Hatena::ブログ(Diary)

Jima-Don

2017-05-30

人生焼畑農業

 実は次に何をするかを少しづつ形に考えている。
 まあこの国には勤労と納税の義務があるし、実際それを果たさないとメシも食えずに死ぬしかない。実際のところ白状するがカミさんのガン発覚後5年は、きっとカミさんのゴールまでおれの人生設計焼畑農業にしていくしかないと考えていた。まー上手く嫁はランディングしやがった。腹が立つ結果だが、仕方がないしカミさんに恨みなども持っていない。むしろ
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「愛よ」
 本当に暁美ほむらのように後先を考えない献身愛を成し遂げてしまった。晴れやかな気持ちすらある。と同時に今、裸で焼け野に立っている自覚は凄くある。

 だが考えてみよう。焼畑農業ってことはだ。そっから先に芽が出るってことじゃね?
 そんなこんなだがまだまだ立ち上がってやらなくちゃいけないことは山積している。実現には今手持ちの食う技術では少し心もとない。そんなわけで晩酌と引き換えに新たな技術を求めてスクールに通う事にした。旧知の人がやっている場所であるしその方もたいそうカミさんの容態を心配していた。
 なにより人と出会う事が音楽ごと以外めっきり減ってしまったし、仕事を取る営業力が今がた落ちしている。アカンのだ。
 ようやく足元に伸びてきた芽に目が行くようになって来た。ずっと、空ばかりを見ていた気がする。具体的に書きはしないが自分は病んでいる。いい事があったぶんだけずどんと身体的にすら落ち込むようなアレだ。だがそれでもやれることはやんなきゃ。

 という訳で今色々と考えている。このブログ、カミさんのチョコのブログ、俺の趣味のバス停のブログ。そして音楽活動。また過去のHTML作品や日記や参加型サイトやら、いろんなものをもうちょっと再生しなおさなきゃなあと。やっぱどっかで自分にリセットボタンを押したら負けなのだ。スクールは商用WORDPRESS講座(!)なのである。このブログも巻き込む事になるだろう。おれはようやく再生に向けて少しため息をつきながら立ち上がる事にした。いつかカミさんとの再会のその日まで歩くしかない。
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2017-05-22

邂逅の連続

 ラウンジサウンズが終わった。4〜5月と実に5本ライブをやった。4月の28〜29日深夜のイベントにいたっては演者が一人欠席してDJタイムが長引いたので「もっかい30分やりません?」「やったろー!!」で都合一日3本ライブしたような事になった。死ぬかと思った。

 もちろんどのライブもスゲー楽しかったのだが実は水面下で不快な出来事が起きていた。あるライブが終わった後からツイッターで変な絡み方をするアカウントが現れたのだ。まあ実のところそのちょっと前にも、アカウント開設時が数ヶ月前なのに十年前くらいの自分のしでかしを言いふらしているアカウントがあって、こりゃなんか腹芸やってるやつがいるな、と実は今年はじめからゴルゴ13モードに入っていた。実は今もそうなのである。活動の営業用に上げている動画に不快な粘着コメントも付けられた。営業上よろしくないという大人の理由で無言で通報および削除。芸事で営利業務的な対応をするのは非常に心苦しい。なによりこのコメントの表示で第三者に大変目を汚してしまった。この視点のない批判を俺は批判とは一切受け止めない。

 しかし「ゴルゴ13モード」という単語も懐かしい。Web1.0時代の「掲示板におけるマナー」からの流用なのである。詳しくは検索でも何でもしてくれ。

 とにもかくにも、こないだのラウンジサウンズが楽しかったのは間違いがなく。以前互いが互いにいい印象を持っていなかったワルソウパクトのはまじんさんが客としてきてくれたりしてくれた。実は同じ小学校区育ちと知ってて、「同じムラの住人どうしでよくこの歳までこんな音楽をつづけた!」で共感できるし、去年の年末だったかライブ観た時は「全くブレねえ!最早スゲエ!!」と感心したものだった。今度ワルソウさんが体調戻ったら是非観に行こう。小林ボードウォークくんとか薄力小麦粉夫妻とかスゲー嬉しかったな。最後のはまじんさんの笑顔が嬉しかった。音源も5枚ほど売れたし。

 ラウンジサウンズはリハ後に前打ち上げがある。山口の防府あたりのバンドマンとほぼ同時発生で生まれた風習だがここで何故か、別の日のライブの打ち上げと称してアダチヒデヤさんが登場。やや、タコ天の裏番組パーソナリティだぞ(笑)!!「ジンロウさんも後から来るよ?」

 ジンロウさんである。コーガンズの人である。人間椅子のライブツアーの福岡に行くと物販をやってる(!)あのジンロウさんである。
 最初の出会いはボギーくんが毎年やってる年末の「ラウンジサウンズカーニバル」での対バン
 次の出会いが、互いの妻がガンと診断された仲間、というもので。
 その闘病日記は長く辛い。カミさんの急変はあれよあれよであったが、こちらはずいぶんと時間がかかったようだ。が、この生死の境の修羅場、ほぼ同時期に来てしまった。
 だからお互いに葬儀には行けていない。第一うちのカミさんの葬儀もどたばたとした。本当に「急変」という言葉がふさわしい現場であった。あいにく色々問い合わせをしておきたい役所が休みの土曜に死んだのは大変痛かった。後になって役所から訊いたら案外葬儀先延ばしのための費用は補助が出るという事を伝えられた。まあ、そういうものがないという前提で人間生きてる、仕方がない。終わってみれば「終活」らしい事をしていないことに気付く。カミさん、スマホにも何にも遺書めいたものは何も残さなかった。亡くなる前日のゲームのプレイデータが残っていたくらいだ。その姿におれも願掛けのような気持ちで何も出来なかった。医者からの非情な病状の告知で、そんな話はわかっていたのに。

 互いに「ようやく逢えた」という顔で挨拶、互いの不義理を詫びて、「その後」の大変さについて語り合った。
 そう、「その後」の話ばかりをしていた気がする。家事が大変だとか。カミさんがいかに偉大だったか。
 で、興味深そうなアダチさんの話題に入ろうとすると
 「君はジンロウくんと奥さんの話しなきゃダメだよ!!」
 と笑って追い返されて、またふたりで。
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 そして自分のライブがあるのでと、ジンロウさんと再会を期して握手を交わし中座。
 自分が音楽は惰性で続けていると強がっている事があるけれど、自分は壊滅的に社会性がない。
 音楽事のようなときだけ、かろうじて社会性が人並みになる。そうでなければ、20代中盤でバイトすら首になったときのような、ただの引きこもりに過ぎなかったのではと思う。
 ジンロウさん、アダチさんと社会人としても音楽人としても立派な人々と炭火焼で焼かれるあげまき貝を見ながら
 「俺が音楽を続けてる理由はこれなのかな」
 ふとそう思った。
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 その日の晩、嫁が久し振りに夢に出てきた。がんも関係ないような最盛期の、普段着の彼女の姿だった。馬鹿話をしてにっこり笑っていた。冒頭に書いた不愉快な話が生んだ感情は、どっかに消えて行ってしまった。

2017-05-03

もうすぐ誕生日

 あと一週間で45になる。もちろんこの歳になると厭だといってもやってくる誕生日にいちいち欝になっていたら体が持たないのでほどほどの欝になっておく。まあかといってもし人生成功を収めていたら、友人その他を豪快に招き爽やかな野外で派手なバースデーパーテーをやり憎々しげな笑顔を決める様になっていたかもしれない。俺の器なぞそんなものである。

 が、今年はカミさんが亡くなって初めての誕生日、どころではなく。彼氏彼女時代含め23年カミさんと一緒であったので最低限の「祝ってくれる人」が心のうちにしかいないことになってしまう。
 この嫁、よく夢に出てきては穏やかな表情で日常会話を繰り返す。話す内容は毎回忘れる。いつも白い天使のような服を着て現れる。念のため各種サイトなぞで調べるが警告夢でも、おそらく成仏しそこなったわけでもないようだ。まあ、恋愛ごとの楽しさと大変さは物理的にも精神的にももうたっぷり味わったので、しばらくは独身がどうだとかそんなことを考えるのはいいだろう。
 問題は23年ぶりに誕生日のお祝い事がないという現実である。いやー、結婚時は楽しかった。二人のつつましい誕生日の祝い事っぷりはこれに詳しいからわかるだろう。
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 まあ外に出ることもなくひそやかにやるか。どうするかは決めていない。週末に通い始めたスクールのほうでちょっとあるかもしれない。色々自分のこれからの切り売りの仕方を学んでいる。

 45になって最初のライブがボギ君主催のラウンジサウンズで決まった。5/16、一週間違いである。有難いことにトリをとったので残業で忙しくても観に来て欲しい。不思議なもので音楽はずっと続けて今も枯渇してない鉱脈。実は去年カミさんの終末治療中はガラッと作曲環境を変えて少しアマチュア発想の技術をばっさり切った。今更人に訊けない技術とか用語を真面目に勉強した。これは真面目な独白だが、子供じみてるなあと思うが自分が一度喧嘩別れした人間たちのテリトリーには一生手を付けてやらない、と思っていた部分。そういう意固地が生む無知は死ぬほど恥ずかしいことを表稼業の派遣の某現場で覚えていたので、まあその職場のジジイを反面教師にすることにした。
 そもそもカミさんが余命宣告を受けた、2015年の年末の時点で音楽はやめるつもりでいた。がある大先輩の
 「40からの人生は積み下ろしだよ、そこまで得たものを切り売っていくしかない」
 某アニメ監督
 「45が人間変わる最後のチャンス。それ以上は人格が固定化する」
 の二つの言葉でちと思いとどまった。44〜45で新技術をちゃんと導入し続けようと貪欲になれたのは今後いい影響になるかもしれない。
 2016年は結局2枚デモ音源を作った。好評でライブやるたびにコンスタントに2〜3枚売れてくれる。有難い。
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 そんなこんなでばたばたと4月、新しい出会いがたくさん増えた。
 ちらと書いたがスクールは楽しい。
 親不孝通りのtransformというクラブ然としたライブハウスで一日2回ステージをやった次の日は死ぬかと思った。縁は昔のラジオを聴いてたリスナーさんである。驚き。

 そんな20年来のラジオの縁と言えば一番深いのがカミさんだし、今の人生の目標は「二人で同じ墓に入るのを用意する、あわよくばちょっと他も入れる規模の菩提を立てる」だったりする。色々家庭の事情があるのだ、詮索しないで欲しい。その辺は簡単なようで実は難しい、場合もあるくらいに受け止めて欲しい。自分は特殊事情でハードモードなだけ。まだまだカミさんとの付き合いは続く。結局24年目の付き合いである。祝ってくれている、ということにしよう。
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2017-04-28

コサキンリスナーだったふたり

 ツイッターで「星野源オールナイトニッポンに、コサキンのふたりをゲストで呼ぶってよ」の報を聞いてびっくりしてしまった。まあ星野源、コント番組「LIFE!」でいかにも小劇場出身なムロツヨシ氏と生き生きと芝居していたから、さてはこういう素地のある人なんじゃないかと思っていたらピタリ的中、といった感じであった。

 前の日記で書いた嫁とのドライブのBGMは実はほとんどがコサキンであった。いつぐらいからか、マンネリ気味になったので自分が伊集院のほうに変えてくれと言った記憶があり、それからBGMは伊集院のほうになったわけだがコサキンの録音テープは最終回まで続いてたと思う。
 嫁の遺品整理の際、コサキンカセットテープに引き取り手が現れてびっくりしてしまった。なんと東京の方が引き取ってくださったのだった。
 しかし伊集院のほうは俺がなんとしてでも取っておきたいと思っている。伝説の参加型コーナー・選手権シリーズがすべて手元に残っていたりする。まあ実のところいつ消されるかはわからないが一部はYoutubeで聴けたりするから、無意味かもしれないが。
 コサキングッズもずいぶんと集めていた。新品同様。いくつかのものはほぼ通販のみのようなものだったので、稀少のものになっているものかと中古価格を調べて見たが新品でも160円程度という実態だった。そんなもんなんだなあ。

 さて当日の星野源ラジオは、本当にコサキンふたりが中心でしゃべっていた。カミさんの仏間でふたりで聴いて、「ばっかでぇー」。カミさん、死ぬまでこの「ばっかでぇー」と関根勤のモノマネ気味につっこむ癖は治らなかったな。
 目玉企画であった復刻CD大作戦は流石に星野源に大幅に譲歩する内容のものが多かったが致し方あるまい。オープニングで「オマリーの六甲おろし」がかかったどころじゃなくエンディングで中井貴一の「君はトロピカル」までもが流れ、普段は寂しい仏間を本当にふたりがいた頃の空気に変えた。嫁の屈託のない笑い声が聞こえてくるようだった。ありがとう星野源。大サビの「♪ワハァ〜オ」を聴きながら、本当に目頭を熱くしてしまった。

 前の日記で書いたが彼女はラジオっ子だったので俺と出会うことになった。なので彼女の深夜ラジオ癖は時々「早く寝なさいよ」と咎めることはあったがついに禁ずるようなことはできなかった。だがしかし下衆な話ではあるが夫婦生活に大いに支障をきたしたオードリーオールナイトニッポンだけは心中複雑な気分である。カミさんが亡くなって何度か仏間で流して聴いた。確かに長く続くくらい面白いのではあるが、あの実質コサキンを聴いてやはりその域には達していないな、そう感じてしまった。まあ比べるのは無粋だとは思うけれど。体力の低下でそれを聴くことすら最後は叶わなくなった。彼女の亡くなった日は奇しくも土曜。その日の晩、彼らは何の話で盛り上がっていたのだろう?俺は疲労困憊なのと葬儀の準備で、それどころではなく眠っていた。

2017-04-18

国士無双−ハリスの甲州街道あばれ旅

 ライブで徳山に行った。帰りのバスのチケットを予約しようとしてたら、丁度ツイッターで旧知の知り合いが「18きっぷの残り1日誰か買わない?」と。びっくりのタイミングである。

 そんなわけで徳山を始発で出て、普通電車の旅ができる算段がついた。まあ収入も少ない身、貧乏旅行と相成った。時刻表とにらめっこしたが毎年花見のシーズンになったらあそこに行っていたじゃあないか。
 本来なら秋月。
 しかしそこには18きっぷの鉄路は伸びていないので、秋月のついでに毎年足を伸ばしていた日田に行けるな。

 貧乏暮らしの中毎年レンタカーを借りてまでして、秋月と日田に足を伸ばしていたのは訳があって。カミさんのガンが見つかった年だけ、秋月に行かなかったのだった。まあ闘病中は、夫婦の験担ぎになっていたのだ。

 今年は、流石に秋月は行けなかった。我が家の前の桜並木を見ることも忍びないくらい、独りで眺める桜は今年は特にわびしい。

 カミさんと付き合い始めたのはKBCラジオの「中島浩二アワーザ3P」という番組の、ファンサークルを俺がやっていたのがきっかけだった。この番組には「音源投稿コーナー」があって、既成曲に替え歌なぞを吹き込んで歌ったのを「ザ・ベストテン」みたいに面白ければ何週もかける、みたいなコーナーが存在していた。熱狂的ファンがたくさんいるコーナーで、自分もその一人だった。
 昔はそのデータベースファンサイトも作っていたのだが、HDDがクラッシュして消失してしまっている。
 自分はそこでいわゆる「一発屋」であった。投稿しても没、が3年くらい続いただろうか?そんなときにカミさんと付き合い始めた途端、何故か作品が採用されるようになった。不思議なものである。そのときに作ったのが「あごひげ男爵甲州街道あばれ旅」。電気グルーヴ替え歌だった。「次送るときのペンネーム考えてるんだけど何かいいのないかな?」と訊くと「ハリス」と。「何でハリスよ」「なんとなく」今後23年、カミさんが鬼籍に入るまで幾度となく「なんとなく」とはにかむようにいう彼女の癖を目の当たりにすることになるとは思わなんだ。電気グルーヴも、カミさんに教えてもらっていたのだった。

 まあ何だ、今年は独りで旅だ。朝5時半徳山を出発、朝9時に小倉を出た日田彦山線甲州街道でもなく特にあばれもせず。日本人は桜が好きなんだなあ、どの駅も桜が満開であった。一つ一つ写真撮ってたらきりがなく、しかも雨天であった。
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 たどり着いた日田駅はやはり曇天模様。目的地は日田から先。レンタカーでしか訪れたことのないバス停を目指すことにする。毎年桜の季節に写真を撮っている、日田バス有田線入美バス停まで、実際にバスに乗って訪れることにした。
 バス停のブログの2015年版
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 さて、実際にバスで行くとなるとこの本数!!目的のバス停は終点(岩下)のひとつ前なので、写真を撮って満足…
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 という頃合に帰りのバスがやってくる。写真撮ったなー、満足だなーという時間で丁度到着の2分前だった。

 カミさんとは色々共有もしていたが、相容れない趣味には互いにとことん不干渉だった。このバス停の写真もそう。実家に住んでたとき、実家の車に乗ってバス停探索の旅をしまくったが横にはたいていカミさんがいた。助手席に座って、ソシャゲなんかをやっていた。そして、たくさんの観光地も巡って帰った。ラーメンを食い倒れしたものだった。
 そう考えれば本当に一人旅は久しぶりだった。しかも、名も知れていないが桜の綺麗さならおそらく日本屈指の、どこにも負けていないバス停小屋の写真を撮りに行く。そんな珍妙な目的で。
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 バス停のプレートに声をかけた。
 「カミさん、死んじゃったよ…」
 カミさんじゃないけど、「なんとなく」聞こえた気がした。
 「えっ!!」って声が。
 このバス停、道路の拡張工事にあたっている。この小屋の去就はわからない。桜も一部は切り倒されるだろう。今年は測量用に使う、ピンクのテープが生々しく貼ってあった。細いバス通りだが、この前後は歩道つき2車線で整備が着々と進んでいる。仕方のないことなのだ。ぎりぎりかすめるような形で小屋は残るかもしれない。

 帰りのバスに乗った。運転手にあのバス停の魅力を伝える。時々旧道に入り込み、細道をうねるように走るこの路線自体も乗りバス体験として素晴らしい。まあ、これをもってあばれ旅ということにしていいだろう。それにしても今年の桜はちっとも美しく思えなかった。今年、満開の時期をことごとく曇天が襲ったのはカミさんの涙雨だったのか。あいつならやりかねない。
 日田バスの話を訊けた。バス停にかけられるお金があまりないのだとか。いえいえ、十分だと思う。奇跡のように昔ながらのものが残っていたおかげで、ぼくらはバス停の変容を記録することが出来たのだった。大分北部交通の壁張り式のものと含めると、戦前あたりにまで遡れるかもしれない形式のものが残されていたおかげで、交通史的に貴重なものをデジタルデータに収める事が出来たのだから。

 日田駅に戻って、日の明るいうちに帰ろうと思った。何せ朝の仏事はやれていないし、何より花の様子が心配だからである。実は真面目に毎日水かえをしたりお供えをしたりしている。続いているのである、あのめんどくさがりのおれが。信心なぞなさそうなおれがである。不思議なものだ。

 この旅で、靴を履きつぶしてしまった。