ドゥルーズ『シネマ』の淀長節
『シネマ2』と『ストライキ』『海底王キートン』
『ストライキ』(セルゲイ・エイゼンシュテイン、1925)
『海底王キートン』(バスター・キートン、他、1924)
ジル・ドゥルーズは『シネマ2*時間イメージ』第7章「思考と映画」で、ロマン・ヤコブソンの隠喩・換喩についての議論を参照しながら、グリフィスのモンタージュを換喩的、エイゼンシュテインのモンタージュを隠喩的としたうえで、後者の隠喩性についてより詳しく論じている。
<ヤコブソンは、映画はむしろ換喩的であると指摘していた。映画は本質的に並置と隣接によって進行するからである。(…引用者中略…)運動イメージは、それが表現する全体に運動を結びつけることによって運動を融解することができると同時に(イメージを結合する隠喩)、運動がその間で成立する諸対象に運動をかかわらせながら、運動を分割することができる(イメージを分割する換喩)。それゆえグリフィスのモンタージュは換喩的であり、エイゼンシュテインのそれは隠喩的であるということは正しいように思われる。>*1、*2
<われわれが融解作用について語るのは、単に技術的手段としてのオーバーラップを考えてのことではなく、エイゼンシュテインの用語で説明される情動的な融解作用を考えるからである。なぜなら二つの異なるイメージは同じ倍音的なものをそなえ、こうして隠喩を構成することがありうるからである。隠喩はまさにイメージおける倍音的なものによって定義される。>*3
こうしてエイゼンシュテインのモンタージュは隠喩的であり、それは融解的、倍音的でもあると特徴づけられたうえで、ドゥルーズは『ストライキ』(1924)を「映画における正真正銘の隠喩の例」として具体的に論評する。
<エイゼンシュタインの『ストライキ』に、映画における正真正銘の隠喩の例を見ることができる。経営者側の大物スパイは、まず後ろ姿で、さかさまに登場する。二つの巨大な足が二つの管のように、スクリーンの上の方の水たまりまで伸びている。ついで雲の中に突き刺さるような工場の二つの煙突が見える。これは二つの反転したイメージによる隠喩である。水たまりと雲、足と煙突は同じ倍音的なものをもつ。これはモンタージュによる隠喩である。>*4
『ドクトル・マブセ』(フリッツ・ラング、1922)のソ連版の製作編集作業で映画界入りした青年監督のデビュー作の陰謀活劇ならではのスパイ描写を、ドゥルーズは「二つの反転したイメージ」「同じ倍音的なもの」からなる「映画における正真正銘の隠喩の例」として、一見大真面目に賞賛しているかのようである。
ところが「映画における正真正銘の隠喩の例」である『ストライキ』の「モンタージュによる隠喩」を論じたその直後に、とつぜん「あるアメリカ映画」の一場面をドゥルーズは呼び出すと、それまでの論旨を180度ひっくり返してしまうのだ。
<しかし映画はまたイメージにおいて、モンタージュなしに隠喩に到達することがある。この点に関しては、映画史上最も美しい隠喩をわれわれはあるアメリカ映画に見ることができる。キートンの『海底王キートン』である。主人公は潜水服姿で、窒息し、瀕死状態で、潜水服の中で溺れかかっているが、一人の若い娘によって、あらっぽい仕方で救われる。彼女は男をしっかりつかまえるために股の間に挟み、何とかナイフの一撃で潜水服を裂くと、そこから滝のように水がしたたる。一つのイメージが、帝王切開とあふれる羊水とともに出産の荒々しい隠喩を、こんなにもまざまざと見せつけたことはいまだかってない。>*5
「映画における正真正銘の隠喩の例」であるエイゼンシュテインの『ストライキ』の直後に「映画史上最も美しい隠喩」としてキートンの『海底王キートン』(1924)の一場面を唐突にモンタージュさせる手つきの鮮やかさ。
1924年のソ連映画とアメリカ映画が「隠喩」の一言で当然のようにつなげて並べて比べられてしまうのだが、これほど暴力的なモンタージュはないともいえよう。
ここでのジル・ドゥルーズは、その意地悪な芸風において、まるで淀川長治そっくりだ。
「映画における正真正銘の隠喩の例」と「映画史上最も美しい隠喩」の並列。
それは、エイゼンシュテインとキートン(共同監督ドナルド・クリスプ!)との映画的資質の差異を、具体例によってあからさまに示すという点で意地悪というだけではない。
ロマン・ヤコブソンによる、映画における「隠喩的/換喩的」の区別から始めて、グリフィスのモンタージュが換喩的、エイゼンシュテインのモンタージュが隠喩的という、それまでのロシア・フォルマリズム的な「隠喩的モンタージュ論」を、「モンタージュなしに隠喩に到達する」「あるアメリカ映画」によってご破算にしている、という点においても、ロシア的・ソ連的モンタージュ論全体に対して意地悪というべきなのだ。
しかも、ドゥルーズがキートンから引き合いに出している例が、同時代のソ連のヤコブソン、エイゼンシュテインの「隣人」ミハイル・バフチンのカーニバル論そのままの「死と再生のイメージ」なのだから、その意地悪さはじつに念が入っている。
アンゲロプロス抜きに「時間イメージ」を論じるなど、映画論としては納得できない点の多い『シネマ』だが*6、この『ストライキ』と『海底王キートン』をつなげた「淀長節モンタージュ」(?!)は、文句なく素晴らしいと思う。
ただし、エイゼンシュテインに公平を期すために、隠喩的とされた『ストライキ』は、ドキュメンタリータッチの陰謀/群衆活劇として「換喩的ダイナミズム」に満ちあふれた作品であることを強調しておこう。
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*1:ジル・ドゥルーズ(宇野邦一ほか訳)『シネマ2*時間イメージ』、224頁、法政大学出版局、2006
*2:ここでのドゥルーズによるヤコブソンの援用は、あからさまに構造言語学的なものであり、その隠喩/換喩の二分法の機械的な適用は「第2章 イメージと記号の再検討」におけるクリスチャン・メッツの「大連辞論」に対する批判的イチャモン、蓮實重彦のいうところの「ドゥルーズによるクリスチャン・メッツの虐殺」の不当さを大いに疑わせるものだ。(蓮實重彦『「知」的放蕩論序説』、196−201頁、河出書房新社、2002)
*5:ドゥルーズ同書、225頁。ただし『海底王キートン』で潜水服をナイフで切り裂くのは潜水服内のキートン自身。「彼女は男をしっかりつかまえるために股の間に挟み、何とかナイフの一撃で潜水服を裂く」という記述は美しい記憶違い。
*6:『シネマ』の最も納得しがたい点は<この研究は、ひとつの分類学taxinomieであり、イメージと記号についての分類classificationの試みである>と「序文」で宣言しておきながら、その分類の基準が恣意的、類型的なところだろう。個々のイメージ、記号についての分析・記述がどれほど素晴らしくても、大前提となる分類の仕方があれでは、すべてが台無しになりかねない。少なくとも良心的な日本人研究者ならば、中尾佐助『分類の発想』、池田清彦『分類という思想』、三中信宏『分類思考の世界』といった本を参照しながら、『シネマ』の分類学的な杜撰さを了解したうえで、その映画論としての功罪、可能性と限界をきちんと論じるようにしていただきたいものである。同時代のフランス国内に限っても、『言葉と物』や『モードの体系』と較べてみると、『シネマ』の分類は大雑把と言わざるを得ない。この大雑把さには、ひょっとしたらフェリックス・ガタリ(グァタリ?)の悪影響があるのだろうか?