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jaz3216 《roughly & about》

2018-10-11 我がアイデンティティ

朝日新聞一面に掲載される、『折々のことば』【鷲田清一】
の文章に刺激を受け触発されて行動に移った。

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(朝日新聞朝刊に毎朝掲載される『折々のことば』を担当する哲学者鷲田清一氏)

取り上げられている作品は、九鬼周造の『偶然性の問題』から。

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(九鬼周造)


【「そう、偶然は必然へと裏返る。〈私〉の存在が意味をもつのは、この裏切りに孕(はら)まれた可能性を生き抜く時だけだ。」】 by九鬼周造

どこかで昔、
自分のアイデンティティに拘ってこのテーマをチョッピリ思索したことが思い出された。

自分と父と兄との関係で、

高校時代新二年生になる春休みに、兄の大学への推薦入学が重なり修学旅行に行かなかった。
その2歳年上の兄が日大を卒業するまで、自分は二浪して亜細亜大学へ入学した。

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(亜細亜大学正門前)

些細な体験かも知れない。

が、ネガティブなこの経験は、情けないことに自分の重要な人生のトラウマとなる。

ある意味でこのトラウマを肯定し、テコにして、
ポジティブな生き方を模索した人生であったことも事実である。

探し当てた《確執》と題された論文リポートには、
そんな揺れ動く【若気の至り】がうかがい知る事の出来る、
【現実存在】が蠢いていた。



   【《確執》】
***過去なんかどうでもいいじゃないか、と父が言い***     131105
                                 181011
                               中北 三大

偶然か必然かという問題意識は、いつ芽生えたのだろうか?

偶然という単語も必然という単語も、さほど難しい語彙ではない。だから中学生頃かも知れない。

それにしても、そういう意識を持つということについては、どこかで必ず動機となるものが存在しただろう。

父との確執からだろうか?
それとも、
2歳年上の兄との確執からだろうか?

父は大正6年3月生まれだから、
世情言われるような明治男の気骨、頑固さがあったわけではない。
また、
大正デモクラシーの洗礼を受けるほどの教養、学問、学歴があったわけでもない。

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(大正デモクラシーを牽引した吉野作造と当時の原敬首相)

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(大正デモクラシー時代を象徴するお洒落な【モガ】

しかし、変に旧民法下での古びた考えを持っていて、
長男次男との扱いには天と地ほどの相違が存在した。

確かに、兄幸光のほうが性格も明るく、機転が利いて、
父がやっていた軟式テニスの選手で、理想的な体育系スポーツ少年であった。
(軟式テニスで道代表で国体に出場した実績から日大への推薦を勝ち得ていた。)

ボク光弘はどちらかと言うと正反対の文系(文型)体質の人間だった。

兄は跡取り息子の惣領としては中北家の期待の星であった。

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(旧民法とは一体何者だったのだろう? 子爵鍋島家のエリートの結婚式)

だから、兄が長男として生まれたのは、偶然なのか必然なのか、
自分が次男として生まれたのは偶然なのか必然なのかを、
自然に考えるようになり、
その生まれの差は一体何なのだろうと考えるようになった。

それは、中学生になり初めて自意識というか自覚というか、
自分を客観的に見つめようとする気持ちが芽生えたことに起因する。

向陽中学で図画・工作という授業を矢元先生に習った。

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(前列左から2人目ノーネクタイが矢元先生)

授業のはじめに必ず黒板の真ん中に「秩序」と書き記して、
【「秩序とはなんぞや?」】
と、声を発して授業が開始された。

時に、【左右対称(シンメトリー)】について語りながら、
社会構造について話してくれた。

初めて漢字を目にし読み方を知った【秩序】という単語は新鮮だった。

漢字そのものが書けるようにと何度も練習して手と指に馴染ませた。

また、同時に絵を通しての視点としての【主観と客観】とか、
今までの小学時代に教わることもなく、身につけたこともない、
明らかに初めての単語も教えてもらった。


性格的にはシャイで引っ込み思案だったので、
大好きな先生だったのに個人的にはあまり話したことはなかった。

それを考えると何と残念な【実存的交わり】を逃すことをしたことか。

矢元先生の少なからぬ影響のもと、体育系ではなかった
(幼友だちの友人はみな野球部だった)
自分は、図書室で古い書籍も含め手当たり次第に本を手に取り、
文字を探すという行為を身につけ始めた。

それまでは父に買ってもらう漫画雑誌や、
漫画以外では父の所有する講談本を隠れて読むくらいだった。

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1946年11月創刊の『少年』の1962年4月号の表紙を飾る長嶋茂雄)

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(相撲の朝潮が表紙を飾る1959年3月17日創刊号の『少年マガジン』)

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それが、硬派の本に目覚めていく第一歩となった。

そして、自分のアイデンティティの基本存在【誕生】について、
偶然なのか必然なのかを半真面目に考える切っ掛けを生み出していたようだ。

当時の中学生としての思索は、そんなに意識が高かったわけではない。
もちろん現在も決して年齢とともに意識が向上(成長)しているとは言いがたい。

それでも高校生の時には、国語の浜田先生や社会の本多先生の影響もあり、曲がりなりにも文学書や哲学書を手に取り読もうとする意識が目覚めていた。

浜田先生には夏目漱石。

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本多先生には気狂いになるニーチェの「ツアラッウストラはかく語りき」など。

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そんな頃だった、
ルイ・マル監督のフランス映画「死刑台のエレベーター」が公開され、
音楽担当のマイルス・デビスのトランペットの音🎺とメロディに衝撃を受けた。

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(主演 ジャンヌ・モロー)

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(音楽の思索で憂いに満ちるマイルス・デビスの素顔)

「モーニン」に代表されたアート・ブレイキーというジャズドラマーの来日で、
日本中にモダン・ジャズ(funky)ブームが起きる。

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(ナイアガラの瀑布と表現された、激しくも楽しいドラミングを演じた)

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なぜかプレスリーや映画音楽【「エデンの東」】などよりもジャズにのめり込んでしまい、

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(エルビス・プレスリー)

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(「エデンの東」に主演して大スターになるジェームズ・ディーン)

アフリカから連れてこられ、虐げられた黒人奴隷音楽の原点となり発展された “Blues” や “funky jazz” について考え、聴くようになっていた。


人生には偶然の出来事が多い。
なぜ自分は黄色人に生まれ、黒人として生まれなかったのか。
また男として生まれ、女として生まれなかったのはなぜか。

少なくとも、自分には20億匹に上るだろう兄弟姉妹(精子)が存在した。

父母(夫婦)のSEXの結果として、なぜ「自分」だったのだろうか。

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夫唱婦随を象徴するおしどり夫婦)

夫唱婦随の仲の良い、愛し合う人間関係であろうがなかろうが、
一歩間違えば、いや一瞬の刹那間違えば母の胎内で着床せずに、
自分の存在はありえなかったはずだ。

それ故に、
自分の存在も
父の存在も
あえて書き加えるが
母の存在も

確率的、関数的には、
偶然から必然へ、
必然から偶然への
裏返った現象としか思えない。


偶然の現象を考えると、宇宙の成り立ちについても考えが及ぶ。
ただ、宇宙の原理を深く考えたことはない。

が、137億年前の原初の世界で、「ビッグバン」が起こった時、それは必然ではなかったと考えている。

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その爆発の後すぐに「重力」が誕生したのも必然ではなかっただろう。

ここでもう一つの疑問にぶつかる。

時間と空間の問題なのだが、まずビッグバン前の宇宙空間は何もないとして、それを想像することができない。
さらに、自分が生まれる前の時間と、自分が死んだ後の時間とは、
永遠という尺度で測った場合どちらが長いのだろう。

また、時間概念と空間概念とは、どちらが広がりとして大きいのかも疑問となる。

すなわち、ビッグバンが137億年前に起きた現象であるなら、宇宙空間が誕生する前に時間は存在したのかどうかという問題である。

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「時間」も偶然の誕生だったのだろうか?

いってみれば、ミクロ(精子)の世界とマクロ(宇宙)の世界が一本の糸で繋がれ、ボクの思索に重くのしかかる。

常に自分の心のなかで、たかが80年という短い人生の「死(詩)」を身近にした時、宗教的情念が渦巻いてくる。

これからの自分の残された人生で、科学的根拠を求めて思索・探求しようとするほど若くはない。

長い実験、実証の結果を待つのは辛すぎる。

どこかで「いい加減」な【アバウト】さが頭をもたげ、文学的に処理しようとする気持ちが「現存在」芽生えている。


生物学的、生理学的には、父からの10億匹から20億匹の多くの精子の中の一匹である自分は、
それこそ多くの双子、三つ子、四つ子の比較レベルではなく、
余りにも多くの自分以外の兄弟姉妹を犠牲にし、死に追いやった。

なぜか、「かれら」に負い目を感じ、どこかで贖罪しなければならない感情が常に存在した。

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(ゴルゴダの丘でイエスは処刑された)

そして、受精前の自分は一精子として男でも女でもない。
「男である前に、女である前に、自分は人間である。」と、自分の生きる生命と並行して宣言できるのは、この理由からである。

人間としての概念には性別はない。この意識が、自分の今までの人生に色濃く反映した。

人種・国籍に関係なく、コスモポリタンで宇宙空間に漂う塵のように、居ようが居まいが存在は薄く、誰の迷惑にならないような人生を希求した。

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どんな器に対しても柔軟に対応し、自由な形になれる「水」のような性格になるように振る舞った。

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(水の限りない無限の性質と性格)

どうも、自分の消極的な性格と相まって、前述した矢元先生による中学の図画・工作の時間の授業教材で、
横山大観の「無我」と題された無邪気な童子の絵を見て、解説を受けたことの影響は大である。

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(横山大観作「無我」)

その振る舞いは、まるで「確執」から誕生した処世術の結論のように・・・。



後で気がつくことになるのだが、この生き方、処世は中国の「老荘思想」に近いと思う。

ところが、老荘思想の中に必然と偶然の概念を見出すことはできない。

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どうも仏教思想の中のテーマのようだ(それには今回は触れない)。

もっと別の観点から言うと、無限と有限の概念も含んで考えると、西洋哲学の科学領域、すなわち「進化論」の領域に入ることになる。

自分の誕生での生き残りと、進化の過程で生き残ったものと滅んだものとの違いは、偶然であったのか必然であったのか。

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自然淘汰という考えは、偶然と定義するのか、必然と定義するのか。
そこに自分の意志が働く余地は存在したのだろうか、という問題である。

どうも、ダーウィン的には突然変異的偶然の産物のようだ。
とすれば、10億匹、または20億匹のなかで生き残った自分の誕生は、偶然と考えるのが至当であろう。

そう思えてならないのだがどうだろう?


得てして人間は、文学的表現において「愛」を語るとき、必然に重きをおく傾向にないだろうか。

偶然の現象には「神の計画」は存在しないことになる。

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神話の世界を含めて、聖書の世界で語られる神(神々も)は、戦争でさえコントロールする永遠の存在であり、文学作品として結晶しやすい。

それほど文学作品を読んでいるわけではないので、そのように語り指摘する資格はないのだけれど・・・。

無神論的な作品は、ことヨーロッパのキリスト教圏では、受け入れられない様相を時代時代に示す。

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芸術としてのハリウッド映画でさえも、不景気になると、ユダヤ原理主義的な聖書に題材をとる歴史大作にプロデュースする傾向を示す。

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なぜ映画にまで思考プロセスが展開されてしまったのだろう。

大学時代の哲学恩師今田先生(ドイツ哲学専攻)が、ボクら学生にいつも言っていたことがある。
西洋哲学を理解するには「聖書」を読まなければならないと。

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それで聖書のことが脳裏を横切ったのだ。

しかし、大学生時代の思想・哲学の流行は実存哲学で、その一派である無神論哲学がボクの心を捉えて離さなかった。

ニーチェに代表され、サルトルにその思想は展開された。


夕張の実家を出ていたので、確執に滅入ることはなかった。

自由を謳歌し、個人的主体性のなかで自由を求めることをした(自由ということばに酔いしれていた)。
東京での自由勝手なような生活は、必然とは折り合いがつかない。

自由とはこの上ない偶然の重なりであった。


と、これを書いている最中の10月20日の朝日新聞朝刊一面に、不思議なことにこの論文リポートとシンクロナイズする記事が掲載されてびっくりした。

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『デザイナーベビー?』という文字が踊っていた。

読み進むと、何と、遺伝子解析を行うことで自分(夫婦)の好みの赤ちゃんを作る。
その技術が米国で特許申請が認められたという記事である。

言ってみれば、望みどおりの子どもが生まれる確度を知るシステムだという。

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恐ろしい時代が来る。生命が体外受精による試験管ベビーの誕生を、さらに越えて好みの人間を生み出す手法へと発展したのだという。

ということは、性交によらない、すなわち偶然によらない、必然のコントロールによる、まるでS Fの世界の最先端の様相が現実化してきた。

しつこいようだが、人間の誕生が偶然の産物ではなく、医師や会社の手により完全なる必然的選択で、それも「資本の原理」でコントロールできる社会が現実のものになりそうだ。


ボクなど単純だから、現実存在の根源にある「自由の選択」、それも偶然が生み出す自由の選択を楽しんできた。

朝、目が冷めて顔を洗うのか洗わぬか。朝食をとるのかとらぬのか。散歩へ出るのか出ないのか。

すべてがその人の選択の自由

一日は、いや一生はこのような自由さで過ぎていく。

だから選択にも意味があり楽しみだった。

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しかし、未来の人間は遺伝子解析で価値観が一定し、足が早く、美人で、ノーベル賞受賞者に匹敵する頭脳を持ち・・・と、一定方向の価値観で、それも大金持ちが地球(人類)を好きなようにコントロールできる社会が現実のものになりそうだ。


親子、兄弟の確執から偶然と必然の思考をスタートさせた。
その思考回路の幼稚さが、未来の方向性を示す新聞記事で暴露されてしまった。

父の「過去なんかどうでもいいじゃないか」という声が聞えてきそうだ。

そう、父なら【「未来志向(思考)でなきゃ・・・」】と助言してくれる。

ありがとう! 父と兄よ!


  2013年11月5日(火) 文章教室の合評会を終えて書き直す。

  2018年10月11日(水)朝日新聞「折々のことば」鷲田清一
  ここに取り上げた作品 九鬼周造『偶然性の問題』に刺激され書き直す。