『裸女と殺人迷路』(小野田嘉幹、1959)

 

 
(以下ネタバレ全開)
『裸女と殺人迷路』は、女の殺しを命じる丹波哲郎のアップから始まる。
「ウスノロ」御木本伸介に射殺させた(半)裸女の死体を丹波哲郎が川に蹴り落とすと、音楽が流れ出し「裸女と殺人迷路」という煽情的なタイトルが浮かび上がるオープニングがまずいい。
丹波哲郎は「カスバ」と呼ばれる城北新地ネオン街を根城にするギャングで、仲間には「ウスノロ」御木本伸介の他に、バーのマスター沢井三郎がいるが、そのお色気マダム若杉嘉津子をめぐって、御木本伸介と沢井三郎とは泥沼の三角関係にある。
そこへ15年の刑期を終えた昔の強盗仲間の清水将夫が「下着喫茶」で若手刑事・舟橋元の尾行をまいてカスバに現れると、さっそく野球場売上金強奪計画を提案し、新メンバーに刑務所生まれで殺しの前科のある和田桂之助*1を推薦する。
前科を隠してストリップ小屋で働きながら、「ストリップダンサー」三ツ矢歌子と恋仲になっているトランペッター見習いの和田桂之助を見て、清水将夫はいったん勧誘をあきらめる。しかし、丹波哲郎が和田桂之助の前科を職場に密告して強引に仲間入りさせると、清水将夫も和田桂之助を球場警備員として潜入させ、襲撃計画を完成させる。
決行直前、ストリップを辞めた三ツ矢歌子は和田桂之助のアパートを突き止めると一緒に田舎で暮らそうと誘う。
一方、若杉嘉津子と御木本伸介との関係に逆上した沢井三郎は、警察へ密告しようとするところを清水将夫に押えられ、丹波哲郎らにリンチで撲殺される。
清水将夫は和田桂之助のアパートで帰郷準備をする三ツ矢歌子に和田桂之助の女関係を讒言して、三ツ矢歌子がひとりだけで帰郷するよう仕向ける。
球場襲撃は翌日あらためて決行するのだが、この球場通路での現金強奪場面の鮮やかなまでのあっけなさ、囮の逃走によるカーチェイスや、現金運び出しの伏線どおりの手際よさには、いかにも「B級職人」ならでは腕の良さと心意気があふれている。
死後投函の沢井三郎による密告状で、警察は4人を緊急手配、4人はカスバの保育園の倉庫に現金とともに閉じこもり身動きが取れない。
このシークエンスでは保育園のオルガンと鐘の音が音響効果として4人の閉塞感を増幅していくが、とりわけ鐘の音が鳴るタイミングが絶妙きわまりない。
台風が接近し、強風が吹き荒れるなか、御木本伸介がマダムの若杉嘉津子を恋しいあまり倉庫から飛び出し、彼女のバーに向かい、結局は若杉嘉津子に抱かれたまま「夫の仇」として彼女に刺殺されてしまう。
囮捜査のため若手刑事・舟橋元にカスバに呼ばれた三ツ矢歌子は、和田桂之助に渡したお守りから隠れ家の場所に気づくと、とつぜん鳴り出した保育園の鐘の音に気をとられた若手刑事・舟橋元の尾行を振り切る。
鐘の音は、御木本伸介と丹波哲郎清水将夫とが争って飛び出した勢いで鳴り出したものが、若手刑事・舟橋元の駆けつけたときには、強風のせいで無人で揺れて続け、金属音を発している。
三ツ矢歌子は舟橋元の尾行をまくと、強風を横切り、一直線に倉庫を目指して進んでいく。
この無表情のまま早足で歩く姿の三ツ矢歌子のショットは、まるで鈴木清順映画の野川由美子のような無機質と情熱とが拮抗する美しさを帯びていて、見る者を一瞬うろたえさせる。
もはやB級職人の技巧の枠に納まりきらない画面展開に息を飲むと、次は倉庫の中のショットになり、丹波哲郎清水将夫が御木本伸介を追って出たあと、和田桂之助ひとりが内部に残されている。
そのドアが突然開くと外はいつの間にか大雨になっていて、ずぶ濡れになった三ツ矢歌子が現れ、さっきまでの無機質な冷たい表情とは打って変わった濡れた視線で和田桂之助を見つめるのだ。
信じられない突然の降雨による時間の圧縮と劇的展開。いや、これは三ツ矢歌子の和田桂之助との再会への執念が呼び寄せた、時空を超越した雨なのだ。
その水滴は、ショットとショットの隙間に潜む非持続的、無時間的な空間を垂直に貫いて三ツ矢の全身をずぶ濡れにしたに違いないのだ。
突然のドアの開閉と大雨と視線の三重の不意撃ちが、B級犯罪メロドラマを逸脱した映画的強度をここでの画面に与えている。
その突然の強度にたじろいだかのように、和田桂之助は一緒に逃げようとすがる三ツ矢歌子を警察に雇われた囮と罵り追い返してしまう。
和田桂之助はすぐに三ツ矢歌子を追いかけ直すが、彼女の姿はもう見えない。
和田桂之助と三ツ矢歌子が出て行って無人になった倉庫に、丹波哲郎清水将夫が戻ってくる。今度は、強盗の主犯格ふたりが金と主導権をめぐって殴りあいになる。
争いの最中に和田桂之助が戻ってきて清水将夫に加勢するが、拳銃をもった丹波哲郎が現金入りのトランクを抱えて倉庫を飛び出し、警察との台風の中の銃撃戦の末、射殺される。
そこで開いたトランクの中身は、清水将夫があらかじめ札束とすり替えていた新聞紙の束しか入ってない。
倉庫に残った清水将夫は和田桂之助とふたりで金を山分けしようとするが、三ツ矢歌子を追いかける決意をした和田桂之助は清水将夫に別れを告げ、金を持たずにひとり外へ飛び出す。
和田桂之助は威嚇射撃で負傷しながら、ダンサー仲間の万里昌代に三ツ矢歌子が東京駅にいることを聞き出すと、線路沿いに血まみれの逃走劇を続ける。
和田桂之助の逃走をラジオのニュースで聞いた三ツ矢歌子は、恋人との再会を求めて東京駅から線路を逆走する。
傷心のふたりが線路上で抱き合ったところで、警察につかまり保護される。
負傷した和田桂之助の生命は助かり、刑期は2年程度で済むと、三ツ矢歌子に若手刑事・舟橋元が告げる。
ひとり現金を抱えた清水将夫は、カスバをうまく脱出するのだが、若い恋人たち二人の様子が気になって、逃げるに逃げられない。
見物人に混ざって二人の無事を遠くから確認した清水将夫はようやく立ち去ろうとするが、最初に「下着喫茶」で尾行をまかれた若手刑事・舟橋元に気づかれると、無言のまま手錠をかけられる。
救急車の中で横たわる和田桂之助と三ツ矢の表情には安堵が満ちたところで、エンドマーク。

日本映画史上画期的な銃撃戦と三原葉子の妖艶舞踊が印象的な『女奴隷船』(1960)において、説話論的効率性という点でやや大味だった小野田嘉幹の演出は、B級犯罪活劇である本作ではほぼ完璧に近い。
アイスクリーム工場のドライアイスや「キチガイ」の元トラック運転手の不意の出現などの細部が、伏線として実にムダなく機能している。また野球場でのオーバーラップつなぎは、映画学校での時間経過表現の例として最高の教材になるだろう。
黒沢治安デザインのカスバ街のセットは、超低予算のベニヤ板かボール紙(?)の安普請ながらも、2階建てが基本のつくりで、警察のガサ入れなどのスペクタクルは、2階の窓からの視線による俯瞰ショットで捉えている。
清水将夫の居候部屋、和田桂之助のアパートはともに2階で出窓があって、それらが画面内に視線の高低差を導入している。
たとえば泥酔した和田桂之助が清水将夫の部屋を訪ねる場面、窓際に座った清水に和田は前科を支配人に密告されたことを嘆き訴えると、次のショットでは下の路地から清水を見上げる丹波哲郎の視線を俯瞰で捉えていて、密告犯の正体を無言で示している。
清水はすぐに駆け下りて丹波に詰め寄るが、丹波はもちろん詰問をはぐらかし、前科者としての和田を推薦したのは清水ではないかと切り返す。
このように丹波・清水・和田との対立の構図には最初から視線の高低差が関与している。
この視線の高低差は立った者と座った者、横たわった者とのあいだの微妙なヴァリエーションに分岐していき、それは若杉と御木本との間では、犯す者と犯される者、刺す者と刺される者との残酷なヒエラルキーへと到達する。
また保育園の倉庫での人の出入り・すれ違うタイミングと鐘の音響効果の見事さは、まるでエルンスト・ルビッチフリッツ・ラングをあわせたかのような絶妙な緊迫感にあふれている。
鐘の音の使用法だが、最初はオルガンや園児の声とともに、倉庫の外部の背景音の一部として使われる。次に倉庫内部で4人の対立が激化して爆発寸前というタイミングで鐘の連打が画面に介入して、全員の目線と動作とをストップモーションさせる句読点=音記号として文法的に作用する。3回目の鐘の響きは音記号としてさらに重層的に作用している。それはまず御木本・丹波・清水の倉庫からの飛び出し(和田のみ倉庫に残留)を表現するだけでなく、三ツ矢を若手刑事・舟橋元の尾行から振り切って和田と再会させるのだから、説話論的な変換項としても重要な働きをしていることになる。
それはまた、強風のなかひとりで勝手に揺れる物質イマージュ、視覚記号としても独立した価値をもち、この3番目の鐘はいわば非人称の音記号の発信源としての姿を画面に露呈させ、あの突然の大雨の前奏ないし「暗き先触れ」(ドゥルーズ)として強風のなか揺れているのだ。
そうしてあの突然の大雨になる。
いつ降り始めていつ降りやんだかもわからない、時空を超越した雨。
いや、あのドアが開いたとたんに出現する雨とずぶ濡れの三ツ矢歌子の濡れた視線は、時空から超越したというよりもむしろ逸脱したイマージュというべきものだろう。
その映画的強度に比べれば、視線の高低差による演出の工夫や効率的な説話展開、画面展開も、たいしたことではなく思えてくるぐらい、それは怖ろしい。
最後の清水の逮捕劇についても触れておこう。
これは尾行に失敗し続けた若手刑事・舟橋元が、最後にようやく失敗分を回復して、説話論的な均衡状態を回復したというだけのことで、警察びいきの道徳訓・勧善懲悪イデオロギーとはまったく無縁のものだろう。
手錠をかけられるときの清水の諦念とはまったく無縁な凶暴な表情が、この逮捕劇が尾行・逃亡の成功/失敗という主題系と説話系の均衡に関する、いわばシステマティックな帳尻合わせにすぎないことを告げている。
キワモノ企画と早撮りと低予算が強調されがちな新東宝だが、撮影所としての水準は驚くほど高い。石井輝男中川信夫も、新東宝時代の作品が最も充実しているし、小野田嘉幹にしても新東宝だからこそ、この『裸女と殺人迷路』のようなB級犯罪メロドラマでありつつそれを超越した傑作が撮れたのではないだろうか。
東宝畏るべし、である。
 

女奴隷船 [DVD]

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異端の映画史 新東宝の世界 (映画秘宝COLLECTION)

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新東宝は“映画の宝庫”だった

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差異と反復〈上〉 (河出文庫)

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差異と反復〈下〉 (河出文庫)

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*1:和田孝の旧芸名

『喜劇 男の子守唄』(前田陽一、1972)

仮装と宙吊り、この2つが前田陽一作品に一貫して見られる主題系である。
仮装の主題は『七つの顔の女』(1969)の岩下志麻の華麗な変装をはじめとして、『喜劇 右向け左!』(1970)の自衛隊体験入隊、『喜劇 命のお値段』(1971)のニセ医者、『喜劇 昨日の敵は今日も敵』(1971)の精神病患者による政治テロリスト、『喜劇 家族同盟』(1983)のニセ家族、等々、枚挙のいとまがない。
前田陽一が好んで題材にする犯罪コメディにおいて、仮装・変装による身分の偽装工作は、犯罪者にとって欠かすことのできない行動様式である。
宙吊りの主題はどうだろう。
仮装という身振りそのものが、自分自身のアイデンティティーを宙吊りにするものであることは、ここではおいておこう。
売春防止法と赤線との関係を描いた『にっぽんぱらだいす』(1964)が、『赤線地帯』(溝口健二、1956)と最も違うところは、『にっぽんぱらだいす』が売春防止法施行後の、赤線が完全に閉店するまでの3年間の転業期間という「宙吊り」の期間をその中心に据えているところだろう。
急死した父・加東大介の跡を継いで、赤線をトルコ風呂へと転業しようと画策する、にわか経営者の長門裕之は、仮装と宙吊りという主題を「赤線地帯」に持ち込んでいるのだ。
宙吊りの主題は『ちんころ海女っこ』(1965)の「御赦免花」の開花に対する浜村純と中村晃子の狂喜ぶりからも読みとることができるだろう。
江戸時代の流刑囚の子孫とされる浜村純と中村晃子は、数十年に一度しか咲かないという恩赦の徴しである御赦免花が咲くのを見て、初めてその宙吊り状態から解放される。「御赦免花」の開花に対するふたりの狂喜乱舞から、その宙吊り感の底深さを、逆に読み取ることができるのだ。
宙吊りの主題は、具体的な身振りとしても、登場人物の上に現れる。
『七つの顔の女』の有島一郎は、監獄内の煙突に登ると、ヘリコプターに宙吊りにされてあっさりと脱獄する。かと思えば、仲間を裏切って金庫破りを無断で決行し、逆に金庫の中に閉じ込められてしまう。
金庫の中で身動きのできないまま、仲間の救出を待ち続ける有島一郎の姿勢・状態もまた「宙吊り」と呼ぶべきものだろう(金庫からの救出場面で、有島一郎は再びロープで宙吊りにされる)。
『濡れた逢い引き』(1967)の郵便局長・谷幹一は、「情死」した田辺昭知と加賀まりこのどちらの葬列にも着いていけず、その態度を宙吊りにしたままエンドマークを迎える。
前田陽一においてはしかし、宙吊りとは、どっちつかずの中途半端な状態ではない。それは、前田陽一が愛用した下ネタジョーク「金冷法」のように、極端な寒さと熱さとのあいだを行き来することで睾丸の機能を鍛える、二極間の過激な往復運動でもあるのだ。*1
中原弓彦小林信彦)と共同脚本の『進め!ジャガーズ 敵前上陸』(1968)では、雪山のスキー場での暗殺劇から、硫黄島での銃撃戦、内田朝雄の『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール、1965)ばりの自爆から『硫黄島の砂』(アラン・ドワン、1949)の擂鉢山「国旗」掲揚場面にパンでつないだ挙句、最後は三遊亭円楽の「星の王子様」でまとめるのだから、まさに全編「金冷法」的ギャグのオンパレードというべきだろう。
こうした仮装と宙吊りという前田陽一的主題系が、怒号とビンタと炎という、前田の師である渋谷実的主題系と奇跡的に交錯したのが、傑作『喜劇 男の子守唄』である。
バスの窓から東京のビル街を捉えた映像に「今日、3月10日は東京大空襲の日だ」というフランキー堺のセリフが重なり、バスの後部座席にチンドン屋の仮装をしたフランキーと男の子の姿が映る冒頭の場面から、高度成長した戦後の東京の風景に対する激しい異化の意志が伺われる。
フランキーは、焼け跡育ちの戦争孤児で、男の子は、フランキーの面倒を見てくれたパンパン「ラクチョウのお竜」の遺児・太郎で、フランキーが養子として育てている。戦争か大地震が起これば、もう一度焼け跡時代が来るというのが口癖のフランキーは、昼はチンドン屋、夜は貸し衣装の和服姿の中年ホストで日銭を稼ぐ、その日暮らしの生活で、時代遅れの焼け跡派の生き残りとして、まさに仮装と宙吊りの主題を体現する存在である。
フランキーのボロアパートの窓の真向かいのアパートに、倍賞美津子演じる「三流ホステス」が住んでいて、太郎は彼女になついているが、真向かい同士のフランキーと倍賞は、もちろんお定まりの犬猿の仲だ。(フランキーは倍賞の着替えを覗こうとして、窓と窓の間に宙吊りになって転落する)。
そんなフランキーに「ラクチョウのお竜」の昔のパンパン仲間で、今は金貸しとして成功しているミヤコ蝶々が訪ねてきて、太郎を養子にほしいと言われる。
フランキーは、この養子の申し込みを断るために、馴染みの婦警・生田悦子に母親役を頼むが、彼女は急用で来れなくなり、仕方なく倍賞美津子に、母親兼内妻役を急遽演じてもらうことになる。(仮装の主題)。
「三流ホステス」扱いにカチンときた倍賞美津子は、ミヤコ蝶々を成金の「クソババア」呼ばわりして、女のバトルがヒートアップしかけたところへ「もうひとりのかあちゃん生田悦子が現れ、どっちが本妻でどっちが2号か、フランキーは大慌て。2号呼ばわりされた倍賞美津子は怒って隣の窓へ飛び移り、自分の部屋に帰ってしまう。
太郎の養子の件は、ミヤコ蝶々が1億円の債権のかたに差し押さえたスーパーマーケットの権利を、フランキーと焼け跡仲間連中が、300万円の頭金で手に入れるための「担保物件」として、あらためて商談成立となり、フランキーは、かって焼け跡の「青空マーケット」があった場所のスーパーマーケットの新社長に就任が決まるが、倍賞美津子は子供を売ってスーパーを買ったのかと、フランキーにビンタを食らわす。
その社長就任式の日、太郎がミヤコ蝶々の家から失踪してしまう。
どうやら倍賞美津子に連れ去られて、彼女と一緒にいるらしい。フランキーは有線放送で流れる3人の愛唱歌『星の流れに』のリクエスト元から、ふたりの居所を突き止める。そこへミヤコ蝶々生田悦子も駆けつけるが、酔っ払った倍賞美津子が、生田悦子を「メスポリ」、ミヤコ蝶々を「人買いババア」と呼びつけると、ミヤコ蝶々も負けじと、倍賞にドテッパラに穴開けて新幹線通すぞ、と威勢のいい啖呵を返しているところへ、スーパーマーケットが火事だという知らせが来る。
1億円の債権のかたに、スーパーを取られた元店主の森川信が酔って点けた炎が、店全体に広がっている。その炎を、フランキーに、ミッキー安川田端義夫太宰久雄ら、焼け跡仲間が見守っている様子は、空にB29が飛んでいないだけで、かっての東京大空襲の再現である。
戦争孤児をめぐる、ビンタと罵声の応酬から失火による炎。
これはまさに前田陽一の師・渋谷実の大傑作『やっさもっさ』(1953)の20年後の反復/変奏である。この「青空マーケット」の炎は、『やっさもっさ』で炎上した日米混血児収容施設「双葉園」新館の炎と共に、東京大空襲の炎を映画的に反復しているのだ。*2
全焼したスーパーマーケットの焼け跡で開かれる、焚き火を囲んでの焼け跡仲間による、当時の服装に戻っての宴会場面では、前田陽一的な仮装と宙吊りと渋谷実的な炎の主題系との見事な融合が見られて、それだけでも感動的だが、そこに黄色いスカーフのパンパン姿の倍賞美津子と浮浪児姿の太郎が現れることで、その感動は渋谷実をも超えて、マキノ雅弘(正博)へとつながっていくのだ。
焼け跡の回想場面で、戦争孤児だったフランキー堺を、「ラクチョウのお竜」の遺児・太郎が一人二役で演じ、黄色いスカーフのパンパン「ラクチョウのお竜」を倍賞美津子一人二役で演じていたのだが、最後の焼け跡場面に来て、このマキノ的一人二役の「そっくり」と、前田陽一的仮装との融合がもたらす感動を、どう表現したらいいのだろうか。
しかも、ここで歌われる『星の流れに』は、マキノ正博版『肉体の門』(1948)のヒロイン轟夕起子が奔放に歌い踊っていた曲でもあるのだ。*3
前田陽一は『喜劇 男の子守唄』において、自らの仮装の主題系に、渋谷実の「炎」、マキノ雅弘の「一人二役」をミックスすることによって、戦後社会の風景そのものを宙吊りにしてしまったのだ。
仮装による宙吊りに、渋谷実のビンタと罵声と炎、そしてマキノの一人二役による「そっくり」とのアナーキーな結合。ここには、前田陽一による戦後映画の主題論的な総決算というべきものがある。
『喜劇 男の子守唄』は、渋谷実『やっさもっさ』と共に、速やかなDVD、Blu−rayの発売を松竹に希望したい。
(2011年1月1日初出)

前田陽一監督作品 SELECTION(3枚組) [DVD]

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進め!ジャガーズ 敵前上陸 [DVD]

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*1:「金冷法」は前田陽一が脚本に参加した『甘い夜の果て』(吉田喜重、1961)でもセリフに使われている。このセリフを吉田喜重が書いたとは考えにくい。

*2:渋谷実『やっさもっさ』の凄さは、『ゴジラ』(本多猪四郎、1954)の大火災を凌ぐその白い炎が、東京大空襲の炎を通時的に反復しているだけではなく、さらに朝鮮半島での戦火の炎を共時的に反映しているところだろう。倉田マユミが熱演するパンパン「バズーカお時」は、父親不明のまま産んだ混血児トムを、朝鮮で全身火傷を負って死亡した黒人兵シモンとの子供として引き取り育てることで、渋谷実ならではの反日本的な「気違い母性」を体現している。また後年のイビリ役のイメージからはとても考えにくいが、保母役の山岡久乃が、園長・淡島千景よりも園児養育に強い情熱を注ぎ、不良外人バイヤー相手のサイドビジネスに熱中する淡島園長に、ギリギリのローキーの闇の中で対峙して、園児へのより真剣な愛情を純真な眼差しで訴える『やっさもっさ』は、戦後「松竹フェミニズム」の最高傑作といえるだろう。(なお戦前「松竹フェミニズム」の最高傑作は『暁の合唱』(清水宏、1941)であり、共に脚本=脚色は斎藤良輔である。)

*3:戦後の青空マーケットの回想場面は、鈴木清順版『肉体の門』(1964)を連想させる。また『肉体の門』のパンパンたちの縄張りは、有楽町(ラクチョウ)のガード下である。なお轟夕起子が歌った『星の流れ』は、『男の子守唄』で菊池章子本人が歌ったオリジナル曲とは歌詞が相当変えられていたと思う。http://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7aghttp://www.youtube.com/watch?v=bzCHVuaKcTk

『乳房よ永遠なれ』(田中絹代、1955)



maplecat-eveさんの日記が紹介しているビクトル・エリセ白紙委任状のセレクションの中に、田中絹代監督作品『乳房よ永遠なれ』が日本映画として1本だけ選ばれている。http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20140114*1
論じられることの少ないこの傑作について、2009年NFC田中絹代特集の際に書いた文章を改稿・再掲し、あらためて「映画監督」田中絹代の偉大さをアピールしておきたい。*2,*3
『乳房よ永遠なれ』(田中絹代、1955、日活、モノクロ、スタンダードサイズ)
『乳房よ永遠なれ』は、田中澄江脚本による監督第3作。木下恵介脚本による監督第1作『恋文』(1953)、斎藤良輔小津安二郎脚本による第2作『月は上りぬ』では、いくつかの優れたショットをもちながら、まだ習作の感じが抜け切れなかった監督・田中絹代が、第3作目にして、同性・同姓・同世代の脚本家のサポートを得て、見事な演出力を発揮した傑作。
 
(以下、ネタバレを含む)


北海道の「女流歌人」で、バツイチ、一男一女の母で、乳癌による死を前にして「恋心7・歌心2・親心1」の割合(?)で生き抜いたヒロインを、月丘夢路が優雅なエロティシズムを漂わせながら、悲壮感をまったく表に出さずに演じているのがまた素晴らしい。
札幌市内や、酪農地帯など、北海道ロケを全面的におこなっているのだが、そのロケとセット撮影部分とが巧みにつながって違和感がないのは、『あにいもうと』(1953)では助監督修行もさせられた「アドバイザー」成瀬巳喜男からの学習成果の現れだろう。
離婚後に出戻った実家の馬具店の階段下の廊下のショットや、入院後の放射線病棟の廊下のさりげないショットは、小津、成瀬、清水作品から学んだものだろうが、句読点の役割を果たしていて、不自然さをまったく感じさせない。
そして最も素晴らしいのは、女学生時代からの親友・杉葉子の夫で、短歌仲間の森雅之への恋心の描き方である。
離婚後、弟・大坂志郎の結婚式の日に、実家に居場所のない月丘夢路は、娘を連れて親友・杉葉子の家を訪ねるが、杉は所用で外出し、家には入浴中だった夫・森雅之月丘夢路と娘の三人が残される。*4
森と月丘のふたりは、書斎でアルバムを広げながら、森・杉夫婦の洞爺湖への新婚旅行の写真や、月丘、森の結婚前の写真を見ている。
そこで月丘夢路森雅之への昔からの想いを打ち明けようとするのだが、それを知ってか知らずか、森雅之は書斎をすっと抜け出すと、台所のストーブの横で眠っている月丘の娘を揺り起こしに行く。
窓の外にはいつのまにか雨が降っていて、森は傘を差して月丘と娘を川べりにあるバス停留所まで送ると、別れ際に月丘の短歌を東京の新人賞に応募することを告げて、バスに乗った月丘たちを見送る。
雨の降る川べりの道をバス停留所まで森が月丘親子と傘を差して歩く姿といい、バス停から傘を差した森が雨の中を月丘親子が乗ったバスを見送るショットといい、ここでの演出、画面展開はあまりにも素晴らしい。
しかもこの雨のバス停には伏線があって、じつは最初に杉葉子が出かけるとき、まだ晴れているその同じバス停で杉葉子がバスに駆け乗るショットが一瞬映っていて、その短い鮮やかな運動感の残余が、余計この同じバス停の雨の情感を増幅する構成になっているのだから、これはもう巨匠クラスの堂々たる仕事ぶりといっていいのではないだろうか。しかも、この直後に森はあっさり病死してしまい、森が応募した月丘の短歌が東京で新人賞を受賞するのだから、この雨の場面は説話上も重要な転換点になっていたのだ。
新人賞受賞で話題になり歌人として成功しながらも病気が進行し、乳癌の切除手術後は、東京の新聞記者・葉山良二との「最後の恋」が物語の中心になるのだが、月丘夢路が葉山良二との病室での最初の会見前に、月丘が胸パットを入れブラジャーを着けて「完全武装」する描写が醸し出す苦いエロティシズムは、まさに女優監督と主演女優との共犯関係のなせる業といえるだろう。
月丘夢路と葉山良二とはやがて病室のベッドの上で結ばれるのだが、その直前に月丘が体験する、霊安室へ遺体を泣きながら運ぶ一行の後をついて夜の廊下を歩く、ホラー映画のような夢うつつの場面は、中川信夫『亡霊怪猫屋敷』(1958)の夜の病院の場面を一瞬連想させて鬼気迫るものがある。
この映画の演出のもうひとつ特徴に、鏡の使用法がある。
劇中、月丘夢路が手鏡を見る場面が何度かあるのだが、カメラがそのとき鏡の中に見出すのは月丘の顔ではなく、その鏡の反映によって月丘が見ている月丘の背後または左右の人物である、という屈折した視線=鏡像装置として鏡を使用しているのだ。
最後に、葉山良二と別れる場面で、月丘の持つ手鏡に一瞬、月丘の左目が映るが、それは葉山の鏡像と入れ替わりになるので、ここでは手鏡によって、月丘の左目のアップ(見る側)と葉山良二のウェストショット(見られる側)との切り返しがおこなわれている、というべきだろう。手鏡に屈折・反映した、末期の乳癌の女性患者の視線の表象。
とにかくこれは驚くべき傑作だ。

島津保次郎清水宏小津安二郎五所平之助溝口健二成瀬巳喜男といった監督たちの現場で、映画の知識を学んできた田中絹代の演出力は、女性監督としては、たとえばアニエス・ヴァルダソフィア・コッポラよりは数段上であるのは間違いない。
再評価をもっと進めるためにも、たとえばアイダ・ルピノ×田中絹代映画祭といった、日米女優=監督対決企画なんかを、ぜひ実現してほしいものだ。
(2014年1月14日初出)

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*1:ビクトル・エリセはしかし、いったいどこで、どのようなプリントで、この作品を見たのだろうか。日本国外に、外国語字幕付きのプリントが存在するとは思えないのだが。

*2:加藤幹郎氏の『乳房よ永遠なれ』論は必読。映画学者による模範的で素晴らしい批評。加藤幹郎『日本映画論1933‐2007』160−170頁、岩波書店、2011年

*3:CineMagaziNet!Essays(2016年2月14日)に興味深い『乳房よ永遠なれ』についての論考が加わった。http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN19/PDF/kinuyo_article2015.pdf

*4:歌の会で、一人先に帰る月丘と一人だけ遅れてきた森のふたりは、杉を会場に残したまま、札幌街頭ロケで会話を交わし、三人が同一画面内で一緒になることはない。森・杉夫妻の家を訪ねる場面でも、森は入浴中で、浴室の森と外出する杉と月丘とは、絶妙なカット割りですれ違ったまま、同一画面内で三人一緒に映ることはない。月丘、森、杉の三人は、アルバムの写真の中以外では決して一緒になることはないまま、その微妙な三角関係を維持する。そして森の死後、森が入っていた浴槽に月丘が入浴しながら、森への思慕を杉に告白し「昇天」する場面で、その官能性は頂点に達するのだ。これほど微妙な友愛と嫉妬と官能と死の影とが入り混じった「三角関係」の描写は、他にはなかなか思い当たらない。

『エクソシスト3』(1990)

黒沢清・篠崎誠が『CURE』(黒沢清、1997)の元ネタの1本として絶賛するサイコホラーの傑作(黒沢清『恐怖の映画史』青土社、2003年、271-78頁参照)。

シリーズ第1作でリー・J・コッブが演じていたキンダーマン警部役をジョージ・C・スコット、悪魔祓いで死んだはずのダミアン・カラス神父役をブラッド・ダリフが引継ぐ。
ジョージタウンで起こる連続首切り殺人事件を捜査中、事件現場の病院の隔離病棟で、キンダーマン警部(ジョージ・C・スコット)は事件現場の病院の隔離病棟で、15年前に悪魔祓いで死んだはずのダミアン・カラス神父に再会する。しかし、そのカラス神父そっくりの精神病患者(ブラッド・ダリフ)は、自分のことを15年前に処刑された連続殺人鬼だと名乗り、複数の実行犯による今回の連続殺人についても、自分の犯行だと主張し、その手口(筋弛緩剤・血抜き・首切り等)の詳細を警部に語るのだった…。

ジョセフ・ロージー作品の名手ジェリー・フィッシャーを撮影監督に起用した、ウィリアム・ピーター・ブラッティによる演出は、まるでリチャード・フライシャーサミュエル・フラーを合わせたように素晴らしい。凶行や死体そのものを直接的に映すのではなく、その直前・直後の状況を詳細に描くことによって、悪夢のような恐怖を全編に醸し出すことに成功している。
とりわけ『CURE』のラストシーンを凌ぐといってもいい、夜勤の看護師が病院の廊下で殺人鬼に襲われるプロセスを描いた場面はあまりにも素晴らしい。
この場面の素晴らしさ、恐ろしさは、それが病院の長い廊下を縦構図のフィックスのロングショットで捉えることによって、一種のトンネル、さらには「直線状の迷路」として提示していることにある。
その縦構図で示された廊下の一番奥には警備の警官(守衛?)が出入りしているのが遠くに見え、画面右手の中ほどに位置するナースステーション、奇妙な物音が聞こえる画面左手の手前の3つのドアと、縦構図の画面の中で絶妙な位置関係・距離関係・遠近感を形成している。
この廊下が一種のトンネルとなっているというのは、ここで廊下は無人のナースステーション以外に逃げ場がない、外部と遮断された無人の閉鎖空間となっているからで、じっさい看護師が物音のする左手のドアに入ると警備の警官が「本当にこれ以上はありえないってタイミングで奥に消える」(篠崎誠、前掲書)。
室内を確認した看護師は無人の閉鎖空間となった廊下に戻りドアの鍵を掛けるのだが、そのドアに背中を向けた瞬間、鍵を掛けたはずのドアから白い布で全身を覆った人影が、大型の植木バサミを振りかざして彼女に近寄るのだから、この廊下を映画的空間として考えると、殺人鬼が側溝に潜むトンネルとほぼ同じものといっていいだろう。
この廊下が「直線状の迷路」になっているというのは、すなわち、その縦構図の画面上で、カメラから一番遠い奥の人の動きは直接はっきり見えるのに対して、カメラの一番近くに位置する、奇妙な物音が聞こえてくる左手のドアは、いわば画面の外側(オフスペース)につながっていて、そのオフスペースから聞こえる音源を確かめるためには、ドアを開けてカットを変えなければならないという、映画的知覚の遠近感上の微妙な混乱を生じさせているからだ(遠くより近くが知覚困難)。
ドアを開ける看護師の手のアップから、カメラが左手の部屋の中に入ると、奇妙な物音の音源はコップの中の氷が溶ける音だとわかり一安心する。
ここで仮眠中の男性医師に看護師が怒鳴られ、「エミー・キーディング」という被害者のフルネームを名乗らせる演出も見事だ。とにかくここでの縦構図の見通しのよさは、画面左手のドアから聞こえる音源について、何の視覚的情報も与えてくれず、その見通しのよさは死角となる左手のドアに対して、逆に無用な錯覚に基く安心感・全能感を与えるという意味で、この縦構図の廊下は、直線状の迷路・迷宮と化しているといえるのだ。
さらに、この廊下はもはやスクリーンそのものでもある、とさえいえるだろう。
看護師が2番目に開く、左手の手前から3つ目のドアは明らかにスクリーンの外に通じている。そのドアからは「外部の光」としかいいようのない、眩い光が廊下に差し込んでくるのだ。
ここではドアのアップを映すだけで、その室内にカメラが入ることはない。開いたドアの隙間から不自然なまでに明るい光が廊下の床を照らすのを、ジェリー・フィッシャーのカメラはフィクスの超ロングショットで捉え続ける。その眩い光を浴びた看護師は廊下に戻ると、ガチャガチャと音を立てて、ドアの鍵を掛ける。
このアフレコで強調された鍵を掛ける音は、シークエンス冒頭の氷の溶ける音から始まった不安と緊張の終了を告げるものでもあり、ここで観客は看護師「エミー・キーディング」の無事を確認して一息つくことができる。
しかし、彼女がたった今しっかり鍵をかけたドアに背中を向けた瞬間、効果音とともに閉めたはずのドアをまるで通りぬけたように(ドアを閉める数秒前まで眩かった内側の照明が落ちている!)、全身白い布を被った人影が大型の植木バサミを振りかざして彼女の背後に近寄る姿の全身ショットへズームインすると、画面は首のないキリスト像のアップに切り替わる。
この殺人鬼の登場が恐ろしいのは、それが廊下(スクリーン)の内側から鍵を掛けたにもかかわらず、鍵を掛けたドアを通りぬけるようにして、スクリーンの外から現われたことだ。
ここではスクリーンの外部から内部への侵入、いや外部が内部を侵犯する瞬間までのプロセスが「原理主義的映像」(黒沢清)によって捉えられているのだ。
それはただ単に「原理主義的映像」というだけでなく、氷の溶ける音、鍵を掛ける音、ドア越しの照明の明滅、等の音と光に関する繊細な配慮によって裏打ちされたものなのだ。
だが一番決定的なのは、あの眩い光だろう。
看護師「エミー・キーディング」は、ドアの向こう側(オフ・スクリーン)で「外部の光」を全身に浴びてしまったために、鍵をかけたにもかかわらず、画面の外へ連れ去られてしまったのだ。
この「外部の光」はジョージ・C・スコットとブラッド・ダリフの最後の対決場面で、今度は下側から、床に穴を開けて輝く光(地獄の光?)となって再び現れ、映画を締めくくる。
ウィリアム・ピーター・ブラッティにとって映画とは、スクリーンの中よりも、その外に光あふれるものなのだろうか。

黒沢清の恐怖の映画史

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2016年映画ベストテン&勝手に映画賞 

〇日本映画ベストテン(+α)
『SHARING』(篠崎誠)
『さらば あぶない刑事』(村川透
クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清
『ジョギング渡り鳥』(鈴木卓爾
『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則)
この世界の片隅に』(片渕須直
『いたくても いたくても』(堀江貴大
ヒメアノ〜ル』(吉田恵輔
ディストラクション・ベイビーズ』(真利子哲也
『団地』(阪本順治
シン・ゴジラ』(庵野秀明
『お父さんと伊藤さん』(タナダユキ
『ヒーローマニア生活』(豊島圭介
『続・深夜食堂』(松岡錠司
『風に濡れた女』(塩田明彦
『セトウツミ』(大森立嗣)
アイアムアヒーロー』(佐藤信介)
『SCOOP!』(大根仁
『貞子 vs 伽椰子』(白石晃士
『女が眠る時』(ウェイン・ワン
『湯を沸かすほどの熱い愛』(中野量太)
『ドロメ(男子篇・女子篇)』(内藤瑛亮
ジムノペディに乱れる』(行定勲

〇外国映画ベストテン(+α)
『チャイナ・ゲイト』(サミュエル・フラー
『チリの闘い』(パトリシオ・グスマン)
『COP CAR コップ・カー』(ジョン・ワッツ
ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド
『ホース・マネー』(ペドロ・コスタ
マネーモンスター』(ジョディ・フォスター
『山河ノスタルジア』(ジャ・ジャンクー
ブリッジ・オブ・スパイ』(スティーヴン・スピルバーグ
ズートピア』(バイロン・ハワード、リッチ・ムーア)
ヘイトフル・エイト』(クエンティン・タランティーノ
ダゲレオタイプの女』(黒沢清
『キャロル』(トッド・ヘインズ
フランコフォニア』(アレクサンル・ソクーロフ
『皆さま、ごきげんよう』(オタール・イオセリアーニ
『すれ違いのダイアリーズ』(ニティワット・タラトーン)
ザ・ウォーク』(ロバート・ゼメキス
『光の墓』(アピチャッポン・ウィーラセタクン
『イレブン・ミニッツ』(イェージー・スコリモフスキ)
『ロスト・バケーション』(ジャウム・コレット=セラ)
『スポットライト 世紀のスクープ』(トム・マッカーシー
『誰のせいでもない』(ヴィム・ヴェンダース


『SHARING』は2年越しの日本映画のベストワン。ヒロイン・山田キヌヲは、ベッド、机、いたるところで、右耳を下にした「右枕」の状態で入眠・覚醒をくり返しながら「3・11」にまつわる幻覚/予知夢を体験する。音響的要素が強いその幻覚/予知夢は、左耳だけを隠した左右非対称の髪型によって、常に片方だけ露わにされた右耳が体験(聴取)することで「原発に支えられた世界」の均衡が歪み崩れていく。「3・11」をめぐる「メタ夢落ちホラー」の傑作。
ようやく一般公開された『チャイナ・ゲイト』は59年越しのベストワン。インドシナ戦争(対仏ベトナム独立戦争)時代、アンジー・ディッキンソン演じる子持ちの米中混血ベトナム人ヒロインが、中国人顔の子供を嫌って捨てた仏外人部隊米兵の元夫ジーン・バリーと「子供と三人で一緒にモスクワに行こう」と求愛するベトナム人将校リー・ヴァン・クリーフの狭間で下す苛烈な決断。奇跡の「反共映画」の傑作。
こちらも31年遅れの公開になる『チリの闘い』は、記録映画のベストワン。人々の顔が素晴らしい。その議論する声はもっと素晴らしい。フレデリック・ジェフスキー『不屈の民変奏曲』の元歌が聴ける。
『さらば あぶない刑事』は「東映」セントラル・アーツの集大成的作品。全編デジタルHG撮影のはずなのに、フィルム的感触にあふれる仙元マジックは驚異。
『いたくても いたくても』は「通販プロレス」というアイディアだけでも独創的なのに、会社・家庭・恋愛における痛みと居場所の問題を画面に定着させた、堀江貴大の将来性は「買い」である。
『COP CAR コップ・カー』はアメリカ映画の新作ではベスト。ケヴィン・ベーコンが悪い警官役で銃を撃ちまくる姿をちゃんと撮れば傑作が出来る。もちろん、ちゃんと撮ればという条件つきの話ではあるが…。
ハドソン川の奇跡』は航空映画+川船映画の奇跡的融合。本物の奥さんが素敵。
『ホース・マネー』は続編映画特有の狭隘さを感じてしまった。NY写真も疑問。アフリカ系のスラム街は他にもっとあるはず。それがなければ新作ではベストか。
マネーモンスター』はTVスタジオジャック映画として上出来。ジョディ・フォスターはプロの仕事をしている。
ブリッジ・オブ・スパイ』は東ベルリンの屋外と室内の両方に自転車を走らせたスピルバーグの執念に脱帽。「進撃の巨人」はご愛嬌か。
ダゲレオタイプの女』はフランス洋館ロケよりも自動車の演出に目を見張った。服の端が車のドアに挟まるショットは、日本でも撮ることはできたはずなのに、なぜかフランスで初めて可能になったアメリカB級ノワール的瞬間。ジャック・ターナーの霊に憑依されたのだろうか。
『すれ違いのダイアリーズ』は2016年に見た「タイムスリップもの」のベスト。編集・構成を工夫するだけで、タイムパラドックスなしで、映画は現在と過去を自由に往復しながら、ベタな純愛も展開できるという好例。「水上小学校」のセットと撮影が素晴らしい。
ジムノペディに乱れる』『スポットライト 世紀のスクープ』の2本は、映画中盤から急に撮影・演出がよくなり後半絶好調になる映画として記憶に残った。ここ数年、日米問わず、一本の映画の前半と後半で、はっきり差が出る映画が増えているが(特に撮影)、それは現場の問題なのか、編集によるものなのか、その原因が非常に気になって仕方がない。


2016年「勝手に映画賞」は以下の通り。
女優賞;山田キヌヲ(『SHARING』)
男優賞;柳楽優弥(『ディストラクション・ベイビーズ』)
監督賞;篠崎誠(『SHARING』)
脚本賞堀江貴大・木村孔太郎(『いたくても いたくても』)
撮影賞;仙元誠三(『さらば あぶない刑事』)
音響賞;片渕須直(『この世界の片隅に』)
美術賞;原田満生(『続・深夜食堂』)
照明賞;水野研一(『続・深夜食堂』)
特撮賞;樋口真嗣尾上克郎(『シン・ゴジラ』)
ヘアメイク賞;大河内ともみ(『SHARING』)
音楽賞;コトリンゴ(『この世界の片隅に』)
出版賞;木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』(法政大学出版局
 
 
以上、部門別に「勝手に映画賞」を選出しましたが、これはあくまでも当方の勝手な判断によるものですので、受賞された方もされなかった方も、どうかいっさい気になさらないで下さい(笑)。
 

2017年はよい年でありますように。

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この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

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ジョージ・キューカー、映画を語る

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ハワード・ホークス映画読本

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ヒッチコック映画読本

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論集 蓮實重彦

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ジェフスキー:不屈の民「変奏曲」

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タイム・スリップの断崖で

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小津の「二階建て」と2DK

秋日和』『晩春』


 

2DKの母娘と二階建ての父娘

秋日和』の原節子司葉子が演じる母と娘との関係―寡婦の母親ひとりを残して結婚することをためらう娘を嫁がせるために、再婚するふりまで演じる母親との親子関係は、かって『晩春』で寡夫の父・笠智衆とその娘・原節子が演じた役割を、配偶者と死別した片親の性別を男親から女親へと反転させたうえで再演したものであることは、小津作品に親しんだ者のあいだでは周知のことだろう。
美貌の寡婦原節子とその娘・司葉子の双方の縁談を、原節子の亡夫の学生時代からの悪友で、かって原節子をめぐる恋敵どうしだった中年男三人組(佐分利信中村伸郎・北竜二)が勝手に画策する『秋日和』の物語が、娘を嫁に出すために笠智衆寡夫である自分の縁談をあえて受け入れたふりをする『晩春』に対する、小津自身によるパロディ的なリメイクであることは、容易に見て取れることだろう。
『晩春』と『秋日和』とのあいだには、娘を嫁に出す独り者の親の性別が男親から女親に変わっていること以外に、もうひとつ重要な変更点がある。それは、主人公親子の住居が『晩春』では鎌倉の二階建ての日本家屋であるのに対して『秋日和』では東京都内の2DK?のアパートになっているということだ。
原節子が美貌の寡婦を演じることを前提に撮られた『秋日和』では、『晩春』で笠智衆が演じた男親の役柄が女親へ変わっているのは当然のことだが、その親子の住居が鎌倉の二階建ての一軒家から2DKのアパートに変わっていることは、また別な意味あいを帯びてくる。こうした住居の違いは登場人物の性別の違いに劣らず、小津作品にとってはある種の決定的な境界作用をもつからだ。
いったいなぜ『秋日和』の原節子司葉子の母娘は『晩春』の笠智衆原節子の父娘のように、二階建ての日本家屋を住居とはしないで、2DKのアパートに同居しているのだろうか?
経済的に慎ましい生活をしている寡婦の母と娘のふたり暮らしの住居には、二階建ての日本家屋の一軒家よりは、賃貸の2DKのアパートの方がふさわしいからという、脚本上の人物設定に関する答えがまず考えられるだろう。
しかし、経済的な慎ましさということを考えてみると、たとえば夫の遺産の一軒家に母娘で住み続けるという設定もまたじゅうぶんあり得るわけで、東京都内のアパートの家賃を考えるならば、そのほうがより経済的に慎ましい暮らしであるかもしれない。
だいたい、服飾学院の講師をしている原節子に、どれくらいの収入があり、またどれくらいの遺産をもっているのか(彼女はもともと本郷の薬屋のひとり娘であるらしい)、映画はまったく触れていないのだから、そうした登場人物の経済状況に関する推測は、あまり意味を成さないだろう。
要するに、脚本の設定しだいで『秋日和』の原節子司葉子母娘は『晩春』の笠智衆原節子父娘と同様に二階建ての日本家屋に住んでいてもおかしくないのであって、そのための物語的な合理化の手段はいくらでも可能であり、そうしてはならないという理由も特に見当たらない。
にもかかわらず、原節子司葉子母娘は2DKのアパートに住んでいて、その近代的なアパート建築が、中村伸郎一家、佐分利信一家、そして北竜二・三上真一郎の父子家庭が住む日本家屋に対して、独自の住居空間を形成していることは明らかであり、その空間的な差異が意味するところは、決して見過ごせないものがある。
したがって『秋日和』の原節子司葉子の母娘が『晩春』の笠智衆原節子の父娘のように二階建ての日本家屋の一軒家に暮らさずに、2DKのアパートに同居しているという住居の変更理由は、作品の空間構造/住居構造という点から考えなおさなければならない。

「女の聖域」の二つの系譜

小津作品における住居の構造、とりわけ「後期の小津」における日本家屋の二階の部屋の特異性を解明した画期的な批評として、蓮實重彦『監督 小津安二郎』の「住むこと」がある*1
蓮實氏の論旨をごく簡単に要約するならば、『晩春』『麦秋』『彼岸花』『小早川家の秋』『秋刀魚の味』といった「後期の小津」に登場する日本家屋の二階の部屋に通じる階段は、特別な例外を除いて決して画面に映ることがなく、その「不在の階段」を自由に通り抜けて二階の部屋を二十五歳前後の嫁入り前の娘が「女の聖域」として排他的に独占しているのが、二階建ての日本家屋に共通する構造である、ということになるだろう。
一方で蓮實氏は、二十五歳前後の娘たちの「女の聖域」である日本家屋の二階の部屋とは空間的に対極に位置する、五十五歳前後の父親たちの「男の聖域」である料理屋の座敷の存在を指摘することも忘れていない。ただし、住居構造という観点から考えると、女性専用の「不在の階段」に支えられた二階の「女の聖域」と、住所不明な料理屋の座敷の「男の聖域」とでは、作品を支える構造的な重要度の相違は明白だろう。
このように「後期の小津」に登場する二階建ての日本家屋は、男女共用の生活空間としての一階と、二十五歳前後の娘の「女の聖域」である二階という、二つの部分に分けられる構造をもっていることになる。その二つの部分を画面には姿を見せない「不在の階段」が斜めに連絡するのだが、そこを自由に通り抜けて二階へ出入りする特権と能力を有するのは二十五歳前後の娘をはじめとする女たちで、父親や兄弟ら男たちはその権利を基本的に与えられていない。
蓮實氏が解明した「後期の小津」の住居構造は、空間の性的な分割と深い相関関係にあるといえるだろう。*2
秋日和』の原節子司葉子母娘が住む2DKのアパートという空間を論じるために、ここでは蓮實氏が論及していない、戦後の小津作品におけるもうひとつの「女の聖域」というべき、寡婦が住むアパートという空間の系譜について概観しておこう。
東京物語』では、笠智衆東山千栄子夫妻は、戦死した次男の嫁・原節子のアパートを訪れて、実の子供たち以上の手厚い歓待を受ける。熱海の旅行帰りの日には、長女・杉村春子の家を締め出された東山千栄子原節子のアパートに一泊すると、布団を並べて実の親子以上の深い会話を交わす。*3
夫の戦死後、会社務めをしながら独身生活を続けている原節子のアパートは、横浜にある。その広さは、六畳一間あるかないかぐらいだろうか。義父母を歓待するために、原節子は店屋物の丼の出前を頼み、隣の部屋の住人からお酒と徳利とお猪口を借りるのだが、ふたりを泊めるのはいくらなんでも狭すぎる。
東山千栄子ひとりが原節子のアパートに寝泊りし、笠智衆が旧友の十朱久雄と東野英治郎を都内に訪ねる、熱海旅行の帰りの日の夜の場面を見てみよう。原節子東山千栄子の肩を揉みながら、布団の上で女どうし語らうこの場面において、原節子の狭苦しいアパートは『東京物語』において唯一といっていい「女の聖域」と呼ぶべき空間となっている。
しかも、同時刻に笠智衆が旧友の十朱久雄と東野英治郎と共に酔いつぶれている飲み屋が、東野英治郎が自分の死んだ妻に似ていると言い張る女将・桜むつこの関わり合いを避ける邪険な態度が示すように、一種の「男の聖域」として演出されていることも見逃せない。
泥酔した笠智衆東野英治郎は、結局はその「男の聖域」を追い出され、長女の杉村春子の理容室に深夜帰宅し、東山千栄子ひとりが、夫・笠智衆抜きで、次男の嫁・原節子と女どうしで深く交流する。
このエピソードでは、笠智衆を外に追いやり、東山千栄子ひとりを泊めることによって、寡婦原節子のアパートが「女の聖域」であることを告げている。
東京物語』より3年後の『早春』では、家出したヒロイン淡島千景が転がり込む先である、友人・中北千枝子のアパートは、やはり六畳一間ぐらいの広さだが、共同の炊事場が部屋の外にあるその造作は、ずっと近代的で1Kに近いものになっている。
中北千枝子は浮気性の夫と死別後、働きながらひとり暮らしを続ける女性であり、子供のいない専業主婦の淡島千景は夫・池部良の浮気をきっかけに家出をすると*4、母・浦辺粂子が営む実家のおでん屋には帰らずに、この寡婦の友人のアパートに転がり込む。
それまでは、夫婦の家と実家のおでん屋とのあいだの往復ばかりをしていた淡島千景が、アパートの卓袱台でビールをコップに注ぎながら、仕事帰りの中北千枝子と女どうしで夫の浮気話を笑いながら語りあうのだから、ここでも『東京物語』と同様に、寡婦のアパートが「女の聖域」と化していることを容易に見て取れるだろう。
中北千枝子の「死別妻」が、淡島千景の「家出妻」とアパートの一室で夫の浮気話をビールのツマミに笑い合う、その絶妙な「成瀬組看板女優」中北千枝子の起用法から、小津安二郎がいかに成瀬巳喜男作品を研究していたかがよくうかがわれて、なかなか興味深い場面でもある。*5
東京物語』の原節子東山千栄子との語らいから『早春』のアパートでの中北千枝子淡島千景との語らいの場面に至って、戦後の小津作品において寡婦が住むアパートが、二十五歳前後の未婚の娘が暮らす日本家屋の二階の部屋とはまた違った意味で、もうひとつの「女の聖域」の系譜を形成していることが明らかになったと思う。
東京物語』『早春』と連なる寡婦のアパートの住居空間の系譜を見たうえで、『秋日和』のラストシーン近くにおける「残る娘」としての岡田茉莉子の重要な役回りをみるならば、原節子司葉子の母娘が暮らす2DKのアパートは、単なる母子家庭の母と娘の住居というよりも、寡婦原節子が娘の司葉子が結婚するまで同居し、娘の結婚後は、再びひとり暮らしを送りながら娘の友人・岡田茉莉子をそこへ頻繁に迎え入れるであろう、文字通り男子禁制の「女の聖域」となっていると、推定できるのだ。*6
建築的なデザインという点から見てみるならば、原節子司葉子が特権的に通行するアパートの廊下は、その幅の広さと天井の照明の配置において、やはり原節子司葉子が頻繁に出入りする佐分利信の会社の廊下と相似形をなしていることが指摘できる。
こうした住宅と仕事先の建築物の視覚的な統一性は、主人公が日本家屋から近代的なアパート建築に転居することによって初めて可能になったものだといえよう。
このように『東京物語』『早春』と続く、寡婦のアパートが形作る「もうひとつの女の聖域」の系譜を辿ることで、なぜ『秋日和』の母娘が『晩春』の父娘のように二階建ての日本家屋に住まずに、2DKのアパートに同居するのか? という問いに対する、とりあえずの解答は出せたと思う。
しかし、ここでは同じ問いを、あえて変形して再提出することで「後期の小津」の住居構造に潜む問題に揺さぶりをかけてみたい。
それは『晩春』の父娘が、二階建ての日本家屋を住まいとせずに『秋日和』の母娘のように2DKのアパートに同居することは、はたして可能か、という問いである。

父と娘の住み分け

たとえば『秋日和』の母娘が2DKのアパートではなく、二階建ての日本家屋に暮らしていたとしても、小津作品としての『秋日和』は、構造的に成立可能だろう。
原節子司葉子の母と娘は、何が何でも2DKのアパートに住まなければならない、という構造的必然性は『秋日和』には特に見当たらない。
寡婦の母と独身の娘のふたりがもし、二階建ての一軒家に住んで「不在の階段」を通って一階と二階を行き来したとしても、それはそれで小津作品として特に差し障りが生じることはないだろう。
しかし『晩春』の父と娘が『秋日和』の母と娘のように、2DKのアパートに同居できるかといえば、それは不可能だろう。もしそんなことをすれば、『晩春』という作品は成立不可能になってしまうからだ。
「不在の階段」によって分離された二階建ての一階と二階に父と娘が住み分けること、それが『晩春』という作品に欠かせない成立条件なのだ。この独身の父と娘が同じ階、同じ部屋で寝起きを共にするようなことになったら、小津作品としての『晩春』は、その持続を放棄しなければならなくなるだろう。
原節子笠智衆が、同じ部屋に布団を並べて横たわる、京都旅行(婚前旅行!)の最後の夜のような緊張感は、旅行先の旅館の一室だから許されるものであって、もし、それが日常的に繰り返されるようなことがあれば、小津的作品の秩序は崩壊してしまうだろう。
笠智衆原節子の独身の父と娘とは、一見、鎌倉の日本家屋の同じ一軒家に同居しているように見えながら、じつは「不在の階段」によって分離/切断された一階と二階の部屋に、厳密な住み分けをおこなっているのだ。
蓮實氏が指摘した「後期の小津」を特徴づける「不在の階段」により一階から分離された「女の聖域」としての二階の部屋を「二十五歳前後の嫁入り前の娘」が排他的に占拠するという住居構造は、この『晩春』においては、まぎれもなく独身の父と娘とのインセスト・タブーに関わる、いわば性的な住み分け構造になっているのである。
『晩春』の笠智衆原節子から始まって、『東京暮色』の笠智衆有馬稲子、『秋刀魚の味』の笠智衆岩下志麻、それに『小早川家の秋』の中村鴈治郎司葉子の父娘も加えた「後期の小津」をあらためて見直してみると「不在の階段」は、死別に限らず妻を失って独身に戻った父親と、嫁入り前でまだ独身の娘とを、一階と二階に住み分けさせる装置として働いていることがわかる。
ここで重要なポイントは、住み分けを演じている父と娘がともに独身かどうかということだ。
たとえば『麦秋』では、娘の原節子以外にも、菅井一郎・東山千栄子の父母が二階の部屋で寝起きしているために、「不在の階段」により一階から分離された「女の聖域」としての二階の部屋を「二十五歳前後の嫁入り前の娘」が排他的に占拠するという住居構造は、不完全なかたちでしか成立していない。『麦秋』はしかし、そのことによって、小津作品として欠陥をもっているどころか、むしろ世界映画史上、空前絶後の高みに達している。*7
ここでは父親役の菅井一郎の妻・東山千栄子が健在であって、父が娘とは違い独身者ではないことが肝心だ。そのために『麦秋』では、アクの強さが売りの溝口映画の個性派常連俳優・菅井一郎が限りなく透明に近い存在と化して、娘の原節子とともに「不在の階段」「女の聖域」を阻害することなく二階に共存するという映画的奇跡が可能になっているのだ。*8
独身の父と娘との住み分けという点に注目すると、蓮實氏が『戸田家の兄妹』の冒頭の老実業家の家長・藤野秀夫の死に関して述べた<注目すべきは、ここでの実業家の妻の関係がいつでも交換可能なものだ。(……引用者中略……)それ故、『戸田家の兄妹』の冒頭に描かれるのが、還暦の年の六十歳の誕生日に起こった父親の死であってもいっこうにかまわないし、あるいは死ぬのが母親であったとしても、ほぼ同じ作品ができあがったかもしれない。>*9という記述は、明らかに不適切で修正を要するものだろう。*10
もしも『戸田家の兄妹』の冒頭で死ぬのが父親ではなく母親だとしたら、未婚の末娘・高峰三枝子との同居という、作品の基本構造が「ほぼ同じ」というわけにはいかなくなるからだ。母親が夫の死と同時に住む家をなくすという、『戸田家』の住居空間のあり方そのものが、まず違ってくるはずなのだから。
もし『戸田家』の冒頭で死んだのが父親ではなく母親である場合は、独身の父親と未婚の娘と二階建ての一軒家の3点セットが遺産として残される、というのが小津作品の基本的な家族・住居構成であるからだ。その二階建ての一軒家を、独身の父親と未婚の娘とが上下に住み分けるというのが『晩春』で確認された、性的分割を伴った空間分割のあり方であり、それは父母の死を入れ替えた『戸田家の兄妹』の別バージョンについても、当然適用されるべき分割パターンであるべきだからである。
こうした父と娘とのあいだの性的な空間分割構造を考えると、夫の死と同時に住む家を亡くした母親が、未婚の末娘と共に、結婚して独立した子供たちの家の二階の部屋を転々とする現バージョンと「ほぼ同じ作品ができあがったかもしれない」という記述は、蓮實氏にしては珍しく不用意で、間違ったものと言わねばならない。
小津作品において、独身の娘と二階に共存を許された男親は『麦秋』の菅井一郎ただひとりであって、その理由は、妻・東山千栄子が健在であり、二人の孫までいるからだ。*11
もし『戸田家の兄妹』別バージョンで父・藤野秀夫が生き残ったうえに、住む家まで失ったとしても、彼が未婚の末娘・高峰三枝子と二階の部屋に同居することは決して許されなかっただろう。結婚して独立した子供たちが、どれほど老父や妹を邪険に扱ったとしても、独身の男女ふたりを一階と二階とに住み分けさせるという小津的な配慮まで失うことはありえないはずだからだ。
『晩春』の父と娘をめぐる性的な空間分割構造に戻ろう。
父・笠智衆と娘・原節子が、二階建ての一軒家を「不在の階段」によって一階と二階を上下に分断し、住み分けることによって、かろうじてその日常生活を維持していることは、以上の考察でじゅうぶんわかっていただけたと思う。この父娘が『秋日和』の原節子司葉子の母娘のように、2DKのアパートに同居し、寝起きを共にするなどということは、絶対に不可能なのだ。
しかし、そんな父と娘が、同じ階の同じ部屋で布団を並べて横たわる、京都の宿での婚前旅行の最後の夜の場面を演出してしまうのが、また、小津の小津たるゆえんでもある。

父と娘の婚前旅行

『晩春』では、就寝場面はもちろんのこと、登場人物が布団に横たわる姿を見せるのが、この京都の旅館の夜のシークエンスに限られていることに注意しよう。
就寝場面の多い『東京物語』をはじめ『麦秋』『早春』『東京暮色』『秋日和』『小早川家の秋』等と比べると、『晩春』の人物の横臥率の低さは明白だ。
『晩春』の笠智衆原節子の父娘は、自宅ではいつ寝ていつ起きたのか、はっきりしない。布団を敷く場面もなければ、それを片付ける場面もない。お互いの縁談について座って語り合うだけで、性的な緊張感がみなぎるふたりの同居生活においては、たとえ一階と二階に別れていていようとも、自宅で横たわる身振りは決して許されないものなのだ。
『晩春』の笠智衆原節子の父娘は、自宅での布団への横臥が禁じられていたかわりに、京都の旅館で一室で、堂々と布団を並べて横たわる。ローポジションのカメラから捉えられた「独身の男女」が布団を並べて横たわるさまを、1955年松竹入社の吉田喜重が「父と娘がほとんど同衾するような」と「同衾」いう生々しい一語でもって、シンポジウムに同席するマノエル・デ・オリヴェイラたちに言い表したのは、ある意味当然のことだろう。*12
自宅では「不在の階段」によって垂直に分離され、決して同じ階、同じ部屋に布団を並べて寝ることのない独身の父と娘が、旅館の一室で、暗い照明のなか布団を並べて横たわる。ここでは、父・笠智衆の横たわる布団と娘・原節子の布団のあいだを遮るものは何もない。
京都の旅館のシークエンスにおいて、鎌倉の自宅ではいつもふたりを垂直に分断していた「不在の階段」が不在であるという妙な事態、父と娘の最後の婚前旅行という特殊なシチュエーションが可能にした主題論的異常事態(旅先の椿事?)がふたりのあいだに起きているのだ。
この「不在の階段」の性的な抑圧・禁止の不在、が初めて可能にした独身の父と娘がともに枕を並べて眠る姿は「新婚初夜の光景」と重なり合って「近親相姦のイメージ」を深く示唆する。
<新婚を間近に控えた娘が、たとえそれが父との最後の別離の旅であるとはいえ、ともに枕を並べて眠る姿は、おのずから娘の新婚の初夜の光景と重なり合って想像されたとしても、不思議ではなかった。(…引用者略…)もちろんこうしたおぞましい、常軌を逸した想像は許されるものではなかった。俳優に与えられた役が父と娘であるかぎり、ふたりのあいだに性的な関係を予感し、そのように夢想することは、当然のことながら近親相姦のイメージを深く示唆するものであったからである。>*13
「俳優に与えられた役が父と娘であるかぎり」という指摘は重要だ。小津作品で男女の俳優が枕を並べて眠る場合、『早春』の池部良岸恵子の「不倫カップル」のような例外を除くと、ほとんどが夫婦の役であり、男女の俳優が「父と娘」という役で同じ一室で寝るケースは『晩春』の京都の宿の場面しかないからだ。しかも『晩春』が公開された1949年当時の笠智衆45歳、原節子29歳、という主演俳優の年齢構成を見れば、旅館の一室に枕を並べて眠るふたりの男女の与えられた役柄が、夫婦ではなく「父と娘」という設定には本来微妙な違和感があるわけで、そこに性的なコノテーションを感じないほうがかえって不自然というものだろう。

「不在の階段」と「壺の映像」

京都の宿の一室で、あからさまに露呈した、笠智衆原節子の「父と娘」役がもつ性的な不自然さを、それまで抑圧・隠蔽していたのが、鎌倉の自宅の二階建て一軒家での「不在の階段」を介した、独身の父と娘との一階/二階の住み分けだったのであり、この建築構造と一体化した性的空間分割システムが、小津的な「父と娘」による家族の戯れ/秩序を維持してきたのである。
京都の旅館では、「不在の階段」が不在のため、この小津的な秩序/戯れの持続が危機に瀕している。そうした危機を回避する非常手段として導入されるのが、あの「壺の映像」なのだ。鎌倉の自宅では「不在の階段」による住み分けシステムが、父と娘を一階/二階へと垂直に分断していた代わりに、京都の旅館の一室では「壺の映像」が水平に並ぶ父と娘のあいだに割って入り、「近親相姦のイメージ」「きわめて生なましい性の露呈」を即興的に封じ込めようとしているのだ。
<おそらく小津さんは壺の映像を想定することなく、京の宿の場面を描こうとしたのだろう。(…引用者中略…)むしろ『晩春』の父と娘のような聖なる主役たちが語り合う場合、ふたりを限りなく曖昧な表情のまま繰り返しカットバックするのが、小津さんらしい表現のありようであり、なんの脈絡もない壺のたたずまいを不意にモンタージュして、劇的な意味づけをはかるような手法を小津さんは映画のまやかしとして嫌ってきたはずである。みずから定めたそうしたゲームの規則に重大な違反を重ねてまで、壺の映像を挿入せざるをえなかったのは、父と娘の表情を直接カットバックしつづけるならば、それが男と女の性的欲望へと転化し、ただならぬ近親相姦といったイメージに観客がとらわれてゆくことを、小津さん自身がまさしく恐れたからにほかならない。そして自らの戯れの果てに、思わず誘発された危うく、おぞましい欲望を鎮め、浄化するために、壺の映像が欠かせなかったのである。>*14
「壺の映像」なしに「父と娘の表情を直接カットバックしつづけるならば」云々という生々しい想定は、「不在の階段」による父と娘の一階/二階の住み分けについても適用可能なものだろう。
京都の旅館での「不在の階段」の不在が「壺の映像」の挿入を促したのだから、もしも鎌倉の自宅においても、父と娘の一階/二階の住み分けが為されなかったとしたら、『晩春』は全編において、父と娘の「近親相姦のイメージ」の危機に曝され続けることになっただろう。
それゆえに『晩春』の父娘は、二階建ての一軒家の一階/二階に住み分けしなければならないのであって、2DKのアパートに同居するなどもってのほかなのである。

秋日和』のハッピー・ウェディング

秋日和』の司葉子原節子による「婚前旅行」には、『晩春』の京都の旅館のような緊張感はない。浴衣姿の司葉子原節子とのカットバックは「壺の映像」で遮る必要もないし、そもそも2DKのアパートに同居する母娘には「不在の階段」による住み分け、などという性的分割システムに伴う葛藤とも無縁である。*15
この2DK暮らしの母娘の結婚喜劇が、後期小津作品中で最も幸福感に満ち溢れている理由は、出会いから交際を経て、結婚式に至るまでの娘の結婚のプロセスが、すべて祝福されるべきものとして描かれていることにあるだろう。小津が、これほど幸福な結婚を描いたのは『秋日和』だけである。
娘の結婚の物語を繰り返し取り上げた『晩春』以降の小津安二郎作品において、ごくふつうの幸福な結婚 ― 当人同士の意志に基づき、家族や周囲に祝福された結婚 ― は、ほとんど描かれることはなかった。
『晩春』『秋刀魚の味』では、画面に顔も映らない見合い相手との縁組を承諾することで花嫁姿となる娘たちからは、犠牲精神のようなものは感じられても、とても幸福感は感じられない。『彼岸花』の有馬稲子佐田啓二のような相思相愛の恋人たちの場合でさえも、結婚に不満をもつ花嫁の父・佐分利信の結婚式への欠席表明によって、なかなか幸福な結婚へとは至ろうとしない。そんな不幸な縁組が多いなか『秋日和』は、小津映画全作品中唯一、「娘の幸福な結婚」が描かれた作品といっていい。
娘・司葉子は、母・原節子の亡夫の悪友三人組(佐分利信中村伸郎・北竜二)の見合い話を断りながらも、その断った見合い相手である佐田啓二と、ふつうの恋人同士としての交際を経て、盛大な結婚式に至るのだ。
秋日和』の司葉子佐田啓二は、本人同士の意思に基づき、家族と周囲から(さらには観客から)も祝福されて結婚に至る、小津映画では唯一無二の幸福なカップルなのだ。
ふたりの交際過程が、出会いの場面から結婚式の記念撮影まで描かれているのも、小津映画では異例のものだろう。
蓮實重彦はなぜ『秋日和』には存在する結婚式場での記念撮影のシーンが『晩春』『秋刀魚の味』には存在しないのか、と問いかけ、その理由を、後者では男親が二階の娘の部屋に階段を上って挨拶した段階で、別れの儀式は済んでいるから、結婚式場をあえて映す必要はないと、もっぱら「不在の階段」と二階の娘の部屋の「女の聖域」をめぐる「住むこと」の主題と父娘の離別の儀式の相関という、主題−説話間の機能的相関という観点から答えている。
しかし、この問いにはもっと素朴に答えることが可能なのであって、『晩春』も『秋刀魚の味』も、結婚相手の顔を画面に出せないような「娘の不幸な結婚」を描いた作品なのだから、結婚式場で新郎新婦が並んで映る記念撮影のシーンを出すわけにはいかないのだ。*16*17
こうしてみると、いかに司葉子佐田啓二の恋人たちが、小津映画では例外的に幸福なカップルであり、いかに『秋日和』が小津映画では例外的な祝福ムードにあふれた「娘の幸福な結婚」を描いた映画であるかがわかるだろう。*18

「永遠の処女」から「永遠回帰寡婦」へ

北竜二との再婚話を断った寡婦の母・原節子も、娘の結婚後はひとり寂しく残されているかに見える。
だが『晩春』の笠智衆の「男やもめ」には蛆がわくかもしれないが、原節子の「女やもめ」には花が咲くことひっきりなしだろう。『早春』の中北千枝子のアパートを見ればわかるように、小津映画では寡婦のアパートには必ず女友達が転がり込んでくるのである。
秋日和』の原節子司葉子母娘が住むアパートは、司の友人・岡田茉莉子が訪ねてくるだけで、そこは他作品の二階の娘部屋と同様に男子禁制の「女性の聖域」である。
しかも、そのアパートの部屋は明らかに二階以上の階にあって、そこへ出入りするためには階段を通過しなければならないはずだが、もちろん画面に階段のショットは映ることはない。
そこは団地タイプのアパートの一画にありながら、不可視の階段を通過しなければ出入りできない男子禁制の女性の聖域であるという点で、まぎれもなく他の作品に出て来る一軒家の二階の娘の部屋のヴァリエーションなのである。
原節子司葉子の母娘には二階建ての一軒家は不必要である。彼女たちは『晩春』の笠智衆原節子の父娘のように一階/二階にわざわざ住み分ける必要はないのだから、そこが男子禁制の空間ならば、2DKのアパートでじゅうぶんなのだ。
秋日和』は、本来ならば、娘を嫁に出した後は空っぽになるはずの男子禁制の女性の聖域に、寡婦である母親が暮らし続けるという、後期小津ではある意味奇形的な作品である。
『晩春』の笠智衆が娘の嫁入り後、空っぽになった二階の部屋の空白感に耐えながら一階に暮らし続けなければならないのに対して、娘とアパートの空間を共有していた原は、そこへ娘の友人・岡田茉莉子を招き入れることによって、女性の聖域をさらに活性化させることも可能になるだろう。
『晩春』の笠智衆のもとへも、娘の友人であるバツイチの「ステノグラファー」月丘夢路が慰めにくるだろうが、笠智衆は月丘を一階の応接間でもてなすことはできても、彼女ひとりを二階の娘の部屋へ上げるわけにはいかないし、ましてやふたりで二階へ一緒に上るのはもってのほかである。*19
娘の嫁入り後、男子禁制の女性の聖域で、あらためて独身のひとり暮らしを再開する原節子にふさわしい名称は「永遠の処女」ならぬ「永遠回帰寡婦」だろうか。*20

(2013年4月14日初出)

*1:蓮實重彦『監督 小津安二郎』【増補決定版】、筑摩書房、2003、69−95頁

*2:「女の聖域」であるべき二階の例外として、菅井一郎・東山千栄子夫妻が娘の原節子と同じ二階に暮らす『麦秋』があるが、妻が健在で孫もいる菅井一郎は、『晩春』『秋刀魚の味』の寡夫笠智衆とは異なり、未婚の娘とともに二階に暮らす権利を有する。また『宗方姉妹』では、嫁入り前の義妹・高峰秀子を妻・田中絹代と一階に住まわせ、二階を書斎として独占する失業中の夫・山村總は、小津作品に例外的な雨に濡れたまま「不在の階段」を上ると、音を立てて倒れてそのまま変死する。『宗方姉妹』の山村總は、男女・階別の住み分け、天候・死に方の2点において、小津全作品において異常な例外、残酷な特異例となっている。

*3:より厳密を期すならば、戦地から未帰還の次男の生死は不確定のままであり、わずかな可能性を信じて夫の生還を待ち続けている原節子を「寡婦」(戦争未亡人)と呼ぶのは不適当なことなのかもしれない。ただし民法上、夫の死亡とそれに伴う再婚の自由が認められた女性は、やはり「寡婦」にカテゴライズされるべきだろう。再婚の自由を放棄し、戦後も次男の嫁を演じ続ける原節子は、自分が「戦争未亡人」であることを否認する一種の戦争神経症患者ともいえるだろう。

*4:淡島千景池部良は幼い子供を亡くした過去があり、それが夫婦仲に暗い影を落としている。

*5:『早春』は、中北千枝子が出演した唯一の小津作品だが、その甲斐あってか(?)、また浦辺粂子が営む実家のおでん屋のおかげや、他作品では主軸となる父子関係が描かれていないことも相俟って、小津映画のなかでは最も成瀬的な雰囲気に近づいている作品だと思う。

*6:なお小津が「トップバッター女優」岡田茉莉子に花嫁役を演じさせなかった理由は、親友・岡田時彦の「お嬢さん」に、花嫁=「画面から消え去る娘」を演じさせたくなかったから、というのは考えすぎだろうか。なお、岡田茉莉子の花嫁姿は中村登の「小津追悼?作品」『結婚式・結婚式』(1963)で見ることができる。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20140816

*7:もし、小津作品からベストワンをあえて選ぶとするならば、やはり『麦秋』だろう。それは菅井一郎が原節子の父親役に入ったことで、笠智衆原節子が兄妹という無理のない関係に収まったこと、そして三宅邦子の兄嫁と原節子との関係(砂浜のクレーン撮影!)、さらには家出騒動を起こす甥っ子たちとの関係、大和のおじいさん(高堂國典)との関係をポリフォニックに描いたうえに、『東京物語』での東山千栄子の死の描写のようなメロドラマ的冗長性を「記念写真」でクールに断ち切っているからだ。なお裏のベストワンは『東京暮色』。これは小津的ホームドラマが本当はホラー映画であることを自ら露呈した問題作。夫と子供を捨てて出奔した挙句に引揚者として東京に戻って来た山田五十鈴が営む二階の麻雀屋と笠智衆の通うパチンコ屋の一階との空間的対立、山村聰を雨で打ち殺した『宗方姉妹』の呑み屋の主人役に引き続き「地獄の飲食店主」(珍々軒!)としてキャスティングされた藤原釜足、『非常線の女』そっくりのセットで有馬稲子を補導する刑事・宮口精二、白いマスクから黒い喪服に着替える原節子。これらすべてが揃いも揃って、薄幸なヒロイン有馬稲子の死/消滅が、他作品での娘の嫁入り/消滅と、構造的には同型であることを残酷に立証している。

*8:それにしても『麦秋』の菅井一郎は透明で美しすぎる。この上品で控えめな老紳士が『滝の白糸』(溝口健二、1933)で、入江たか子をケダモノのように襲った、強欲で卑劣な高利貸と同一人物だとは、何度見ても信じられない。

*9:蓮實・同書、150頁

*10:これこそ「弘法も筆の誤り」ということか。

*11:老夫婦が息子夫婦、嫁入り前の娘、孫と同居する日常を描いた『麦秋』には、本来の意味での「小津的なもの」に満ちあふれている。老夫婦が上京して息子、娘たちと久々に再会するメロドラマ『東京物語』と比較すると、その点はすぐに明らかになるだろう。

*12:『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU 2003」の記録』、朝日新聞社、2004、243頁。ここで吉田監督のいう「命を賭けた戯れ」としての「父と娘のほとんど同衾」という発言は、このシンポジウムのクライマックスとなっている。

*13:吉田喜重小津安二郎の反映画』岩波書店、1998、157−158頁

*14:吉田・同書、159−160頁

*15:インセストタブーとは「近親交配」に関わる禁忌なので, とりあえず母娘レズはOK?

*16:『晩春』『秋刀魚の味』において、娘の結婚式はすなわち「娘の葬式」であり、画面に姿を見せない結婚相手はいわば「死神」である。そんな新郎=死神を画面に映さないのは、キャスティングの問題からいっても、当然のことだろう。『晩春』では画面に映らなかった原節子の結婚相手(ゲーリー・クーパー似?)は、『東京暮色』の子連れ家出妻・原節子の夫・信欣三の死神のような風貌となって回帰する。『東京暮色』のラストで原節子は夫とやり直す決意を示すが、成瀬映画のような夫婦の会話/和解の場面は一切ないし、有馬稲子の死=消失は他作品の娘の嫁入り=消失と見分けがつかない。かくも残酷な小津!

*17:小津映画の記念撮影場面がいかに不吉なものであるかについては、四方田犬彦の『長屋紳士録』の詳細な分析(「小津安二郎―不在の映像」)を参照。四方田犬彦『エッセ・シネマトグラフィック 映像の招喚』青土社、1983、65−85頁

*18:麦秋』の原節子と二本柳寛の結婚も幸福な部類に入るかもしれないが、秋田へ赴任する子持ちの寡夫・二本柳寛との唐突な結婚を契機に、原節子の家族は秋田・奈良・鎌倉に「一家離散」することになるのだから、この結婚を心から祝福してくれるのは、二本柳寛の母親役の杉村春子だけである。「紀子さん、パン食べない? アンパン」と。

*19:秋刀魚の味』で笠智衆が友人の北竜二を「不潔」呼ばわりするのは、北竜二が笠智衆の守った「境界線」を越えて、自分の娘と同年代の女性と再婚したためである。

*20:同年公開の東宝創立35周年記念作品『娘・妻・母』(成瀬巳喜男、1960)で原節子は、嫁ぎ先から実家に一時「出戻り」中に、夫と死別して寡婦になったにもかかわらず、仲代達矢の若い恋人とのキスシーンを楽しむのんきな奥さんを演じていて、実に色っぽい。仲代達矢インタビューによると、女優マネージャーからの接触禁止要請と監督キス強行命令との板挟みになりながら、原節子本人のOKにより直接唇を重ねたそうである。『新潮45特別編集 原節子のすべて (新潮ムック)』

戦中マキノのローポジション

『江戸の悪太郎』(1939)『ハナコサン』(1943)

https://www.youtube.com/watch?v=mwhM9cg75Zo
驚嘆すべきマキノ雅弘論『マキノ雅弘 映画という祭』(新潮選書)のなかで、山根貞男は『ハナコサン』終盤の「何とも不思議なシーン」について詳細に論じている。

<戦中につくられた家庭劇やメロドラマによくあることだが、夫に召集令状がくるところで映画は終盤を迎える。赤ん坊を乳母車に乗せて散歩していた轟夕起子が、会社帰りの灰田勝彦と会い、小学校の校庭で話す。妻は出征するあなたに何かしてあげたいと言い、「お前の好きなことをすればいい」と答える夫に、何をするかと思いきや、でんぐり返りをやってみせ、おかめの面の踊りに移る。お面は夫が模型飛行機と一緒に買ってきたもので、さきほど「お前だと思って持ってゆくよ」と説明し、二人で笑った。お面を頭の後ろに着け、前向き後ろ向きをくりかえす踊りゆえ、お面とふっくらした丸顔がくるくると入れ替わる。と、妻は模型飛行機を飛ばし、それを追ってススキの原っぱへ走りこみ、夫は赤ん坊を胸に妻の名前を呼んで探す。画面は轟夕起子のにこやかなアップ、広いススキの原に離れ離れに立つ夫と妻の姿、親子三人がススキの彼方へ歩いてゆくロングショット、とつづいて終る。>*1

山根氏はさらに<何とも不思議なシーンで、でんぐり返りといい、おかめの面の踊りといい、すっきり文脈を読み取れない。その不可解感はラストのススキの原へつづき、轟夕起子は笑みを浮かべ、灰田勝彦は赤ん坊を抱いてにこにこし、まさに若い夫婦の幸せぶりを絵に描いたような光景だが、どこか暗い。単に暗いのではなく、明るいのに暗く感じられることが、不気味なのである>と続け、この一連の場面の不思議さ、不気味さに戦争の影が見えることを示唆している*2
しかし、ここで注目したいのは、この轟夕起子のでんぐり返りが、地面すれすれのローポジション撮影によって捉えられていることである。鞍馬や吊り輪といった体操用の器具が設置してあるグラウンドを赤ん坊を連れた夫婦は散歩し、会話をする。夫・灰田勝彦は赤ん坊を地面に下ろして歩かせ、その横で轟夕起子は、出征する夫のためにと、とつぜんのでんぐり返しを始めるのだ。
その映像は鞍馬の下から覗くような構図のショットを交えることで、カメラの位置の低さを不自然なまでに強調したものになっている。とつぜんのでんぐり返りだけでも不思議だが、この低さをあえて強調したローポジション撮影によって、これらがいっそう「何とも不思議なシーン」になっていることは確かである。
轟夕起子のとつぜんのでんぐり返りは、この例外的なローポジション撮影のショットを画面に導入するための運動=イマージュとして、強引に実行されたのではないかとさえ思えてくる。しかもこのシーンの直前には、いかにも戦時らしく上空を飛び交う飛行機の編隊を捉えた仰角ショットがインサートされているのだから、このローポジション撮影による水平ショットは、いやでも上空を捉えた仰角ショットと極端な角度差=高低差のコントラストを形成して、戦時特有の(?)緊張感を帯びている。
編隊飛行の仰角ショット、というだけならば、必ずしも戦時体制と結びつける必然性はないかもしれないが、同じローポジション撮影の被写体の一員である赤ん坊が、夜間空襲の灯火管制のさなかに出産シーンを迎えていたことを考えるならば*3、このローポジション撮影による水平ショットと仰角ショットとの高低差のコントラストに、山根氏が示唆する「戦争の影」を見る必然性はじゅうぶんあるだろう。*4*5
ローポジション撮影による水平ショットと仰角ショットとの角度差=高低差のコントラストは、戦前版『江戸の悪太郎』にも見ることができる。*6
その高低差のコントラストは、悪徳祈祷師に長年守ってきた貞操を奪われた武士の未亡人が、投身自殺する場面の前後に現われる。
夫の失踪後、露店商を営みながら、貧乏長屋に幼い息子と暮らす武士の「未亡人」星玲子は、商売の仕入れの金を落とした幼い息子が家出状態になって日が暮れても帰らないのを探しに出かける。息子が心配な母親は、つい悪徳祈祷師に子供の行方を占ってもらうが、その屋敷での祈祷の最中に、祈祷師の術に陥って、夫の失踪後守り続けてきた貞操を奪われてしまう。祈祷を終えた彼女は放心状態のまま橋の上に立ち、そこで発作的に投身自殺をしてしまうことになるのだが、その投身自殺の舞台となる橋のセットの橋脚が、とても江戸の町内にかかった橋とは思えないほど極端に細く高い造作になっているのがまず目につく。
その細く高い橋脚のために、夜の橋の上に立つ星玲子の最後の姿を橋の下(ローポジション!)から見上げた仰角ショットには、表現主義的といっていいほどの異様な雰囲気が漂っている。
その異様な雰囲気は、翌朝、彼女の死が貧乏長屋に伝えられる場面でいっそう増幅されることになる。早朝の貧乏長屋の前の広場にはニワトリが2,3羽歩いているのだが、そのニワトリをローポジションのカメラが捉え、ニワトリを前景にして長屋全体がローポジション撮影に収められる。そこへ星玲子の投身自殺の知らせが届けられ、長屋の住人たちは騒然となる。
画面は、ローポジション撮影による貧乏長屋の水平ショットから、前の晩に星玲子が立っていた、例の細く高い橋脚の橋のセットに野次馬の群れがひしめいている様子を橋脚の下から見上げた仰角ショットにつながる。
このニワトリを前景にした長屋のローポジション撮影の水平ショットと、投身自殺現場である橋の仰角ショットとのカットバックが生み出す、圧倒的な角度差=高低差のコントラストが、画面には直接映っていない星玲子の死に至る落下運動を、雄弁かつ残酷に物語っているのだ。
異様なまでに細く高い橋脚のセットは、ここでは死に至る高低差を形成するために不可欠なものとなっている。*7
やがて戸板に載せられた遺体が長屋に運ばれ、一晩の家出から帰ってきた息子にも、寺子屋の先生・嵐寛寿郎の口から母親の死が告げられる。この寺子屋の師弟ともに辛い場面でも、ローポジション撮影の水平ショットと仰角ショットによる高低差のコントラストは、執拗に変奏される。
星玲子の遺体を運ぶ戸板の下から覗くような極端なローポジションからの水平ショットで、その母親を亡くした息子の姿が捉えられる。その幼い息子に母親の死を告げる嵐寛寿郎の沈痛な表情のアップは息子の見た目ショット(POV)によって捉えられ、ローポジションからの仰角ショットによるアップは、大人の顔を見上げる子供の視線をリアルに表象している。
この長屋のシークエンス全体に見事に組み込まれた、ローポジションからの水平ショットと仰角ショットとの角度差=高低差のコントラストは、自分の過失が原因で母親の死を招いてしまった子供の運命の残酷さを強調して止まない。*8
ハナコサン』と『江戸の悪太郎』の2作品に見られるローポジション撮影+仰角ショットという組み合わせは、その角度差=高低差のコントラストが、時代劇/現代劇を問わず、物語の内容表現にまで影響を及ぼすほどの強度を秘めているという点で、非常に独特な用法といえるだろう。
このマキノ流ローポジション撮影(+仰角ショット)は、同じローポジション撮影でも、小津安二郎のそれとも、加藤泰のそれともまったく異質な効果、強度をもつものとして、あらためて注目すべきだろう。。
なお、戦後版『江戸の悪太郎』(1959、東映)と戦前版とを比較すると、戦後版の投身自殺の舞台となる橋は普通の時代劇のセットで、画面には橋脚そのものが映っておらず、戦前版にあった細く高い橋脚の下からの不気味な仰角ショットは存在しないので、その印象は大きく異なる。
長屋に母親の遺体を運ぶ戸板下からのローポジション撮影による水平ショットは、戦後版にもいちおう存在するのだが、身投げの落下運動を連想させる仰角ショットとのカットバックもないため、高低差のコントラストを形成することはない。
幼い息子に母親の死を告げる寺子屋の先生・大友柳太郎の表情も、戦前版のような子供目線のPOVではなく、常識的なバストショットに収まっている。
戦後版『江戸の悪太郎』は、笑いと涙を誘う「金貸し婆あ」役・浪花千栄子の圧倒的な名演もあって、戦前版をおおっていた表現主義的な暗さを完全に払拭した見事な東映娯楽時代劇作品としてリメイクされている*9
(2012年10月5日初出)

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*1:山根貞男マキノ雅弘 映画という祭』新潮選書、76ページ

*2:ススキの原で轟夕起子の姿が一瞬見えなくなる不穏な動作、共に笑顔を見せているとはいえ「広いススキの原に離れ離れに立つ夫と妻」との異様な距離感のために、このススキの原のラストシーンは、夫の出征後の「ハナコサン一家」の暗い運命を予感させずにはいられない。『ハナコサン』の5年後の1948年、溝口健二『夜の女たち』とほぼ同時期に、当時の食糧事情に逆らうようにメタボ体型化した轟夕起子が街娼「関東小政」を奔放に唄い演じた『肉体の門』が公開されているが、この『肉体の門』は、じつは『夜の女たち』の田中絹代と同様に、敗戦で夫と赤ん坊を亡くした「ハナコサン」轟夕起子の後日譚なのではないか、という疑念をどうしても抑えることができない。

*3:この灯火管制下の出産シーンは、天井の裸電球1つと隣室の電気スタンドのランプシェードからの薄明かりによる西川鶴三の照明設計が素晴らしい。出産シーンと書いたが、産声が響くのは翌朝になってからである。

*4:おかめのお面を後頭部につけて轟夕起子がくるくる回る(表返る!)シーンの不思議さ、不気味さは、それが表と裏、正面と背面とを同時に映すことはできないという映画の制度的な限界を、高速マキノターンとお面の主題の結合という安直な手法(?)によって侵犯しているところから来ていると思う。ここでは高速マキノターン+後頭部のおかめのお面によって、表と裏、正面と背面との階層的な差異が失われ、すべてが「表返っただけ」の状態に還元されてしまうのだ。ここではもう、表の轟夕起子の顔と裏のおかめの顔とを区別することは無意味になっている。戦時中、こんな映画的冒険を易々とやってのけるマキノはやはり怖ろしい。

*5:「戦争プロパガンダ映画」としての『ハナコサン』の両義性については、紙屋牧子氏の論文を参照。https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/63/1/63_KJ00008127845/_article/-char/ja/

*6:「戦前版」というのはあくまで通称に従ったまでであって1939年はノモンハン事件が起きた「戦時真っ最中」である。

*7:この細く高い橋脚のセットがマキノ本人の特注によるものなのかどうか、ぜひ知りたいものだ。

*8:『江戸の悪太郎』の「貧乏長屋」と「子供の家出」の描写には、マキノの盟友・山中貞雄の影を見ずにはいられない。

*9:高低差のコントラストといえば、戦前版『江戸の悪太郎』で、三吉として男装していた轟夕起子が女性であることを瞬時に露呈させるのは、名人会での場つなぎに伊奈節を唄う場面で披露する、宝塚仕込みの歌唱力によるアルトからソプラノへの1オクターブ飛ばしの高音へのジャンプアップだったが、この戦前の宝塚トップスターならではの「桁はずれに偉い」高低差のコントラストも、戦後版の三吉役の大川恵子が伊奈節を唄う場面(たぶん吹き替え)では、やはり失われてしまっている。もし戦後版が美空ひばり主演でリメイクされていたならば、事情は大きく違っていただろうが…。