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2016年07月15日

波多一索先生(弊財団初代理事長)を偲んで 2

【『私の履歴』 波多一索】その2 (前回より続く)

私は宮城道雄師の演奏にあこがれて、先生が専属でいらしたビクターレコードに昭和31年3月の卒業と同時に入社しました。ところが、入社早々の6月25日に宮城師が列車事故でお亡くなりになり、私の初仕事は「宮城道雄追悼盤」レコードを作ることになりました。それは、今も忘れることが出来ません。その後は、当時評論家として活躍しておられた吉川英史先生のご指導を頂いて、LP レコード「箏曲と地歌の歴史」の制作を吉川先生の監修、中能島欣一、小野衛(当時は宮城衛)両師の協力で作ることになります。吉川先生はその後、義太夫協会の会長をなさり、藝大邦楽科を立て直し、生涯のライフワークとされた宮城道雄伝の執筆と、多忙な生活を送られることになります。

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ビクター民踊研究会会長時代 ニッパー柄の浴衣で

ところで、入社早々で経験の乏しい私がいきなり古典芸能の専任ディレクターになったのには、次のような事情がありました。

当時ビクターレコードの経営が東芝から松下電器へと代わり、新しいレコード会社を作ることになった東芝が大量のスタッフをビクターから引き抜きました。そこで、私のような新人でもやむをえず使わざるを得なかったため、録音にはしばらく小野金次郎、田中宏明両先生が、専門家として立ち会うことになりました。ビクターで伝統音楽を担当していた前任者はこのジャンルの大ベテランの方で、東芝への移籍に当たって、当時大スターだった清元志寿太夫、新内志賀大掾、本木寿以、市丸など各師の録音スケジュールを決めたまま退社されてしまったので、とにもかくにも録音を実行するしかなかったのです。録音に来られた師匠方も、突然担当者が若造に変わり、さぞビックリなされたことだろうと思います。このような異例の次第で、古典芸能担当ディレクターとしての私の音楽制作がスタートしました。

特に印象深かったのは清元志寿太夫師でした。ビクター 築地スタジオ近くの歌舞伎座の、夜の部二番目で出演が終わるとタクシーで駆けつけられ、「ノドの調子が冷えないうちにテストなしで録音されたい」という注文で、当日は夕方から録音準備をして緊張しながら待機していたことを今でもよく覚えています。

 幸い、前述の「箏曲と地歌の歴史」をはじめ、「雅楽大系」、「能」、「狂言」、「能楽囃子大系」など沢山の全集の録音が文化庁芸術祭大賞を頂くことが出来たのが認められて、その後はいろいろの録音をさせて頂きました。 中でも、古曲会の吉田幸三郎氏のご紹介で野澤喜左衛門師にお目にかかれ、それが機縁となって「竹本越路大夫全集」を15年かけて完成することが出来ましたことが、今回の表彰の大きな受賞理由になっているように思います。

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日本小唄連盟創立55周年記念パーティ鏡開き

右から波多氏、春竹利昭師、佐々舟澄枝師、浜田晃氏、藤本草氏

 その頃ビクタースタジオは、今の聖路加病院の筋向いにあり、近くに小唄の蓼胡満喜師が住んでおられたので、邦楽をやる以上はなにか一つ覚えたいと入門することになりました。やはり近くにお住まいだった春日とよ五師の門下で、ラジオ東京に勤務し、演劇評論家でもあった舘野善二氏と二人で、しばしば小唄の会に出演するようになり、日本小唄連盟に入れて頂くことになりました。当時は小唄の家元が、その数約200とも言われた時代で、社長が小唄をやれば社員はこぞって名取にという世相でした。

・・・・・・・・次回に続く。

(やちゃ坊)

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