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日本比較文学会北海道支部

2016-10-05 2016年度日本比較文学会北海道大会のお知らせ

◇2016年度 日本比較文学会 北海道大会プログラム

2016年10月5日公開

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〈開会の辞〉         テレングト・アイトル(北海学園大学

■研究発表 13:30-14:15

瀧口修造ジョアン・ミロ共同制作詩画集『手づくり諺 ジョアン・ミロに/PROVERBES A LA MAIN A JOAN MIRO』における「諺」の分析
 ―瀧口のミロ理解を通して―
秋元 裕子(北海学園大学非常勤)
司会 飛ケ谷美穂子
<休憩>

■講演 14:30-15:30


北米における「世界文学」教育と日本文学の関係

日本大学准教授 秋草俊一郎
討論 15:30-16:00
司会 安藤  厚(元北海道大学
■〈比較文学比較文化 名著読解講座第13回〉16:15-17:00

『増補 日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』ちくま文庫2015年
高田 知佳(北海道大学大学院修士課程

司会 齊田春菜(北海道大学大学院博士後期課程)
〈閉会の辞〉         日本比較文学会北海道支部長 種田和加子(藤女子大学

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【発表要旨】

〈研究発表〉
瀧口修造ジョアン・ミロ共同制作詩画集『手づくり諺 ジョアン・ミロに/PROVERBES A LA MAIN A JOAN MIRO』における「諺」の分析 ―瀧口のミロ理解を通して―
秋元 裕子(北海学園大学非常勤)

 詩人・美術批評家瀧口修造と、スペインの巨匠ジョアン・ミロは、一九七〇年、共同制作の詩画集『手づくり諺 ジョアン・ミロに/PROVERBES A LA MAIN A JOAN MIRÓ』 (バルセロナポリグラファ社)を刊行した。そこには、瀧口創作の所謂「諺」形式の詩句十六篇とミロによるカリグラフィー風「画讃」・リトグラフ(七色揃)が掲載・所収されている。
 瀧口の「諺」について、「瀧口の生涯が投影されている」(鶴岡善久「〈諺〉の誕生 ならびにそのあとさき」カタログ『第10回オマージュ瀧口修造 ジョアン・ミロ瀧口修造』佐谷画廊、一九九〇年、九頁)、および、「無用性と無名性の貫かれたテクスト」 (林浩平「瀧口修造晩年の『諺』について」『洪水』第七号、二〇一一年一月、四六頁) であるとする批評は見られるが、コラボレーションの意義を重視して、「諺」に描かれている影像(イメージ)を分析した研究は見られない。
 それらの「諺」は、この詩画集を発案したミロの依頼を受けた瀧口が、ノートにかねてより書き留めていた詩句から選び、ミロに渡したものである。つまり、ミロとのコラボレーションに相応しいものを、瀧口が選んだと見てよい。したがって、それらの「諺」には、瀧口のミロ理解が反映していると見ることができる。
 瀧口はミロの芸術を、どのように理解していたのだろうか。
 それを検証する際に、「大洪水前期を夢見るやうな澄明なグラフイスム」(瀧口修造シュルレアリスム美術の新動向」大岡信他監修『コレクション・瀧口修造 (一一)』みすず書房、一九九一年、三八三頁)という表現の分析が重要である。なぜなら、この表現は、瀧口が初めて自身のミロ観を表わしたものであり、世界初のミロに関する単行本・戦前における瀧口の代表的著作の『ミロ』(アトリヱ社、西洋美術文庫、一九四〇年)においても繰り返し述べられているからである。そこに瀧口のミロ理解の核心が認められよう。
 本発表では、この表現の意味を検証し、瀧口のミロ理解を明らかにした上で、上記詩画集における「諺」に描かれている影像(イメージ)の分析を通して、「諺」とミロの芸術・絵画とが共同して創造する作品世界の一端を捉えたい。

〈講演〉
北米における「世界文学」教育と日本文学の関係
日本大学准教授 秋草俊一郎

 本講演は、北米において大学教育と結びつくかたちで発展した「世界文学」概念と、日本文学との接点を探るものである。
シカゴ大学で教鞭をとったイギリス人リチャード・モウルトン(一八四九―一九二四)による著書『世界文学――及び一般文化におけるその位置』(一九一一)が、英語ではじめて「世界文学」をタイトルに標榜した書籍となった。モウルトンはシカゴ大学ではじめて「一般文学部」(現在の比較文学部)の学部長になり、アメリカにおける比較文学史にとっても重要な人物だった。
モウルトンによる著書は、本多顕彰による翻訳出版(一九三四)の前に、大正期の日本で土居光知や国語教育学者の垣内松三によって咀嚼されて紹介され、思想・教育に少なからぬ影響を与えていた。なぜ、北米の「世界文学」思想・理念が、大正期の日本において影響を与えたのか、説明を試みたい。
 その後、昭和期にはいると、アメリカからの直接の「世界文学」思想の影響は衰えたように見えた。しかし、時代が移り、第二次世界大戦すぐに北米に渡った留学生の中には、現地の大学で「世界文学」教育を受けたものもいた。どのようなかたちの「世界文学」教育が1950年代アメリカでおこなわれていたのか、そしてそれがどのように日本人の目に映ったのか、日本の比較文学佐伯彰一の発言からさかのぼって考察することにしたい。
 90年代以降、北米の大学教育で使用されていた「世界文学アンソロジー」も世界の動向を反映して変わっていかざるをえなくなった。実質的に東西ヨーロッパ北米文学が占めていた世界文学アンソロジーに、いかに日本文学採録され、定着していったのか、時代の流れとともに解説を試みたい。

比較文学比較文化 名著読解講座第13回〉
『増補 日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』ちくま文庫2015年
高田 知佳(北海道大学大学院修士課程



  2008年10月に筑摩書房より刊行された水村美苗の評論エッセイ『日本語が亡びるとき―英語の世紀のなかで―』は、日本文学界隈、またアカデミアを超えて大きな議論を巻き起こした一冊である。
 表題の「亡びる」という語が夏目漱石三四郎』の一節から選び取られていることに象徴されるように、本書はもともと、日本近代文学研究に関わる限られた読者を想定して書かれた。本書では、「書き言葉」は力の序列をもつ概念として、次の〈現地語〉〈国語〉〈普遍語〉の三つに区別される。水村によれば、日本近代文学を取り巻く状況は、およそ次のようにまとめられるだろう。英語というイングランドの〈現地語〉に過ぎなかった一言語が、学問ができる言語である〈国語〉となり、さらにはそれが世界中が学問をする上で用いられる言語となった時代、すなわち〈普遍語〉となった時代の到来に合わせ、近代日本は英語という〈普遍語〉を選択して、自国の〈現地語〉を捨てさることをせず、むしろ外国語文学を翻訳文学として消費する過程で、それを〈国語〉という学問ができる言語へと昇華し、さらには〈国語〉による日本近代文学を生んだ。そして水村は、この状況を「日本近代文学の奇跡」と呼び、そのような歴史を持つ「書き言葉」としての日本語の存在価値をうったえる。
 ところが、インターネット上で話題を呼んだことから始まって、幅広い分野の、比較的若い読者を獲得したことによって、本書は現代日本文学の軽視を指摘されることとなった。一方で、多言語主義の旗手であるベネディクト・アンダーソンにおける〈普遍語〉の思考の欠落を指摘したことで〈国民国家〉〈国語〉〈国民文学〉のヘゲモニーを暴き出した水村の議論は、日本語という〈国語〉に関する言説にとどまらず、2015年には〈普遍語〉である英語に翻訳され出版された。今回の「名著読解講座」では、そうした本書の受容の歴史をも含めた意味で、文庫版『増補 日本語が亡びるとき』を扱いたい。