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2016年07月13日

波多一索先生(弊財団初代理事長)を偲んで 1

波多一索先生はかねてより病気療養中でしたが、平成28年6月3日(享年82歳)に永眠されました。葬儀は去る6月11・12日羅漢会館(目黒区)において、喪主・信彦様(御長男)によって執り行われました。心からご冥福をお祈り申し上げます。

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今回は、昨年(2015年)1月27日に行われた「波多一索さんの文化庁長官表彰を祝う会」(アルカディア私学会館)の折、出席者に「お礼に代えて」と配られた波多さんの自叙伝とでもいうべき冊子の中から、抜粋してご紹介しようと思います。資料及び写真提供は波多一索様によるもの、聞き書きは財団会長の藤本草が行いました。(全文は既にこのブログでも紹介済ですので、ご関心のある方はこちら →波多一索さんの文化庁長官表彰を祝う会 - じゃぽブログ

【『私の履歴』 波多一索】その1

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祖父・波多海蔵氏            父・波多郁太郎氏 

「波多」姓の多くは九州の出で、朝鮮半島から渡来した「秦」がそもそもです。医者が多い家系ですが、実は「秦」の字を「波多」に改めたのは私の祖父の代で、電話帳にもその頃はありませんでした。私が生まれたのは昭和8年12月1日(金)、父の郁太郎が結婚後に新居を構えた牛込若松町の家でした。五歳離れた妹もこの家で生まれました。戦時中の昭和18年に、父が慶應義塾の教師のまま、数えの42歳で急逝。一家は牛込区の実家から母と私、妹の3人で母の実家の杉並へと引き取られました。

家の廻りは東京とはいえイモ畑で(現在の西荻窪と久我山の中間、水道道路ワキ)、中島飛行機の工場が前進座寄りにあって時々空襲に見舞われました。私は、戦争末期にはご多分に漏れず東北の仙台、盛岡に疎開し、小学6年生で迎えた終戦とともに杉並の母の実家に引き上げました。中学はイモ畑の先に見えた都立第十中学校(男子校)に入学、学制改革で中学が高校になり、共学となった都立西高等学校へと六年間通学しました。

高校で音楽部に入りましたが、たまたま音楽部の合唱団の一年先輩にダークダックスの喜早哲氏がおられ、慶應時代までお世話になりました。また、音楽の担任の教師が当時オペラで活躍中の名ソプラノ砂原美智子師のご主人だったことから、砂原師や当時の藤原歌劇団の方々のリサイタルを開催、ビクター時代に「我らのテナー」藤原義江師の知己を得ることになりました。

西高を卒業後、世田谷の下北沢に一家で転居、私は父が愛した慶應へと進学しました。もっとも、父は折口信夫先生一門の国文学でしたが、私はフランス文学科で、同期の出世頭には劇団四季の浅利慶太氏などがいました。もっともフランス語と言っても、当時流行のフランス映画やフランス料理、越路吹雪さんの舞台にあこがれて専攻した者もいるような具合でした。 在学中の私は歌舞伎や文楽に夢中で、同時代の方々には山川静夫、永六輔などの各氏が活躍しておられました。

卒業したのはもう60年ほど昔になります。当時は現在では考えられないほど伝統音楽演奏家の層が厚かったのですが、私は宮城道雄師の演奏にあこがれて、先生が専属でいらしたビクターレコードに昭和31年3月の卒業と同時に入社しました。

ところが、・・・・・・・・次回に続く。


(やちゃ坊)

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