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jiangminのグッバイ理性・ハローキティ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-01-13 (火)

[] 水村美苗の例のつまんない本

例のWeb0.0日記が水村美苗の『日本語が亡びるとき』をけちょんけちょんに貶してる。周回遅れで今更だけど。一言で要約すると、水村は過去に受けた教育を丸ごと真に受けてるだけで自分の頭で考えてないだろ、という見立てのようだ。以下引用。

三日坊主09年1月 1/12

【前略】

水村さんの本は自分の半生を振り返りつつ、英語の覇権のために日本語がインテリの間で使われなくなる、そうすれば日本文学は滅びる、というエッセイ。「警世の書」だけあって、後半はほとんど悲鳴のよう。「どうしてもこれを書いておかねば」という必死の思いが伝わる。…でも、こういう発想は、いかにもアメリカで高等教育を受けた特徴が色濃く出ていて、それ特有の歪みが出ているような気がするのだけどね

まず、元ネタがB.アンダーソンの『想像の共同体』というところから引っかかる。インドネシアを舞台にナショナリズムを論じた古典だから、アメリカの大学院生(とくに比較文学をやる場合)の必読文献。懐かしいナー、と思いつつ、だけど日本の文学者でこれを読んだことのある人がどれだけいるかな、と突っ込みたくなる。文学を論じるときの前提となっている教養がずれている。

もう一つ「叡智を求める人々」=学者はどんどん英語で発表するはずであり、日本語に興味を持たなくなる、という前提。でも、これが原因で日本文学がなくなる? アメリカの大学のエリート意識は強いから、つい大学=世界という意識になる。私もシカゴのドクターを受けようかなと思っていたときに、担当教授から「ボクシングの国内レベル試合から、世界チャンピオンの舞台に出ていくようなものだから」と言われたのを覚えている。

ただ、それは額面通り信じられないのです。だって、私がそのとき勧められた学科はEast Asian Studies。日本・韓国・中国のことを英語で研究する学問。でも果たして、これが日本研究の世界チャンピオンの舞台? と疑問を覚えた。たんに日本人が英語というメディアを使っているから、世界的学問と言われるだけじゃないのか。

そもそも「一流の学者」たちが英語の「図書館」に吸い込まれていく、という彼女のストーリーは印象的だけど、それを「日本の(文化的)植民地化」という隠喩で表せるとは思えない。たぶん、このストーリーはケニアの作家'Ngugiの“Decolonizing Mind”から来ている。これもアメリカの比較文学の必読書。ナイロビ大学で学んだ著者が、英語で書き疎外感を味わう。そこで敢然と現地語であるキクユ語で書いて国民的作家になったという話。植民地における文化的エリートの苦労を書いて涙なくして読めない話です。

しかし、このストーリーは必ずしも日本に当てはまらないよね。アメリカの黒船襲来以前に印刷文化が栄え、日本語の書き言葉が成立して、ある意味で「国民的な文学」が近代以前に存在した国。その中では、文化的エリートは自国語で書いていた。それを、そもそも西洋支配以前は書き言葉がなかったケニアと比べるのは無理があると思う。英語に堪能だといって、自国民と結びつけない日本人作家などいないだろう。

それどころか、日本をアメリカと比べるのさえおかしい。ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』にもあるけど、アメリカには強固な反知性主義の伝統があり、文化・文学なんて一部階級のものにすぎない。だから大学で守られた。Creative Writingなんてクラスが大学にあるのも当然。しかし、日本では大学で文学をできるなんて思っている人はいない。むしろ、世間に一定の需要があったから、「出版界」や「文壇」という大学外の機関が作家養成を担当したし、その事情は今でも変わらない。

その結果、日本ではアメリカと違って文学は大学エリートの愛玩物ではなくなった。むしろ、大学をドロップアウトした人々が一般人を相手にコミュニケートするときの道具。だから理論的には多少ゆるゆるだが、とりあえず一般読者から遊離しないで済んでいる。そういうことではないかな。

これほど随分条件が違うのだから、学者が英語で書くようになったぐらいでオタオタする必要はない。実際、水村に賛意を表明している人でも、ホンネは日本語で書くことの有利さをしっかり感じている。たとえば、内田樹は「水村氏の文章に感動した」と書きながら、その二、三日後には「内向きですが何か」というエッセイで日本語で書けば「1.3億人の読者がいる」ことの幸せをしっかり強調している。

http://blog.tatsuru.com/2009/01/05_1110.php

【後略】

三日坊主09年1月