解決法の評価項目は単一とは限らない

銀の弾丸はありません

※個人的なポリシーをまとめています。

問題解決の際、解決法を評価する項目は単一とは限りません。関連事項の多い複雑な問題であればあるほど解決法は、色々な項目での効果を考慮に入れて選んでいくべきでしょう。

A という問題があって、X, Y, Z という三つの解決法候補があるとします。

「X は ooo が弱いから X はダメだ」

どこかに論理的な間違いがあります。

X が ooo において非常に弱い選択肢であるのは事実かもしれません。でも、A を解決するのに X がダメかどうかはまだ不明です。多くの場合、銀の弾丸はありません。つまり、ある項目で優れた解決法も別の項目でみると優れていない、ということも珍しくはありません。

譲れない評価項目は当然あります。その問題を解決するためのキラー項目、どうしてもそこが優れていないと話にならないというようなもの。ただ一方で、問題が複雑であればあるほど、様々な項目での効用が解決に必要不可欠ということもあります。また、別の問題の解決法も兼務できるというもっと全体枠での合理性を追求する可能性もそこにはあります。

また、「ooo が弱い」というのが、致命的なのか、回避する工夫はできないのか、そういうことを考えたときに、実は全然たいしたことじゃないとわかることも。見方を変えると、弱いことが逆に別視点でメリットになることもしばしば。「程度」や「ニュアンス」という立体的な概念が置き去りにされると、言葉だけの論理にハマってしまい、他の判断材料を見失ってしまいます。

正の部分、負の部分を立体的に捉えて総合点で比べる

のを忘れてはいけません。

そういったことを考慮せずに、単に解決法のとある一面の弱い部分にだけ着目して簡単に X を捨てるのをよく見かけますが、それはもったいないことだと。

別観点のメリットにも着目

生活の中での話を例にして、環境保護(地球温暖化)という問題があるとします。その中でエコバッグを利用してビニール袋の利用を削減しよう、というアプローチがあります。エコバッグという方法に実効性が本当にあるのか?全くにないにしても、他の解決法からすると非常に極少の効果しかないのでは?確かにそういう疑問はあります。個人がビニール袋の利用を削減しても車に乗るとその分は簡単に吹っ飛ぶという話も聞きます。ではダメか?というのはまだ早い。

仮にCO2削減の効果は非常に薄いものであったとしても、ゴミ削減という別の問題の解決法の一部として十分活躍するかもしれません。また、物理的な実効性に関わらず、環境保護活動をするという精神的な習慣が付くことで、いざ個人でできる別の実効性の豊富な選択肢が出てきたときにすんなり新しい方法を実践できるのであれば、それはやはり解決のための一つの役割を担ったものと言えるでしょう。

他にもそういった別観点のメリットはあるかもしれません。直接的な実効性だけに着目してると間接的なメリットを見逃す可能性がありあす。

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【追記】以前ここで書いてたプログラマー例え話は削除しました。
ちょとマニアック過ぎて...(><
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デメリットのマネジメント

また...

デメリットが致命的なものなのか?

そのデメリットが際立たないように工夫することができないものなのか?

そういったことを考えていくと、実はデメリットはそこまで致命的ではないと気付くこともあります。懸念されることはそれはそれで解決できるならしてしまえばいいだけです。

// リスクのない解決法なんてめったにない | jfluteの日記
http://d.hatena.ne.jp/jflute/20110303/hasrisk

思い出して

一方で、評価項目を単一に表現された論理というのは、恣意的な選択によく利用されます。正しいものを選ぶということよりも、その解決法を拒否することが最初から大前提にあって、わざと評価項目を単一、もしくは、非常に絞って論点を狭くすることで、その解決法を除外しようという方法です。

あまり感心される行為ではありませんが、人ですからどうしても無意識にそうなってしまうこともありますし、自分が気をつけてもそのような主張を受ける場面も出てくるでしょう。

そういう場合は、この「解決法の評価項目は単一とは限らない」を思い出して、「程度」や「ニュアンス」という立体的な概念を加えて、論点を整理し直すと良いでしょう。

...

と、自分が色々なことを議論するときに忘れないようにしていることであり、できなかったときもあったかなと反省の念もこめて今後のためにここに記す。