先週の説教要約 「神の導き」

○先週の説教要約
『神の導き』                       上中栄牧師
マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに
至ったからである》。                        (使徒16:6−15)
市内の合同平和祈祷会で、エレミヤ書が開かれました。神の人間に対するご計画は、《平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである》というのです。キリスト者にはよく知られている聖句ですが、この背景にはバビロン捕囚があり、偽預言者は2年で解決すると言いますが、エレミヤは70年だと言います。目の前のことで一喜一憂する私たちは、70年も先のことを、《将来と希望》の計画と受け止められるでしょうか。
さて、これはパウロの第2回目の宣教旅行で、計画が《聖霊》や《イエスの霊》に禁じられ、《幻》によってマケドニア行きを決めたという場面です。実際には、いろいろな事情があったのでしょう、それを彼らは《聖霊》や《イエスの霊》に禁じられたと理解したのです。それは《確信》という言葉が、「結び合わせる、総合的に判断する」という意味を持っていることからも明らかです。私たちも、思い通りに計画が進まない時、その理由を考えますが、そこに神のご計画を考慮に入れられるかということです。
しかし、人間は弱いものですから、自分の願いや思いを《聖霊》や《イエスの霊》によって正当化したくなるものです。そうした時に大切なのが、《確信》です。この言葉は聖書では、キリストのからだである教会は、節々が《結び合わされ》成長する、という用いられ方をしています。つまり《確信》とは、自分の願いではなく、教会の交わりの中で得られるものなのです。
キリストの十字架の死と復活によって、キリストのからだの一部とされている私たちは、神の祝福の計画の中に生かされています。《将来と希望》が与えられていると見通すなら、私たちは直面するさまざまな課題についても、総合的に判断する信仰と知恵が与えられ、前進することができるのです。