2018年6月3日の説教要約 「イエス様のもとに連れて行こう」

2018年6月3日の説教要約 
「イエス様のもとに連れて行こう」 (中道由子牧師)

≪すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れてきた。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。≫    (マタイ福音書8章6〜13節、9章1〜8節)


今日は2つの聖書の個所をお読みしました。
この2つのお話しには2つの共通点があります。
1つは、病が癒やされた人の病気がどちらも中風だったということです。
ギリシャ語で「パラレリューオー」という言葉で、動詞になると「パラリュティコス」、「片方がゆるむ」という意味です。体の一部分が麻痺してしまうのです。
 実際には、脳卒中の後遺症で半身麻痺になってしまったり、脳脊髄(のうせきずい)の炎症、損傷によっても起こる病気です。現在はリハビリにより回復する方もおられます。
 それでは、もう一つの共通点は何でしょうか?
それは、中風の人たちが自分でイエス様のところに来て癒やしを願ったわけではない、ということです。これらの中風の人を何とかしてあげたい、と思っている人たちによって癒やしが起こったことです。

1、百卒長の信仰 
①しもべの問題のために
  6節「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」
百卒長は自分の問題ではなく、自分の僕の問題でイエス様を訪ねてきたのです。
ここでおもしろいと思うのは、自分の上司の問題ではなく、自分の部下の問題でこの百卒長は来た、ということです。上司の問題であれば利益があるでしょう。しかし、部下の問題では見返りを望むことはできません。それにもかかわらず、この人は部下の問題を持ってイエス様の御前に来ました。その当時、僕は物としてあつかわれていました。売り買いが出来、殺すことも出来る、自分の財産のうちの1つとして見なされていたのです。人格的な扱いではありませんでした。そんな僕が中風にかかりました。全く主人の役に立ちません。むしろ足手まといになります。この僕の病気を治そうと思えば、主人がお金を払うことになります。こういう場合、この僕を殺すか、捨てることになるでしょう。しかし、この主人は、自分の人格と信仰とすべてをかけてイエス様の御前に来て、自分が病で苦しんでいるかのように、心から僕の癒やしを願いました。これはまことに驚くべき信仰です。僕を物としてではなく、人格を持った人として、神の像としてみていたのです。決して自分の思い通りにこき使う人として見てはいなかったのです。
エス様は、7節で「わたしが行って、いやしてあげよう。」と言われました。
たいへん力強いみことばです。ただ、もう一つの訳し方があると言われています。
興味深い訳し方です。「わたしが行って直せというのかね」という疑問文です。
「わたしが行って直さなければいけないのかね。」そう読む訳し方です。
このあとかなり先に、カナンの女が自分の子どもが病気になって、イエス様に救いを求めた話しがあります。イエス様はこのカナンの女に対して、「わたしはイスラエルの人以外には遣わされていない」とはっきりおっしゃいました。「異邦人はわたしの救いの目的の第一にはなっていない」とおっしゃったのです。
ここで、この百卒長は異邦人でした。彼は占領軍の長なのです。
戦いに負けて、自分たちの支配の元にある連中の神を拝み、是非来て下さいとお願いをしているのです。「異邦人であるあなたが、わたしたちの神様に関係ないはずであるあなたが、わたしに来てくれと言うのかね。」とイエス様がおっしゃってもおかしくないところです。イエス様は、カナンの女に対するように、この百卒長の信仰を試されたと言うことも出来るのです。その上で、この百卒長の答えに驚かれた。「これ程の信仰を見たことがない。」とイエス様をして、言わしめたのです。

②自分の仕事の経験を通して
このお言葉を聞いて百卒長は、8節「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と言いました。「『助けて下さい。』と言っているのに、何だその言い方は」とは言わない。「そうです、わたしは異邦人です。わたしの家にあなたをお迎えする資格はありません。でも他にどうすることもできないのです。ただ、ただ、あなたのお言葉が欲しいのです。」と。
そして、9節で、自分の仕事を通して得た経験を話します。
この人は百人の部下を従えている軍人でした。上官の立場で部下に対して自分の言葉には力があることを経験している人でした。この人は自分の仕事の経験を通して、御国の秘密を悟ったのです。私たちは、仕事と人生の経験を通して御国の真理を悟る人になりましょう。私たちがどんな仕事をしていたとしても、それはすべて御国と関連しています。仕事を辞めて、神学校に行かなくてもいいのです。私たちの仕事を通して神の国をなしていくことが大切です。主婦は家事から、職場で働く人はその仕事から原理を悟ることが出来ます。どんな仕事に就くかではなく、信仰を持って歩むことが大切です。信仰の目を持っていれば、私たちの家庭で、職場で奇跡は起こります。
エス様は、百卒長の言葉を聞いて感心された、とあります。イエス様が驚かれたのです。そして、13節「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われました。
主人の信仰によって僕は癒やされたのです。 

2、4人の友だちの信仰
①4人の友情
こんな友達を持った、この中風の人はなんて幸せな人でしょうか。
 イエス様がもう一度カフェルナウムに帰ったら、もう人々がイエス様のところに殺到していたのです。戸口まで隙間のないほどだったという尋常でない状況でした。その中で、一人の中風の人が4人の友に担がれてイエス様のところに連れて来られたのです。もちろん、病気を治してもらいたいとの願いを持ってです。ところが。溢れる群衆のために家の中には入れなかった。それで、屋根をはがして、寝床をイエス様の前につり降ろしたというのです。わたしはここを読む度に、人の家なのに屋根を勝手に剥がしてやりたい放題の友達だな、と思ったりします。当時のパレスチナの屋根の構造は簡素の物とはいえ、ここまではなかなか一人二人ではできません。普通なら断念して引き返してしまうのではないでしょうか。しかし、イエス様は、この障害を乗り越えて友人を救おうとする彼らの信仰を見て、「子よ。元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」と語られたのです。
 この中風の人には、本気で彼のことを何とかしてやれないかと日夜心を砕いている友人が居ました。人は自分が生きるのに精一杯であって、友達の病気を気の毒に思って、一、二度は見舞いに行くことはしても日夜、友人のために祈り心を砕くことは、なかなかできないものです。一緒に屋根を剥がし、寝床をつり下ろす、ここに教会の姿があります。
兄弟姉妹のために我がことのように祈る、みんなで支える、教会はこのような共同体でありたいと思います。

②主が見た、中風の人の状態
 ここで注目したいのは、主が病気を治してから「さあ、治ったから歩いて帰りなさい。」と言われたのではない、ということです。中風の人に「元気を出しなさい」と言われたのです。ここでこの4人の友だちは中風の人の病の状態を見ていました。
しかし、イエス様は中風の人に会って、すぐに病よりも彼の魂に問題があることに気づきました。病気を治してあげるけれども、その前にかたづけなければならない問題がある。
罪の問題です。新共同訳では、「あなたの罪は赦される。」になっていますが、口語訳では「あなたの罪は赦された。」と過去形になっています。
他人に担がれて、生きるよりほかにないような人にとって、罪とはいったい何を意味するのでしょうか。イエス様は、ここで病気であろうとなかろうと、どんな状況にあっても、しっかりと勇気を持って生きていくのに大切なことは、罪が赦されることだと知っておられました。罪はここでは、複数形で書かれています。「諸々の罪」です。この男の半生に積み重ねられてきた罪です。神様を信じて来なかった人生。ハイデルベルク信仰問答では、「私たち人間は、生まれながらにして、神を憎んでいる。」と書かれています。特別神を愛しては居ないが、神を憎むまではしていない、と皆、思います。一番深いところで、自分を神としており、神との関係が断たれているのです。
しかし、イエス様はここで、懺悔しなさい、そうすれば赦される、とは言われない。
「あなたの罪はゆるされてしまっている」と言うのです。全く無条件に、「あなたの罪は赦されている」とすでに済んだこととしてお語りになっておられるのです。
この中風の男がするべきことは、自分がもう赦されている人間だ、ということに気が付くことでした。それを受け入れることです。彼にとっては、その罪の赦しを信じて、信仰を持つことが大事なことでした。癒やしは罪の赦しについてきた恵みでした。
 当時の人々は、病気や不幸は罪のせいだと思っていました。律法学者たちは、「罪を赦すなど、神を冒涜している」と思ったとあります。一見、「罪を赦す」と言っても、現実に何も起こらなかったらどうだろう。奇跡が起こってその人が立ち上がったら凄いことです。今は医学が発達していますから、私たちはそう考えやすい。しかし、当時、奇跡的なおまじないで、病を治す人、そういう祈禱師はいたのです。今でも医学が発達していない国のほうが奇跡も起こっています。しかし、罪を赦すことは神様しか出来ないことなのです。ここで癒やされた中風の人も、永遠には生きません。やがて死にます。もしかしたらもう一度脳溢血の発作が起こって死んでしまうということがあるかもしれない。
エス様の奇跡は無駄だったでしょうか。罪の赦しは、彼を支えました。担架で運ばれてきた彼が、イエス様に会って担架を置いて帰って行った。彼の人生は変わりました。
病気が治ったから変わったのでしょうか。いえ、罪が赦されたから変わったのです。