2011-11-03 新人戦閉幕・・・。
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↑ビレッジバンガードで買ったゾンビの指人形で、息子達に毎日劇をしてあげている私。劇の内容は、ラブコメです(笑)。名前はともくん、きみちゃん、三平君、と言います。
新人戦が終わってしまいました・・・。子供達に勝たせてやりたかった。生徒、本当に良く頑張りました。
ここまで2ヶ月間、毎日一生懸命に練習に励んできましたが、今日の相手は2枚も3枚も上手でした。なんとか勝ちたいという気持ちで居りましたが、自分たちの足りないところを教わった学びの多いゲームとなりました。
勝つために勝負ってのはしてる訳だけれども、実は勝つと盲目になってしまい、弱点が見えづらくなる。負けると自分たちが反省すべき点が沢山見えるようになる。
今回の負けを通して、色んな事を皆で考えてまた練習して行ったら良い。
大粒の涙を流して頷く2年生の姿は美しかった・・・。先生はお前らに、
日々練習で君らの姿を見て、沢山の感動をもらったお礼を言いたい。
ありがとう。また頑張ろうな。
応援に来てくださった沢山の保護者の皆様、OBのS君、OB保護者の皆様、本当にどうも有り難うございました。
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以下は、学年だよりの再録です。FBのお友達、現役の保護者の方、生徒はスルーしてねー。高校生は新出かも。長いので、お暇な方だけどうぞw。まぁ、チャペルで話した話を原稿に書くとこうなりました、って内容です(笑)。
学年だより巻頭言 原稿(田中十)『努力って,人の為にするものなんです』
君らと毎日接していると,とても清々しい気持ちで毎日を送ることができます。一人一人の今後3年間の成長も楽しみだ、という思いが湧いてくるからです。と、同時に君らの将来について,淡くぼんやりした思いを馳せ、しばし沈思黙考することもあります。それは、卒業生とのやりとりを通して,君らの将来について深く思うことが間々あるからです。
君らは未成年ですから,まだまだ面倒なことを色々と気にする必要はありません。今しかできないことを精一杯やって,後で後悔しないように,元気いっぱいに持てる才能をまき散らしながら,どんどん前に出て行く方がいい。
しかし,卒業後の教え子達とご飯に行ったり,メールで相談を受けたりしていますと,どうも卒業後の様相は,希望に満ちたものばかりではないようで,一抹の憤りや,やるせない悲しみを憶えることがあるのです。教え子のエピソードを紹介してみます。紹介するのは,君らと同じ、キラキラして,素敵な中高生でした。今でも親交があり,帰郷した折りには必ず食事に行き,将来の夢や希望を語り合っています。
ある教え子Tくんは,中高で部活動に勤しみ,推薦入試で見事難関慶應義塾大学の推薦を決めました。順風満帆な日々も過ぎ去り、就職活動を始めて見ると,エントリーシート(履歴書)を百数十部もこしらえて応募し続けても,一向に就職が決まらず、最終的には就職浪人をして大学に残ることを決めざるを得ない状況に甘んじることとなりました。
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若者の間に広がる格差と不就労の問題について,あるいは就職困難な状況について,さらには無気力症候群と呼ばれる現象について,日々深く心を痛めています。それは日常的に君たちに接していて「君らが大人になったときに,君らは希望を持って日本で生きていけるだろうか」という問いが心に何度もこだまするからです。
若者の間に格差が広がっているという事実は厳然と存在するのに,それに対して怒ったりデモをしたりする若者はほとんどいない、むしろあきらめている。「しょうがないじゃん。」と思ったり,「どうせ努力しても無駄だよ」と悲しいことを考えてしまったり…。
僕はこういう若者の無力感を端的に「情けない」と切り捨てることが絶対にできない。だってそれは君らのせいじゃないから…。長いこと日本は、「努力をすれば報われる。しっかりと勉強して、いい大学に入り,いい会社に入れば高いお給料がもらえる。だから勉強しないとだめだ」と言って子供に勉強をさせてきた。その結果、揺るやかに,「努力をすればその報いを受けるのは当然」というイデオロギーがどんどん浸透していった。
努力を一生懸命した子供は「自分は頑張ったんだから、それに見合った報いを受けるのは当然だ」と考えますし,努力ができなかった人は,「自分は頑張れなかったんだから、それに見合った報いを受けるのは当然だ」と、これまた考える。中間に位置する人たちも、よほどのことがない限り、この世代間イデオロギーに乗っかる形で,無言の同意をします。
この考え方が戦後数十年掛けて、日本全体に浸透していった結果が,今の若者が置かれた困難な状況なんじゃないか、と僕はぼんやり直感します。このような考え方が下地にあると,「頑張った人」は「頑張れなかった人」を積極的に助けようとはしなくなります。「だって、努力してないんだから仕方がないじゃないの。あんたが悪いんだよ」と思うだろうし,頑張れなかった人も,現状を憂うことはあっても,怒ることはない。「仕方ないよ、がんばれなかった俺が悪いんだから」と思うようになる。これでは,格差の溝が一向に埋まらないのです。
私たちは路傍で孤独死するホームレスや、孤独死した老人の話をどのような文脈で捉えるだろうか。生まれつき努力をしたくてもできない人はどうするんだろうか。天災により、一夜にして人生を一変させられた多くの同胞はどうするのだろう。小さな子供は,自助努力のみで生活設計をすることができない。必ず大人の保護が必要,肢体不自由な方は介護の手がいるでしょう。
心に悩みを抱えた人,やる気がなかなか起きない人,サボりがちになる人,さらには前述の卒業生だったりも、同じ文脈で考えるべきなのではないか。皆「自分で努力をしたくてもそれがなかなか難しい状況にある」というくくりの中では,「苦しんでいる」という一点において,皆平等なはずです。程度の差によって、おまえはいい、おまえはだめ、と言うことは決して言えないのではないか。僕はそう考えます。
今現在困難な状態に置かれている人たちは,自分の映し鏡です。子供は過去の自分,老人は未来の自分、その他困難な状態に置かれている人は、自分が将来抱えるかもしれない困難を今持った人なのです。これらの人を「努力をしてないんだから仕方がない」と切り捨てることは、自分自身をも切り捨てることにつながらないか。それは人としての尊厳の軽視であり、ヒューマニズムの破壊であり、社会の衰退と破滅を意味しているのではないか、と恐ろしい気持ちになるのです。
努力というのは自分自身の利益の為にするのではない。才能は自分の将来の富の為に用いるように,神様が与えて下さったのではない。耳がいい人は,遠くから聞こえる物音を周囲の人に知らせ危険を回避する義務を負っていますし,鼻のきく人は、こげ臭いにおいから周囲の人を遠ざけ、火事から人を救う義務を担っているはずです。本来、才能とはそのように用いるべきでしょう。
俺の耳が良いのは俺だけの為に使うんだ,と思っていると、自分が耳以外の部位を使って困難を乗り切らなければならない時に,連帯できず,窮地に追い込まれてしまうことになる。自分の持てる才能や努力を精一杯用いて他人と分け合い、また自分も他者の努力や才能の恩恵にあずかりながら、社会を形成しあうのが,本来の人間のあるべき姿ですし,また、特に私たち日本人が古来より大切にしてきた、絆、寄り合い、連帯、共生、協働とは、このような意義があって初めて可能なことだったのではないでしょうか。
連帯や共生は失われ,個人が自分の努力や才能に対する見返りを,自分だけに向ける時代になった、と言われますが、私たち日本人のDNAに深く刻まれた「連帯・絆・共生・協働」は、皮肉にも3/11で苦境と困難に見舞われた東北の方々から蘇えさせられた,そんな思いがしました。
努力は人の為にするのではない。君たちが日々勉強し、自分の得意な才能を伸ばすのは、良い会社に入ることでも,良い大学に入ることでもなく、自分以外の他者を気遣い,相手を愛し、相手を思いやる為に神様が備えて下さった大切な社会全体の財産なのです。決してそれを無駄に用いてはならないのです。また勉強をしないでサボることも,社会から受ける恩恵をタダでもらい続けようとする行為にほかならない。自分が頑張るのは、自分を含めた社会全体が幸せになるためなのです。それを私たちは今一度思い出す時代の節目に来ているのではないでしょうか。
最後に,たとえどんな状況に遭うとしても,君らの絆は世界のどこかでつながっているので安心してね、というエピソードをご紹介します。これはある卒業生男子の話。助け合い、お互いに励まし合って、個人が持っている才能を,世界中の人の為に用いて,西南からそれを発信していきましょう!
『今急に高校生の頃の受験の話を思い出したー。 高校生の時、何もわからず東京にでてきて、完全に記念受験で慶應受けに来た日。 慶應に向かう電車の中でOLさんに話しかけられた。 「もしかして西南の生徒さん!?私も西南だったの!」 まさか東京で西南の卒業生さんに会うとは思っても見なかった。 完全に記念受験の俺に、 「絶対受かるから大丈夫だよ!」 って言ってくれた。 もちろん、結果は惨敗。 だけど、その試験の途中に、浪人を決意した。 根拠のない自信を植え付けてくれた卒業生の方に感謝しなきゃ。 あの時声をかけてくれなかったら、甘んじて関西とか地元の大学に行ってたかもしれない。 人生変わってたかもしれない。 相模大野に行く電車の中そんなことを思い出しました。』


