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jaz3216 《roughly & about》

2018-10-09 ホテル会員カードと脱時代の選択

幸江さんが環さん、おみやげ同伴で予定通り来訪した。

ちょうど、10時の間食休憩時間にかかっていたので、お腹が空いていた。

幸江さんからの貰い物を即刻封を開いてご相伴にあずかることになる。

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柿は我が家でも購入していて、今年の採れたて柿は賞味していた。

しかし、隣の存在感ある巨大な粒のブドウを見たのは初めてといって過言でなく、
ビックリものだった⁉

もちろん、先にブドウの方から手を伸ばし一粒口に入れ味わった。

種無しブドウでタンニンの苦味の伴う渋さを感ずることもなく、
口の中でまろやかな世界が広がる。

喉が渇いていたこともあり、
たて続けにブドウ〜柿、ブドウ〜柿と、おしゃべりを忘れて交互に食べていた。

どこかで腰を上げなければと思いつつ、旨すぎてキリがない。

根っからの戦前生まれの【ほいど】体質。
我が世代独特の悲しい性(さが)が現れていた。

幸江さんに促されて我に返る。

遅ればせに、
ゆう子もホテルエミシアに行くというので、
彼女の出発準備が整うのを待って
幸江さん運転の車に乗り込んだ。

一家の、台所の大きな財布で大金(?)を管理する【財務大臣】兼【総理大臣】の同伴は嬉しい。

ホテルに到着した。

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さてと、所期の目的を忘れてはならない。

ホテルエミシアの無料会員登録カードを手に入れること。

30階の【仙雲】まで行くのではなく、カードはどこでも申し込めるというので、
一階のレストラン【カフェ ドム “cafe dom”】に入った。

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支配人が白石高校吹奏楽部でトランペットを吹いていたTくんだった。

彼は高校生の時から人なっこく、高校時代の記憶力も高くて話が弾む。

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ランチを持ってきたり、締めのインドネシアコーヒー(久しぶりの【トラジャコーヒー】)をテーブルに置いて行くたびに、ボクと高校時代の思い出話や現在の最新情報で盛り上がり、話し込むことになる。

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しかしそこは公人の【serviceman】、
話題をさりげなく【胆振東部大地震】と【24号台風】にふり、
ゆう子と幸江さんが話に参加できるよう気を遣い配慮していた。

特に、地震でBlack outになった当日、
ホテル自家発電を稼働させて、
宿泊客800人の命を【食】を通じてつないだドキュメントには迫力があった。

会食を終え、ゆう子が作ったメンバーカード

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で早速決済をして10%引きで4人の食事代全額を支払っていた。
いつもお世話になる村瀬家へのお礼の気持ちである。

能天気なボクは、お金のことを心配する必要もなく、財務大臣、様々である。


道中、パウロ病院から新さっぽろへ行く道路脇のドウダンが真っ赤に咲いているので、
【開拓の村】正面階段のドウダンツツジの様子を確認しに寄った。

残念ながら赤く色づいていなかったので、ロータリーを一周し12号線経由で帰る。

ルート変更のお陰で、道立図書館前の風倒木も確認できた。

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自宅に帰ってきて、
黄昏のバラがなんとも言えない晩秋の雰囲気を漂わせてる。

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午後からは【ばたんきゅう】であった。


目を覚まして夕刊を取りに行き読み終わる。

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夕張出身者で室蘭工業大学を卒業して世界を股に大活躍しているとの新聞の「ひと欄」に載った。

南高の卒業名簿を点検したが出てこない。
もしかしたら、北高の卒業生かもしれない。

環さんにお願いしようと考えながらすっかり忘れてしまっていた。
どうだろうかね?



何か分からないが、活字に飢えている。

そこで、古い三十代の昔に書いた哲学リポートを発見して、読んでいた。

そうすると、無性にこの《about & roughly》に転載しておこうと考えた。

このように埋もれた論文リポートが多数ある。

そのうち徐々に命を与えて甦らしたい。

こんな思いになったのはTくんに会って台風や地震の被害に遭われた生命の尊さを大切に想う気持ちからだった。




『脱時代の選択』
                         中北 光弘

 「知行合一」の王陽明の哲学がわれわれの目の前で突然血を流し、全国、いや全世界の三島由紀夫氏を知る人々がショックを受けて、一年の歳月が流れた。

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 氏は、ワーグナーが「パルジファル」という”音楽の魔法”でもって成そうとしていた、旧い信仰復興を氏特有の”言葉の魔法”で実現しようとし、究極のところ、実践的腹切という行動による”歴史の構築”をロマンティシズムの帰結として示現したように思う。その復興しようとした「すでに活力を失っている一つの信仰」とは、一体何なのであろう。
(今回このレポートでは触れぬが)

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 ルネサンスは近代文明の曙であった。そしてとりもなおさずそれは、歴史への原点、人間への回帰であった。現代社会の構造はこの文明の発展の落とし子として、情報の氾濫する”マス時代”である。複雑化し、多様化し、更に専門化していく中で、コンピュートピアな世界が繰り広げられ、機械と人間の出合いの問題は人間が道具を手指の延長線で生み出して以来の対決を絶えず積み重ねている。人間の商品化、機械(道具)化による人間性回復の問題は、マルクス、フォイエルバッハ、ヘーゲル、カントへと遡って考えられよう。彼らにはドイツ的とも言える歴史を根底とする積み重ねの思考方法があった。

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 人間の生は、何らかの形での方法論の集積であり、その自由な選択の累積継続である。そこには断絶的時間観念の突然変異的突発性は入り込む余地はなかった。この時間と空間の概念は、カント以来の「純粋悟性概念」といわれる十二の範疇の枠内における純粋直感であった。更に、このことを把握、理解する底には、客観的思惟の統一作用が倫理の世界を超えて論理の世界へと、定言命法的に存在していた。

 しかしながら、現代の多くの若者の生き方には、その統一的秩序の時空を越えた自由な主体性の発露として、歴史性の否定的態度を見ることができる。これはマルクス以後の実存哲学と、構造主義の新たなる歴史観の展開に裏付けられる。

 エグジステンツ〜、実存〜の ex〜は、”脱〜”である。キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、ヤスパース等の主体的超越の「自由希求」のビーイング哲学は、現代の若者の心理奥深くへ逆流し、ハプニングな偶然的事象の不連続的展開であり、あらゆる階層との断絶に革命的色彩の濃い姿を感じとることができる。それは、構造言語の世界における「共時(シンクロニー)的な場」への、「通時(ダイアクロニー)的な場」の導入という相対的変化でもある。アインシュタインの科学の世界には、まさしくそれ以上の変革的歴史観を形作れる時間観念があった。

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 「溺れている子がいる。その子を助けられるのは文字(文学)ではなく、助けることの実践である。」。確かに、サルトルのこのアンガージュの思考に間違いはない。しかし、助かろうとする意思と、助かりたくないという意思と、助けようとする意思と、助けたくないという意思との、あらゆる対象と主体の不確定性での関係の合致は、思索的時間を経過すれば非行動的な「無」を現出するであろう。故に、無意識のうちに時間を越えねばならない。

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 「父母未生前の己の生(両親がまだ生まれていない前の自分の命とは)」という禅の公案は、われわれ凡人にはそう簡単に理解はいかぬ。しかし禅的ともいえるこれら時間観念は、新たなる思考方法としてあらゆるものを、同時に同一場所で「即」一瞬のうちに”ひとつのもの”として感得し得ることの思考方法である。「一即一切・一切即一」「自即他・他即自」「個即全・全即個」と展開する無分別智は、分け隔てのない、まぎれもない愛の精神と、平和を願い心の安息を願う美しい人間の心の現れとなる。

 それなら何ゆえに、若者は過激な行動に走るのか? 彼らの行動理論の基盤は「三M」すなわち、マルクス・マルクーゼ・毛沢東に代表されるというが、サルトルの完結性のない自由の連続としての思考活動は、行き場を失って実践行動へとシフトした。が、現存在の時間性は、ハイデガーいうところの「死という終末へ向かう実存」「死の可能性を見越しての実存」として、有限な時間性である。その死への、終末への自覚から、それに対しての覚悟が現在の情況、実践行為の情況へと回帰する「不条理」が重要問題となる。

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 われわれにとっての未来は有限である。一個の生命としての有限と、社会全体、世界の有限とを混乱してはならぬが。しかし、サルトルにとって完結性のない未来と、三島氏の自己完結としての未来を断ち切る自殺(自死)とに、同じ未来が見えているのだろうか? 未来と名のつくものは、未だかってわれわれの手もと、足もとに来たことはない。未来は確かに在るだろう。しかし、未来を手にしたものは未だに誰一人いない。

 北国の寒い片田舎で、石炭の白い煙が登る頃、夜の静寂をぬって雪が深々と降り積もる。そんな時、ふと身近で起こった叔父の死を想い出す。「死への存在としての自己の生を」。

このような多くの死が、人間のみならず、動植物を含めてあらゆる生命体の運命なら、不安と絶望に苛まれることもあるまい。だが現代的意味でのわれわれの「生」の問題は、これをどのような形で超(越)けきるかにあった。

 個人の生と、そして社会や国家との生とは、生物学者ヘッケルのように、「個体発生は系統発生を繰り返す」のであるなら、時間観念を捨て空間に蠢く多様な生であってよい。間違った歴史観に立つ進歩史観は、得てして人類その他の生命の終末を早めるにすぎない。戦後二十数年、わが国が後生大事にしているデモクラシーが、英米で崩壊しつつ在ることを若者は気がついている。民主主義の美名のもとでキリスト教的またはイスラム教一神教思想(ユダヤ教も含む)が、多くの殺戮をなし繰り返してきたことを。

 そして、現在は「脱時代」であるという。それはとりもなおさず、「自己変革の時代」であり、「個性化の時代」である。「怠惰」「ズッコケ」「狂気」「遊び」「浮浪」「極私」「旅」「怨念」「ミニコミ」「自主管理」と続く、これら『脱時代の思想』の多くは、まだ枯れ葉とならない。自己を脱け出す殻もなくして、そして殻自体に対して無知であって自己変革もないが、単細胞生物のように、自己再生もしくは自己蘇生を繰り返すのみである。その時の肥料(契機)が、脱時代の思想が落ち葉となり枯れ葉となる時なのだ。

 「万物は流転」し「輪廻転生」し「永劫回帰」し、否が応でも自分の生を貫くためにも、「Amor Fati (運命愛)」である。国家、社会もまた同じであろう。ただ個々人の個性化が社会全体で無秩序化となる、混乱の個性化となる在り方に人間は絶えずつきまとわれる。自由と平等のパラドクス(ジレンマ)がある。この克服は、最終的には「二者択一」の選択か、「止揚(aufheben)」かであろうが、この相対性を脱け出るためにもいずれは選択せねばならない。この選択だけは自由でありたいものだ。確率論的な個々の「生」から集合論的、群論的な「生」の把握の、方法論的変化をわれわれは身近に経験してきた。人間の心理的法則にそって若者の多くは、それはそれとしてそこからの脱却を自由に求めている。あくまでも「方法論的な自由」として・・・。

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 私は大学時代、恩師の今田竹千代先生に学問と科学の方法論を通じて、人生のそれを学んできた。学生時代の先生と接して書き留め得た「哲学ノート」を繙きながら、想い出にふけりこのリポートを書いてきた。過ぎ去った現在の時間の流れは、拡大されゆく空間に吸収され、散乱している。それを今、一つひとつ拾い上げ形造るとき、過去、現在、未来は一致する。私はそこにおける一致点で、今田先生と多くの先輩や後輩との出会いに感謝している。


どうもありがとうございます!!