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jaz3216 ざっくり & about

2017-09-06 脱時代の選択

読書の秋を迎え、ここ数年間の9月に一体自分は何をしていたのだろうか?
と、jaz3216の多種多様に広がる自分のBlogを紐解いて見た。

ちょうど一年前の今頃、秋の夜長を楽しみながらパソコンに向かっていた。

真面目ぶって、と言うと語弊があるが哲学論文(?)に挑戦していたようだ。

実は、大学の哲学研究会の機関紙『Sophia』に、
芦別時代の30代の若き日にOBとして投稿したものである。

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その活字を説き起し、整理し直していたのが2016年去年の9月14日という日付だ。

高校1年生になった麟太郎の誕生日の12日を少なからず意識して、
哲学を学んで欲しいとの思いからである。

Blogタイトルの名が日常的《ざっくり & about》とは、かけ離れた、
別次元の『永久に死ぬまで脱皮』という名。

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絶望の継続による蛇の永劫の脱皮を希求している我がBlog世界から見つけた。

論文タイトルが『脱時代の選択』

懐かしく、記憶の「アリアドネの糸」が繋がるか、我が脳細胞に手繰り寄せてみたい。


   脱時代の選択
                      中北 光弘
 「知行合一」の王陽明の哲学がわれわれの目の前で突然血を流し、全国、いや全世界の三島由紀夫氏を知る人々がショックを受けて、一年の歳月が流れた。

 氏は、ワーグナーが「パルジファル」という”音楽の魔法”でもって成そうとしていた、旧い信仰復興を氏特有の”言葉の魔法”で実現しようとし、究極のところ、実践的腹切という行動による”歴史の構築”をロマンティシズムの帰結として示現したように思う。その復興しようとした「すでに活力を失っている一つの信仰」とは、一体何なのであろう。

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(今回このレポートでは触れぬが)

 ルネサンスは近代文明の曙であった。そしてとりもなおさずそれは、歴史への原点、人間への回帰であった。現代社会の構造はこの文明の発展の落とし子として、情報の氾濫する”マス時代”である。複雑化し、多様化し、更に専門化していく中で、コンピュートピアな世界が繰り広げられ、機械と人間の出合いの問題は人間が道具を手指の延長線で生み出して以来の対決を絶えず積み重ねている。人間の商品化、機械(道具)化による人間性回復の問題は、マルクス、フォイエルバッハ、ヘーゲル、カントへと遡って考えられよう。彼らにはドイツ的とも言える歴史を根底とする積み重ねの思考方法があった。

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 人間の生は、何らかの形での方法論の集積であり、その自由な選択の累積継続である。そこには断絶的時間観念の突然変異的突発性は入り込む余地はなかった。この時間と空間の概念は、カント以来の「純粋悟性概念」といわれる十二の範疇の枠内における純粋直感であった。更に、このことを把握、理解する底には、客観的思惟の統一作用が倫理の世界を超えて論理の世界へと、定言命法的に存在していた。

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 しかしながら、現代の多くの若者の生き方には、その統一的秩序の時空を越えた自由な主体性の発露として、歴史性の否定的態度を見ることができる。これはマルクス以後の実存哲学と、構造主義の新たなる歴史観の展開に裏付けられる。

 エグジステンツ〜、実存〜の ex〜は、”脱〜”である。キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、ヤスパース等の主体的超越の「自由希求」のビーイング哲学は、現代の若者の心理奥深くへ逆流し、ハプニングな偶然的事象の不連続的展開であり、あらゆる階層との断絶に革命的色彩の濃い姿を感じとることができる。それは、構造言語の世界における「共時(シンクロニー)的な場」への、「通時(ダイアクロニー)的な場」の導入という相対的変化でもある。アインシュタインの科学の世界には、まさしくそれ以上の変革的歴史観を形作れる時間観念があった。

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 「溺れている子がいる。その子を助けられるのは文字(文学)ではなく、助けることの実践である。」。確かに、サルトルのこのアンガージュマンの思考に間違いはない。しかし、助かろうとする意思と、助かりたくないという意思と、助けようとする意思と、助けたくないという意思との、あらゆる対象と主体の不確定性での関係の合致は、思索的時間を経過すれば非行動的な「無」を現出するであろう。故に、無意識のうちに時間を越えねばならない。

 「父母未生前の己の生(両親がまだ生まれていない前の自分の命とは?)」と問う禅の公案は、われわれ凡人にはそう簡単に理解はいかぬ。しかし禅的ともいえるこれら時間観念は、新たなる思考方法としてあらゆるものを、同時に同一場所で「即」一瞬のうちに”ひとつのもの”として感得し得ることの思考方法である。「一即一切・一切即一」「自即他・他即自」「個即全・全即個」と展開する無分別智は、分け隔てのない、まぎれもない愛の精神と、平和を願い心の安息を願う美しい人間の心の現れとなる。

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 それなら何ゆえに、若者は過激な行動に走るのか? 彼らの行動理論の基盤は「三M」すなわち、マルクス・マルクーゼ・毛沢東に代表されるというが、サルトルの完結性のない自由の連続としての思考活動は、行き場を失って実践行動へとシフトした。が、現存在の時間性は、ハイデガーいうところの「死という終末へ向かう実存」「死の可能性を見越しての実存」として、有限な時間性である。その死への、終末への自覚から、それに対しての覚悟が現在の情況、実践行為の情況へと回帰する「不条理」が重要問題となる。

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 われわれにとっての未来は有限である。一個の生命としての有限と、社会全体、世界の有限とを混乱してはならぬが。しかし、サルトルにとって完結性のない未来と、三島氏の自己完結としての未来を断ち切る自殺(自死)とに、同じ未来が見えているのだろうか?

 未来と名のつくものは、未だかってわれわれの手もと、足もとに来たことはない。未来は確かに在るだろう。しかし、未来を手にしたものは未だに誰一人いない。

 北国の寒い片田舎で、石炭の白い煙が登る頃、夜の静寂をぬって雪が深々と降り積もる。そんな時、ふと身近で起こった叔父辰男の突然の死を想い出す。「死への存在としての自己の生を」。

 このような多くの死が、人間のみならず、動植物を含めてあらゆる生命体の運命なら、不安と絶望に苛まれることもあるまい。だが現代的意味でのわれわれの「生」の問題は、これをどのような形で超(越)けきるかにあった。

 個人の生と、そして社会や国家との生とは、生物学者ヘッケルのように、「個体発生は系統発生を繰り返す」のであるなら、時間観念を捨て空間に蠢く多様な生であってよい。間違った歴史観に立つ進歩史観は、得てして人類その他の生命の終末を早めるにすぎない。戦後二十数年、わが国が後生大事にしているデモクラシーが、英米で崩壊しつつ在ることを若者は気がついている。民主主義の美名のもとでキリスト教的またはイスラム教一神教思想(ユダヤ教も含む)が、多くの殺戮をなし繰り返してきたことを。

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 そして、現在は「脱時代」であるという。それはとりもなおさず、「自己変革の時代」であり、「個性化の時代」である。「怠惰」「ズッコケ」「狂気」「遊び」「浮浪」「極私」「旅」「怨念」「ミニコミ」「自主管理」と続く、これら『脱時代の思想』の多くは、まだ枯れ葉とならない。自己を脱け出す殻もなくして、そして殻自体に対して無知であって自己変革もないが、単細胞生物のように、自己再生もしくは自己蘇生を繰り返すのみである。その時の肥料(契機)が、脱時代の思想が落ち葉となり枯れ葉となる時なのだ。

 「万物は流転」し「輪廻転生」し「永劫回帰」し、否が応でも自分の生を貫くためにも、「Amor Fati (運命愛)」である。国家、社会もまた同じであろう。ただ個々人の個性化が社会全体で無秩序化となる、混乱の個性化となる在り方に人間は絶えずつきまとわれる。自由と平等のパラドクス(ジレンマ)が常在する。この克服は、最終的には「二者択一」の選択か、「止揚(aufheben)」かであろうが、この相対性を脱け出るためにもいずれは選択せねばならない。この選択だけは自由でありたいものだ。

 確率論的な個々の「生」から集合論的、群論的な「生」の把握の、方法論的変化をわれわれは身近に経験してきた。人間の心理的法則にそって若者の多くは、それはそれとしてそこからの脱却を自由に求めている。あくまでも「方法論的な自由」として・・・。

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 私は大学時代、恩師の今田竹千代先生に学問と科学の方法論を通じて、人生のそれを学んできた。学生時代の先生と接して書き留め得た「哲学ノート」を繙き、想い出にふけりながらこのリポートを書いてきた。過ぎ去った現在の時間の流れは、拡大されゆく空間に吸収され、散乱している。それを今、一つひとつ拾い上げ形造るとき、過去、現在、未来は一致する。私はそこにおける一致点で、今田先生と多くの先輩や後輩との出会いに感謝している。

どうもありがとうございます!!



何度か読み返しているうちに、遥か遠い30代初めの頃の自分の思考回路が蘇った。

45年前と現在との若者の置かれた現状に差異があるように思えない。

若者はテロ活動、行動に自己の存在を賭け活路を見出そうと、相変らず踠(もが)いている。

伝統的価値観を否定し、権力の象徴に思える世界遺産の彫像などを打ち壊し、
このリポートが書かれた当時より過激度が増し、戦争の高みにまで登りつめてしまった。

脱時代のエネルギーの向かった先に、理性が介在するはずの弁証法の思考は働いたのか?

哲学が分断され、自分勝手なポピュリズムの台頭は未来予測に何をもたらしているのか?

複雑系の混乱は続く。

しかし、ぼくが求めていた「脱自存在」の概念は、
沈思黙考、座禅を組むことで悟りの道を極めろという自己自身への啓蒙に過ぎない。

個々の価値観が、何もかにもすべての価値観が多様化した現代に、
血の通った哲学や思想を息づかせるのは容易なことではない。

個人個人の人間の欲望の価値尺度と、
世界各国の国益という価値尺度の鬩(せめ)ぎ合いに戦争の種が内包されている。

そして、価値尺度に競争の原理が働くと、人間心理として勝ち馬に乗りたがる。

明治維新後の歴史観には『薩長史観』が存在しそれで成り立ち、
徳川江戸幕府や東北列藩の価値観や弱者の史観は無視される。

さらに悪いことに、2発の原爆を落とされ、
太平洋戦争、大東亜戦争に負けた日本は勝ち馬に乗りたくて米国🇺🇸 追従のまるで植民地化の様相

この精神構造が理想を語れず現実を知る健全思考と定義づけられる悲劇が続く。

理想が非現実的で平和ボケと指摘されると、どうも勝ち馬に乗れないものだから、
一強多弱の現政権を支持する若者も多いのも現実だろう。

さてどうしたものか?

恩師今田先生の哲学的ご教授で、
血の通う、生きた血液(B型だが)の注入が欲しい。