、僕が昔感じた様に、彼女の中ではきっと時間がとてもゆっくり流れているんだろうな、と思った。そんな彼女には誰もが共感するであろう暖かさと、ユーモアさと、人の良さが滲みでていた。特に僕は尚一層強く惹きつけられ、気づいた時には彼女に対する好感みたいなものはいつしか好意に変わっていた。


僕の会社は銀座にあり、友人とはごくたまに渋谷や新宿に遊びに行った。何もかもが揃い、合理的に手に入れられる利便性に感心し、同時に驚きさえもした。しかし僕は何故か相変わらず居心地の悪さを感じざるを得なかった。いつも早くこの雑踏から逃れたいと思った。人は肩をぶつけ合いながら歩き、攻撃的で、車が殺人的に走り回る。しかしそんな街にある種の慣れを感じてきたと実感するきっかけになったのは、僕にとって一番身近な白河さんの存在だった。街中で多くの若いカップルを見ていると、仮に僕の傍に彼女がいたらこんな街でさえも美しく見え、数限りない甘美な誘惑の中で心踊り、魅了され、キラキラした眩しい位のネオンの下でとても生き生きとし、僕は新しい世界の真の住人になれる予感がした。いや、そうしたいんだ、とはっきりと思った。


                  * * * * * * 


 八月の東京は体の芯まで僕をとことん苦しめた。暑さは暑さを超えて痛さに変質し、降り注ぐ陽光はずっしりと体全体に重くのしかかった。仕事の疲労が追い討ちをかけてダウンし、数日間会社を休んだ。やっと歩ける様になったのは既にお盆を過ぎた辺りで、僕は借りていた本を返しに桜丘図書館に出かけた。


「久しぶり」と彼女は僕が返却を遅れた事なんかどうでもいいみたいに言った。
「ちょっと体調が悪くてね」
「あらそう」とリファレンスカウンターでパソコンを睨みながら言った。「ねえ、も少しで休憩だから地下の食堂で何か飲まない? 喫煙所は暑くてクーラーきいてないでしょう? 食堂は煙草吸えないけど、いい?」

地下の食堂は昔教科書で見た旧ソ連のどこかの施設みたいだった。のっぺりっとした灰色の壁が無機質に広がり、異様に天井が高かった。テーブルには六つの椅子が並べられ、食堂内に不気味なほどに整然と置かれていた。メニューはカレーや、ラーメンや、ナポリタンなどがあり、きっとスキー場や海の家のそれと大して変わらないんだろうな、と思った。客は誰もいなく(当たり前だ)、長い間油が染み込んだ様な黄ばんだコックコートを着た太った男性の調理人と配膳係であろう中年の女性が奥のほうで昨日観たドラマについてあれこれ話しているのが耳に入った。

白河さんは僕にコーラをおごってくれた。
「最近肩こりが酷いのよ」と自分で片方の肩を揉みながら疲れた様な声で言った。「村岡さんはそういえば幾つなの?」
「二十四歳」
「そうなんだあ」と彼女はゆっくりコーヒをかき回しながら言った。「私は二十六歳」
「この仕事どれ位になるの?」
「三年かな」
「面白い?」
「そうねえ」と今度はもう片方の肩を揉みながら言った。「肩は凝るね。確かに」
僕は少しだけ笑った。
「楽しいよ。昔から本が好きだったし、本に囲まれて仕事をしたいと思ったの。小さい頃から図書館っていう場所が好きでね。そうねえ、私は学生時代にウェイトレスとかのアルバイトやったり、普通の企業の就職も考えて就職活動もしたけど、本は何も要求しないんだよね」
「要求?」と僕は尋ねた。
「うまく説明出来ないけど、ここでは全てが本を中心に回っているの」とあらたまった口調で言った。「普通の仕事では、お客さんとか、会社だったら会社そのものだったり、取引先だったり、色んな事を要求してくるでしょう? サービス、成果、実績なんかをね。でもここにやって来る人達は私達職員に直接は何も要求しない。要求というより求めているのはあくまで本の中にあるの」
「分かる気がするな」とコーラをすすりながら僕は言った。
「その人達が、読んだ本が面白くなかったからどうしてくれるんだ! とは決して私達職員に苦情なんか言ったりしないでしょう? 利用者は本と本の中にある何かを求めて、ここ、もしくはお家で黙って本を読む。私達は彼らが求めているものに対して間接的に、それでいて迅速かつ親切にその環境みたいなものを作るお手伝いをしているの」
彼女は俯いてほっそりとした指先を一本一本触りながら続けた。「読書というものがある意味において現実逃避なら、ここは癒しの場所かもしれないね。そこに何かしら協力出来るのが嬉しいの。」
「具体的にどんな仕事をしているの? 大体は分かるけど」
彼女はそれからびっくりする位に楽しそうにしゃべり、自分の仕事を細かく説明した。朝は閉館中に返却ポストに返された本の返却処理からはじまり、本棚に戻し、棚の整理をして、本を見やすく探しやすくする。新聞の整理、地域の記事や図書、図書館に関する記事を新聞から朝・夕刊を毎日チェックしてスクラップにして保存する。また、選書会議に参加して話題の本や図書館に必要な本、利用者から寄せられたリクエストなどに応じて選書、発注をする。それとレファレンス業務や、痛んだ本の修理、催しものの企画などだ。そこには誇りがあり、課せられた職務を遂行する喜びみたいなものが満ちていた。
「結構大変なんだね」と僕は正直驚いて言った。「それにしてはサボっている事が多い様に思えるけど」
彼女はあっさりと言った。「要領よ、要領」

今度は彼女が僕の事を訊いた。東京に来てまだ二年目だという事、普通の会社で営業の仕事をしているという事。とりたてて山場のある話ではなかった。
彼女は首を傾げて訊いた。「趣味とかは?」
僕がしばらく考えていると、彼女は人差し指を立てて見透かした様に言った。「本を読むこと」
「うん、それもある。あとは……」
「あとは?」
「書くこと」
僕は答えて恥ずかしくなった。
「へえ」と彼女は僕の顔を覗き込んだ。「以外ね。どういうの書いているの?」
「普通の話だよ」
「いわゆる純文学?」
「まあね。みたいなものだよ」
「ねえ」と彼女は突然クスクスと笑った。「二十四歳で休日を図書館で過ごして普段は趣味で小説書いている、なんてちょっと変わってるんじゃない?」
「そうかな」
「でも一度読んでみたいな、村岡さんの書く小説。今まで誰かに読んで貰ったことはあるの?」
僕は「ない」と答えた。「人に見せる様なものじゃないから」
「いいのよ、是非読ませて。今度絶対持ってきてよ」とピシャリと言った。「読者第一号になってあげるから」


                  * * * * * *  


 翌週末、図書館で僕は書き溜めていた物語をプリントアウトした原稿を黙って白河さんに渡した。どれも短い話で、どれも東北の故郷の村が舞台だった。木こりの父親が山で行方不明になって探しに行く息子の話。親友と半分凍った川で釣りをしながら会話をするだけの話。憧れだったの女の子が帰郷すると結婚していたというちょっとした失恋物語なんかだ。


彼女は「ありがとう」と言って受け取りにっこり笑った。「二時から二階カウンターだから読ませてもらうね」
僕はその間、何冊か雑誌を読み、新聞をとっていないのでその日の新聞を片っ端から読んで時間を潰した。でもそれは記号の羅列の様にしか思えなかった。カウンターの彼女は俯きながら原稿にじっと視線を落としていた。ごくたまに利用者に応対をし、パソコンのキーをカチャカチャと打つ音が微かに聞こえた。しばらくして彼女が僕の隣に辺りを気にしながらゆっくりと腰を降ろした。
「うん、面白かった。情景が凄く浮かんでくるし。」と爪先をいじりながら言った。「あと、スラスラと読めたよ」
「ありがとう」と僕は言った。
「でもね、思うんだけど」彼女はちらりと僕を見て続けた。「視覚的な描写はいいんだけど、心情描写が幾分多すぎて、言い方が分からないけど、あえて書かないで読者に察してもらう、みたいな部分があってもいいんじゃないかな」
僕は膝の新聞紙を折りたたみながら黙って聞いていた。
「ごめんなさいね。まあ、こういう仕事してて本が好きでこれまで結構読んだからね。気にしないで、私個人の意見だから。もしかしたら他の人は今言った事の逆を言うかもしれないし」
「気にしないよ」と僕は彼女を見て言った。その横顔から見えるすっと伸びた鼻がとても素敵だった。
僕はもう一度言った。「ありがとう」
「ねえ、今日は何を借りるの?」
僕は一冊の本を見せた。『戦後の日本文学と日本経済』
彼女は目を丸くした。「そんなのも読むの? あれ、それって新刊じゃない。ちゃんと返してよ」ときっぱりと言った。「そうそう、まだ書いている小説あるの?」
「あと幾つかあるよ。今度持ってきていい?」と訊いてみた。
「ええ」と彼女は複雑な笑みを浮かべた。「持ってきて。この本と一緒に返却日にね」と更にきっぱりと言った。


いつからだろう、僕は本を借りる為ではなく彼女に会う為に図書館に休日決まって足を運んでいる気がした。借りる本なんて何でもよかった。中には昔一度読んだ本さえあった。それ以外には太平洋戦争の特攻隊員の私記やら、イタリア料理のレシピ本、生態学の本なんてまであった。帰宅すると僕はいつもため息をついた。どれも一行たりとも読まなかった。でも何故かその頃から返却日をきちんと守った。むしろそれよりも前に行くことはなかった。きっかり貸し出し期間の二週間だ。それが僕らにとって、いや、少なくとも僕にとっての暗黙のルールだったのだ。きっかり二週間後の返却日に本と書いた小説を持って僕らは図書館で会う。
彼女はその度に的確な批評をしてくれた。いさかか深読みし過ぎる感は否めなかったが、その殆どに僕は心底納得した。女性はこういう時こんな事言わない、とか、ここは書かなくていいとか、ここはもっと掘り下げて書くべきよ、とか。次第に彼女は僕の小説を読むこと、いや、批評する事に楽しみを見出している様に思えた。同時にふと僕はいつか彼女について書きたいと思った。図書館で働く女性と若い小説家志望の男の仮想の話。背中を押してくれたのは彼女の方だった。


                  * * * * * * 


 「村岡さん、凄い変なお願いがあるの」と彼女は恐ろしく真剣な顔で言った。


九月も終わりに近づき、吹く風の後ろの方にはもう秋の穏やかさとその匂いががほんの少し混じり始めていた。
ある日曜、図書館の喫煙場所で煙草を吸っていると彼女がやって来て僕の隣に座り、聞こえるか聞こえないかのため息を漏らした。
「私が登場するお話を書いて欲しいの」
「白河さんが?」と僕はびっくりして訊いた。
彼女はエプロンのポケットからレモン味の飴を一つ取り出して無言で手渡して言った。「なんとなく。今まで色んな本を読んで、こんなに多くの本に囲まれて働いているのにどの本にも自分みたいな人間がいないの」
僕はよく分からなかった。「自分みたいな人間?」
「それに似た登場人物はいたかもね。でもね……」長い間彼女は黙っていた。その間、通り過ぎる上司らしき職員に申し訳なさそうに視線を注いだ。
「なんか素敵じゃない? 自分が登場するお話って」と急に明るく表情を変えて言った。
「シンデレラ願望みたいなもの?」
「かもしれない。シンデレラガンボウ」と彼女も繰り返して言った。
「自分で書こうとは思わないの?」と僕は煙草をもみ消して飴を口にほ放り込んだ。「これ、ありがとう」
彼女はかぶりを振って、消えかかる煙草の煙の行方を目で追いながら答えた。「書こうとはした事はあるけど、大分昔ね。でも本をよく読む事と書くことは全く別だと思う。食べる事と作る事の違いみたいにね。私は食べる専門」
「でも、あの食堂の調理人、太ってるよ」
彼女は「あはは」と口を押さえて笑った。「そう人もいるわ。村岡さんみたいに。でも私は違う」
「でも、僕は白河さんの事をあんまり知らない」
彼女は僕の顔を優しく見ながら訊いた。「知りたい?」
僕は肯いた。「白河さんがどんなものに興味を持っているとか、好きな食べ物とかさ」
「ううん」と彼女は空中に何かを探す様に考えて答えた。「じゃあ、生き物が大好きで、犬二匹、猫四匹を飼ってる」
「そんなに? ムツゴロウみたいだな」
彼女はクスクス笑って続けた。「食べ物は、ハーゲンダッツのアイスクリーム。それとドラクエと温泉が好き、音楽はダニー・ハサウェイ。みたいな感じかな」
僕は驚いた。「なんか滅茶苦茶だな。イメージと全然違う。ドラクエやりながらハーゲンダッツのアイス食べてBGMはソウルミュージック?」
「そう。書きづらい?」と困った様に訊いた。
「分かったよ」と僕はしばらく考えてから言った。「短いのでもいい?」
「ええ、凄く嬉しい」と感じの良い爽やかな笑顔を見せた。いつも見るどこか陰鬱な表情は微塵もなかった。

その日の夜、僕はパソコンのモニターに向かっていた。言葉が溢れる度にむしろ手が何故か止まった。これは小説なんだ、と一人かぶりを振った。フィクションなんだ、そう、存在しない図書館で働く存在しない女性と存在しない若い小説家志望の男の話。その中では僕らは本当の僕らじゃないんだ、と。それでも湧き上がる暖かい想いや、濃密ながらも漠然とした昂ぶる感情の塊みたいなものが僕を酷く混乱させた。生々し過ぎる言葉ががむしろ書かれるべき言葉を吹き飛ばしていった。必死に目を閉じて心の色の様なものに一つ一つ言葉を当てはめ綴っていった。そして僕は最初にこう書いた。

『時折僕はこんな風に考えている。』

 
                 * * * * * * 


 決まって二週間後、僕は新しい小説の最初の部分を持って図書館に出かけた。いつも通りに二階カウンターで白河さんは僕の原稿を仕事の合間にじっと読みふけっていた。僕は探している本の検索をしてもらう為に彼女に尋ねた。
彼女はパソコンのモニターを睨みながら事務的に答えた。「それはA192の欄にあります。」そしてゆっくり顔を上げ、眉をしかめて訊いた。「ねえ、読んだけど、これって実話?」
僕は黙っていた。
「ここに出てくるのは私と村岡さん?」と幾分納得いかない様に頬杖をして訊いた。
「違うよ」と僕は断固として答えた。「確かにシチュエーションはそうかも知れないけど、架空のお話だよ」
「ふうん、それで田舎から出てきたばかりの主人公の彼は借りた本を返しに来て、図書館で『私』みたいな人に会う。ここまでだけどこの後どうなるの?」
「まだ分からない。考えていない」
彼女は急に表情を明るくして言った。「でも、まあ、とにかく続きが面白そう」


 次の二週間後の夕方、僕ら以外誰もいないあの食堂で二人ともどこか黴臭いオレンジジュースを飲んだ。例の調理人が調理場の床をデッキブラシで擦る音が響いていた。
「どうかな?」と新しい原稿を見て訊いてみた。
「なんかあまりに実話過ぎて怖い部分もあるけど」そこまで言って彼女の言葉はピタリと止まった。「主人公はこの女の子に恋しているのね」と曖昧な表情を見せて言った。
「まあね」と僕は肯いた。
彼女はオレンジジュースをすすりながら長い時間静かに僕を凝視していた。「それで主人公は彼女の為に小説を書く」
「そう」
「ねえ」と彼女は突然話題を変えた。「村岡さんの小説には寒い所の話が一杯出てくるよね?」
「僕が山形生まれだからね」
「私は東京生まれだから分からないけど、冬とかもの凄く寒いんでしょう? 雪が何メートルも降って」
「そこで生まれ育って慣れてるからそんなに寒いとは思わないよ。去年の東京のあの底冷えした寒さよろりも増しだよ」
彼女は目を丸くして言った。「本当?」
「うん、こっちの寒さは、なんというかな、肌に突き刺さる感じなんだ。じんわりでなくズキッと体内に入り込んでいく様なね。向こうは確かに気温としては寒いけど、雪があってどこか滑らかな寒さなんだ。」
「ふうん」と彼女はグラスの氷をコリコリと噛みながら訊いた。「北海道って行ったことある?」
「ないよ」と僕は幾分驚いて答えた。「どうして?」
「なんとなく。もっと寒いのかなあ?」と憂いに満ちた顔で訊いた。
「どうだろうね。親戚が北海道のかなり奥の所に住んでいて言ってたけど、確かに寒いけど自然があって結構いいらしいよ。キツネやら鹿が普通に道路を横切るらしいし。もし行ったとしたら白河さんには合うんじゃない? 動物好きだしね。ムツゴロウ王国みたいで」
彼女は薄くなったオレンジジュースを最後まで飲み干して笑った。「そうねえ、ムツゴロウ王国。そういう所ってきっとどこでもバターのCMなんかが撮れちゃうのよね。多分だけど……まあ、北海道も悪くなさそうね。」
彼女は再び原稿に視線を落として訊いた。「これ、次で結末でしょう?」
「うん」
「大体考えてあるの?」
「いや全く。全然思い浮かばない。実のところ。白河さんだったらどうする?」
彼女は腕を組んで、ううん、と唸り、随分長い間考え込んでいた。
「私だったら、そうね、彼は彼女に物語を書く訳よね? で、その返事として彼女の方も頑張って彼に物語を書くの。その彼女の書く物語の結末に答えがあるの」
僕はしばらくそれについて考えていた。「でもそれ大変だなあ。物語の中に二つの物語入れるなんて。で、ハッピーエンドなの?」
「そうね。書く方は大変だもんね。だから言ったじゃない、私は食べる専門だって。ハッピーエンドかそうじゃないかなんて分かんない。今思いつきで言ったもの」
「でも、それ面白いかも」と僕は言った。
「そう?」と嬉しそうに彼女は笑った。「物語の中では<食べる専門>の彼女が彼に対して小説を書くの」
「オマージュみたいな?」
「うん。」と彼女は肯き、「ねえ」と思い立った様に言った。「ここに出てくる彼女が小説を書くんだったらペンネームみたいのがの必要かな?」
「どうかな。図書館で働く彼女が書く小説にペンネームなんか必要?」
「確かにね。でももしよければそうしてくれると嬉しいな。名前は考えて」
僕は全然思い浮かばなかった。「何かヒントみたいのないかな? 白河さんに関連したキーワードで考えるよ」
「そうねえ」と彼女はぼんやりと僕を眺めて答えた。「私、花水木っていう花が好きなの。」
ハナミズキ?」
「知ってた? あの喫煙所から見えるけど図書館の玄関の脇にあるよ。」
「知らなかったし、どんな花か知らないな」
「東京にはあちこちにあるよ。あんまり山形ではないかもね。匂いも好きだし、白やピンクや赤や色とりどりの花を春ごろに咲かせるの。秋には実をつけてね。ここでこうして働きながらそんな移り変わりを見るのがとっても好きなの」
「じゃあ、水木って言う名前は?」
彼女は親指を立ててにっこりと微笑んだ。「いいね。それ」

彼女は壁時計をちらりと見て席を立った。「休憩時間終わっちゃった。仕事に戻らなきゃ……これ完成したら、どうするの?」
僕は彼女を見上げていた。彼女の表情にはこれまで僕が見た中で最も深刻な静けさみたいなものがべたりと張り付いていた。
「白河さんにあげるよ」
彼女は必死に表情を崩して薄っすらと小さな笑みを浮かべた。
「ありがとう」


結局、僕は二週間近くその小説の結末に一文字も費やす事が出来なかった。仕事がこれまでが嘘だったみたいに波になって襲い、精神的にも肉体的にも言葉を紡ぎだす作業にはいささか疲れすぎていた。しかしその波が収まったのは僕が図書館に行くべき前日だった。
仕事から帰るとその声は家の留守電から聞こえた。白河さんだった。

「村岡さんのお宅でしょうか? 桜丘図書館です。お借りになった本の返却は、あした、となっております。必ずご返却ください」

僕は何度もテープを再生して彼女の声を繰り返して聞いた。あした、ってなんだ? なんで前日に電話にしてくるんだ? 僕の借りたプローディガンの『西瓜糖の日々』なんて誰も待っているはずがないじゃないか。
僕はその夜必死に小説の結末を考えていた。そしてはっきりと何かを感じた。いや、知覚したのだ。今まで僕の中にチラチラと姿を現していた影の様なものの輪郭を捉えたのだ。もしかしたら僕は例の退屈さの中にもういないんじゃじないか。退屈さが自然と作り出す書くという行為。誰にも読まれる当てのない物語。その中に僕はこれまで漂っていたのだ。でも今は違う。読んでくれる相手がいる物語なんだ。その先には現実的で、一年間この慣れない都会で感じてきたあらゆる種の退屈さなんか微塵に吹き飛ばす事の出来る何かがあるんじゃないか。僕は書いた。湧き上がる言葉を生々しいままに書き続けた。

小説が最後が完成したのはそれから四日後だった。仕事を早く切り上げ僕は桜丘図書館に走った。辺りは半分程日が暮れて、普段の日の夕方の図書館を週末よりも暗く沈んだ空気がひっそりとの包み込んでいた。


                   * * * * * * 
 

 あの日以来、僕は桜丘図書館には行っていない。小説も書いていない。理由は分からないが好むと好まざるとに関わらずこの都会の退屈さに慣れすぎてしまったのかもしれない。いや、退屈さを感じる事さえいつしかなくなってしまっていたのだ。そして昔の故郷のあの退屈さと同じ様に、あの僕にとっての最後の小説もどこかに失くしてしまった。あの時僕がどんな事を書いたのかさえ必死に思い出そうとしても思い出せない。それはまるで薄い靄のかかった森の奥深くの洞窟の中に閉じ込められてしまったみたいだった。仮にも僕はもうあの退屈さには溶け込めないだろう。それが大人になったというのか、歳を取ったというのか、それとも変わってしまったのか、分からない。僕にはもう妻がいて、三歳の娘がいて、退屈さなんか入りこむ余地がないのだ。現実の足元に横たわる倒れた巨木や転がった巨岩を取り除く事に精一杯なのだ。
結婚して僕は二つ隣の街に引越し、家の近くには桜丘図書館よりも大きな図書館が建っていた。本の量も多く、特に子供向けの児童書が充実していてたので僕は娘を連れてよく利用していた。


ある日曜日に突然家の電話が鳴った。若い女性の声だった。どこか聞き覚えのある様な声でもあり、そうでない様にも思えた。
「桜丘図書館です。予約された本一冊が手違いでこちらの図書館に回ってきてしまっております。すみませんがこちらまで取りに来て頂けますでしょうか?」

僕は驚いて事情を訊いた。娘の為に予約していた童話の絵本がその女性の言うとおり近所の図書館でなく手違いで桜丘図書館に回されてしまったのだ。人気の絵本なのでそちらの図書館に回す時間はなく、次の人も待っているのでこちらまで取りに来て頂けないか? とその女性は本当に申し訳なさそうに何度も何度も自分達の非を詫びた。
「分かりました」と僕は答えた。


何年ぶりだろう。僕はあの図書館の前に立っていた。
桜丘図書館はあの時とどこも変わっていなかった。ただ年月の分だけコンクリート壁の色は褪せ、ひびが至る所に入っていた。利用者が減ったのか、休日にも関わらず館内は驚く程しんとしていた。図書館独特の、しん、ではなかった。読まれるを望んだ無数の本達の無言の涙の様だった。
僕はしばらく気の向くままに幾つかの本を手に取ったが、それはどうしてか僕に読んでいる事を望んでいる様には思えなかった。その時、突然、僕が不意に足を止めたのは新刊のコーナーのある一冊のハードカバーが目に入った時だった。
僕は緊張し、そして遥か昔若い僕を包んだあの退屈さがどこからか吹き荒れ、あの時間の中心へと、その深淵へと導いていった。喉が急に渇き、息を飲んでその場に数分の間木立の様に立ち尽くしていた。体のあちこちの神経が音を立てている気がし、全身は小刻みに震えていた。気持ちを落ちつかせようと僕は窓際の椅子に腰を下ろした。そしてゆっくりと深呼吸をし、その本のページをめくった。窓の外には地面から伸びたハナミズキが僕の目線の所までそびえ立ち、幾つもの鮮やかな色に染まった花達が僕に向かって微笑んでいる様に見えた。その時僕は自らの目に薄っすらと涙が滲んでいるのを感じた。どうして泣いているのかさえ分からなかった。泣くのなんて本当に久しぶりだった。
その瞬間だった。目の前には二四歳の僕がいた。椅子に座って黙って本を読みふけ、その先にはカウンターに座ってじっと同じ様に僕の書いた小説を読む白河さんがいた。時折、彼女は持っているペンを指の上でクルクル回しながら利用者数人に電話をして「……本の返却期日が遅れていますので、返却の方よろしくお願いします」と原稿を読み上げる様に言った。
あの時の僕はふと本から視線を上げ、そんな彼女にばつの悪そうな笑みを浮かべていた。彼女は受話器を持ちながらにっこりとあの時の僕に向って笑い、片目をつむった。


現実のカウンターには若くてショートカットの小柄な女性が座っていた。黒い縁の眼鏡はどこか彼女には不似合いで、眼鏡の方が断固として彼女にしがみついている気がした。
僕は黙って娘の為の本と一緒にその本を差し出すと眼鏡の子は抑揚なく言った。
「こちらの本は新刊となっておりますので、返却日は必ずお守りください」
「分かりました。」と僕は答えた。「大丈夫です。」
彼女は眼鏡の中から感じの良い笑みを浮かべた。
「ねえ」と僕は彼女に言った。「返却日の前日に電話してくれないかな?」
彼女は不思議そうに僕を見上げ、しばらくの間口をあんぐりと開けていた。「前日にですか?」
僕はかぶりを振り、微笑んで言った。
「冗談ですよ」


             あとがきとして

 
 私の姿勢としては基本的に物語に「あとがき」をつけるのはふさわしくないと思っております。これまでもそうでしたし、これからもそうでしょう。しかし、この短編集『雪原の灯り』の「返却は、あした、になっております」に関してだけはそれがどうしても必要かと思われます。いや、私はこのあとがきを書く為にこの物語を書いたのかもしれません。
 今から八年前に実際に東京のある図書館で働いていた時にある男性と出会いました。当時彼は確か二十代前半だったと思います。彼は借りた本を返却日をかなり過ぎても返さない図書館では有名な常習犯だったのです。何故か私がよく返却の催促の電話をしたのを覚えています。返却にやって来ると彼は毎回丁重に詫びをいれ、そこにはどこか憎めない姿がありました。どんなきっかけか覚えてません。それとも彼と私の好きな小説が似ていたからでしょう。私達は些細のない会話から始め、文学の事やら色んな話をしました。彼が趣味で小説を書いていると言ったのはそれからしばらくしてからでした。彼の話や価値観、ちょっとした物事に対する考察などに私は興味を持ったのかもしれません。彼の書いている物語を是非読んでみたいと思ったのです。
彼は書きためていた幾つかの小説の原稿を本の返却と一緒に図書館に持ってきて、私にそっと隠れて渡しました。読んでみると、文章か鋭く、情景描写も巧みで、何より淀みなく読者に読み通させてしまう筆力がありました。しかし私達は図書館以外で会うことはありませんでした。お互いは図書館の職員と利用者、読者と筆者の関係に過ぎませんでした。少なからずその時はそう思っておりました。
彼のある一つの小説の結末を読む筈だった日は、偶然にも私が三年勤めたその図書館を辞める日だったのです。しかし何故か当日彼は現れませんでした。結局、その小説の結末も分からぬまま、二度と彼とは会う事がなかったのです。

人生とは不思議なものです。私の方が本当に小説家になってしまったのですから。よってこの作品はある意味では当時の彼との共著かもしれません。違いますね。彼の作品といっても過言ではありません。彼はきっと許してくれると信じています。何より彼と出会わなかったらきっと私は小説家になっていなかったと思います。そして、この物語は全くの実話であり、同時に全くのフィクションでもあります。

彼は今でも返却に遅れて、どこかの図書館のカウンターにいる誰かに深々と頭を下げて「これから気をつけます」と言っている様な気がします。

最後に、

Mさん、お借りになった本の返却は、あした、までとなっております。
               
                 二〇〇五年九月 水木里枝 釧路にて